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嗚呼、春だというのに私の眼窩には蛆虫が這いくさり。 桜の下だというのに、薄紅の花弁も馨しい香も届きはしない。 嗚呼、何故。何故、何故何故何故何故何故なぜなぜナゼ・・・・・・・・・。 貴方の死体の横にあるのは私であるべきであるのに、 貴方の肉体だけはあの美しい桜の木が食べつくしてしまった。 足りない足りない足りない・・・・・・・ かくなる上は仄暗い闇の底から這い上がり、 外へと探しにゆこうか。 貴方を殺して埋めたのは私なのだから、 貴方の全てはすべからく私のモノである筈なのだから・・・・・・・
2007年03月30日
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跪いて許しを請え。 みっともないほど泣いて縋って見せたら望む者を与えてやってもいい。 だが今のお前はなんだ。 虚栄を捨て切れず、受け入れてくれと相手に希(こいねが)うことすら できないなんて、おまえは俺を馬鹿にしているのか。 一緒に血にまみれる事もできないくせに、“愛”だなんて、笑わせる。 狂気の底で互いに血肉を貪りあう様なプロパガンダを俺は待っているんだ。 理性よりは感情に求められたいとは思わないか。 お前の欲望を満たせきる事ができるのは俺だけなんだろう。 だったらいっそ欲しい、と欲しくて欲しくて堪らないとわめいたらどうなんだ。 そこまでして、泣き死ぬほどに血の涙を流したのなら、 お前が望む者を与えてやろう。 そこまでしたなら、おれはお前に一生の“愛”を誓ってもかまわない。
2007年03月05日
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欲しいのは穢れだと、告白すれば楽になれるのでしょうか。 身の内に注ぎ込む告解に、 私は自分で嫌悪をしないと如何して保証ができましょう。 憐れなる愚鈍なあたくしはピエロになる気概さへ持ち合わせず。 ああ、此の世の果敢なさよ、と相憐れむ堕罪へと心を持ち崩す。 持ちうる覚悟さへ数にはならぬ淋しさに、涙を流す厚顔さすら無く。 いっそ生きることすら面倒くさい。 自殺する果敢さもなく、努力する率直さも持ちえない。 息をすることも罪のように思う己が身に、 誰か殺してくれないかと、 このような事すら他力本願に祈る私は、 確かに「生きる屍」なのだろう。 母親がくれる「時代に取り残される」という説教にも、 なんら興味は湧かず、 使い古された時代と言う言葉にいっそそれはなんだと 考える私が可笑しいのだろうか。 それでも私は、誰にも邪魔されず、繭の中で閉じこもるように 眠りたいと・・・・、 いっそ世界から隔絶されたいと願うでしょう。 『頼むからどうか、俺を放って置いてくれ』
2007年03月04日
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月を、見上げなくなったのはいつからだろうか。 金色にほろほろと降り注ぐ月光の満月も、冷色の蒼白い三日月も。 いつからこんなにも恐ろしく思うようになったのだろう。 十八の春。 高校生活最後の学年の始まりの月は、最低凶悪の忘れられない時になった。 狂夢は、現実になった。 十数年前の、夢の、きざはしが、引き鉄となって。 俺たちは、いったいどこから足を踏み外したのだろう。 消えない『疵』が。 癒えない『呪縛』が。 俺たちを虜にする。 何気ない口先から滑り落ちた言葉も。 朽ちかけて饐えた恋情も。 ・・・・・・・憎悪も。 過去も。 “ソレ”は俺たちを待っていたように突然口を開けた。 “ソレ”は俺たちの過去の汚物だった。 だからこれは。 俺の、この、頬を汚すのは、自業自得の、涙なのだろう。 仕組まれた偶然。 作為まみれの出会い。 突発的な必然。 それでも、惹かれあうように操られたのは----------------------。 始まったのは、償えない『疵』を無尽につくり出す、殺人ゲーム。 ・・・・・俺たちは内心、狂うほどの恐怖を感じながら。 けれど誰一人として自らの生い本心を吐露しなかった。 懊悩も、怒りも憎悪も屈辱も恥辱も恐怖も。 それらに唇を噛み締めて『今』を放り投げ出してしまう楽さを。 知っていたから。 『朱に交われば赤』になる甘さを。 知っていた。 その誘惑を。 (もう、取り返しがつかない・・・・・・。) その怠惰さが、自分の他の全てを破滅させた。 ・・・・・・・・・だから、せめて。 俺は・・・・・・・。 意地でも、前を、見据えていよう。 過去ではなく、ただ、・・・・・・・その先を。
2007年02月19日
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村内にある廃墟の教会に、“彼”は一人立ち竦んでいる。怒りに震えるように、嬉しそうに、悲しそうに、ありもしない過去の亡霊に怯えるように・・・・・・・・・あるいは狂おしく。“彼”の濡れた着物からのぞく手足は仄蒼く、その薄い皮膚の下からは死に急ぐ血潮の呪われた音が聞こえる。頭(こうべ)を垂れて、祈るように立ち竦んでいる。呆然と。罅割れたステンドグラスから、月光だけが降りそそいで“彼”を照らしている・・・・・。贖罪のように。“彼”はその光を受け、月を一筋に見上げた。罰のように。だが、その虚ろな瞳の色は色々なものに意志を拡散させていて、焦点をえない。「・・・・・・・・・時、を、・・・・繋ぎ・・・止めて欲しい・・・・・と、・・・・神よ・・ただ、・・・・・一つの願いすらも・・・・・貴方は、叶えてはくれないのか・・・・?」“彼”の擦り切れた恨み言に真冬の夜の瞬きは応える事はない。ただ恐ろしいほどの数の星の光が時折揺れるのみだった。裸足である“彼”の足元を切るように冷たい木枯らしがすくう。満天の星空を、“彼”はまるで奈落のようだと思った。「会った事も無い大多数の者のために命をなげだせるのか、正義と言う名の剣を振りかざし、その刃が虚構と分かっていても、それでもお前は戦えるのか・・・・・・・・・・・・貴方はそう俺に、聞いただろう。・・・・・・そうして俺はその言葉を体現するために何千億という年月を生きてきた。記憶を持ったまま転生を繰り返し・・・・・【界の歪み】を喰らい己が見の内に念の毒素を棲まわせても、今を生きている人の人生を守りたかったからだ。」挑むように天に向かって告げられる言葉は、先ほどとは打って変った凛然さで告げられる。“彼”の口から。「だがそれは、そう思わなければ生きてはいけなかったからかもしれない。突然自分の身に降ってきた災害に、そう言い聞かさなければ弱い心は立てなかったからだ。命がけの強がりだった。」そうして“彼”は断罪する。「けれど此のやわさは、俺だけの咎ではない。“俺”という存在は貴方の怠惰さと惰弱さの証しだ。猜疑深い神よ、自分しか信じられない貴方はソレが怖いのだろう。」“彼”がそう口にした途端、それに激怒するかのように強い風が“彼”の身体を嬲り、責め苛んだ。まるで意志を持つかのように。だが“彼”はそれに構わず、黒髪を風に嬲らせたまま冷然と告げた。「だから俺が死を願うように仕向けるのだろう。九鬼【クキ】に鬼龍神を入れたのも貴方か、あれの変貌に手を貸したのも貴方だろう。・・・・・・・・・・そうまでして憎いのか。・・・・・貴方はもはや神ではない。犯罪者だ。」「生者による捕食は罪ではない。だが死者による生者への捕食は禁忌だとそういったのは貴方だろう。」一段と強くなった風に“彼”は冷笑を浮かべた。「俺を力で殺すか。」傲然と天に上げられる言葉は一欠けらの容赦もありはしなかった。「生身に触れた神はもはや神ではない。・・・・・・・オマエに俺が殺せるのか?」呼びかけの言葉の変化を聞き、周囲の空気は潮が引くように代わっていく。何処までも澄んだ空気を湛えていた廃墟の教会からは、腐ったような血臭がどこからか静かに香ってくる。荒れ狂っていた風は止み、痛いほどの静寂には淀んだ腐敗の気配が漂う。床が、脈動している。心臓の鼓動のように。月光の蒼に染まっていたはずの室内は、赤黒い気が充満し臓物に近い色合いを湛えはじめている。その室内の空気の変化に“彼”はゆっくり微笑んだ。月光と血色を浴びる“彼”の瞳はいっそう妖しく深い紅い艶を帯び、そして・・・・・ゾッとするほど冷ややかだった。いつもの菩薩のような“彼”の瞳ではない。“彼”を知る人間が今の“彼”の姿を見れば、気づくであろう。“彼”の中には菩薩と悪魔が共存していることに。けれど、今は彼の周囲には誰もいない。在るのはただ、人のものではない赤黒い気を撒き散らすおぞましい“ナニカ”だ。“彼”はその“ナニカ”に声をかける。「オマエは俺に勝てはしない。」その凶暴なまでの誇り高い言葉をきっかけに、激烈な金色の気が“彼”の身体を柔く包み始める。室内に現れ始めていた“ナニカ”その光の殺戮を受けたように気配を凍らせ、血色の中をビチビチとはねる蛆虫のように闇のなかに集まり、凝(こご)った。“彼”はソレを静かに見据え、手に持っていた匕首の鞘をはずした。そしてその刃を強く握り、己の血が刃の切っ先にまで滴るのを見届け。闇にいまだ凝る気配に突き刺した。甲高い断末魔の声を聞き、その刃を返して再び突き刺しそのまま匕首をグルリ、と回して抉る。声は一層高くなり、赤黒い“ナニカ”は声にならぬ叫びを上げて陸に上げられた魚のようにのた打ち回った。それでも“彼”は匕首を突き立てたまま回して抉る事を止めない。「此の程度の男か。」匕首から手を離し、“彼”は普段と変わらぬ口調で踵を返す。「俺は死を言い訳にはしない。・・・・・そう、伝えろ。」そうして消え逝く“ナニカ”には目も向けず、初めのように“彼”はステンドグラスの下に一人立つ。赤黒い気の気配はもう既になく、元の教会独特の澄んだ空気が残った。その“彼”の背に声をかかった。「元虎【もととら】様・・・・・・・。」“彼”は、自分の名を呼ぶ殉教者の声に、・・・・・・・・振り返った・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
2007年02月17日
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ああ、君よ。そんな顔はしないで欲しい。 全ては君のせいではないのだ。 何もかもが僕自身のせいであって、 例え僕がそれを苦に死んだとしても、君に一切の咎はない。 ああ、 僕は君にだけ通じる冗談を受け入れるだけの余裕がなかったのだ。 故に君の醜さは君の咎ではない。 ああ、その通りだとも。 君に咎はない。 『何てね、言うと思った?君なんて、死ねばいいよ』
2007年02月12日
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白い月。どこまでも忌々しい夜はそれに照らされているだけで、ずいぶん美しく見える。濡れ縁でソレを見上げながら少女はイヤに澄んだ声で呟きかけた。浴衣からすっと綺麗に伸びた手は頬杖をついて、視線は話しかけた相手には向かずただ美しい庭園を見つめている。「ねぇ、氷翠【シャナ】がいないわ。」少女の湖面色の瞳は澄んでいる。どこまでも。深遠に。「・・・・・・・・・・此の屋敷の、どこにも・・・・・・・。」少女の背後にいる男は言葉を発することなく静観している。「・・・・・・・どうしてかしら。愛しているのなら、どうして・・・・・・・いいえ、違ったわ。あの男は氷翠を愛しているんじゃなかった。偶像崇拝だったわね。」「哀しいほどの、的を射ているな。その言葉は。だが認めてやれ、あの男はあの男なりに必死なのだろうさ。」詩吟をたしなむ様に言葉を紡ぐ冷酷なほど美しい声は、笑みに吊り上げられた男の口から滑り落ちた。黒曜国国王勅命の紋章を旗に掲げた私掠船の副船長・・・・・・・・・斎賀【サイガ】であった。海賊とは思えないほどの貴族的な美貌の男は、その言葉のわりにはぞっとする冷笑を浮かべている。氷のような薄い色の青の瞳は、絶対零度の光を湛えている。「・・・・・・・・・私も、あんな風になるのかしら。」きらきらと輝くエメラルド色の瞳はひどく澄みきって、少女・・・・・・・紅丹【ぼたん】の美貌を神的なものにしている。「君が・・・・・・・?」紅丹はソレに静かに肯き、淡々と言葉を繋げた。「私は三年前まで、氷翠の兄であるあの男を・・・・・・・・私の前の主を愛していたわ・・・・・・。いいえ、愛していると、思っていた。」「あの人は私の全てだった。私を育てた男だった。私を、女にした男だった。」「それが、氷翠への憎悪に近い劣等感からくる虐待という名の行為でも、私はあの人に必要とされる度、死にそうなくらい幸せだった。」「でも、あの人は私を捨てたわ。負け戦同然の、戦場に。それでも私は守人だったから、たくさんの“敵”を殺したわ、あの場所で。私は強くなりたかった・・・・・・多くを殺せる守人に。あの人に追いつきたかった。あの人の役にたちたかった。だから、帰ったわ。敵を全部殺して。あの人の下へ。」「そしてあの人の部下に斬られたわ。・・・・・・・あの人の命令で。そして捨てられたの、荒野の屠殺場に。」不意に。碧い瞳から一滴の涙がこぼれた。けれど紅丹はソレを拭わない。その涙はすでに過去の遺物だと、いうように。「・・・・・どうして?私がなにかをした?」「私はただ、そばにいたかっただけ・・・・・・。」「さびしかった。私に幸せを与えたあの人が、その同じ心で私の全てを死にそうにさせた。さびしくてさびしくて、そして屠殺場で刺された傷口から血が溢れて、動けなくなったわ。死にかけてた。そんな私を、氷翠が見つけてくれたわ。」「氷翠だけが、私の悲鳴に気づいてくれた。」「ねぇ・・・・・、最初は身代わりだと思ったわ。あの人の。」「あなたには、分からないでしょう?月の光も届かない闇の中で、無数の死体のにおいを聞きながら、たった一人で絶望を咬む寂しさが孤独が、憎悪が。」「誰もいないそこでずっと・・・・・・・。辛かった!悲しかった!淋しかった!」凛然とした態度をとりながらも少女の指は震えていた。見捨てられる、悲しさに。「だから氷翠にずっと傍にいて欲しいと思ったわ、あの人の代わりに。」だが、紅丹の口調と眼差しは、此の瞬間、揺ぎ無い強さを海のように湛えた。「けれど、ソレは違った。」「氷翠の言葉には氷翠の態度には、あの人のものにはなかった魂があったわ。・・・・・・・彼女は私を愛してくれた。大事にしてくれた。頭を撫でてくれた、夜には物語を読んでくれて朝には額に目覚めのキスを。怖い夢をみた時は抱きしめてくれたわ、そうして言ってくれた『私がずっと傍にいて、紅丹の番をするから、怖い夢などもう見ない』って。」紅丹は其の時を思い出すように優しく幸せに微笑んだ。「『守るから』って。初めて言われたの。守るって。今まで私は守るばかりだった。・・・・・名前も、初めてもらったの。氷翠に。」「・・・・・・・・だんだん、私の彼女に対する感情は変っていったわ。こんな想いは、・・・・・初めてだった。あの人と居た時はこんなに優しく激しい感情を持ったことがなかったのに・・・・・・・・。」「だから、気づいたの。私はあの人を愛していなかったことに。私があの人に抱いていたのは守人としての感情だった。教育で、刷り込まれたものだった。・・・・・私は“彼”という一人の人間を、愛していなかった。」そう言い終って、はじめて少女は振り返り、斎賀の眼をまっすぐに見つめた。「私が愛したのは氷翠が最初で最後よ。私は私の誇りにかけて、彼女という人間しか愛さないわ。」誓いというには足りないほどの“神聖”を、彼女は口にし。晴れやかに、微笑む。その表情はもう少女の持つものではなく、一種の慈愛さへ宿していた。「だから氷翠を傷つける人間は、私が殺すわ。」「・・・・・・・何故ソレを俺に?」少女の重すぎる言葉に斎賀はさも愉しげに笑う。「協定よ。」「ほう?」突然の言葉に斎賀は戦時に策を錬る時の癖になった子供のように楽しげなきらきらとした眼を細める。「貴方は何があっても氷翠だけは傷つけない。」「何故そう思う?」「貴方が異常だからよ。」「面白いことを言うな、君は。」ゆっくりと艶やかに斎賀は唇を吊り上げる。その笑みに紅丹は妖しい『女』の笑みを返した。「私は、愛する者のためなら例え自分が死んでも何かをしてあげたいわ。何の障害も恐れない。氷翠のためならどこまでも強くなれる。・・・・・・・・・・でも、愛する人が自分から離れていこうとしたら・・・・・・・殺すわ。愛しているから。」「でも、貴方は理解できないでしょう?」紅丹は手を伸ばし、斎賀に触れる。「貴方は、どれだけ歪んだ方向に行動をうつしている者であっても、ある特定のものに異常なほどのひたむきさを向ける人間が好きだわ。それも、唯一つのものに。そんな嗜好だから、その人間の感情が自分に向いていることは少ない。それを知っていて貴方はそんな人間ばかりを愛する。そしてその者が望めば何をも惜しまず与えるわ。・・・・無償の、全てを。」「此の部分で私と貴方はかわらない。でも、・・・・・・・そうね・・・・貴方は複数の人間を同時に重過ぎるほどの感情で愛せるはずだわ。貴方は、相手の感情が自分に向かなくとも、一切の不満も感じない人だから。辛くも悲しくも、何ともない。・・・・・・むしろ、相手のひたむきさが強くなればなるほど貴方は嬉しい。貴方はソレを見て、見るだけで満足する。それが、楽しい。」「その例が、貴方の安騎良将【アキ ヨシマサ】と、氷翠王【シャナオウ】に対するものよ。」斎賀の視線を逃さず、言い終えると紅丹は斎賀の懐に飛び込み、月光に白く輝く細い両腕をのばして抱きつき、その背に腕を回した。その行為を斎賀が拒まず受け入れると、少女は凛、と口を開いた。「だから貴方は拒まない、私の提案を。」「何の協定だい。」「私を殺して(トメテ)ね。」いっそ優しく。少女は幼な子が親に甘えるように呟いた。「氷翠が私から離れていこうとした時は。」そこで初めて斎賀は本気で苦笑を返した。「そういうことか・・・・・・・ずいぶんと、便利なものと思ったことだろうな。」己の策が見事破り返されたかのような爽快な笑みを斎賀は浮かべる。「ええ、とっても。」「こんなところに思わぬ伏兵がいるとはな。・・・・・・ここは俺の敗北だな。」「貴方だけは氷翠を傷つけない・・・・・・・・見返りを求めないから。そして貴方は氷翠を愛しているから、氷翠を傷つける(コロス)私は見過ごせない。」紅丹の美しいエメラルドの瞳には過去を思い出すときとは違う、熱の籠もった涙が溢れた。そしてそれを隠すように斎賀の胸に貌を摺り寄せた。「だから今氷翠がおっている全てのしがらみから解放された時・・・・・・・・・・、氷翠が私から・・・・・此の場所から離れようとする時、私を殺して、そして、・・・・・・・・逃げてあげてね。氷翠を連れて。」その頬を熱のかよう涙が流れた時。「貴方だけは氷翠を傷つけないから・・・・・・・・・。」斎賀の手は紅丹に応えるように彼女の背を抱いた。
2007年01月21日
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今回、【サンセツキ】だけでなく【虚】の方も砂葉さんと連動する事になりました。宜しくお願いします。
2007年01月04日
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落ち着いた淡い照明に、広い壁一面に埋め込まれている水槽の中には熱帯魚たちがきらきらと傲慢に光を纏い、優雅に泳いでいる。耳障りには決してならない程度にほど良く流れているのは生のジャズ演奏。ショットバーに近い装いの店内にはカウンターと、ボックス席が七・・・・・・。ほとんどの客は演奏を楽しみながら酒を嗜んでいる。こういう御客様はとても好きだ。心からこの店の雰囲気を楽しんでいるのが分かるから。だが、何処にでも例外はいる。と、言うより。この店は十一時まではショットバーの様相を保っているが、その時間以降はボーイズバー・・・・・・(ホストクラブとは違い、常にテーブルでの接客ではなくカウンター越しなのだが)・・・・・だからか。カウンター内で注文された酒をつくりながら、咬【ぜん】は相手に気づかれぬように微かに視線を逸らせた。そのしぐさに濡れたような柔らかそうな黒髪が耳を滑り落ちる。ソレに触発されたようにカウンター越しの相手は微かに目を伏せた咬の流れた横髪を掬い、耳に掛ける。やけにねっとりとした絡みつくようなその相手の手管は、あまり好きではない。「ねぇ・・・・・・・。」頭の足りない、甘い、甘い声音は咬を酔わせる代わりに失望させる。そのくせ、女は誘いかけながらも決定的な言葉は口にはしないのだ。だからその口調よりかははるかにこの女性は頭が良いのだろう。その証拠に、誘う口調はあくまで下手(したて)であり、主導権を男に握らせるようであるのに、この女は何時でも逃げに打てるように・・・・あるいは責任を追及されぬように、誘いの言葉は口にしていない。それでも女の口調がねばねばとしているのは目の前の極上の獲物への欲情と焦りからであると咬は理解していたが、応じる気はなかった。この店で自分が働いていて相手が御客様である限り、最上級の接客ともてなしを提供するが、その後の自分のプライベートな時間を店が規定していないアフターに使う気はない。やっと都合の合うバイトを見つけたのに、客になど手を出すつもりはなかった。それが普通の“付き合い”ではなく、あからさまに視姦をしてくる相手ならば尚更。「お待たせ致しました。」優しくなだめるように甘い声音で促し、少し距離を詰めることで逆に女の手を振り切る。「え・・・・・・・?」と、地に足の着いていない返答を唇から零す女に咬は今度は口調を変えて話しかけ、蕩けるような笑みを浮かべた。そうするとヴェネツィアン・グラスの色合いに似た瞳が深みを増す。そのまま咬はその瞳を細め、蠱惑的に笑む。「菜穂さんのためにつくったんだから、はやく飲んで?」ね?と囁くように“お願い”すると、名前を呼ばれた女は近づいた距離を恥じるかのようなしぐさをして、頬を微かに染める。だが、そのしぐさの何割かは計算だ。半ば以上その駆け引きにウンザリしていると、女はやはり増長し、ねっとりとした声でこちらを絡めとりにかかる。「ねぇ、ゼン君も一緒に飲も?」甘ったるい上目遣いに感じるのはやはり失望だった。いっそ媚を売られるより、その高慢なまでの無知さ加減と傲慢さで突っ走っていてくれたなら惚れたかもしれない。(どういう趣味だ。)手早く先ほど作ったものと同じ酒をつくりながら頭の中で自重する。こんなのはよほど歪んでいる。「ん、できたよ菜穂さん。じゃ、一緒に?」軽く女の持つグラスにグラスを合わせ、見苦しくはないように一息に飲み干す。同じ酒、といっても咬が飲んだほうはかなり水で割っていて、女が飲んだ方は口当たりは良いがかなりキツく作ってあるが。前者はこれからの仕事に差し障りが出ないように。後者はやっかいな客が絡んできた時に咬がよく使う手だ。はやく酔わせて、迎えのタクシーに放り込みたい。この女は咬が他の御客様の指名がかかると邪魔をするのだ。はっきり言って、邪魔だった。飲んだグラスを下げ、店内に視線を走らせると、マネージャーと目が合った。視線に促される。その先に目を遣ると、ボックスの方で一人グラスを傾けている上品な男性客の姿が目に入った。常連客だった。どうやら指名が入ったらしい。その視線での遣り取りに女は敏感に気づき、苛立たしげに絶妙なタイミングで男性客を斜めで見据えため息をついた。「あの人?・・・・ゼン君に格別ご執心だもんね。」侮蔑と自分が女であるという優越と敵愾心の潜んだ声に吐き気を感じたが、女に断りをいれ、男性客のところへ行こうとカウンターを出て足を踏み出したところで、唐突に後ろから腕を掴まれた。菜穂かと思い思わずうんざりするが、引く力のあまりの強さに別人だと悟る。「・・・・・・・・っ。」酔っ払った他の客かと思い直し用心し、微かに腕を引いて振り返ると、在ったのは予想もしない人物の姿だった。「あの方より先に指名したんですが。こちらを先に受けてもらえますか?」シャープでくっきりとした余計なもの全てを殺ぎ落としたかのような鋭利な声。だがその口調には穏やかさとその人物の誠実さが表れていて不思議なほど冷たくは聞こえない。容貌は端整ながらも抜き身の刃物を連想させる。物腰は洗練されていて一分の隙も見られず、ただ立っているだけで溢れるような威圧を感じさせ、黒のダブルのスーツがよく似合っていた。「は・・・・・・・有、家【ありえ】・・・・?」有家清綱【ありえ きよつな】だった。その存在感でホール中の視線を集めている男がその容姿にふさわしい笑みを浮かべ、そのまま咬の反応を無視してカウンターの方へ歩いていった。それを信じがたい思いで立ち尽くしていると、その咬の様子をいぶかしみ、マネージャーが視線で急かしてくる。まさかあの男の座ったカウンターであの男の相手をし、あの男のために酒をつくってあの男とこの場所で談笑しろと言うのだろうか。「・・・・・・・・・・・・・。」・・・・・・・冗談ではなかった。
2007年01月02日
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雪が、降っている。優しい音で室内に焚いている薪が爆ぜる。深夜。このような時間になりながらも火を絶やさず室内を適温に保っている様子を見れば、給仕が度々部屋を細やかに見て回っているのだろう・・・・・・・この部屋を使っている人物に対する屋敷の主の気遣いの程が分かる。室内には三人。少し離れて二つに並べられた寝床には、守人の少女と少年が横たわり、静かに寝息を立てていた。その静かな室内に一つだけ、その空気と隔する“異質”がまぎれている。不自然なその存在に。室内の空気は一部分だけ撓(たわ)んでいる。あまりに似つかわしくない、重厚な漆黒が。黒い髪、褐色の肌、闇色の眼・・・・・・・・。その男はあまりにも狂暴で残虐な気配を纏っているのに、鋭敏なはずの守人の少女と少年は目を覚ましもしない。その瞳に凍った狂気と十年来の覚悟の残滓が冷たい色が沈んでいる。その瞳を静かに少女たちに向けながら、隻腕の男は襖の前に立っている。無表情な面には何も浮かんではいない。九鬼【クキ】だった。彼らを眼にしながらも九鬼は微動だにしない。が、その眼が眠る少女の姿だけを視界に映した時、ふいに九鬼の瞳には狂暴な灼熱が燃え上がった。その原因の存在を九鬼は思う。数刻前。『氷翠王【シャナオウ】様・・・・・・・。』驚きを通り越して背筋が凍った声が、張り付いたような無表情から漏洩した。そんな自分の無様さを九鬼は知りながら、だが力の抜き方が分からなかった。『それ、は?』不自然な、首筋から肩にかけての『証し』。氷翠王にはあまりにも似つかわしくない、浮薄な、そのライン。氷翠王はそれを死しても失うべきではなかったのに。昨夜までは在った艶やかな黒髪の腰までの長さは、無残なまでに首筋までに切られていた。長い髪は【貴】の者である証し。朱樺【シュカ】の地とその血の者を尽く継承せし正統なる者の証し。それが失くば、あの地には支配者として戻れぬもの・・・・・・・・・。九鬼は一つ大きく呼吸した。指先にふつふつと血が溜まっていく。落ち着かなくては。分かっている。氷翠王はこの若さで朱樺家を束ね、蒐【シュウ】家を束ねてきた存在だ。何の考えも思惑もなしにこのような暴挙にはでないはずだ。・・・・・・だが。だとすればこのいきなりの暴挙は“朱樺を継ぐ気はない”という表明にはならないか?それは引いては朱樺家を捨てるということか。氷翠王が跡目を兄に譲る心算があったことは知っている。それが氷翠王の望みなら反対はしない。九鬼とて、それぐらいの理解はある。だが、それならそうと、何故、言わない?氷翠王は・・・・・、主は静かに九鬼を見据えていた。その眼差し。まるで“お前に話しても仕方ない”と言っているような・・・・・・!この時そう聞き返せば、氷翠王は即座に否定したことだろう。“そのようなことは一度も思ったことはない”、と。だがこの眼差しの揺るがなさは、氷翠王が自分の中以外の他に答えを求めていないことから来ている。ならばそれは“そうするに値しない”と思っていることにならないか。そう思っていたのだろうか。当てにならない男だと、心の奥で自分を軽視していたとでも言うのだろうか。一瞬にして九鬼の背筋が凍りつく。九鬼は微笑んだ。『・・・・・三日前に、あなたが拾ってきた、守人の、客人の、御為ですか?』九鬼の内心の動揺に氷翠王は気がついたかどうか。答えによっては、この人を、どうにかしなくては、ならない。『違う。元から考えていたことだ、彼らは切っ掛けに過ぎない。』真っ直ぐな真率な瞳が淡い微笑を宿して九鬼を見つめている。その氷翠王からは一途な想いと彼らに対する温かな思いやりが透けて見えた。氷翠王は頷くべきだった。九鬼のこの問いに肯定以外の答えを返すべきではなかった。氷翠王が頷きさえしていれば、九鬼は氷翠王の全てを許したのに。氷翠王が頷いていたならば、心根の美しいあなたの慈愛であったのだと九鬼は納得をしたのに。頷く、べきだった。二人の関係を崩壊させないため、絶対に、越えてはいけない境だったのに。『逃げるつもりですか。』と、なじってやりたい衝動を九鬼は殺し、両指を握り締めた。そうしないと氷翠王の首を絞め殺してしまいそうだったから。九鬼は微笑んでみる。『そうですか。年甲斐もなく見っとも無い醜態を晒しました、お許しください。』とも付け加えてみた。その言葉に、美しいあの人はこの上なく優しく微笑んだ。そして労うように九鬼の硬直した肩を柔らかく撫で、『いや、相談もなしに驚かせてしまった。すまない。』と真摯に謝りさえした。だが、もう遅い。九鬼は裏切りを感じていた。氷翠王のそれに、九鬼も微笑みを返した。だが心は空だった。静かに孵化する狂気的な衝動は、何故微笑み返してやる必要がある、と返してきた。あの人は我らを・・・・・・朱樺を捨てようとしているのに!朱樺はあの人を愛し、求め、一番辛かった人質時代をも乗り切った。あの人もそれを理解し、あの地を、血を、人を愛しているはずだった。なのに、愛されてはいなかったのだ。どころか九鬼は必要とさえされていなかった!あの人は二重の意味で九鬼を裏切ったのだ。これほど忠義を尽くし、片腕さえ斬り捨て、こんなに愛し身体ごと地獄にまみれたのに。殺戮の日々。累々たる屍、血臭。捨て身の誓いと儀式を経て、九鬼はそれらと連れ添ってきた。全ては足しにもならない事象だった。氷翠王以外には。何もかも捨てた。氷翠王に添うことで失った幸せすら省みることすらしなかったのに。それでもあなたさえ気高くいてくれさえすればそれでよかったのに。その身体一つ朱樺だけに捧げられずに、あなたは心すら裏切るというのか!他愛のないことだ。あの人は高みに上ることを諦め逃げに走ったのだ。血反吐を吐き、途方もない孤独にその身を震わせながらも、一人立ち続ける人であったのに。あれほど美しく、輝くばかりに残酷な人だったのに。あの人はまさしく勝者であったのに。あの人は知らない。縋る者の苦痛を。その手足は縋る者の存在を感じ、その血で確かに濡れているのに、その唇は確かにその血の味を知っているのに。それなのに、あの人はなお強く輝きを増した。あの人はまさしく勝者であるから。孤独を抱き、何にも縋ることのない彼の立ち姿は誰もが王者と認めるだろう。あの人は一人極地に佇み、ただ上を仰いでいた。だがそれも昨夜までのことだ。私は止められなかったのだ。あの人の腐敗を。知りもしなかった。あなたは変わらずに、泥の中でも気高くあれると思っていた。とんだ勘違いだった。九鬼は思考の海から戻り、再び現実へと視線を滑らせた。あの人の腐敗を引き起こした存在へと。守人の少女は静かに眠っている。その横には半分だけ守人の血が入った少年が。少年が眼を覚ます気配は一分もない。よく睡眠薬が効いているようだった。無論、だからこの時期にこの場所へ来たのだ。十年来愛用してきた武器・・・・・・・・茶色い血の染みがいたる所にこびり付いた鉄の棒を静かに少女の喉笛に滑らせる。原因さえ亡くしてしまえば、あとはどうにでもなる。「あなたは何よりも光輝な存在で在らなければならない。」ふっ、と空気を切るように短く呼吸をし、少女の喉元を血に汚れた鉄の棒が突き刺す刹那・・・・・・・!「何をしている。」凛、と響く冷たい凄絶な声が室内の淀んだ空気を切り裂いた。条件反射で九鬼の動きが紙一重のところで静止する。他の者の声ならば誰が間に入ってきただろうとも九鬼はその凶器を振り下ろしただろう。だが、その人物の命令には如何なる時でも従うようにしてきたこの十数年が仇になった。襖に手を掛けこちらを切るように凛然と佇んでいるのは氷翠王であった。だがそんなことは関係ない。いくら、氷翠王であっても九鬼は行動を為す事を止めるつもりはなかった。九鬼が再び凶器を振り下ろそうと少女に眼を戻すと、かすかに少女が咽喉を鳴らした。眼が覚めかけているらしい。薄く少女が眼を開く。いまだ焦点の合っていない少女のその瞳を見留める。そして不意に九鬼は己の武器を少女から離し、下ろした。その一瞬の後、少女の瞳は焦点を結び始め、やっと目の前の男の姿を見止めた。「・・・・・・・・・・・?」その薄い紫の瞳を九鬼は見。不意に笑った。その瞳に神呪が見えたからだ。(・・・・・・“神の子”、あるいは“月”か・・・・・・。)氷翠王は少女の正躰に気づいていないらしい。この少女の身体があれば、氷翠王の瞳に執りつき氷翠王を喰らう忌神を取り出しこの少女に移すことができる。・・・・・・・殺すのはそれからでもいいだろう。「・・・・・いい、拾い物をしましたね。」*「・・・・・いい、拾い物をしましたね。」低い低い、哂いを陽炎のようにゆらりと声から立ち上らせ、男は氷翠王を振り向く。男の頬にある縫合痕が蝋燭の光をてらり、と映し返す。ドクン、と内臓が脈打つ音を氷翠王は他人事のように聞く。無意識に、指先が震えた。恐れではない。怒りでもない。ただ、すでに離れすぎた“ズレ”を思い。「お前にとって、私は、何だ。」部屋から出て行く九鬼に氷翠王は声を向けた。静かに静寂を揺るがす、声。このような場合であっても、凄絶な凛然さはその声からは失われない。その届くか届かないかの声の、切なる問いの一筋も、九鬼はもらすこともしない。なのに何故、「あなたは私の神だ。」その返事を最後に、九鬼は去った。知らず、氷翠王は下唇を噛み切った。苦い血の味が口内に広がる。其れさえも夢が与えた傷のようで、叫びだしたい焦燥に駆られた。腕から己のすべてが奪われそうな気配が九鬼からしていた。九鬼の“理想”は知っていた。迸るような熱情も知っていた。(あの男は俺の可能性を摘み取ろうとしている。)そんなことはものの前から知っている。(けれど。)九鬼を己の傍から排除することができない。本当は。“理想”など生きている人間に向けるなとその残酷さを声も限りになじりたかった。けれど。生きているから、俺は“もっと”と思う。それに、“かもしれない”と。一度失った信頼も信愛も生きている限りまたいつかこの手に取り戻せるかもしれない、と。だけど違う。・・・・・・・・・それは、・・・・・・違った。あいつと俺は、求めるものが違いすぎる。(けれど、可能性があるから生きていける)相反している。願いと求めるものが。だから九鬼に見抜かれた。けれど、離すことができない。解き放つことはできない。俺は俺のエゴのためにあいつを生かしておきたい。肉親のように思っている。深く大切に思っている。だから、苦しめても生かしておきたい・・・・・・。(最悪だろう。)遥か高みから見下ろしてくる月が自分を照らしている。それを見上げ、氷翠王は震える声をつむいだ。「・・・・・だからどうか、こんな俺を笑わないでくれ・・・・・。」一体何人が何の支えもなく生きていけるというのか。徐々に孵化していく九鬼の激情の刃が、氷翠王はただ、恐ろしかった。 【孵化の刃:完】
