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2008年01月27日
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カテゴリ: 天璋院篤姫


 さて、於一は後に藩主・斉彬の養女となり、新たに篤姫と名づけられるのですが、そんな彼女と斉彬の初対面はいつあったのでしょうか。またそのとき、斉彬は今和泉家の娘である於一を将軍家に嫁がせることを意識して対面していたのでしょうか。そのことを改めて調べなおしてみることにしました。

 寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです。

 では、斉彬はどのような思いで於一を見ていたのでしょうか。もうこの段階ですでに於一を将軍家に嫁がせる候補者の一人と考えていたようですよ。

 拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の中で、 将軍家と篤姫との縁組問題について芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)の説 を紹介しましたように、徳川家定の夫人が嘉永3年6月(1850年7月)に亡くなった後、将軍家から島津家に縁談の申し込みがあり、その時点から候補者探しが始まったそうです。

 そして、薩摩藩内で家臣らの推薦を受けて今和泉家の島津忠剛の娘の於一を候補として考えるようになり、嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に鶴丸城で開かれた「御家督御内証御祝」での斉彬を囲んでの能鑑賞会で直接対面する機会を得た後、嘉永5年2月26日(1852年3月16日)には島津本家の別荘の磯邸(いまの仙巌園ですね)での花見の宴に於一の父親の島津忠剛を招いています。上に紹介した寺尾美保『天璋院篤姫』では 、「おそらくこの日、斉彬から忠剛に対篤姫の将来についての話があったと考えられる」 としています。勿論、「篤姫の将来についての話」とは徳川家との縁組問題のことですね。





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最終更新日  2008年01月28日 20時20分25秒 コメントを書く


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