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たん、と軽い音をさせながら露天風呂から屋敷の離れへと渡る、ひやりと冷たい廊下を氷翠王【シャナオウ】は足早に歩く。
この、早いが慌ただしくはなく、無駄のない足音は氷翠王が仕事の体勢に入っている、という合図に近い。
いわば、戦闘態勢とでもいうものか。
この“禁足地”を一人でまとめ上げている氷翠王には実際休みなどないに近かった。
それは夜でも変わらない。
広い離れをまるまる自分の部屋としているのへ辿り着き、中でもいつも仕事をしている書斎へと足を向ける。
その書斎の扉をくぐりながら、中で待たせてあった部下へと声を向けた。
「留守中、異常はなかったか。」
「はっ。朱樺【シュカ】家も蒐【シュウ】家にも大きな動きはありません。結界の方も何も問題ありません。」

部下の一人を走らせ、残った方へと現状確認のための言を向け指示を与える。
一通りの慣れた手順を復唱をするようにたどり、差し出された書類に目と頭だけをフルに動かしながら、用の済んだ部下に指示を与え下がらせる。
机上には、半日いなかっただけとは思えないぐらいの書類が束で置かれているのが目に入った。
此処へ来て三年経った今でも問題は山積みらしい。
次の書類へと手を掛けると、それを遮るように静かに、けれど明確な意思を持ってノックが響いた。
けれど一度どっぷりと入り込むように集中した頭は切り替わらず、相手が判らないまま殺気がないことだけを確認して、書類確認の手を止めないままに無意識に氷翠王は促した。
「入っていい。」
そのことを知っているように、氷翠王の集中を逸らさないように細心の注意と気遣いを払ってその人物は扉を開けて部屋に入った。
「足塚か?」
それでも入ってきた相手に促しを求めれば。
「いいえ、違いますよ。」

静かな誠実なまなざしを向けられているのを感じて、氷翠王は初めて戸惑いを瞳に浮かべた。
殺気さえ籠もるようなひたむきな声に、魂の脆い部分が揺れるのを感じる。
一瞬、息が止まった。
否、心臓が掴み取られる感触に凍える。
弾かれたように顔を上げた。

