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2006年03月03日
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「ドブ、かな?煌【コウ】君はむしろ、泥沼だと思うよ。」
煌が立ち去って、一人になった紅丹【ボタン】に、穏やかなけれど線の細い声が掛けられた。
その穏やかな声とは裏腹に鋭いツッコミを聞いたような気がするが、精神衛生上の都合により、紅丹は無視した。
「あら、居たの。千波【チハ】。」
振り返り後ろを見ると、そこには長身の青年が立っていた。
手足も長く長身だが、その青年にいたってはバランスの良い体型だとはお世辞にも言えない。
いや、本来はとても良く、見栄えがするのだろうが、端整だが蒼白いにすぎる顔色と前屈みの姿勢が手足をあまりに長く見せすぎ、まるで幽霊・・・・・・・・・・・・・・、いやこれは失礼かもしれない、と紅丹は千波の悲しそうな顔を見て思い直す。
・・・・・・・・・と言うか、口に出していなのに何故判るのだろうかこの男は。
一瞬不安に思ったが、紅丹は気を取り直して千波に話しかけた。

半分答えは判っていたが聞くと、千波はほんの少し幸福な顔で優しく微笑んだ。
「しゃっちゃんの夜食を作ってたんだよ。きっと、ちゃんとしたものを食べずに帰ってくるだろうから。」
そう言って嬉しそうに笑う千波からは幸福の香りがした。
煌の麝香と煙草の匂いが交じるものとは違うその香りに、紅丹もわずかに顔をほころばせる。
氷翠王【シャナオウ】のことをしゃっちゃんと呼ぶ、幸せそうな千波の香りは、紅丹に本当に直ぐに氷翠王が帰ってくるような気にさせる。
「ねえ、本当にすぐ帰ってくる?」
紅丹が滅多に見せることない不安げな、捨てられた子犬のような表情に千波はどうして?と柔らかく聞き返し、頭を撫でてやる。
時折周囲の者が思わずゾッとするほどの老成した面を見せる紅丹は、こうしてふっ、とした瞬間に歳相応の十歳の少女の面も見せる。
完成された精神の中にひどく繊細な部分を隠し持つ紅丹を千波は実の妹のように気に掛けていた。
紅丹もそれが判るのだろう、弱音を吐くようなこんな表情を見せるのは、氷翠王と千波の前だけだった。
現に『氷翠【シャナ】の次に千波が好きよ。』と、公言してはばからない。

柔らかく言いながら、千波も早く会いたい、と思う。
一日しか留守にしていないが、純粋に。
氷翠王を待つことは好きだ。
彼女のために夕餉を作る時間は、とても楽しい。
『美味しい。』と幸せそうに微笑んでくれる姿を見るのも、とても嬉しい。

昨日の朝出掛ける時も、氷翠王は美味しそうに朝食をちゃんと食べてくれた。
氷翠王は料理をきちんと味わって全部きれいに食べてくれるのでとても作り甲斐がある。
それに自分が氷翠王のためにできることはこれしかないのだ。
ならば、ちゃんと氷翠王の健康管理ぐらいは出来なければならない。
だから夜食を作って待っていたのだ。
氷翠王は決して自分の身体のことを疎かにするような人間ではないが、呼びにいかないと時折仕事の忙しさに忘れて食事を取らない事がある。
今日も千波の作った朝食を食べたまま、ほとんど何もちゃんとしたものを口にしていないに違いない。
それでなくとも、氷翠王は季節の変わり目になると体調を崩すことが多い。
それでも、氷翠王は暖かで優しい笑みを常に浮かべて周囲に悟らせないので、なかなかそれに気づけないのだ。
どころか、幼少の頃からかなり無茶をしてきたのだろう、自分の体調不良にも気に留めない・・・・・・・・どころか気づかないのかもしれない、ぐらいに、放置だ。
周りが気がついたときには体調はもう、治りかけ、何てこともままある。
それより気づかずに見過ごした事すらたぶん多いに違いない。
だから氷翠王の健康管理に千波はかなりの気を使うようになった。
村の者からもそれは一任されている。
だから、どんなに遅くても氷翠王が出掛けた日はいつも夜食を作って待っていた。
「・・・・・・・・・千波。」
紅丹の静かな声に、千波は自分の思考の中から引き戻された。
「・・・・・あ。」
紅丹の呼びかけに千波は屋敷の門の辺りが一気に騒がしくなったのに気がついた。
「帰ってきたわね。」
「・・・・・・そうみたいだね。」
村人達も屋敷の者も寝ないで氷翠王の帰りを待っていたらしい。
いつもの氷翠王の人気ぶりに千波は苦笑した。
皆、考えることは同じらしい。
煌もこんな時間であってさえ、こんな所に・・・・・・・・この屋敷の主、氷翠王の室の前の濡れ縁で居たのは、氷翠王を心配して待っていたのかもしれない。
そう思うと自然と口元がほころんだが、紅丹が静かに立ち上がり門の方に歩いていくのを見届け、千波は氷翠王のために作った夜食を温めに行くために立ち上がった。

*

静まり返った夜気の切るような静謐さが、門付近の賑やかなざわめきに溶けて散っていった。
どうやら、帰ってきたらしい。
馬鹿のように広い庭園を歩いていた足を止め、煌は煙草に火を点けた。
そしてそれを味わうように眼を閉じ、紫煙を吐き出す。
村の連中は、飽きもせずに氷翠王教の信者らしい。
侮蔑の笑みを唇に佩きながら、これは同時に自嘲と自重の笑みでもあることを自覚する。
一気に煙草が不味くなった。
苛つき、吸っていた煙草を地面に落とし、踏み潰す。
その時、ふ、と視線がとどくほどの近くで物音と人の気配がした。
厭な予感がして、眼を向けると、自分の勘が当たっていたことが判った。
てっきり、門の方で出迎えた村人達と一緒にいると思っていた。
大地を思うさま駆けるためにあるような伸びやかな足に、野生の獣のように無駄を削ぎ落としたしなやかな身体。
いつもは柔らかく笑んでいる瞳はけれど太陽よりはるかに激烈な光を宿してもいる。
普段はふつふつと静かに燃え立つその朱金の瞳。
だが、触れようとすれば一気に灼熱が燃え立つことを男は知っていた。
だから自分は可笑しいほどの情念をこの相手に向けることになったのだ。
陽だまりのような誠実な見守ってくれる優しさだけでは駄目だった。
強引な激しいだけのものでも駄目だった。
その両方の珠玉を持ち合わせるこの相手だからこそ自分はこの感情を持て余すようになったのだ。
相手も自分のほうに気づいたようだった。
視線がかち合う。
一瞬驚いたようだが、氷翠王はその瞳を柔らかく微笑ませ、ひどく暖かい、綺麗な笑みを浮かべた。
声は聞こえなかったが、その口唇が動いたのが聞こえる。

『ただいま。』、と。





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最終更新日  2006年03月03日 21時31分10秒
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