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2008年01月14日
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カテゴリ: 天璋院篤姫


 芳即正の同論考によりますと、まず東大史料編纂所所蔵の島津家史料の中にある名越左源太の『続常不止集』の弘化2年(1845年)の記事に「華倉御茶屋」のことがつぎのように記録されているそうです。



 替えに、吉野村の内華倉末川久馬御抱地(おんかけち)ならびに同所東郷
 半七枦場(はぜば)等、御用地相成り、磯御茶屋引き続き一囲(ひとかこ)
 いにて、右の通り御造立仰せ付けられ候条、承るべき向へ申し渡すべく候
    七月十七日(弘化二巳)


 この史料の意味は、「今度占丁村御茶屋の敷地を製薬方に差し出したので、その代わりに吉野村の中の華倉にある、末川久馬の抱地(開墾地)と東郷半七の枦場(枦を植えてある土地)を、藩の御用地にして磯御殿と一まとめにし、そこに華倉御茶屋をつくる事になった、知らせるべきところに知らせよ」ということだそうです。

 最後の日付の「七月十七日(弘化二巳)」の「弘化二巳」は弘化2年の巳の年ということでしょうが、弘化2年は干支で乙巳(きのと)なのでこう表記したのですね。これが華倉御茶屋すなわち花倉御仮屋についての最初の記録のようですから、調所広郷の贋金造りの工場となったと想定されている花倉御仮屋は弘化2年7月17日(1845年8月19日)以降に建設が始まったと考えられますね。

 ではこの花倉御仮屋の建物はいつ頃完成したのでしょうか。芳即正の同論考によりますと、島津家磯邸『日記』弘化四年(一八四七)三月十一日の条に、藩主斉興が「四ッ時(十時)御供揃いにて華倉御見分に入らせられ、御帰り掛け磯に入らせらる」とあり、さらに同年四月二日の条に、斉興が「五つ半時(九時)御供揃いにて華倉御茶屋へ御滞在に入らせられ候」とあるそうですから、弘化4年3月11日(1847年4月25日)にはほぼ完成し、同年4月2日(1847年5月16日)には完成して滞在できるようになっていたと思われますね。

 なお同論考は、華倉御殿建設に調所広郷が関わっていた事実は認めてつぎのように述べています。

「現在旧華倉御殿不動堂跡の地に、弘化四年九月と刻んだ手水鉢が建っているが、造園なども全部出来上がったのがこの九月ごろということであろう。また仙巌園内の御庭神社の前庭にある五基の石灯籠に弘化四年九月吉日とあり、幾つかには調所笑左衛門広郷・末川久馬その他の担当者の職氏名が刻まれている。これは恐らく先の手水鉢と同様華倉御殿内にあったものだろうが、御殿廃止後に仙巌園内に移されたものと思われる。この弘化四年は西暦一八四七年で、以上のいきさつから考えると、弘化四年より十三年前の天保五年には、華倉御殿はまだ出来ていなかった事になる。だから原口説はこの点では誤りという事になるが、でも調所広郷が造ったという事はその通りである。」

 この華倉御殿はその後も御殿として使われたようで、新納久仰の日記である『久仰雑記』に安政3年3月1日(1856年4月5日)の条にも隠居の斉興が泊まった話が記録されているそうです。しかし、同じ『久仰雑記』の安政3年10月23日(1856年11月20日)には新納久仰自身が銅璞荒焼きの場所を華倉へ移す計画のために現地に行ったということが記録されており、御殿のみに使用されていた訳ではないようです。

 そして、『忠義公史料』によりますと、明治2年12月には鹿児島藩庁(知政所)から 「華倉細工場之儀、引取り仰せ付けられ候、左候て同所跡へ生産万管轄金性分析所召し建てられ候条、会計局総裁へ申し渡し、承るべき向へも申し渡すべく候」 、「原口泉さんは華倉を『掘り返すと金クソが出てくるので、鋳造工場があったことがわかる』としているが、果たしてストレートにそう決めてよいものだろうか」 と述べています。

 以上の芳即正の論考を読んで、私はますます調所広郷が贋金づくりを行っていたという説に対する疑問を深めました。花倉御仮屋は弘化4年4月2日(1847年5月16日)に完成した建物のようですが、調所広郷は嘉永元年の12月19日(1849年1月13日)に江戸で死去していますから、花倉御仮屋が建てられてから1年半ほどで彼は他界していることになります。50万両も備蓄するほどに財政改革を成功させた段階であり、まだ江戸幕府の権威が失墜していないこの頃に、調所広郷が敢えて幕府禁制の贋金造りなどという危ないことに手を染めたりするものなのか、また仮に調所広郷が贋金造りを企図したとしても、生前に本格的にそれを実行に移す時間などあったのか等のことから、調所と贋金作りを関連させることには大いに疑問があるのですが、みなさんはどう思われますか。





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最終更新日  2008年01月14日 22時05分23秒
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