2006年12月20日
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目を開けるとそこには上質の深紅色が見える。少しばかり色の重いワインレッドは広すぎるこの部屋の絨毯の色だった。気怠い身体を寝台から起こし、氷翠王【シャナオウ】は室内に視線を滑らせた。苦痛と向き合うばかりだった今までの治療期間は、現時点では多少はましに成りつつある。病室から蒐【シュウ】家縁の別荘(つまり今身を置いている此処)に移されるまでの間、医者が言うには氷翠王は生きているとはいえない状態だったらしい。内臓破裂に両腕の複雑骨折、両足は大腿部の側面から踝まで走る刃物による裂傷、局部の外内部の裂傷・・・・・・・そしてそれらの傷からの感染症。後少しでも助けが遅れていたら危なかったらしい。だが、そんなことを聞かされても氷翠王としては聞き流すほかなかった。くだんの一件からいまだ一週間と半ばしか経ってはいなかったし、未だ身体は激痛に苛まれ安静どころか寝台から離れられない状態だったが文句はなどない。(未だ、生きている。)身体の痛みを慮り静かに寝台から足を下ろし床につける。まだ足に力を入れて立つことはできないが足から感じる絨毯のひやりとした感触を氷翠王は身体に覚えこますようにかみしめる。本来なら御披露目を一ヶ月後に控えた身でこんな所で燻ぶっていて良い身分ではない。だが、今は少しでも身体の調子を整えるほかない。実際の予定なら二週間後だった御披露目は氷翠王の身体の調子の具合で日にちが多少延びたのだが。けれど身体の完治には三ヶ月ほどかかるのだ。多少タイムリミットが延びたところで焼け石に水だ。よほど蒐家の人間は朱樺【シュカ】家の人間である氷翠王を“晒し者”にしたいのだろう。それは重々判っているが披露目を拒むことはできない。周りが敵ばかりの今の状況。不利ばかりの襲名。披露目の意味は一族の跡目が成人した寿ぎと、その跡目が一族を率いる資格を認められ実質一族の長となった襲名の二つ。だが、氷翠王が襲名するのは蒐家の名ではなく朱樺家の名・・・・・・・。名は朱樺家の宗主となったとしても蒐家の人質である自分は朱樺の地に帰ることはならない。馬鹿馬鹿しいことに遠く離れた地で朱樺の王座を譲り受け、王は自国の城も臣下も民も土地すら見ることが叶わないまま名だけを受け継ぐのだ。実は何一つこの手には入らない。父が愛した朱樺の民を地を慈しみ愛することすら許されない。蒐家はこのまま氷翠王をその命が絶える刹那まで飼い殺す気でいるのだ。だが、氷翠王の心は凪いだ海のように静かだった。迷いは一筋もなく、時を増すごとに冷静な眼差しは冴え渡っていく。何故か。一つは、そのようなことはもう九年も前から分っていたことだからだ。当たり前の事実を知らされても人は驚いたりはしない。だが厳しい現実は時には人の心を荒立て、腐らせ絶望へと導くこともあるだろう。氷翠王はそのことを自らで不思議に思っていた。何故こんなにも心乱されないのか。かといって諦観に満ちているわけではない。何故か腹が据わっていた。堂々と一人で立てる、そんな実感すらある。何も保証などない。むしろ事態は最低の底をぶち抜いている。周りが敵ばかりのこの場所で、自分を立証できるのは自分しかいない。遥か昔から自分はこうして一人立ち続けてきた気がする。嘲りの言葉は氷翠王に何の傷もつけはしなかった。何かに縋らなければ生きてはいけないほど、何かに頼らなければいけないほど自分はか弱い存在ではないはずだ。己の中の“真実”が揺るぎないものなら赤の他人の言葉に身も世もなく揺り動かされることもない。脅威には、成り得ない。そのことを自分は知っていた。他耳を汚す言葉が自分すら穢していく事実にどうして気がつかないのか。そしてそんな人間にかかずらわっていられるほど、氷翠王は目的意識のない人間ではなかった。自分は、朱樺の地に戻らなければならないのだ。『例え一時であっても朱樺【シュカ】の指揮官が入れた者は我が家の子だ。ましてや、お前たちは朱樺家に心血を注ぎ尽くしてくれたいた。お前たち在っての朱樺家だ。・・・・・・・成人し、国に帰れることが許されれば、私は全てを捨てよう。この身も心も全てお前たちのために生きると誓う。・・・・・許せ。辛いことを言っていると分かっている・・・・・・・、だが、・・・・・今しばらく、堪えてくれ。』この自分の言葉に背く事はないと誓う。「失礼致します、氷翠王様。」氷翠王の思考を切り替えるようにしっかりしたけれど耳障りではないノックの音の後に、涼やかな低い男の声がかけられる。外に居た黒髪も美しい青年は室内に入ると、その涼やかな美貌を下げ開けた扉の前で丁重に礼をする。他の蒐家の人間の氷翠王に対する礼儀も欠いた言動の非礼を詫びるように。そしてそのまま青年は頭を上げない。部屋の主の許しが与えられるまでは動かぬ心積りだろう。「・・・・・・・・・・・。」蒼炎【ソウエン】のその態度はいつものことだったので、氷翠王は継ぐ吐息一つで部屋に入るよう促した。そうすると一瞬の間も置かず、律儀で如才ない男は室内に入り音を立てず扉を閉める。こうした動作もいつものことだ。蒐家の宗主に氷翠王の目付けとして就くように言われたこの男は以来、怪我で動けない氷翠王の看病を一人でしている。蒼炎の甲斐甲斐しい看病がなかったらここまで早い回復は見込めなかったであろうし、下手をすれば死んでいたであろう。「御身体の調子はいかがですか。」「大分いい。」「それは良かった。」そう言い、蒼炎はすっと瞳を細め、目だけで微笑する。が、次にはその瞳は厳しくなり、氷翠王を見据えた。「ですが、まだ本調子ではないでしょう。身体を寝台から離すのはお辞めください。貴方の傷が開くのと同時に私の寿命が縮みます。」早々に叱責をくらい、起こしていた身体を丁重に寝台に戻される。大人しくされるがままになっている氷翠王の体調が整っていることを確認して蒼炎は話を切り出した。「私は披露目の準備でしばらく此方に顔が出せません。今日から代わりの者をよこしますが、今お会いになられますか?」「今、か・・・・・・?」「ええ、呼んでおりますので。獅吼【シコウ】といいます。」「獅吼・・・・・・・・・・。」「そうです。獅吼です。あとは惨砂【サザ】だけです。他は例え身分が上の者でも私が許可した者しかこの階には上がってこれません。」説明する蒼炎の言葉に無粋なノックがかぶる。タイミングが良いのか悪いのか分からないそのノックに氷翠王はため息を吐いた。「いい。・・・・・・・入れ。」
2006年12月15日
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未だ身体の節々が痛む。診療所の白い清潔なシーツの上で荒い息を貪りながら軽く身をよじる。「・・・・・・・っ。」肩に軽い重力がかかるだけでも負担だった。内臓破裂に左足骨折、局部裂傷、両大腿部の側面からくるぶしにかけては刃物で切り裂かれた上、身体中傷がない所など一つもない。浴衣を羽織っているだけでも激痛が走るため、裸身のまま猫のように毛布に包まっている有様だった。それでも命があるだけ幸いなのか不幸なのか・・・・・と氷翠王【シャナオウ】は胸中で自分に問いかける。痛みが邪魔して眠りにつけない頭を無理に横に動かすと、寝台の横のテーブルの上には飲み物と鎮痛剤、それからとってつけたような胡散臭い作り笑いまで用意されていた。「よお、お早うさん。水、飲むか?」褐色の肌に無精ひげ、どことなくダルそうなゆるい目つきに薄くアルコールの匂いまでさせている医者とは思えない男・・・・・・・・惨砂【サザ】が枕元に座っていた。「・・・・・・いらない、吐きそうだ。」咽喉の奥を蛇が蛇行しているような感触がずっと消えない。口中は胃液と血の味がしている。その氷翠王の様子を見、惨砂はあからさまにため息を床に放り捨て、軽く身を乗り出し、言った。「鎮静剤打つか。」テーブルの上に置かれているアンプルと注射器を手にとり用意をしながら言うヤブ医者に、氷翠王は低く呻った。「・・・・・鎮静剤じゃなくて“鎮痛剤”だろう。」「おお!そうだったな、おぃちゃんうっかりしてたよ。」大げさに驚いてみせる三十代の男に氷翠王は一瞬殺意を覚えた。「んじゃあ、ちょっと痛みますからねー。」「・・・・・・・うるせぇ。」小さい子供ではあるまいし、大体注射を痛がるぐらいなら自分はもう、とうの昔に激痛にショック死を起こしている。「ちょっと言ってみただけじゃないか。この前まであんなに愛らしかったのに・・・・・・。」「・・・・・・・黙れ。」注射を打ちながらも、おいちゃん寂しいなどとのたまう惨砂にさも不快だと目を細め男を意識の外側に締め出すために瞼を閉ざす。そうすると、心地よい闇が氷翠王の身体を支配した。が、それも長くは続かなかった。病室の扉がどこか投げやりな激しいノックにかすかに揺れる。惨砂は内心首を傾げた。蒐【シュウ】家の邸内にあり、蒐家の者専用のこの診療所にはめったに急患はやってこない。だとすれば惨砂の助手をしてくれている者たちの誰かかと思ったが、早朝のこんな時間にあんな礼儀を欠いた無粋な戸の叩き方をする者は助手の中にはいない。「どうぞ。」だるさを隠そうともしない惨砂の声に戸外の者は一瞬苛立ったようにもう一度戸を叩き、丁寧とは言い難い動作で扉を押し開け室内に入って来た。「これはこれは・・・・・・女中頭殿ではありませんか。」「このような時分に申し訳ございません。ご容赦くださいませ。」投げやりな声、言葉とは裏腹な口の片端を上げただけの下品な愛想笑い・・・・・。惨砂は今度ははっきりと首を傾げた。常の彼女はこんなに不快な女性だっただろうか?否。彼女は女中頭を務めるだけあって気立てがよく、些細なことにも気が回り控えめで言葉の端々に気遣いと聡明さがあり、声には優しさを兼ねそろえていたような気がする。このような人を小ばかにしたような物言いは決してしはしなかった。では、前会った時と何が違うのか。彼女をこのような態度に至らしめた“モノ”はなんなのか。決まっている。それに気づき、惨砂は苦々しくため息を吐いた。氷翠王の存在がその場にあるかないかだ。彼女は部屋に入って来た時から、苛立たしげに氷翠王の存在だけを意識している。思えば部屋に入り頭の言葉も氷翠王に向けていたのだろう。「宗主からの御達しでございますわ。二週間後あなた様のお披露目を行いますので。それまでに準備をお整えなさいませ。確かにお伝えしましたからね。」矢継ぎ早に告げられる早くも人を馬鹿にしたような薄っぺらい、女の声・・・・・・。見ると、氷翠王は反応すらしなかった。ただ、熱に膿んだまなざしを彼女の姿を通り越して扉の外を眺めているだけだ。まるで籠の中の鷲が大空を夢見るように、渇望するように。女はその氷翠王の姿が自分を見下しているように思ったのか、手指を握り締め、戦慄かせた。その女の目にははっきりとした侮蔑と嫌悪もしくは行き過ぎた憎悪が浮かんでいた。(おいおい・・・・・・、むしろ憎悪を滾らせるべきはあんたの方じゃねぇだろうが。)惨砂は口中でその言葉を転がす。被害者は氷翠王の方だろう。だが蒐家の者の氷翠王に対する態度は一貫してすべからく彼女と同等のモノだった。朱樺【シュカ】家から人質としてこの蒐家にやってきた氷翠王の立場はこれほどまでに悪い。だが自分は医者だ。患者がどのような立場でも関係がない。「ちょっと待ちなさい。二週間って言うけどね。この子は重症患者だ。一昨日まで意識不明だった、ね。それに下半身の方は傷がことさら酷い。あと一ヶ月経ったとしても歩けるかも分からない、ってぐらいだ。無理だね。」甘い、と明記するほど男っぽい低い声にふざけた気怠い口調でも惨砂の最後の言葉の語調は驚くほど強かった。その有無を言わさぬ惨砂の言葉に、女中頭は驚きを露わにする。ふと横を見ると、氷翠王も軽く目を見開き此方を見ていた。(・・・・・悲しいぐらい信用ないねぇ。)そのことを再度確認し、惨砂は内心苦笑した。「・・・・・・そうは仰られても、遠い任地からわざわざいらっしゃられる幹部の方々もいるのです。宗主も今更取りやめにはなさらないでしょう。・・・・・・・それにこうなられたのもあなた様の不注意、御諦めなさいませ。御披露目にはただその場にさえ居てくだされば立てなくとも、身を崩して座っていたとしてもよろしゅうございます。では、確かにお伝えいたしました。失礼いたします。」まるで言い逃げるように口早にいって冷笑すら残していった女が去った後は、薄っぺらい言葉と声の残り香だけが残った。それが病室に篭もっているように感じて、惨砂は立ち上がって窓を開けた。「・・・・・・・・・・・・。」氷翠王は一言もしゃべらない。当たり前だろう。(お披露目・・・・・、ねぇ・・・・・モノは言い様だな。“晒し者”、の間違いじゃねぇのか。)蒐家の宗主、その後継者たちや壮壮たる幹部たちを尻目にメインである朱樺家の御子は一人で歩けもしない状態なのだ。お披露目、が聞いて呆れる。しかも氷翠王の身体には無惨にも陵辱された時の傷が未だ残っているだろう。いい笑いものだ。再び氷翠王の横顔を見据える。その顔は思ったより冷静で落ち着いていた。そしてその唇から凛とした声が飛ぶ。「惨砂、頼みがある。」はっきりと此方を正面から見据えるその瞳には何者にも汚されぬ強い光が宿っていた。
2006年11月25日
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腐屍の匂いから目覚めると、世界は色褪せていた。「・・・・・・が、はぁ、あ、う・・・・・・・・ふぅぅっ・・・。」身体は陥没し。臓物を直に弄(まさぐ)られる感覚。麻痺している自分の唇は笑みの形に歪み。端からは血の泡がこぽこぽと漏れ出す。極上の麻薬を使われた身体に、頭はとろとろと溶けたように機能しない。目の前に圧し掛かかっている男が突き上げてくる度、自分はレバーのような血の塊を吐いていた。水が滑るような交接音が室内に響き。柔らかい春の朝日が自分と男のおぞましい性交を映し出している。獣と化した男が腰を引き、再び中に入ってくる度、局部の襞が裂けて生温かい血が飛んだ。「は・・・・・ァ、ぐっ、・・・・あああアッ。」口内に逆流する血の味が、濃い。内臓が破れたのかもしれなかった。それでも男は手加減を加えることなくぬめる性器を狂ったように叩きつけてくる。鎖の手枷でがんじがらめの手首をのばし、繋がれている柱に縋るように爪を立てる。自分の整った爪はすでに剥がれかけていた。男が自分が捕らえられているこの牢獄に来た昨日の夜から、もう四半刻経っている。身体の周囲には自分が嘔吐した胃液が飛び散っている。だがもうその心配もしなくてもよい。血しか吐くものは残っていないからだ。否。自分でも分かる。このままだと、自分はもう永くない。「・・・・・お前は、酷い奴や。少しは俺に情けをかけてくれ・・・・・なあ、氷翠王【シャナオウ】ッ。」熱に浮かされたように口走る男の言い分は、全く変わっていない。始めから気狂いのように同じ言葉を繰り返している。男の加虐の手が一層酷くなることを知っていながら、氷翠王は今まで一度も言葉を発していない唇を戦慄(わなな)かせた。罅割れた唇の端を持ち上げ、歪んだ笑みを形作る。男はその狂気走った氷翠王の笑みに、その気迫に、一瞬だけ動きを止めた。その動作を見計らい、氷翠王は口を開く。満身創痍の自分の身体は声を出すことすら命がけだった。「・・・・・・最初っから・・・・・、捨て置ける程度の男に、俺は惚れない。」その一言に、男は全身をおこりの様に震わせ。慟哭するように男は目を剥く。それを見ながら氷翠王はゆっくりと目を閉じる。本当は。こうやって何度も何度も氷翠王が男の心をこなごなに砕いても、無我夢中の狂態で、身体ごと感情をぶつけて掻き抱いてくるこの男が嫌いではない。この程度の男だ、と蔑んだことは一度もない。このように半死半生の目に合わされても嫌悪も憎悪も沸かない。憐憫も、氷翠王の頭に過ぎりもしない。ただ。傷つけられても傷つけられても諦め切れない男の激しさに。憧憬めいた感情が一瞬、沸くだけだ。それを口にしたりはしない。と、並々ならぬ気が室内に揺らぐのを感じた。目を開くと、目の前には打ちのめされた男の憎悪と怒り、慟哭がある。一瞬のショックから立ち直った男はそれでもその激情に持っていた匕首を引き抜き、振り上げる。その動作を冴え切った眼で見据えながら、氷翠王は身じろぎ一つしなかった。刃物の冷たさが氷翠王に洗礼を浴びせようとその身体に沈み込む刹那------------------。唐突に重い鉄扉が外の廊下からノックされた。「失礼。少しよろしいか・・・・・・?」低く堅い声が外から掛けられる。声の主はこちらの返事も待たずに鉄扉を押し開けた。室内のこもった匂いが逃げ、部屋に新鮮な冷たい空気が雪崩れ込んでくる。その心地よさに、氷翠王の視覚と聴覚が鮮明になった。覆い被さっている男の肩越しに扉が見える。氷翠王にとっては命の恩人であろう闖入者の姿も見えた。闖入者は三人。体格のいい短髪の男性は鉄扉を押し開けたままの姿で驚愕に固まっている。人の良さそうなその瞳はこれ以上は無理なほどに見開かれている。その男性の後ろには身なりの良い少女が二人・・・・・・。片方は朝陽に煌びやかな金髪の守人・・・・・・・・となるともう片方の少女はその守人の主であろう。この蒐【シュウ】家の屋敷内で守人を連れ従えられるのは唯一人。蒐家宗主の長女、葵【アオイ】君に他ならない。何よりも誇り高く毅然と在らなければならないはずの彼女は今は蒼白に震えていた。その薔薇色の唇から悲痛な(信じられないとでも言うような)叫びが、迸った。「御兄様・・・・・・・・・・ッ!!」葵の瞳には嫌悪の色が見えその声も同等の嫌悪に震えている。すっとのびた柳眉は顰められ、見たくもないと伏せられた瞳には影がかかりみっともなく小刻みに震えている。儚げなその風情は今にも倒れそうなほどに見えた。もちろん葵に『御兄様』と呼ばれたのは氷翠王ではない。氷翠王を陵辱している男のことだ。だが、葵の嫌悪が向けられているのはその『御兄様』にではない。自分に向けられていることを葵のその仕草から、声から、瞳の動きから、氷翠王は察した。幽閉され、麻薬で薬漬けにされ、手枷と足枷を喰わされ、陵辱され内臓破裂にまで陥っている氷翠王に、である。「・・・・・・咎炎【ギエン】様。貴殿は今謹慎中の身の筈。この御室は氷翠王殿の居室であられる。この場所に御身が来られることは宗主殿から禁じられているのではござらんか。」いち早く立ち直ったのであろう短髪の男性が、氷翠王を手に掛けている男・・・・・・咎炎に静かに、けれど威圧的に声をかける。そうしながらも、男性の目は明らかに危険な状態である氷翠王のほうにちらちらと向けられ、その心配げな善意の色を瞳から氷翠王は感じた。氷翠王の唇からは未だ血の泡が溢れ出していた。これで二度目だ。咎炎に犯し殺されかけたのは。“蒐家の長男が朱樺【シュカ】の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”などという実のある噂が響き渡り蒐家内だけではなくよりによって“朱樺”の地まで届いてからは。長男・・・・・つまり、咎炎である。長男が相手にしたのがただの村娘などなら問題はなかった。蒐家は何の問題もなく、その件を揉み消しただろう。だが、そうはできなかった。その相手はよりによって、九年間もの間、人質として捕らえていた朱樺【シュカ】家の幼い宗主の御子・・・・・氷翠王だった。九年前、朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた女でも男でもない“彼”である。“彼”を此処に置いているのは大義名分とは言え、九年前の朱樺家との確約の書には“今は幼年の宗主しか持たぬ朱樺家を他家から守るため”とある。条件を拒めば朱樺の地を我らが攻めるという暗なる脅しと共に・・・・・・・・、それを拒める力を宗主とその御母堂を亡くした朱樺家は持っていなかったのだ。そうして朋友の契りを結んでいた朱樺家を、今度は蒐家の国であるという血族の契りを結んだのだ。そうして半ば以上一方的に結んだ契約だが、唯一つ朱樺家が提示してきた条件がある。曰く、“亡父の御形見、現宗主の絶対の無事を約すること”。つまり、氷翠王だ。そうして氷翠王が成人するまでの間の朱樺の地を有する権利を蒐家は得たのである。その確約を破った咎炎は蒐家宗主の屋敷に軟禁され、もう数週間で蒐家の他の領地へ総監として送られるはずだった。だが、昨夜。咎炎は屋敷を抜け出し、氷翠王が捕らえられている牢獄へと来たのだ。そして今に至っている。「おまんらには関係ないわあ・・・・はよ出て行かんかい。」気怠く語尾を延ばした咎炎の声にはあからさまな無関心とギラつく狂気が孕んでいた。その証拠に咎炎は自らの肉親がいる背後を振り返りもしない。ただ、氷翠王だけを一心に見据えている。咎炎の意識と感情は全て氷翠王に向かっていた。「御兄様っ、離れてください。」嫌悪にまみれた必死な葵の声にも関わらず、側に近寄っても来ない妹の声に咎炎は反応を返しもしない。「御にい・・・・・・・。」それでもめげずに諌めようとする葵の声に、咎炎は刹那肩を震わせた。そのまま咎炎は氷翠王に向けていた匕首を振り向きざまに、葵の口目掛けて力を込めて投げつける。その狙いに一寸の狂いもない投擲に、葵が貫かれるかと思った刹那。今まで黙っていた守人の少女が飛んできた匕首を叩き落した。だが、咎炎の投擲の威力は凄まじかったらしく結構な距離の位置で少女が叩き落したにも関わらず、匕首は葵の唇をかすかに傷つけ血で濡らした。「何するんだよっ!!!」咎炎のあまりの行動に、少女は自分の分も忘れて吠えた。「邪魔やゆうたやろうがッ、じゃかあしいわぁっッ!」ギラギラとした眼を氷翠王に向けたまま、咎炎は怒号を上げる。獰猛な気迫を隠しもしない咎炎に気おされ、室内は沈静し、弾け掛けていた火種はくすぶる。そして咎炎は再び意識と五感の全てを氷翠王に向け。正気の失せた男の眼が向けられるのを、氷翠王は血にまみれ床につかせていた頬を持ち上げ、おとこの視線を正面から受け止めた。が、ただそれだけだった。「・・・・・お前とおると、気ぃ狂うわ・・・。」本音をこぼし、咎炎は唇の片端を歪めて笑った。自嘲と自重の笑みをこぼし、諦観に冷め切ったその表情を最後に咎炎は身を起こして氷翠王から離れた。身体が離れても、男の激しい熱と体液が未だ身体に残っていることを氷翠王は自覚した。そうして何も言わずに部屋を出て行く男の背を見つめ、見送って。氷翠王は気を失った。
2006年11月04日
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昼。快晴。空はどこまでも高く。青く。その青の中を飛んでいる鳥は、気持ちよく高く突き抜ける声で鳴く。月夜も潤むような夕日の時間もどれも美しいと思うのに、昼間、太陽が出ている時間。晴れた高い空が視界に入ると、世界は何処までも美しいように感じる。辛く、気持ちが沈んでいても、それでも世界は美しい、と感じる。何処までも澄んでいるように感じる。明るい陽光のせいだろうか。気持ちが高揚する。昼餉少し前の村の喧騒は心地よく、長閑だった。時折すれ違う村人は此方を見て深く会釈をしてくるが、シャン、と胸を張りどこか楽しげに立ち働き、皆“華”がある顔つきをしている。広場を少し歩けば居並ぶ家屋からは子供たちの弾けるような笑い声と、台所からは昼餉を準備する小気味いい音が聞こえてくる。少し耳を澄ませば、教会からはかすかに異国の歌が聞こえてくる。雷霙【ライエイ】が村人たちに教えたのだろう。生命の讃歌だった。賛美歌はその言葉通り、生命を讃歌し生きる喜びを歌い・・・・・・・その歌の響きは力強く生命力に満ち溢れて、人の血が通い温かく、そして優しかった。「・・・・・・・・・・。」朝風呂に入ったばかりの身体はまだ少し火照っている。少し濡れている前髪をかき上げ、氷翠王【シャナオウ】は浅く息をついた。微かに頬にかかる前髪が柔らかく風に弄られる。昨夜まで降っていた雪は今はもう溶け始め、水に帰り始めている。子供たちが歓声を上げながらその景色の中で走り回っている。彼らが此方に気づき嬉しそうに両手をぶんぶん振ってくるのに片手を軽く振り返し、笑みを返した。そうして彼らがまた遊びに戻ってゆくのを見届けてから、氷翠王は手近にあった木に背を凭せ掛け軽く腕を組んで瞑想するように瞳を伏せた。そうすると鮮やかなまつげが、白く張り詰めたなめらかな頬の輪郭に濃く影を落とし凄絶な清やかさを添える。昨夜まで長かった黒髪をばっさりと切った今は尚更、露わになった首筋と顔の輪郭が氷翠王を非常な美貌に見せている。伏せられていてさえ微かに映るあえやかな、一切の光を跳ね返す宝石のような朱金の瞳。血の青いすじが透けて見えるような薄く、白い肌が、烏の濡れ羽のような漆黒のその中に蒼ささえ含む髪に映え、凄まじいばかりの清らかさ・・・・・・。「・・・・・・・・・・。」風が吹く音を聞き、周囲の空気を掴む。呼吸を深くし、己の気を拡散し同化させていく。少し不穏な空気を発している気を静める必要があった。内通者であったあの男・・・・・(恐らくはもう死んでいるだろうが)、あの男の殺気に当てられて氷翠王が自分の瞳に閉じ込めている神の怨念が騒いでいるのだ。放って置けば周囲の人間に毒素を振り撒くその念気を、特殊な呼吸法で再び自らの内に嵌め込んでいく。その過程は自らの心の内と向き合う作業と似ている。己の記憶と経験の根本であるものを何の抵抗もせず飲み込む。言葉で言うほど楽な作業ではない。楽しいものでもない。そうして徐々に押さえ込み終えると、氷翠王は伏せていた目を上げ木に凭れていた背を起こした。「疲れてるみたいだね。」瞳を上げた途端視界に入った姿に、温度の低い涼やかな声。黒髪も凛々しいその青年に氷翠王は柔らかく微笑みを返した。「霧破【ソウハ】・・・・・。」氷翠王のその笑みを見て霧破も優しくいたわる様な笑みを向ける。「今朝のことを聞いたけど、大丈夫かい?」万が一にも村人たちに内通者のことを聞かれぬように言葉を伏せるその気遣いを温かく思い、氷翠王は苦笑するような淡い微笑を浮かべ首を軽く傾げて見せた。その少年のような仕草にけれど氷翠王の瞳だけが寒い。大地を思うさま駆けるためにあるようなしなやかな肢体は、けれど今は華奢なように霧破の眼には映った。霧破は氷翠王の研磨された宝石のような瞳を見つめた。その瞳は他人の心に静かに響きすぎるのに、優しさを与えて包み込んでやるには何も欲してなさすぎる、と霧破はふと思った。だから霧破は氷翠王のその瞳に・・・・・・心に手が届くよう祈るように思いその髪に手を伸ばした。そのまま優しく梳くと、氷翠王は少し目を細め柔らかく息を呑んだ。心地よい、と言うように。「ずいぶん短く切ったようだね。」「ああ、・・・・・見苦しいか?」そう問う割には気にしていない口調に霧破は逆に、らしい、と思い微笑む。「いや、似合っているよ。」霧破のその言葉を静かに受け止めて、氷翠王はそうか、とだけ答えて返す。髪を梳いてくる霧破の手にまどろんでいる様子はまるで子猫のようで微笑ましかった。「でも少し不揃いみたいだね。・・・・・兵たちの訓練も終わって、今は昼休みだ。僕もいったん屋敷に帰るところだったんだが、君も来るかい?揃えてあげるよ。」「霧破が?」「ああ。紅丹【ボタン】の髪を毎週整えてやっているのも僕だが?」「知ってる。」その時の紅丹の満足そうな様子を思い出して、氷翠王は思わず微笑した。だが、今は乱れていた気を抑圧したばかりで、他の人間の傍に長く居ることは少し憚られる。その氷翠王の考えを読んだのか、霧破は珍しく揶揄するような笑みを向けてくる。「“人の好意は素直に受け取る”という言葉が君の美点だった筈だが?」「・・・・・・霧破・・・・・。」氷翠王は呆れたように声を上げた。ずいぶんと昔のことを言ってくれる。瀕死の重傷を負った霧破を助けた時のことを言っているのだろう。『人が分かり合えることはない、永遠に。にも拘らず触れ合おうとするからそこに摩擦が生まれる。』権力争いに巻き込まれて疑心暗鬼になっていたのだろう、そう言って霧破が助けの手を拒んだのを、『そんなことは承知の上で触れている。お前に。壊しても、壊されてもいいだろう。別に。私だけの意味、お前だけの声、私だけの思い、お前だけの祈り、・・・・・・それは全て生きている限り手にすることが出来る幸福だ。分かり合えずとも暖め合うことはできるかもしれないだろう?生きていれば。だから死にそうな今は、素直に人の好意を受け取っておけ。それで死んでしまったのならはなむけの言葉を手向けてやる。一人で死んでいくより気が向いていると思わないか?』と切り返した時の言葉を言っているのだろう。「来るだろう?」霧破が再び誘う言葉を向け、綺麗な長い指で髪を梳いてくる。その指先から触れた部分が澄み切っていくように感じた。自分の言葉を持ち出されれば、反論することも出来ない。「分かった。行こう。」負けた、と潔いばかりに思い。氷翠王はいつもの笑みを浮かべた。
2006年10月07日
