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19世紀のアメリカ(40) 第2章 明白なる天命…1第2章のタイトルに、不可思議な表現を載せました。最初に、その意味と狙いをお話したいと思います。米英戦争勝利後の米国は、合衆国の将来に自信を持ち出し、スペインからフロリダを強奪に近い形で、買収したことに現れるように、西へ西へとひたすら合衆国の拡大の道をひた走ったのです。それ故、これjから記す内容は、まさに西部開拓史そのものです。それでも章の題名を西部開拓としなかったのは、そうすると、19世紀全てを包摂してしまい、黒人奴隷制とか、南北戦争といったようなテーマの章が、たてにくくなってしまうからです。そこで、西部へ西部へという米国の膨張を、当時に米国人がどう受け止めていたかという、米国人の意識を実にたくみに表現した言葉、「マニフェスト・ディスティニー」=『明白なる天命』を章名に選ばせてもらいました。当時の米国人は、西へ西へという合衆国の膨張を、米国の文明化の道とみなして、西へ西へとフロンティアの前線を、押し広げて行くことこそ、合衆国の「明白なる天命」であると、自らを納得させていたのです。インテリジェンスの高い1部の人々は、多少の疑問を感じつつも、そう思い込もうと務めたのですが、それ以外の多くの人々は、無邪気にそう信じていたというのが、1番近いでしょうか。上に掲げた絵は、ジョン・ガストという大衆画家の「アメリカの進歩 明白なる天命」と題する1872年作の絵です。当時の太平洋岸への旅行のガイドブックの宣伝用に描かれたものです。東から太陽が昇る中、中央に女神が描かれます。女神は左手で電信線を持ち、右手には文明の書を抱えて、西へ向かう人々の中を進みます。地上では、時間差を持ちながら、様々な人々が西へ向かいます。幌馬車、駅馬車の進む後を鉄道が走ります(大陸横断鉄道は、1869年に完成しています)。猟師や鉱山夫が未開の地に分け入る後を、農民達が進みます。未開の辺境は、こうして文明化されていくのです。1番先頭を示す、左隅では、先住民が暗闇に追われ、さらに追い立てられようとしています。西部開拓の一齣一齣を、何もかも盛り込んだ、単純でけばけばしい絵なのですが、当時の米国人多数派の意識を、代表してくれている絵でもありますので、ここに掲げました。 続く
2010.06.11
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秋田の母子犬の里親探しの記事です。おかげさまで、子犬1頭と母犬ウメの引き受け先が決まりました。さらに20日に、メスの子犬1頭の飼い主が決まったそうです。そして22日に、さらにメスの子犬1頭の里親さんが決まりました。最後に残ったオスの子犬も本日、里親さんが見つかったようです。たった今、犬猫ネットのサイトに飛んでみて確認しました。皆様もどうぞ、ご確認下さい。3/18撮影の子犬の写真も犬猫ネットにアップされています。捨て犬 保護から里親探しの記録犬猫ネット道路特定財源を考える(4) 車社会の盲点?道路問題を考えるには、21世紀社会が自動車をどう位置付けるかを,考えるべきだと記しました。そこで、今日指摘されている論点の中で、比較的軽視されている点に、少し光を与えたいと思います。その第1は、公共交通機関や公共空間を利用する時の子ども達や若者のマナーの悪さ、機転の利かなさです。電車やバスで乗降口を平気で塞いで、降りる人が、スムーズに降りられないケースは、日常的に見受けられます。お年寄りや身体が不自由な人に席を譲るに際しても、別の方がそうするのを見て、始めて自分も…とおずおず立ちあがるケースも、良く見かけます。もちろん、もっと態度の悪いケースもままありますが… こうして長じた女の子の場合、社内で平気で化粧道具を取り出すという愚行を演じることになり、男の場合は、やや長くなった脚を人の迷惑を考えずにだらしなく投げ出すようになるようです。こうしたマナーを教え込むのは、本来家庭教育のレヴェルに属することですが、それが出来ていない家庭が、年々増えていっているように感じられます。この原因を,私は車での移動が中心になって、家族で公共交通機関を利用する機会が著しく減っているため、乗り物内や駅構内でのマナーを,教える機会がなくなっているせいではないかと考えています。過度な車依存のマイナス面でしょうか。第2に、より大きな問題なのですが、学力とも大きく関係する体力と運動能力の問題です。学力低下については、毎年のように時折新聞紙面を賑わすのですが、実はそれ以上に深刻で大きな問題である日本の若者の運動能力と体力の低下については、ほとんど光が当てられていません。適度な運動は代謝を促し、血行を良くしますから、常に身体中を新鮮な血液が循環します。当然そうなれば脳の活動も活発になりますから、授業の集中度も高まり、理解力も上がり、集中力も増します。当然物覚えも良くなりますし、持久力も増すことになります。教育の効果は、明らかに高まります。ところが、運動が不足すれば、この逆になります。