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帰国した池田筑後守(可軒さん)は使節団の副使・河津伊豆守、目付・河田相模守と連名で、建議書(佛國行帰府上申)を提出した。 この中にある建議5項目についても各項目ごとにそれぞれ詳しく記述してあるのだが、メインの建議書だけでも結構なボリュームなので、今回は建議5項目の詳細は割愛する。 可軒さんは一体どのような思いでこの建議書を書き上げたのだろうか…。 建 議 書 三名趣意柄申上候 佛國巴里府より、一と先、歸府仕候、趣意柄申上候、書付 私共義神奈川港鎖閉、其他、諸事談判の爲御條約濟各國へ、爲御使、被差遣候に付ては、佛國へ、最初、罷越候義は、道路、自然の順のみにも無之、井戸ヶ谷殺傷、長州發砲等、同國へ被爲對候ては、種々の事件、差重候間、自來、御不都合不相成樣、談判仕候義は勿論、鎖港の義も、御國在留、同國ミニストルには、英國荷蘭等、外國のもの共違ひ御都合可取計樣子も相見え、且、同國に於ては、全世界上にて、英國とも、並稱被候位の國柄、殊に、當時、國帝第三世ナポレオン事は、自今、歐洲各國、皇帝の内、口利にも御座候間、同國に於て、談判取纏り候得ば、外各國にて異議は有之間敷と存候、旁以て、同國を目當といたし、罷越、先づ井戸ヶ谷一條より、談判相始候、殺傷被致候、士官家族、扶助金として、金參萬五千弗、持越候御用金の内より相渡し、尚、長州の事件に押移り、兼て相伺候趣も御座候間、御處置可被及次第は、内談にて相我盡し、夫是談示仕候處、彼方にて下の關通航並に償金の義申立て、下關通航の義は、元より相當の所望に御座候間、夫々御處置の次第申約し候共、償金の廉は、尤之筋にも不相聞候間、シーボルトへ承合候處、最初、砲撃を請候後、態々、軍艦差遣し、國籍に對候丈之報告致候得共、所謂、争端をひらき候爲め、軍艦差遣候故、右入費も償候は、西洋各國の通法に有之、既に於ても先代ナポレオン各國へ兵を向候に付、近來迄、年賦償金差出居候、例も有之趣相聞き、強て無謂筋にも、相聞き、不申、就而、勘辨仕候處、鎖港の義、談判仕候に、彼方、氣配相損し、御國政府、御懇親の御趣意、徹底不仕候ては、迚も相纏り兼候義に可有之と存候間、曲而、差遣し可申積にて、談判仕候内、右員數相違いたし、前後不都合の事共御座候得共、後段の談判を、大切と心得候間、程能會釋、右所望通り約束仕り、追々、鎖港の談示に押移候處、先般、兩都御開事延期之義に就き、御使、被差遣候節約束三ヶ條、今以て御取引延引いたし御違約も同樣に相當り候間、其節、御談判申上候通、右談判引戻し、即今、軍艦差向け、兩都两港共、直樣御開被成候様御談判申上積に而、已に英蘭政府とも、打合相居候へば、右は御國御迷惑に可相成と存候間、當時、御開相成候、三港とも、其代りとして、無税の商賣、御許相成度段、意外の難題申懸け、一體、無税商賣と申候義は、西洋各國、何れにも其例無之、僅々獨逸連合洲中、軍堡等一兩國御座候得共、右は因よりフレースターテンと相唱え、國主も無之 國民寄合持の國柄に而、比例には相成不申、對待の國にては、何れも比例無之趣、御國においては、内地商民、運上無御座候上は、尚更御不都合之筋に有之、最も即今、御國、一廉の御都合をも、取計候筋に候はゞ、亦、格別の義に候へども、左も無之而は、右樣の次第に至り候事者、難得其意、筋に付、精々、談判を盡し罷在候内、既に手切にもおよび可申、勢も相見え、鎖港談判等は、中々に受取可申樣子無之候共、遠海の處、能々御使をも被遣、御和親御保續の爲め、一時御國内、人心鎭定の御趣意、首尾詳悉、御懇親の御意味合を主張し、極力、論辯及び候處、彼方に於ても、和親の御交誼に對し、懇親の意を以て、條約妨害致し候、凶徒御鎭定被成兼候はゞ、何樣にも國内の軍賦を以て、御加勢も可申上旨申立て、此方より申談候、御懇親の廉とは、意味行違候へども、話は同盟の結交の誼に對し、右加勢御受不被爲在候而は、矢張、御懇親の趣意に戻り候樣相成候義に而、彼方に於て、假令、野心を挾み、情實難計候共、言辭の處、無此上懇親の筋に相當り、世界列國へ聞得も有之、御趣の意不模通候とも、あながち彼方の國へも難申、且、井戸ヶ谷、長州一條とも己に熟談および、唯此事に至り不直の名義被爲請彌以御手切に相成候、而は一體の御趣意も、全く畫餠に歸可申は申迄も無之、却而彼方の股中に陥り、詰り、鎖港の義は扨置、兩都兩港開市の期限迄、彼方見込通相促し候も、同樣の勢に相成る可、且つ西洋各國の形勢、何れも御國に垂涎仕候、只管事端を尋ね、兵端相開度存寄は有之候共、遠海の地、萬里の懸軍、持久の計行屆兼候處、斟酌致し、且互に利を爭候上は、申合方行屆申間敷と、各懸念いたし居候樣子に、自然蘇士地狹堀割出來、歐洲各國の軍艦、喜望峯を不相廻、直接東洋罷達し候樣相成候はゞ、海路も三分の二を减じ候樣、可相成、將御國に於ても、各國えも爲對御信義相立兼候事共差重り、各國の忿怒を生じ候樣之、機會ためらひ居は其期に至り候はば、不期して、連衡合同致し可申候間、其節彌、東略の志を逞いたし度遠望有之哉之候義相見え候折柄、御國方今の御模樣、返顧仕候得者、公武合體の義、先頃御上洛の御一擧に而、彌以御首尾相懸候事と、被存候共、今以、人心折合にも至り兼、内地民心、一和不仕候上、海陸軍備も、未だ充實不相成候而、五洲萬國御敵に被爲、引受候事者碫卵の勢、全國の安危存亡、如何有之哉、乍恐、御無算の至りにも可有之被存候。右樣中外の形勢、參互勘辯仕候へば、唯今内何れとも萬國に相勝れ候、御目立の御工夫第一に、御盡力被爲在、御國内反復し者は、幾重にも御力勢御座候而、政府の御威權、確に相立、外國より可申上詞柄無之、將指すべき衅端無之樣、御仕向相成候而、懷綏の御趣意を以て、御條約の明文御違背無之、確固と御遵奉被爲在、海陸二軍共充實の御備早々相立候運に、相成候樣仕度、將西洋各國の動靜相探り候處、互に隙を伺ひ併合の慮有之、目今の樣にては、歐洲各國三五年を出でずして、可及大亂兆も相見え候間、御國内御鎭壓被爲、計内治御行屆に相成候上は、各國分裂の虚に乗じ、如何樣とも御畫策可有之、然る處今破約に陥入候へば、各國合同致し、却而歐洲は無異に歸し、御國の災害に罷成候義は、必然の勢有之、夫是の處、篤に勘辨熟慮仕候共、今更申上候は恐入候得共、一體御國内不折合より政府の思し召に無之候とも、不得己鎖港可被及との義は、無據御伺柄とは乍申、佛國に於て御國へ對し、懇親相立候廉、此方申談候處は、前申上通、意味行違居候處を以て、西洋各國の所見推考仕候へは、却而侮慢を長し、覬覦を來し可申筋合にて、強而此方より申談候は、結局御國政不行屆を露し候義に相當り、自威權を貶候筋にて、乍恐御國辱の端にも可有之、將右の義を以て、御條約御違背の廉に押据へ、何樣の難題可申立も難計、事體 無據塲合、手切に至り候はゞ、大切の國事を誤り候事と、苦心仕り、尚政府御誠實の趣を主といたし、折曲申聞候。無税貿易の議、強而及斷右鎖港談判承引仕り候議有之候共、請求の趣尚勘辨も可致旨申談候處、鎖港の義は幾應談判を遂げ候得共、兼而英國其外不承知の義に付、堅く及斷候共、御國政府御懇親の段は、御使にて了解、既に此程同皇帝にも於御國軍艦御入用の趣、被承及、御國へ對し、格別懇親の意を表し、得證として自國海軍隊の内より、軍艦譲渡可申旨同國帝意裏より出し趣申聞候。三港無税の談示も確との口上は無之候共、先此方鎖港の談判に、引分れの談判と相成、至極折合宜敷候間、右を汐と致し、談判取纏方、調印仕候事に有之、尤も各國とも、鎖港の御同意申上上候はゞ、其節再談可仕樣、申聞候共、右は全く、各國とも同意仕間敷を見込、程能く申上候事に而、固より以て、難信筋に有之、全體佛國の義は、前申上候通り、鎖港一條に付而は、稍手心義御座候處、既に右樣の次第に御座候上は、此上英國え罷越候とも、最初同國より御國え差越候、ミニストルアールコツクと、上海表に於いて、面會の砌、一と通趣意柄申聞候處、既に兩都兩港をも、模樣により直樣御開可相願仕之心組に御座候上は、御談の趣、迚も本國政府に於て、快くは存申間敷旨申聞、右等參勘仕候共、幾重に申談候共、承引仕間敷は、眼前の義に有之、佛英兩國、已に如此御座候上は、外國々とても、固より同樣の義に可有之、將一兩國御同意申上候者御座候共、兩強大國不承知の上は、御趣意通りは貫徹可仕樣も無之は申迄も無之義、加之、英國に於ては、當春、長崎表に於て、同國人に切懸候ものも有之、急速御詮議、御行屆不被爲仕候哉にも相聞、旁々佛國同樣御談判穏に、引分れ可申哉か難計、自然此方談判の廉を以て、御條約御違背などゝの名義に引附け、彼是差結び、彌兵機を以て相迫り候場合に至り候へば、無御據義とは乍申、私共談判不行屆より、双方之不都合引起候樣に而、如何にも恐入候義、將重御國書等も有之、一々右に對し、侮慢の振舞御座候節は、私共萬死、無償之罪は申迄も無之、御國體 に差響候事、是非共争端御開不相成候而は、難被差置時宜に至候はゞ、得失成敗の義は、前申上候通りの義にて候處、見す見す國家を陥入、加之、隠然背叛之輩、此擧に乗じ、奸計を相設候は必然の義と、深く恐入候間、再三評議を盡し、既に召連候支配向迄も、一同見込承糺し、筑後守、伊豆守内壹人は、本地より引分れ立戻り、一體之次第申し、壹人は、御使相勤候方にも可有之抔と迄、評議相盡候へ共、左候ては第一體裁も不宜、將御使相勤候方は、矢張是迄之御趣意、押立談判仕候義に付、其内案外、行違生可申哉も、難計義に而、是以恐入候筋に奉存候間、兼而奉伺置候通、一同一と先歸府仕、一體の事情逐一申上、鎖港之義を以て、戰爭の端を被爲開候は、無上之御失擧に可有之と存候、見込之處不包申立候方、御爲可然義と評決仕候、尤彌以、御條約御保守相成、交誼永續之御宸基相定候上は、右等之次第、尚亦、各國へ御布告の爲め、御使被差遣候樣、相成可申、其節は再度、可仕積申合、但御使命の趣有之候國々の内、亞米利加、荷蘭之三國者長州一條をも兼、談判可致筈に有之、英國には鹿兒島表之義事濟には候共、一應は申談候積、其爲御國書等も御座候事故、右之國へは別段私共より、政府宛書管差遣し、一と先歸國仕候趣意柄申述べ (本文之通申遣候處英國公使より本國事務大臣之命を受返書差越候處條約に相違いたし候義は女王と雖とも其詮なく若又之を論ずる共徒に空論に属する外無之旨申越候義に御座候)外孛漏生、魯西亞、葡萄芽へは、巴里在留之公使迄、斷返し之書差遣し、瑞西國者、御條約濟の廉を以て差遣候筋にて、外國々とは別樣には御座候共、緊急之談判向も差置 御廟議相伺候爲、一と先歸國仕候際に臨み、同國而己も可罷越、無謂も無之候間 是亦、同國巴里在留公使へ斷返しの書管差遣、當五月十七日、巴里引拂、同國馬塞里に於て飛脚便船待合、同二十五日英國飛脚船へ乗船、歸府仕候、一體御自立の御基本相立候には、御國内一和相成候は、尤以其根本に而海陸二軍の御備は勿論、各國御交際にも、格別御注意被爲仕、御信義相立候樣、御覺悟無之候而は、不相成、就而は、彼方事情、御探索相成候而も亦第一義に御座候。私義見込之處にては、第一、辨理公使歐洲各國へ被差置度、第二、歐洲而已に無之、外獨立の邦々は、何れも條約御取結相成、萬一之節伐謀伐交之御方略有之度、第三には海陸二軍之方法、西洋の長所を被爲取候爲め、留學生差遣に相成、修業爲仕度義、第四には、西洋諸洲、新聞社中に御加入相成、彼我之事情相通候仕度義、第五には、御國民、自在外國へ相越え、商賣は勿論、彼方事情も心得候樣仕度義、夫是之次第は、別紙申上候通りに御座候間、篤と御熟覧被下度、私共見込之通、鎖港の義は御見合せ相成、御自立の基本、御定相成方、専ら御從事被爲仕候はゞ、御國體を被爲重し、御國威を不被爲汚義に而、外國より、不信不義の所置御座候節は、何れも其罪を御糺し被遊候事、相叶候筋に付、假令鎖港不被爲仕候とも、尊王の御趣意に取候而は、此上も無之義に而、宸裏をも可被爲安御事と、乍恐奉存候間、京都へは、私共實地目撃の上申上候、前文之次第を以て、誠實に御奉上御座候はゞ、御氷解被爲可被爲在義と奉存候。依而私共佛國在留中、對話書、並に爲取替候約定書、扶助金請取書、原書、譯文、巴里引取之節、外國々在留公使へ差遣候書寫、同返書、並に英、亞、蘭外國事務大臣への書管寫、將私共進退に付、被是嫌疑の爲め播告爲仕候新聞紙案とも相添へ、此段申上候以上。 参考文献・『痴遊雑誌』第1巻第6号(話術倶楽部出版部)昭和10年 『不二文庫〔三〕幕使池田筑後守の建白書』・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・尾佐竹 猛『国際法より観たる幕末外交物語』(邦光堂)昭和5年・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』
2024.06.24
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文久3年(1863年)5月10日、長州藩は攘夷を実行すべく馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船へ砲撃、報復として仏・米国軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃して長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし長州は砲台を修復したうえ新たな砲台を築いて海峡封鎖を続行、翌元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。仏・蘭・米国の三国に参加を呼びかけて連合艦隊を編成。四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達、そこへ池田筑後守(可軒さん)率いる横浜鎖港談判使節団が開国論を引っさげて帰ってきたのだから、さぁ大変! 使節が仏国と取り交わしたパリ約定には下関を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていたのだ。駐日公使オールコック(Rutherford Alcock)は幕府がこの約定を批准することにより四国連合から仏国が脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わず、7月24日に約定の破棄を四国に宣言した。 ――とWikiさん(「横浜鎖港談判使節団」、「下関戦争」等)に上手くまとめられているとおり、可軒さんの努力も空しくパリ約定は破棄された。7月22日、可軒さんは徳川家茂に面謁して鎖港の非を辧疏し、大いに開国論を力説したのだが、翌23日には「其方儀外國へ爲御使被差候處、不取計之事共有之不埒之至に候、依之御役被召放、知行高之内六百石被召上、隠居被仰付蟄居可罷在候」(免職のうえ知行半減、隠居蟄居の懲戒処分)を下されてしまった。 前回の建議書も長文であるが、終盤で提案している建議5項目についてもそれぞれ詳述している。全文を写したらこれまた相当な長文になるので、タイトルだけ挙げておく。(括弧内は要約) 1. 歐洲各國へ辨理公使御差遣の儀に付申上候書付(欧米各国へ大公使を派遣して和親の実を挙げること) 2. 西洋各國並東洋國々と條約御取結の儀に付申上候書付(無条約国とも早く条約締結を進めること) 3. 佛國へ留學生御差置之義に付申上候書付(海陸二軍の建設充実はいうまでもなく、西洋文明の長所を摂取するため留学生を派遣すること) 4. 新聞紙社中へ御加入之義申上候書付(西洋諸州の新聞通信社に加盟し、彼我の情報を収集することの急務なること) 5. 御條約濟國々へ御國民共通商渡船御差許之義申上候書付(国民海外渡航の禁を解き、貿易はもちろん文化交流の実を挙げること) 結局この5項目は全て明治時代に実現されたというから、可軒さんの慧眼、恐るべし。 現在英国御滞在中の天皇皇后両陛下の馬車パレードの様子を、160年前に可軒さんもパリでこのような歓迎を受けたのかなぁと思いつつ、YouTubeのLive中継で見た。 元治元年(1864年)3月28日に皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見する際、滞在先のホテルまで迎えに来た馬車(馬も紅装束着用)で向かっている。この時の行列順序は仏国騎兵先導、組頭調役通司塩田さん通弁フレッキマン一車、副使監察一車、正使一人当地役人付添一車、定役書物並同心一車、佐原さん等三人一車という順で、城門には剣銃の兵士が警固し、中門にもアフリカ兵数百人が並んでいたという。今回の天皇御一行パレードくらいの感じだったのかな…なんて勝手に想像したりして。(佐原さんは池田筑後守家来) この約2週間後の4月14日、観兵式に招待された一行は再び皇帝より差向けられた馬車に乗ってフォンテンブローの練兵場へと向かった。副使の河津伊豆守が鎧甲冑姿で馬に乗って皇帝の側に行って謁見し、皇帝を大いに満足させた。…まではよかったのだが、乗っていた馬が可軒さんの被っていた陣笠の裏の金地に驚いたのか、いきなり暴走。騎兵隊の中に突入してしまい、皇帝が大笑いして副官をやって馬を捕らえさせたという逸話も残っている。 ここまで色々と横浜鎖港談判使節団について綴ってきたが、もしも可軒さんが使節団の正使に選ばれてなかったら、もしくは可軒さんの意見に幕府や朝廷が耳を傾けてくれていれば、おそらく近代史に名を残す活躍をしたことだろうに、つくづく残念に思う。元々昌平黌で抜群に優秀な成績を修めた頭脳明晰な方なので、こんな幕府の生贄のような端から無理な役目がうまくいかなかったからといって、免職処分に隠居蟄居はあまりに酷い。ま、まぁ帰国後の暴走はあったにせよ。 慶応2年(1866年)に処罰が解かれ、翌慶応3年に軍艦奉行並にはなったが、その頃は既に健康を害していたため数カ月で職を辞して、その後はずっと岡山市で過ごした。こんな田舎でくすぶっていたなんて本当に勿体ない(現岡山市民としては嬉しいけれども)。 慶応2年3月15日に赦免され、11月16日に剃髪して名を可軒と改めた際の一首。 可軒と號せし時詠める うきしつむ身は浪花江の捨小舟 よしやあしやの中わけて行け 可軒さんはパリで撮影した写真の裏に、このような漢詩を遺している。 愧被功名誤一身 幽棲此日又逢春 春風芳草五州夢 涙酒当年舊写真 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・岸 加四郎『池田筑後守長発とパリ』(岡山ユネスコ協会)昭和50年・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年