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縋る声を、上げてはいけない。 歯を喰いしばり、血が流れ続けても唇を噛み。 それと周囲に知らせぬ為に、顔には微笑を。 声には穏やかな思いやりという仮面を。 感じさせる“痛み”だけが私の命。 大丈夫。私は堪えられる。 (嘘だ・・・・・・・何一つ堪えられない。) *朝の光。いや、もう昼に近い。湯船から手を透かし、快い水音に身をゆだねる。あの男からした腐った血の匂いが不快で、洗い流したかったのだ。ぴたりと濡れた前髪が頬に掛かるのを気怠るげに梳き上げ、頬杖をつく。心地良さと気怠るさの狭間に思考をたゆたわせながら、氷翠王【シャナオウ】は今朝見た夢を思い出していた。片耳にだけ着けている薔薇の花と茨に雁字搦めにされている蝶の耳飾りにそっと触れる。母の形見だ。母の・・・・・・・ずいぶんと昔の夢を見た。『大好きよ、氷翠。あなたはどうしても欲しくて生んだ愛しい子。あの人を愛した、あの人に愛された証。私はね、氷翠が一番好きよ。誰よりも必要としているわ。あなたがいないとその後一秒も息をしないわ。氷翠が私の全て。あなたなしでは生きていけないわ。』呪いのように幾度も幾度も繰り返された言葉。その言葉の通り、母は氷翠王が少しでも自分の傍を離れれば自分の首筋を切り裂いた。血塗れた部屋を目にするのは一度や二度ではなかったが、それももう慣れてきた・・・・・と言うより麻痺し始めたころ(当時氷翠王はまだ五、六歳だった)。父に呼び出され庭園で話をしていた時(もちろん母が眠っている際に部屋を出たのだが)、朱樺【シュカ】家の継承権のことで話が堂々巡りしたぶん、かなりの時間を繰っていたのだろう、それとも父と言い争う声が離れにまで聞こえたのかもしれない。庭園に面する離れの一角に、かなりの遠目に氷翠王は母の姿を見たのだ。母は父と話す氷翠王の姿を静かに見つめていた。そして目が合った。母はこの世の者ではないほどに美しく・・・・・天使のように笑ったのだ。氷翠王が驚き、父との話を中断して『・・・・母、君。』と思わず呼びかけた時・・・・・・、それが言い終わる間も無く、母は持っていた懐刀で喉を切り裂いた。遠目にも血がまるで赤い花のように鮮やかに散るのが、見えた。その日の夜、母は自分の生涯をかけて愛した“最愛の人”・・・・・・・父の息の根を止め、自らもその喉を突いて、逝った。無理心中だった。父を庇って受けた傷が与える熱と激痛に堪えながら、生理的涙で霞む瞳で見上げ、見つけたものは天使のような悪魔のような美しい微笑の母の死に顔と、そして、黒。この時初めて血は黒いものだと知った。それからもう一つ。『あなたがいないとその後一秒も息をしないわ。あなたが私の全て。あなたなしでは生きていけないわ。』この時初めて、この言葉が言葉通り自分に向けられていたのではなく、父に向けられていたものだったのだと知った。「・・・・・・・・・・・?」ばしゃん、と突如響いた大きな水音に、氷翠王は伏せていた目を上げる。と、すぐ目の前に目が覚めるような湖面の碧色をした大きな瞳があった。そのまま数秒、それと見詰め合う。紅丹【ボタン】だった。「氷翠。私に何か言うことがあるでしょう。」じいいいいいっと音がしそうなほど見つめられながら、無造作にじっと視線を返すと、紅丹も負けじと食い入るように見詰めてくる。だから氷翠王は思いついたことを口にした。「お早う。いい夢は見れたか?」それは毎日寝台で目が覚めたとき、一番に紅丹の髪を梳きながら言ってやる言葉だった。今日はそれもなしに氷翠王が一人で出かけたことに、紅丹は拗ねているようだ。起きて仕事に出た時間が朝の四時だったため、起こさずにおいたのだがそれが裏目に出たらしい。「・・・・・うん。」こくり、と頷き紅丹は正面から抱きついてくる。それでもまだ気に食わないのかぐずるように押し黙る紅丹の頭をなだめるように撫でてやり、まだ幼い手の平を握って抱きしめる。昨日もほとんど一日傍にいてやることもできなかった上、今朝も目が覚めればいなかったのだ。どれだけ不安にさせたのか心中を察しても余りある。それでなくとも紅丹は、一度捨てられた記憶があるのだ。新しい保護者である氷翠王にも常に捨てられるかもしれない恐怖を抱いていてもおかしくない。「すまない。不安にさせた。」幾度も髪を梳いてやり、頼りない背を抱いてやる。何処までも真摯なまなざしで愛情を注ぎ、同じ言葉を繰り返し、約束と許しを請う。十ほどの子供に何をと言われるかもしれないが、これが氷翠王のやり方だった。上からものは言わない。必要なのは信じると言う真摯さと無償の愛情だけだ。謝罪と許しを請う態度と言葉も惜しまない。「最大限の努力をする。これから、お前を不安にさせたりしないと誓う。」徐々に紅丹の強張っていた肩が弛んでくるのが分かる。「・・・・・うん。」温かいその優しさに心が蕩けるように感じながら紅丹は瞳を閉じる。氷翠王からはいつも幸福の香りがした。紅丹はそれをいつも感じて、氷翠王だけが自分を幸せにしてくれることを知っていた。(黒髪の、私の天使。)だからいつも、むずがるように甘えてしまうのだ。この存在がなければ、生きていけない、と感じるほどに・・・・・・・・。
2006年10月06日
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数刻前まで。夜陰の藍、血の朱色、明けの橙に緩やかに空が染まり。空の光の色にゆるり、と染め上げられていっていた雪原は。今はまだ朝の空気を残しているとはいえ、高くなった太陽に徐々に雪は溶けかけている。・・・・・・・九時ごろ、だろうか。朝五時ごろに此処で鍛錬を済ませ神生【カミオ】と話したこの場所へ、補給部隊への指示を終えた氷翠王【シャナオウ】は再び戻って来ていた。一つ、確認をすることがあったからだ。禁足地を包んでいる結界の気が多少歪んでいるこの場所は、その道の人間ならば外へ抜け出すことは決して難しくはない。現に情報収集を旨とする隠密部隊はこの場所から禁足地の外へと向かわせていた。「・・・・・・・・・・・。」その場の状況を一端把握し直し、氷翠王は視線をざっと滑らせる。最初に目に映ったのは、こちらに向かって歩いてくる男の姿だった。剣戟は響かない。銃声も轟くことはない。だが、これほど離れた距離にありながらも男からは腐った血の匂いがした。その死臭に誘われたように、鞘に収められているはずの刃からは刃鳴りの音が響いたように感じた。冷めた眼でそれを見やった時、氷翠王の瞳には暗い愉悦の光がよぎっていた。だがそれに気づく者は此処にはいない。禁足地にある村の中では常に穏やかで慈愛に満ちた瞳は、今は氷翠王にはない。だからか、氷翠王が穏やかな中にも冷厳さを兼ねそろえていることを知る者は皆無に近い。敵には容赦がないことも。だんだんその姿が視認できるほどに男との距離が近くなる。だが氷翠王は刀を抜かなかった。裏切り者には制裁を、という認識がなかった、と言うより。小者に割く労力が惜しい。その氷翠王の視線に気づいたのか一瞬男は肩を揺らしたが、再び上げられた目には不逞の開き直った光が宿っていた。「これはこれは・・・・・・。誰にも気づかれず綺麗におさらば出来ると踏んでいたんですがねぇ。」飄々とした口調。悠然とした態度で男は刀の間合いがほんの少し届かぬ所で立ち止まった。“綺麗に・・・・・・”と告げた部分には誰も殺さずに、という意味が含まれている。「ですがねぇ、あなたも此処で待ち伏せていたからには私がどなたの命で動いているのか分かっている筈でしょう。」暗に、男に手を出せばどうなるか・・・・と脅してくる男に氷翠王は興味が失せた眼を向けた。「自らが駒になっている事も知らずに踊っているとは・・・・・・・、ものの道理も分からぬ田舎武者が欲を出すからこうなるのですよ、あなたも。この禁足地では王であるあなたも私たちの手の上で遊ばされていたに・・・・・・・・・。」浮薄な男だ。“この世で最高の悦びは他人の生死を握ること”という自らの理論に酔い、自らが他人の駒であることに気づいていない。自らが“どなたの命で動いているのか”と口にしたにもかかわらず・・・・。そもそも一社会に組み込まれて生きている以上、駒でない人間などいないだろうに。(哀れな男だ。)だがこの男は禁足地の情報を外部に流すに当たって、その論理を忘れたのだ。いや、元々気づいていないのか。そんなことはどうでもいい。このうるさい口を閉じさせたいだけだ。「黙れ。」呆れたように言葉を投げ捨てただけだが、少しの沈黙の後に男を取り巻く空気がガラリと変わるのを感じた。殺気と怒りだ。飄々とした人格を見せかけてはいるが、この男は自分が侮られることに関してはかなり気が短いのだ。今まで裏切りは知っていたが、背後関係を調べるために泳がせ、一応部下として使っていたのだ。性格の把握はしていたが、ここまで露骨に示されると驚きを通り越して相手をするのも面倒くさい。「うちの臣下でないのなら下賤と聞く口はない。去れ。」一瞬、氷翠王のその言葉を聴いて男は頭に血が上り刀を抜きかけたが、氷翠王の眼を見て手を止めた。悪魔のように冷然とした朱金の眼。ゆるく傲然と笑んだ紅く形のよい唇。此方を見てゆらりと無造作に瞳と頬にかかる前髪を梳きあげる様は傲慢なサタンの“それ”------凄絶な美しさだった。「・・・・・殺されなかったことを有り難く思ってください。」どこか捨て台詞めいた言葉を残して結界の外に消えていく男を見送って、氷翠王は軽く笑った。「“殺す”?・・・・・・・笑止。取るに足りぬ。」そして氷翠王は足元に視線をふと向けた。其処には癖のある足跡と武器を引き摺った跡があった。瞳を上げ、森の先を見据える。この先には、闘犬がすでにいるらしい。男は、その事実に気づいたかどうか。・・・・・・・・・どちらにしろ関係のないことだ。あの男は、すでに禁足地の手を離れた者なのだから。*男は先を急いでいた。結界を抜け出す時、氷翠王に気づかれたのは誤算だったが、慈悲深く甘いあの人物のこと。追っ手もなく、直に山を抜けるだろうと踏んでいた。だが、先程の氷翠王との会話を思い出し、ふつふつと腸が煮える怒りと憎悪を男は苦い口中で噛んでいた。『黙れ。』『うちの臣下でないのなら下賤と聞く口はない。去れ。』身の程も知らぬあの男でも女でもない半端者に思い知らせてやれば良かった。あの瞬間殺すつもりだったのだが、不意に見せた悪魔のような凄絶な表情に気が殺がれたのだ。今ならば一太刀で動かぬ肉塊にしてやったものを・・・・・・・。と、ふいに目の前に小山のような影が現れ男は立ち止まった。すぐ目の前である筈にもかかわらず、その場所だけ太陽が当たらぬように暗く影が濃い。(おかしい・・・・・・・。)氷翠王への怒りで今まで気づかなかったが、山中であるにもかかわらず何の音もしない。どころか、生きている物の気配もない。静寂が重く。揺らめくものがない。まるで話に聞く死者の国のように。が。唐突に何処からか息苦しいほどの殺気が急速に湧き上がり、それと同時に何かが風を切る音と男の首筋あたりに凄まじい衝撃が走った。辛うじて急所を避けたものの、それに吹き飛ばされ男は雪にまみれた地面に叩き付けられる。衝撃に息が詰まりながらも、幾度も修羅場をくぐって来た男は周囲に気を払い立ち上がった。「九鬼【クキ】、・・・・・・・。」小山のような影、と感じたのは鍛え上げられた恐ろしいほどの屈強な肉体を持つ隻腕の男であった。その黒眼はぎらぎらと陽光を蹴散らし、闇の中の白刃のように爛々と輝いている。七尺ほどはあろうかと思うほどの体躯。九鬼の左手にはそれと同じほどの長さの鉄の太い棒があった。それに男は吹き飛ばされたのだ。掠っただけであろうのに。その高さ、その眼で上から睥睨されれば凄まじいほどの威圧を感じる。だが驕りと相手への侮りをその心に飾り立てている男は慎重さを忘れ、刀を抜き放った。「哀れな半端物の主が所有の闘犬が、たかが一人のために相手の身分も読めず牙を向けるかっ。この阿呆共が!」その怒鳴りに、九鬼は静かな声音で言葉を返した。「己の代わりなど幾らでもいる。」「・・・・・・何だと?」「貴様と我等は同じだ。何故それに気づかぬ。唯一無二は仕える者にはなく仕えられる者にある。それを守る我等は壁だ。死んでも死んでも代わりはいる。むしろ死ぬためにいると言えよう。」「ぬかせ、闘犬がッッ。」「然り。考える能力など要らぬ。」考えるのは上の人間だ。武人は君主を守る為戦う。それのみに終始していればよい。九鬼はその執念のためだけに生きている。「お喋りは仕舞いだ。・・・・・我が主君の御為、その命貰い受ける。」その九鬼の言葉を合図に、男は切りかかって来る。それを避けもせず、待ち・・・・・。九鬼の戦い方は徹底している。一切を防御には払わないのだ。それは氷翠王の戦い方が徹底しているのと同じく、九鬼も目的のために手段を選んでいるのだ。先程、男に述べた目的のために。「才と貴に溺れ、心なく我が主を愚弄した愚物。相応しい惨めさで死ね。」襲い掛かってきた男の刃を鉄の棒で叩き上げる。その九鬼の動作に男の刃は高く浮き、そのため男は敵の踏み込みを許し・・・・・・・九鬼はそのまま深く踏み込み男の下方から切り上げる。そして正眼から、男の喉を狙って突き刺した。踏み込みを許し、己の刀が宙に浮いた状態では男はまず防御は不可能だったのだろう。あっけなく息絶えた男は今際の叫びを上げることも不可能だった。それを見下ろし、九鬼はやや雑な動きで男の喉から鉄の棒を引き抜く。ごぼごぼと厭な音を立てて血が湧き出し、雪を汚す。同じく血で汚れた棒を振り血を弾けば、周囲にはもう山中の音は戻り九鬼の周りの闇も消えていた。
2006年10月05日
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私の魂を表す名を彩る文字は、どちらも“赤”を内に秘めている。 けぶるような砂埃、カラカラと渇いた喉がゴソゴソとした厭な音をたててた。 三年前、七歳だった頃の夏。 戦場に捨てられた私はその暑さをひどく憎んでいた。 私の神である男に捨てられた私はそれでも守人の本能から主である男の下へ戻るため、死に かけていた身体を生に繋ぎ止める為、飲むものも食すものもない荒野の戦場で戦死者の肉と 臓腑を貪り、血を啜った。 主の下へ帰るために。神を命を賭して守るために。その一心で。 その本人に捨てられたというのに。 歩いては食し、這いずっては飲み啜り、けれどそれは長くもたなかった。 騙し騙し酷使していた身体はピクリとも動かなくなった。 降りそそぐ灼熱の太陽に耳が痛くなるような沈黙。 死をまじかに感じた私の前にふ、と太陽が翳った。 太陽光にいたぶられていた身体にその影は心地よかった。 神様の死に逝く私への素敵な贈り物のように思えた。 頬に何か冷たいものが触れた。 それは頬を伝ってひび割れた唇へと染み入って来る。 それはとても甘かった。 (水だ。) 顔を地から上げようと思ったが動けなかった。 (欲しい。) 心臓から突き上げる衝動に私は砂を掻いた。 爪がもげる音がしたが頭にはそんな瑣末なことは入ってこなかった。 耳元で音がした。 靴が砂地を噛む音だった。 人がいたのだ。 こんな吐息がかかるほど近くに。 水はこの人間のものだったのかもしれない。 陽光を遮ってくれた影はこの人のものだったのだ。 肩に手が掛けられるのが分かった。 優しく抱き起こされその水のかかった涼しい心地よい手を身体に感じる。 逆光でよく顔は見えない。 その人は再度水を飲ませてくれようとした。 けれど私には水を飲む力はなく唇の端を冷たい水が滑り落ちていった。 それをとても悲しく思い目を瞬かせる。 ふ、と影が再び濃くなった。 唇にひやり、とした体温を感じる。 そう自覚した時、喉の奥に冷涼で爽やかな水が沁みた。 それを二度三度繰り返してから、口移しで水を飲ませてくれた人の身体は 私から離れた。 普通こんなに暑ければ近寄られていたら苦しいほど熱いと感じるのにその人の 周囲の空気は何故かひやりとして涼やかで心地よく、逆にその人が身体を離すと 私は苦しい暑さに襲われた。 いつの間に太陽が雲隠れしたのか先程まで死にそうになるほど自己主張を繰り返していた 太陽は空から消えて見えなくなっていた。 だから逆光になっていたその人が唇を袖口でぬぐう姿が見えるようになる。 その人の水に濡れた唇は整っていて紅く形よい。 けれど下唇には噛まれた痕があり、少し血が滲んでいる。 たぶん、私が水にがっついた時に付けてしまったのかも知れない。 けれどその血だけではない。 きっと私が口にした臓物と血がこびり付いたのだ。 この時私は背筋が凍るような罪悪感と心臓が震えるような歓喜が走ったのを覚えている。 私が触れた場所からその人が汚れていってしまうように感じたのだ。 この時はその激しい感情の意味が分からなかった。 けれど今はその意味が分かる。 「疾風(ハヤテ)。」 その唇が小さく笑みを形作り、涼やかな声をもらす。 その声に一体何時から其処にいたのか黒の良馬がその人に忠実に近寄った。 そして甘えるようにその首をその人の手に寄せる。 彼らの間にはお互いに対する信愛と敬意があった。 それを見、不意に羨ましく思う。 私と私にとって唯一無二の主の間にはそんな情はなかったから。 だから、捨てられたのだろうか。 いらないから、捨てたのだろうか。 と、その人が馬の背に乗せていた荷物の一部をほどいてそれを手に此方に再び近寄る。 “何・・・・・”と思ったときにはその人は私の前に膝をつき、起こされた私の幼すぎて 細い・・・・・・・というには聞こえが良すぎる虚弱な身体を、始めて見たような綺麗な 着物で包まれた時・・・・・・・・・・・。 その人の顔を私は始めて見、そして認識した。 (・・・・・・・黒髪の、天使・・・・・・・・。) その時、どうして異国の本で一度しか見たことのない天使を思いついたのかは分からない。 けれど思ったのだ。 水を含んだような綺麗な瞳に、私が汚してしまっても・・・・・否、だからこそ美しい ゆるく笑みを刻んだ紅い唇。 硬質な綺麗さとその眼に映る光の渦の悪流、凄烈で凛と冷涼な空気。 黒髪の、私の天使。 そして、その人はその着物の紅が私に良く似合う、と再度瞳で笑んだのだ。 その時から私の中で紅が私を表す色になった。 その人の瞳と同じ、・・・・・・“赤”の色が・・・・・・・・・。 *鳥の鳴き声がして、紅丹【ボタン】は眼を覚ました。寝台から身体を起こし、未だぼんやりとしている瞳をこする。けれど頭は可笑しいほどに冴えていた。今まで見ていた夢のせいかもしれない。氷翠王【シャナオウ】と初めて出会った頃の夢を見ていた。そこでふ、と思い出し紅丹は隣を見る。昨夜、紅丹を抱いて眠ってくれた氷翠王の姿は既に其処にはない。布団を触ってみたが、其処にはもうほとんど熱は感じられず冷たい。だいぶ前に起きたらしい。寝台の横のサイドテーブルを見る。時計はまだ午前七時を指していた。ずいぶん早く氷翠王は起きたらしい。と、寝室から続く扉の隣室から物音が聞こえた。たぶん給仕の者が食事の準備でもしに来たのだろう。紅丹は眼をこすりながら隣室に続く扉を開ける。やはり其処には氷翠王の給仕を担当している者の姿があった。美味しそうなパンの柔らかい香りがする。「・・・・・氷翠【シャナ】は?」給仕の女性に声を掛けると、彼女は少し驚いたように眼を見張ったがやがて朗らかに笑みを向けてくる。「お早うございます。氷翠王様なら、五時ごろに鍛錬に出掛けられてそのまま補給部隊の方にお仕事に行かれましたよ。医師殿と薬師殿の所によってから戻るとおっしゃっていましたから、もうすぐお戻りになられると思いますわ。」「・・・・・・・そう。」少女・・・・・・・紅丹は何か考えるように瞳を窓の外へと逸らせた。少女の白銀の髪は朝陽を綺羅綺羅と撥ね返し、血の青い筋が透けそうなほど白い肌もそれと同じ風情を感じさせる。相反するようにそっと紅に濡れた口唇が、はんなりと美しい。思わずこちらがゾッとするような感情を宿す瞳は、目が覚めるような湖面の碧。とても十歳には見えない。その紅丹の貌は神の悪戯のように恐ろしいほど整い、肌や瞳、髪の色と相まって人形のような冷たさと無機質さ、小奇麗さを見る者に与えている。その紅丹の瞳がある一点で留められた。「・・・・・・あれ、何?」「あれ?」紅丹が指差す先には丹精に作られた鏡台があり、その前には懐紙に包まれた艶やかで美しい黒髪が置かれてあった。「・・・・・ああ。あれは氷翠王様が朝に・・・・・。」「氷翠のっ!?」察しがついて微笑みながら口にする給仕の女性の言葉を切り裂くように断ち切って紅丹は声を飛ばす。だが、もう慣れている給仕の女性は笑みを絶やさずまるでその光景を思い出すようにうっとりと言葉を続けた。「ええ。とても似合っておいででしたよ。短い御髪も。」その女性の言葉に紅丹は逆に頭を抱えた。思い出した、この村の者たちは氷翠が何をしようが諸手を振って賛成するのだ。髪を短くすることが継承権の放棄になろうがなんだろうが、氷翠が笑って幸せそうならそれでいいのだ。そこではた、と気づく。自分も何も慌てる必要もないのだ。(そうよ。何を慌てる必要があるのよ。私はいいのよ、氷翠の味方だから。氷翠がなにしたって全部許す。狗王【クオウ】みたいに説教なんてしてらんないわ。氷翠が何をしようともうそう決めているならそれが一番大事だから。あとのことなんか、私は知らない。)いきなり寝起きの所に遺髪のように置かれている黒髪を見てしまったから動揺し、慌ててしまったのだ。「もう。人騒がせなんだから。」そっと息をついて朝食の用意されたテーブルにつく。よく気のつく給仕の女性は、すかさずコーヒーを注いでくれた。香りよいそれをぼんやりと飲みながら、紅丹は考える。(けど、もう氷翠の長い髪を弄れないのは残念ね・・・・・・・・・。)何にせよ、夢に出てきた三年前とは比べ物にならないほど、紅丹の今の日常は平和そのものだった。
2006年10月03日
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「朱樺の地に戻る気ですか。」神生は氷翠王が髪を切った理由に思い当たりその確信を突いた。脳裏に二人の守人とという客人の姿を思い浮かべながら。正しくは神生の言葉は間違いである。実際、神生が思い浮かべた言葉は、『蒐家の追っ手の手がこちらに掛かる準備をしているのか』だった。その言葉を自粛し、遠まわしにけれど的を得た応えを神生は返したのだ。「ああ。」氷翠王の返事は簡潔だった。わざわざ何者かに追われている者たち・・・・・・・・(しかも二人とも守人である)を禁足地に連れて来たのだ、居場所を突き止められても不思議ではない。その可能性も考えずに連れて来た訳もなかった。それに、追っ手の手が伸びてきても此方には大した損害は無いのだ、実際。追手の大本であるはずの蒐家の宗主が此方に加担しているのだから。まあ、義兄と義兄に結託している蒐家の一派に見つかれば危ういが。元々氷翠王が出奔したのはやむにやまれぬ事情もあったが、主に義兄に蒐家の心臓を握らせ朱樺家を取り戻しその結束を磐石のものにするという目的を達成するためにあった。氷翠王が蒐家に人質になっていた十三年間にその基盤を立ててあったし、蒐家の内部のほとんどを氷翠王は既に掌握していたのだ。一揆に傾いて滅びかけていた蒐家を救い、立て直したのも氷翠王なのだから。蒐家と血の契りを交わしその政に関与する権利を九年掛けて得た後、氷翠王が一番にしたことは蒐家傘下の財閥の総入れ替えをし、事業の拡大を図ることだった。この前代未聞の働きかけに蒐家の貴族連中は腰を抜かし、全員反対したが病床にあった宗主が氷翠王に賛同し有無を言わさず強行した。皆あの明らかに氷翠王を軽んじていた宗主が何故、と目を見張ったが、それも無理のない事だった。だが氷翠王は一年ほど前病床についた宗主と周りがおかしくは思わない程度に接触をしていたのだ。平時ならばどんな思いやりに満ちた言葉でも気にも掛けず嘲笑で返すであろう宗主の傲慢さも、病床という自分の先への不安と心細さからすっかりなりを潜めていた。まして氷翠王は甲斐甲斐しかった。絶妙のタイミングで与えられる奇跡の様な思いやりに満ちたまなざしと手、それから不安と自分が何もできぬというもどかしさを包んで否定してくれる温かくも優しく柔らかな物腰。実の子供達が臣下の者に任せっきりにし碌な看病もしない事も拍車を掛けただろう。毎日毎日、自分の看病に明け暮れてその白く繊細な綺麗な氷翠王の指が少しずつ荒れていくのを宗主は見ていたのだ。これが宗主でなくとも誰でもほだされただろう。氷翠王が自分を救いにきた自分だけの菩薩にでも見えたに違いない。すぐに宗主の氷翠王に向ける眼差しは親愛と信頼、情愛へと代わっていった。蒐家の人質である、という氷翠王の自分に対して弱い立場もそれに一役買っているだろう。絶対的な信頼を向けている氷翠王の選択に宗主が否を言う筈もなかった。そうして氷翠王は事業を選別して拡大していった。それが着実に利益を上げ、段々と蒐家が立ち直り始め蒐家の臣下や他貴族の信頼を得るようになった頃、羊毛を主としている蒐家の紡績を氷翠王は他貴族に売却した。この紡績はかなりの利益を上げていて、今後もその利益は伸びるだろうと思われていたので蒐家の者はかなりの反発をした。が、氷翠王が『今でこそ羊毛を主とした紡績は行っている者が少なく利益も高いが、他の多くの財閥もそれに目をつけ始めている。もうすぐ嫌でも価格は驚くほど下がるだろう。ならばその前に他に高く売却した方が利益は比べ物にならないほど高い。』と説得すると、氷翠王の意見に傘下の財閥は誰も反対する者はいなかった。これには蒐家の者は度肝を抜かれた。ほとんど独断のような提案に傘下の財閥はもはや反論もしなかったのだ。いつの間にこれ程の信頼を得たのか。実際数ヵ月後には氷翠王の言うとおりになり、被害を受けなかったのは蒐家と朱樺家だけだった。誰もが氷翠王に厚い信頼と情愛を向けた。誰も氷翠王無しでは蒐家が立ち行かぬ事になっていると気づいた者はいない。これで氷翠王が人質として責を逃れ、自分の臣民の待つ故郷に帰りその上で蒐家の政と財政を動かしても誰も文句など言えぬ程に。蒐家の者は氷翠王の手によって蕩ける程に甘やかされた事に気づいていなかった。自分達が何もしなくてもまるで神の手が蒐家の建て直しを図っている様に、どんどん氷翠王の手から与えられた。気づいた時には誰もが氷翠王の指示なしには何もできない者になっていた。逆に朱樺家の者は君主である氷翠王がいない間、領地を支えなければと鉄の団結を示し奮起していた故に、一人一人の才覚が尖るように際立ち磨かれ凄まじい団結力であった。後に、恐らくこの人質時代があってこその朱樺衆と言われる程に。朱樺家を取り込もうとして逆に取り込まれたのは蒐家の方だった。五歳の頃から人質生活を送っていた氷翠王は猫の子ではなく、まさしく朱樺家の前宗主であった父と同じく猛々しい虎の子であったのだ。とんだ薮蛇をつついたのだ、蒐家は。唯一の誤算は、他国に追いやられていた色狂いの蒐家の長男が氷翠王の帰郷の時に戻り、『君のために俺は全てを捨てたんだ。』と迫りそれを氷翠王が断れば『お綺麗な顔をして俺の親父まで咥え込んだ淫乱のくせに、俺を拒む気かっ!?』と真も実もない言葉で氷翠王を貶め、挙句の果てには刃傷沙汰になり、それでも飽き足らずこの長男は氷翠王が蒐家に謀反を企てていると嘘ばかりの言葉を流したのだ。氷翠王が十四の時に強姦して子供を生めない身体にしておいて、何が“全てを捨てたんだ”なのかは氷翠王にはさっぱり分からなかったが。蒐家の者は誰も信じなかったが、氷翠王の腹違いの兄だけは違った。氷翠王と兄にはかなりの因縁があった。兄の拷問にも堪えながら氷翠王はそれでも出奔などするつもりはなかった。こんな事がこのままにされて置く筈もないと分かっていたのだ。すぐに、助けと蒐家からじかに手が入れられる事も分かりきっていた。それ程までに蒐家は氷翠王の手を必要とし、無くては生き残る事すら危うい。長男と引き換えにしても手放す筈が無かった。そうでなくともこの男は蒐家の足を引っ張る事しかしていないのだ。・・・・が、その前に朱樺家の古参の臣下が氷翠王のために反乱を起こした。実際、後一歩遅れていれば氷翠王は兄に殺されていたかもしれない。だが現実に起こしてしまった反乱は、はいそうですかと取り下げられる訳もない。このままでは一族郎党が滅びてしまう危険があった。だから氷翠王は反乱組に助け出された後、拷問で負わされた傷と痛みに立つこともままならない身体を駆使して陣頭で指揮をとり、わざと兄と敵対して見せた。そうして反乱組にも兄の郎党にも被害を負わせない程度で引き下がり、反乱組を連れ出奔した。こうすれば兄達だけは身内と敵対してでも蒐家に変わらぬ忠誠をたて、命を削る覚悟もあると言い訳もたつ。朱樺家を半分に割ってしまうが、全滅はしない。氷翠王を見つけて曳き立てるまでは目は向かない。そうして禁足地に来た。これらを指揮し実行したのは氷翠王とその腹心たちだったが、これには蒐家の宗主も手を貸していた。義兄と結託をしていた蒐家の者たちの反対にあい、氷翠王への助けが間に合わぬと判断した蒐家の宗主が朱樺家古参の臣下が朱樺家の今の実権を握っている義兄に叛乱を起こしたと聞いて出奔の用意を整えたのだ。宗主は実際、養子にした氷翠王を後継者にするつもりだった。病床の宗主は長女が政に向かぬこと、才がないことを知っていたし、蒐家の名に泥をぬった長男は既に【貴】の名を返上させてあった。後二人の息子はいたが、どちらも家名を継ぐ気はないと継承権を放棄していた。氷翠王が居ない今、傘下の財閥を動かせる才を持つ者は蒐家にはなく朱樺家に在る義兄しかいないことを氷翠王は知っていた。自分がそのように仕組んだのだ。財閥の選抜と事業の拡大、立て直しに関しては蒐家の部下を育てず手を一切触れささなかった。蒐家と朱樺家、領地と領民の細かい管理も少しずつ時間は掛かったが独裁するようになっていた。蒐家の者は蒐の領地に関する書類すら何処にあるか分からないだろう。権利書も氷翠王が手に入れていたのも知らなかったのだ。そうしながら氷翠王は義兄にだけは情報を流していた。財閥のほうも義兄の思う通りに動かせるまでになっていた。最初から氷翠王は蒐家から朱樺家を取り戻した後は全て義兄に譲るつもりでいた。その過程の進み方は考えていたものとは異なったが、実際、今義兄はその実権を全て握っていることだろう。それが氷翠王が出奔して二年経った今、ひるがえされても困るのだ。氷翠王が見つかって一番立場が危うくなるのは義兄である。蒐家の宗主がいまだ亡くなっていないならば。義兄の一派が先に氷翠王を見つけたならば氷翠王を殺せばいいだけだが、宗主が見つけてしまった場合は。氷翠王とて今更義兄に譲ったものを脅かすつもりはない。髪を短く切ったのはその表明だった。長い髪は貴族の特権であったからだ。実際的ではないその風習をどうと思ったことはないが、表明としては一番分かりやすいだろう。この短い髪は。朱樺の跡を継ぐ気はないが、死ぬ気はないのだ。「あなたは本当に仕方がない人ですね。」氷翠王の考えていることを察したらしい神生はやはり呆れたような声を漏らした。それに氷翠王は瞳だけで微笑む。「“アレ”はあなたが自分を犠牲にしてまでも守る価値があるものだとでも?」冷ややかなその言葉の割りに、神生の声は暖かく優しかった。「----------------------。」その声に、氷翠王は悪戯を思いついた子供のように朗らかに笑った。
2006年10月02日
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早朝。夜陰の藍、血の朱色、明けの橙に緩やかに空が染まり。雪原をも空の光の色にゆるり、と染め上げていく。耳は森の息吹の音を感じ取り、己の身体もそれに同調し呼気はだんだんと深く静かになっていく。翡翠王【シャナオウ】は己の呼気が整ったことを知ると伏せていた瞳を上げた。その右片手には刀がただぶらりと下げていた。だが、刀を抜き身で持っているにも関わらず翡翠王の立ち姿は一見して戦闘的ではない。無造作にただ、なんの予備動作もなしに、ただ、立っている。・・・・・・・だが。翡翠王は脳裏に敵の姿を思い浮かべる。翡翠王にとってはこれで、戦闘態勢として過不足ない。この状態からほぼ一挙動で攻撃できる自信を翡翠王は持つ。その体勢のまま、持っている刀を鞘に納めた。刀を抜き身にしていたのは、ただ己の間合いを確かめるためだ。その体勢のまま納刀をすれば一層、翡翠王のその状態は無防備に映る。この状態で何ができるというのか。決まっている。居合いができるのだ。納刀状態からの即攻撃。抜刀が、即ち斬撃となる。基本用途は不意打ち、奇襲にあるが居合いには刀が鞘内にあるため攻撃の間合いを把握されにくい。それにこそ意味があった。翡翠王をよく知る人物であったならたいていはこう聞けば驚くが、翡翠王は奇襲攻撃を得意とする。というより、後手後手に回るのを嫌うのだ。相手の先の先を取る。知り合いは翡翠王の戦い方はと言えばその性格から相手が討ってきたところを迎え撃つ、というように思っているが、それは違う。氷翠王の戦い方は今まで置かれていた立場上、一人で多くの敵と戦うことを前提としているため、後手に回る・・・・・・と言う事は即、死を意味する。それ故に、氷翠王の型は奇襲を旨としたものが多い。剣の最も重要なものは太刀筋である。振り上げた刀で敵の首を断ち、そのまま下ろした反動で二人目の腹を掻っ捌く。夜闇の中、奇襲の上流れるようなその太刀捌きと容赦の無さでは一人で十を殺す時も三分とかからない。居合いもその術の一つである。それだけではなくあらゆる体術を駆使した氷翠王の戦い方は、剣を極めた朱樺【シュカ】家の血筋とは思えないほど、素人目にはトリッキーに映る。が、それは間違いである。氷翠王があみ出す奇襲攻撃の術は全て朱樺の剣術の基礎を踏襲している。若干異なるとすれば、戦に出た際に太刀筋が少し変わったぐらいのものだろう。この皓【コウ】国の良き風習か悪しき風習か、武家や軍部の戦い方は正々堂々を基とし、弓矢や銃器などの飛び道具を使うことと果ては夜陰に紛れての奇襲や火矢による火責めなどは卑怯者のやり方と蔑まれ使う者は滅多にいないが。使うとすれば形振り構っていられない盗賊や農民、地下に潜っている反逆者ぐらいだろう。と言っても、上の者・・・・引いては皓国にその風習が無いため、それを思いつく者、思い至る者は皆無に近いが。そのため氷翠王は戦の際、反発と驚き畏怖を多いに買ったが手法は変えなかった。己個人の戦い方も、兵に指揮した戦略も基本は奇襲。そして軍にはかなり少ない弓兵を手ずから育て、五倍の人数に増やした。銃兵の人数はそれほど増やしはしなかった。金が掛かり過ぎるからだ。氷翠王の直属の部隊は弓兵が主となっていた。奇襲に弓兵は欠かせなかったし、真正面から戦う時も出だしで少なからずの敵の戦意を殺ぎ、数を減らすことができるからだ。戦はただ勝てばいいと言うものではない。勝ちはしたが手勢の半分以上を失った、では話にならない。最小限の被害の上、最大限の効果を挙げた者のみが勝者と呼ぶに相応しい。名誉を重んじ負け戦をするより、卑怯者の汚名を面に引っかぶって勝ち戦をする方が氷翠王の目に適っている。実際、人質として蒐【シュウ】家によって戦に狩り出されている朱樺家の者たちの犠牲を大きくしたくなかったのだ。彼らを戦で指揮する権限を与えられたのなら尚更。その時から氷翠王の戦の指揮はもちろん個人の戦い方も奇襲に特化していったのは自然の理であろう。それは今でも変わっていない。否、さらに磨きがかかったと言えるだろう。当たり前だ。男でも女でもないこの“無性体”の氷翠王の身体は膂力、脚力共に鍛えてあるが故の凄まじさを兼ね揃えているが、相手が女であれば比べるべくも無いが男であったなら真正面からの力比べなど勝てるわけも無い。それ故に今まで培って来た・・・・否、あみ出してきた戦術は身体的にも氷翠王には合っていた。「・・・・・・・・・・・・。」キツイ眼で前を見据えていたがその視界に濡れたような黒が映る。風によってなびく己の前髪を掻き上げ、自然なしぐさで瞳を上げた。もうその時には氷翠王の瞳には厳しい光は消え失せ、代わりに潤むような琥珀の色と穏やかで凛、としたひやりと涼やかな気品があった。「一体何をしているんですか、あなたは。」その背に冷ややかなけれど低音の美声が掛けられる。その声に氷翠王は驚いた風もなく、乱れぬ挙措でゆっくりと振り向く。そして声の主に一点の非もない優雅な公子然とした笑みを向ける。聡明で誇り高い生まれながらの【貴】の血筋の者の微笑を。「お前こそどうした、このような場所で。」他人との対話も先手を打った方が優位だと氷翠王は無意識下で知っていたからだ。そうしておいて個というものを認識する上で最も重要な“名”を、呼ぶ。「神生【カミオ】。」「・・・・・・・・・・・あなたという人は・・・・・・。」男は呆れたような苦々しいような眼差しを返してきたが、瞬時にその声音からは先ほどの冷ややかさが消え失せた。そして男・・・・・・・神生の眼差しからも徐々に凍て付いたような色は溶け落ちていく。他の者が神生のこの様子を見れば驚き、腰を抜かしたであろうが、神生の生来の気質である冷ややかさは瞳から消えてはいない。ただ、この二人が揃っている時は別の感情の色が互いを尊重し気遣い合い、色を代えるのみである。故にこの呆れたような神生の一言は今までの意思疎通であり、手段であり確認であり、事後の確認であった。それ故に氷翠王もそれに確認の言葉を返す。「お客人が眼を覚ましたのか。」「ええ。後は放っておいても勝手に回復するでしょう。」氷翠王の問いに答えを一言だけ返し、神生はそれきりその件に興味をなくしたようにその美しい黒髪を肩から払い、冷たい印象を与えるほど整った美貌を氷翠王に向けた。そして訝しげにその流れるような柳眉を顰める。「その髪は何です。」「悪くは無いと思うが。変か?」そう聞く言葉は殊勝だが氷翠王の態度には“別にそれでも構わない”という傲然としたものが表れている。「いえ。ですが昨夜まではその艶やかな御髪が腰ほどまであったように思いますが?」“では残りは何処にいったのでしょうね”と続けながら神生はその肩にも掛からないまでの長さになった氷翠王の黒髪を梳いた。その柔らかい感触は当然見た目のまま、細い首筋に掛かっているまでしかない。前髪は昨夜と同じほどで少し長めだが、分けているので見た目は全く鬱陶しくは無い。逆に分けた前髪が少し伏せた瞳に掛かるのがそこはかとなく凄絶な瞳の強さがより強調されている。横髪が白い頬に掛かるのもそれと同じだ。顔の輪郭が髪が長かった時より露わにはっきりとなったせいで、氷翠王の硬質な綺麗さにより一層磨きが掛かったように見える。まるで職人が技術の粋をかけて作り上げたドールのようだ。前は髪に隠れていた細い首筋が露わになっているため、危うげな色気までがある。そのため肩の細さと薄さも強調されている。今、氷翠王が身に着けている服のせいもあるだろう。銀ボタンの白いシャツをゆるく第二釦まで開け、黒のズボンという軽装である。髪が長かった時なら“無性体”という性別の無い身体でも女性に見えたが、今は中性的な観が強く少年に見えないことも無い。ただ、凄絶な瞳の光の強さと硬質で清廉な美しさが、細い身体の線でありながらも弱弱しさと侮りを寄せ付けない。故に神生は口を開いた。「朱樺の地に戻る気ですか。」、と。
