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2008年09月07日
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カテゴリ: 天璋院篤姫
 今夜(9月7日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第36回目のタイトルは「薩摩か徳川か」でした。薩摩の島津久光(山口祐一郎)が大砲や鉄砲で武装した多数の兵を引き連れて京に上り、幕政改革を唱えて岩倉具視(片岡鶴太郎)を通じて朝廷に松平春嶽(矢島健一)と一橋慶喜(平岳大)をそれぞれ幕府の大老と将軍後見職に就かせることを建白したため、江戸城内では薩摩出身の天璋院(宮崎あおい)がこの薩摩の久光の行動と密かに繋がっているのではないかとの懐疑の眼が向けられることになります。

 篤姫ドラマの原作とされている宮尾登美子『天璋院篤姫』では、「久光の動きについて、篤姫が背後から推し進めているように周囲に見られるのはこの際、迷惑だと思われる」等の短い記述がいくつかあるだけだったこともあり、私は薩摩の久光の率兵上洛が江戸城大奥にいる天璋院の立場を悪くし苦境に陥いるなんてことはほとんど考えてもいませんでした。しかし、彼女が先代の薩摩藩主の斉彬から要請を受けて一橋慶喜を将軍継嗣に推していたことはおそらく江戸城内では周知の事実だったでしょうから、今回の篤姫ドラマで詳細に描かれたように、久光の上洛の動きが天璋院と裏で繋がっているとする疑惑が浮上し、そのために天璋院が大いに苦悩したことも実際にあったかもしれませんね。

 ですから、今回のドラマにおいて、これまで信頼を寄せてくれていた家茂(松田翔太)からも疑いの言葉を投げかけられたため、その心を深く傷つけられた天璋院が庭に薩摩の品々を持ち出してつぎつぎと火にくべ出し、慌てて駆けつけて疑ったことを謝罪する家茂に彼女が「私は徳川の人間です。徳川のことだけを考えて生きる。薩摩など知らぬ。これはその証(あかし)です」と涙ながらに訴える場面には視ている私も自然と目頭が熱くなってきました。天璋院が徳川の人間として必死に生きようとした姿を考察する場合、当時の女性に求められた道徳観だけで理解するのではなく、今回のドラマに描かれたように、幕末という時代に大奥の大御台所となり、そのために薩摩出身の人間としての複雑で困難な状況に立たされた女性の一つの身の処し方として見ることもまた必要なのではないかと思いました。

 さて今回のドラマでは、京都所司代の殺害を計画した有馬新七(的場浩司)たち薩摩藩士9名が同じ薩摩の藩士たちから上意討ちされた寺田屋事件の惨劇がこれまでの篤姫ドラマとは非常に異なるリアルなタッチで描かれていましたが、久光がどのような考えから寺田屋の事件に対処したのかを史実に基づいてちょっと検討してみたいと思います。

 桜田門外の変で幕府大老の井伊直弼が殺害されてから以降、尊皇攘夷派の過激分子によるテロ活動は全国で猛威を振うようになります。万延元年12月5日(1861年1月15日)には薩摩藩士の伊牟田尚平らがアメリカ公使館員のヒユースケンを襲って殺害しており、翌年の文久元年5月28日(1861年7月5日)には水戸浪士が江戸東禅寺のイギリス公使館を襲撃しています。さらに文久2年1月15日(1862年2月13日)には幕府老中の安藤信正が水戸浪士の平山兵介らの襲撃をうけています(坂下門外の変)。

 このように尊攘派のテロの嵐が吹き荒れるなか、坂下門外の変に恐怖した摂家の近衛忠房から島津久光に上洛要請の書簡が届き、久光はついに文久2年3月16日(1862年4月14日)に鹿児島を出発して率兵上洛の行動を開始します。ところがなんと、この久光の上洛計画に対し尊皇攘夷派の過激分子たちが自分たちの目指しているものと重なると勝手に夢想し、大いに期待を寄せたのでした。そのことについて、佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのように解説しています。

「京、大坂に集まってきていた、このような尊撰急進派の志士たちは、久光の率兵上京を自分らが夢想する『義挙』とむすびつけて考えていた。藩主ではなく、藩主の父であるにすぎない久光が、多数の兵を率いて上京するのは、たんに参府のためなのではなく、自分らの意志と通いあうような、なにか他に重要な目的があるのだとみて、久光の上京に期待をかけたのである。/彼らが考えた義挙とは、たとえば平野国臣の『回天三策』によれば、久光に勅命を下し、京、大坂の幕吏を退け、幕譴をうけた中川宮朝彦親王の幽閉を解き、大坂に行幸して幕府の罪を間うというもので、この策を実現させるために、志士の決起があるというものである。幕府批判ということでは久光と通じる面があるが、ことの成否とその後の見通しに関していえば、かつての大久保らの突出計画と大差のないものだった。」

 ところが、島津久光は薩摩から上洛する直前の文久2年3月10日(1862年4月8日)につぎのような内容の諭書を藩内に出し、「尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以って四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし」ている連中とひそかに関係を持っようなことがあってはならないとしていたのでした。この久光の諭書は佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年10月)に紹介されています。