2024.06.26
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08年11月の駄記事『「ガキの使い」と「内P」』で恥ずかしながらもカミングアウトしたように、私は山崎邦正さん(13年に改名して現在は月亭方正さんなのだが、今回は慣れ親しんだ “山ちゃん” と呼ばせていただく)のファンである。 昨日2月15日は山ちゃんの誕生日であった。そこで誕生日を祝し、山ちゃんの代表作(?)の一つともいえる「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」での伝説の企画「山崎VSモリマン」について長々と詳細を記しておきたい。 「ガキ使」に興味のない方には何のことだか全く分からないとは思うけど、この駄Blogは “今更誰も興味がないことをダラダラ綴る” がモットーでして…「今日は怒っとんねん。気合入っとんねん。芸能界っていうとこはほんまに怖いとこ。もう下剋上があり、ケツ取ったり取られたりやから。結局上に行くにはソイツのケツを見なアカンのですよ。ソイツのケツを見たらボクは勝てますから」 ということで96年11月に『第1回 山崎邦正ケツ公開スパーリング!!』(パンツの取り合い)を行ったものの、アメフト軍団、5人のおばさんに負け、続いてチャンピオンのモリマン(のホルスタイン・モリ夫さん)との対戦でも2戦とも惨敗してしまった。 96年12月には山ちゃん達ての希望で「第2回 山崎邦正ケツリベンジ KETSU-1グランプリ!!」が行われ、またも惨敗に終わった。 でもって98年6月には「第3回 芸能界因縁のリベンジマッチ! 山崎VSモリマン エンドレスバトル!!」が行われ、完敗続きの山ちゃんに有利なものがあるかもしれないということで30種類の対決方法が用意された。その中から顔面パンスト脱がし対決、スリッパしばき合い対決、ローキック対決、熱々あんかけ対決、水タオルしばき合い対決が行われたが、いずれも山ちゃんの惨敗。ちなみに入場曲(山ちゃんは “ヤマザキ一番”、モリマンは “We Will Rock You”)が流れたり、山ちゃんのセコンドにココリコ&モリ夫さんのセコンドに相方の種馬マンさんが付くようになったり、試合前に遠藤さんによる “ほほほい”が始まったのもこの回からである。 4回目からは格闘技の聖地・後楽園ホールにて観客の前で対決を行うようになり、対決前の様子(山ちゃん専属トレーナーによる声掛け)や今井良晴さん(全日本女子プロレスリングアナウンサー)によるリングアナウンス、近しい人からの花束贈呈、遠藤斉唱(パンイチでほほほい)等のお約束が生まれた。ダウンタウンはコミッショナーという立場だ(K-1対決では浜田さんがレフェリーになったりもする)。④ 98年8月「炎のファイナルリベンジマッチ IN 後楽園ホール!!」 無敵のチャンピオン VS 永遠の挑戦者 西宮が生んだ世紀末ファイター トレーナーからの声掛け:「いいぞ天才芸人」 花束贈呈:小学校からの親友・長位さん、昔の芸人仲間・藤田さん、森下さん 対決:フランスパンしばき合い対決、熱々あんかけ対決、ビンタ対決、K-1対決、水タオルしばき合い対決 /18 対決前の記者会見で意気込みを聞かれた山ちゃんは「古の昔から女が家を守り、男が狩りをする。それが僕の信念ですから!」と熱く語ったが、結果は全て山ちゃんの惨敗であった。⑤ 98年12月「嵐のラストファイナルリベンジマッチ IN 後楽園ホール!!」 完全無欠のチャンピオン 殺人エンジェル VS 永遠の挑戦者 西宮が生んだ落ちこぼれ世紀末ファイター トレーナーからの声掛け:「いいぞ天才芸人」「モリマン怖いよ」 花束贈呈:以前の相方・藤田さん、NSC時代の同期・森下さん 対決:パンスト脱がし合い対決、ビール瓶割り合い対決、ゴボウしばき合い対決、熱々の八宝菜対決、チーズフォンデュ対決、ハチミツ入りバケツ頭突っ込み対決、K-1対決 /18 この回で初めてゴボウでしばき合った山ちゃんは「木やコレ!」とゴボウの硬さに驚愕し、「アバラが折れた」と逃走した。山ちゃんが突き指のため試合不能ということで惨敗に終わる。⑥ 00年7月「今世紀最後のスーパーファイナルリベンジマッチ in 後楽園ホール!!」 過去5戦連勝 霊長類最強のチャンピオン VS 過去5戦連敗 永遠の挑戦者 西宮が生んだ落ちこぼれとっつぁん坊や トレーナーからの声掛け:「山崎勝てるよ」「モリマン怖いよ」 花束贈呈:実家の近所の幼馴染・長位さん 対決:カラーバットしばき合い対決、洗濯機ホースしばき合い対決、ケチャップとマスタード対決、Tシャツ小籠包対決、アメフト頭突き対決、小玉スイカ対決、納豆かけ合い対決、熱々あんかけ対決 /18 これまた全て山ちゃんの惨敗で、最後に菅プロデューサーが登場して山ちゃんが泣いている旨を伝えて終了。以降、最後に菅Pが出てくるのもお約束に。⑦ 02年2月「今世紀初! ラストファイナルリベンジマッチ in 後楽園ホール!!」 北海のつぶし屋 雪国が生んだビューティープリンセス VS 永遠のベビーフェイス 西宮が生んだお笑い音痴 トレーナーからの声掛け:「モリマン怖いよ」「アヤちゃんかわいいね」 花束贈呈:元マネージャー・一二三さん 対決:ゴルフクラブしばき合い対決、豆板醤ぬり合い対決、シャンパンケツキャッチ対決、もう着ない服対決、何が出るかな?対決、ママチャリ対決 /18 対決前に「今まで何度も対決しましたけどね、今までの対決は僕一人で戦ってたんですよ。でも今日の対決はね、嫁とジュニアがいるということで僕に背負うもんが出来てね、すごく3対1で戦えるっていう…」と語っていた山ちゃんだが、モリ夫さんから「新婚の分際でヘルス3日連続行ってんじゃねぇ!」とリング上でバラされた。今回は3本撮の長丁場になる予定だったものの、ママチャリ対決で山ちゃんが腰を痛めて(ヘタレからくるぎっくり腰)途中退場し、今回も全戦惨敗で対決終了。モリマンにアフリカ中央テレビの密着取材があったり、山ちゃんのお父さん(秋男さん)からの電話があったりもした。⑧ 03年6月「因縁のファイナルリベンジドリームマッチ in 後楽園ホール!!」 北海のリーサルウェポン 道産子ビューティー VS 永遠のとっつぁん坊や 西宮が生んだお笑い落第生 トレーナーからの声掛け:「モリマン強いよ」「邦正スベる気しないよ」 花束贈呈:東京に出てきて初めて住んだ共同のアパートの大家・田口さん 対決:恒例ゴボウしばき合い対決、寝袋対決、永ちゃんタオルしばき合い対決、ブタ脂肪ぬり合い対決、ガチンコ大喜利対決、口くわえバレーボール対決、宙づりしばき合い対決、熱々あんかけ対決 /18 対決前、「この一年でね、僕には背負うものがたくさん出来たんですよ。あや、そして娘の百桃(もも)、そして今あやのお腹にいる赤ちゃん。男はね、背負っているものがあればあるほど強くなれるんですよ」と熱く意気込みを語った山ちゃん。最も苦手とする恒例ゴボウしばき合い対決では「ゴボウはただの木なんですよ」という名言を生んだものの、結果は山ちゃんの惨敗に終わった。今回もモリマンにはアフリカ中央テレビの密着取材が付いていた。⑨ 05年2月「魂のスーパーファイナルリベンジマッチ in ディファ有明」 北海のつぶし屋 道産子クイーン VS お笑い視力0.01 西宮が生んだポンコツ芸人 トレーナーからの声掛け:「ララちゃん生まれたよ」「カリスマ出てるよ」 花束贈呈:準ミス有明(おばちゃん3号) 対決:サスペンダー引っ張り合い対決、顔面ビンタマシーン対決、熱々蒸しタオル対決、全身梱包対決、万国旗出されたら負けよ対決、小豆ふくんでビンタ対決、熱々あんかけ対決 /18 熱々蒸しタオル対決で敗れた山ちゃんがリングから逃走した後の場繋ぎで、ココリコ・田中さんによる “Rizière Centre”(山ちゃんプロデュース第1弾より)の歌唱やダイナマイト四国VSエスカルゴマンのリベンジマッチが行われた。結果は相変わらず山ちゃんの完敗。しかし菅P的には尺が稼げたのでOKとのこと。⑩ 06年8月「伝説のスーパーファイナルリベンジマッチ in 後楽園ホール!!」 北海が生んだリアルブタゴリラ VS 笑いの翼が折れたエンジェル トレーナーからの声掛け:「3人目早く作りなよ」「いいぞ天才芸人」 花束贈呈:山ちゃんが月に2度はお世話になっている五反田駅西口の現役風俗嬢・マリさん、カナダから来た入れ歯万引きGメン(ピカデリー梅田さん) 対決:ハチミツ対決、キャビンアテンダント対決、巨大風船対決、夏の風物詩対決、エア獅子舞対決、シャンプーハット対決、熱々あんかけ対決、ゴボウしばき合い対決 /18 山ちゃんの回復を待つ間、ダウンタウン・松本さん&ココリコ・田中さんのデュエット曲 “Those days”(山ちゃんプロデュース第2弾より)の歌唱やダイナマイト四国VSタコス兄弟の緊急スペシャルマッチが行われた。結果はまたしても山ちゃんの惨敗に終わる。⑪ 07年10月「奇跡のスーパーファイナル引退リベンジマッチ in 後楽園ホール!!」 ヒグマも道を空ける 北海が生んだ肉ダルマ VS 笑いのアンテナが折れた壊れかけのRadio トレーナーからの声掛け:「あやちゃんスゴイよ」「あやちゃん…」 花束贈呈:山ちゃんの奥さんであるあやさんに好意を寄せている、あやさん行きつけのパチンコホールGAIA目黒店の店長さん、カナダから来日した入れ歯霊媒師(ピカデリー梅田さん) 対決:高速回転ぐるぐるしばき合い対決、こんぺい糖ばら撒き対決、イビキ対決、空中浮遊イリュージョン対決、みたらし団子タレ対決 /18 山ちゃんが一週間禁酒して挑んだというこの回では、イビキ対決において初のドローとなったものの他は山ちゃんの惨敗。みたらし団子タレ対決終了後、山ちゃんが2回戦を拒絶したため、ダイナマイト四国VSコロナ3兄弟の緊急スペシャルマッチが行われ、更に緊急スペシャル歌謡ショーとしてダウンタウン・浜田さん&八代亜紀さんのデュエット “恋の沈丁花” と、松本さん、田中さん&由紀さおりさんによる “宇宙(そら)の子守唄”(どちらも山ちゃんプロデュース第3弾より)が披露されたが、チャンピオンのモリ夫さんに古傷の痛みが出たためそのまま試合終了。山ちゃんが逃げ出して終わらなかった唯一の回となった。⑫ 08年12月31日「大メイン クライマックス2008 炎のファイナルリベンジマッチ」 北海生まれの殺人炙りサーモン VS 笑いの翼の折れたエンジェル 花束贈呈:小池栄子さん 対決: スリッパしばき合い対決、恐怖ボイス対決、エレクトリカルファンタジー対決、エマニエルイス取り対決、水タオルしばき合い対決、熱々あんかけ対決、誰が出るかな?助っ人対決、フォークダンス対決、タルタルソース対決、胴体切断イリュージョン対決、ハチミツ対決、キングサイズベッド対決、小玉スイカ対決、ゴボウしばき合い対決 /24 最後の対決となったこの回はガキ使の大晦日年越しスペシャル 第一部として放送されたこともあって、色々と変更された。第4回からずっとリングアナウンスを務めていた今井良晴さんが村上ショージさんに代わり、遠藤斉唱がなくなって水木一郎さんによる替え歌応援歌斉唱に。山ちゃん専属トレーナーだった黒人さん二人もおらず、芸人さん達による応援軍団に変わった。花束贈呈も当初は山ちゃんに近しい素人さんだったのだが、やはり大晦日の放送なので華が必要だったのかな。他にも菅総統によるスガッスル(ハッスルのパロディ)も行われ、ダイナマイト四国が窮地に陥ったところにキューティー元四国(遠藤さんの元嫁・千秋さん)が現れ、危機を救う場面も。勝敗がつかなかった恐怖ボイス対決以外で山ちゃんは惨敗し、最後は山ちゃんが会場の外に逃げて12年にも及んだ山ちゃんとモリマンによる男と女の真剣勝負は幕を閉じたのであった。(ここに挙げた以外にもゴボウしばきあい対決はちょいちょい行われているが割愛) 個人的に好きな対決TOP3を選ぶとすれば1位 キングサイズベッド対決(ベッドでピロートークをして、ゴングが鳴ったらパンツを取り合う。山ちゃんのピロートークが魅力炸裂で最高)2位 フォークダンス対決(フォークダンスを踊り、曲が止まったと同時に戦う。ダンス中の笑顔がやたら可愛い)3位 空中浮遊イリュージョン対決(空中浮遊しながら戦う。ただただイリュージョンが可笑しい)かな。次点で巨大風船対決、万国旗出されたら負けよ対決あたり。痛そうだったり苦しそうだったりする対決はバラエティとはいえ胸が痛む。 文春オンラインでのモリ夫さんのインタビュー記事(20年11月15日)によると、対戦後に山ちゃんへ挨拶しに行くと腫れた顔で「ありがとうな」と言ってくれたそうで、モリ夫さんは辛くて目を合わせられなかったのだとか。山ちゃんのことは本当に尊敬していて、大好きな先輩だと語っていた。二人とも優しい人なのだろう。 ④~⑨までの対戦は「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」DVD6巻に、⑩~⑫は14巻に収録されており、どんなに辛い時でもこのDVDを見れば元気が出る。ありがとう、山ちゃん。 4月には山ちゃん…もとい月亭方正さんの独演会と、林家たい平さんとの二人会のチケットを取っているので今から楽しみ♪ どうか健康に留意して、いつまでも私たちを楽しませてくださいまし。
2025.02.16
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前回の80年代ビルボード年間シングル・チャートに続き、今回はアルバム・チャートの100位と1位を御紹介…って、何やめっちゃ適当ですがな(^^ゞ ここで唐突に問題です!最も長くチャートに留まったアルバムは何?これは簡単、ピンク・フロイドの「狂気(Dark Side of The Moon)」で、なんと741週もエントリーしていた。15年ですぜ、15年! では、TOP 100入りしたアルバムが最も多いアーティストは誰?1980 100位 Cameosis - Cameo 1位 The Wall - Pink Floyd ピンク・フロイドの「ザ・ウォール」で80年代は幕を開けた。 1981 100位 Chain Lightning - Don McLean 1位 Hi Infidelity - REO Speedwagon REOスピードワゴンの「禁じられた夜」が1位。にしてもこの邦題はちょっと…。 1982 100位 Greatest Hits - Queen 1位 Asia - Asia エイジアなんか「詠時感/時へのロマン」ときたもんだ(^^ゞ 1983 100位 Word of Mouth - Toni Basil 1位 Thriller - Michael Jackson この年は何と言っても「スリラー」が話題独占!PVもスゴかったしね♪ 1984 100位 No Brakes - John Waite 1位 Thriller - Michael Jackson 書き間違えじゃありません。2年連続で「スリラー」が1位に!流石モンスター・アルバム。 1985 100位 The Breakfast Club - Soundtrack 1位 Born In The U.S.A. - Bruce Springsteen “アメリカで生まれたぜ~♪”あのテンションの高さに日本人の私はついていけなかった。 1986 100位 Who Made Who - AC/DC 1位 Whitney Houston - Whitney Houston 「そよ風の贈りもの」って… とはいえ、彼女のあまりの歌唱力におったまげた。 1987 100位 Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me - Cure 1位 Slippery When Wet - Bon Jovi ボン・ジョヴィはあまり好きではなかったが、確かにこのアルバムは捨て曲なしの名盤! 1988 100位 Lovesexy - Prince 1位 Faith - George Michael うわぁ…100位も1位も共に怪しい(^^ゞ 特に「LOVESEXY」のジャケットは勘弁して~ッ!! 1989 100位 What You Don't Know - Expose 1位 Don't Be Cruel - Bobby Brown ボビー・ブラウンといえば、ホイットニーの元夫だったっけ? No.1 アルバムたち No.100 アルバムたち あ、TOP 100入りしたアルバムが最も多いアーティストは、その数なんと98枚!のエルヴィス・プレスリーなのであった