2006年10月02日
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窓の外は雷鳴。時折凄まじい音が空から迸(ほとばし)り、空調の効いた室内には激烈な光がただ走る。その鮮烈をリビングから横目で見ながら、手早くテーブルをセッティングする。雷は、嫌いではない。この早朝からいくら憚らず滝のような雨の奔流とともに砕け散るような轟音をあげようが不快になりようもなかった。手際良くセットティングを終え、キッチンへと戻ると柔らかいふんわりとした卵の温かな香りが咬(ぜん)を出迎えた。その香りの元である大皿を手に、先程作り上げた料理をリビングのテーブルに並べていく。作った料理を全て並び終え、抜かりはないかと視線をテーブルの上に滑らせる。マッシュルームソースがふんだんにかかったオムレツに、パプリカマリネ、見目の良いすっきりしたガラスの器に盛られたレタスとトマト、モッツァレラチーズ、生ハム、とどめにバジルの葉を飾ったカプレーゼサラダ、カツオのカルパッチョ、カボチャのポタージュ、グレープフルーツマリネ、よく冷えた軽いシャンパン・・・・・・・・・・・。手抜かりどころか、壮観にすら見えるそれらの料理を見て、咬は満足するどころか目元を引き攣らせた。それは料理の出来に、ではなく。室内からは、掻き抱くような情熱的で甘く気怠いアルゼンチン・タンゴ。響きの甘い、腰にクルように気怠い異国の言葉で歌われるソレはひどく扇情的で悩ましい。適温に保たれた、少し肌寒いくらいの室内。ここで流れるこの曲は嫌いではないが咬の趣味ではない。自分が作った料理を見、流れるアルゼンチン・タンゴを聴いて目元どころか口元までが引き攣ってきた咬は身に着けていた黒いエプロンを自分の腰から引き剥がし、自分の寝室へと踵を返した。エプロンを外せば、咬は伸びやかな身体のラインにぴったり沿ったジーンズと、目に痛いほどの白のコットンシャツを身に着けている。ラフでシンプルな格好だったが、逆にそれが本人独特の魅力を引き出しているようだった。陽の光を吸い込んだような褐色の肌に。激烈にキツイ、まなざし。大地を思うさま駆けるためにある様な伸びやかな足と、灼熱の太陽よりはるかに激烈な瞳とは裏腹な細腰に、思わず目を奪われる不埒な輩が後を絶たないのも頷ける。が、常にキツイその眼は今、いつもにも増してキリキリと鋭く切れ上がり、わずかに上気した頬が咬の不機嫌さと怒りを知らせている。ダンダン、と歩く歩幅は思いのほか大きく、荒い。ぶっちゃけ、ぶすくれていた。寝室のドアを蹴り上げるように押し開け、そのすぐ手元にあった額縁に手を掛け間髪を入れず自分のベッドの上に投げつけた。正確には。自分のベッドで遠慮も思慮も気遣い・・・・・・その他諸々の常識をも咬のマンションに来る前にドブに放り投げてくる万害の男に。「一人でぐだぐだ寝てんじゃねぇ・・・・・・・・!」ブスブスと焼け焦げる感情に声が低く地を這う。きっちりと寸分の容赦もなく、額縁の角を頭にぶつけられた男はけれど、常識を引っ掛けもせずマイペースでまったりと時間を満喫していた。のっそりと獲物を獲った後のライオンのような緩慢さと傲慢さで男は肩肘をつき、ゆるぅりと身を起こす。そして言った。「・・・・・一人で、ねぇ・・・・・。だったら添い寝をしてくれるんだな?」少し体をずらし、掛け布団をめくった後、男は露わになった海の底のように青いシーツの上を撫で擦った。殺したい。湧き上がった殺意に咬がギリギリと男を睨み据えたのも無理はないだろう。男・・・・・・良将(よしまさ)は咬のその様子を見、目をかすかに細める。嬉しげに。「どうした?眼が吊り上ってるぞ・・・・・・・・・昨夜の寝顔は可愛かったのになあ。」咬の口はひくひくと引き攣り。「その分輪郭がシャープになって、昨夜よりイイ男になっただろ?」その唇を歪めながらも笑みを作り、笑えないジョークで返した。昨日、映画を見ようと無理やり押し掛けて来た上に、『帰れ』と言っても帰らなかった男が今は咬のベッドに悠々と横たわっている。そうでなくともこの部屋は悪い。以前、数年前になるか・・・・・・高校に入学した年の誕生日。この部屋にあるキングサイズの馬鹿でかいしか能がないようなベッドはその時に良将が贈って寄越したものだった。その前に『余分な布団もなく、ベッドも小さくて寝る所がない』といった理由で泊りを拒否したことを三つも年上のこの男は皮肉り揶揄って半ば嫌がらせ的に贈ったのだろう(それ以外の理由は思いつかない・・・・・というよりは薮を突付いて蛇を出したくない・・・・・・のもあるが考えなくもなかった)。それ以来、拒否する理由がなくなった咬の元へ来た時は、必ず良将は何日か泊って行くようになった。気に入った(もしくは食べてみたい)食材持参で。自分で作るのではなく、咬に料理させるために。今朝作った料理も、それだ。「咬・・・・・。」良将が掠れたような低い声で名を呼んだ。ソレを耳に捕らえ、その眼差しを瞳に受け、それまで良将を睨み据えていた咬はその視線を苦々しげに逸らした。そうすると良将の眼は動脈に直接毒を注ぎ込むような怖い光を宿す。(こいつは時々こんな眼で俺を見る・・・・。)堪えられないような光と熱・・・・・。そのめまぐるしい悪流の渦に息の絶える心地がする。死んでしまう・・・・・・・。そう感じるぐらいに。「・・・・・・・・・っ。」ふいに手を引かれた。そのまま強い力で引き寄せられ、青いシーツの上に仰向ける。「何考えてる。」低い声。その声に掻き抱くアルゼンチン・タンゴが重なる。その甘く気怠い歌は痕を引き・・・・・・・・・・・・。覆いかぶさっている男からは香水の“エゴイスト”の香りがした。ふいに息が苦しくなり、顎が上がった。上から視線を余すところ無く這わしてくる男に眼を眇める。無意識に首を振り、片耳をシーツに押し付けることで塞いだ。まるで追い詰められた者が最後の最後にする弱弱しい足掻きのように。その姿は哀れな子供のようだった。(嫌だ。)やめてくれ。その先は聞きたくない。堪え切れず、瞳を閉じ。「・・・・・・・・・・・・・・・。」すっ・・・・・と男の気配が離れた。夢から覚めたように咬が瞳を開くと、良将はその頭を掠めるように柔らかく撫で、立ち上がった。「・・・・・・いい匂いがするな。朝飯が出来たから呼びに来てくれたんだろ。」楽しみだ、と心底嬉しそうに口元を綻ばせ良将は寝室を出て行った。「・・・・・・・・・・・。」分かっている。本当は何を言われずとも分かっているのだ。三歳年上のこの幼馴染は咬のこととなると、大学どころか家族までも笑って突き放し、見向きもしなくなる。飄々としていつも遠くから見ているだけのあの男は、けれど咬が声にしない悲鳴を聞き逃すことはない。そしていつも咬を助けようと無償でこちらに手を伸ばす。其の手はいつも一番辛い時に差し出され、だから思わず其の手に掴まりたくなる。けれど結局、いつも咬の延ばした手は良将の手に触れる前に凍りつく。空恐ろしくて。良将が、ではなく、自分の甘さと狡さが。一度其の手に縋ったら、一度其の楽さと味を知ってしまったら、自分はもう手放すどころか、一人で立てなくなる。それは死ぬことより怖かった、そしてあの狂夢より。だから今度もこれ以上関わられる前に有刺鉄線を引いた。唯一の助けの手を振り払うことで、痛みと負う傷はかなり深くなることは経験上知っていた。けれどそうでないと駄目だ、そうでなければならない。だが・・・・・・・・。長いと言えば長すぎる良将との付き合いに、感情はドロドロと溶けていく心地がするのだ。全部無し崩しにして、ぐずぐずとした甘えに浸りたくなる。「・・・・・・咬。」リビングから名を呼ばれる。いつものタイミングの良さで。それに返事を返し、立ち上がる。だが、いつまでもアルゼンチン・タンゴの甘い響きと、“エゴイスト”の気怠い香りが・・・・・・、痕を引いた。
2006年09月14日
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*“何を今更”のその後 「眠い。」 「何を今更。 君のそのお頭(つむ)がまったりとしてそれでいて 生産性がないのは僕だって知っているよ。」 「・・・・・・・・お前のせいだろ。」 「おかしいな。君の夜のお相手をしてあげた覚えはないけど。」 「当たり前だっ!! ・・・・・・・というか、この遣り取り朝もしたな・・・・。」 「だから君のお頭は生産性がゼロなんだよ。」 「お前もだろ。」 「違うよ。合わせてるんだ。 君のお頭のお花畑に。」 「・・・・・・・・・・・・・。」 「あれ?何で突っ込んでくれないのさ。 まさか本当に青い春が光臨したの?」
2006年08月27日
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何もない日曜ほど気だるいものはない。空調の効いた室内。やわらかく射し込む朝の陽光(ひかり)。空は晴れているのに、雨が街をしとどに濡らしていた。少しだけ先程より湿った風に髪が乱れる。雨に濡れた風は、優しく、温かに咬【ぜん】を弄る。窓の外からはしとしとと奥ゆかしい雨音と、朝早い小鳥の囀りが聞こえている。部屋の中からは、繊細で哀調高いピアノ曲の旋律と、どこか甘い響きのあるフランス語・・・・・・。切ないほどの音楽は咬の目の前のブラウン管から、愛を語る恋人同士がメインのフランス映画の台詞と共に流れ込んでくる。適温に保たれた、少し肌寒いくらいの室内。その部屋に置かれた身体が沈み込みそうなほどのソファーに咬は身を委ねていた。映画の内容ははっきり言って、途中から頭に入っていない。もう内容を追う気さえおきなかった。それより、今日は空いている時間はなかった筈なのに一体何をどうして自分はこんなことをしているのだろうか。咬が普段、自分のマンションにいる時間は一日合計しても三、四時間ほどしかなかった。真実、此処へは咬は睡眠をとるために帰ってくるだけにあった。咬の一日のサイクルはかなり厳しい。そもそも肉親も頼るべき縁者もいない咬にとってこの高校に通えていることすら奇跡なのだ。その奇跡を起こしているのは神でも、慈悲を哀れみと履き違えた役にも立たない他人でもない、咬自身だ。亡くなった母が咬にお金を残してくれてはいたが、父も居ない、親族に頼ることもできない、しかも病弱な母が貯めたものなのであまり多くは無かった。それに病弱だった母が自分のために貯めてくれていた、と思うと其れでは意味がないと分かっていても使うことはできなかった。そして母の遺した金をあまり使いたくなかったのだ。高校を卒業する、ということは母が唯一遺した咬への願いだった。最期の最期まで自分の身を心配してくれた母の金を使うということ・・・・・・・・。それは亡くなった母の力に縋ることに思えたのだ。あんなに咬を心配していた母に、また。だからどうしても自分の力で高校には行きたかった。どうしても。正確には。自分の力でそうすることで、一人で生きていけると、亡くなった母の心配を拭いたかったのだ。死んだ後ぐらい、楽にしてやりたかった。今度は自分が守って支えたかった。だから自分でどうにかしなくてはならず、(今住んでいるこのマンションの部屋だけは知り合いがほとんど好意で貸してくれているのでただ同然の上に見分不相応だったが)実際生活費と学費をどうにかするだけで精一杯だった。その理由から、咬の一日は激しく多忙を極めていた。平日、学校が終わった後五時から十時までガソリンスタンドで働き、夜十一時から三時までバーテンダーのバイトを入れていた。それに加えて、特待生で高校に入った咬は部活にも入らなければならず、それをサボれない故に朝練、夕練にも欠かさず出る必要があった。この時点で咬の睡眠時間は三時間を切っている。学校にいる時間、授業も集中力を切らすことはできない。家で勉強をする時間などないからだ。その分集中して受けていないとついてはいけない。自分で金を払って学んでいるのだ。その時間を溝に捨てるのなら、金どころか咬のやっていること全てが無駄だ。土、日曜も一日部活かバイトに費やされる。今日も朝から部活だった・・・・・・筈なのだ。が、顧問が倒れたとかで中止になり。それならバイトを入れようとした所で・・・・・。人災が御丁寧にもチャイムも無しで合鍵で片手に花を、もう片手に今流れているこのフランス映画のDVDを持参して、諸手を挙げて、入ってきた。意味がわからない。咬は自分の膝に頭を乗せて気持ち良さ気に眠る闖入者に瞳を移した。何が楽しいのかその唇は気の置けない笑みに片端がゆるく上がっている。今は閉じられている切れ長の瞳は人の悪い笑みをいつも宿している。良将【よしまさ】だった。その無骨な手がかすかに身じろぎする。良将のその様子に何故か琴線を触れられたような心地がし、一過性で苛つきが脳裏によぎる。そのよぎりに無自覚のままに咬は良将の口と鼻を片手で軽く覆っていた。「・・・・・・・・・・・・・。」しばらくの秒数が経ち、良将の片手が上がり、その左手がこの上なく優しく咬の頬を撫でた。良将がその何か企んでいるような楽しげな眼を開く。第一声は。「殺したいのか?」面白げにその唇の片端がいやらしげに吊り上るのを見て、咬は初めて自分の手が良将の口と鼻を覆っていたことに気がつく。「・・・・・・そんなゆるやかに面倒くさ気なことするなら、眠っている間に心臓抉り出してるぜ?」咬の返しに良将は怖い光に瞳だけを笑ませた。「本望だ。」その笑みに、本気かどうかの区別はつかない。少し視線を動かすと、眼の端に馥郁とした香りを撒き散らしている白百合が花束のままリビングのテーブルの上にあるのが眼の端に映った。故に。「どけ。」「何故。」拒否の言葉と言うよりは咬の言葉をその唇に引き摺り出したいかのように良将は言葉を間髪も要れず切り返す。「花。」その思惑に気付き咬は面倒くさ気に返事を遠くへ投げ捨てた。大体何故、一緒に見ようとフランス映画のDVDを持参で押し掛けた本人がそれが流れ始めて十五分も経っていない内に寝るのだ。しかも咬の膝の上で。三つも年上のこの男が何が楽しくて男の膝枕で眠っているのか。考えるのも面倒くさい。咬の短すぎるその返答にも意味は分かったのか、良将はあっさりと咬の上から身を退かす。咬はずっとじっと柔らかいソファーに座っていたので気怠い身体を背もたれから起こし、立ち上がった。そうしてテーブルの上の百合を手に取り、そのままキッチンのほうに足を向ける。花を活けるためだ。咬のマンションの部屋は高校生男子が一人で住んでいるとは思えないほど、部屋ごとに季節の花を活けてある。今は寝室には青睡蓮、キッチンには芙蓉が活けてある。この白百合はリビングでいいだろう。どれも母が好きだった花だ。母はいつもこうして花を活けていた。よく手伝わせられたから、今ではほとんど日課のようになって母が亡くなった後でも、なんとなく無ければ手持ち無沙汰になった。その内、バイトをしているバーで余った花を貰うようになった。マスターも余った花の処分には困っていたようで、何週間もしないうちに部屋には花が増えていった。良将はその時、『此処ってお前が住んでいるって生活感はまるで無いのに、お前の御袋さんの存在感だけはあるんだな。・・・・・・まるであの人がここに暮らしてるみたいだぞ。』、と何所か珍しく困ったような顔で眉を顰めた。だが、それから良将は来るときはいつも母が好きだった花を持ってくるようになった。出していた水道の水を止め、活けた花を手に咬はリビングへ戻った。また寝ているかと思っていたがそのまま起きて煙草をふかしている良将と視線がぶつかる。その眼差しはどこか険しく見える。だが。「寝ないのか。」咬が良将の毒のある視線に同じく、揶揄でゆるく口を歪めて返すと良将の険しく見えた瞳はいつもの揶揄めいた鋭い快楽者的な視線に戻り、自分の座っているソファーの隣をぽんぽん、と軽く叩いた。その動作に咬は眉を上げ、「・・・・・・・・・・・。」だが、それだけに留めて、促されるままに隣に座る。案の定、良将はそのまま咬の膝に頭を下ろしてきた。そのまま三分と経たずにまた寝てしまった。男に呆れたため息を落とし、咬はゆるく手すりに肘を突きその手に頭を凭せ掛ける。良く効いた空調が気怠い。ゆるやかに音楽とフランス語が流れてくる。映画はまだ終わっていなかったらしい。だがもうそろそろ終わりそうだった。クライマックスが近いのを示すように掻き抱くように哀愁に満ちた音楽は高鳴っていく。眠い。気怠くてたまらない。内容は今や全く分からなかったが、この音楽はそう嫌いではなかった。頭を凭せ掛けたまま、さやかに瞳を閉じる。気持ちがいい眠りと闇が脳裏に迫っているの感じていた。・・・・・・・・・気怠い。こんな日曜も、たまには悪くないかもしれない。そう思ったのは、膝の上のゆるく温かな人の体温が心地よいせいか・・・・・・・。・・・・・・心地よい・・・・・・・・・・・・?そうか、もしかしたら気怠いのではなく、心地よかったのかもしれない・・・・・。間近から穏やかな寝息と存在の確かな手の暖かさを知る。(・・・・・・・・そう、かもしれない・・・・・・・。)遠くのゆるやかな雨音と白百合の馥郁とした香りを聞きながら。咬はゆっくりと眠りへ堕ちていった・・・・・・。
2006年08月26日
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諸事情のため、しばらく書くことができませんすいません。更新がかなり遅れています・・・・。過去編、始まったばかりだと言うのにっ!!・・・・す、すいません。あまり話も進んでおらず、世界観も詳しく伝わっていないと思います。拙い文章で申し訳ありませんが、なるべく早く続きを書き上げるように頑張りますので・・・・。それでも読んでいただければ、幸いです。8月中には更新する予定です。
2006年08月23日
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(・・・・・・・・・・・・・・・・・。)世界中の全てが死に絶えてしまったかのように。耳がキン、と痛みを感じるほどの静寂の部屋。観音開きの大きな窓と真っ白い寝台。窓から逃げられないようにとの意図を込められたこの塔の天辺の石畳の部屋の中にはその二つしか置かれてはいなかった。(・・・・・・・・・。・・・・・・・白い。)日没前の弱い溶けた岩紅色の陽射しが窓から差し込む中に、ふ、とたった一つだけ異色のものが空から舞い込んで来たのが見えて、寝台に左手を鎖で繋がれていた幼な子は健気にもたどたどしくその身を起こした。(・・・・・・・白い・・・・・・・、白い、花・・・・・?)動きが鎖のせいでままならぬ身体で開け放っていた窓の縁に手を掛け、身を乗り出すようにして繋がれていない片手を空に向かって差し出す。「・・・・・・・・・・・・・・?」空から舞い落ちるその白がまるで自分の小さい手のひらにキスをするように堕ちて来たのを捕まえて、幼な子はそのくっきりした瞳を大きく見開いた。そして再びその手のひらを開き、驚いたようにその白を見つめる。「あ・・・・・・・・・・・。」舞い降りて来てなお、逃げていかない白に、幼な子は初めてはにかむように頬を綻ばせた。その雪のように窓から舞い降りた白は、桜の花弁だった。けれど幼な子は、それが桜だとは知らない。ただ、その綺麗なモノに純粋に惹かれただけだ。そして幼な子はその桜の花びらを宝物みたいにそっと寝台の上に置いて、壊れ物のように大事に扱い、飽きぬように眺める。五歳の時から外に出ることを許されていなかった“彼”にとって、桜は始めて見るに近いものだったから。だがその静寂は唐突に破られた。「やあ。待っていたよ。」その背に突然後ろから揶揄かうように声が掛けられた。“彼”の後ろには窓しかないというのに。鷹揚とした、けれど何もかもに関心がないような大人の悪艶のやどった男性の声。さっきの白が降って来たのと同じような驚きに、幼な子は振り返る。「・・・・・・・・・・・。あなた、誰・・・・・・・?」少し険しくなった瞳を突然の闖入者に向ける。けれど幼な子のその瞳は不審を現しているはずなのに、透徹としているように澄み切っている。全てを受け入れるように、もしくは全てを諦めたように。否、幼な子というよりはもう少年と呼ぶに近い歳かもしれない。「ほぉ・・・・・。いやはや、今回の君はずいぶんとちびっこだね。」“彼”が振り返った先には窓にゆるく身体を凭せ掛け、軽く傾けた背に腕組みをした変わった洋装の男が佇んでいた。その整った容貌に鷹のように鋭いけれど不思議と甘い金色の瞳が“彼”に、有り得ないほど高い塔の窓から現れたという事実も相まって『逢魔が時』という言葉を思い出させる。整いすぎた容貌に謀ったように幻想的に降りかかる夕闇とその有り得ない登場の仕方が男を妖魔のように見せていた。「・・・・・・誰。」愉快犯的な笑みを愉しげに浮かべている男に、今度は幼な子は強い口調になる。「君は?君はどうなのかな。・・・・・・・君は君自身の記憶を持っていると、そう言い得るのかい?」「・・・・・・・・何・・・・?」いぶかしみながらも今自分が抱えている問題を男に指されているようで、幼な子は胸元の服を両腕でぎゅっ、と握り締める。「君の名を教えてくれないか。」「・・・・・・・・・・・・。」「答えられたら君の聞きたいことを何でも教えてあげよう。」再度促される。訳が分からないながらも、人の名を聞くのならまずは自分が名乗るべきではないのか、と思ったことを見透かしたのだろう男は、交換条件でそれに返してきた。答えるべきだ、とは思わなかったが幼な子は律儀に答える。何故かこの男には嘘偽りなく相対しなければいけないような気がしたのだ。「小鳥遊【タカナシ】だ。」「他は?」「・・・・・・・・・・・・・・・。」すかさず返してきた男に幼な子は怪訝とした視線と名とは一つしかないものだろう、という憮然とした視線を返した。それを受け、男は大げさに肩をすくめる。大仰な格好に大仰なそのしぐさは妙にその男に似合っていた。「・・・・・・・まさか本当に記憶が失くしているとは思わなかったよ。・・・・・・・・・・・本当に厭な事をしてくれる。」「・・・・・・・・俺の記憶がない事を知っているのか。」少し目を見開いて返す幼な子に、男は嘆くように白い絹手袋を着けた手で額を押さえる。そのときにビロードのような柔らかな黒に近い茶色の髪が男の伏せた瞳にかかり、幼な子はふと触ってみたい衝動に駆られた。さっき、桜の花びらに初めて触れたときのように。「・・・・・・・・・うん?何かな。」その幼な子の視線に気づいた男は石壁に凭れていた背を離し、幼な子と視線が合うように床に膝をついた。そうする男にまるで警戒心を抱かない自然なしぐさで幼な子はその小さな手で男の髪に触れる。男は少し驚いたように身じろぎしたが、身体を離しはしなかった。幼な子の好きなようにさせている。そうして男の髪を梳いていた手を満足したように止め、幼な子はキツく閉じられていた口元を緩めた。その表情をすると幼な子の雰囲気は柔らかくなり、まるで微笑んでいるように見える。「・・・・・柔らかいな。」「・・・例え髪の毛一本でも君のお気に召したのなら、光栄だ。・・・・・・・以前は君に会いに行けば君に弓矢で射掛けられたからな。」妙にしみじみと言う男の言葉に、幼な子は微かに首を傾げる。「記憶がなくなる以前の俺のことを知っているの?」「うん?・・・・・いや?今生で会うのはこれが初めまして、だね。生憎と。」「・・・・・・?でも、記憶がなくなったことを知ってる。」「そりゃあ、君が私のことが分からないなんて記憶喪失でないと有り得ない。」事態の把握ができないように幼な子は少し難しげに眉を寄せ、問いかけようにも何を問いかけたらいいのか分からないように唇を悔しげに噛み締めた。それを安心させるように穏やかに男は幼な子に話しかける。「大丈夫だよ。すぐに戻る。・・・・・いつから記憶がないんだい?」「・・・・・・・此処に来てから。」「蒐【シュウ】家の屋敷に来てから?・・・・・・・なら、二日前ぐらいからだ。大丈夫。あと一ヶ月もすれば戻ってるさ。君のコレはいつもの年中行事だ。」「年中・・・・・・・・・?」一体どういう意味なのだ、それは。「そうだよ。いつものことだ。・・・・・・・次に私が分かるようになる頃には、今までの君の記憶と共に前世の記憶も戻る。・・・・・・・・・・・君が使命を違えないように。」「・・・・・・使、命・・・・・・・?」たどたどしく言葉を辿る幼な子を見、男は自嘲の笑みを浮かべる。「そう。・・・・・・・・それにしても、君は此処に来てから小鳥遊としか呼ばれていなようだ。それは君の名じゃないんだがね。・・・・まったく、不愉快なことをしてくれる。」「・・・・・・・・・・。」「君の今の名は、氷翠王【シャナオウ】。・・・・・・・・・全てが凍てつき死んでいく世界の雪の名だ。・・・・・・君の御父上は“分かって”おられたようだね。」「・・・・・・・・しゃ、な・・・・・・おう・・・・?」まるで慣れない、刺々しいものを舌の上で転がすようにたどたどしく自分の名を繰り返す幼な子に視線を向け、男はその小さい手元に瞳を下ろす。その手には先ほどからまるで本当に大切な宝物のように乗せられている小さな白い花びらがあった。それを見、男は自嘲の笑みを唇に佩き、何よりも危うげな自分の片翼が歩んできた今までの長い転生の日々のことを思い出した。そして幼な子には聞こえない声で低く呟く。「・・・・・桜、ね。狂い咲きもいいところだな。たしかに綺麗だ。君の好きな花だものな、コレは。・・・・・・・・・・・本当に酷い約束をさせたものだ、君は。・・・・・・君はこんな幼い君までも殺させようと云うのだから・・・・・・・・・。」男のその言葉は、夕闇と共に吹き込んできた風に、千切れて飛ばされていった。
2006年07月24日
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故に、先ほどの台詞になる。『で、蒼炎。お前から見た“アレ”はどんなだ?』その焔蝶の言葉に、『・・・・・・・、健やかな方ですね。』ほんの少しの躊躇いを見せ、それでも、蒼炎は相手を尊重する響きを保ち、こう返した。“健やか”・・・・・・・・堅気ではない限り、それは褒め言葉にはならない。蒼炎も丁重な態度ではあるが、話に振られた相手を褒めてはいなかった。昨日の朝、九年ぶりに会った成長した“彼”・・・・・・・氷翠王の姿を焔蝶は再び思い浮かべる。『ほぉ・・・・・随分大きくなったな。小鳥遊【タカナシ】。』氷翠王という本名ではなく、九年前に侮蔑を込めて“彼”に与えた、他の呼び名である恙【ツツガ】、もしくは小鳥遊【タカナシ】、の内の一つの蔑称で呼ぶ。“彼”がどういう気性に育ったかのかを把握したかったからだ。九年前に与えられた蔑称・・・・・・・たかがそれだけと言えばそれまでだが、だがその蔑称のせいで名を呼ばれる度に真名をワザと避けられ、侮りと蔑みを込めてそう呼ばれる。朱樺家でいた時には、厳しい躾と次期宗主として育てられていたのだ“彼”のこと・・・・・・敬愛する父君のつけた名を我が名として名乗ることもできず、わずか五歳の時から毒のある蔑称に日々堪えてきたとは言え、幼い“彼”には酷い打撃だったであろうことは想像に難くない。その発端を起こした人物が憎くないわけはなかろう。そうしてその本人がまた、その名で呼ぶのだ。蒐家の屋敷に“彼”が移ってきたその初日に。それはこれからも“彼”の呼び名が此処で定着することを示す。激怒して掴み掛かるか、悲しげに目を伏せるか、諦めの表情を浮かべるか、卑屈な追従で擦り寄ってくるか、皮肉で切り返すか、逆に冷笑を浮かべるか・・・・・・・・。色々な思惑の孕んだこの問いに“彼”がどう反応を返すかでその人となりが分かる。例に挙げた一番前なら先を読めぬ愚物、前から二つ目と三つ目なら覇気がないどころか自分のことすら何を成そうともせぬ怠惰ぶり、後ろから四つ目なら論外・・・・・・。これが一番こちらとしては都合が良いが・・・・・・・これなら思う様朱樺の地を食い潰せる。だがこの場合正妻にはせず、朱樺の地に丁重に送り返した後、取り潰すが。後ろ二つなら、焔蝶にとっては面白いが、“彼”の先は失われるだろう。だが、氷翠王の態度はこのどれとも違った。『御目を汚し、申し訳ありません。先の年と変わらず御健勝とのこと、数ならぬ身ながら影より嬉しく思っておりました。』奥ゆかしい、殊勝なその言葉は一歩間違えれば卑屈なものとして映っていただろう。だが、氷翠王の瞳にはまっすぐなまなざしと微笑が浮かんでいて、そのようなマイナスの印象を微塵も寄せ付けはしなかった。見事だった。簡潔な挨拶を乗せる口唇と顔には無表情一歩手前のストイックな涼やかな真顔。肩にも掛からない短い、けれど艶やかな黒髪は細い首に掛かっている。少し長めな前髪はけれど目を伏せた時に瞳に掛かる程度でしかなく。男でもなく女でもないと云われる無性体という割には、見た目は少年には見えるが少女には見えない。恐らく、その涼やかさ故に。綺麗に通った眉と鼻筋。睫は長く、目元に深い影を落としている。それに彩られた瞳はくっきりとしている。色は燃え立つ溶岩のような狂おしいまでの強い紅蓮に、それを押し込めるような蕩ける様な琥珀。その二つが交じり合った瞳は朱金。その激しい二つの色の鬩ぎ合いが、見る者に身体に直接触れられているようなセクシャルな興奮を与える。それらの硬質な綺麗さを与えている顔のパーツとは唯一異なった、少しぽてっとした唇は幼く可愛らしいような、欲情してはれぼったくなった後の何とも云えない艶があるような、危うい色気がある。陽の華やかな印象と、生粋の硬質な綺麗さ、美しさの両方を兼ねそろえた顔立ちだった。それに合いまい、出だしの冷静で丁重な挨拶の切り返しと今まで見たこともない美貌に焔蝶は驚いたが、それだけだった。悪印象など受けようもない、水の澄んだような涼やかさと爽やかさ、高い好印象な若者。だが、代目を継ぐ人物としての印象としては普通すぎた。小奇麗な顔をしたただの子供。これが過不足のない焔蝶の感想だった。そのまま、その日の夜が明けるまで氷翠王と過ごしたがその印象は変わらなかった。曲がりなりにも朱樺家宗主の・・・・・・あの男の血を引いているのだから、こちらの心の臓に響くようなカリスマなり気概なり見せてくれるものと踏んでいたが、肩透かしだった。良くも悪くも普通の若者だ。素直な喋り方と慎み深い面、拗ねたり怒ったり時折照れるような素振りを見せたりという面も、共に時間を過ごせば、まあ、可愛らしくはある。しかし、裏世界の人間をそんなもので従えられるわけもない。だが、あの初めの言葉の切り返しなり、落ち着いた冷静な態度なりを見せられていたので、逆にこのあまりの普通ぶりは演技のように思え、本性を引き出してやろうと押し倒して構ってみたが反応は変わらない。(まあ、俺の身体に傷を入れたのは多少は刺激的だったがな。)左手の親指の付け根を焔蝶は軽くなぞった。硬い歯の感触がよみがえる。意外と咬み痕は深く、血はなかなか止まらなかった。本気で噛み千切ろうとしていたのかもしれなかった。その時を思い出す。その瞬間の時、“彼”の眼に強すぎる色【感情】が宿ったのだ。身体中の血が滾るような。リアルすぎて息の根が止まりそうな強い、色【感情】が。決して、“普通”の子供が浮かべる種類のものではない類の危ういながらも獰猛な“何か”が。だがそれは、焔蝶の氷翠王を見つめる眼差しが険しく色を変えた刹那の一瞬に失せて無くなった。「・・・・・・蒼炎。」それに、幼いながらもあんな波乱万丈な生き方を強要されながら、あの不自然なほどの普通な育ち方はあまりにもおかしいように思うのだ。「何ですか?焔蝶。」焔蝶が名を呼ぶと間を置かず、蒼炎は応えを返す。蒼炎がその柔らかい口調で自分の主である男をクヌギ、と名前を呼ぶのは二人きりの時だけである。長年の旧友である蒼炎に敬称で呼ばれるのが慣れず、焔蝶がそう命令したからだ。その蒼炎に視線を据え、焔蝶は愉しげに笑って見せた。「“アレ”をおまえに預ける。」「・・・・・氷翠王殿をですか。」少し驚いたようだが、蒼炎の穏やかな表情は揺らがない。だが少しは困ったように眉を上げた。そして微かな遠慮も無しに言う。「困りますね。」「だが、断らねぇだろ。」にやり、と笑う焔蝶に蒼炎もにっこりと笑って返した。「ええ。僕は焔蝶の犬ですから。」それに視線を返す焔蝶は実に愉しげだった。「“アレ”をどんな風に扱ってもいい。うちの育ちすぎた愚物の長男はもうどうにもならん。人の性なんざ変わるもんじゃねぇからな。だが“アレ”はまだ幼い。育て直しもできるだろ。」「猛る虎の風格でも、抗えない白蛇の淫らな色香でも、慈愛に満ちた菩薩でもなんでもいい。荒くれ者どもが納得するほどの風格ならなんでもいい。おまえのいいように色をつけてみろ。刺青でも何でもお前好みにすればいい。ただし、愚物と獅子【王者】の風格はいらない。」焔蝶の険しくも愉しげな眼差しは煌々と強い光を宿している。実に、愉しげに。
