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レインブーツのドッド柄、カーキ色 24.5cm~25cm、ヒール付、インソール入りなので、履き心地が良く歩きや… [ >>
2014年07月21日
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百二
 比田と兄が揃って健三のうちをおとずれたのは月の半ば頃であった。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年のにおいがした。暮も春もない健三の座敷の中に坐った二人は、おちつかないようにそこいらを見廻した。
 比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。
「まあこれで漸く片が付きました」
 その一枚には百円受取った事と、向後一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟は誰のとも判断が付かなかったが、島田のいんは確かに捺してあった。
 健三は「然る上は、ごじつに至り」とか「ごじつのため誓約くだんの如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。
「どうもお手数でした、ありがとう」
「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないといつまでうるさく、つけまとわられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長さん」
「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」
 比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣らないでもいい百円を好意的にやったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるためにかねの力をかりたとはどうしても思えなかった。
 彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、そこに自分が復籍する時島田に送った文言を見出した。
「私儀、今般、貴家ご離縁にあいなり、実父より養育料さしだしそうろうについては、今後とも、たがいに不実不人情にあいならざるよう心掛たくと、ぞんじそうろう」
 健三には意味も論理もよく解らなかった。
「それを売り付けようというのが向うの腹さね」
「つまり百円で買ってやったようなものだね」
 比田と兄は又話し合った。健三はそのあいだに言葉をさしはさむのさえ厭だった。
 二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。
「こちらのほうは虫が食ってますね」
「反故だよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠へ入れてしまえ」
「わざわざ破かなくっても好いでしょう」
 健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って訊いた。――
「さっきのかきつけはどうしたい」
「箪笥の抽斗に仕舞って置きました」
 彼女は大事なものでも保存するような口振でこう答えた。健三は彼女の処置を咎めもしない代りに、ほめる気にもならなかった。
「まあ好かった。あの人だけはこれで片が付いて」
 細君は安心したと云わぬばかりの表情を見せた。
「何が片付いたって」
「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ今までだっておなじことだよ。そうしようと思えばいつでも出来たんだから」
「だけど、ああして書いたものをこちらの手に入れて置くと大変違いますわ」
「安心するかね」
「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」
「まだ中々片付きやしないよ」
「どうして」
「片付いたのはうわべだけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」
 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。いっぺん起った事はいつまでも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお、いい子だいい子だ。お父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君はこう云い云い、幾たびか赤い頬に接吻した。





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最終更新日  2014年07月21日 05時32分35秒


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