そして、日本の青少年の体力と運動能力は、調査の度に大きく減じているのです。例えば50m走の党外年齢当たりの平均タイムは、既に1990年に比べても、かなり遅くなってきています。運動会での徒競走の開始から終了までの時間も、生徒数が減っていても、以前よりも時間がかかるようになっています。肺活量、片足立ち、腕立て伏せ、懸垂などなど、あらゆる項目で悪化しているのが現状です。ゆとりの教育が学力低下の原因だ。いや詰め込み教育こそが子どもたちの学びの意欲を奪ったのだと、議論は喧しいのですが、私に言わせると、教育論というのは、論者の数だけ意見があり、誰もが自説こそが正しいと信じて、議論を戦わせていますから、未来永劫先ず1本にまとまることのない性格を持っています。それに、どの説も1面の真実を突いています。ただ、今の議論に欠けていると思えるのは、基礎体力と運動能力を高めることの有効性につての指摘なのです。では、子どもの平均的な運動能力は何故落ちたのか。車移動が多くなって、歩いたり、走ったりする時間が減っていること、自宅周辺の遊び場を奪われ、身体を自由に動かす楽しさを味わう事が出来なくなっていること、これが大きいように思えるのです。勿論テレビゲームの普及で室内遊びが増えたことも影響があります。砂場や、浅い池や.畑といった素足で水や土に触れる機会の減少も大きく影響しています。土に親しみ、太陽光を浴びて、身体いっぱい遣って遊ぶ時間を確保することで、体力・運動能力が上がると、物覚えも各段に向上します。このことは筑波大学の体育学科や早稲田大学の人間科学部の研究によって、明かにされつつあります。過度なマイカーへの依存を慎むことで、子どもたちの能力を、ある程度高めることも可能なようです。我家から、徒歩すぐのところに、公立の小・中学校が並んでいるのですが、毎朝、子どもをマイカーで送ってくる親御さんは、1人、2人どころではない現実を目撃しています。これで子どものためになると思っているらしいのですが、何とも悲しむべき現実です。21世紀における自動車との付き合い方を考えるには、こうした問題も念頭に置くべきであろうと、私は考えます。
2008.03.24
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クロニクル ドイツ皇帝オランダに亡命1918(大正7)年11月9日92年前になりますね。第一次世界大戦が終わりを告げる時の混乱の一齣です。4年数ヶ月に及んだ大戦も、ドイツの敗色が濃くなってからは、急速に連合軍の勝利に傾いて行き、ドイツはキール軍港の水兵叛乱から、国内はまさに革命情勢に蔽い尽されるような状況になって行きました。この期に及んでなお、カイザー、ヴィルヘルム2世とその幕僚達は、決断の先延ばしを続けるありさまでした。しかし、首都ベルリンで、社会民主党中心に革命政府の樹立が宣言されるに及んで、この日、オランダへ亡命したのです。亡命後も帝位の維持を目指しましたが、衆寡敵せず、遂に11月28日に退位宣言に署名しました。なお、ヴィルヘルム2世は、その後も1941年の死去まで、終生オランダに留まり、ドイツ皇帝として復位することに執念を燃やし続けたと、言われています。悲しき執念とでも、言うべきなのでしょうね。
2010.11.09
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クロニクル 四国連合艦隊下関砲撃1864(文久4)年8月5日この日、英・仏・米・蘭、四国の連合艦隊が、長州藩の下関砲台を砲撃、僅か1時間の戦いで圧勝する、圧倒的な戦力差を見せつけたのでした。この砲撃は、前年の5,6月に、長州藩内の尊皇攘夷派の久坂玄瑞らが、幕府が朝廷に約した期限が来たことを背景に、実際に攘夷を実行しようとして、決行したものでした。この理不尽を怒った四国は、イギリス公使オールコックを中心に計画を練り、準備をすすめたのですが、藩命で密かに英国留学の旅に出ていた、伊藤俊介(博文)と井上聞太(馨)の2名が、この情報を得て、ロンドンから大急ぎで帰国し、オールコックに、藩説得のための、しばしの猶予を願い出たのです。オールコックは申し出を喜びましたが、二人の説得も藩内の保守派には、届きませんでした。こうして、四国連合艦隊は、17艘の艦船に5000名の兵士を積んで出航したのです。長州藩の久坂ら尊皇攘夷派は、ほとんど何も出来ずに終りました。武士の軍隊が全く役に立たない事がここに明らかになりました。そして、この戦い以後、長州藩も、欧米列強と戦う無謀を避け、開国へと、大きな路線転換に、踏み込んで行く事になりました。
2008.08.05
