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入社当初は、駅前でのチラシ配りとマンションへのチラシポスティング。ベンチャー企業でしたので泥臭いことでも何でもさせられました。生まれて初めて競争社会に入ったので、不器用な自分は同期入社の中でも、成績は下のほう。なかなか契約を取れない自分に、自信を失いかけた時期もありました。でも、2年目に突入して、徐々に契約が取れるようになったのです。がむしゃらに働き、帰宅は深夜。早朝に駅前でのビラ配り。気がつけば、営業本部管轄内での営業成績で常にトップテンにランクインするようになりました。役職も付いて、会社からも認められるようになった4年目の春に転換期が訪れます。つづく
2007.02.12
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海外専門旅行会社のエイチ・アイ・エスの内定はもらったものの、海外旅行に一度も行った事がない社員というのも、恥ずかしいと感じ、ヨーロッパ放浪一人旅を計画。新聞配達の休みをコツコツと貯め込み、2週間の休みをもらって旅立つことになりました。このヨーロッパ放浪一人旅で、異国の人たちとのコミュニケーションをとることの楽しさを覚えました。また、行きたいなぁ。つづく
2007.02.11
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そして。。。国家資格一般旅行業務取扱主任者にみごと合格!同学年の合格者はわずか2名。(120名中)新聞奨学生として前例も作ることが出来ました。国家資格を切り札に、2年生の就職活動は、余裕をもって挑むことが出来ました。ベンチャー企業で急成長のエイチ・アイ・エス内定。そのまま卒業後、就職することになります。人間は、信念をもってチャレンジすれば不可能はない。この言葉は、いまの私の財産です。つづく
2007.02.10
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丸塚先生のアドバイスに従い、1年待ちました。そして1年後。片道切符を手に鹿児島から福岡へ。専門学校は2年ですので、2年生になったと同時に就職活動が始まります。秋に試験がおこなわれる旅行の国家資格は、1年生のうちに取得しなければ意味がありません。4月入学で10月受験。6ヶ月間の短期決戦です。いろんな事がありました。台風の日に強風にあおられバイクが倒れて新聞が水浸し。40度の高熱を出した時は階段を四つばいになりながら新聞を配りました。クラスメイトの遊びの誘いを断り勉強したこと。睡魔に負けそうになったら寮の屋上でバットで素振り。月末になると新聞代の集金もしました。そして・・・。つづく
2007.02.09
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新聞奨学生制度とは、新聞社がおこなっている制度で、新聞配達をしながら学費を稼ぐ!という素晴らしい制度です。住み込みで新聞配達をおこない、個室もあり、賄いも朝夕付きお小遣いも月に5~6万円もらえます。学費も2年間で150万円、新聞社が払ってくれます。しかも返済の義務なし。不足分は自分の貯蓄で補える範囲です。でも、ひとつだけ問題がありました。福岡にある観光専門学校に通学する予定で、入学説明会に行ったときのこと。学校の先生が、『新聞奨学生で国家資格を取るのは難しいよ。 前例がない。』その一言に対していつもなら弱気になる自分ですが、『絶対、国家資格を取ってやる!』と闘志に燃えている自分がいました。今までの自分と明らかに進化してます。でも、専門学校の先生が言うのも無理はありません。新聞奨学生の一日はこんな感じなんです。 3:00 起床&朝刊配達準備 3:30 朝刊配達 (約2.5時間かけて200件) 6:00 配達終了&朝ごはん 8:00 寮を出発 9:00 学校 ~15:00 4限目の授業を途中で退席16:00 夕刊配達 (約2時間かけて150件)18:00 配達終了&明日の朝刊用チラシ準備19:00 夕食&風呂20:00 自由時間 ~22:00 就寝このスケジュールのなかで、国家資格に向けての勉強時間を作らなければなりません。合格率一桁の難関である国家資格『一般旅行業務取扱主任者』その合格へ向けて人生初のチャレンジがスタートしました。つづく
2007.02.08
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旅行業界への転職。小学校の先生の一言が、源になった夢へ向けて具体的に行動する時期が来たのです。ただ、よく調べてみると旅行業界への転職は、未経験者には狭き門。そこで旅行の専門学校へ通学する道を探りました。旅行の国家資格をとって転職の武器にする。でも、ネックになったのが学費です。前にも述べたとおり、家族に頼ることは出来ません。自分で何とかしなければ。念ずれば道が開けると丸塚先生に教えてもらったとおり、必ず解決の糸口は見つかるものです。その糸口とは『新聞奨学生制度』つづく
2007.02.07
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私の人生を変えた丸塚照範先生。鹿児島県川内市の報恩寺の住職です。どんな人物かというと『型破りなお坊さん』第一印象は、『ヤクザ』思ったことを、ズバズバと言う、この人物に、徐々に引き込まれていく自分がいました。住職:「○田君。世の中の8割の人は、飯を食うための 手段として仕方なく仕事をしてるんだ。 君は、自分の信じた道を突き進む、 2割の人間なんだぞ!」 「ところで君の夢は何だ?」僕: 「はっ、はい。 世界を舞台に活躍できる人間になりたいです。 そのために、今働いている税理士事務所を辞めて 旅行業界に転職しようと思うのですが・・・」住職:「正解だ!」 「でも、もう一年待て!」僕: 「???なんで・・・ですか?」住職:「人生には波というものがある。 今年動いたら絶対にだめだぞ。」僕: 「わかりましたっ!」目の前の霧が晴れた感じ。まさに開眼したというか。この時、決断し目標に向かって走ろうとする一人の若者が誕生したのです。(カッコつけすぎですね・・・)つづく