2006年07月19日
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螺鈿細工や漆器、壁には水晶末で描かれた画が掛けられえもいわぬ静謐な雰囲気を醸し出している室内に襖から射し込む陽射しが、ふっ、と翳った。まるで部屋内の重たい空気を察したように。「で、あの阿呆の部下は何人殺された?」焔蝶【クヌギ】のうっすらと口元に笑みを浮かべた問いかけに、さらに部屋の温度がすうっと下がる。「さあ・・・・・、六、七人、という所でしょうか。」焔蝶の陰惨な空気に負けず劣らず穏やかではなさ気な雰囲気を漂わせながらも、蒼炎【ソウエン】は静かに穏やかな微笑みを浮かべ、応えを返す。只ならぬ空気が満ちている中二人の笑顔だけは本物で、もしこの光景を見る者がいたならそこはかとない恐ろしさに肝が冷える所か腰を抜かしたかも知れなかった。何より、口にしている内容と笑顔が噛み合っていないのが更に恐ろしい。「進退窮まってる朱樺【シュカ】の連中にしちゃあ上出来じゃねぇか。」己の血筋の者が殺されたというのに、手酌で酒を飲む焔蝶の口元に浮かぶ笑みは心底本物だった。数日前になって、行方不明になっていた蒐【シュウ】家の長男の取り巻きである参謀の男たちが死体で帰ってきた。一気に同じ派閥の男が十人近くも姿を消すのが普通でなければ、死に様も普通ではなかった。焔蝶も今朝それを見て来たが、その死体を見ただけで殺した者の思惑が理解でき、その暴挙の意味に堪え切れず哂った。死体を前に哄笑する主を見てしまった部下たちは、さぞ肝を潰しただろう。群れをなす死体共は全て、骨魚のような有様だった。骨と心臓だけを残して血肉を削ぎ落とされて水槽の中を泳ぐ骨魚のように、男たちの死体は全て皮膚を剥がれ肉を削り落とされていた。しかもその切り口は尋常ではなく奇麗であり、部分部分の出血は少ない。恐らく、男たちは身体中を肉を削ぎ落とされるまで生きながらせられたのだろう。骨魚のように。一番最初に見つかった死体だけは鼻を削ぎ落とす特に失敗したのだろう、傷口がいきなり深くなり多量に出血したようだった。だが、彼は一番幸せであっただろう。地獄の恐怖と激痛から最も早く抜け出せたのだから。だが、その後からは手元が狂ったような傷口は見つからなかった。二人目からはそのような失敗は見つからず、あまりに見事な切り口だった。哀れな死に方をした男たちは、全て蒐家の長男の取り巻きである。その顔に焔蝶も蒼炎も見覚えがあった。長男が市井のゴロツキばかりから集めてきた男共はどれも蒐家の宗主である焔蝶や参謀である蒼炎が気に留めるほどの者たちではなかったが、ある事件を皮切りにその全ての人となりを知ることとなった。“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”などという実のある噂が響き渡り蒐家内だけではなくよりによって“朱樺”の地まで届いてからは。長男が相手にしたのがただの村娘などなら問題はなかった。蒐家は何の問題もなく、その件を揉み消しただろう。だが、そうはできなかった。その相手はよりによって、九年間もの間、人質として捕らえていた朱樺【シュカ】家の幼い宗主の御子・・・・・氷翠王【シャナオウ】だった。九年前、朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”である。“彼”を此処に置いているのは大義名分とは言え、九年前の朱樺家との確約の書には“今は幼年の宗主しか持たぬ朱樺家を他家から守るため”とある。条件を拒めば朱樺の地を我らが攻めるという暗なる脅しと共に・・・・・・・・、それを拒める力を宗主とその御母堂を亡くした朱樺家は持っていなかったのだ。そうして朋友の契りを結んでいた朱樺家を、今度は蒐家の国であるという血族の契りを結んだのだ。そうして半ば以上一方的に結んだ契約だが、唯一つ朱樺家が提示してきた条件がある。曰く、“亡父の御形見、現宗主の絶対の無事を約すること”。つまり、氷翠王【シャナオウ】だ。そうして氷翠王が成人するまでの間の朱樺の地を有する権利を蒐家は得たのである。その“彼”の無事を約するどころか、“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”のである。そしてそれに加担していたのが、今回死体で発見された男たちである。しかも長男には隠して、“彼”を輪姦(マワ)していたのだ。とくれば殺された男たちは、証拠など残されていないが朱樺家の報復であろう。そして何より、あの骨魚を模した殺し方は、朱樺の地に伝わっている主に背いた大逆を負った罪人に対する極刑とまったく同じやり方だった。隠しもしないこの朱樺家のやり方は、蒐家に事後の相応の始末の仕方を求めているのだ。今、朱樺家は蒐家の支配下にあるとはいえ、この後の事後処理の仕方を誤れば朱樺家は叛旗を翻すだろう。朱樺衆が今の今まで逆らわなかったのは人質になった宗主の忘れ形見である遺児、氷翠王の無事を慮っていたからである。その保証が今回、長男とその取り巻きの行動によって覆されたのである。“彼”の安全が保証されないのならば、大人しくしている理由は朱樺にはない。一族郎党討ち死にの勢いで蒐家に向かってくるだろう。“鉄の結束”とも謳われた朱樺衆の宗主への忠誠は生半可なものではない。ただでさえ蒐家に鬱憤の溜まっていた上、一騎当千の武者である朱樺衆のこと・・・・・・・、想像に難くない。故に、事後処理と朱樺家への面子のために、九年間朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”をやっと蒐家の本家の地と屋敷に入ることが許したのは、朱樺に“彼”を然るべき対応をし迎えていると知らしめるためである。・・・・・・そうして、もう数ヶ月か数年もすれば“彼”には蒐家の中でも然るべき身分が与えられる。これは決定事項である。こうしなければ朱樺家は納得すまい。その事情がなければ、いまだ“彼”は北の地で監禁されていただろうが、恐らく死ぬまで。だが今や“彼”は蒐家の十二代目候補だ。否、正確には蒐家の宗主の番【つがい】・・・・・・・・・正妻である。神人である“彼”は、女でもないが男でもない。子ができないことを除けば問題はない。すでに我が子が何人もいる焔蝶からすれば問題は皆無に等しい。ただ一つ、問題は、氷翠王の“格”である。妾などなら、そんなものは構わないし、焔蝶は“彼”を中枢に喰い込ませる気など端からなくお飾り程度にしか据える気はないが、仮にも正妻である限り、こっち側の世界の人間たちが動かされない人物では困るのだ。宗主がいない時、その血筋の者を総括するのが宗主の番である正妻だ。要するに、裏で立ち回る賢さはいらないが、愚物にもようはない。“彼”に要求するのは、荒くれ者ばかりの裏世界の人間を納得させるだけの風格か、人を魅了するだけの妖しい血である。頭は回らずとも良い。否、その立場から回られると困る。下手を打てば内から朱樺の血筋である“彼”に蒐家を篭絡されるかも知れぬからだ。だが、代目を引き継ぐだけのカリスマ性だけは欲しいのだ。
2006年07月19日
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「ねえ、何が食べたい?」 「君以外。」 「・・・・・・・・・・・。」 「ん?他の言葉を待っても、駄目だよ。何も出てこないから。 だからいい加減、出て行ってくれる?」 文句の付け所もない笑みを浮かべながら、 彼は舌どころか身体中が痺れて震える毒のみを吐く。
2006年07月19日
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障子越しの柔らかい陽ざしの中、静けさを壊さないよう保たれた室内には更に螺鈿細工や漆器、壁には水晶末で描かれた画が掛けられえもいわぬ静謐な雰囲気を醸し出している。その室の上座に、貫禄のある体躯をした和装の男が端坐していた。男の髪はその肌から滴る血潮のように紅く、腰の辺りまで無造作に伸ばしたそれは豪奢で獅子のたてがみのように見える。上座に端坐していた男は目の前に縮こまる自分の部下を鼻で笑い、おもむろに足を崩して立て膝になった。そうして足を崩して畳の上に坐すと、男のその紅い髪は畳に音を立てて滑り落ちて軽い渦を巻き、獲物を屠った後昼寝にまどろむ獅子の余裕と愉悦の哂いを男は見る者に与えた。そのまま午餐を楽しむように男は間を置き、ここ一週間からの“ある人物”絡みの報告をしていた部下をおもむろに遮り、裏腹の笑みを唇に浮かべた。「・・・・・・そうか。面倒を言ってすまんな。」目元に凄みのある男の笑みは堅気ではない。だがその笑みは、真実紛い物などではなかった。男から見れば小指の先ほどにもみたない蟻が、か弱い牙を突きたててきたからといって、即座に捻り潰すようでは、狭量とそしりを免れまい。男の目の前で怯えている部下は、ただ一度、引き際を間違ったのだ。勝つために闘うならば、勝ち目を失った時点で終えるべきである。個々人を見れば闘う理由は理想であったり、夢想であったり、意地であったり、狂気であったり、自棄であったり、綺麗事であったり、ただの無知であったりした。この愚かな部下の場合は、ただの無知であったのだ。なれば、蟻が自ずから無力さを知るまで好きにさせ、微笑とともに見守る度量あってこその絶対君主であろう。それでも蟻が自らの落ち度に気づかぬ場合は・・・・・・・・、仕方ない、蟻は死ぬだろう。「下がれ。」男は最後通牒を突きつけ、部下は転がるように部屋を出て行った。「・・・・・・焔蝶【クヌギ】様。」部下が下がるのを見計らっていたように、部屋の外から男に声が掛けられる。男・・・・・・・・・、蒐【シュウ】家の宗主である焔蝶は間を置かず自らの参謀に室内に入るよう促した。外に居た黒髪も美しい青年は室内に入ると、その涼やかな美貌を下げ襖の前で丁重に礼をする。先ほどの礼儀も欠いた部下のあたふたとした退出の非礼を詫びるように。そしてそのまま青年は頭を上げない。主の許しが与えられるまでは動かぬ心積りだろう。「こっちに来い。」焔蝶の許しに、青年は顔を上げ機密の話が出来る距離まで詰め、主の正面に座す。「先ほどの者の情報の継ぎ足しに参りました。」ここ一週間からの“ある人物”絡みの報告をしていた先ほどの部下の情報が、情報と呼ぶにもおこがましいほど慎ましいものだったことを青年は指摘せず、悪魔で丁重な態度を崩さない。それを見とどけ、焔蝶は報告しかけた青年の言を遮り、一気に切り込んだ。「で、蒼炎【ソウエン】。お前から見た“アレ”はどんなだ?」「・・・・・・・、健やかな方ですね。」ほんの少しの躊躇いを見せ、それでも青年、蒼炎は相手を尊重する響きを保った。“健やか”・・・・・・・・堅気ではない限り、それは褒め言葉にはならない。蒼炎も丁重な態度ではあるが、話に振られた相手を褒めてはいなかった。その返事を受け、焔蝶はすうっと目を細めた。凄みのある眼が更に凄みを増し、ただそれだけで蒼炎は室内の温度が二、三度下がった心地を覚えた。「・・・・・・・そう思ったのはお前だけじゃねぇだろうがな。」そう言って蒼炎を見据えた焔蝶は、かと思うと話の人物を思い描くように遠くへと眼を這わせた。九年間もの間、人質として捕らえていた朱樺【シュカ】家の幼い宗主の御子・・・・・氷翠王【シャナオウ】のことであった。九年前、朱樺から奪いそのまま今の年の春まで北の地で監禁されていた“彼”がやっと蒐家の本家の地と屋敷に入ることが許され、“彼”の姿を見ることが出来るようになったのは、蒐家のほとんどの面々にとって九年の年月が経った今が初めてだ。その“彼”・・・・・氷翠王を蒐家の中枢に喰い込ませる事を決めるやむにやまぬ事情が出来てまだ日が浅い。その事情がなければ、いまだ“彼”は北の地で監禁されていただろうが、恐らく死ぬまで。だが今や“彼”は蒐家の十二代目候補だ。候補は候補で実際に成るかと言えば、それは零に近いとしても、焔蝶は一つのヤマを“彼”に任せる気でいる。朱樺家の人間であり、いまだ成人の儀も済んでいない“彼”を焔蝶は信頼した訳ではない。その仕事が成せるとも思っていない。だが、これは決定事項でもある。その理由の一つは朱樺家に対する面子だ。“彼”を此処に置いているのは大義名分とは言え、九年前の朱樺家との確約の書には“今は幼年の宗主しか持たぬ朱樺家を他家から守るため”とある。条件を拒めば朱樺の地を我らが攻めるという暗なる脅しと共に・・・・・・・・、それを拒める力を宗主とその御母堂を亡くした朱樺家は持っていなかったのだ。そうして朋友の契りを結んでいた朱樺家を、今度は蒐家の国であるという血族の契りを結んだのだ。そうして半ば以上一方的に結んだ契約だが、唯一つ朱樺家が提示してきた条件がある。曰く、“亡父の御形見、現宗主の絶対の無事を約すること”。つまり、氷翠王だ。そうして氷翠王が成人するまでの間の朱樺の地を有する権利を蒐家は得たのである。ほんの数ヶ月前までこの契約には問題が生じたこともなかった。“蒐家の長男が朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”などという噂が蒐家内だけじゃなくよりによって“朱樺”の地まで届くまでは。
2006年07月03日
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光-----------, 目も眩むような熱。 生-----------, がんじがらめに僕を縛る鎖、絶望、奇しくも希望に彩られた“はず”のもの。 闇-----------, 僕を包み込む唯一つ、優しいモノ。 手-----------, 僕のからだを犯すモノ。 死------------, 僕にだけは与えられない唯一にして最高の“コウフク”。 “ソレ”を夢見る僕を考えただけで“イかせる”モノ。 欲しい欲しくない殺したい夢みたい死にたい 愛おしみたい生キタクナイ放って置いて触ら ないで気色悪い嘘を吐かないで嘘ツキ死んで 傍にいて寄らないで踏ミ込マレタクナイ嫌っ て知らない知リタクナイ逃げなきゃ殺さなきゃ 逃ゲナキャ殺サナキャ逃ゲナキャ・・・・イヤ 愛シテ欲シイ
2006年06月24日
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「紫生【シオ】。君も覚えておけ。今までは会うことも無かったが、これから何度も顔を合わせることになるぞ、“彼”と。」「・・・・・・どういう、ことです。」聡明な意志が伺える彼女、紫生に惨砂【サザ】は面白くもなさげに口の片端を吊り上げた。「“彼”は新しい小鳥遊【タカナシ】だ。」「なっ・・・・・・・・・!?」「いや、“彼女”と言ったほうが良いか?無性体、という人種も呼び方に困るな。上もないし、下も付いて無いから、どちらとも言えない。・・・・・神人にそれも失礼か。ん?外道だったか?」惨砂の身も蓋も無い言い分には耳も貸さず、紫生は惨砂に詰め寄った。「小鳥遊、ですって?“彼”が?何を考えているの。」「蒐家の長男の若君が“彼”に傾倒していることは有名だから知っているだろう?」「ええ。今日見て分かりましたわ。“彼”になら、無理も無い。」紫生があまりにもきっぱりと断定するのを見て、宗主が数週間前から“彼”に施している教育と“彼”の努力は絶大なほどに報われているらしい、ということが分かり、惨砂は苦笑する。「それの後始末さ。」「宗主が自分の物にしてしまえば、いくら若君でも手出しはできない、と?」「ご名答。宗主の物に手を出せば、それがいくら息子であろうとも死罪だ。手を出した次の日にはそこらの川か海に浮いているだろうよ。ばれない限りは大目に見られただろうが、若君は遣り過ぎたんだよ。“朱樺の御子を強姦して、犯し殺し掛けた”なんて実のある噂が蒐家内だけじゃなくよりによって“朱樺”の地まで届くほどには。」「・・・・・なんてことを・・・・。」息を呑む彼女を安心させるように惨砂は続ける。「今は“彼”の身体の状態は良好だ。精神の方はまだ今日が一日目だから分からないが、ね。だからこれからの“彼”に関する検査は精神療法も兼ねている。十分気をつけて遣ってくれ。」「ええ・・・・・。それはもちろん。」はっきりと頷いた紫生はそれでも数瞬の後、キツイ口調で意見を返してきた。「まさか今の“彼”の状態で小鳥遊の役目を?」「だろうな。」そのまま青くなる紫生の様子を見、内心で“彼”は寝所にも一回呼ばれている、と付け加える。蒐家-----------------------。黒曜国からの帰化人の血筋だ、と言うこと以外はその実態を知る者は政治の中枢にもいない。莫大な財力と皓国の政財界、裏社会に絶大な影響力を持つ。そのトップ、・・・・・・・宗主には高額で買い取った男女7,8人の取り巻きがいる。取り巻き、と言うよりは贅を尽くしたペットか。だが、彼らの影響力はそこら辺の貴族などよりよほど強い。彼らは国が一個買えるような高い金を掛けて一流の教育を施される。語学、経済学、帝王学から果ては調香学まで、幅広い知識や経験、作法を学ばせ、それだけではなく男や女の視線を集めるためのありとあらゆる動作や姿勢、仕草・・・・・・・話術、歩き方、宝石や服の着こなし、性技、酒の飲み方や視線の流し方まで毎日念入りに。性技は高級娼婦や男娼まで雇って学ばせる。健康状態も厳しく管理され、発育不良や少しでも体重をオーバーすれば、他に高値で売り飛ばされる。それを待たずとも宗主に飽きられればそれで御仕舞いだが。厳しい教育を受けてきた彼らは総じて、有能で何より人を惹きつけるに長けているので宗主は面倒にならないように売り飛ばす時には彼らを薬漬けにして売春宿に売るか、殺すか、どちらにしろ五体満足で蒐家からは出ることができない。それ故に彼らはしのぎを削って伸し上がる。彼らの仕事場は主に宗主の寝所か夜会だ。一夜会に連れて行けば、彼らには堕とせない者はいない。御高くとまったマダムも御堅い淑女も高慢な紳士気取りも高貴な伯爵も軍人も皆彼らに夢中になる。蒐家の財閥上、政治上の仇敵もそれ本人か、妻や夫、義兄・・・・・・などは企業秘密の書類を喜んで持ち出し、持参する。彼らの蒐家での総称が“小鳥遊”【タカナシ】だ。意味は、鷹がいなければ小鳥は遊べる。故に小鳥が遊ぶ、と書いて、鷹無し、と呼ぶ。鷹は蒐家の宗主、小鳥は彼ら。彼らの境遇を皮肉と哀れみで表した呼び名だった。“彼”が来た翌日にこの名を付けた宗主はその境遇を皮肉って付けた名であったろうが、まさかその九年後に“彼”が実際に自分の【小鳥遊】になるとは考えても見なかっただろう。
2006年06月19日
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「よし。身体機能異常なし。発育も良好だ。」朝の清々しい風が窓から入り込む音を聞きながら、その澄んだ音に混じる医者の声を確認し、伸びやかな素足と上半身を惜しげもなく晒していた若すぎる人物は、眩いばかりの純白のシーツの上に無駄の一切ない動きで体を起こす。そしてその強すぎるばかりの綺麗な眼差しをその人物は促す様に医者に向けた。その眼差しを受け、医者の助手は呆気にとられた様にその人物をぼんやりと見つめていたが、医者本人の方はさすがにそんな様子は見せず、プロフェッショナルな冷静な面をその人物に向けた。「もう行っても構わないぞ。後は一ヶ月に一度検査をするから覚えておいてくれ。」その医者の言葉が済むと、その人物は脱ぎ捨てていた衣服を羽織り簡単に整えると、「ありがとうございました。」若々しい澄んだ声と軽い、けれど姿勢の綺麗な会釈を残し、隙のない身のこなしで部屋を出て行った。微かに残るドアの開閉の音の余韻が完全に消えると、医者の助手を務める十分に若い女性は、感極まった様にゆっくりと吐息を漏らした。「どうした?」医者の男はそれを見て、内心またか、と苦笑した。その言葉に、十分に思慮と分別のある筈の女性は微かに頬を染めた。「あら・・・・・いいえ。お若いのにずいぶんと雰囲気のある方ですのね。今まで貴方に付いて高貴な身分の方々をたくさん診てきたけれど、患者さんにときめいたのなんて、これが初めてですわ。妙に色気が御有りというか・・・・。」彼女が礼儀と敬意を持って言う“お若い”と言うよりあの人物はまだほんの子供だったが、彼女らしい妙に律儀な言い様に医者は今度ははっきりと面に出して苦笑する。稀なる“貴”の血を継ぐ蒐【シュウ】家専属の医者であり、蒐家の敷地内に現代の財力の粋を尽くして作られた研究所兼医療所である此処に来て診療を受けられるのは蒐家の血を継ぐ稀なる者か、よほど身分が高く蒐家に所縁の深い者だけだ。それだけに、彼女もまたあの人物のことを同じ様な身分の者と思ったのだろう。間違いではない、だが、あの人物の場合は著しく他と事情が異なる。ついでに、彼女がもう一つ勘違いしている事を指摘した。「“彼”は男ではないぞ?」惨砂【サザ】の言葉に彼の助手である美女は目を丸くした。「は・・・・・、けれど彼と言ったではありませんか。それに、あの子の上半身は・・・。」「ああ。言ったな。“彼”は男でもないが女性でもないのでね。」惨砂が男と女性、と丁寧に区別をつけた事から彼のこれまでのスタンスが如実に表れていたが、今それを指摘する余裕が彼女にはない。その事に惨砂は面白げに眉を上げたが、彼女はそれすらも気づかない。「!・・・・無性体、ですか・・・?では、あの子が・・・・・・。」「そう。神の子だ。」「あの子が・・・・、朱樺【シュカ】の・・・。」(“神生【カミオ】が誇る外道”、とも呼ばれているがな。)どちらにしろ、その呼び名はあの子の今置かれている窮地を救いはしないが、と惨砂は胸中で毒づく。むしろどちらもが、あの子を地獄に追いやるであろう。今置かれている状況も、あの子にとって良いとは口が裂けても言えない。「しかし、それはおかしくはありませんか?あの子が“そう”なら、彼は蒐家にとって生かさず殺さず、の人質のはず。重症で死にそうだ、というならまだしも、見るからに健康体の、それも検査のためだけに彼にこのような高額をつぎ込むなど、これまでの蒐家の彼における仕打ちを考えれば、こんな裏を表にひっくり返したような待遇はおかしいわ・・・・・・。」それは彼女の言う通りだった。長い間続く朱樺家は宗主であった男とその父の死で滅びかけ、その両名の死後朱樺家と盟友であった蒐家は朱樺家を裏切り、当時まだ五歳であったその宗主の子を奪い、今までの九年間人質としての生活をこの蒐家の敷地で送らせていた。この間の朱樺家と家臣の状態は悲惨で、宗主とその父が亡くなった今、唯一の跡継ぎである幼い当主すら蒐家に奪われ、なまじ勇猛と唄われる朱樺家の武将だったばかりに、ほぼ毎日のように蒐家の戦に借り出された。敬愛し忠を尽くした御当主の形見である時期宗主を人質に取られているため刃向うこともできず、その時期宗主の御子が成人し再び自分達の領地に帰参することだけを夢見て、日々多くの家臣が戦で死に、土地に残されたのは若い男を除く、老人や女、子供で田畑を耕すことすら覚束なかった。その朱樺家代々の土地すらも大半を蒐家に奪い取られていた。それだけではなく、かつて朱樺家の臣下であった蒐家の者の朱樺家への侮りは凄まじく、蒐家の武将など戦帰りに夜中、朱樺家の参謀であった重鎮の屋敷に土足で大挙して踏み込み、女を物色する有様だった。挙句の果てに朱樺家古参の重鎮の実の娘にまで手を出す有様だ。唾を吐きかけられるのも稀ではなかったと聞く。その重鎮の屋敷までこうなのだから、他の朱樺の者の元は想像に難くない。普通なら『勇猛果敢でありかつ、獰猛』と謳われる、もしくは嫉妬と羨望、嘲りを込めて『猪武者』と囃される朱樺衆の武将たちのこと、反撃に血の惨劇が待っていても可笑しくはなかったが、朱樺の武将達は有り得ない程沈着に冷静さと大人しさを引っかぶっていた。否、内心は腸が煮えくり返る思いであっただろう。だが、それを朱樺の武将は表に出しはしなかった。皆が半ば畏怖を持って謳う言葉の通り沸点があまり高くなく凄まじい反撃をすぐさま討つと知られていた朱樺の武将にしては不気味な程大人しかった。何の報復もせず、朱樺の者は蒐の者の仕打ちに従順で一言も逆らいはしなかった。武将の矜持を何より大事にする朱樺の者にしてはそれは有り得もしないほどの許容だった。惨砂の聞く所によれば、宗主の御子が人質に取られたその日に朱樺の者全員に戒厳令が走ったらしい。曰く、『己を犬と思え。』、と。『常に腰を低く這い蹲り、面を地に伏せよ。激怒と憎悪を彼奴等(きゃつら)に曝すことはない。蒐家の者共は我らに如何なることをも要求するであろう。だが怒らず、逆らうな。憎き蒐家に足を舐めろと言われれば、足と言わずナニでもしゃぶってやれ。何も考えるな。今日から我らは犬だ。畜生でなければならぬ。我慢ならぬと思う時は“己は犬だ。畜生だ。”と言い聞かせろ。そして“人でありながら獣の精神である目の前の奴等よりは何よりマシだ”と思え。我らが今は亡き君といまだ幼き宗主、御子の御為ぞ。皆、今は忍ぶ時ぞ。・・・・・御子が御成人なさるその時こそ・・・・・・。』、と。そして今、それから九年も経つが未だ蒐家に無礼打ちされた朱樺家の者もいなければ、朱樺の地を逃げ出した者もいなかった。そしてその鬱憤を晴らしているのか、捨て駒のように連日続けて戦に投入される朱樺家の働きぶりは修羅か羅刹、鬼神の如く凄まじかった。あの戦闘兵器である“守人”と比べても遜色なく、憎悪でも振り撒いているかの如く血溜まりの中を走り、共に戦っていた蒐家の武将の死体すら踏み躙り、己の武器が折れれば敵の得物を奪い取り・・・・・・・。なまじそれだけに、美しい人形然とした守人は畏怖を感じさせるが、朱樺の武将の戦いぶりはそれより失禁するほど恐ろしかったと見た者は言った。現に敵に回った者は戦から引き上げれば二度と戦場に立てぬほど精神をやられていたし、敵方の死体の数は戦を始める前の兵の数の六分の五以上ほどにも上った時もあった。反して蒐家と朱樺家の陣営はほとんど被害は少なく、死人は大半が蒐家の者だった。もしかしたら、戦のどさくさに紛れて朱樺の武将が背後から蒐家の者に切りかかったり、盾にしていたりするかもしれない。朱樺の武将の戦いぶりは、蒐家の者が『これが普段、あの子猫のように大人しい朱樺衆か?』とのたまうほどであった。惨砂も戦に従軍していた医者であるからその様子は良く知っている。また、あの戒厳令の話を聞いた時は朱樺家のあまりの忠義に声も出なかった程だ。これほどに忠義に厚い臣下を持つことがどれほど奇跡のようなことか、いやよほど亡くなった宗主が素晴らしかったのか。その宗主の御子が、今、ほんの少し前までこの診察室に居た“彼”である。名は、氷翠王【シャナオウ】・・・・。だが、この場所ではその名が呼ばれる事は滅多に無い。蒐家の宗主が“王”の付いたその名を蛇蝎の如く嫌ったからである。他の者が“彼”のその名を呼ぶのさへ嫌った。そして侮蔑を込めて、蒐家の宗主は氷翠王に他の呼び名を与えたのだ。恙【ツツガ】、もしくは小鳥遊【タカナシ】、と。恙の意味は、禍つ事。古の話の中で『事に触れて、我が身に恙ある心地する』と出ているのを揶揄したもの。鬼念が宿り毒気を振り撒くようになった“彼”の朱金の色に変わった瞳のことを悪意を込めて言い換えたのだろう。小鳥遊は・・・・・・・・・。そこまで思い返し、惨砂は助手である彼女に目を向けた。ここ数週間で蒐家における“彼”の立場はかなりの変化を遂げたのである。
2006年06月19日