2008.09.25
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またしても何度目かの面接を受けた。何十人もの応募があったようで、すっかり意気消沈。パートにしろ契約社員にしろ、フルタイムで働くからには健康保険や厚生年金等を掛けてくれるところで働きたいと思うのは皆同じ。飛び抜けた技術も何も持たず、半端な職歴しかない不惑手前のおばちゃんなど塵に等しい。 打ちひしがれているところへ、警察からやんちゃな次男の件で呼び出し。青春を謳歌するのはいいが、あまり無茶をすると後々自分に降り掛かることにそろそろ気付いてほしいものだ。映画やドラマのようには上手くいかないよ ふぅ。あれこれ疲れた一日だった。何か心休まるものが見たい…。 中学生くらいの頃、水谷豊さん主演の「あんちゃん」というまったりしたドラマが好きだった。 宇佐木(うさぎ)町という寂れた温泉街が舞台で、水谷さん演じる女子プロレスのマネージャーだった田野中一徹は、父親の死を機に郷里・宇佐木町にある実家の寺を継ぐことに…。 物語はそんな一徹を中心に、妹の徳子(伊藤蘭ちゃん)や弟の文太(西山浩司くん)、一徹の幼馴染の音次(今は亡き三浦洋一さん)や一郎(岡本富士太さん)、米夫(河西健司さん)らの日常に起こる単純で複雑な人間模様を通して一徹が一人前の住職になっていくという、ほのぼのドラマだった。水谷さんと蘭ちゃんは、このドラマの共演で仲良くなったんじゃなかったっけ? ♪ぴょぴょんがぴょん ぴょぴょんがぴょん劇中流れていた「宇佐木温泉音頭」は作詞・松本隆さん、作曲・大滝詠一さんという、なぜか無駄に豪華なコンビだった。歌っていたのは角川博さんだったけど(^^ゞ 登場人物がみんな純朴で温かく、「~さぁ」という方言も耳に優しくて、本当にこのドラマは良かったなあ。こういう家族みんなでのんびり楽しめる良質のドラマって、一体いつから無くなっちゃったんだろう?我家のおバカ息子も、近頃の若手俳優出演のヤンキー映画とかじゃなく、こういうドラマでも呑気に見ていれば素直な好青年に育っていたかも!? 本日の一冊 天府 冥府 (財部鳥子) 講談社 33年に新潟で生まれ、13歳までを旧・満州で過ごした著者の過酷で壮絶な少女時代を淡々と綴った戦争体験記。街中の到る所に死体が転がる中で生き抜いた彼女の、死に対する冷然さが印象的だった。 上顎癌で亡くなった彼女の母親の描写に、昨年末に同じ病気で父を亡くしたので共感した。
2009.04.27
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『ヒッチハイクの賛否両論』 ロジャー・ウォーターズ 「The Pros and Cons of Hitch Hiking」 Roger Waters (84) ピンク・フロイドの “頭脳” ロジャー・ウォーターズの私的なインナートリップ。初のソロ作となったコンセプトアルバム。A面 1. 4:30AM トラベリング・アブロード - 4:30AM (Apparently They Were Travelling Abroad) 2. 4:33AM ランニング・シューズ - 4:33AM (Running Shoes) 3. 4:37AM ナイフを持ったアラブ人と西ドイツの空 - 4:37AM (Arabs with Knives and West German Skies) 4. 4:39AM 初めての出来事 パート2 - 4:39AM (For the First Time Today, Part 2) 5. 4:41AM セックス革命 - 4:41AM (Sexual Revolution) 6. 4:47AM 愛の香り - 4:47AM (The Remains of Our Love)B面 1. 4:50AM フィッシング - 4:50AM (Go Fishing) 2. 4:56AM 初めての出来事 パート1 - 4:56AM (For the First Time Today, Part 1) 3. 4:58AM さすらう事そして生きる事をやめる - 4:58AM (Dunroamin, Duncarin, Dunlivin) 4. 5:01AM 心のヒッチハイキング - 5:01AM (The Pros and Cons of Hitch Hiking, Part 10) 5. 5:06AM ストレンジャーの瞳 - 5:06AM (Every Stranger's Eyes) 6. 5:11AM 透明なひととき - 5:11AM (The Moment of Clarity) ピンク・フロイド(Pink Floyd)のベーシストであるロジャー・ウォーターズ(Roger Waters)が84年にリリースした初ソロアルバム「ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)」。邦題は原題直訳なので取り立てるほどではないが、何故か素っ裸のお姉さんがヒッチハイクをしているジャケットが目を引いたので取り上げてみた。 当時はネット通販がなかったので、青少年がこのアルバムをレジに持っていくには勇気が必要だっただろうなぁ…と思ったら、お尻を隠して売られていた所もあったようだ。 赤パンツを履かせてみたり、■で隠してみたり。更に■に加えて帯で半分隠したりして。 外人さんはスタイルがいいので、素っ裸ヒッチハイク姿もエロさより格好良さが勝っている…なんて思うのは私がおばはんだからかな。 85年に出版された「ロック名盤・レコード&ビデオ・ガイド」という本には「ザ・プロス・アンド・コンス・オブ・ヒッチハイキング」というカタカナタイトルで記載されているので、途中から邦題に変更されたのかも。だとしたらちょっと珍しい。 さて、このアルバムは神経症を患った主人公が見ている夢を、聴き手が同時進行で追っていくというコンセプトアルバムで、中年の危機に直面した主人公の男がカリフォルニアをロードトリップし、途中で拾ったヒッチハイカーと不倫し、荒野に移住して妻と和解しようとし、最終的には孤独になるがより深い洞察力を得るという夢の旅物語らしい。 物語は午前4時30分から午前5時13分までの43分間に起こる断続的な夢としてリアルタイムで構成されており(収録時間も43分)、夢の終わりに男は孤独で悔い改めながら目覚め、おそらく危機を乗り越えたのか本当の妻に慰めを求る――というものだそうな。 YouTubeでフルアルバムを聴いただけなので、そのあたりの物語は分からない。まぁ女性の喘ぎ声が入っていたりするけど。ただ、このアルバムにはエリック・クラプトン(Eric Clapton)が参加しており、彼のスライドギターを聴くことができる。 「ヒッチハイクの賛否両論」をリリースした翌85年にロジャーはピンク・フロイドを脱退し、87年に2ndソロアルバム「RADIO K.A.O.S. 〜混乱の周波数〜(Radio K.A.O.S.)」をリリースした。これも架空のラジオ局「Radio KAOS」を舞台としたコンセプトアルバムなのだとか。 残念なことに今の邦題はただの「RADIO K.A.O.S.」になっている。 A面 1. ラジオ・ウェイヴ - Radio Waves 2. 誰がそんな情報を必要としてるんだい? - Who Needs Information 3. 彼か、もしくは私が… - Me or Him 4. 予知能力 - The Powers That BeB面 1. サンセット通りにて - Sunset Strip 2. ホーム〜誰にでも国は存在する〜 - Home 3. 4分間のシミュレーション・ゲーム - Four Minutes 4. 流れが変わる時〜ライブ・エイドが終わって〜 - The Tide Is Turning (After Live Aid) “流れが変わる時〜ライブ・エイドが終わって〜(The Tide Is Turning (After Live Aid))” というのは、85年7月13日に開催されたアフリカ難民救済を目的としたチャリティコンサート「Live Aid」にロジャーは参加を申し込んだものの、主催者のボブ・ゲルドフ(Bob Geldof)に断られたらしい。しかしそのイベントがこの曲を書くきっかけになったそうな。 まぁ確かにこんな難解なアルバム曲で観客と盛り上がるのは難しいわな。残念だったけど。 そんな素っ裸ヒッチハイク ロジャー・ウォーターズに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪これは是非フルアルバムをご堪能くだされ。 ヒッチハイクの賛否両論(Full Album)
2024.05.11
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幕末のイケメン侍、またはスフィンクスと記念撮影した侍として人気のある池田可軒(長發)さんは、27歳にして横浜鎖港談判使節団の正使を務めた英俊としても知られている。この使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うという到底実現不可能なもので、幕府としても無理を承知のうえで朝廷(や世間)に対して時間稼ぎのために送り出した使節団であった。 そんな過酷で悲惨な役目を何故可軒さんが負うことになったのか、今回はその経緯をざっくりと記したうえで、渡欧に先立って奉じた上申書を御紹介。 嘉永7年(1854年)の日米和親条約により下田と箱館が、そして安政5年(1858年)の日米修好通商条約(安政五カ国条約)により、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)を開港・開市することとなり(神奈川開港6か月後に下田は閉鎖)、各開港地に外国人居留地を設置することが決められた。(他にも領事裁判権の規定、関税自主権の欠如といった不平等条約であった) しかし日米修好通商条約調印に際して孝明天皇は強く反対し、幕府が勅許を待たずに調印。これが後に安政の大獄や桜田門外の変へと繋がっていくのだが、文久2年(1862年)11月に急進的攘夷論者の勅使・三条実美が将軍・徳川家茂に「醜夷を拒絶すべし」と破約攘夷の実行を求める勅書を手渡し、家茂は勅書を受け入れて来春に京都に上り攘夷の詳細を説明するという回答書を提出。文久3年(1863年)3月、上洛した家茂(将軍の上洛は寛永11年(1634年)の徳川家光以来229年ぶり)に「君臣の名分を正し、人心の帰嚮を一にして攘夷の成功を期せしむ」と勅諭を述べた孝明天皇は、後日行幸して攘夷を祈願。4月20日、家茂は攘夷の実行を5月10日と決した。これを受けて翌日、天皇から諸大名に「軍政相整え、醜夷掃攘これ有るべく」とする命令が出される一方、同日家茂からは「五月十日拒絶に及ぶべき段、御達し相成り候」(5月10日から条約破棄交渉を実施する)とした上で「(外国の)襲来候節は掃攘致し候様、致さるべく候」とあくまで先方からの実力行使があった場合だけ応戦するようにとする命令がやはり諸大名に下されていた。 そして迎えた5月10日。「譬皇国一端黒土成候共開港交易ハ決而不好候(国土が焦土になっても開港交易は認めない)」とする宸翰が発せられ、長州藩は関門海峡を通過した米国船に砲撃を加え、その後も外国船への砲撃を実施。7月には英国の軍艦が薩摩藩に対して生麦事件(文久2年8月に生麦村で薩摩藩士が英国人を殺傷した事件)の犯人引き渡しと賠償金を求めて鹿児島に来港し、渉決裂に伴って薩英戦争が勃発した。 その後も攘夷実行や破約を求める勅書が諸大名に発せられたが、孝明天皇は自身の意思と無関係に急進的な勅書が出ることを憂慮して、急進的攘夷論の公家を朝廷の中枢から追放(八月十八日の政変)。これらのごちゃごちゃにより事実上攘夷勅命は無効化したものの、攘夷自体は放棄しておらず、ここにきて幕府は横浜鎖港談判の使節派遣を決めるのである。(以上、ざっくりとWikiさんより) 万が一にも談判が成功して鎖港できれば奉勅の一端として幕府の尊王が実証出来るし、不成功だったにしても各国を歴説して回るのに1、2年は掛かるだろうから、その間に世間の事情も変わるだろうという当座凌ぎの策を取ることにしたのだ。 当初は若年寄の秋月左京亮や、罷免された前老中の小笠原図書頭を使節に任命しようとしたそうだが、結局正使を務めることになったのが池田筑後守、我らが可軒さんであった。そして副使にはベテランの河津伊豆守、目付に河田相模守が選ばれた。 上 申 書 今般、私共、佛英其外國々へ、鎖港之儀に付爲御使罷越候に付而は豫め被爲施御處置之次第、(長州處分之事、尤其内のヶ條たり、)申置候趣も有之、近々御執行の運に相成候處、一体御用筋、御條約面に相觸れ候儀、及談判候事にて固より正大公明の議論を以て、執爭折服致兼候儀に御座候間、彼方氣受尤肝要に候處、各國へ被爲對、此迄の處、殺傷等引續有之、御殿山公使舘も、折角經營候處、燒失致し、然も暴徒の放火にかゝり候との風聞も相聞え、夫是交際上不都合の事共差重なり、長州發砲の始末におよび、事勢切迫、御懸念不少に付而は、各國公使はじめ、江戸表出府も御差止相成、先は横濱へ御閉置被成候も同樣の御待遇、其上京師の御模樣も自然外國人承り込罷在、當夏中御條約に全違背相成候鎖攘の御書簡、圖書頭殿御在職中被遣、其儀各國公使より銘々本國政府へ申遣候は勿論の事可有之、尤も先般右書簡は御取戻しにて御取消の趣被仰遣候得共、彼是議論申立候儀も有之、右等の廉により推考仕候えば、如何樣御懇親の旨、言辭を以て説得仕候とも、各國政府にては、其廉事實に不相露候上は、此等事情の委曲摸通り不申、定而御交際之御義理に相外れ、御懇親の御情合無之事と而已、一概に存取り、詰り鎖國の舊に可被爲復御目論見に可有之樣、猜疑の念差含候は必定にて、既に長州發砲の儀に付而も、政府の御處分を手ぬるく存取、直に各國より、軍艦差向け候趣も相聞え候、其兵機を未發に収め候儀も、僅に今般御使の談判賴有之候間、いづれにも先頃軍艦練所において、御手前樣方、亞蘭兩國公使に御談判被爲在候通り、御和親の御義理、御懇篤の御意味を押立、御國内の形勢、無餘儀事情委曲説明および、一時人心鎭靜方の方畧等談判いたし候趣を以ッて、自然鎖港の儀に相渉り候心得にて御座候間、彼方氣受不取失、横濱貿易筋、各國公使御接待振等、事實に御懇親の廉相見え候樣御仕向、公使共より政府へ非難申立候口實無之樣被成遣不申候ては、談判の御趣意相貫兼可申而已ならず、多少の行違相生じ、今般御使被遣候御趣意を以、敵意被爲任候樣存取、却て兵機を促し御條約御違背の名義に被相唱候て、各國連衡軍艦差向け、手詰の議論等に及間敷とも難申候、左候節は、私共一命固より覺悟候事には候得共、事の曲直、理の順逆、悉とく御趣意の筋とは相反し、却て一時疎暴過激の輩、自己の憤意相霽し可申ため、無謀の浪戰におよび可申端緒を啓き、御國事を誤り、兵禍の結ぶところ、慘毒百萬の生靈に及び、追て御國是御据り候後にいたり候も、取戻し不相成、無上の御失擧、天下永世の訾詬可受儀と尤も以心配仕候間、私共出帆仕候後、彼方談判筋は、私共舌頭にて相纏り可申ものと思召されず、前斷申上之通り、横濱貿易も衰頽不致、(此時桑を植えるを禁じ、種紙の出港を制限する等の議あるを以てなり、)公使御待遇向も、尚更御懇親被爲盡、中外相照應候而、不都合の事出來不申樣御處置御座候樣仕度奉存候、依之此段申上候 「私共一命固より覺悟候」と死を賭して悲壮な覚悟で渡欧した可軒さんなのであった。 参考文献・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・田辺太一著 坂田精一[訳・校注]『幕末外交談』2(平凡社東洋文庫)昭和41年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.19