2007.02.06
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税理士事務所の仕事は、税理士の先生のもとで、法人や個人事業の帳簿付けや決算、税務署に提出する確定申告書などを代行で請け負うものです。知識がゼロの状態ですので、必死に勉強し、簿記検定の2級に合格。最終的には、ひとりで何軒かの顧客を担当し、決算業務まで出来るようになりました。しかし、ちょうど3年が過ぎたころ私の心の中に異変が起きたんです。一日中、数字と睨めっこしている仕事を、このまま定年まで続けるのかと思うと、ゾッとしたんです。悩みました。給料も同年代の人と比べるといい。ちゃんと休みも取れるし、税理士の先生には可愛がられていました。でも、いてもたってもいられない感情が日に日に増していくんです。そこで上司に相談しました。すると上司がこう言ったんです。「やっぱり丸塚住職の言ったとおりやったねぇ」と。「僕が懇意にさせていただいているお寺の住職がおって、 最初に君を雇うべきか相談しに行ったとよ。 そしたら丸塚住職がこげん言った。『この子は、近いうちに目標に向かって旅たつぞ! 仕事は出来るやつだから、それでもいいなら雇いなさい』」「○田君、丸塚住職に会ってみんねぇ?」「はい!」この丸塚住職との出会いが、私の人生を180度変えていくのです!つづく
2007.02.05
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少年時代は、クラスの人気者というほどでもなく、勉強が少しできたくらいの普通の子供でした。性格が真面目だったせいか、小中高と学級委員長をよくやってました。前に述べたとおり、自分の家が貧乏だと気付きだしたのは、周りの友達と比べるようになってからです。近所の祭りに行くとみんな親からもらったお小遣いで、出店で買って食べたりするのですが、でも、自分はお金を持ってないので、ただ見ているだけ。また、お兄ちゃんのお下がりをよく使わされていて、周りの友達が新品の教材なんかを使っているのを見るとなぜ自分だけ・・・と悲しい思いをしたこともありました。でも今では、この貧乏時代の経験が、ハングリー精神というものでプラスに作用しているので、とても意味のある事だったと思います。上の二人の兄が、貧乏生活から抜け出すように社会人として就職していくのを目の当たりにして、僕も早く家を出て、苦しい生活から開放されたいと思うようになりました。そして高校を卒業すると鹿児島市内にある税理士事務所に就職することになります。つづく
2007.02.04
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おじいちゃんは、古紙や廃品を回収して業者に売りつける自営業。おばあちゃんは、近くのセメント工場で肉体労働。いきなり食べ盛りの子供3人を、養わないといけなくなったので大変です。昔の人って、ホント働きますよね。その姿を見て育った私も、今は休みなしで働いても平気なほど。祖父母に感謝です。おじいちゃんは、酒とギャンブルに弱く、特にお酒の方は、九州男児らしく酒豪。酔っ払ってタクシーの運転手さんを、側溝に落としたりと近所で評判の、かなり悪(チョイ悪どころではない)。小学校の頃までは、怖くてビビってました。ホント。そのおじいちゃんに文句も言わず、必死で耐えて働き続けるむかしの日本女性の代名詞でもある、おばあちゃん。ホントに苦労してました。そんな老夫婦の下で、普通の生活が期待できるはずもなく、なんと小学生の頃からおじいちゃんの自営業を手伝っていました。上の写真は、昭和の高度経済成長を支えた人力式、運搬車両。『リヤカー』です。そのリヤカーを兄弟で引き、近くの菓子問屋に行ってダンボールを譲ってもらう。友達は、野球やファミコンで遊んでいるのに、なぜ自分たちだけこんな目に。兄弟で自分たちの運命を嘆いたものです。クラスの好きな女の子に、リヤカーを引いている姿を目撃されたときには、ショックでした。(今では笑い話ですけど・・・)つづく
2007.02.03
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九州の南国。鹿児島県。私は、薩摩半島北部のドが付くくらいの田舎まちに3人兄弟の末っ子として、産まれました。振り返ると高校を卒業するまで、波乱万丈の人生だったと思います。両親の不仲は、幼ない私でも感じられ、喧嘩が絶えず恐怖で泣き叫んだのを憶えています。ついに私が小学校2年生のときに離婚。家庭裁判所でお母さんからせっかくもらったお小遣いを、返してきなさいと父親に言われ、返しに行ったシーンをなぜか今でも鮮明に憶えています。そして父親の両親(祖父母)の家に預けられ、貧しい少年時代を送ることになります。つづく
2007.02.02
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あることがきっかけで、自分の過去を振りかえってみようと思いました。そのことで自分の将来のための何かが見つかればと・・・
2007.02.01
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