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静謐な空気の中に、侵略者のような降雪の音を聞く。微熱に火照った身体に張り付く薄い絹の、ただ素肌に羽織っているだけの白い布は防寒の役目を果たさない。故に氷翠王【シャナオウ】の身体を凍る夜気から守るのは広い寝台の沈んでしまいそうなほどに柔らかなクッションと身体を覆う羽毛の布団だけ。・・・・・・・・・だが。いきなり隣に入って来た熱に、羽毛の布団に包まるようにして眠っていた氷翠王は泡沫から引き起こされそうになって、おさな子のように少しだけむずがるように頬をクッションに擦り付けた。嫌だ、というように。その動作に、引っ掛けてあっただけの白い絹の浴衣がうつぶせの首と肩を滑り、素肌を露わにする。それに気づき、深夜の侵略者は細い息をつき、剥き出しになったなめらかな肌に浴衣を掛け直す。「・・・・・・・・・あ・・・・?」その微かな動作にも氷翠王は眠りの中でも気づいたのか、むずがるようにうつ伏せのまま自分の頬の下のクッションを縋るように握りしめ、いやいやと首を振る。「・・・・・嫌、・・・・・・だ・・・。」何が嫌なのか、それが眠りを妨げられることへの不満なら微笑ましい、と言えないこともないが、それにしては氷翠王の苦しげな表情がそれを裏切る。先ほどまで、冷気の乱れ零れる寝台の部屋の空気に震えていたはずの氷翠王の身体は薄っすらと汗をかいている。微熱が一気に熱を上げたかのように。いつになく無防備な氷翠王の気は、いつも本人が意識してセーブしているのに今はそれすらもなく、垂れ流しになっている。毒のような、その芯から横溢する気の輝きはまるで、ぶわっと灼熱が燃え立つように見える。いつもは静謐で穏やかな氷翠王の様子からは見て取れないほど、その気は見る者に一秒だって息をさせないほど残虐なほど燃え立つ。表情も、いつもとは違っている。厳しい表情ではなく、普通に眠っているようなのに、何故かその菩薩のように慈愛に満ちたいつもの様子ではなく、絶対零度の人のように。そう表現するのが的確なように思えた。どんなになっても、誰もが堪えられずに死んでしまっても、この人だけは絶対零度になっても生き残る、最後の人のように思えた。乱れる黒髪に、滾る金のオーラ、不屈の意志を表す唇は静かに引き結ばれている。 何をも縛ることなどない、できない人に見えた。 誇り高いこの人はそれだけで死を選ぶであろうと思えた。 血反吐を吐き、途方もない孤独にその身を震わせながらも、一人立ち続ける人であるように見えた。眠る氷翠王の姿は、まさしく勝者であるように見えた。いつもの氷翠王からは想像できない残酷ながらも美しい気。この姿が、深夜の侵略者には不穏に映った。 「氷翠【シャナ】・・・・・・・?」侵略者はそっと眠る氷翠王に声を吹きかける。甘やかな少女の声が寝台にゆっくりと妖しく、けれど美しく響いた。氷翠王に覆いかぶさるようにのぞきこむ少女の容貌は声と同じほど、妖しく、美しい。年相応とはかけ離れた老成した怖い意志を宿す瞳は、夜の暗闇のなかでも綺麗に分かるほど瞬く。10歳の少女は、・・・・・・・・・・紅丹【ボタン】はゆっくりと微笑んだ。それでも目覚めない氷翠王に、愛らしく、小首を傾げながら。少女の白銀の髪は月光を綺羅綺羅と撥ね返し、血の青い筋が透けそうなほど白い肌もそれと同じ風情を感じさせる。相反するようにそっと紅に濡れた口唇が、はんなりと美しい。思わずこちらがゾッとするような感情を宿す瞳は、目が覚めるような湖面の碧。とても十歳には見えない。その少女の貌は神の悪戯のように恐ろしいほど整い、肌や瞳、髪の色と相まって人形のような冷たさと無機質さ、小奇麗さを見る者に与える。その少女の唇が見る者に一種の怖さを感じさせるように涼やかに笑みを孕んだ。「・・・・・・ごめんね?ずっと、全部聞いてたわ。・・・・・・・どうしてあんな男にあんなことを?・・・・・まあ、どうでもいいわ。邪魔になったら、殺すから。」歳相応の愛らしい少女の声には不似合いなほど物騒な色が滲んでいる。その声には本気しか含まれていない。真性の殺気を紅丹はその瞳に浮かべる。何を確認しなくとも判る。本気だ。しかも愉しい事に、紅丹にかかればこの手のことは実現不可能なことではない。紅丹は、【守人】だ。守人は貴族の護衛と言うべき者達のことで、立ち始めた頃には剣を握らされ、暗殺業、正当な武術を全てたたき込まれる。また、その血故に神懸かった力と容姿を持つ守人は、その度が過ぎた強さと美しさのため、堕天した神の御使いと呼ぶ者すらいるが、一騎当千を地でいき、死すことを恐れず、腕が千切れ、受けた傷から内臓が飛び出ようとも何事もなかったかのように単身戦い続ける彼らはまさにそう評するにふさわしいものであっただろう。六歳から九歳ほどで戦場に出される守人達は子供であろうともその強さは比類ない。その守人である紅丹が言うのだ。洒落にもならない。それでもいったん殺気を消し、思い出したように言葉をその紅い唇に乗せる。「雪花【セッカ】と話をしたわ。・・・・・・雪花、とても驚いてた。何で氷翠が雪花の心がそんなに分かるのか。」その声にゆっくりと氷翠王が伏せていた瞳を開ける。それはかなりの突然だったが、何時から起きていたのか、それすらも知っていたように紅丹は氷翠王をのぞき込み、泣きたくなるほど柔らかい声で聞いた。赤子をあやすように。「ね?ずっと、“知ってた”から?・・・・・ずっと、自分が昔に思ってたことだから?だから、知ってた?・・・・・・・・ずっと、痛かった?」紅丹の言葉に氷翠王はよく見ていても分からないほど微かに首を横に振った。否定。紅丹が何を言っているのかは直ぐに分かったが、それ故に容易に頷くことはできない。氷翠王の十三年にもわたる人質生活の時のことを言っているのだ。雪花を襲った境遇と、氷翠王を取り巻いた環境は奇しくも似ている、と言えたものだったから。その言葉を肯定することはできない。なぜならそれは自覚を促すほどに正しい。そしてそれは簡単に自分の首を絞めることになる。そして決定的。そうした自分は求められていない。そのことを氷翠王は誰より知っていた。この思いも口に出すことは叶わない。このことを自分から認めて口に出すことはできない。許されてはいない。紅丹は氷翠王の研磨された宝石のような瞳を見つめた。何も返さぬ氷翠王の頭を小さな胸に抱き、紅丹は呟く。「ね?殺しちゃってもいい?氷翠を泣かした奴等。」「紅丹・・・・・・・・。」微かに目を見張る氷翠王の言葉を遮り、紅丹は続ける。「氷翠はいいのよ。私は氷翠の味方だから。氷翠が何をしたって全部許す。狗王【クオウ】みたいに説教なんてしてらんないわ。」未だ十歳の紅丹が朱樺【シュカ】家が続いて以来の忠臣である血筋の稀なる忠義の参謀のことを事も無げに切って捨てる。「氷翠が今、そいつらのことを許してるなら、それでいいのよ。私は何も言わないわ。氷翠がそう思ってるならそれが一番大事だから。後のことなんか、私は知らない。」何処までも優しい慈母のように紅丹が声を子守唄のように紡ぐ。けれどその言葉に宿る意志はマグマのように熱く苛烈で激しく、一片の嘘偽りもなかった。「ねぇ、氷翠・・・・・・・・辛い?」その問いに氷翠王は首を横に振る。辛い、とは思わなかった。もう過去の事だ。悪夢は追って来ても、未練も後悔も憎悪も追ってはこない。人として見られているかも怪しかった人質時代は、苦しかったが恨みは後を引かなかった。一番大事な“唯一”がこの胸を焼くから、蒐【シュウ】家の仕打ちなど何の意味も為さなかった。朱樺の地が無事ならば、どんなに苦しくても他は何もいらなかった。それを素直に言葉に乗せる。「いや・・・・・・、辛くない。」(何も。)今抱えている生まれてから十九年間の血反吐を吐く様な苦しみも努力も、怒涛の様な祈りも苦痛と悲痛の涙も、突き上げる様な渇望と硬質のダイヤモンドの様なプライドも、氷翠王の身体中を駆け巡る氷翠王自身の魂の激烈な光の渦と悪流もそれらを全て抱えいても、氷翠王は心からそう言える。この手に残っているものが、自分の誇りだ。あとはどうでもいい。この誇りだけ在れば、この身は生きている。(これだけあれば、俺は生きていける。)何も、いらない。欲しくはない。安らぎなんて、俺は欲しくない。どんなに苦しくても、どんなにか孤独でも、その寒さに凍えていようが、今、この時点で氷翠王の手を離れている朱樺の地が、氷翠王の欲しかったもの。自分の手の中になんか無くていい。他の地の干渉を受けず、美しい地をさらす“暴君”。それが氷翠王の知る朱樺の地だった。“アレ”が、あの姿が欲しかったのだ。死んだ古神の力をそこかしこに残し、謹直と閑寂な暮らしを誇る慎ましい土地。けれどその朱樺の地は、幾重もの“理想”を厚塗りし、唇の端でたがの外れた欲望と醜悪な本能の含み笑いを漏らす皓【コウ】国と言う“王者”の中にあっては“暴君”であった。否。皓国は王者ではなく、“楽園”か。どちらにしても、偽りの朽ち掛けた“神”の御意志が何にはばかることなく君臨していることは間違いなかった。“神”とは実存の三神のことではなく、その神の存在の意味を好き勝手に解釈し、膨大な“民”という名の“贄”を手に、欲望と言うカンフル剤を得て肥え太った醜悪な“貴族”【ブタ】のことである。“それ”は自らを『神に守られた国』と驕り高ぶり、謹直と閑寂な暮らしを嘲笑う。その“ブタ”の中に在りながら、朱樺は気ちがいのように色が違った。あの地に他の手垢がつくのは阻止したかった。そうして今は此処に居る。“唯一”が再びその姿を甦らせたのに一体何が辛いことがあるというのだ。しっかりと不屈の瞳を上げ、横たわっている真上から覆いかぶさる紅丹の瞳を見つめ返す。「・・・・・・・・・・・。」その頬に、氷翠王はゆっくりと手を伸ばした。そして触れる。温かな血の通うその肌に。紅丹は氷翠王のことだけを真っ直ぐに・・・・・・、真率に見る。氷翠王にだけだ。紅丹がこの瞳を見せるのは。紅丹のその瞳は、無意識ながらも氷翠王の傍らにしか現実の世界に帰る場所がないという事に、心の奥深くで大きな闇が出来ていることに紅丹はまだ、・・・・・・・・・。気づかない。その色を見て取って、氷翠王は瞳を閉じた。「もう、寝よう。」「一緒に?」すかさず聞いてくる紅丹の身体を抱くように引き寄せ。「一緒に。」その言葉に紅丹は満足げに頷き、ゆっくりと羽毛の寝台に入り抱きついてくる。しばらくするとその十の少女から安心したような寝息が聞こえてくる。それを聞き、氷翠王は閉じていた瞳を開き、紅丹を見遣る。そしてその髪を撫でてやりながらも、少女には聞こえない言葉を唇に乗せる。「・・・・・・・生きていけるのか?」-----------私なしで・・・・・・。その言葉は届く前に降雪の夜に沈んで逝った。此処は。片翼のもがれた鳥の居る所。誰もかもが何かを失い、その重みに飛べぬ者ばかりが居る所。未だ飛べぬ空を夢に見て仰ぎ見る、一時の休息の場所。(地獄ノヨウナ)けれど、まだ終わっていない。全てが。だから今は夢に見よう。閉鎖された空に鳴る、雪啼き空に、啼きながら。憐れな強い、小鳥たちよ。 雪啼き小鳥:完
2006年06月12日
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*“嫌いな理由”の続き 「年がら年じゅう夜だったらいいのにな。」 「どうして?」 「寝放題だろ。」 「なるほど。」 そうだろうね そうすれば君は二度と現実を見なくても済むのだから (逃げたいのならいっそ、泣き喚いて縋ればいいのに。) (それすらもできないのなら、逃げたいと思う資格すらないと、 誰も思わない?) 君が僕なら、 砕けるように叫び続けることを、 選んだだろう (僕は、安らぎなんて、欲しくはない。) 願うのは、 ただ一つ、 ほんの、一つであったのに (だから欲しい。) (彼が欲しい。)
2006年06月08日
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「ん?もういいのかい?随分早いじゃないか。」氷翠王【シャナオウ】の自室から出て、離れに自分に用意された急ごしらえの客間に良将が戻ると、大人の男の余裕が厭味になる一歩手前まで溢れかえった腰にくる低い声に迎えられた。男は良将と同じ船に乗る航海士だ。皓【コウ】国と大陸を二分する黒曜国には、自国の紋章を象った旗を掲げる私掠船の存在が有名だった。簡潔に言えば、海軍とは別に国王陛下が掠奪を認めている海賊たちのことである。鎖国を旨とする皓国とは異なり、黒曜国は海に通じさかんに他国との貿易をし、かつ海を越えた領土の拡大を着々と図っている。黒曜国の海軍は無敵と謳われるほど世界では恐れられていた。そのトップに君臨すると云われるのが、黒曜の海賊であった。良将は、その中の船の一つを任されている人物だ。安騎良将【アキ ヨシマサ】、と云われれば知らない者はそうはいない。その良将と同じかそれ以上の知名度の持ち主がこの男だ。今回の航海を終えた後、共にこの【禁足地】に寄ったのだ。「ああ。随分と疲れているようだったから。」良将が男にそう返すと、男は笑い、甘い声音とは裏腹な苦すぎる言葉を吐いた。この男の容貌や眼は鋭いに過ぎ、獰猛さを通り越して憎悪さえ宿すように怖い形と線を引くのに、この男は肉厚な唇だけは甘く見える。野性的な美貌と危険な雰囲気を漂わせるこの男に、そこだけが甘い唇で耳元で優しく囁かれれば堕ちない女はいないのではないかとさえ良将は思った。「甘いね。」この男の言葉には、『俺なら見逃さずに責めてやるのに。』という甘さにも似た残酷さの意味を孕んでいる。言われずとも分かる。氷翠王のことだ。この男はそのまま良将が放置してきた氷翠王の状態のことをなじっているのだ。氷翠王に会いに行ったのが良将でなくこの男だったなら、あのままの状態を継続させるような真似はせず、傷口を抉るように突き上げてでも追い詰め、仕舞いにはせがむまで泣かせてでもあの思いつめたような氷翠王の唇を溶かすだろう。この男なら、溜まり切った膿みも全部、吐き出させてしまうに違いない。けれど、良将とこの男ではやり方が違うのだ。良将はそんなことをするつもりは欠片もなかった。「なら、どうしてお前が会わないんだ。」「取り返しがつかないからだ。」どうでもよさそうに投げ捨てる男の言葉の意味は、聞かずとも分かった。取り返しがつかない。そう、もう隠しようもない。『見ると、殺したくなる。』以前、この男は言った。その意味が分からなくもない。だが、それを願ったことは一度たりともない。「斎賀【サイガ】。」男の名を呼ぶと、彼はこちらを見、眼だけで笑った。「ん?甘くていいけどね。俺には。」そして一言だけを投げてくる。それだけでは分からない、と眉を片方上げると斎賀は言葉を付け足した。「お前のそういうとこ-----------相手に何にも知らせずに無償の奉仕をするとこ、なんでも自分ばっかり辛くなって、馬鹿だなって思うけど。・・・・・そこも俺は好きだけどねぇ。」斎賀はいったん言葉を切って、少し声を低くした。「口に出さなければ伝わらないこともある、と思わないか?」斎賀が言っていることが何を指しているかは分かった。「これからもずっと、自分の働きを見返りにして黒曜国の此処への関心を逸らすつもりなのか?」「んーー、此処でその話はやめてくれないかな、聞こえるだろ。せっかく秘密にしてるのに。」その言葉を良将はふざけたほど飄々とした風情でわざとかわそうとした。何の気もないように。ふざけたような口調と声に混じる語尾の甘い響きは良将の常だった。斎賀がそれと同じように。従兄弟でもそれなりに似るらしい。やはり血は水より濃いのだ。嬉しくないことに。たぶん、同じことを思っただろうが、斎賀も良将もそれを表には微塵も出さなかった。「黒曜が此処に手を出さない代わりにお前に要求していることを氷翠王に知らせないつもりか?どこまで食い込んでんのか知らねぇが、お前が黒曜の海賊なんてやってるのもそれが要求の一つだからと、黒曜の動きをなるべく早く掴むためだろう?・・・・・・健気だねぇ・・・・・・・、お兄ちゃんはとても無理だ。」自分を指差し、わざとっぽく自分のことをお兄ちゃん、とのたまう斎賀に良将も柔らかくて人好きのする、けれど胡散臭い笑みを浮かべた。「まあねぇ。ん・・・・・、権力ってやっぱり色々必要なのよ。黒曜のお偉ら方抑えたりすんのには。まあ、持ちつ持たれつ?」それだけではないだろうと、斎賀は内心言葉を返した。朱樺【シュカ】で叛乱が起きてから三年。それを皮切りに“神生”(カミウマレ)の血筋である朱樺絡みの情報は黒曜国にただ洩れになった。それについても全て良将が動く羽目になったのではないだろうか。それから三年、今に至るまで良将の言う所の見返りを求められなかったわけはない。良将が差し出したのは財力、人脈、頭脳・・・・・それらだけではないだろう。朱樺家と番【つがい】である血筋の血を売ったのだ。即ち、自分を。そうでなければ、黒曜を留められまい。その斎賀の視線を受け、恥ずかしいとでも言うように、または居心地が悪そうに視線を逸らし、良将は柔らかく誰かを思い出したように声のトーンを変えた。その大人びた顔が、年相応の青年の顔になる。誰を思い出したかなど、聞かずとも分かっている。「言っただろ。俺は邦友さんだけ大事にしてるって。けどその邦友さんが大事にしてるものなら、“ここ”もやっぱり俺には大事。」氷翠王のことを正式な名がつく前につけられた彼女の叔父の名と同じ名・・・・邦友、で良将は今でも呼ぶ。「邦友さんは許容範囲を軽く飛び越えたものでも、無造作に抱こうとする。そしてあの人の凄いところは本当にそれを成し遂げるところだ。あの人は想像を絶する苦境に合う度、強くなる。限界がないんだよ、信じられないことに。何が起こっても、あの人は限界の線を越える。ギリギリの水面張力のところまで水が入っていても水が溢れそうになれば、あの人の器はまた深くなる。考えられないくらい。そんなことは不可能なのに。けれどそれができる人だ。“それ”をする人だ。だから誰もあの人にはかなわない。」「それは、知ってるな。忌々しくなるくらいに。」「うん。・・・・・でも、それに比例してあの人の精神は刹那的で危うい。当たり前だ。邦友さんが限界を知らないのは邦友さんが限界を自分に作らせないからだよ。だから邦友さんは何にも甘えを許されない。何にも甘えられない。脆弱の精神も、素直でずるい保身も、あの人には許されない。・・・・・・そんなあの人を知れば誰も認めないだろうけど。」むごい事実を良将は口にする。彼女の周りの人間に対する非難をこめて。「だからあの人は刹那的になって誤魔化している。これは嘘だとあの人は知っているから。」今日、この夜に、有家清綱【ありえ きよつな】が氷翠王に直接断罪した言葉を良将ははからずしも口にした。「・・・・・・・・・・・。」それは真実だろう、と斎賀も口を挟むことはしなかった。「でも、それでいいから。」何もかも溶かして許してしまうような強さを滲ませた優しい声で良将は言葉を静かに続ける。行動の芯は似ているが、自分とは正反対の良将の優しさに斎賀は思う。自分が傍にいたならあんなふうになるまで氷翠王を放っておきはしなかった。だが、良将が・・・・・・・否、こんなにまでする者がいたならば、また、氷翠王がこんなになることはなかっただろう、と。「そういう厄介なのも、邦友さんだって知ってるから。・・・・・・あの人から、何一つ取り上げる気はないよ、俺は。」此処のことだけではなく、全てを抱えたままでいい、と良将は笑う。「伊達や酔狂でここまで付き合ってきたわけじゃない。」「このままいけば、あの人は壊れると思う。邦友さんの強さは疑っていないけれど。でも、壊れる。それをあの人が望んでいるから。生きて生きて生き抜いてから死ぬことを邦友さんが選んだから。邦友さんは妥協なんてしないから。だから俺は止めないし、もう何も言わないって決めた。もうそれは邦友さんの生きる理由だから。」できることは、あの人が死ぬまであの人の邪魔をしないことだと言葉にその意味を良将は乗せる。この時点で良将は氷翠王のすることを止めないし、死ぬまで何もしない、とつまりは氷翠王が壊れることを妨げることなく容認し、放置する、見殺しにすると言ったのだ。それは一見薄情で非情なように思えるが、違う。良将の声や表情には慈しむような深い愛情が満ちていることが分かる。氷翠王一人を愛するだけではなく、その胸の中で想うもの、それすらを受け入れて全てを守ると言っているのだ。良将が自分の身を呈して黒曜から此処を守っていることにもそれは表れている。そしてそれだけではなく、良将が氷翠王の唯一つの望みである、朱樺家に戻る、という願いのために朱樺家や蒐【シュウ】家に接触し、今は自由に出入りを許されるようになったことも斎賀は知っていた。「邦友さんのことは止めない。でも、邦友さんが自由に身動きができないんなら、捨てられないものが多すぎるなら、それごと抱えるのはとっくに俺の中で織り込み済みだ。それに、あの人の道に降りかかる火の粉は、ある程度、打ち払ってやることができる。」「禁足地のことで問題を抱えてるんだったら、原因をなくしてやればいいし、・・・・・・有家を見ていて辛いなら、ほとぼり冷めるまでどっか行かせりゃいいと思って黒曜への手配もしてやった。」良将は暗に黒曜の禁足地への注意を逸らしたことを言っている。それだけでなく、あの当時、良好とはいえない冷たい憎悪さえ互いに覗かせる関係に陥っていた有家と氷翠王のことさえ言った。あの有家が氷翠王の下を離れたのは良将のためだったらしいとさえ知らされて、斎賀は大声を上げて笑い出しそうになった。よくぞ、ここまで、とさえ思う。たかだか十八歳の男の愛し方とは思えなかった。ある意味、老成している、とさえ言える。四十を過ぎてもここまでの愛し方ができるものはそうはいないだろう。どうしてそこまで、と聞けば、『愛しているから。』と単純明快な答えが返ってくるだろう。面白いから聞いてみようと、震える肩を必死に宥めながら斎賀が聞くと、「どうしてそこまで?」今にも笑い出しそうな斎賀の雰囲気に気がついたのだろう、良将は少し不機嫌に眼差しをキツクし、「愛しているから。」やばい。可愛い。半ば生まれて間もない無邪気な赤子を見るような気分になりつつ、斎賀は堪え切れずに吹き出した。それを見、言い過ぎたと思っているのか良将は苦笑して自分が前に告げた言葉を全て軽くするために声を向ける。「誰が想ってるよかずっと、俺の愛は深いぞ。」ふざけた良将の口調はそれを冗談にしようと思ってのことだと斎賀には分かった。この気遣いも、年相応のものではない。本当は軽く、五十でもいってるんじゃないのか、と言いたくなるのを抑え、その気遣いの意味が分かったので斎賀も半ば以上ふざけた気分で・・・・・・否、言葉どおりの意味は本気で返した。「・・・・・・というか、深すぎて誰も気づかないんじゃないか。」言わなければ分からないだろう良将のこれほどまでの丸抱えの愛情は。こんな愛し方をできるのは他にはいないに違いない。その証拠に良将は次に言った。「いいんだよ、それで。気づけば、邦友さんは困るだろ。だからこれでいい。」瞳を柔らかく笑ませて良将は笑った。
2006年05月28日
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残酷というもの それは。 休日明けの朝、月曜日の約束。 睡眠不足の脳みそに沁みる激烈な太陽。 うっとおしい、その他すべて・・・・・・。 そして。 一番に僕をころすものは。 罪のない君の気のないそぶり。 “愛しているのに。” けれど。 “愛している”の言葉の後に、 “のに”と“から”のくだらない付属物が必ず付くのは。 どうしてなんだろうね?
2006年05月20日
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*“好きって云って”のその後 反吐がでるよ。 そのはっきりとしない様。 “愛してほしい”と無知な傲慢さでキリキリ、とゾッとするほどの ヒステリックさでわめき。 拒絶されようものなら、意味不明の嘘を吐き(それも自己保身のための)、 馬鹿のように走って逃げていった。 愛しているとほざくなら、 せめて。 みっともないほど泣いて縋って見せたらどうなんだい? 虚栄を捨て切れず、受け入れてくれと相手に希(こいねが)うことすらできないなんて、 きみは僕を馬鹿にしているの。 一緒に血にまみれる事もできないくせに、“愛”だなんて、笑わせる。 いっそ欲しい、と欲しくて欲しくて堪らないとわめいたらどうなんだ。 そこまでして、泣き死ぬほどに血の涙を流したのなら、 僕はきみに一生の“愛”を誓ってもかまわない。
2006年05月11日
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こちらが眠っているだろうと分かっているはずなのに、一寸の遠慮もないノックの音に、氷翠王は眠りから無理矢理引き摺り帰された。一瞬、夜食を用意してくる、と部屋を出て行った千波【チハ】かと思ったが、彼はこんなに乱暴な起こし方をしない、と思い直す。だとすれば誰なのか。・・・・・・・思い当たる人物が多すぎて、氷翠王には判断できなかった。少しの間を置いて意識をはっきりさせた後、部屋のすぐ外に待つ人物に声をかける。「入っていい。」偏頭痛のするこめかみを押さえ、一瞬目を細めるが、それも入ってきた人物を見て寸分忘れる。「・・・・・・・・良将【よしまさ】?」驚く氷翠王に、相手は大型犬が尻尾を盛大に振っているように嬉しげな顔をして笑いかける。「ん。ただいま、邦友さん。」氷翠王のことを正式な名を貰う以前の名で呼ぶのは、今はこの人物しかいない。他の者は、氷翠王の父が便宜上とはいえ自分の弟の名を氷翠王に与えたのが気に入らないのだ。父の弟であった朱樺邦友【シュカ クニトモ】は稀な才を有していたが、碌な死に際をしなかったので。にっこりと昔の名を呼んで笑む良将に、氷翠王も歓迎の意をこめて微笑みかける。「おかえり。」「うん。俺がいない間も元気だった?」言いながら良将は軽い抱擁をしてくる。これはほとんど儀式に近いものだった。再会した時と、別れる時、良将は必ず忘れることなく抱擁をしていく。接触はそれのみ。あとは迂闊には触れてこない。それを大人しく返しながら、氷翠王は柔らかい視線を向けた。「何時?」「ん?」「何時帰ってきたんだ?」頬にあたる髪がくすぐったく思え、氷翠王は目を細める。それを面白げに見返しながら良将は目元を笑ませながら、返事をしてくる。「ついさっき。本当は明日の朝船でこっちにつく筈だったんだけど、思ったより早くついた。」「黒曜【コクヨウ】から?」「そうだよ。」皓【コウ】国と大陸を二分する黒曜国には、自国の紋章を象った旗を掲げる私掠船の存在が有名だった。簡潔に言えば、海軍とは別に国王陛下が掠奪を認めている海賊たちのことである。鎖国を旨とする皓国とは異なり、黒曜国は海に通じさかんに他国との貿易をし、かつ海を越えた領土の拡大を着々と図っている。黒曜国の海軍は無敵と謳われるほど世界では恐れられていた。そのトップに君臨すると云われるのが、黒曜の海賊であった。良将は、その中の船の一つを任されている人物だ。安騎良将【アキ ヨシマサ】、と云われれば知らない者はそうはいない。軽い抱擁を解き、氷翠王は目の前に立つ男を見返す。わざと不揃いに伸ばした獅子のような豪奢な金の髪は、長身に野生的な顔立ちに映え、驚くほど見栄えがする。美貌だが、物騒な光を宿す鷹のような鋭いターコイズブルーの瞳が荒削りの印象を良将に与えている。手足も長く鍛え上げられた逞しい身体に、動きやすさだけを追求したような身体の線にゆったりと沿う洋装は豪奢な金髪と容貌を際立たせていて、この男が自分の魅せ方を知っていることを見る者に知らせる。此処、【禁足地】はちょうど皓国と黒曜国の中間にある。良将は黒曜の港に船を停めた勢いで此方に顔を見せたのだろう。そうなんともなしに考えていると、氷翠王は良将がふ、と眉根を寄せたのに気づいた。「・・・・・・どうかしたのか?」「どう、って・・・・・・・邦友さんこそどうしたの。」「どうもしてないが・・・・・。」そう答えると、良将の目つきが一瞬の内に鋭くなる。何がだ、とかわしてみせたが、誤魔化されてくれる気はないらしい。「・・・・顔色が悪い。それに、・・・・何、さっきからこめかみ押さえて。」「別にどうもしない。」目を逸らしもしない氷翠王に何を思ったのか、良将は厳しく目を細めた。「こめかみってことは、風邪じゃないな。」良将は氷翠王が精神的な疲れを覚えると酷い偏頭痛と微熱に悩まされることを知っている。だが誤魔化しではなく、一種の慣れた者だけが言う強い否定を告げる氷翠王に良将はしかし追求を弱めなかった。「何かあっただろう?」「・・・・・・・・・・・・・・。」良将の問いに氷翠王は何も言わず、ただその怜悧な瞳に微笑を佩いた。その笑みは、澄み切りすぎて痛く、「・・・・・・そんな顔して笑うのよしなって。」「・・・・・・・・・?」自分がどんな表情をしているのか分からず、氷翠王はまるで幼な子のように首を傾げる。「皆の前でもそんな顔してんの?」広い肩を上下させ、宥めるように声を発した良将が、目を合わせるようにかがみ込んでくる。そうして、じっと目を合わされて、氷翠王はくすぐったいように目を細める。その仕草に反してきっぱりとした声が発せられた。「していない。」「何でそう思うの。」「今はもう、これ以上の数の作り笑いができないから。」ようするに、数をこなしすぎて今は上手く笑えない、と悪辣な冗談のように氷翠王は何の気なしに言ってのけた。自分でも、一体これはどうだろう、と思う自覚は在る。これも、たぶん甘えているのだ。まるで子供のようだ。叱って欲しい、など。彼の正しすぎる言葉が、何より欲しいと思う。予想通り、良将は頭が痛いとでも言いたげにこめかみを押さえて首を振った。「辛くないの。」「分からない。」似合っていない、とどこか哀しげに良将は言う。「邦友さんはそれでいいの。」良将に昔の名を呼ばれるのは好きだった。今、この場に居るのではなく、昔の何も知らなかった頃に戻った気がしたから。良将がこう呼ぶ時はいつも、特別だというニュアンスが、そこだけ柔らかくなる声の響きにも、揺らぐ吐息の強さにも分かるから。その響きで、声で呼ばれ、自分こそが痛いような顔をした良将に静かに問われて氷翠王は何も言えなかった。「“自分が走り続けなかったら誰が朱樺を守るんだ”って、朱樺の地のことを話してた時のこと、俺は覚えてるよ。あんな嬉しそうな幸福そうな、きらきらした顔してまでずっと守ってきた人たちに、自分だけ表面だけみたいな付き合いして、本当の自分を見せずに相手を偽って、それで本当に満足できるの。」俺は嫌だよ、と良将は大きな手のひらを両肩にかけてくれる。「・・・・・・・・ねぇ、それって偶像崇拝だよ。」彼らは、と続ける良将を氷翠王はかすかにかぶりを振って見上げる。良将の言葉が胸を抉る。本当は彼らと思いを重ねたとき、根本的に全てがかすかにずれていって、最後には大幅なずれと歪みがあることは本当は分かっていた。お互いにもう、互いの姿が見えた時期は過ぎに過ぎていたのに、その事実に気づいているのもまた、氷翠王しか気づいていないのだ。もう取り繕えない薄い絆を躍起になって取り戻している心地さへする。自分を抱いていた想いが、もう何処に在るかも分からない所にいってしまったと、そう考えるだけで、本当は彼らのことが心配でたまらなくなる。彼らがこのことに気づいた時の、彼らの受ける傷の深さを思って。ただ、ただ、心配で・・・・・・・・。心配でならない・・・・・・。人の“理想”はいつもその人の中に在る。しかし、その“理想”が過去と今、未来では同一であるとは限らない。人の“理想”は今生きている“現在”で変わるものだから。昔は“理想”だった。けれど。今は違うかもしれない。そうして勝手に失望して、人は離れていく。昔の彼らが救われるために欲しがった“理想”を、まるで本当に自分自身であると演じきった自分は、“本物”でない限り、これから“先”を恐れ続ける。自分は今、皮肉にも、過去の自分に押しつぶされかけている。過去の自分に脅かされている。このまま力を喪うことに恐怖を感じている。目まぐるしく流れる時が、自分を置き去りにすることを恐れている。いつも、脅迫を感じている。だから刹那的になって誤魔化している。ここで去れば伝説になれると思っている。「邦友さんには幸せになって欲しいよ。俺じゃなくってもいいんだ。でも、・・・・・・でも、彼らを欺くようなことをして、それで本当にいいのか?」ああ、彼はどこまでも真っ直ぐで強い。案じてくれる彼の厳しい言葉は、けれど何より言って欲しかったもの。「・・・・・それで、かまわない。」良将に氷翠王は絶えるように真実の言葉を震える唇に乗せる。(どうか・・・・・・・。)声が震えていませんように。・・・・・・言葉は他に、思いつかなかった。「これだけあれば、それで、いい。」息が、上がりそうになる。「でも、彼らは邦友さんの“本物”を見ていない。」(この切なげに震える、弱い肩も、知らない。)良将はそう、心に思う。どう言えばせめてもの慰めになるのか。目の前の人を担いで逃げられるような地位と権力が欲しかった。こんなトコロ(禁足地)に捕らえられて逃げられない彼女を柔らかく包み込める、彼女の母の身体が欲しかった。どちらも、叶わぬ夢・・・・・・・。どうして神は彼女にばかり苛虐なほどに厳しいのか。せめて彼女よりも先に生まれていれば、こんな状態にさせはしなかったのに。「そういうの、平気なタイプじゃないのに、それだけなんて言うなよ。」「分かってるっ・・・・・・、でも、捨てられない。・・・・・・そんなことはできない。」“これ”があるから、生きていける。生まれた時から今までずっと、自分を必要としたのは朱樺の地だけだった。初めて与えられた、“生きていい理由”だった。「ない方が、苦しい。・・・・・苦しいんだ。」氷翠王は無意識に両手で目を覆う。もう二度と、あの苦しみは味わいたくない。だから、矛盾ばかりを抱えて、ただ、迷うまま。「邦友さん・・・・・。」「そんなことは別にかまわない。“痛い”?“苦しい”?“辛い”?“無理だ”?知ったことか。私は自分の好きにする。」「私が強くなりたかったのは、自分が“一番”になって誰も私から朱樺を横取りできないほど、“朱樺”というものの“唯一”になりたかったからかもしれない。」両の瞳を隠していた手をどけ、瞳を上げる。ゆっくりと、氷翠王は自分の手を見つめた。自分の本心を探るように。「そんなこと、できるはずもないのに。でもそう思ってた。父が母に殺された時から。“ここ”を母に刺されてから。ずっと。盲目的に。」“ここ”と言いながら氷翠王は左の腰骨の辺りを無意識に押さえる。「“朱樺”を自分一人のものにしたかった。誰にも渡したくなかった。だから蒐【シュウ】家にも忠誠を誓って立て直しまでした。私は“朱樺”に愛されたかった。・・・・・・・・愛される、なんて、“朱樺”は人ですらないのに。」有機物ですらない、と氷翠王はかすかに思う。「自分の心のための保身なんてどうでもいい。これぐらいも堪えられないならいっそ、壊れてしまえばいい。私は、朱樺のためになればそれでいい。」だから自分は朱樺の地を離れることになってでも、朱樺を義兄に任せてきた。「私が壊れようがどうでもいい。次の朱樺に繋がれば、それでいい。お前こそ、分かってない。私は還る、朱樺に、必ず。私は百、欲しい。百、手に入らないなら、零しかいらない。」「・・・・・・・・そんなに、大事?」息を呑んだ良将が問いかけてきて、氷翠王は頷く。「そう、・・・・・・・なら、俺はもう、何も言わないよ。」静かな良将の声に伏せた目を上げると、“お節介が過ぎた”、と彼は笑ってみせる。「ただ、覚えておいて。俺は邦友さんの味方なんだからね?」優しく肩を撫でられ、思わず良将の肩に額を押し付ける。「・・・・・・うん。」・・・・・温かいものが頭に触れた。良将の大きな手はずっと長い間、温かみを分けるように氷翠王の髪を撫で続けてくれていた。
2006年05月04日
