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December 29, 2005
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テーマ: Jazz(2023)
カテゴリ: カテゴリ未分類
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)は、アメリカを代表する黒人女性ジャズ・シンガー。
彼女は「ジャズ史上最高のシンガー」と言われています。

本名は、エリノラ・フェーガン(Eleanora Fagan)。
愛称は、レディ・デイ。

1915年4月7日、アメリカ、メリーランド州ボルティモア生まれ(出生時データは諸説あり)。
1959年7月17日、ニューヨークで44歳で死亡。




ビリー・ホリデイは「最高のジャズ・シンガー」と呼ばれ、唯一無二の存在であるということに、
だれも異論を唱えることはないでしょう。

かすれた声で切々と歌う彼女のあまりにも鬼気迫るリアリティーさが、彼女の不幸な境遇や生き様と重なり、
必要以上にジャズの暗く悲しく苦しい部分だけを浮き彫りにしてしまっているように思います。

ビリー・ホリデイは、1915年4月7日、アメリカ、メリーゴーランド州ボルティモアで、
父親クラレンス・ホリデイが15歳、母親サディ・フェーガンが13歳のとき、私生児として生まれました。

父親のクラレンスは、のちにプロのギタリストになりますが、15歳の彼には一家を背負えるはずもなく、
家庭をかえりみることもありませんでした。

ビリーは、6歳のころからメイドのアルバイトをして、なんとか飢えをしのいでいました。
そのころ、仕事先のラジオから流れてくるブルースやジャズのサウンドに心を奪われるようになっていたと言います。

ビリーは10歳のときに強姦され、そのとき彼女は被害者であるにもかかわらず、
人種差別による偏見のため不良少女として扱われ、感化院(*1)に送られてしまいます。

そのうち、売春宿で働くようになり、

彼女に大きな影響を与えたと言っています。

14歳のとき、売春の罪で投獄されます。

彼女はそれまでの不幸を振り切るようにニューヨークに出て行きますが、
そこでも家賃滞納で追い出され、途方に暮れてしまいます。
そこで、ハーレムのあるナイトクラブで仕事を懇願し、その場で歌った彼女の歌が多くの人の心をひきつけ、


「ビリー・ホリデイ」というステージ・ネームは、父親の苗字の「ホリデイ」と、
彼女が幼いころから好きだった映画女優のビリー・ダヴから「ビリー」という名前をとってつけられたと言います。

初めてステージで歌ったときから、彼女はチップをもらうにも、それなりの品格をもっていたので、
周りの人たちはビリーのことを「レディ」と呼ぶようになりました。

1933年、ナイトクラブで歌っていたビリー・ホリデイにレコード・プロデューサーのジョン・ハモンドが注目し、
自らがプロデュースしていたベニー・グッドマン楽団と彼女を共演させ、
そこでは初めてレコーディングもしますが、評判はあまり思わしくなく、泣かず飛ばずの状態が続きます。

しかしそれから2年ほど経って、ようやく出すレコードも売れるようになり、
人気ジャズ楽団との共演が実現できるようになり、彼女の人気は高まっていきました。
1937年にカウント・ベイシー楽団、1938年にアーティー・ショー楽団と共演しています。

そのころ出会った、カウント・ベイシー楽団のテナー・サックス奏者のレスター・ヤングから大きな影響を受けます。
レスター・ヤングはビリーにとって最高の友人でした。
レスターのオブリガートはビリーのムードと完全にマッチし、
二人で一緒に製作したレコードは、ビリーのレコードの中でも素晴らしいものと言われています。

レスターはビリーを、それまでの愛称の「レディ」に「ホリデイ」の「デイ」をつけて「レディ・デイ」と呼び、
ビリーのほうはレスターのことを「プレス」と呼びました。
これは、ビリーはいつもレスターのことを最高の人だと思っていたので、
アメリカで最高の男と言われていた「大統領(プレジデント)のルーズベルト」にちなんで、
「プレジデント」と呼んでいたのが縮まって「プレス」になったと言います。

この時期、ビリーこそは最高の歌手であったに間違いなかったのですが、人種問題が多かったころということと、
そのうえ彼女の歌い方は個性的すぎて一般大衆受けのするものではなく、うまく事は運ばなかったようです。
しかし、ミルト・ゲイブラーによって設立された「コモドア・レーベル」に1939年に吹きこんだ
『奇妙な果実 (Strange Fruit)』という人種問題を歌った内容の曲が思いもかけずにヒットし、
ビリーは一気に有名になります。
この曲は、強烈な歌詞のため、メジャー・レーベルからは当時発売出来なかったものだったので、
メディアが取り上げ、社会的な問題作になりました。

1941年にコロンビアに録音された『ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド (God Bless' The Child)』も、
この時期の代表曲と言えます。

そして、ビリーは「モダン・ジャズ・ヴォーカルの元祖」と呼ばれるようになり、
そのころのビリーのステージをエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレイといった、
その後のジャズ・ボーカルの大御所もビリー・ホリデイのステージを一生懸命見ていたのでした。
ジャニス・ジョップリンも、ビリー・ホリデイに影響を受けたというシンガーの一人です。

しかし、1940年代に入るとビリーは麻薬にむしばまれ、
1950年代には名声を得たのと比例するようにトラブルも増えていきます。

1944年から55年の「デッカ」時代はレコーディングの環境にあまり恵まれないときではありましたが、
『ラヴァー・マン (Lover Man)』
『ドント・エクスプレイン (Don't Explain)』
『グッド・モーニング・ハートエイク (Good Morning Heartache)』などのヒット曲が生まれました。