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『キ・ラ・メ・キ・トゥモロー』 オレンジ・ジュース 「Rip It Up」 Orange Juice (82) ちょっぴり甘くて、すっぱいオレンジ・ジュースのフレッシュでフルーティーなサウンド!! スコットランド出身の噂の4人組のデビュー・アルバムA面 1. リップ・イット・アップ - Rip It Up 2. ア・ミリオン・プリーディング・フェイシズ - A Million Pleading Faces 3. マッド・イン・ユア・アイ - Mud in Your Eye 4. ターン・アウェイ - Turn Away 5. ブレックファースト・タイム - Breakfast TimeB面 1. キ・ラ・メ・キ・トゥモロー - I Can't Help Myself 2. フレッシュ・オブ・マイ・フレッシュ - Flesh of My Flesh 3. ルイーズ・ルイーズ - Louise Louise 4. ホコヨ - Hokoyo 5. テンター・フック - Tenter Hook 「キ・ラ・メ・キ・トゥモロー(Rip It Up)」はオレンジ・ジュース(Orange Juice)が82年にリリースした2ndアルバムなのだが、残念ながら現在はこのイカした(死語)邦題ではなく原題そのまま「リップ・イット・アップ」となっている。 元々この「キ・ラ・メ・キ・トゥモロー」というのは “I Can't Help Myself” という曲の邦題で、アルバムのタイトルソングである “Rip It Up” の方は普通に “リップ・イット・アップ” なので、ちょいとややこしい。 オレンジ・ジュースというバンド名は何となく80年代にポッと出てきたノー天気アイドルバンドっぽい感じを受けるも、彼らは76年にスコットランドで結成されたポストパンク・バンドで、当初はThe Nu-Sonics(ニュー・ソニックス)というバンド名だったそうだが、79年にオレンジ・ジュースと改名。 82年2月にデビューアルバム「ユー・キャント・ハイド・ユア・ラヴ・フォーエヴァー(You Can't Hide Your Love Forever)」をリリース。その9ヶ月後に発売された2ndアルバム「キ・ラ・メ・キ・トゥモロー」からの2ndシングル “リップ・イット・アップ(Rip It Up)” が全英8位に達した。 「キ・ラ・メ・キ・トゥモロー」リリース時のメンバーはというと、バンドの中心人物でvo、gのエドウィン・コリンズ(Edwyn Collins)、gのマルコム・ロス(Malcolm Ross)にbのデヴィッド・マクライモント(David McClymont)、drのジーク・マニーカ(Zeke Manyika)の4人。 84年3月にEP「テキサス・フィーヴァー(Texas Fever)」を、更に同年11月には3rdアルバム「ザ・サード・アルバム(The Orange Juice)」をリリース。しかしこの頃にはオレンジ・ジュースはエドウィンとジークの2人だけになっており、85年1月にイギリスの炭鉱労働者のストライキのためのギグを最後に解散した。 ちなみに、彼らの3rdにしてラストアルバムとなった「ザ・サード・アルバム」も現在は原題どおりの「オレンジ・ジュース」になっている。 邦題は斯様に消滅の一途を辿っているのであるが、絶滅危惧のカテゴリーには絶滅危惧ⅠA類、ⅠB類、Ⅱ類(VU)、準絶滅危惧(NT)、情報不足(DD)、絶滅のおそれのある地域個体群(LP)があり、(LP)という文字だけ見たら洋盤邦題(LP)のことかと思っちゃうよね…って誰も思わねーよ! 閑話休題、オレンジ・ジュースなどというダサいバンド名(失礼!)で活動期間もそんなに長くはなかったものの音楽的な評価はそこそこ高いようで、英国のインディーポップやインディーロック界、日本のネオアコ(ネオ・アコースティック)界に多大な影響を与えたという。 正直、オレンジ・ジュースの音楽には全く興味がなく、ただエドウィン・コリンズと誕生日が同じということだけで記憶に留めている程度なのである。なので今回初めて「キ・ラ・メ・キ・トゥモロー」に収録されている全10曲を聴いてみたのだが、確かに80年代を感じさせる楽曲であった。個人的には70~80年代の英国音楽だとネオアコとは間逆とまではいかないまでも、ちょっと遠いニューロマ(New Romantic)やNWOBHM(New Wave Of British Heavy Metal)を好んで聴いていたので、若干穏やか過ぎるような…。勿論悪くはないのだけれど、まぁ音楽の好みは人それぞれということで。 そんなオレンジ・ジュースに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ リップ・イット・アップ ア・ミリオン・プリーディング・フェイシズ キ・ラ・メ・キ・トゥモロー
2024.12.16
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80年代に活躍したカナダ人アーティストといえばブライアン・アダムス(Bryan Adams)を思い浮かべる方が多いだろうが、この兄ちゃんも忘れてはいけない。そう、コリー・ハート(Corey Hart)である。 ブライアンより遅れること僅か、ほぼ同時期にコリーもヒットを飛ばしたのだが、爽やかブライアンに比べてコリー兄ちゃんは情熱を内に秘めた感じ(やや暗目)で、インタビュー記事などでは当時のGF(後に結婚→離婚)・エリカさんのことばかり褒めていたので、日本での人気は今ひとつパッとしなかったような…。 ちょいワル好青年(!?)的なルックスが若い女の子のハートをくすぐりまくったコリー兄ちゃんがデビューアルバム「FIRST OFFENSE」をリリースしたのは83年の11月のことで、1stシングル“Sunglasses at Night”がいきなり大ヒット!カナダのみならず米国でもTop 10入りを果たし、彗星の如くミュージック・シーンに登場したのであった。ちなみにこのアルバムには、エリック・クラプトン(Eric Clapton)もなぜか参加してたりして。 更に85年発売の2ndアルバム「BOY IN THE BOX」からのシングル“Never Surrender”は米国でも3位を記録。ルックスの良さに加え、妙に力の入ったヴォーカルも印象的だった。 でもって翌86年リリースの3rdアルバム「FIELD OF FIRE」では、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)の名曲“好きにならずにいられない(Can't Help Falling In Love)”をカヴァー。まるで語りかけられているかのようなコリーの甘~いハスキーボイスがたまらん…これは反則やわぁ… 米国では既に人気が下降気味で今イチだったが、本国では見事チャート1位に輝いた 88年リリースの4thアルバム「YOUNG MAN RUNNING」、続く90年にリリースの5thアルバム「BANG!」はそんなに出来の悪いアルバムでもなかったように思うが、残念ながらチャート上位には上らなかった。 で、今回紹介するアルバムは、上記5枚のアルバムからシングルカットされた曲を集めた、91年リリースの「THE SINGLES」。 このCDをいつ、どこで買ったのか全く記憶にないのだが、手元にあるのはUS輸入盤だ。コリー兄ちゃんの熱い歌声を聴くと何だかホッとしてしまう。嗚呼、どれもええ曲でんなぁ~。 うっとおしい梅雨の合間、一服の清涼剤にコリー兄ちゃんの映像と歌声を御堪能あれ 1. In Your Soul 2. A Little Love 3. Sunglasses at Night 4. Everything in My Heart 5. Never Surrender 6. Don't Take Me to the Racetrack 7. Eurasian Eyes 8. Can't Help Falling in Love 9. Bang!(Starting Over) 10. Boy in the Box11. Take My Heart12. Spot You in a Coalmine13. It Ain't Enough14. I Am By Your Side15. Chase the Sun 今はソングライターとして、同じくカナダ出身のセリーヌ・ディオン(Celine Dion)や再婚したカナダの歌手である奥さん等に曲を書いているそうで。元気そうで何より(^^) YouTubeの映像をリンクするにあたって久々にコリー兄ちゃんのPVを見まくったが、悲しげに何かを訴えるようなつぶらな瞳といい、唇をにゅっと突き出すような元気いっぱいの(!?)歌い方といい、思わず朝から胸がじゅんじゅんしてしまった♪
2010.06.27
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80年代、雨後の筍のようにわらわらと現れたバンドの中でも、カルチャー・クラブ(CULTURE CLUB)はルックスだけでなく楽曲的にも優れていた。 vo.でありバンドの顔でもあったボーイ・ジョージ(Boy George)の奇抜なファッションと毒舌ばかりが注目されていたが、彼の歌声はメロディ同様、とても耳に心地よかった。そんなジョージの陰に隠れて然程目立たなかったものの、実はバンドの要にしてリーダー格のdr.ジョン・モス(Jon Moss)の男前っぷりもなかなかで、私はこのジョン・モスに惹かれてカルチャー・クラブに興味を持った。 82年にデビュー・アルバム「ミステリー・ボーイ(KISSING TO BE CLEVER)」(当時の邦題。今は「キッシング・トゥ・ビー・クレヴァー」となっている)をリリースするや、話題性と楽曲の良さが相まって大ヒット! 続いて翌83年に出した2nd「カラー・バイ・ナンバーズ(COLOUR BY NUMBERS)」がこれまた全英1位、全米2位を記録 オカマが「カマカマカマカマ~♪」と歌うことでインパクトを与えた“カーマは気まぐれ(Karma Chameleon)”をはじめ、怪しげな日本文化紹介PVが印象的な“ミス・ミー(Miss Me Blind)”やコーラスのヘレン・テリー(Helen Terry)の歌声が冴える“ポイズン・マインド(Church of the Poison Mind)”などなど、シングルカットされた曲はどれも世界中で大ヒットした。 これらの楽曲で歌われていた愛がジョージからジョンに向けてのものだったと知ったのは、ジョージが麻薬で捕まってからかなり後のことだった。出逢った時から二人はビビビッときたらしい。 当時購入した写真集に、ジョンとジョージのキス写真が載っていた。その頃の二人の関係などまだ知る由もなかった中学生だった私は、ジョージの頬が若干上気しているようにも見えたが、ただ呑気に仲がいいなァ♪なんて思いつつ写真に見入ったものだった。 ジョージは本当にジョンのことを愛してたのね…と窺わせる写真 84年リリースの3rdアルバム「ハウス・オン・ファイヤー(WAKING UP WITH THE HOUSE ON FIRE)」(これも今では邦題が「ウェイキング・アップ・ウィズ・ハウス・オン・ファイアー」に)あたりからバンドの人気に翳りが見え始める。個人的にはカルチャー・クラブのアルバムの中ではこのアルバムが一番好きなのだが、残念ながら評価は今ひとつ 「War is stupid ~♪」と戦争の愚かさを歌い、「戦争ヘンタ~イ♪」と声高に叫ぶ“戦争のうた(The War Song)”は、戦争好きな某国ではあまりウケなかったようで、おまけにPVでは戦争をファッションにしたと非難轟々。しかし本当にいい曲だと思う。 4thアルバム「フロム・ラグジャリー・トゥ・ハートエイク(FROM LUXURY TO HEARTACHE)」をリリースした86年、ジョージはドラッグで逮捕された。ジョンを失った寂しさから手を出したとか。 後に監禁事件等で世間を騒がせ、未だ立ち直っていないかのようなジョージ。一方のジョンは既に結婚し、3人の子供の良きパパとなっている。ジョージにも早く素敵なパートナーが現れ、幸せになることを願う。同じジョンに惹かれた者として 本日のひまつぶし ・日本ではNHKで放送されたカルチャークラブ・イン・ジャパン。なぜかジョージの言葉が全て女性言葉で字幕がついていたのを思い出す。このシーンはジョンのお茶目ぶりに→こちら ・「戦争ヘンタ~イ♪」歌い継ぎたい名曲“The War Song”→こちら ・同じく3rdアルバムから、PVがちょっぴり切ない“The Medal Song”→こちら ・パッとしなかった4thアルバムからは、懐かしい名女優さん総出演(?)のPVが印象的だった“God Thank You Woman”→こちら
2008.12.09
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池田可軒(長發)さんは文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて遣欧使節団を率いて仏国を訪問し、帰国するや禄半減のうえ蟄居を命じらるも、慶応3年(1867年)には赦免されて軍艦奉行並となった。しかし病気を理由に半年で辞して岡山で隠棲生活を送り、明治12年(1879年)9月12日に没した。死因は明らかにされていない。 可軒さんの病気に関しては幾つかの文献に記されている。 昭和9年に発行された小林久麿雄著「幕末外交使節池田筑後守」によると、備前藩主池田家は備中井原池田家の宗家である関係上、転住について可軒さんが宗家へ寄せた書札には次のように書かれている。「…然處私儀七八ヶ月以前重職掌被命候後、外國迄使節罷越候處、其後隠被申付、宥恕之後軍艦奉行並被命候處間無御座不快而退役仕候後、唯々病軀保養爲閑散游歩而己罷在…(略)…就而福次郎義不及申上、私義迚同様粉骨砕身鞠躬勉勵可仕之段、今更改而申上候迄無御座候得共、前文申上候通多病之事故、朝廷之御奉公之義十分相勤候次第…」 可軒さんと親交の深かった木畑坦斎さんの御子息・木畑竹三郎氏が序文を寄せているが、その中で可軒さんが坦斎さんに寄せた詩が書かれている。「病軀一臥四年餘、風月睽違不到廬 誰是爲余訴心事、羨君耕讀在詩書。」 昭和40年に発行された郷土史家の岡 長平著「ぼっこう横町」に可軒さんのことが少しだけ書かれているが、それによると――。「長発は、岡山で悠々自適、浮世を捨てて、誌書にその日を送ってたが、明治十二年に、四十三才で、荒神町の屋敷で死んだ。巴里でもらった脳梅毒が、命とりだったとか……」 そして昭和44年発行の岸 加四郎著「鶴遺老:池田筑後守長発伝」にも、可軒さんの病気に関する記述が幾つかある。 まずは、横浜鎖港談判使節団に随行した田辺太一によると、「往々にして咄咄書空の状」に陥っている池田正使を見た、とのこと。無理な談判でノイローゼ気味になっていたのかも。「その病名が医学的に何であったかはわからない。しかし遣欧使節から帰朝した前後に奇矯な行動が二三あったことは事実である」「この手禄(不亀手録)四十冊余はもちろん可軒が維新後岡山に隠棲して後の編集だろう。明治十二年死去の一両年前は脳梅毒による完全な分裂症状であったが、それまでの十余年は全く狂い続けではなく、文人墨客との交わりもなされていた様である」 昭和43年発行「書誌学(11-13)」に載っている岡田祐子著「池田可軒の舊藏書(1-3)」には、舊藏書(旧蔵書)に見えた可軒の書き入れと題し、精神を病んだ時代の可軒さんが蔵書に書き込んだ文言等も詳しく紹介されている。「特に漢魏叢書・禹貢匯疏・説郛・太平御覧には多くの戲書がみられる。また默齋先生發論語講義の書き入れは非常に手元確かに書かれていて、比較的病気の軽い時に書かれたものではないかと思われる。それにひきかへ、漢魏叢書には文字を勝手に色々と作ったり、本文及び著者名をみだりに直したりしている。全般的にこの叢書に見える書き入れは字形をなさない、判然としないものが多く、中には幻想的な繪畫も書かれたりしている。禹貢匯疏には「發狂ニ付謝禮」といふ言葉も出て来る。ここでは本文中に數ヶ所朱でもって木畑貞履という学者が校をつけているのを、可軒は自分が校したと錯覺して、巻頭に『池田長發校』としている」 「又「增評唐宋八大家文讀本」の中に『囚長發于其家奪妻名富○其之因外不許交親御』といふ文も出て来る。これは自分は囚へられ、妻をも奪はれ、親しく妻と交はることもできないといふ意味だらう。富時可軒は狂氣のため、多分家人とも隔離され、幽閉されていたらしいことが想像され、恐らくこれはその時に書かれたものだろう」(○=ウ冠に夏) 可軒さんが軍艦奉行を半年ほどで理由不明のまま辞しているのは、彼が帰朝して実に3年目のことで、脳梅毒をパリでもらったとすれば、この病気は3年位経て発病するのが普通であるというから、この病気のために脳神経が冒されて精神状態及び健康状態ともに優れず、その職務に耐えられなくなって辞職したと見ることは、あながち不可解なことではなかろう――と岡田さんは記している。 岡田さんの分類した狂った時代の書き入れに、自分を偉がっている言葉の見えるもの、ということで様々な書き入れられた言葉が紹介されて、王侯なみに自分を偉く思っていたらしいと書かれている。 ネットで梅毒について調べてみると、末期の神経梅毒で通常40代または50代で始まる実質型神経梅毒では、病識の欠如を伴う誇大妄想(自分を有名人や神、神秘的な力をもつ存在と思い込む)がみられることがあるとのこと。実際に可軒さんが脳梅毒だったのかどうかは分からないけれど。 平成13年に井原市教育委員会が発行した冊子「井原の歴史」創刊号には、木畑坦斎さんが可軒さんの訃報を記している明治12年9月13日の日記のモノクロ写真が載っているのだが、辛うじて “可軒君” という文字が分かるだけで、あとはさっぱり読めない。学生時代に購入した「くずし字辞典」、まだ実家に残ってるかなぁ…「時には病が重くて幽閉されたこともあるらしく、うす暗い部屋にとじ込められ、昔から慣れ親しんできた書物を前に、筆をもてあそびながら心に浮かんでくるたわいもないことを恥とかいった理性的なブレーキを忘れて、一心に書き綴っている姿を想像すると、何かしら可哀そうで可哀そうで、寒々した人気のない書庫の中で一人、思わず涙ぐんでしまいました」 学生だった岡田さんはこのように書かれていたが、私も可軒さんの晩年を知った時から遣瀬ない思いを引き摺っている。