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まどろみの中見た夢は、ほんの数刻前の過去。月光の淡く照らす雪化粧をした庭園が己の部屋から見える。ほの蒼い光がほろほろと視界を塞ぐ。雪の降る庭園が見えるように部屋の襖を開け放していて、身は凍えるほど寒いはずなのに、畳に擦り付けている頬は熱があるのかと疑うほど、熱い。逆にはらはらと頬に触れる雪が心地よかった。気温が低いせいで高く、澄んだ夜空を見、呼吸を深くする。かなり深く、眠っていたらしい。疲労に重かった身体は程好くだるく、少し軽い。(今度こそ、終わりにできる。)そう思って、短い時間に現状を思い出した氷翠王【シャナオウ】は、いつものように穏やかな微笑をその瞳に浮かべた。『あなたを見ていると時折妙に癇に障る。』『そんな見え透いた嘘で一体何を隠そうと言うんですか。こうでもしなければあなたは本心を明かせませんか。無理矢理吐かせてやらないと、あなたには駄目ですか。』耳元で容赦なく囁かれた断罪の声を思い出した。『一体何を企んでいるんです。』男は、有家清綱【ありえ きよつな】が最後に告げた言葉を。それが氷翠王が【禁足地】に連れてきた“守人”のことを言っているのは分かっていた。有家は、気づいている。『・・・・・・あなたはここで去れば英雄になれると思っている。』『今夜のあなたは野蛮すぎる。・・・・・・“元虎”で在ることに疲れましたか。それとも“氷翠王”に?』(違う、有家。)届かないと分かっていて氷翠王は今は此処にいない男に呼びかける。伝わる気が、するのだ。何処に居ようが、どれだけの距離が離れていようが。それは心が通っているとか、そういう優しく甘ったるい理由ではなく。無茶苦茶な男だ。船が沈めば泳いででも戻ってくる男だ。虜囚の身になれば、檻を引き摺ってでも帰ってくる男だ。邪魔をすればその人間を皆殺しにしてでも帰ってくる男だ。理屈じゃない。“それ”が、できる男だ。そうでなければ自分はここまであの男に許しはしなかった。だから。だから、と。(死にたいわけではない。けれど、生き永らえたいわけじゃない。)“生きたい”のだ。だからその理由が血を吐くほど、欲しい。ずっと、“他”はいらなかった。今も、いらない。“朱樺”【シュカ】の地のためだけに生きている。それのために死ぬために、生きている。けれどたぶん、“俺”を殺すのはお前だ。(有家。)己の身さえ焦がす様に、まるで憎しみさえ其の声に籠めている様に、お前は俺を呼ぶ。まるで敬虔な殉教者の様に。一片の偽りも疑心も持たないお前の言葉は俺の醜い心を抉り出し、同時に俺をひどく怯えさせる。『元虎様。』そうしてまだ俺を呼ぶのか。俺はもう死んでいるのに。今生きているこの魂は、既に俺のものではないのに。これ以上俺に何を請うんだ。俺は全てを捨てたのに。自分が自分で在ることすら捨てたというのに。これ以上俺に何を請うんだ。<お前は・・・・・・・・。>死してなお、眠ることすら許してくれないのか・・・・・。『元虎様。』裏切り者。殺してやる。この魂に触れることはお前は二度とない。お前が唯一欲しがるものなど与えてやらない。馬鹿が。お前は愚かだ。愚かすぎてもう、云うことがない・・・・・・・。(お前が与えるべきであったのは、俺ではない。)俺は何度も機会を与えた。此れがお前が選んだものだ。・・・・・・狂い、死ねばいい。俺を呼ぶ代償に失うものを、お前は判っている。判っていてやっている。諦めればすぐに手に入る幸福を、お前は知っている。其れを知ることができるほどお前は利口で、そして其れを承知で其れに見向きもしないほどお前は愚かだ。『元虎様。』もう・・・・、いい。もう・・・・、判った。それほど請うならば。来い。殺してやる。それほど狂わせたいのなら。来ればいい。(・・・・・・・・。)呼べ。再び訪れるまどろみに身を任せながら、氷翠王は己の過去の名を呼ぶ男の横顔を思い出した。殉教者のようにただ、ひたむきな視線は、いつになく鮮やかだった。次第に暗くなる視界の端にそれを捕らえ、氷翠王は堕ちていった。
2006年05月04日
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自分に縋り付くようにして気を失った少女を抱き上げ、氷翠王【シャナオウ】はその少女を見下ろした。少女の胸が呼吸のためにか細く上下している。それだけが少女が生きていると分かる事実を知らせる。ぐったりとしたその身体が小刻みに震えている。そして寒さに堪えるためだろうか、まるで助けを求めるように少女はその小さな指先が白さを通り過ぎて蒼くなるほど氷翠王の肩の部分の服を握り締めている。否、求めるように、ではなく、求めている。その仕草はあまりにも哀れで胸を突かれる。ひたすらか細い息は、それすらだんだんと弱まり切っていく。かなり冷えている。自分に助けを求める呼吸に、氷翠王は少女にとって冷たく無慈悲な雪からかばうように抱きながら少女に降り積もった雪を払い落としていく。それに気づいたように一瞬、少女の縋る指に力が入り、強張った表情が緩んだ。氷翠王もそれに気づき、少女の濡れて凍っている髪を自分の手指で溶かすように何度も撫でて、ほぐしていく。『わかった・・・・・・わかったから。大丈夫。もう・・・・・・・寒くない。』氷翠王はそう語りかけて、ぬくもりを伝えてやるように抱いた少女の身体を引き寄せた。雪は未だ止む気配は、ない。(このままでは死んでしまう。)少女の身体はこれ以上この雪山の寒さに堪えられないだろう。とても雪山に入る格好ではない少女に自分の上着を身体を包み込むようにくるませる。このまま此処にいても少女が凍えるだけだ。少女だけではない。気丈に一人で立ち、獅吼【シコウ】に食って掛かっている少年もだ。だんだん弱まっていく少女の体温を感じ、それに向かって無情にも叩き付ける氷交じりの雪を恨む。が、それより先にしなければならない事がまだ待っている。遭難者が少女だけならそのまま馬を駆けさせてでも、自分の屋敷に連れて行くことができるが、生憎ともう一人。触れることが許されなければ助けることもできない。だが少年は生がある限りをもって極上の敵意と憎悪でもって、獅吼に相対している。よほど、相性が悪いらしい。この分なら、少年を獅吼に任せず自分で応対していた方が良かったかもしれない。未だ少年の容赦ない攻撃をかわしながら、それでも余裕で相手を揶揄する獅吼の名を氷翠王は呼んだ。少女を抱き上げ、彼らとの距離を測りながら近づく。『獅吼。』その氷翠王の確かな声に、獅吼は主に忠実な番犬のようにこちらをないがしろには決してしない熱意さで氷翠王と少女に身体を向き直って目を向けた。少年はそのことに頓着せず、獅吼のその行動を“隙”と見たのだろう、そのまま獅吼に身体が凍傷を起こしかけているとは思えぬ鋭敏さでもって攻撃を仕掛ける。が、獅吼は一瞬面白げに片眉を吊り上げたが、少年をはるかに上回る俊敏な動きで面倒くさそうに少年を叩き伏せた。『ようやく、かい?先生。待ちくたびれたぜ。』色悪、という形容がこうまで似合う男は他にいないだろうという口調と声で、自分のことを先生、という可笑しなあだ名で呼ぶ男に氷翠王は真っ直ぐに視線を返して笑みを浮かべた。『あんた・・・・・・・っ!』獅吼の言葉に、自分がその警戒心を逆手に取られて少女の方に気が向かないように注意を逸らされていたことに少年は気がついたのだろう。一瞬、自分への怒りに燃え上がった少年の瞳は、けれど氷翠王と少女に戻された途端に驚きと戸惑いの色に変わった。その少年に瞳を移して氷翠王は少年に話しかけた。なるべく刺激をしないように、理性的に。『あなた方に危害を加えるつもりはない。行く当てがあるのならば、そこへ無事に辿り着けるよう、取り計らおう。』その氷翠王の声音に少年は少し目を見張り、けれどいったんは幾らかの冷静さを取り戻す。または取り戻したかのように装った。だが、言外にあなた達二人の今の状態では何処にも行けないだろう、と意味と最初から行く当てがあるのならこんな【禁足地】などに入り込みはしないだろう、という意味を込めた氷翠王の言葉に、少年は唇を噛み締めて警戒心に満ちた眼差しでこちらを凝視する。まるで一片の嘘も悪意も見逃すまい、とするように。その少年を獅吼は面白げにからかう。『悪意のない人間に随分な態度だな。それとも怯えなきゃいけねえ理由でもあるのか?』それに少年はカッとなって獅吼に怒鳴り返す。氷翠王に対する時とは違い、えらく沸点が低い。『うるせぇ。誰が初対面なのに『はい、そうですか』って、てめぇを信用するのかよ。どう贔屓目に見たって、てめぇは堅気じゃねぇだろうがっ!!』『おいおい。言うに事欠いてそれかよ。何で分からないかねぇ。ぱっと一目で正確に俺の性格を分からせてやろうという俺の優しさが。』『そうなのか?・・・・・・・まあ、お前の格好を見て控え目で大人しい男だ、と言う者はいないだろうが。』とどめに知らなかった、と嘯く氷翠王に獅吼は珍しく苦笑した。『先生。それは一応、執り成しているつもりかい?』『いいや。執り成して欲しいのか?』自分の後始末ぐらい自分でできるだろう、と当たり前のように言う氷翠王にさしもの獅吼の勝てない。気がつけば、少年だけが話に置いていかれているのにその原因になった本人が悪げもなく執り成した。『で?先生、どうするつもりだ?』長くなりそうな話に獅吼は煙管を取り出してふかし始める。『何より先に治療を施したい。町のほうに戻ってもいいが、ちゃんと医学を修めた医者はいないだろう。あなた方の状態を見れば、温かい湯に放り込んだ後瀉血しようとするだろうが、駄目だ。あんな治療法では身体が弱まるだけだ。それより【禁足地】に連れて行って雪花【セッカ】に診てもらった方が良い。』『だろうな。骨折だけでも足をのこぎり引きで切り落とす医者と汚れた包帯を使って傷口を化膿させる医者しか町にはいないからな。』最後の言葉以外は少年に向けた氷翠王の言葉に、獅吼は同意をしめす言葉を返す。あまりの現状の酷さに目を剥いていた少年がやっと我に返り、ギリギリとこちらを睨み据える。『何処に連れて行くつもりなのか知らねぇが、俺はあんたたちに付いてはいかない。・・・・・・・・・そいつを、放せ。』『へぇ・・・・・・・、粋な口を利きやがる。その意気の良さと無鉄砲さは認めるが、引き際を誤る馬鹿は一番に死ぬぞ、生憎とな。』『黙れよ。あんたも、金掴まされて頼まれた口だろうがっ!』人を食ったような獅吼の口上と殺気を向ける少年の毒舌を黙って聞いていた氷翠王は、ふいに表情を緩ませて微笑した。『賢明だな。“深慮”、それだけが自分の身を守ってくれる。もちろんそれ以外を守るためにはそれを更に利刃のように砥いでおかないと、生きてはいけない。』けんめい、の言葉に懸命の意味を氷翠王が含ませたことに少年は気づかない。けれど言いたいことの意味は分かっているだろう。言葉のとおり、賢い少年だ。それは痛いほど自覚の刃を少年に突きつけることだろう。同時に、敵意と殺意が剥き出しの自分の態度を気にも留めず、柔らかな微笑と声をむけてくる氷翠王に少年は困惑する。だが、次に氷翠王は痛いところを突いた。『そこまであなた達には利用価値があるのか?』少年はしまったとでもいうように唇を噛んだ。もし、この二人組みが何も知らなかったとしても、今までの少年自身の態度と言葉で、自分たちが何かに追われていること、何かから逃げていることが丸分かりだ。それすらにも、頭が回らなかったと、少年は自分の迂闊さに自分を八つ裂きにしたいほどの憎悪を覚えた。その感情が、今まで気力だけで立っていた少年を揺らがせる。気を失うまい、と足が地に噛むように立つ少年の肩が、それでも身体に正直にふらつく。それを触れるか触れないかの微妙な接触で氷翠王は支える。傷を負った獣のように牙を剥く少年の矜持を無遠慮で無神経な優しさで穢したくはなかったのだ。そして少年が自分の手を振り払おうとするだろう事を見越して、氷翠王は少年が氷翠王の手を振り払うことで体力を削らせないようにすぐに手を離す。少年の警戒心をこれ以上逆撫でしない程度の距離を置く。まあ、少女を腕に抱いているので反感を買わない、などということはないだろうが。『私たちは【禁足地】に住む者だ。』少年たちの体調を慮り、氷翠王は一気に話を進めることを決めた。少年は名だけは聞いたことがあるだろう地名に、眼を見開く。『そこにはあなたたちのように行き場のない者が、大勢いる。彼らは、外の何にも服従しない。己の名の下に戦う者ばかりだ。自分の足で立ち、己の信念にしか従わない。身分や名や地を問わない。過去も、髪や瞳の色も。失いかけたものは、守ることで再び取り戻せる。欲しいものがあるのなら、戦えばいい。』静かだが強い意志が宿る氷翠王の言葉に、少年は言いたいことが分かったのだろう。氷翠王が言葉に孕んだ、少年にとっての対象である少女に少年は視線を滑らせた。それをしずかに見据えながら、少年にとっては厳しいであろう言葉を氷翠王は向けた。『確かに初対面の人間を信用などできないだろう。追われているならなおさら用心深くならなければならない。だが、ではそれを何で測る。今、ここで。』氷翠王の厳しい言葉に少年は図星の苛立ちを己にぶつける。『道は二つ。このまま此処でのたれ死ぬか、私たちと共に来るか。徒に此処で待ってもあなたの望むものは手に入らない。ならば、まだ可能性のある方に賭けてみるのも一興だとは思うがな。まあ・・・・・・、あなた次第だ。』『・・・・・・・・・・・・。』『同じ戦うなら、残るもののために戦え。・・・・・私はその機会を与えてやれるぞ。そしてその賭けに勝てばあなたは居場所を作れる。この子が、生きているのだから。』『・・・・・なんでだ?』『何がだ。』『こんなことして得があんのか?口調からして本当に俺たちのこと何も知らないんだろ?・・・・・なんでそんなこと・・・・・・・・。』言うんだ、と問う少年に氷翠王は無造作に返事を放り投げる。『別に困らないからな、私は。』『なぜ?』『私はあなたにどうこうされてたりはしていないからな。』『さっき攻撃をしかけただろう。』『別に死んでいないからな。獅吼も私も。問題ない。』『・・・・・・本気か。』『ああ。』『・・・・・・・・・・・・。』潔すぎる氷翠王の言葉に聞く耳を持ちながらも、未だ半信半疑の少年に、氷翠王は言葉を続けた。『生きながらせたい訳じゃない、決して。』行き成り続いた言葉をいぶかしみながらも、少年は再び氷翠王に眼を遣る。『局を見れず、感情ばかりに走るならばこのまま其処に死ぬまでいればいい。』その言葉に本気を見てとって、少年はそれが最後通牒だということを知る。『“生きたい”なら、来い。最大限の助力を約束しよう。』氷翠王の言葉は痛いが、事実だ。ここにいれば死ぬ。この機会を逃せば、少年は少女と此処で心中することになるだろう。『・・・・・・・・こいつに、危害は加えないんだな。』確認の口調になった少年に、氷翠王は真率な瞳をこちらに真っ直ぐに向けてくる。『約束しよう。』予想通りの言葉を得、少年は精根尽きたように瞳を閉じて肯いた。
2006年05月01日
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「殺す気かっ!!落ちたらどうするんだ!?」 「二階から目薬を差してあげるよ。」 「・・・・・・・・。」 「あれ?なんで泣くのさ。」 二階から目薬。 意味・・・・・・・・・ 思うようにいかずもどかしい様子、 または、 回りくどくて効果がないこと。 直訳。 つまりは、助けずに、放置。
2006年04月29日
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雪が降っている夜の夜気のせいで冷たい畳の上に身をゆだねる。そのまま頬を畳にこすり付ける様にかぶりを振れば、その冷たさが熱の籠もった頬に沁みた。少し、熱があるのかもしれない。今日は、とても、疲れた。仕事で忙しく一日中走り回っている、いつもよりも、何倍も。今日は町に出ていたせいで、仕事は帰って来てからの夜の間しかしていないというのに。この事実は、ただ単に身体的にきた疲労なのではなく、精神的なものだと告げている。一年ぶりの有家清綱【ありえ きよつな】との再会のせいかもしれない。そう思いながら、氷翠王【シャナオウ】は辛い過去を思い出したように眉間を寄せる。そうして、どうにもならない、と苦い息をついた。あのとき、有家は多くを語らなかったが、もしかしたら、氷翠王が『今、ここで去りたい』と思っていることに気づいたのかもしれない。『そんな見え透いた嘘で一体なにを隠そうというんですか。』『こうでもしなければあなたは本心を明かせませんか。無理矢理吐かせてやらなければあなたには駄目ですか。』そうだ。氷翠王は肯定する。そうだ、有家。やりきれない。(やりきれないんだ。)割り切ろうとしても割り切れない感情が。ずっと氷翠王の中に棲みついて、軋みの慟哭を上げている。怖くてならない、もう。額に当てていた手を絶える様に下ろし、両眼を隠す。身も凍るような雪山の中の帰り道で、互いに身を寄せるように庇い合う彼らを拾って助けあげたのには、本の一筋の他意も思惑もない。ただ、過去のあのころの気持ちが甦っただけだ。放って置けなかった。彼らの求めていたものが、ひどく自然に、痛いほど判っただけだ。彼らは、求めれば癒されることもあるということを知らないほど幼かったのだ。本の数刻前に見た瞳を思い出す。『子供、か・・・・・・・?』山雪に埋もれる様にしてそこに在るのは、確かに未発達の少年だ。だが、少年のその瞳は手負いの獣のように激しく危うげながらも物騒な光を宿らせている。(そうか・・・・・・・。)そうか、とただそれだけを心の内で氷翠王【シャナオウ】は悟る。少年のその様子は群れを守ろうと牙を剥く若い狼を連想させたのだ。少年の剣呑な瞳に内に見たものはただ、敵意だけではなく、守るべきものを自覚しそれ故に健気とも言えるべき殺気だ。こちらから見えぬように少年が背後に庇う少女の存在が、語らずとも雄弁に少年の感情の矛先を知らせる。だがそれは無視し、氷翠王は少年たちにざっと視線を滑らせた。この場でしなければならないのは見ず知らずの他人の人間関係に口を出すことではない。やはり、と思ったが少年の身体には無数の凍傷があった。おそらく患部はひどい低体温になっているだろう。この距離からざっと見ただけなので確かなことは言えないが、壊疽が生じかけているようだった。このまま此処に放っておけば患部から切断しなければならないだろう。少女のほうは更に酷い。体力の違いだろうが、木に崩折れるように凭れ掛かっている少女は指一本動かせないようだ。生理的な涙が伝う頬も青白く、無残な凍傷に焼かれている。このままでは凍死してしまうのは火を見るより明らかだ。『おいおい・・・・・・・大丈夫か?』隣に立つ獅吼【シコウ】から心配とは程遠い声が発せられるのを聞く。色悪なその声音は少年の神経に障ったようだった。少年の瞳がキリキリと吊り上る。それを面白げに見ながら獅吼はこちらに目配せをする。どうする、とその眼が問うのを氷翠王は頼む、とだけ低く短く切って捨てた。『あんたは頼む、なんて言うことはないぜ。先生。一言、やれ、と言えば俺は動くからな。』むこうには聞こえないように低く言い、一瞬だけ獅吼は柔らかくまるで包み込むように愛おしむようにその眼を細める。『・・・・・・ああ。』それに氷翠王は微かに笑んで返した。そうして獅吼は視線を少年たちに戻し、誰にともなく呟く。『・・・・・それにしたって何だってこんなとこにガキが・・・・・・。・・・・・・あいつらしくもねぇな。』その言葉に氷翠王も内心同意する。ここは仮にも“禁足地”で、氷翠王の仲間である皓【コウ】国一とさえ呼ばれた神生【カミオ】家の当主が結界を張っているのだ。“禁足地”に棲む者以外を入れないために、氷翠王たち以外は結界に阻まれて此処へは辿り着けない。まあ、少年たちもこれ以上は“禁足地”に辿り着く道を見つけられなかったようだが。それにしても、この山の結界と連動して此処ら一帯を千里眼のように把握できる陰陽師である神生の“彼”が少年たちの存在を黙認しているのか。気づいていない、ということは、ない。少し強化された結界の気の様子を見てもそれは分かる。いっそ害は無いからと放っておいたのかとも考えたが、有り得ない。子供であろうとも、相手に悪意がなかろうとも“彼”は一切の容赦をしない人間だ。子供に優しい“彼”など、氷翠王も獅吼もいくら妄想力を駆使しても想像すらできない。しかも少年たちは二人とも、“守人”であった。いつもの“彼”なら即効で排除しているだろう。そう考えを巡らせながらも、視界の端で少年が素早く動くのが眼に入った。それが攻撃のためだと分かったが、獅吼に声をかけるのは避けた。獅吼ならば相手が絶対の戦闘力を誇る守人であろうとも、問題は無い。むしろ、相手の方が可哀想な位だろう。『おいおい。』案の定、どっしりとした余裕と落ち着き、多大な愉悦が滲み出る獅吼の声が聞こえた。更に獅吼に襲い掛かる少年は、男に任せ、氷翠王は少女へと意識を向けた。獅吼と少年の攻防を避けて回り込むようにして、少女へと近づく。まだ気力だけで立っていることが分かるとはいえ、それさえできずにぐったりと木に凭れている少女の容態の方が気にかかったからだ。手を伸ばせば触れるほどの距離に来ても、少女は氷翠王に気がつかない。眼が、ほとんど見えていない。それを見て、氷翠王は眼を細めた。と、その少女の瞳の色ががふいに激しく揺れるのが分かる。その肩が強張るように微かに震える。その震えも、だんだん弱まっていく。一瞬少女の瞳に現れたのは、自分の無力さと慙愧に打ちのめされた人間だけが浮かべるやりきれなさととただただ純粋な恐怖だった。その感情すらも、生命力が段々と消えていく様に弱まっていくのを氷翠王は感じて、氷翠王は瞳の高さを合わすように少女の前に膝をつき、その小さな肩にそっと触れた。少女にこれ以上の自己否定を起こさせたくはなかったから。『--------っ?!』少女の瞳が驚きに見張られる。強い混乱が少女を襲ったのが分かったから、それ以上は触れずに静かな声だけを向けた。『大丈夫か?』言葉は何でもよかった。ただ少女の思考を拾い上げるものならば。少女の意識がこちらにちゃんと向けられるのが分かる。もう少しだった。『大丈夫か?』同じ言葉を十分な時間を置いて柔らかく繰り返す。ほんの少しでも心を開いて預けてくれなければ、助けることもできない。だから繰り返した。触れることが許されるように。少女の身体にこれ以上の雪が降りかからないように、氷翠王は自分の身体をずらして庇う。本当は降り積もった雪を落としてやりたかったが、それはまだ駄目だ。氷翠王は根気強く待った。少女はそれが伝わったかのように一瞬身体の力をほどいて、此方に寄りかかりそうになったが、その瞬間その行動はおびえる様に自制された。その少女の姿に、過去の自分の姿が重なる。一人苦しむ中で、拾い上げてぬくもりをくれる存在を求め、けれどそれは甘えだと知り、手に入りかけたものを自分の臆病さ故で巻き込んではならないと自省し・・・・・・・・・・。そして、孤独を孤独と感じなくなるまで、寒い想いに凍え続ける。(させては、いけない。)だから、少女がより深い自戒へと心を投げ出す前に、氷翠王は呼び止めた。『もう、大丈夫だ。』少女の意識の深い部分を揺らすであろう言葉でもって。そして安心したように崩れ落ちる少女を静かに抱きとめた。
2006年04月06日
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眩暈がする。ようやく書類を一通り片付け終わり、一人になれた。今日はもう、これでいいだろう。放って置いても、明日の仕事は明日の朝、否応なしに向こうからやって来てくれる。熱の籠もった紅い瞳にじん、と痛みを感じ、氷翠王【シャナオウ】は冷たい手を押し当てる。そうすると、微かに瞳の熱は逃げたようだが、逆に氷翠王は身体の他の部位に籠もる熱に無理矢理思考を引き摺りこまれた。あの男が掴んだ二の腕が、肩が背が指が熱い。あの男が触れた部分から、余すことなく毒を注ぎ込まれた心地がする。神経細胞の一端一端まであの男に犯された気がする。無茶苦茶な男だ。手段を選ばず、容赦がなく、躊躇いもなく。(判らない。)もう、触れないで欲しい。全て捨てるから、その毒のような言葉を手を俺に向けないでくれ。「・・・・・・・しゃっちゃん?」夜の篝火に煌めく庭園を臨む濡れ縁で、そっと温かで穏やかな、少し線の細い声に優しく思考を呼び戻される。「・・・・・・・・・・・。・・・・・・千波【チハ】?」思わず、縋るような声になったのかもしれない。千波が少し瞳を見開いた。それでも千波は気にした風はなく、そっと優しく氷翠王の手を引き、気遣う言葉をかけてくれる。「夜食、できてるよ、しゃっちゃん。美味しくできたんだ。・・・・・きっと朝から何も食べてないでしょう?胃に優しいもの作ったからいきなり食べても大丈夫だよ。さっき足塚さんが仕事、終わったみたいだって言ってたから呼びに来たんだ。」だから、行こう?と千波に手を引かれる。そっと引く手に抗う気もおきず、そのまま引かれるままに足が自然に踏み出す。「しゃっちゃんの部屋に運ぶから、先に行ってて。部下さんに呼ばれても仕事に行ったりしないでちゃんと、待っててね?約束して?」千波は氷翠王のことをワーカーホリックと思っているらしい。頭の中で記憶の襞をめくる。ワーカーホリック、仕事中毒、職業である仕事に生活の多くを犠牲として打ち込んでいる状態を指す言葉・・・・・・・・。なるほど、千波は正しい。自分でも自覚のある言葉には、反論することなど頭に浮かばない。黙って千波の言葉に肯くと、柔らかく微笑みながらも、「いつもこうならいいのに。」という言葉が向けられた。精神衛生上気がつかない振りをしながら、千波の柔らかい声に酔うように心地よく眠気が押し寄せてくる。その氷翠王の様子に苦笑しながらも、千波はしょうがないなあ、と言いつつ氷翠王の部屋まで手を引いて促す。連れて行ってくれるようだ。たぶんきっと、これは甘えている。その態度のことを含めて、千波は『いつもこうならいいのに。』と言ったのだが氷翠王は気づいていない。いつもならそんなことはないはずの氷翠王の様子に、千波は少し首を傾げる。どうしたのだろう。何かあったのだろうか?「・・・・・・ん・・・・・・眠い。」半ば寝ているようにまどろむ声が氷翠王の唇から無造作に紡がれる。それを耳にし、千波は少し慌てた。「・・・・ちょっ、ちょっとだけ待って。部屋に着いたら眠ってもいいから。その間に夜食、準備して来るから。」氷翠王はいつも仕事時間が長く、それは夜遅くまで続く。睡眠時間は、たぶん二、三時間なのではないだろうか。その状態を補うように、氷翠王は寝つきがいい、とても。何処ででも眠れるし、眠りにつくまでの時間も格段に短い。何でそれを知っているのかというと、何処ででも寝るからだ、この人は。少し仮眠をさせてくれ、と言ったかと思うと、氷翠王は訓練場でも、教会でも濡れ縁でも広場でも、何処ででも誰の前でも眠る。そして告げたとおりに、少しの時間が経つとそのまま何もないように仕事をしだす。氷翠王は自分がどんなに人気があるか判っていない、といつも思う。“禁足地”の七分の一しか女性がいない中で、この人はすこぶる人気が高い。大体、“禁足地”に来る前から凄かったが。裏では“天然の魔性”とか呼ばれるぐらいには。誰が言い出したかは言わないが。ひとえに氷翠王が今まで何事もなかったのは、この地のトップに立つ人間だということと、氷翠王の処世術が巧みだからに過ぎない。誰かこの人に自覚を与えてはくれないだろうか。他のことには鋭敏にすぎるのに、恋愛感情に近いものには無頓着どころか無知に近い。否。本当は判っているのだろう。感受性の鋭すぎるこの人がそれだけ気づかないなんて有り得ない。そんなものは何も無いふりをしているのだ、いっそ頑なに。だから氷翠王のこのポーズは受け入れないという意思表示と、誰も一線を越えるな、という拒絶なのだ。そうでなければ理解できないのだろう。“愛”という、特に恋愛感情に関しては。未だご両親のことが根を張っているのだ。それも当然だろう。“あのような事”があれば。あんなものを見てしまえば、そんなものは嘘だ、まやかしだと、在りはしないと思うのが普通だ。まして、今の年ならまだしも、氷翠王はまだ幼かった。今だとしてもまだ十九だから受け入れられないだろうが。それでも、心の準備はできたかもしれない。だがそれは氷翠王には与えられなかったのだ。そしてその傷は深く氷翠王の心を今も苦しめている。十三年経っても消えやしない身体の傷痕に、他人が触れると吐くほどの拒絶を起こす氷翠王の生身の傷のように。「・・・・・・どうか、したのか?」眠気のために半分寄りかかる様にして歩きながらも、氷翠王は千波の変化に気がついたらしい。曖昧に微笑みながらも、千波は話題を逸らした。(だって、しゃっちゃんは“分かる”、から・・・・・・・。)千波が口を開けば、氷翠王は誤魔化されてはくれないから。口には出して言わないだろうが、それは氷翠王が千波を気遣ってくれる故だろう。そんなことは千波は氷翠王にさせたくなかった。(気遣う言葉など言わせるな。)そう、千波は心に誓う。だから千波はいつもに近い笑みを浮かべた。「部屋、着いたよ。・・・・・・しゃっちゃん。」その千波のまなざしに、氷翠王は首を少し傾けながらも澄み切った瞳を向ける。それに反射的に千波は思う。(この瞳は危険だ。)と。(逸らせば、敗ける。)さっき誓ったばかりの心に背くことは、ならない。逸らしたい、と思いつつ、千波は真っ向から氷翠王の視線を受ける。長いように思えたが、それは本の一瞬であっただろう。氷翠王は凭れていた肩を千波から離して一人で立った。そしてその冷えた指を自室の襖に掛けながら、氷翠王は振り向かずに静かに告げた。ありがとう、と。そのすっ、と一本筋の通ったきれいな背が室内に消えるのを見つめながら千波は思う。氷翠王が襖を閉じずに室内へと姿を消したのは、千波を拒んでいるように見えないように気遣ったためだと、千波には分かった。その襖を部屋の外から閉めながら、千波は哀しくなりつつも、思った。ああ、だからこの人には敵わない、と。恐らく、この“禁足地”の誰もが氷翠王に思っていることを。そして一つの誓いすらを遵守することのできない不甲斐なさを千波は思う。だが、その想いを切り捨てるように踵を返した。氷翠王の健康管理だけは自分に一任されている。これ以上の負担を氷翠王に与えることはあってはならない。自分は自分に出来ることをするだけだ。だから、もと来た廊下を引き返す。自分が今夜、氷翠王にできる唯一のことを為すために。
2006年04月06日