その氷翠王の様子は“いつも”のものではない。
自制と厳しい自己犠牲に自らの本来の姿を歪めた、誰もが敬愛の念を向ける慈悲深い“理想”と“カリスマ”の姿ではなく。
年相応の。
否。
今のこの時代に牙を剥くような、まるで憎悪さえ宿しているように鮮血の赤より紅い瞳がふつふつと滾るように燃えている。
これが隠すことない氷翠王の本性だと、相対する男は知っていた。
「有家、清綱・・・・・・・っ。」
有家清綱【ありえ きよつな】、と。
名を呼ばれて初めて男は微笑した。
「あなたの傍以外、俺の居場所なんてありませんよ。」
有家が微笑みながら告げる言葉は真率で、けれどそれ故の慈悲はない。
穏やかな声はともすれば、残酷なほどまったくの逃げ場を残さない。
見かけほどに、禁欲的でも優しくもないのだ。
けれど、その最期の最期にいつも残される本心からの優しさを知っている。
この男が自分に与えるのはいつも、惨くとも血のかよう“真実”だということも。
この男がこのような声を向けるのは自分にだけだ。
「どうやって入って来た。」
「結界を維持しているいるのは、神生【カミオ】の当主ではないんでしょう。あれぐらいなら気づかせずに此処に入り込めます。」
何ともないように言うが、皓国にはこの結界を破れる者はいるだろうが術者たちに気づかせず何の拒否反応も起こさせずに外部から入り込める人間などいない。
怖い男だ。
「なにをしに来た。」
「どうしてこの地に“守人”を入れたりしたんですか。」
「・・・・・ずいぶん情報が早いな。まさかそれを聞くためだけに隣国からわざわざ来たのか。」
「この地は神がかりで監視されている。このことは考えずともあなたなら知っているでしょう。皓【コウ】国の三神の守護する者を入れればどうなるかぐらいあなたは知っているはずだ。」
「俺は前面には出ない。そう言っただろう。あくまで橋渡しに留まる、と。」
氷翠王の主語が、“私”から“俺”に代わったことに有家は何も思わなかった。
今回の転生が特異だっただけで、自分たちにはこの方が自然だったからだ。
そして氷翠王は一方的に禁じるように、その口調に怖いくらいの強さを表し、断じた。
「主体はお前たち黒曜【コクヨウ】国と皓国だ。」
一方的に話を打ち切ろうとする氷翠王に、有家の瞳が一瞬だけ強く眇められる。
「向こうはそうはとらない。」
「身体に宿っていても、俺は神の力は使えない。使えることといえば、周りどころか自分の身体にまで毒素を振り撒くこの眼と気だけだ。こんな者は、脅威とは呼ばないだろう。」
「元虎【もととら】様。」
「話は終わりだ。お前は村の者に気づかれない内に戻れ。」
言い放ち、突き放すように氷翠王はきびすを返す。
会話を切って部屋を出て行こうとした氷翠王の二の腕を有家は引っ掴み、力尽くで振り返らせた。
「!・・・・なにをっ。」
それ以上の抵抗をさせずに後ろから抱き込み。
「あなたを見ていると時折妙に癇に障る。」
驚いてもがく元虎の耳元に容赦なく囁く。
「そんな見え透いた嘘で一体なにを隠そうと言うんですか。」
「こうでもしなければあなたは本心を明かせませんか。無理矢理吐かせてやらないとあなたには駄目ですか。」
押し退けようと抗う手は杭を打たれたように比類ない強さで封じられる。
「あなたは見え透いている。」
それを皮切りに、灼熱が元虎の瞳にぶわっ、と燃え立つ。
その火傷では済まない熱に、有家は焼かれる。
凄鋭な光を漲らせて元虎は自分を見下ろす男を揺ぎ無く見据えた。
「それは、お前だろう。虚栄を捨て切れず、受け入れてくれと相手に希(こいねが)うことすらできない。みっともないほど泣いて縋ることもできないくせに何が“唯一”なんだ。一緒に血にまみれる事もできないくせに、“無償”なんて、笑わせる。いっそ欲しい、と欲しくて欲しくて堪らないとわめいたらどうなんだ。」
「だからあなたはいけない。己の内を犯されることが何より怖いくせに、挑発することばかり言う。あなたの言葉はどこまでも正しい。けれどそれ故に取り返しのつかないこともある。あなたは卑怯だ。」
「卑怯?お前が弱すぎるだけだろう。」
「あなたほどではない。」
捕らえていた腕を離す。
触れもしないまま上から覆いかぶさる。
「今夜のあなたは野蛮すぎる。
 ・・・・“元虎”で在ることに疲れましたか。それとも“氷翠王”に?」
「馬鹿な、ことを。」
「抗ったって駄目ですよ。あなたはただ俺に従属していればいい。」
「そんなことを俺はしない。」
「あなたは従うということがどれだけ屈辱で、どんなにか・・・・・・・楽だということを知らない。誰かに縋ればあなたは孤独から抜け出せますよ。」
髪を梳く手は優しいフリをしてひどく野蛮でむごい。
「・・・・・触る、な、・・・・・離せッ。」
「あなたは、俺が庇護してあげる。腕の中に囲って、何にも見させてはあげない。・・・・・・誰も、あなたを傷つけることはない。」
「俺は、そんなものはいらない・・・・・・。」
「嘘をつかないで。」
「こんなのは、お前らしくない。」
「そうかもしれない。」
元虎は苦く、唇を噛んだ。
これは彼が、何かを耐える時、受けた傷を癒そうとする時のしぐさだと、有家は知っている。
「あなたを、愛している。」
この言葉だけがたぶん、自分たちの間で一欠片の嘘もない言葉だ。
傷つけたくはない。
そう考える端で、二度と立ち上がれないほどに彼が傷つけばいいと思っている。
守りたい。
そう想う端で、彼の苦しみや悲しみより自分の独占欲の方が痛いと想う。
彼の誇り高い、きらきらと強い光が宿る瞳を見て、彼の大切なものをぶち壊してやりたいと想う。
彼を縛り付けるためなら、自分を殺すこともできる。
こんな本心を、元虎は知っているだろうか。
俺のことだけを見て、俺のことだけを考えて欲しいと想っている。
俺が愛しているだけ愛し返して欲しい、と。
彼は知っているだろう。
だから彼は受け入れない。
自己愛まみれの不全愛など彼は欲しがっていない。
けれど欲しくて堪らない。



そう、怖くてならない。







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最終更新日  2006年04月04日 23時33分04秒
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[サンセツキ  <本編>  第二章] カテゴリの最新記事


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