2023.11.11
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文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて27歳にして遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)の正使を務め、スフィンクスの前で記念撮影したイケメン侍として知られる池田可軒(長發)さん。 少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だった――とWikiさんでも紹介されているが、可軒さんは「人間は萬巻の書を讀まなければならない」と他人に勧めているほど大変な読書家であった。 そんな可軒さんが渡欧中に購入した書物は以下のとおりである。 ・日本鹿兒島測量圖 (1864年巴里出版 一葉) ・日本下田鹿兒島測量圖 (1860年巴里出版 一葉) ・日本江戸測量圖 (1861年巴里出版 一葉) ・日本箱舘測量圖 (1860年巴里出版 一葉) ・日本長崎測量圖 (1860年巴里出版 一葉) ・佛國度量衡圖説 (一册) ・動植物アルバム (二十九葉) ・支那探檢地圖 (1860年巴里出版 一册) ・アッシュデュホール氏近古世界圖 (1865年巴里出版 一册) ・オーヅー博士解剖生理學初歩 (一册) ・ローパン・ジュウェー氏冒檢譚 (一册) ・醸造論 (1862年巴里出版 一册) ・工藝概説 (1850年巴里出版 一册) ・ドンケルクルチウス氏日本文法論 (1861年巴里出版 一册) ・プウエーケルチェー氏紡績事業 (1863年巴里出版 一册) ・佛譯四書 (道光27年出版 一册) ・政治的軍事的方面より見たる那翁の生涯 (一册) まずは鹿児島、下田鹿児島、江戸、函館、長崎の各1枚ものの測量図。測量図といえば文政4年(1821年)に伊能忠敬が中心となって作製した「大日本沿󠄀海󠄀輿地全󠄁圖」(伊能図)が完成していたが幕府が秘蔵したため、慶応3年(1867年)になって「大日本国沿海略図」(幕府から伊能図(の小図で縮尺1/432,000)の写しを入手した英国が、その写しを元に1863年に「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行し、それが日本に逆輸入されて勝海舟が木版刊行したもの)や、幕府開成所が同じく伊能小図を元にした「官板実測日本地図」を出版したことにより、ようやく一般の目に供されるようになったぐらいなので当時地図はとても貴重だったと思われる。しかし日本人のごく一部しか知らなかった測量図が外国で簡単に入手できたのもおかしな話である。 続いては仏国の度量衡図説。江戸時代の日本は尺貫法が使われていたので、この本に興味を惹かれたのも分かる気がする。ちなみにメートル法は18世紀末の仏国において、世界で共通に使える統一された単位制度の確立を目指して制定されたものらしい。1799年に仏国でメートル法が公布された際のスローガンは「全ての時代に、全ての人々に(À tous les temps, à tous les peuples.)」だったそうな。日本がメートル条約に加盟したのは明治18年(1885年)のことだった。 探検地図や冒険譚など少年っぽさを感じさせる本もあるにはあるが、解剖生理学、工芸概論、醸造論といった専門書っぽいタイトルが並んでいる。醸造ってことはワイン作りでも始めたかったのかしらん。他には外国人の日本文法論だとか紡績事業の本だとか、那翁(ナポレオン)の伝記本だとか。ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見して感じるところがあったのかも。 「佛譯四書」は道光27年出版ということは中国の本なのね。上海で購入したのかな。そういえば可軒さんの蔵書には四書(「論語」「大学」「中庸」「孟子」)に関する書物が多かった気がする。岡山大学付属図書館所蔵の池田家文庫中に所在する可軒さんの蔵書目録のうち、昭和43年発行「書誌学(11-13)」に載っている岡田祐子著「池田可軒の舊藏書(1-3)」に列記されている「池田可軒蔵書目録」と「歳寒書屋珍収蔵書目録」所載の漢籍、準漢籍の合計は400点、4,400冊余という膨大な量であった。その内四書(特に中庸)関連は約100点(冊数は書かれていない)。昌平黌で抜群の成績だったというのも頷ける。 「人間は萬巻の書を讀まなければならない」――可軒さんはまさに有言実行の人であった。 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・日本書誌学会 [編]『書誌学』11-13(日本書誌学会)昭和43年 岡田裕子『池田可軒の舊藏書(1-3)』
2025.03.21
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話は少し前に遡る。池田可軒(長發)さん率いる横浜鎖港談判使節団は文久3年12月29日(1864年2月6日)に仏国軍艦に乗り込んで出発したのだが、その2日前の27日に横浜表へ向かっている。同日、徳川家茂が乗船した軍艦・翔鶴丸も京に向かって品川を出発していた。 前年に続き2度目の上洛を果たした家茂に対し、孝明天皇は文久4年1月27日に次のような宸翰を下賜された。家茂の奉答書と合わせて書き写しておく。 「朕不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恒に寡德の先皇と百姓とに背ん事を恐る、就中嘉永六年以來、洋夷頻に猖獗來港し、國体殆どいふべからず、諸價沸騰し、生民塗炭に苦む、天地鬼神其れ朕を何とか云ん、嗚呼、是誰の過ぞや、夙夜是を思て止む事能はず、嘗て列京卿武將と是を議せしむ、如何せん昇平二百有餘年、威武を以て外寇を制壓するに足らざることを、若し妄に膺懲の典を擧んとせば、却て國家不測の禍に陥ん事を恐る、幕府斷然朕が意を擴充し、十余世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大に砲艦の備を設けり、實に是朕が幸のみに非らず、宗廟生民の幸也、且去春上洛の廢典を再興せし事、尤嘉賞すべし、豈料んや藤原實美(※1)等、鄙野匹夫の暴説を信用し、宇内の形勢を察せず、國家の危殆を思はず、朕が命を矯て、輕卒に攘夷の令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣の如き、其主を暴弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し、私に實美を其本國に誘引す、如此狂暴の輩、必罰せずんばある可らず、然と雖も、是朕が不德の致す所にして、實に悔慙に堪ず、朕又惟ふ、我所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比れば、未慢夷の膽を呑に足ず、國威を海外に顯すに、(此處脱誤あるがごとし、未だ校正に暇あらず、)頻に願ふ、入ては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安じ奉り、下は生民を保ち、又列藩の力を以て、各其要港に備へ、出ては數艘の軍艦を整へ、無飫の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ、夫去年は將軍久く在京し、今春も亦上洛せり、諸大名も亦東西奔走し、或は妻子を其國に返らしむ、宜也、費用の武備に及ばざること、今よりは決して然るべからず、勉て太平因循の雑費を減省し、力を同し、心を專にし、征討の備を精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱る事勿れ、嗚呼、汝將軍、及各國の大小名、皆朕が赤子なり、今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す、民財を耗す事なく、姑息の奢をなすことなく、膺懲の備を嚴にし、祖先の家業を盡せよ、もし怠惰せば、特に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛くなり、祖先の心に違ふなり、天地鬼神も、亦汝等を何とかいはん」 これに対する家茂の答奉「宸翰の叡旨、御即位已來、皇國の禍禍を、悉く聖躬の上に御反求被爲在候勅諭にて、誠以恐惶感泣の至奉存候、偖勅諭にて、幕府從前の過失を自反仕候得ば、多罪の至奉存候、臣家茂、不肖の身を以て、徒に重任を辱め、紀綱不振、内外の事、宸襟を奉煩候而已ならず、去春上洛の節、攘夷の勅を奉ずといへども、事實遂に難被行、横濱鎖港の談判すら、未成功の期限も難量、折柄、再命に依て上洛仕候上は、極而逆鱗に觸れ、嚴譴を可相蒙と、素より覺悟仕候處、意外の宸賞を奉蒙候而已ならず、至仁の恩諭を以て、臣家茂並大小名を赤子のごとく御親愛、將來を御戒飭被爲在候條、臣家茂一身の上に取、海岳の鴻恩、實以可奉報答さ樣も無之、自今以後、萬事の舊弊を革め、諸侯と兄弟の思をを成し、心力を合せ、臣子の道を盡し、太平因循の冗費を省き、武備を嚴に内政を整へ、生民を蘇息致し、攝海防禦は勿論、諸國兵備を充實仕、洋夷の輕侮を絶ち、砲艦を嚴整して、遂に膺懲の大典を興起し、御國威を海外に輝すべきの條件、彌々以勉勵仕、乍恐宸衷を奉休度奉存候事に御座候、乍併膺懲妄擧は仕間敷との叡慮の趣は、堅く遵奉仕、必勝の大策相立候樣可仕奉存候、尤横濱鎖港の義は、既に外國へも使節差出候儀に御座候間、何分にも成功仕度奉存候得共、夷情も難計候得ば、沿海の武備に於ては、益々以奮發勉勵、武臣の職掌を固守仕、大計大議は悉く國是を定め、宸斷を奉仰、皇國の衰運を挽回して、外は慢夷の膽を呑、内は生靈を保ち、奉安叡慮、上は皇神の靈に奉報、下は祖先の遺志を繼述仕度奉存候」 孝明天皇「勅答書の趣、横濱鎖港の一條、御請振不分明に付一橋中納言(※2)御諷問候、尤鎖港の成功は、是非共可奏條、更以書取言上の旨被聞食候、猶又御別紙被仰出候通、盡力勉勵可有之、御沙汰候事」 別紙 「横濱鎖港の儀、精々可遂成功、且又諸國兵備致充實、洋夷の輕侮を絶との趣、達叡聞候處、此上は惣國の守禦緊要の事にて、差當り攝海の要港急務の上は、神速其功蹟相顯れ、人心安堵、不經數年、征夷の實相行、奉安叡慮候樣、御沙汰候事」 家茂の答奉「勅答書之内、横濱鎖港の一條、御請振不分明被思召、慶喜へ内々御沙汰の趣承知仕候、然る處、彌々鎖港仕候見込にて外國へ使節差立候儀に御座候間、是非成功仕候心得に御座候、尤も再度蒙聖諭候、無謀の攘夷仕間敷との趣、奉畏候、就ては彌々以沿海の武備充實候樣可仕と奉存候」 ※1.藤原實美 急進的な尊王攘夷派の公家・三条実美。文久3年8月18日に起った八月十八日の政変で失脚し、京都から追放された。慶応3年(1867年)10月に大政奉還が成立し、12月8日に赦免されて復位。 ※2.一橋中納言 将軍後見職にあった徳川慶喜。攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させた。元治元年(1864年)からは禁裏御守衛総督、摂海防禦指揮となり、慶応2年(1866年)12月に江戸幕府第15代将軍となった。 可軒さん達が小便壺で手を洗ったり、スフィンクスをバックに記念撮影をしていた頃、日本では天皇と将軍の間でこのような書翰が交わされていた。 攘夷を即日実行出来なかった言い訳に、孝明天皇からは一切言及のなかった横浜鎖港の一件を何故かいきなり提起する家茂。天皇に阿(おもね)って書いたというが、端から横浜鎖港は不可能だって分かりきっていたはずなのに…。 注目の鎖港談判、果たしてどうなる!? 参考文献・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年 Thanks, illustrations by 「いらすとや」さん
2024.06.22
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前回、4月9日から談判が始まったと書いたものの、どうも正式な会談は5月7日から7回に亘って行われたらしい(9回説も有)。4月9日は忘れてください 外務省で行われた会談の出席者はというと、日本側は正使・池田筑後守(可軒さん)、副使・河津伊豆守、目付・河田相模守の三代表に外国奉行支配組頭・田辺太一に通訳官のブレッキマン(F. Blekman)。仏国側は外務大臣のド・リュイス(Édouard Drouyn de Lhuys)と書記官1名であった。 第1回:5月7日15時~17時。文久3年(1963年)9月2日に起った井土ヶ谷事件(攘夷派浪士によるフランス人士官殺傷事件)の被害者となったカミュ少尉(J. J. Henri Camus)に対する賠償、生糸輸出禁止に関する件など。対長州策についても仏国側から援助の話があった模様。 第2回:5月11日15時~17時。可軒さん「大君が庶政を司り、兵馬の権を握っているが、外国と違い政事を助言する天皇がいて、国政の可否を詔諭し、その下の大名に米国との条約締結に異議を唱える者がいて、これを抑制すれば内乱の恐れがある。幕府は万難を排して条約を締結したが、天皇はそれを嫌い、外国人を国外追放せよとの命令を将軍に下した。大君は二度も京都に行って天皇の意志を和らげようと努力したが、反対勢力は天皇側について生麦事件等、数々の事件を起こした。これを放置したなら、この上いかなる事態を生じないとも計り知れない。この際どうしても、一時横浜鎖港を行って攘夷主張の鋒先を逸らしたい、それが今回の遣欧使節の使命である」。しかしド・リュイスは鎖港には絶対に応じ難いことを断言し、1862年条約(※1)不履行の賠償として大阪、兵庫(神戸)の2港の開港を要求。 第3回:5月17日13時25分~14時15分。ド・リュイスは横浜鎖港絶対反対、横浜、大阪、兵庫(神戸)を自由港にすることを提議。可軒さん「その件は即答致しかねる」。ド・リュイス「1858年の条約(※2)の履行が延びている以上、この違約に対して3港の自由港化を仏国は武力に訴えても履行させなければならない」可軒さん「自由港にすれば政府の収入が皆無になる故、一時にそうすれば各国と貿易をしても利益がないから、これは承引できない。そこで関税の引下げを現に行っているのである」話題は下関問題に移り、ド・リュイスは長州候が単独で行ったにせよ大君にも責任がある、と幕府に10万ドル、長州候に4万ドルの賠償金を要求。 会談が暗礁に乗り上げた形となり、可軒さんは打開策に腐心した。と、そこへひょっこりシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)が現れた。使節団の仏国来着を新聞で知り、汽車で駆けつけたのだった。親日・知日家で、ド・リュイスと別懇の間柄であるシーボルトは使節の苦境を聞いて大いに同情し、ド・リュイスと私的に会って日本のために種々と弁護の老を獲ってくれたうえ、可軒さんに種々の局面打開策を授けてくれた。可軒さんは鎖港の不成功を知りながらもシーボルトの意見を容れて次の会談に臨んだ。 第4回:5月28日14時~16時30分。カミュ少尉の賠償、仏国へ留学生を送る件等(シーボルトから授かった案)は両国の意見が一致するも、鎖港については前回と同じ。可軒さんが秘密会談を提案し、そこで下関問題について話し合われて前回の要求額の支払を承諾。ド・リュイス「下関海峡に関しては、仏国政府は自国海軍をもって航路開行を確保する。大君にはこの難局を惹起した一大名に御自ら命令に服従させることを重要と見做されるならば、この挙に御援助を賜りたい」可軒さんらはこのために約定を結び、これに調印し、賠償についても取極めを行うと答えた。 第5回:5月28日14時30分~16時15分。あれッ!? 前回と同じ日!? 出典元の書籍にそう書かれているので、そのまま書き写しておく。日本側「日本の当面する騒然たる物情を沈静させるために大君はきわめて慎重な考慮をもって、横浜を一時的に閉鎖し、その代償として長崎、函館両港では既結条約の通り仏国に対して関税撤廃を行い、商館の移転費用は幕府で弁償する。その代わり横浜鎖港を認めてほしい」。ド・リュイス「要求する三港の関税撤廃は過去に蒙った損害の補償であって、新しい租界と同価値のものではない。恐らく他国もこれには同意しまい」。日本側はこの考えの正当であることを力説し、「この交換条件が受諾されなければ日本に起る騒乱を防げない。もしこれが容れられたら仏国の好意に対して、我等が信ずるが如く世論は容易に信認するだろう」と言い、確かにこの要求は条約違反であると陳謝しつつも、「敢えてこれを懇願しなければならないのは、ただただ仏国の懇情に縋る他はない、日本の危急存亡は一つにここにかかっているからである」と訴えた。しかしド・リュイスは日本側の懇情を斥けた。なおも日本側は鎖港について迫ったが、膠も無く拒絶された上、留学生を送ってくれば厚遇すること、日本の必要とする武器の譲渡と購入希望軍艦選定のためのリスト作成等を提言してきた。 可軒さんらが使命が達せられないで帰国することの切なさを訴えると、ド・リュイスは卿らの失敗は幕府の要求がそもそも不可能なことにあるのに、度々の会談で誠に全力を尽くした。長い外交官生活の間、幾多の老練な外交官が自国の利益を擁護するため巧妙な手腕を弄し、死力を尽くすのを見てきたが、若き大使・可軒さんが、それらと優るとも劣らない才幹、固執をもって主張をまげなかったと賞揚した。 第6回:6月10日13時30分~。可軒さん「横浜鎖港が成らない以上、他国を訪問することは無益と信ずるので、このたびの使節としての使命は終わったものとして帰国する決心をした」。パリに於ける交渉によって生じた「パリ約定」の各項目について、相互に逐条検討した。 第7回:6月20日14時~。「パリ約定」の日・仏・蘭語の条約文にそれぞれ調印。可軒さんはド・リュイスに明日パリを出発して帰国する旨を告げ、滞在中の好意を感謝し、別れの挨拶をした。ド・リュイスは会談を重ねるうち、この青年使節に次第に好感をもってきたらしい。愚直なまでにひたむきで純情な可軒さんが、この残酷な使命を帯びて健闘したことを思いやりながら堅く握手して談判は終了した。 うんうん、本当によく頑張ったよ可軒さん… それにしても「いらすとや」さんにシーボルトのイラストまであることに驚いた。充実度が凄い。ちなみにシーボルトはこの時68歳、故郷のヴュルツブルクに隠棲していたが新聞で見てわざわざ掛け付けてくれたのだとか。 ※1、2に関しては、万が一、興味を持たれた方のためWikiさんにリンクを貼っておくので参考にしてくだされ。 ※1. 両都両港開市開港延期問題、パリ覚書(Link先はロンドン覚書) ※2. 日米修好通商条約 参考文献・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.23