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クロニクル 長野五輪開幕1998(平成10)年2月7日もう15年も前になるのですね。この日、第18回長野オリンピックが開幕しました。会期は7日~22日までの16日間でした。1972年2月3日に開幕した札幌五輪から26年後のことでした。冬季五輪は、夏季五輪と違い、雪国であることが開催条件になりますから、開催可能国が限られます。それゆえ、夏季五輪に比べれば、日本での開催可能確率は高いことになります。それにしても、1964年の東京オリンピック以来、全くチャンスらしいチャンスを持てなかった夏季五輪とは大いに違いです。それにしても夏季五輪のアジアでの開催は、64年の東京、88年のソウル、08年の北京とまだ3回だけです。5回に1回という割当は、アジアの人口からすると、少なすぎるように思えます。もっと増えて良いと思うのですが、さて……。
2013.02.07
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クロニクル 新宿駅西口バス放火事件発生1980(昭和55)年8月19日33年前のこの日、午後9時過ぎのことでした。新宿駅西口の20番バスのりばで、発車待ちで停車中の京王バス中野車庫行きに、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両の後方へ投げ込みました。火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事となりました。犯人(犯行当時38歳)は北九州市出身、5人兄弟の末弟で、全国を建設作業員として転々としていました。1972年に結婚したのですが、長男の誕生後に離婚。子供を児童施設に預け、各地などを転々としながら現場作業員として働き、毎月子供に仕送りをしていたそうです。事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところを、通行人にここから出て行けと言われてカッとなり、犯行に及んだのだそうです。死亡した6人の中には、後楽園球場(当時)のジャイアンツとスワローズの試合を観戦帰りの父(40歳)と子(8歳)や、子供の運動靴を買うために、勤務先からの帰宅途中にわざわざ新宿に立ち寄ったがために、事件に遭遇した母子家庭の母などがおり、当時盛んに報道されました。判決は1、2審とも無期懲役となり、刑が確定したのですが、犯人は1997(平成9)年10月に、服役中の千葉刑務所内で首吊り自殺を遂げました。55歳だったそうです。
2013.08.19
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クロニクル 昭和新山誕生1944(昭和19)年6月23日ちょうど70年前のことです。この日、北海道有珠郡壮瞥町の有珠山の東麓にあたる畑地が噴火、溶岩が堆積して標高398mの昭和新山が誕生しました。誕生当初は、ちょうどアジア・太平洋戦争の最中、しかも次第に日本の敗色が濃くなってきた時期だったため、国民の動揺を恐れた軍部は、噴火と新山誕生の事実を公表せず、かん口令を引いて事実を隠しました。このため、戦後に事実が公表されるまで、公的機関による観測も禁止されたままでした。7年後の1951年には、国指定の特別天然記念物に指定されましたが、温度の低下や侵食などによって、年々高さが縮んでいることが、気にされ始めています。
2014.06.23
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クロニクル 昭和の岩窟王に無罪判決 1963(昭和38)年2月28日この日、名古屋高裁は、昭和の岩窟王と呼ばれた吉田石松翁の再審裁判において無罪を言い渡し、裁判所としては異例の行動でしたが、司法界の先達による誤った判決で迷惑をかけた旨を深々と詫びました。吉田石松翁が、無期懲役に処せられた事件と言うのは、1913(大正2)年に名古屋市の路上で起きた、繭小売商の殺人強盗事件です。翌日2人の犯人が逮捕され、この2人の供述から吉田石松(当時34才)氏が主犯として逮捕されました。吉田氏は頑強に犯行を否認し、いかなる拷問にも耐え、無罪を主張し続けましたが、当時の自白偏重の警察は、吉田氏の主張に耳を貸さず、2人の供述を信用して3人を起訴しました。一審の名古屋地裁は、検察の主張を全面的に認め、吉田氏に死刑、他の2人に無期懲役の判決を言い渡しました。吉田氏は控訴しますが、控訴審で死刑が無期懲役に変更されただけで、その後の上告審でも無期とされ、吉田氏の有罪が確定したのです。納得のいかない吉田氏は、アリバイを主張して、戦前に2度、再審を請求しましたが、2度とも門前払いされてしまいます。1935(昭和10)年に、秋田刑務所長の計らいで、ようやく仮出所を許された吉田氏は、協力してくれた新聞記者の尽力で、先に出所していた2人の所在を突き止め、2人に「虚偽の自白をして迷惑をかけた」旨の、詫び状を書かせることに成功します。この詫び状を添えて、3度目の再審請求を行ったのですが、司法の誤りを認めたくない裁判所は、ここでも門前払いの態度を変えず、再審請求は受理されなかったのです。まさに日本の暗黒時代を象徴するような事件だったのです。2人の詫び状から、吉田氏主犯説は、自分達の形を軽くするための、2人の虚偽自白であることがこの時点で明らかになっていたのですが、司法はそれを受け付けなかったのです。