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2008年09月13日
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カテゴリ: 天璋院篤姫
2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」 が東京展(2月19日~4月6日:江戸東京博物館)、大阪展(大阪歴史博物館:4月19日~6月1日)と開かれていましたが、私の住む鹿児島でも9月6日から10月17日まで鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されることになり、喜び勇んで見学に出かけました。

 同展示会は「篤姫と彼女をとりまく人々ゆかりの品、江戸城大奥の華麗な調度、幕末の騒乱を伝える歴史史料などで構成」されており、主として徳川記念財団所蔵の貴重な品物や史料が展示されていましたが、特に私が見たかったのは天璋院が慶応4年7月9日(1868年8月26日)に輪王寺宮公現法親王宛に出したという書状でした。

 この書状のことは、2008年3月21日の「南日本新聞」の文化欄に載った東京展の紹介記事で知ったのですが、同記事によりますと、天璋院が輪王寺宮に「幼い天皇をだまして戦争を続ける薩長の逆賊を『御征伐』してほしいと、『徳川家再興の一心』から訴えている」内容の書状が展示されているというのです。なお、天璋院がこの書状を送った相手の輪王寺宮は伏見宮邦家親王の第九子で、江戸無血開城と徳川慶喜の処遇に不満を抱いた旧幕臣たちが彰義隊を結成して上野の山に立て籠もったときに寛永寺の山主をしており、彰義隊から盟主にかつがれています。さらに上野戦争で彰義隊が新政府軍に敗れたときには、彼は東北に逃れて仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されています。

天璋院がそんな人物にどのような内容の書状簡を送ったのか、大いに興味を持ちましたので鹿児島展で展示されているこの書状の実物(ただし「天璋院書状写」とのことで、現在は仙台市博物館が所蔵しているそうで)を確認することにいたしました。また書かれている内容につきましては、同展示会で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」に活字化されていた「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛 慶応四年七月九日」の重要部分を家に帰ってから辞書を引いて調べることにしました。それで、今回はその慶応4年7月9日(1868年8月26日)に出されました「天璋院書状写 輪王寺宮公現法親王宛」の重要部分を紹介したいと思います。

「(前略)扨(さて)上野一条乃儀ハ追々承り候処、第一勅額も御座候中堂山門を初、其外江炮発致御本坊迄焼払ひ候段、薩州ハ勿論其他諸家二至迄官軍と相唱候者ニ有之間敷振舞、何共可申様御座無、悪逆不法の事ニ御座候、右二付私事女儀とハ乍(ながら)申、何分黙止居かたく候まゝ委細書取を以江府大総督汀品々申立候処、取扱候役々兎角に差止メ、如何様申談候ても更ニ相貫き不申、扨々(さてさて)誰あって理非を相糺し候者も無之と只々落涙のミに御座候、右之次第故徳川家之義ハ高七拾万石被下候へとも、此末の処先以如何成行可申哉も難計、夫ニ付候ても北国筋諸侯の義ハ実々忠義之程頼母敷感し入候事二御座候、何卒天の御恵ミ神仏の御助力を以銘々忠節之本意相貫き、徳川家再興相成候様昼夜夫のミ祈念致居候、右二付而ハ先頃上野御一条と申其外種々不法の事のミ相募り候折柄、容易に戦争も相鎮り不申、薩長を初かゝる逆意を働き候も畢竟天子之御幼冲を侮り、銘々私慾をほしひまゝに致候より大乱と成行候事ニ付、迚(とて)も右逆賊を相手二致居候てハ、際限も有之間敷と被存候間、乍恐其御所様思召を以会津・仙台両家等江鎮撫の職掌をも被仰付候様二者相成間敷哉、左候上ハ右両家へ属服致候者ハ相ゆるし、逆意を張り妨等致候向ハ御征伐被為仰候様御叡断之程、偏(ひとえ)ニ希度(ねがいたく)存候、ヶ様之義、申上候も憚多く御座候へとも、只々徳川家再興之一心より思召之程も不顧申上候、(後略)」 <

 上の天璋院の書状を私なりに要約しますと次のようになると思います。

 彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争では勅額が掲げられていた寛永寺の中堂山門や本坊に砲撃が加えられて焼き払われましたが、その行為は薩摩藩やその他の藩によるものであり、とても自らを官軍と唱える者たちの振る舞いと言えるものではなく、悪逆不法の行いと言えます。この件について、私は女ではありますが黙視できず、詳細を文書にして江戸の大総督に訴えましたが、管轄の役人達がなにかと邪魔をして意見が通らず、理非を正してくれる者など誰もいないと涙を流しておりました。このような情況のなか、徳川家は70万石となり、これでは将来どうなることかと不安に思っておりました。しかし、北国筋諸侯は実際に忠義を守っておられ、頼もしく感じました。どうか天のお恵み、神仏のご助力によって各自が忠節の本来の目的を達成され、徳川家再興が実現できますようにと昼夜祈念いたしております。このことにつきましては、この前の上野戦争やそれ以外にもいろいろ不法のことが増えている情況のなか、容易に戦争は収まらず、薩長を始め謀反を企む連中は結局は天子が幼いと馬鹿にして各自が勝手に私欲をほしいままにすることから大乱となっておりまして、とてもこのような逆賊を相手にしていましても際限がないと思いますが、あなた様(輪王寺宮)が会津、仙台両藩等に鎮撫の役目をもし与えられ、これら両藩へ服属するものは許し、謀反の心を起こして抵抗するものは罰することをご決断されますことを偏(ひとえ)にお願いいたします。このようなことを申し上げますことは憚り多いことと思いますが、これもただただ徳川家再興を願う一心からあなた様のお考えを顧みずに申し上げるのでございます。

 輪王寺宮に宛てたこのような天璋院の書状は、西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出してから4ヵ月ほど後に出したものであり、慶応4年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城されてからは3ヶ月と23日後経った後に書かれたものですが、その間にどのようなことがあったのでしょうか。4月29日(1868年5月21日)には田安亀之助による徳川家宗家の相続が認められています。しかし、5月15日(1868年7月4日)の上野戦争では徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であった上野の寛永寺が新政府の軍によって焼き払われています。この寛永寺には天璋院の亡き夫である13代将軍・家定徳川家定も祀られていたのです。さらに5月24日(1868年7月13日)に明らかにされた徳川宗家の石高は500万石近くあったものを70万石に大減封するというものでした。前田の102万石、島津の77万石にも及ばないものであり、しかも封土は駿河に移すというものでした。






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最終更新日  2008年09月17日 23時37分44秒 コメントを書く


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