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池田可軒(長發)は旗本で、備中国井原領主である井原池田家の10代目である。今回はこの井原池田家の系譜をざっくりと辿ってみよう。 先祖は戦国時代に織田家重臣の一人だった池田恒興。 織田信長亡き後、織田家の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である清須会議に出席し、羽柴秀吉らと三法師を擁立。領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得したが、その後美濃国内に13万石を拝領し大垣城に入るも、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の戦いである小牧・長久手の戦いにて戦死した。 恒興の次男・池田輝政が家督を継いで播磨姫路藩初代藩主となり、その後輝政の長男・池田利隆が家督を継いで播磨姫路藩2代藩主になる。しかし弟である輝政の五男・池田忠継が僅か5歳で備前岡山28万石に封じらると、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入り、利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当。忠継は輝政の姫路城に暫く留まっていたが、輝政の死後、16歳で初めてお国入りをした。この忠継が備前岡山藩初代藩主となる。ちなみに岡山藩池田家宗家は輝政が初代となっている。 可軒さんは恒興の三男・池田長吉の流れを汲んでいる。長吉は秀吉の養子(猶子)となり、従五位下備中守に叙任され、近江国内で1万石を知行される。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、褒美として因幡国4郡6万石と鳥取城を与えられて因幡鳥取藩初代藩主となった。 長吉の長男・池田長幸が家督を継ぎ因幡鳥取藩2代藩主となったが、備中松山へ移封されて備中松山藩初代藩主となる。官位は父と同じく従五位下備中守。 【1】いよいよ旗本・井原池田家誕生! 長幸の長男・池田長常が家督を継いで備中松山藩2代藩主となったが、長幸の三男である池田長信は備中後月郡のうち井原村・片塚村・宇戸川村・梶江村の4か村において1,000石を与えられて旗本となり、井原に陣屋を構えた。井原池田家の始まりである。また、通称の修理も長信からだ。 「池田可軒 肆・采邑」で可軒さんが井原を訪れた際、江戸屋敷に祀っていた尾砂子社と井原の尾砂子社の合祀を村に命じたと書いたが、『後月郡誌』によると、大名池田家が長常の死により絶家となったときに弟・長信の乳母・尾砂子が幕府に嘆願して家名再興を許され、旗本修理家を興したという。まぁこの説には色々とおかしな点もあるのだが、尾砂子が井原池田家成立に何らかの貢献はしたようだ。ひょっとすると尾砂子は長幸の妾で長信の生母だったのかもしれないという説もある。 【2】長信の長男・池田友政が遺領を継ぐも、弟である次男の池田利重に300石を分与して所領は700石に。それから26年後に上野国山田郡・下野国足利郡内において500石を加増され、所領は1,200石となった。官位は従五位下筑後守。 【3】友政の長男・ 池田政応が遺領を継ぐも、弟に300石を分与したため所領は900石となった。 【4】政応の長男・池田豊常が遺領を継ぐ。 【5】豊常が25歳で亡くなり嗣子がいなかったため、友政の次男で利重の婿養子になっていた池田政相の次男・池田政倫が豊常の末期養子となって遺領を継ぐ。堺奉行や大目付等を務めた。官位は従五位下筑後守。この政倫以降は全て養子が継ぐことに。 【6】政倫も子がおらず、政相の子・池田政胤の娘を養女に迎えたうえで、利隆の玄孫で備中生坂藩2代藩主である池田政晴の四男・池田長恵に嫁がせて跡を継がせた。長恵は京都町奉行、江戸南町奉行、大目付を歴任。官位は従五位下筑後守。 【7】長恵の嗣子は早世したため、利隆の来孫で備中鴨方藩5代藩主である池田政直の三男・池田長義が8歳で養子となって家督を継いだ。 【8】長義は22歳で逝去して子がおらず、池田政貞の次男・池田長喬が18歳で養子となり跡を継ぐも21歳で逝去。この池田筑前守政貞がどの家系の方なのか分からないが、まぁ池田さんなので何らかの繋がりはある方なのだろう…おそらく。 【9】長喬の末期養子として迎え入れられたのは、近江国大溝藩8代藩主である分部光実の五男・池田長溥。井原池田家初代の長信には3人の男児がおり(長男・友政、次男・利重、三男・信政)、その三男・分部信政は近江大溝藩3代藩主である分部嘉高の末期養子になっていた。嘉高の母は(長信の兄である)長常の娘なので、嘉高の母と信政は従姉弟でもある。ということで、光実は長信の来孫にあたり、長溥は昆孫だったりする。嗚呼、ややこしい。 普請奉行や作事奉行、大目付などを歴任し、所領は300石加増の1,200石に。官位は従五位下筑後守。正室・鶴子との間に二男一女を授かるも皆早世し、鶴子も29歳で逝去。継室に迎えたのは、朱子学派儒学者の林羅山を祖とする林家8代で林家中興の祖ともいわれる林述斎の六女・纜子であった。長溥は十数人の子を設けたが男児が育たず、養子を迎えることに。 【10】友政の玄孫である池田長休の四男・池田経徳が16歳で長溥の養子となる。嘉永5年(1852年)11月25日に経徳は長溥の六女・絖子(12歳)の婿養子となって跡を継ぎ、翌月には名を長發と改めた。「詩商頌曰、濬哲維商、長發其祥」という『詩経』の語句からとられており、名付親は大学頭の林健。健は述斎の孫である。 万延元年(1860年)5月に長女を授かるもたった二日で夭逝、翌文久元年(1861年)5月には次女・皋子(さはこ)誕生。しかし文久2年7月(1862年)に絖子逝去、享年23歳であった。同年12月、旗本蜂谷主殿の長女・富子を継室として迎えた。 小普請組から身を起こした長發は、文久2年に目付、同3年には火付盗賊改、京都町奉行と歴任し、同年9月に外国奉行に抜擢され、従五位下筑後守を仰せ付けられる。そして12月には遂に横浜鎖港談判使節団の正使に任命されて渡仏。皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見し、フランス政府とパリ約定を結んで元治元年(1864年)7月に帰国。開国の重要性を力説するも幕府はパリ約定を破棄、長發を免職し、家禄半減のうえ蟄居を命じた。 元治元年7月23日付で幕府より隠居を仰せ付けられた長發は即日、実家の当主で実兄である池田長顕の五男・池田福次郎(後の池田長春)を養嗣子として家督を譲った。慶應2年(1866年)に処罰は解かれたものの、家禄は600石のままだった。長發は剃髪して名を可軒と改めていたが、慶應3年に軍艦奉行並を命じられて再び池田筑後守に改名。しかし半年後の6月末に健康上の理由で辞職し、7月には再度剃髪して可軒と改め、隠棲生活に入った。 慶應元年4月には珀子、慶應2年12月には田鶴吉が出生したが、二人とも夭逝。慶應元年5月、妾・上田タマ子との間に生まれた東寧丸も生後5ヶ月で世を去ってしまった。 明治元年(1868年)に本貫地帰住が許されて岡山へ向かう途中に滞在していた京都で、6月に蓮子誕生。岡山市に落着いてからは、明治3年1月に駒吉が誕生したが2歳で夭逝。妾・庄司ハル子との間には明治2年5月に通子、明治3年10月には磯吉が出生したが、二人とも夭逝。明治3年9月には妾・森リウ子との間に摂吉が誕生したが、やはり3歳で夭逝している。次女の皋子は長春を婿養子にする予定だったが、明治10年に17歳で逝去。可軒さんは10人の子を設けたが、内9人が親より早くに亡くなっている。 明治12年(1879年)9月12日、可軒42歳にして逝去。戒名は賢忠院殿蘭翁可軒大居士。大正4年(1915年)に正五位を追贈されたそうな。 【11】長發の養子・福次郎は長春となり、明治17年に長發の四女・蓮子と婚姻。長春は明治21年に28歳で逝去し、嗣子がいなかったため蓮子が家督相続願を出した。長春と蓮子の間には一女・釣子がいたが、別家へ嫁いだ。 井原池田家は長春で終わったが、旧岡山藩士番の池田長世が後入婿となり、一子・池田長堅が誕生。しかし長堅には子がなく、池田家は途絶えた。辛うじて釣子の嫁ぎ先の家系が、可軒さんの血脈を保ってくださっているはずである。
2023.11.25
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20代の若さで、外交経験皆無だった池田筑後守(可軒さん)の心身を疲労困憊させた、7回(もしくは9回)に亘る折衝は幕を閉じた。条約違反を重々承知のうえでの、失敗前提の交渉だったにもかかわらず、可軒さんは執拗に食い下がって全力を尽くした。しかし使命の達成はおろか、仏国海軍との共同軍事行動まで約束した「パリ約定(Convension de Paris)」に調印までしてしまったのだった。 とはいえ、可軒さんはこの頃にはすっかり開国派になっており、“かえって意気揚々として得意のさまがあったのである” (田辺太一著「幕末外交談」より)。パリ約定の全文は以下のとおり。 巴 里 約 定 西暦千八六十四年六月廿日 皇紀元治元年五月十七日 佛蘭西、日本兩國間に定めたる箇條、 佛蘭西皇帝殿下と 日本大君殿下と互之信義を表して、兩國和親の交誼を厚くし、又、貿易を盛んならしめん事を希望し、文久二年即西洋千八百六十二年以來政府の間に生ぜし難澁を、互に一致し格別之法に而所置すべき事を決定し、 佛蘭西皇帝殿下の外國事務ミニストル兼セケレタリードワンデロイスと、日本大君殿下之使節池田筑後守、河津伊豆守、河田相模守と正しく上件之旨を以て、左の箇條を決定せり。 第 一 條 文久三年五月即西洋千八百六十三年七月 佛蘭西皇帝殿下之軍艦ケウシヤングに對し、長門國に於て發砲せる敵對の所置を改むるため 日本大君殿下之使節、江戸に歸着する之後三ヶ月にして、 佛蘭西皇帝殿下のミニストルに償金としてメキシコドルラル拾四萬枚を渡すへし。但其内拾萬枚は政府より出し、四萬枚は長門之領主より出すへし。 第 二 條 日本政府は又 日本大君殿下の使節歸國の後三ヶ月之内、佛蘭西之船、下の關を通行するに方り、今ある所の障碍を除き常に此通路をして自在ならしめんか爲め、時宜に應て威力を用ひ、又佛蘭西海軍隊の指揮官と共に處置する事もあるへし。 第 三 條 兩國政府にて左件を決定せり。則佛蘭西と日本との貿易をして盛ならしめんが爲めに、安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 江戸において結ひたる條約の行はるゝ間は、先般 大君殿下之政府外國貿易之爲め許せし減税法を、佛蘭西産物或は佛蘭西船輸入品利益之ため保存すへし、 故に此條約の存する間は、日本運上所にて製茶梱苞に用ゆへき鉛葉、ソルデールスル、はんだろふの類 筵、藤油 晝具用、青黛、ギブス 石炭之類、鍋、釜、小籠を無税になし、酒類、白砂糖、鉄、ブリツキ、器械、織麻、時計、袖表並鎖、硝子細工、藥種は五分税とし、鏡、陶器、衣服之飾、香具、石鹸、武器、小刀類、書物、紙、繪は六分税を取るへし。 第 四 條 右之決議は安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 佛蘭西と日本と取結ひたる條約を全くするの箇條として、 兩國君主の調印におよはす施行すへし。此を以て上に記せる全權の人々、此決議を本紙弐通に認め、双方名を記し印を押し、巴里府に於て爲取替もの也。 文久四年子五月十七日佛蘭西外國事務ミニストル兼セケレタリードワンデロイス(Drouyn de Lhuys)日本全權委任使節 池田筑後守 花印河津伊豆守 花印河田相模守 花印 調印を済ませた可軒さん等一行は予定されていた英国他諸国への訪問を中断し、その日の21時にパリを去り、マルセイユから英船・オンクセントに乗船、スエズで英船・ラングーンに乗換えたりしながら、元治元年(1864年)7月18日午前8時にピー・オー会社所属・ガンジス号で横浜に到着したのであった。可軒さん、本当にお疲れ様でした。 ――と言いたいところだが、2、3年は欧州にいるはずの可軒さん等が半年かそこらで帰ってきたことにより、使節団を出して朝廷に攘夷アピールの真っ最中だった幕府は驚愕。外国奉行や目付などを相次いで横浜に遣わし、香港なり上海なりに暫く身を潜めよという訓令を出し、遂には若年寄の立花出雲守までもが自ら横浜に急行して可軒さんの江戸入りを止めようとするも、開国の情熱に燃える可軒さんはそれくらいでは屈せず、馬を飛ばして東上した。途中の生麦村で竹本隼人正、栗本安芸守(「ふらんすお政」に登場する栗本鋤雲)が阻止しようと待ち受けていたが、可軒さんの心に灯る炎は誰にも消せなかった。…とはいえ、登城を見合わせることには成功し、ひとまず可軒さん宅に落ち着いて差出すべき建白書の内容などについて話しあった。 可軒さんが何を仕出かすか計り知れないので、幕府はその当夜、可軒さんを免職処分としたうえで知行半減、隠居、自宅謹慎(蟄居)の懲戒処分を下した。また23日には河津伊豆守、河田相模守や田辺さんまでもが免職のうえ逼塞または閉門の罰に処せられたのであった。 参考文献・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.23