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たん、と軽い音をさせながら露天風呂から屋敷の離れへと渡る、ひやりと冷たい廊下を氷翠王【シャナオウ】は足早に歩く。この、早いが慌ただしくはなく、無駄のない足音は氷翠王が仕事の体勢に入っている、という合図に近い。いわば、戦闘態勢とでもいうものか。この“禁足地”を一人でまとめ上げている氷翠王には実際休みなどないに近かった。それは夜でも変わらない。広い離れをまるまる自分の部屋としているのへ辿り着き、中でもいつも仕事をしている書斎へと足を向ける。その書斎の扉をくぐりながら、中で待たせてあった部下へと声を向けた。「留守中、異常はなかったか。」「はっ。朱樺【シュカ】家も蒐【シュウ】家にも大きな動きはありません。結界の方も何も問題ありません。」「よし。後で例の補給の件で話がある、と探索班の足塚を呼んでくれ。それから朝に頼んでおいたものはどうなってる。各部隊の予算に関する書類はそれぞれ出させたか?」部下の一人を走らせ、残った方へと現状確認のための言を向け指示を与える。一通りの慣れた手順を復唱をするようにたどり、差し出された書類に目と頭だけをフルに動かしながら、用の済んだ部下に指示を与え下がらせる。机上には、半日いなかっただけとは思えないぐらいの書類が束で置かれているのが目に入った。此処へ来て三年経った今でも問題は山積みらしい。次の書類へと手を掛けると、それを遮るように静かに、けれど明確な意思を持ってノックが響いた。けれど一度どっぷりと入り込むように集中した頭は切り替わらず、相手が判らないまま殺気がないことだけを確認して、書類確認の手を止めないままに無意識に氷翠王は促した。「入っていい。」そのことを知っているように、氷翠王の集中を逸らさないように細心の注意と気遣いを払ってその人物は扉を開けて部屋に入った。「足塚か?」それでも入ってきた相手に促しを求めれば。「いいえ、違いますよ。」相手がゆるく苦笑するのが判った。静かな誠実なまなざしを向けられているのを感じて、氷翠王は初めて戸惑いを瞳に浮かべた。殺気さえ籠もるようなひたむきな声に、魂の脆い部分が揺れるのを感じる。一瞬、息が止まった。否、心臓が掴み取られる感触に凍える。弾かれたように顔を上げた。「・・・・・・・なん、で。・・・・なんでお前がここにいるんだ。」その氷翠王の様子は“いつも”のものではない。自制と厳しい自己犠牲に自らの本来の姿を歪めた、誰もが敬愛の念を向ける慈悲深い“理想”と“カリスマ”の姿ではなく。年相応の。否。今のこの時代に牙を剥くような、まるで憎悪さえ宿しているように鮮血の赤より紅い瞳がふつふつと滾るように燃えている。これが隠すことない氷翠王の本性だと、相対する男は知っていた。「有家、清綱・・・・・・・っ。」有家清綱【ありえ きよつな】、と。名を呼ばれて初めて男は微笑した。「あなたの傍以外、俺の居場所なんてありませんよ。」有家が微笑みながら告げる言葉は真率で、けれどそれ故の慈悲はない。穏やかな声はともすれば、残酷なほどまったくの逃げ場を残さない。見かけほどに、禁欲的でも優しくもないのだ。けれど、その最期の最期にいつも残される本心からの優しさを知っている。この男が自分に与えるのはいつも、惨くとも血のかよう“真実”だということも。この男がこのような声を向けるのは自分にだけだ。「どうやって入って来た。」「結界を維持しているいるのは、神生【カミオ】の当主ではないんでしょう。あれぐらいなら気づかせずに此処に入り込めます。」何ともないように言うが、皓国にはこの結界を破れる者はいるだろうが術者たちに気づかせず何の拒否反応も起こさせずに外部から入り込める人間などいない。怖い男だ。「なにをしに来た。」「どうしてこの地に“守人”を入れたりしたんですか。」「・・・・・ずいぶん情報が早いな。まさかそれを聞くためだけに隣国からわざわざ来たのか。」「この地は神がかりで監視されている。このことは考えずともあなたなら知っているでしょう。皓【コウ】国の三神の守護する者を入れればどうなるかぐらいあなたは知っているはずだ。」「俺は前面には出ない。そう言っただろう。あくまで橋渡しに留まる、と。」氷翠王の主語が、“私”から“俺”に代わったことに有家は何も思わなかった。今回の転生が特異だっただけで、自分たちにはこの方が自然だったからだ。そして氷翠王は一方的に禁じるように、その口調に怖いくらいの強さを表し、断じた。「主体はお前たち黒曜【コクヨウ】国と皓国だ。」一方的に話を打ち切ろうとする氷翠王に、有家の瞳が一瞬だけ強く眇められる。「向こうはそうはとらない。」「身体に宿っていても、俺は神の力は使えない。使えることといえば、周りどころか自分の身体にまで毒素を振り撒くこの眼と気だけだ。こんな者は、脅威とは呼ばないだろう。」「元虎【もととら】様。」「話は終わりだ。お前は村の者に気づかれない内に戻れ。」言い放ち、突き放すように氷翠王はきびすを返す。会話を切って部屋を出て行こうとした氷翠王の二の腕を有家は引っ掴み、力尽くで振り返らせた。「!・・・・なにをっ。」それ以上の抵抗をさせずに後ろから抱き込み。「あなたを見ていると時折妙に癇に障る。」驚いてもがく元虎の耳元に容赦なく囁く。「そんな見え透いた嘘で一体なにを隠そうと言うんですか。」「こうでもしなければあなたは本心を明かせませんか。無理矢理吐かせてやらないとあなたには駄目ですか。」押し退けようと抗う手は杭を打たれたように比類ない強さで封じられる。「あなたは見え透いている。」それを皮切りに、灼熱が元虎の瞳にぶわっ、と燃え立つ。その火傷では済まない熱に、有家は焼かれる。凄鋭な光を漲らせて元虎は自分を見下ろす男を揺ぎ無く見据えた。「それは、お前だろう。虚栄を捨て切れず、受け入れてくれと相手に希(こいねが)うことすらできない。みっともないほど泣いて縋ることもできないくせに何が“唯一”なんだ。一緒に血にまみれる事もできないくせに、“無償”なんて、笑わせる。いっそ欲しい、と欲しくて欲しくて堪らないとわめいたらどうなんだ。」「だからあなたはいけない。己の内を犯されることが何より怖いくせに、挑発することばかり言う。あなたの言葉はどこまでも正しい。けれどそれ故に取り返しのつかないこともある。あなたは卑怯だ。」「卑怯?お前が弱すぎるだけだろう。」「あなたほどではない。」捕らえていた腕を離す。触れもしないまま上から覆いかぶさる。「今夜のあなたは野蛮すぎる。 ・・・・“元虎”で在ることに疲れましたか。それとも“氷翠王”に?」「馬鹿な、ことを。」「抗ったって駄目ですよ。あなたはただ俺に従属していればいい。」「そんなことを俺はしない。」「あなたは従うということがどれだけ屈辱で、どんなにか・・・・・・・楽だということを知らない。誰かに縋ればあなたは孤独から抜け出せますよ。」髪を梳く手は優しいフリをしてひどく野蛮でむごい。「・・・・・触る、な、・・・・・離せッ。」「あなたは、俺が庇護してあげる。腕の中に囲って、何にも見させてはあげない。・・・・・・誰も、あなたを傷つけることはない。」「俺は、そんなものはいらない・・・・・・。」「嘘をつかないで。」「こんなのは、お前らしくない。」「そうかもしれない。」元虎は苦く、唇を噛んだ。これは彼が、何かを耐える時、受けた傷を癒そうとする時のしぐさだと、有家は知っている。「あなたを、愛している。」この言葉だけがたぶん、自分たちの間で一欠片の嘘もない言葉だ。傷つけたくはない。そう考える端で、二度と立ち上がれないほどに彼が傷つけばいいと思っている。守りたい。そう想う端で、彼の苦しみや悲しみより自分の独占欲の方が痛いと想う。彼の誇り高い、きらきらと強い光が宿る瞳を見て、彼の大切なものをぶち壊してやりたいと想う。彼を縛り付けるためなら、自分を殺すこともできる。こんな本心を、元虎は知っているだろうか。俺のことだけを見て、俺のことだけを考えて欲しいと想っている。俺が愛しているだけ愛し返して欲しい、と。彼は知っているだろう。だから彼は受け入れない。自己愛まみれの不全愛など彼は欲しがっていない。けれど欲しくて堪らない。そう、怖くてならない。
2006年04月04日
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「ね、楽しい?」 「さあ?」 「ね、なんで来てくれたの。」 「君の“ねえどうして”っていう報復措置が面倒くさかったから だよ。」 「じゃあどうして付き合ってくれるの。」 「僕たち、付き合ってるの?知らなかったよ。」 「ねえ、どうして一緒にいるの。」 「君が付きまとうからじゃなかったの?」 「でも、嫌いならあなたも側に寄らせないでしょ。」 「何を云って欲しいの?」 「私のことなんだと思ってるの。」 「ストレス。」 「でも来てくれたじゃない。」 「エンドレス、だね。」 「ふざけないで。」 「ご冗談を。」 「・・・・・・なんで?」 「少しは自分で考えたらどうなんだい。」 「私のこと、好き?」 「吐き気がする。」 さも自分は被害者だと自己陶酔に浸り、 そのくせ原因だけははっきりとせずに雰囲気だけを醸し出し。 都合が悪くなると逃げ出す君に、 一体なにを云えばいいんだい? 愛、なんて言葉は。 このさき一生、君だけには使わない。
2006年04月04日
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やはり、山の夜は底冷えする。濡れた髪がかかり、じん、と冷えるこめかみを意識しながら、氷翠王【シャナオウ】は伏せていた血の赤より強い深紅の瞳を上げた。山奥だから、夜気の底や時折吹く風に木々の香りがして気持ちがいい。夜気は痛いほど冷たいが、入っている露天風呂の湯は熱くて、身体はぽかぽかして寝てしまいそうなほど心地いい。此処の湯はやわらかく、湯あたりをすることがないから、この時期だと入るといつまでも雪見をしてしまう。そのうちふやけてしまうかもしれない。空気が澄んでいるお陰で、圧倒される程の夜空を仰ぐ。数千億の星、その火の様な輝き、満天の。「きれいだ。」少年の様な笑みを瞳に浮かべて氷翠王は無意識に言葉を漏らす。本当は違う。涙が出そうになる。怖いほど満天の星空に。(苦痛の涙も空虚の精神も、私には怖くない。)偽りと欺瞞と偽善と真実の区別が、自分の心になくても。たとえ明日、滅びるとしても。この時代に足掻いて足掻いて、一滴の己の精神が泣き叫びながら持てる力の全てを振り絞って、己の心に刻み込んだ“想い”はきっと残るだろうから。それが最期の最期に残った真実ならば。この夜空は最初に誓った日の夜空に似て、自分に全てを思い出させる。私が存在する限り、その誓いを忘れたりしない。静かな、けれど獰猛な程の強い意志の宿る瞳を隠す様に氷翠王は目を伏る。人が近づく気配がした。来る。「あ・・・・・・・、あなた様?」心底驚いた様な声がかけられ、氷翠王はその方向に目をやる。長い黒髪が美しい女性だった。「も、申し訳ありませぬ。」美しいプライドにいつも輝いている声が今は動揺に掠れている。露天風呂で、とは言え、同じ女性だが。何故それほど驚く、と思いつつ、早々に出て行こうとする彼女を氷翠王は呼び止める。「雪花【セッカ】。来い。風邪を引く。」氷翠王の提案に雪花は少し目を見張り、それから首を横に振った。「妾は・・・・、あなた様の臣下です故・・・・・・・。あなた様を少しでも軽んじるような真似はできませぬ・・・・・・。」その理由も多少はあるだろうが、途中で言葉を捜す様な雪花の態度に、それが嘘だと判る。視線を向けると、それに気づいたのか雪花は一瞬身体を強張らせる。その雪花の手が自身の足を隠そうとしている仕草をしたのを、氷翠王は見逃さなかった。だから氷翠王は視線をさり気なく逸らし、どこか大人びた表情を浮かべる。「そうだな。馴れ合いになればお前はきっと、苦しくなる。」雪花が目を此方に向ける。氷翠王は視線を向けないままに、微笑した。「私はそれを壊してはいけない。」「・・・・・・・あ、わ、妾は・・・・・・。」「分かってる。大丈夫だ。お前を不安にさせたりしない。」今度は雪花に視線を合わせ、氷翠王は瞳にも微笑を佩いた。「私が出る。」立ち上がり、そのまま去りかけてふと立ち止まる。「ゆっくり休め。風邪を引くなよ。」朗らかに笑んで、今度こそ本当に去ろうとした氷翠王を驚いた様に見つめて、氷翠王の腕を雪花は慌てて引きとめた。「あなた様は・・・・、あなた様は妾が気味悪くはない、のか・・・・?妾は見苦しいこの姿をあなた様の御目に入れたく・・・・なく・・・・・・。」雪花は自分の言っていることが判らなくなり、苦しく目を伏せた。自分のこの醜悪な足の傷を見られるのが厭で、足を傷つけた理由をこの方に知られておぞましい、と嫌悪されるのが何よりも怖くて。誰に何を思われようとも心が動くことはなかったが、自分はこの方に疎まれては生きてはいけない・・・・・・・・・。だから失礼を承知で氷翠王を避けようとしたのだ。けれど、氷翠王の言葉に一瞬息をするのも忘れた。『そうだな。馴れ合いになればお前はきっと苦しくなる。』『分かってる。大丈夫だ。お前を不安にさせたりしない。』この言葉は雪花の表層を掻い潜り、更に深くを知った上でしか出てこない言葉だ。人に触れ合う事を恐れ、自分の事を他人に知られる事に怯え、そしてそれでも触れてくる人間におぞましささえ覚えながら憎んできた雪花の心を。悟られた気がした。臆病でおぞましい自分を。それでも氷翠王が雪花に向けた言葉は、雪花を傷つけはしなかった。他の者の様に。氷翠王の言葉は温かく皮膚に溶け込んで、身体の内に沁みる。雪花を心から思いやる言葉だったからだ。その言葉の中に、雪花に避けられ拒まれた事に対する負の感情は欠片もない。こんな事は初めてだった。いや、氷翠王に助けられて拾われてからこの方にはそんな仕打ちを受けた事はなかったが。けれど思いもよらなかったのだ。己が主を軽んじるような態度を取っておいてまでも咎めず、それどころかこんな言葉を向けられるとは。雪花は“禁足地”である此処に来てからまだ日が浅く、氷翠王と会うことは少ない。それでも村に来た最初、まだ怪我のせいで一人で歩けもしなかった頃、一人心細い思いをしていた事を知っている様に毎日見舞いに来てくれた。起き上がって歩けるようになった時も、村に馴染みやすいようにと色々手を打ってくれた事も知っていた。何よりあの地獄から助け出してくれた氷翠王のことを、雪花は誰より何より慕わしく思っていたし、この方のためなら何でもできた。命さえ惜しくはない。だが、何故。何故、このような奇跡のような言葉をくれるのだろうか。しかも、雪花自身気づいてもいなかった様な、心の内奥を汲んでくれる様な言葉を。ここまで気づいていて、何故気味悪く思わないのだろう。たぶん、この足の傷の理由を知ってはいないからだろうか。知っていれば、この様な言葉はくれないだろう。きっと、他の者と同じ様に嫌悪するだろう。自分でさえ、ゾッと思うのだから。だから、試してみたくなった。半ば以上、露悪的な感情に支配された様な気になったように自分を騙す。本当は、この温かい人から、この優しすぎて苦しい場所から逃げたいためのことだと、本当は自分でも分かっていた。(・・・・妾は臆病じゃ。)臆病すぎて、畜生にも劣る。「・・・・・・妾は、・・・・・・あなた様。」震える声と自虐の笑みで微笑みかけても、氷翠王はただ此方を静かに見据えるだけだった。「この足の傷は、妾が家が襲われた時につけられたものではなく、妾が妾の手でやったこと・・・・・・・・・。」謳い上げる様に告げると氷翠王の目が微かに細められる。それを見、ああやはり、と思う。己の家の家臣であった者に裏切られ、屋敷に火をかけられ一族郎党を皆殺しにされた中で、長女であった自分だけ殺されずそのまま捕らえられ幽閉された。両親と、仲の良い兄弟たち、よく仕えてくれた家臣たちを焼いた火と、人の肉の焼ける匂い、中途半端に爛れた人の生臭い血肉、口の端でたがの外れた欲望と醜悪な本能の含み笑いを佩く男どもと、陵辱される女たちの悲鳴、交じる体液の香りと精液の匂い。それらが頭の中に蔓延るまま、連れてこられた部屋でその惨劇から一日も終わらぬまま、我らが家を裏切り皆を殺した男に陵辱された。半狂乱になり、その男の持っていた刀で男を何度も何度も突き刺したことを覚えている。乱れる息のまま気がついた時、自分が一番に気になったのは男の死体ではなく、もみ合った時についたであろう脚の傷から流れる血に目が釘付けになった。一気に燃え上がった激情のままに、男を貫いた刀でその傷を何度も突き刺して切り開いた。この男と同じ血が流れているのが許せなかった。このむごく苦しい感情が自分の身を焼くのが許せなかった。皆が死に、自分一人が生きているのが許せなかった。こんなに苦しい感情がどうして自分に降りかかるのかが許せなかった。感情があること自体許せなかった。皆のこと以上に、感情が自分を苦しめるのが許せなかった。なんて自分勝手でおぞましい感情か。後に思い出した時は涙が出て、止まらなかった。けれどその時は、そんな言葉なぞ頭にも浮かばず、ただ自分の足を刺して刺して刺し貫いて、そばに落ちていたからくりの機械の部品をその傷から体内に押し込んだ。何度も、何度も。突き入れた部品は、治療の後で知ったことだが、五十にも及んだらしい。たぶん、その時は感情のない物になりたかったのだと思う。人形かからくりか機械に。狂っているどころではない。自分の中にそんな感情があること事態、おぞましくておぞましくて、・・・・・・・・怖かった。死にたかった。あの時に殺されたかったのだ。そうしたなら、知らないまま死ねた。こんな、自分に対する生理的嫌悪など覚えずに。ここまで一気に話し、雪花は目を背けた。(・・・・・・・これで。)これで終わりだ。何もかも。この話しで最愛のこの方は自分を見捨てるだろう。こんな者を助けるのではなかったと後悔すらするかもしれない。そうして待った言葉は、予想通りのものだった。「馬鹿だな・・・・・・・。」氷翠王は切り捨てるように呟く。その口調も想像通りのものだ。痛く苦しいものが雪花の中に生まれる。同時に歓喜した。この方に見捨てられれば妾は生きていけない。ようやく死ねるのだ、自分は。「お前は馬鹿だ。自分が先に逝った者を裏切ったと思って辛かったんだろう。なのにそれを解決する手段がどうしてまた、人を裏切ることなんだ。自分の真実から目を背けて。苦しかったんだろう。解放されたかったんだろう。本当はただ、先に逝った者たちに許されたいと思ったんだろう。そうして、生きたい、と思ったんだろう?」氷翠王の瞳が強さを増し、厳しくきりきりと細められた。「・・・・・・・・・・・。」逆に雪花の瞳は有り得ないものを見るように見張られる。「死ぬなど、許さない。」断固とした口調に、雪花は身体が震えた。「お前が自分の足を傷つけたのは、先に逝った者たちを忘れて自分の心の保身をはかったためじゃない。そうしなければ生きていけないと祈ったんだろう。ここで死ねば先に逝った者たちに何もしてやれないと思ったんだろう。」「・・・・・・・・どうして・・・・・・?」どうして分かるのだ、この人は。さっき話を聞かせた時そんなことは自分は言わなかった。自分の感情がなくなればいい、と思った。けれど同時にこうしなければ生きていけないと、殺された皆に何かをしてやらねばとも思った。けれど、忘れてしまいたいと思ったことも事実で、時間が経てば経つほど皆のためにという思いはあのときの自分を正当化するためだけではなかったのか、自分の心を思っただけではないのかと思うようになり、その全てが嘘のようで自分が信じられなかったのだ。涙が出そうだった。言って欲しい。もう少しで掴める所まで来ている。“真実”が。「・・・・・・・・お前はずっと生きたかったんだ。立ち上がって。前を見据えて。先に逝った者たちのために、何をしてやれるか探したかった。だから理由が欲しかった。生きる理由が。」雪花は目を見開き、その細い肩を震わせた。それを静かに見下ろしながら、氷翠王は口を開いた。「でもお前は優しすぎる。」「・・・・・・・あなた、様・・・・・・。」何処までも真摯なまなざしが雪花を射る。「優しすぎて、背負いきるには苦しすぎたんだ。」雪花の肩の震えが大きくなる。ふ、と憑き物が落ちたような瞳を雪花は滲ませて、その頬に幾筋もの雫が滴った。その一言で、全てが許された気がしたのだ。「・・・・・・・・かた、・・・・・・・かたじけ、のう、御座います・・・・・・。」その冷えた頬に美しい黒髪が掛かるのを梳いてやりながら、氷翠王はどこまでも真摯に、静かに言葉を紡ぐ。「今からだって遅くない。」それに何度も雪花が肯くのを見、氷翠王は幼児にするように頭を撫でてやる。「大丈夫だ。何があっても力になる。皆も居る。怖いものなんて何もない。」温かい心からの言葉が雪花の身体を包む。舞い落ちる冷たい雪も、今は何よりも優しく感じられた。
2006年04月01日
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「私は、見捨てない。」限りない強さをその声音に滲ませ、その毒のように強すぎる“赤”の瞳が真直ぐに此方を見据える。殺気さえ宿す、真率にすぎる、眼。不屈の意志を表すこの人に、一体誰が何を言えただろうか。「氷翠王【シャナオウ】様・・・・・・・・・。」狗王【クオウ】は内心呻きつつも、主を諫める言葉を探す。だが、それも氷翠王が己の覚悟と共に述べた言葉には敵おうべくもない。自然と焦る心が苛立ちを生み、手指が畳を掻いた。その狗王の無意識の営みに、氷翠王は何を思ったのか一瞬眼を細める。次に氷翠王は凄まじい凛冽さで言ってのけた。「たかだか“守人”二人ぐらいで進退が危ぶまれるほど、お前たちは愚鈍か。もしそうなら、今まで、時間が幾らあっても足りぬほど多忙な中でそれでもこんな時だからこそと、育てずともそこそこ使える人材を腐るほど見つけても手を出さず、多少のリスクを負っても仕事を与えお前たちを育ててきた私は、かなりの時間を無駄にした、と言うことだな?」氷翠王のあまりの言い様に狗王は眼を瞠った。神に護られた身の“守人”二人をたかだか、と言えるのはこの人ぐらいではあるまいかという思いと、侮りの言葉に十分の自負と誇りをもって否、と言える思いと。矛盾した自分の中のそれらの感情に、狗王は思わず膝を叩いて笑いたい衝動に駆られる。守人二人を主が連れてきても、もう慣れてしまったのか『なんだか分からんが客人』で済ませてしまう良く言えばおおらかで豪胆な朱樺【シュカ】の臣下たちの中、自分だけはまともだと考えていたが・・・・・・・・・。(相当毒されていたらしい。)これであの子供二人が居つくようになれば、村の連中は他の氷翠王に拾われて来た者たちの時と同じように、『なんだか分からんが仲間』になるのだろう。その証拠に、目の前の主君は試すような厳しいことを言いながらも不屈のその瞳を笑ませている。それは、楽しげに。自分の言葉に『そんなはずはない。』とあたかも答えを得ているように。ああ、と狗王は嘆息する。(----------ああ、だからこの人だけには敵わない。)そして、その言葉を狗王の口から聴きたい、とばかりに氷翠王は柔らかく微笑して促す。軽く頬杖をついて、細い線の顎を少し上げて。こういう仕草を見て確認する。命令と人をいなすことに慣れている事を。(当たり前だ。)顔を覆う仮面で表情が隠れることを幸いに思いながら。自然と笑む唇を止める術も持たず。(朱樺の、・・・・・・・・・我らの主君たるべき人なのだから。)「泣く子も黙る狗王殿も、氷翠の前では跡形も無いな。」沈黙を長い間守っていた涼【リョウ】が最後に苦笑と共に言葉を紡いだ。それを皮切りに、来訪者の話は終わりになる。この男は早く氷翠王を休ませたいがために此処に居るのだろう。狗王も、これ以上この話を突付くつもりは無かったが退出の礼を氷翠王に向けた後、それでも釘を刺すのを忘れなかった。「彼らに関する情報は集めておいてくだされよ、涼殿。」その狗王の言葉に涼は涼やかに微笑んで見せた。『言われずとも。』口には出さぬ言葉が聞こえるのを狗王は確認して、「では、氷翠王様ゆるりとお休みなされませ。ですが、雪に濡れた体を温めることはお忘れにならずに。今の時分なら、温泉に誰も居らぬでしょう。」氷翠王をいたわる言葉を向けて、襖を開ける。その言葉に氷翠王が頷き、「ああ。心配事を増やした身で言うことではないが、お前も早く休め。」その温かい言葉を頼もしく、嬉しく感じながら、再び礼をし、部屋を出て長い廊下を一人で歩む。氷翠王の部屋から先程まで眼にしていた、静かに降る、見る度に氷翠王を思い出させる凄冽な雪を脳裏に思い出しながら。
2006年03月30日
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*“愚かな恋情”のその後 こんな真夜中に、両手がふさがるほどの花を抱いて学生寮に 帰ってくる男はこいつだけだろう。 こんな馬鹿みたいな時間に俺を起こしてくださる馬鹿の典型みたい な馬鹿はこの世で一人しかいない。 ・・・・・・・・・というか前にも言ったな、この台詞。 「馬鹿か、お前は。」 「何。あまりに僕を愛しすぎたための嫌がらせ?」 呆れた俺の言葉を歯牙にもかけずこいつは。 いつものただ、面倒くさそうに人をおちょくる。 「何だよ、“ソレ”は?」 「これ?」 噎せるような花の香りを指先にまでまとわせ、またその指で 気だるげに前髪をかき上げながら、そいつは笑った。 「ナマ花。」 「なまばなって・・・・・お前なあ・・・。」 「造花は嫌いなんだ。」 何でもないように言い、 「ナマ花が急に欲しくて欲しくて堪らなくなるんだよ、特に夜。」 「・・・・・・・何かあるのか?」 「何が?」 「お前は人をおちょくるためならどんな面倒くさいことでも しそうだからな。」 「ふーん?知らなかったよ。それって褒めてる?」 「ある意味な。」 「だと思った。」 「で?その花の選択基準は?」 夜の闇に沈むように香る花は全て白だ。 それが何ものにも染まりながら何ものにも染まらないこいつの スタンスに合っているようにも感じる。 つまり、根無し草。 口に出さずとも伝わったのか、奴は目だけで笑う。 楽しそうに。 「ああ。白くて香りの強い花がいい。」 「どうしてだ?」 ああ、なるほどと思う。 この条件ではこいつの言う“ナマ花”の意味がわかる。 妙に納得した俺の顔を見て奴はそうだよ、と台詞を丸投げ。 やりにくい奴だ。 口にしてないのに何故分かる? こう言えばこう返ってくるだろう。 『愛しているからだよ。』 何の気もなしに。 その悪意と紙一重のものが何だか分からない。 「腐食する過程がいいからだよ。」 やめろ。 邪魔をするな。頼むから。 けれどこいつは全てを分かった上で、俺の思考を途切れさせる。 「噎せるように強い香りがいい。」 全て分かってやっている。 「柔らかく噛んで、舌で香りをなぞって、しゃぶって。甘苦い蜜を 啜る、噎せかえるほど。」 一気に思考がぶっ飛んだ。 「・・・・・・・なんだって?」 「ナマ花がいい理由。」 睦言を紡ぐように言う。 「・・・・・・・・何で噛む必要があるんだ?」 突っ込む所を間違えてる。 相当動揺しているらしい。 らしい、とか言いながら自分のことだが。 「・・・・・・・・・ッ!?」 意外なほどの力で引き寄せられる。 一瞬、何が起こったのか分からない。 喰い千切る様に首筋を咬まれる。 だが、ほんの刹那に奴は離れた。 何の気も無く、あっさりと。 そして無関心にこちらを一瞥して言葉を面倒そうに捨てた。 いつもの笑みなしに。 こいつが笑みを“作”らないのは珍しい。 「君が要らないことをぐだぐだ考えてるからだよ。」 言い終わると奴は手の中の白い花を自分のベッドの上に投げ捨て る。 さすがに眠いな、などと言いながら。 それは俺の台詞だ。 そして、シャワーを浴びてくる、と扉へ向かう。 それから、やっといつもの笑みをこいつは浮かべた。 「咬んで痕をつけるのが好きなんだよ。腐れ落ちても、 残るように。」 それは“花”にか?
2006年03月19日
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シンシンと月闇から降る雪は、音もなく地上の息の根を止める。まるでこの世の終わりのような静謐な夜気に身を浸しながら、狗王【クオウ】は目の前の稀なる人を思う。「氷翠王【シャナオウ】様。」余裕を含んだ中にも狡猾さが滲む狗王の、賢い獣の声を聞きながらも、開け放した襖の傍らに立つ氷翠王は振り返らない。北国に鳴る凛冽な雪景色に臨む氷翠王の背は、それと同じく触れる者を拒み、静謐だ。振り返らないその人の瞳は狗王からは全く窺い知れなかったが、この世界の神を宿し朱金の色に変わる前の瞳に酷似した、闇に沈む銀の虹彩が散る色が氷翠王の瞳の内奥に横切るのを見た気がした。冷たく、人を惹き付けて放さない眼を。この状態の氷翠王は始末に終えない。他人の意見を聞かない方ではない。むしろその逆だ。どんな時にも冷静で理性的、的確な状況判断に指示、誰にでも何処ででも公平な態度・・・・・・・・・。身分など関係なく、対する人間と同じ高さに立たれている。この方にかかれば、盗賊の子供も貴族の弟妹も皆一緒だ。どんな相手でも対等の存在としてみる。それが良いことか悪いことかは狗王には言えないが、皆氷翠王を語る時に言う言葉は同じだ。『あの方は特別です。』、と。臣民は語る、誇らしげに。あるいは、幸福そうに。偏見に過ぎぬ私見を振りかざす人では決してない。だが、他人の命がかかっている問題の場合、この方は何を賭しても自分の意見を翻さない。要するに、言っても無駄。止めるには命懸けでもっても、無理。叛乱を起こして逃げて来た地でも、それは変わらず、とどめには死に掛けた人間を拾ってくる始末。つまり、何があっても治らない。・・・・・・・新種の病気のようになってきた。そのことが判ってはいたが、今回拾ってきた人間二人がどちらも“守人”となれば黙っている訳にはいかなかった。特定の貴族の“犬”である彼らは、生まれて二、三年で貴族である主のために生き、主のために死ぬように教育される。皓【コウ】国を興した時代から共に在る彼らは、この時代の今日まで『守人が主を裏切った』などとは聞いたことがない。黒髪に黒眼が普通のこの国では、三神の愛でる守人たちは異色であった。金か銀糸の煌びやかな髪の色に、瞳は黒ではなく様々な色の宝石を嵌め込んだ紅や紫、碧緑、蒼、金や銀・・・・・・・・・・・・。帰りの遅い主君が連れてきたのはまさに異色を宿し、神掛かった美貌と幼年でも比類なき強さを兼ねそろえた、貴族所有の贅を尽くした【人形】であった。貴族の追っ手か、氷翠王暗殺のための者たちであるかもしれない。まず守人と言えば上級以上の貴族が裏で糸を引いていると見て間違いない。しかも二人、だ。片方はただの人と守人の混血であったが。そんなことはどうでもいい。だが、そのような者をこの【禁足地】に置いておく訳にはいかない。いくら相手が瀕死の子供であっても。我々にとって守人二人の命と氷翠王様とでは、重さの比重が違いすぎる。そんな危険は冒せない。「氷翠王様。」乞うように呼ぶ。氷翠王が静かに息を吐くのが聞こえた。・・・・・・・・・振り向く。灼熱の太陽より激烈な朱金の瞳が狗王をカチリ、と音がするほどの意志の強さで射た。その瞳はまっすぐ過ぎて、狗王には眩しすぎる。この方は馬鹿ではない。むしろ頭の回転は早いに過ぎ、鋭敏すぎる感受性は相手の感情を的確に読むに過ぎる。その刃のように鋭い感受性のあまり、氷翠王は哀れなほど人の負の感情に敏感だ。その氷翠王が連れてきたのだ。狗王が先程考えた問題点などとっくに見越していただろう。連れて来るからには相応の思慮をしただろう。・・・・・・・・・・それから、相応の覚悟と決意を。守人を抱えることで被るこの村への代償も、その鋭敏にすぎる頭で答えを出しているだろう。この方は何にするにもその代償と覚悟をその身に負っている。覚悟の上でやっている。それは判っている。判ってはいるが、それを許すことはできない。何故なら狗王は氷翠王の参謀であるからだ。「我が君・・・・・・・・・。」狗王は氷翠王に自覚を促す呼び名をわざと向けた。『貴方は我らが王である』、と。この言葉が縛る氷翠王の血の意味と効果を十分に理解しながら。そして続けた。「本来なら、貴方が何を選ばれても、我は貴方に有利なように働きかけるでしょう。その覚悟と洗礼も我が身にはありますゆえ。」狗王はいつもの狡猾さの失せた真摯な眼を氷翠王に向けた。その視線を氷翠王は同じ強さでもって受け入れる。静かな覚悟という名の氷をその瞳に滲ませながら。それを確認し、狗王は『やはり、この方。』という自負を深める。「なればこそ、あの守人二人は捨て置くことはできません。・・・・・・・代替のないものなど、この世にはあまりない。だが、我らにとって貴方が“それ”だ。」氷翠王は口も挟まず黙って聞いている。「“守人”・・・・・・・・引いても稀なる純血の子供です。たとえ万に一つでも、貴方を失う恐れのある者をこの地に許すわけには参りません。」狗王のその言葉を、ここで初めて氷翠王が遮った。「・・・・・・十三年間の人質生活の間、私の周りには敵ばかりだった。その中で今の朱樺【シュカ】家を取り戻すために、私は朱樺家と私のことを一番に考える味方をつけねばならなかった。・・・・・そうしなければ生き残れなかったからな。私も、朱樺家も。」風に運ばれて肩や頬に触れる雪に指で触れながら、時折聞こえる村人たちの喧騒に愛おしげに眼を細め氷翠王は静かに声を紡ぐ。「確かに私はお前にそういう類のことを要求しただろう。」薄曇りの月光と、明々と燈る松明に照らされた外の世界を氷翠王は見る。私はあの場所で足掻いていた。だが今は全てが静かだった。あの時血を吐くような祈りと努力の中で欲しかったものの半分は、この手の中にある。・・・・・・・だが残り半分は、未だ手にしていない。まだ、終わっていない。あの地は、自由ではない。「多分、狗王・・・・・・・・。」二人といない忠臣の一人をその瞳に映しながら、氷翠王は柔らかに笑んだ。狗王の眼が少し見開かれる。「私は朱樺の地と結ばれている。・・・・・・・この身が朱樺の宗主であるならば、私が手にする栄冠は民のものであるべきだ。私が何かを欲しがるのなら、それは民のためでなくてはならない。」氷翠王の瞳は暖かく、まるで菩薩の慈悲を現すかのように優しく微笑む。「でなければ意味がない。・・・・・・私の存在意義も。」雪がその指に触れて溶けていった。春のように優しい穏やかさでもって。「“貴”の一族であるとするならば、民に肩入れせずに一体誰に与える?お前の言う“守人”も、等しく皓国の民であろう。貴族を名乗るならば、救いを求める民に剣を向ける愚行を許されるはずもない。」「いくら強くあろうとも、彼らは子供だ。この村の子供たちと何の隔たりもなく。・・・・・・・私は朱樺の地を取り戻したいと思ってる。この【禁足地】の村のお前たちのための場所を。・・・・・・・・これだけは誓おう。そして決して違えないと誓う。もし私に力があったなら、何も迷わないだろう。けれど今は私には【禁足地】を離れ、お前たちに報いることができない。今、私にあるのは、この誓いだけだ。だから彼らを見捨てることはできない。お前たちを守ると言った同じこの口で、この手で、今彼らを見捨てれば今後どの躯(からだ)で民に報いることができる?・・・・・いや、できないだろう。」真摯な違えることのない本心からの氷翠王の言葉に、身体が熱くなる心地がする。言葉の端々から、この【禁足地】の・・・・・・引いては自分たちのことを想う主の心が伝わる。我らがためだ、と。隣で柔らかに笑む気配がする。今までずっと隣に黙って控えていた涼【リョウ】だった。情報収集を主とする氷翠王の懐刀である彼は、氷翠王にしか見せない笑みに、涼やかな美貌をわずかに綻ばせて微笑した。呆れたように、誇りに想うように。『こうなると思った。』と言うように。
2006年03月13日
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*“悪意と紙一重の”のその後 「お前、好きな奴とかいないのか?」 「やだなあ。わざわざ確認しなくても、君と僕との友情は 不滅だよ。一割ほどは。」 「・・・・・・・・残りの九割はどこに消えた?」 「大丈夫。まったりとそれでいてしつこく友達のフリを して、すっかり油断した君に襲い掛かる予定だから。」 「・・・・・・鬼か、お前は。」 「やだな。そんなこと僕だって知ってるよ。」 「・・・・・・・というかな、言いたくないなら言いたくないと素 直に言え。」 「いや、ほんとはただめんどくさいだけ。」 「・・・・・・・・・・。」 「あれ、どうかした?急性貧血?」
2006年03月07日
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「いつも笑ってるね。」 「違うよ。作ってるんだ。」 君たちが望むから。 何が楽しくなくとも、僕は普通に生きていける。 そうしてそのまま腐敗して、朽ちていってあげるよ。 「ねえ、遊ぼう?」
2006年03月07日
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