明らかな冤罪事件であるのに、司法は頬かむりを決め込んだのです。しかし、問題は戦後もなお長期にわたって、これほど明確な証拠のある再審請求が受け付けられなかったことにあります。何しろ無罪判決が出たのは、戦後も18年も経過した1963(昭和38)年の今日だったのですから…。吉田氏は、戦後も7年経過した1952(昭和27)年頃から、自身の無実をマスコミや弁護士などに、ポツリポツリと訴え始め、1958(昭和33)年に4度目の再審請求を起こしました。今度こそというところでしたが。なんと名古屋高裁は、ここでも再審開始を認めませんでした。司法の無謬性に拘る裁判所の姿勢の前に、とりわけ戦前の遠い事件での再審の扉を開けるのは、なお大きなハードルがあったのです。ことここに至って、吉田氏は弁護士の勧めによって、時の法務大臣への直訴を思い立ちます。法相には会えなかったのですが、対応した法務局の課長は、日本弁護士連合会への紹介の労をとってくれ、ここにようやく弁護士界の足並みが揃い、マスコミもまた無罪を訴え続ける吉田氏を、昭和のエドモン・ダンテス(デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の主人公)、昭和の岩窟王と名付けて、支援に乗り出したのでした。こうして、吉田氏は1960(昭和35)年の6月に、5度目の再審を請求しました。名古屋高裁4部は、ようやく重い腰を上げ、再審請求を受理したのですが、ここで検察がなお無謬性に拘って異議を申し立て、またまた行方は迷走することになりました。最高裁が間に入って、検察の異議を却下したことで、ようやく再審が決定し、審理が始まったのは1962(昭和37)年のことだったのです。事件の発生から、なんと49年目、吉田氏の仮出所から27年目のことだったのです。事件から50年の歳月を経て、ようやく吉田石松翁の無実が認められ、翁の名誉は回復されたのです。しかし、青天白日の身となった翁に、残りの人生は、もうあまり残されてはおりませんでした。翁は、同年12月、老衰で84年の生涯を閉じたのでした。高裁の3人の裁判官が、判決文の中に、異例のお詫びを挿入したことが、吉田石松翁にとって、せめてものことだったと言うべきでしょうか。民間人の裁判への参加が、こうした司法の似非権威主義や閉鎖性の打破に繋がることを期待したいですね。
2009.02.28
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クロニクル 王選手800号達成1978(昭和53)年8月30日43年前になります。この夜ジャイアンツの王貞治一塁手が、通算800号の本塁打を放ちました。太洋ホエールズとの試合の第3打席、投手は左腕の大川投手でした。王選手はこの2年後、1980年のシーズン終了を待って引退。生涯本塁打数は、868号を記録しています。王選手は、入団4年目の1962(昭和37)年に荒川コーチの指導を受けて1本足打法を取り入れて才能が開花し、この年38本塁打で本塁打王に輝き、以後引退まで1本足打法を貫きました。王選手が始めて1本足打法で打席に立ったのは、1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でした。この試合の第2打席で稲川投手からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残したことが、1本足打法に確信を深め、不世出の本塁打王を生むことに繋がりました。
2021.08.30
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日敗戦の年ですから、76年前のことです。この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間会談しました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇と軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したと言われます。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実に、両者の力関係が読み取れます。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に利用する、これがマッカーサーの戦略でした。写真掲載に関して、当時まだ天皇=現人神説に捉えられていた山崎内務大臣は、「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と語って、掲載した各紙を、発禁処分としました。直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁解除を命令し、写真が無事に掲載されるという一幕もありました。
2021.09.27
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