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こんばんは、なりきりDJ・楊です。 未曾有の被害をもたらした東日本大震災並びに東京電力福島第1原発事故から、一年が過ぎました。11日はバイトがあったので14時46分からの黙祷は出来ませんでしたが、ここで改めて犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を表します。 …とか言いつつもこのような折に甚だ不謹慎ではありますが、そのうち『キョンシーまつり』を開催しようと、昔のビデオテープやらを引っ張り出して観まくっている今日この頃でございます。 先日「ユン・ピョウinドラ息子カンフー (敗家仔)」について綴った際に、ラム先生ことラム・チェンイン(林正英)師傅熱が再発してしまい、久方ぶりにラム先生の出演作をあれこれ観ているのですが、“いくら道士様役がハマっていたとはいえ、一体どれだけ出てんねん!”と呆れるくらい多くのキョンシー作品に出まくってたりします(^^; といっても呆れるのは勿論ラム先生にではなく、似たり寄ったりのキョンシー映画を大量に製作しまくった香港電影業界に、ですが…。でもこのクドさ加減が如何にも香港電影っぽくて好きなんですけどね。 ラム先生は97年11月に肝臓癌で逝去されました。44歳の早すぎる死には関係者もファンもみな一様に驚き、悲しみました。当時は日本でもそこそこ香港映画の人気があったうえ、ラム先生が主演した85年公開の「霊幻道士(僵屍先生)」は巷に一大キョンシー・ブームを巻き起こしたほどでしたので、ラム先生の訃報は日本の新聞でも報じられました。「香港電影城」や「香港アクション風雲録」など、その頃に出版された香港電影本にはラム先生の追悼記事が載っています。 嗚呼、もうラム先生はいないんだ…。あのキレのあるアクションも、俯き加減ではにかむ笑顔も、もう見られないんだ…。この世のどこを探して回ってみても、決して会うことは叶わないんだ…。 今更ながら大きな悲しみに襲われております。♪会いたくて会いたくて震える~と歌った女性歌手がいて失笑されていたようですが、まぁ震えはしないまでもそれほどまでに会いたいという気持はちょっとだけ分かるような気がします。 夜空に輝く清らな月光も星々の瞬きも、朝夕の燃えるように赤く照らすお日様も、心地好く吹付ける風も、この世のどこかにいてくれさえすれば同じように感じることが出来るのに。新聞配達をしながらふと空を見上げて美しく輝く月をみるたびに、既に亡き愛してやまない人々を心に思い浮かべて切なくなります。ベンさんもリッキーも雷蔵さんもラム先生も、そして父も、昨年の大災害で犠牲になられた1万数千もの方々も、みんなみんなこの月の光を見ることはないんですね…。 ではここで本日最初で最後の曲を紹介したいと思います。フー・ファイターズ(Foo Fighters)で“How I Miss You”です♪ 本日のお相手はDJ・楊でした~ How I Miss You - Foo Fighters
2012.03.14
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7月17日に公開される「今日から俺は!! 劇場版」。同日には「今日俺」のスペシャルドラマも放送されるらしく、そちらは軽井沢編の話なのだとか。身に付けた水晶のパワーですっかり別人と化した、爽やか今井クンのモテモテっぷりは必見! その軽井沢編の後半部分や北根壊編の前半部分などが収録されているMy First WIDE(分厚いコンビニコミック版)8巻『女難の三橋くん編』がコンビニに並んでいたので、ついつい購入してしまった。「今日俺」はMy First BIG(薄いコンビニコミック版)もMy First WIDEも全巻揃えていたのだが、まさかこのように再び日の目を見ようとは思わなかったので、数年前に処分しちゃったんだよなぁ…。嗚呼、私ったらバカバカ(T T)やっぱり断捨離なんかするもんじゃない。 さあ、前々回の忠高、前回の代亥高に続き、今回はいよいよ北根壊の復習だ! 5校は既に紹介済 その1:軟葉高校 その2:紅羽高校 その3:開久高校 その4:忠実高校 その5:代亥高校 「今日俺」に興味があり、尚且つ暇を持て余している方は『「今日から俺は!!」 コミックス全38巻 収録話リスト』(Part 1 ~ 13)もどうぞ♪ カテゴリ:今日から俺は!! 他をポチッ!登場人物紹介その1~6、全巻表紙カバー コンビニコミック編の前まで辿ってみてくだされ。2012年…8年も前に綴ったモノですが、枠の不具合は先日直しました(^^; 北根壊高校 (ほくねい) 木更津の方にある(らしい)、地元では一番の悪者高。金さえ払えば入れる頭の悪い学校で、かなり程度は低いが、なぜか代亥高の姉妹校。校舎が燃えたため、代亥高の敷地内に建てたプレハブを間借りすることに。校舎が燃えたのも、生徒のちょっとしたウサ晴らしで、寒かったからでは、と噂されている。 代亥高に来た初日に頭の真鍋を倒し、5,000円でお守り(Love & Peace と書かれてある安っぽいキーホルダー。これを鞄に付けていると悪者(北根壊)に絡まれない)を仲間に売るよう指示。一週間で軟高・紅高・開久以外をシメ、地域の高校生がこぞってお守りを購入した。・柳 鋭次 やなぎ えいじ 【初登場:新たな敵がやってきた編 (21巻)】 北根壊の頭。子供の頃からナイフで遊んできたためか、右頬に切り傷らしい痕がある。ナイフの扱いには絶対の自信があり、ナイフを持っている時の自分は無敵だと豪語する。適当な弱いヤツに目をつけ、手下を使ってイジメ抜いたところで助けて自分を信頼させ、忠実な僕になるや自分の犯した犯罪を自ら肩代わりしてくれる、通称「身代わり小僧」を使って警察の目から逃れてきた。北根壊の校舎火災も、商売(お守りを高価で売りつける)が学校にバレた時も、身代わり小僧のおかげで難を逃れている。伊藤に負けた自分の手下達を「いいかァ、殺してでも勝ってこいや。俺に殺(や)られんぞ」と半殺しの目に合わすほど凶暴凶悪。 忠高の頭・畑の腕を刺して警察沙汰となり、悟を身代わり小僧として自首させようとしたが、涼子や伊藤が既の所で悟を止めたために失敗。激怒した柳は大嶽や手下達に命じて悟と涼子を呼び出そうとするが、三橋と伊藤が現れ、逃げられる。その後、良と雄一を人質に取って三橋らを挑発するが、ナイフを恐れず向かってきた伊藤に殴られたうえ、三橋の秘密兵器・ピングポングラケッツでナイフを完全に封じられて恐怖に駆られ、逃げ惑っているところへ中野と今井にも追い詰められたため、自ら警察に逃げ込んで助けを求めた。・大嶽 重弘 おおたけ しげひろ 【初登場:新たな敵がやってきた編 (21巻)】 柳の相棒。日本人離れした風体で、かなり毛深い。三橋は大嶽を一目見るなり「ゴメスだ」「ロドリゲスだ」「セニョール・パンチョス!!」と言い放ち、伊藤と爆笑した。柳を恐れているが、代亥高の頭・真鍋を一撃で倒し、伊藤とまともに戦って勝つほどに強い。悟を身代わり小僧に選んだのは大嶽だったが失敗したため、悟にネタばらししたうえで半殺しにし、涼子を柳の元へ連れて行こうとしたが、激怒した伊藤に再戦してやられた。・田所 たどころ 【初登場:新たな敵がやってきた編 (21巻)】 大嶽の手下。鎖を武器に持つ。三橋に絡むもやられ、大嶽に向かって三橋が「セニョール・パンチョス!!」と言ったところで吹き出してしまい、三橋・伊藤とともについ爆笑したため、大嶽にボコボコにされた。その後、大嶽らとは距離を取っていたが、偶然町で柳や大嶽らと出くわし、またしてもボコボコにされてのびていたところを伊藤に助けられ、身代わり小僧のからくりを教えた。
2020.07.08
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文久3年(1863年)、27歳にして遣欧使節団の正使を務めた池田可軒(長發)は帰国後直ちに禄半減のうえ蟄居・隠居を命じらた。慶応3年(1867年)には赦免され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため約半年で職を辞して岡山に移住、明治12年(1879年)9月12日に没した。 可軒さんのお墓は岡山市中区東山の東山墓地にあり、Google Mapにもちゃんと載っている。岡山駅から新岡山港もしくは岡山ふれあいセンター行きのバスに乗り、山陽学園大学・短大前で下車。そこから徒歩で10~15分ぐらいで辿り着ける。 可軒さんのお墓には墓碑がぎっしりと刻まれていた。撰者である木畑道夫(號、坦斎)は岡山藩医だったが後に藩政・県政へと参画。また学者としても名声があり、可軒さんの岡山市隠棲中に深い文雅の交りがあった方とのこと。市立中央図書館に襲蔵されている木畑家文書には、可軒さんが坦斎さんに宛てた書簡が28通存在するそうな。 坦斎さんが撰述した墓碑は以下のとおりである。君諱長發、字大禘、通稱修理、後改可軒、源姓、池田氏加賀守諱長休第四子、系出於我舊藩祖伊香光武信輝命、君以天保八年丁酉七月二十三日生干江戸西窪邸、嘉永五年十一月爲同族筑後守諱長溥所養、家世爲幕府麾下、六年十一月筑州君卒、君襲後食祿千二百石、列小普請、君幼而頴悟、長受業於林祭酒、出入昌平黌、才學文章夙超越同儕、安政中幕府修系譜、君與有力焉文久元年轉小十人頭、除布衣二年轉目付、無幾遷外國事務立合兼知貿易事、三年二月承旨更正學制、其月従將軍上京、五月歸府、尋轉外國奉行、叙從五位下、稱筑後守、當是時各國請互市益急、朝廷令幕府拒絶之、幕府遣君歴説歐洲諸國諭旨、乃以其歳十二月解纜、翌年三月先到佛蘭西、佛人不答、君熟察其國情、且觀文物之盛、有所感因不復他往而反焉、閣老責其檀歸、君乞親謁將軍、將軍引見、君面述其所見痛論鎖港非計、將軍不懌、即日以忤旨停其職削祿之半使屏居、先是君以無子養同族甲斐守長顕第五子長春君、於是襲祿、慶應二年三月特旨赦罪、三年班軍艦奉行、無幾辭之、薙髪不復關于世事矣、及王政復古、官令舊幕麾下士大夫各就其邑、嗣君亦携家就邑於備中路入我岡山、承宗藩之旨、遂留於城下、君亦同焉、自是吟咏風月悠然自適將以送年偶得一疾荏苒不瘥、明治十二年九月十二日易簀、享齢四十有三、葬於上道郡義冡山、元配筑州君第六女先卒、有二女皆夭、繼室蜂谷氏、生二男二女、二男一女亦夭、君氣宇俊爽、臨機能斷、其當職也勇誌畢精不顧身家、而讀書志益堅、雖職屢轉事益劇而公退之餘未甞釋卷、傍好風流、詞人墨客蒙其欵接者不爲鮮、道夫亦甞辱其知矣、而淺陋之見、固不能窺其德業之一班、碑文之嘱不敢辭者、聊以答知遇之辱云 明治十四年二月 備前藩臣 木畑道夫謹撰 妹尾德風 書 可軒さんのお墓(左側面と裏面) 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・岸加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・『――井原市史紀要―― 井原の歴史』(井原市教育委員会)平成13年 (池田長発の未発表書簡について)
2023.11.10
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戦後80年という節目を迎えた8月15日、地上波で7年ぶりに「火垂るの墓」が放送されたとのこと。「火垂るの墓」は野坂昭如さんの短編小説をスタジオジブリの高畑勲さん監督で昭和63年(1988年)に公開されたアニメ映画なのだが、見てみたい…というか見ておかねば、という思いはあるものの、やはり戦争モノは怖くて悲しいので未だ未見であった。 一応原作の方は既読で、15年前の駄記事には “アニメの方はどのようなものか知りませんが、原作は意外と淡々と綴られており、戦争に対する恐怖は感じませんでした。もうただただ切なかったです。これが野坂さんの実体験に基づいた話だということに胸を締め付けられました” なんて綴っていたりもする。 7月5日の大災難や何かが起こると言われていた8月15日も無事に生き延びることが出来たのは(両日とも何もなかったけど)、偏に「火垂るの墓」を見ずして生を終えるなかれという天からの啓示だと勝手に解釈した私は、勇気を振り絞って先月から国内配信が開始されたNetflixでこの作品を鑑賞すべく、タオルと箱ティッシュを用意して再生トライアングルをポチったのであった。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ――」 昭和20年の神戸・三ノ宮駅構内。駅舎の柱にもたれて衰弱死した14歳の清太のポケットに入っていた錆びたドロップ缶を見つけた駅員は、無造作に草むらに投げ捨てた。ドロップ缶から出てきたのは小さな骨。骨はひと月前に衰弱死した清太の4歳の妹・節子のものだった。 太平洋戦争末期、神戸に住んでいた清太と節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、西宮の叔母宅へ身を寄せる。戦争が進むにつれて二人を邪魔者扱いする叔母との諍いが絶えなくなり、居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出て防空壕の中で暮らし始める。母の遺した貯金はあるものの世間と断絶し、情報も知恵も持たない兄妹は食料調達が困難となり、畑の野菜を盗んだり火事場泥棒を働いて何とかしのいでいたものの、節子は徐々に衰弱していく。節子に栄養のあるものを与えようと清太が銀行から貯金を下ろした際に日本の降伏と敗戦を知り、海軍大尉である父の所属する連合艦隊も壊滅したと知って愕然とする。やっと手に入れた食料を持ち帰って節子に与えるも、終戦7日後の8月22日に節子は衰弱死してしまう。節子を火葬して荼毘に付した翌朝、節子の骨をドロップ缶に納めて山を下り、壕へは戻らなかった――。 冒頭、赤味がかった映像で戦時中の格好(国民服姿)をして正面を見据えた清太が現れて「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と告げる。清太がふと目線を下げると柱脇手前に設置されている灰皿が一瞬映し出されるもすぐに消え、柱の向こうには天然色のボロボロで衰弱しきった清太の姿が。そのまま清太は息を引き取り、その後駅員がポケットにあったドロップ缶を放り投げると、弾みで蓋の開いた缶から骨が出てきて、再び赤味がかった防空頭巾を被ったモンペ姿の節子も現れる。節子は倒れているボロボロの清太の姿を見て駆け寄ろうとするも国民服を身に纏っている清太に止められてしまう。戦時中姿の二人は電車に乗り、節子が大事そうに持っていたサクマドロップス缶を開けて仲良く一つづつ頬張りながら、車窓に映る無数の爆撃機から投下される焼夷弾に目をやっている。それらは再び天然色となって6月5日の神戸大空襲の場面へとつながっていく。 そして映画の最後、節子を荼毘に付した清太は再び赤味がかった国民服姿となり、モンペ姿で無邪気に駆け寄ってきた節子に「もう遅いからおやすみ」と優しく言い、清太の膝を枕にしてドロップ缶を抱いて眠る節子の傍らで今の神戸の街並みをただじっと見つめるシーンで幕を閉じる。 視聴前に用意していたタオルも箱ティッシュも不要であった(いや、1枚だけティッシュを使ったけど)。お涙頂戴の悲しい物語かと思っていたが、ただただ胸が締め付けられる切ない話であった。原作読了時に綴った “意外と淡々と綴られており、戦争に対する恐怖は感じませんでした。もうただただ切なかったです” という感想そのままであった。 赤味がかった国民服姿の清太とモンペ姿の節子は幽霊であり、二人は昭和20年6月5日の神戸大空襲から同年9月21日に清太が死を迎えるまでの108日間の生き様に繰り返し(かどうか分からないけど)目を向けなければならないのである。清太や節子が力尽きるシーンの悲しさより、死してなお現世に留まって苦しみと悲しみに向き合っていることが何とも痛ましすぎる。1枚だけ使ったティッシュは未だ煉獄から抜け出せない兄妹(兄だけかも)の霊魂に涙したものだった。 昭和20年から24年後の昭和44年8月に私はこの世に生を受けた。24年しか経っていなかったというのに物心がついた頃には既に戦争の面影など微塵もなく、戦争は遠い過去の歴史としか思っていない。たったの24年で。 高畑監督曰く「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」とのこと。私もこの作品は確かに戦時中の庶民の悲哀が描かれているけれども、反戦がテーマというのは違うような気がする。戦争反対なんて訴えてないしね。監督は心中物として描いたとのこと。成程、清太は何と心中したのだろう…節子?誇り? 「火垂るの墓」は悲しいだけの映画かと今日見るまではずっと勘違いしていた。ただただ切なく、考えさせられる作品だった。戦後40余年間(公開時)に清太が何度も目にした14歳の少年の懸命な生き様を、私も繰り返し視聴して目に焼き付けておきたい。 今年で戦後80年、清太と節子がもう神戸にはいないことを願う。天国だか極楽だかで家族4人、幸せな日々を送っていますように。
2025.08.17