「去ル午年、外夷通商御免許以来、天下之人心致紛乱、各国有志と相唱候者共、尊王壊夷を名とし、懐慨激烈之説を以て四方ニ交を結ひ、不容易企をいたし候哉二相聞得候、当国ニも右之者共と私二相交、書簡往復等致候者有之哉二候、畢竟勤王之志ニ感激いたし候処より、右次第二及候者筈ニ候得共、浪人軽卒之所業ニ致同意候而は、当国之禍害ハ勿論皇国一統之騒乱を醸出し、終ニは群雄割拠之形勢二至り却而外夷術中二陥り、不忠不孝無此上義二而、別而不軽事と存候、拙者ニも公武之御為聊所存之趣有之候付、以来当国之面々右様之者共と一切不相交、命令二徒ひ周旋有之度事ニ候、若又私之義を重んし絶交いたし難き者共有筋ニ申出候は、其訳ニ応し何様共可致所置候、尤此節之道中筋、且江戸滞留中、右体之者共致推参候共、私二面会致間敷、乍然無拠訳二依り致応接候共敢て不致議論、其筋之江談判いたし候様返答可致、乍此上不不勘弁之族於有之は、天下国家之為実以不可然事候条、無遠慮罪科可申付候事」

 久光はこの「諭書」で、尊王壊夷を名目にして大変な企てをしている浪人たちがいるようであるが、薩摩藩の人間がもし彼等の軽率な行為に同調するならば、薩摩藩の禍となるだけでなく日本国全体のまとまりを失わせてて騒乱を生み出し群雄割拠状態にしてしまうであろうとし、それは外国の思う壺となり、不忠不孝この上もないことであるとしています。そして、彼等と交わることを一切禁じるとともに、今度の旅の道中や江戸滞在中に止むをえず彼等と接触せざるを得ないときは、議論せずに藩のその筋の者と談判してもらいたいと返答するようにせよと指示しているのです。

 ですから、薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎たちが久留米藩士の真木和泉らと伏見の薩摩藩船宿の寺田屋に集まり、京都所司代を襲撃して「義挙」のさきがけをなそうと準備していたことは、久光のこの「諭書」に反する不忠不孝の行為とみなされたのは当然のことでした。



「十六日昼、久光が近衛邸に参上、権大納言近衛忠房と中山忠能(議奏)、正親町三条実愛(議奏)に面会して、『公武合体』など国事周旋のために上京したことを告げ、あわせて朝威振興、幕政改革について建白した。/両議奏はそれを孝明天皇に執奏した。その結果、同日夕、久光に滞京して、不穏の企てのある浪士の鎮静にあたるようにとの勅諚が、両議奏より伝達された。これで久光の京都での運動が、公的に許可されたことになる。翌日、久光は京都の藩邸に移る。こうして寺田屋の変が起こされる背景が準備されていったのである。」

 ところで、今夜の篤姫ドラマでは、有馬新七が誠忠組に宛てた遺書を残しており、久光が彼等に対して断固たる処罰を行うことを見越しており、そのことによって久光が朝廷の信頼を得ることを期待しての覚悟の挙兵を行おうとしたことが書かれてあったとしています。勿論、そんな遺書などは実際に存在していないと思いますが、有馬たちがそれに近い考えで挙兵の計画を行ったとする説はあったようです。

 芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助、田中河内介、小河一敏が、寺田屋で挙兵の計画を話し合った時の模様が小河の『王政復古義挙録』につぎのように記されているそうです。

「いまは普通のやり方で悪役人を除くことはむずかしい。だから兵を挙げて殿上(九条関白)と所司代を除くほかはない。いまの時代非常のことをしなければ、尊王壊夷の道は立たない。ここで和泉殿(久光)の命を待たないで奸賊を倒せば、それをきっかけにきっと和泉殿が『大処置』をされるに違いない。この挙は和泉殿の意に背くようだけれども、実際はこの挙を実行してこそ和泉殿の『功業』も大いにあがること間違いなし。だから和泉殿への忠節もこれ以外にない。」

 うーん、寺田屋に集結して挙兵を計画した連中の意図は、久光の上洛後の行動を助けることにあったというのですが、本当にそうだったのでしょうか。もし彼等の計画が実行に移されたら、薩摩藩は幕府から厳しいお咎めを受けるだけでなく、天皇の信頼も完全に失い、久光の上洛計画は完全に失敗に終わったことと思うのですが、みなさんはどう思われますか。





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最終更新日  2008年09月08日 05時57分55秒
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お久しぶりです  
masa さん
お久しぶりです。

やまももさんがブログに書かれてるように、
「有馬新七が誠忠組に宛てた遺書などは実際に存在していないと思います」
は、私もそう思いますし、少し、ドラマでは美化しているようにも感じました。

有馬新七が遺書に書いたような内容を考えていたならば、
大久保利通も事前に知っており、
何らかの形で、小松帯刀にも伝わっていたのではないでしょうか・・・

反対に、大久保利通が島津久光の心を動かそうとして、
遺書をでっち上げたというのなら、何となく解かるような感じです。
あくまで個人的な妄想ですが・・・ (2008年09月13日 22時57分23秒)

暴徒から烈士への美化  
masaさん、寺田屋事件についての拙文についてのコメントをありがとうございます。

 おっしゃる通り、「有馬新七が誠忠組に宛てた遺書などは実際に存在していない」と思いますし、明治以降になって有馬たちが九烈士として名誉回復される過程で彼等の行為を薩摩藩にも忠義を尽くそうとしたものだったと美化して解釈することも行われたようですね。

 篤姫ドラマで、大久保が有馬の遺書をでっち上げて小松帯刀のみならず久光の心も動かしたというストーリーをもし作ったら、大久保の策士としての凄みがきっと視聴者に強烈に印象づられたでしょうね。 (2008年09月14日 06時59分16秒)

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