1950年代に入るとノーマン・グランツのプロデュースによって
「クレフ」(のちにヴァーブの一部になったグランツのレーベル)にさまざまな作品を発表しますが、
彼女の体は麻薬によりむしばまれていき、声の衰えはひどくなり、
かすれた声は老婆の囁きのようになってしまいました。
「ヴァーヴ(クレフ)における彼女は、往年の輝きを失っている」という一般的評価は、
声の状態だけを取れば事実かもしれませんが、そんなことは問題にならないほどの「深さ」を感じさせられます。

1958年に久し振りに「コロンビア」に残したアルバム『レディ・イン・サテン』は、衰えた声で歌うにもかかわらず、
鬼気迫るビリーの歌声が聴く者に歌の本質を考えさせる名唱と言われるものになりました。

1959年3月4日と11日に、
レイ・エリス楽団をバックに最後のアルバム『ビリー・ホリデイ・ラスト・レコーディング』の録音をしました。

このあとすぐに意識不明になり、7月17日にニューヨークのメトロポリタン病院で44歳の若さで亡くなります。
それは、レスター・ヤングが1959年3月15日に49歳で亡くなり、
ビリーも、まるでレスターのあとを追うかのように、この世を去ったのでした。




彼女は悲劇的すぎる人生の中でも、決して歌うことをやめませんでした。
40歳を過ぎたころから晩年は非常にしゃがれた声になり音域も極端に狭いのですが、
それでもなお、おどろくほど感情豊かな歌声で、聴く者を虜にしてしまいます。

彼女の歌を聴いていると、
うわべだけのテクニックを追い求めた空虚な音とは全く違うものであるということを、まざまざと感じさせられ、
彼女の歌い方をまねしようということは無意味であるということを思い知らされるほどの個性的なものと言えます。
ですから、彼女にまつわる悲劇はとりあえず忘れて、彼女の歌に耳を傾けてみましょう。
そうすれば彼女のなんとも言えない魅力を感じ取ることができることでしょう。

ビリーはステージに立つとき、髪に白いくちなしの花をつけ、いつしかそれは彼女のトレードマークになりました。
くちなしの花言葉は「私はしあわせ」ということです。
ビリーはいつも「私はしあわせよ」と思って歌い続けていたのでしょうか?
それとも歌っているときが「私はしあわせよ」ということを意味していたのでしょうか?

私は、ビリー・ホリデイの歌には、彼女の絶望的な人生ばかりではなく、
彼女が見ていたであろう「希望」が歌われているのだと思います。
そして、ビリー・ホリデイは、神が使わせた「シンガー」であるとしか言いようがありません。

「何も考える必要はない。ただ感じ取ってそれを率直に歌うだけ」
「私が歌うものが何であれ、それは私の人生の一部なの」
「“愛してる”なんて言われると不安になる。ただ、雨の中を一緒に歩いてくれるだけでいいの」
・・・ビリー・ホリデイ




【参考】

●(*1) 感化院(かんかいん)とは、

教護院(きようごいん)の旧称。

不良行為をし、またはする恐れのある児童を入院させてこれを教護することを目的とする児童福祉施設。


●(*2) ベッシー・スミスとは、

少女時代のビリー・ホリデイはベッシー・スミスがアイドルで、彼女の歌に影響を受けたと言います。
ビリーは幼い頃、売春宿にあった蓄音機で、ベッシーのレコードを聴きたいばかりに、
タダ働きをしていたという逸話があるほどです。
したがって、ビリーはベッシー・スミスのブルースを受け継いだ歌手だと言われていますが、
ビリーは「ベッシーはブルース・シンガー、私はブルースのスピリッツ(精神)を持ったジャズ・シンガー」
と言っています。
ビリーの歌にはブルースの精神が受け継がれていますが、ビリーのものは全く独自のものであり、
誰かの模倣、物まね、影響といったものは全く感じられません。
そしてそれは、ブルースの枠には収まらない、ビリーそのものであると言えるものでしょう。

●Bessie Smith ベッシー・スミス

ビリー・ホリデイ、ダイナ・ワシントン、マヘリア・ジャクソンらが影響を受け、
その後の黒人女性シンガーのルーツとなったブルースの女王。
「ブルースの女帝」と呼ばれています。

ベッシー・スミスは1894年、テネシー州チャタヌガに生まれます。
9歳で初舞台を踏んだ彼女は、その後ニューヨーク、メンフィス、シカゴなどの劇場で歌うようになります。
初期こそボードヴィル調のナンバーを披露していましたが、徐々にブルースへ移行していきます。
そして、後にブルースのスタンダードとなる
「Nobody Knows You When You're Down And Out」、「'Tain't Nobody's Bizness If I Do」などのヒットで、
1920年代は人気実力共にブルースの世界に君臨します。
しかし、1930年代の大不況後は人気が衰え、彼女の魅力的な容姿も晩年は酒浸りで肥満してしまい、
1937年に自動車事故で悲劇的な死を遂げました。

もし彼女がいなかったら、ブルースの歴史も変わっていたかもしれないと言われ、
その素晴らしさは、後世のシンガーに大きな影響を与え続けています。





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Last updated  December 30, 2005 08:33:58 AM
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