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朝の情報番組をぽけ~っと見ていると、芸能ニュースで某CMの「こども店長」役でおなじみの男の子をよく見かける。不景気になるとギャラを低く抑えられるためか子役が活躍するそうだが、それにしても、この男の子はそんなに需要があるの?と思う。おそらく韓流ドラマにハマったり、ハンカチ王子だのハニカミ王子だのに熱を上げる層あたりに人気があるのだろう。 子役といえばすぐに思い浮かぶのが「ケンちゃんシリーズ」と「あばれはっちゃく」だ。 まずは「あばれはっちゃく」から。 79年から85年までの間に5作放送されたが、実は初代の「俺はあばれはっちゃく」ぐらいしか知らなかったりして。それも当時は裏番組の「クイズダービー」を見ていたので、リアルタイムで見た記憶はなかったりして。(ならわざわざ書くなって!) しかし初代はっちゃくこと吉田友紀くんはぼんやり覚えている。子供はあれくらい元気な方がいいと思うのだが。近頃の子役はこましゃくれた子が多いような気がするが、そういえば巷でもガキ大将をあまり見かけなくなったなあ。 69年に始まった「ケンちゃんシリーズ」(その前には「チャコちゃんシリーズ」があったらしいが、オラが生まれる前のことなので全く知らない)は一作目の「ジャンケンケンちゃん」に始まって、70年代にはさまざまな店屋のケンちゃん(「おそば屋ケンちゃん」「カレー屋ケンちゃん」など)になり、82年の「チャコとケンちゃん」で終了するまで13年(チャコちゃんシリーズからだと、何と20年!)も続いた。 ケンちゃん役といえば、69年生まれの私は二代目の岡浩也さんの印象が強いが、もう少し上の方だと宮脇康之さんを思い出されるだろう。宮脇さんは何や色々と大変だったそうで… 子供のうちから人気を得た子は何かしらその後の人生で苦労が多いイメージがある。「ホーム・アローン(HOME ALONE)」のマコーレー・カルキン(Macaulay Culkin)君しかり、「E.T.(E.T. THE EXTRA TERRESTRIAL)」のドリュー・バリモア(Drew Barrymore)ちゃんしかり。ま、ドリューは一時期の荒んだ生活から抜け出し、見事に復活したけど。 かつて子役として売れっ子だった風間杜夫さん(モリー)は、「俳優を一生の仕事にするなら、子役の仕事をやめた方がいい」とのアドバイスを米倉斉加年さんから受けて13歳の時に劇団を退団したそうだが(Wikiさんより)、そのおかげで今の役者・モリー がある。それくらいしないと“子供”としてのイメージが払拭出来ず、大人の俳優への移行は難しそうだ。今や既に母となった安達祐実ちゃんも、個人的にはやっぱり子役のイメージが抜けず微妙な感じだし…。 果たして、出ずっぱりこども店長の今後や如何に!? って、まぁ余計な世話だわな(^^ゞ
2009.11.26
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「ONE PIECE」に登場する“海賊狩りのゾロ”ことロロノア・ゾロに熱をあげ、左耳にゾロと揃いの三連ピアス(特注品)をつけて回りから呆れられていた頃のこと。“2000年春 東映アニメフェア”でONE PIECEを上映するというので、早速息子達と観に行った。同時上映は「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」。子供達はこちらを楽しみにしていたが、デジモンに興味のかけらもなかった私は“どうせポケモンのバッタもんやんけ!”ぐらいにしか思っていなかった。しかし… 映画館を後にする頃には、もうデジモンのことしか頭になかったのである(^^ゞ 99年に放映されたテレビアニメ版の概要は以下のとおり。“デジタルワールドという仮想世界と現実世界の東京 お台場とを巧みにリンクさせ、突如として放り出された異世界の中を主役の子供達が、デジモンや仲間との関わりの中で、「自分らしさ」を見つけ、育み、共に生き抜くという、子供達の成長を描いた物語である。さらに現代日本の社会問題をも反映させた作品となっており、子供人気のみならず、大人からも教育番組として支持された”(多謝、Wikiさん) 教育番組かどうかは怪しいが、最終回での子供達とデジモン達との別れは確かに号泣モノ。何度見ても泣ける…(単に涙腺がユルいだけ?) ストーリー自体、意外と秀逸(ポケモンよりはるかに見ごたえ有)だが、なかなかキャラ設定も優れており、大人が見ても充分楽しめる。 個人的にお気に入りなのがヤマト(画像右側。手にしている生首もどきはデジモンの一種でツノモン)。小5とは思えないクールさが魅力。時折ハーモニカをぷーぴー吹くが、それが妙に哀愁を帯びたメロディーで、到底小学生レベルではない。両親が離婚し、フジテレビ勤務の父と二人暮らしのため、料理上手で、いつだったかサバの味噌煮まで作り、残業で帰りが遅い父のため冷蔵庫に入れておいたことも。また、同じくデジタルワールドに引き込まれたメンバー中、最年少である弟・タケル(小2。画像左側。母親と暮らしている。手にしているのはパタモンというデジモン)に対する過保護っぷりは母親のようでもあった。 続編である「デジモンアドベンチャー02」では最年少のタケル達が中心となり、ヤマトの出番は減ったものの、驚きの設定が!前作の主人公である熱血野郎・太一に対するクールなNo.2的ポジションで一番人気だったヤマトは、どうやらフランス人のクォーターだったらしく、中2ながらバンドのヴォーカル兼ベーシストとして女の子からモテモテ。で、なぜだか、前作&映画では太一といい雰囲気っぽかった女の子・空と唐突に恋人になってしまった(後に結婚)。もう、何やねんその設定!ぶーぶー 本日のひまつぶし ・TVアニメ「デジモンアドベンチャー」の記念すべき第1話→こちら ・大人でも思わず唸る「劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」→こちら
2007.11.15
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もう十何年も前、ドライブ中に和気清麻呂公だったか吉備真備公だったかの銅像をチラッと見かけたことがある。お二人とも奈良時代に活躍した地元(岡山)出身の人というぐらいの認識しかなかったので、未だにあれがどちらの銅像だったかは思い出せない。まぁ銅像が建つぐらいだから、どちらも偉い方なのだろう。 歴史小説はぼちぼち読むが、好んで手に取るのは戦国から幕末にかけての時代物で、薩長が幅を利かせた明治以降の話や、はるか昔の平安だの鎌倉だのといった時代の話にはまるで興味がない。ましてや奈良時代の話なんて御伽噺もいいところだ。 …と思っていたが、表紙絵の可愛らしさについつい引かれて読んでみた山之口洋さんの「天平冥所図会」の面白さったら! 華やかな外見のすぐ裏で魑魅魍魎が跋扈する平城宮。権謀術数をめぐらす政治抗争に、木っ端役人まで巻き込まれ、無実の罪に問われ、職を追われ、下手すりゃ命まで!? 葛木連戸主と和気広虫の共働き夫婦は幽明境を異にして権力悪に立ち向かう!天平時代に花開く、爽快でポップな歴史ファンタジー誕生。(Amazon.より) 時は奈良時代の最盛期であった天平18年(746)、備前国から平城京(ならのみやこ)に庸調を納めにゆく者達の一行があった。その中には備前国藤野郡の郡司の娘・藤野別真人広虫(ふじのわけのまひとひろむし。和気清麻呂の姉)や、備中国吉備郡の豪族・下道朝臣真備(しもつみちのあそんまきび)の一人娘・由利(ゆり)がいた。広虫と由利は道中、行き倒れになっていた男の子・百世(ももよ)を助け、共に京に上った。 平城京に着いた二人は下道朝臣真備(吉備真備)から、かつての真備の部下・葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)を紹介される。広虫と戸主は早速百世の父探しを始めるが―。 戸主や彼の妻となった広虫らが関わった様々な出来事―東大寺大仏建立、東大寺への宝物(聖武天皇御遺愛品)献納、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)―が史実を元に、時にファンタジックに、時にビジネスチック(そんな日本語あったっけ?)に描かれ、ただ面白いだけでなく、非常に勉強にもなった。 名前の読み方がなかなか覚えられず、最初のうちはちょっと苦労して読み進めたが、ストーリーや台詞はとてもポップで読みやすく、清麻呂の部下などは砂金入りの袋をもらい、すげえ、やったぜ!と喜び、戸主にも「了解っす」と返事をする始末。奈良時代が身近に感じられて微笑ましい(^^) 中でも最も好きな話は、戸主が宝物献納のための献物帳作成を命じられて孤軍奮闘する話で、戸主の部下で目利きに優れた17歳の畷(なわて)少年のひたむきさと儚さに胸を打たれた。この世とあの世の境界が曖昧だったこの時代ならではの、心温まる話だった。 この本を読み、吉備真備公と和気清麻呂公がどれだけ優れた人物であったかも分かったことだし、久々にあの銅像を探しに行ってみるとするか 果たしてあれはどちらの像だったのかしらん。
2009.01.07
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80年代末から90年代終わり頃まで少年サンデーに連載されていた、西森博之さんの「今日から俺は!!」全38巻の、各巻サブタイトルと簡単な内容を先日から延々と御紹介中。 いよいよ最後となる第13弾の今回は38巻を取り上げてみよう。ホンマ、長々とお付き合いいただき有難うございました。 Noタ イ ト ル内 容 38 巻楽しかった3年間が終わり、ついに卒業だが、俺・三橋貴志様の青春は、これからが本番なんだぜ!! いーか、理子、俺様がどんなにスゲー男か見てやがれ!! じゃあな、行ってくるぜ!! …裏表紙より カバー折り返しイラスト 表:伊藤&京子 / 裏:三橋&理子 扉絵 三橋 1逆襲開始!? 編行く手を阻まれた三橋と伊藤は、末永ら開久ともみ合いに。そこへ中野が参戦2暴走果てしなく編相良に連れて行かれた理子を救うため、三橋、伊藤、中野は指定された工場跡へ向かう。また、病院のベンチで涼子と会話していた今井も、谷川から理子の件を知らされる3悪行三昧編工場跡に向かう人気の無い一本道で、相良はいきなり3人を後ろから車ではねる。一人だけ連れてこられた三橋は理子同様、後ろ手に手錠で柱に繋がれる4奇跡を…!! 編自ら手の肉を削いで手錠を外した三橋は理子の盾になる。その頃、伊藤も立ち上がり…5信じる力!! 編駆け付けた京子の制止を振り切り、満身創痍で工場跡に乗込む伊藤6『仲間』編怒りで我を忘れた伊藤は相良をボコボコに。足を怪我した中野は暫く草むらに隠れていたが三橋と伊藤が自分を探す姿を見て、自ら居場所を知らせる。何とか歩くも転ぶ4人。そこへ、走って駆け付けた今井が優しく手を差し伸べる。馬だ馬だ、と飛乗る三橋達。更に、心配して8人乗りの父親の車を運転して駆け付けた京子&同乗して来た高崎と良くんが。三橋、伊藤、中野、理子、高崎、良くん、谷川は京子の車で走り去り、一人残される今井。一方、工場跡に寝転ぶ相良の元へ、放っといてもよかったんだけどよ、と智司が現れ…「本当は、テメーらと、遊んでみたかったんだ」 by 中野、心の声7あした編そして卒業式も無事終わり、北海道に向けバイクで出発する三橋と伊藤。同じく今井と谷川もスクーターで一路、青森を目指して出発~♪-■ 今日から俺は!! 〈外伝〉■今井・谷川みちのく純情二人旅編冒険家を夢見る今井はその第一歩として青森の遺跡を見に行こうと、谷川とみちのく二人旅。ある夜、海岸で野宿していると、連れの男に襲われそうになった女の子が助けを求めてきた。今井は男を苦も無くやっつける。だが女の子は礼を言うどころか、今井の夢や野宿の理由を聞いて散々馬鹿にする。翌日、やられた男は仲間を連れてバット片手に仕返しに来るも、その内の一人をバットに乗せて軽々と持ち上げる今井に全員恐れをなして逃げ出す。そこへ偶然昨日の女の子が通りかかり、男はその女の子を人質に取って今井に土下座を要求。今井は土下座して詫びている最中にいきなり蹴りを入れられるが、人質がいて手が出せない。男達にボコボコにされながら、どう頑張っても三橋みてーにゃいかねーな…などと今井が思っていたその時!見覚えある二人組のいきなりの登場に今井はこりゃ夢か?と驚くも、いい夢だと素直に喜び…-■ 甘く危険なナンパ刑事 ■・とんでもない兄妹だ・俺って幸せ!? それとも不幸!?なぜか(ページの関係!?)「甘く危険なナンパ刑事」を2話収録「ナンパ刑事」に登場する権藤刑事って、ほぼ「今日俺」の今井さんだよね~(^^;(権藤サンは「今日俺」にも3巻6話に1コマ&23巻9話で空缶が当たって怒る警官で登場している)
2012.03.20
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ニューヨークの空の下、同じアパートにおかしなおかしなカップルが住んでおりました。かたやファッションカメラマンのフェリックス。お料理・お洗濯・お掃除なんでもござれ。よく気がついてきれい好き、世の中の奥さん連中に見習わせたいような男性。かたやスポーツ記者のオスカー。これはまたズボラでものぐさ、洋服がシワになっていようが部屋が散らかっていようが一切おかまいなし。横の物を縦にもしない不精者。情けないかなこのお二人、お互い女房に逃げられた男同士。ひょんなことから一緒に暮らすことになったという、おかしなカップルなのであります。 という永井一郎さんのナレーションで始まる「おかしなカップル(THE ODD COUPLE)」は、70~75年に米国で放送されたドラマで、元々はブロードウェイで人気だった戯曲をジーン・サックス(Gene Saks)が映画化した「おかしな二人(THE ODD COUPLE)」を更にドラマ化したもの。 マンハッタンのアパートで共に暮らす二人の男。片や神経質で綺麗好きのカメラマン、片やズボラで大雑把、いつもニューヨーク・メッツの帽子をかぶっているスポーツ記者。二人の共通点といえば、どちらも離婚した者同士というだけで、あとは何から何まで正反対。 こんな二人の毎日は、そりゃあもう大変! 大学生の頃、なぜかこのドラマを平日正午から再放送していた。とにかく面白くて、当時は毎日このドラマを楽しみにしており、ドラマ見たさに学校をちょくちょくサボったものだった。 オスカー役は「Dr.刑事クインシー(QUINCY, M.E.)」のクインシーでお馴染みのジャック・クラグマン(Jack Klugman)、フェリックス役は数年前に他界してしまったトニー・ランドール(Tony Randall)。二人の演技もさることながら、吹替がまた見事にハマッていた。近石真介さんのフェリックスは如何にも神経質そうで、大平透さんのオスカーもこれまた如何にも杜撰そうだった(^^ゞ ちなみに映画の方はオスカーをウォルター・マッソー(Walter Matthau)、フェリックスをジャック・レモン(Jack Lemmon)が演じている。 私もかなりズボラな方なのでオスカーに共感を覚えたものだったが、フェリックスも大好きだった。海外ドラマをそんなにたくさん見てきたわけではないが、「刑事スタスキー&ハッチ(STURSKY & HUTCH)」と、この「おかしなカップル」が、今迄見たドラマの中では最高だった。 学校をわざわざサボッて見ずに、あの時録画しておけばよかったなあ…と、今になって悔やんだりして。うーむ、もう一度見たい! 本日のひまつぶし ・「おかしなカップル」第2シーズンOP→こちら この呑気な曲がまた良し♪
2009.01.06
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小学校低学年の頃は“キャンディ・キャンディ”や“わんころべえ”などが連載されていた「なかよし」を愛読していたが、高学年くらいからは「花とゆめ」を愛読するようになった。 “ガラスの仮面”や“スケバン刑事”、“パタリロ”や“紅い牙・ブルーソネット”、“ミルクタイムにささやいて”や“すーぱあキッド”(主人公の兄貴・七生くんが好きだった)などが当時連載されていたが、一番夢中で読んだのは、今は亡き三原順さんの“はみだしっ子”だった。 但し、当時は難しすぎてよく意味が理解出来なかったけど…(^^ゞ グレアム、アンジー、サーニン、マックスはそれぞれ理由があって親元を飛び出し、親ではなくホントに愛してくれる人を求めて4人で一緒に放浪生活を送っている。その中で様々な大人たちと出会い、助けられながら成長していく、ちょっと重いストーリー。Wikiさんを覗くと、ものすごーく丁寧に説明されているので(よほどのファンの方が書かれたのでしょう)、気になる方はそちらへどうぞ 当時も今も、4人の中ではアンジーが大好きだ。なので、「Part.19 つれて行って」の話はちょいと苦手。死を望むグレアムを救えず、自分の無力さを悩むアンジーが可哀想すぎる…(T T) グレアムももう少しアンジー達のことを考えてくれてもいいのに 作中、“愚者の祭りなんとか(忘れました)”とかいうのが出てきたが、読んだところで小学生に理解出来ようはずもなく、しかしその“愚者の祭り”という言葉だけがずっと頭から離れなかった。 全巻揃えていたはずの漫画も大人になる頃にはいつの間にか既に無くなっていたが、数年前にどうにもまた読みたくなり、古本屋さんで全巻再購入。 アンジーにまた逢えるのねん♪と心躍らせて読んでみたが、相変わらず彼等の台詞が所々今ひとつ理解出来ず(T T) 最も確かめたかった“愚者の祭り何とか”も、やはり何のことやら… 姉はグレアムファンだった。クラスで唯一「はみだしっ子」について熱く語り合えた友人のMちゃんはサーニンが好きだった。そして私はアンジー。姉とにしろ、Mちゃんとにしろ、「はみだしっ子」の話題になると、どちらのキャラが魅力的か…というようなことを言い争って(ってほどじゃないけど)いたような気がする(^^ゞ やっぱ美形のアンジーが一番格好いいっしょ!
2009.04.05
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Ricky Wilson (March 19, 1953 – October 12, 1985) The B-52'sの設立メンバーであり、その独特な変則チューニングで初期B'sサウンドを支えていたギタリスト、リッキー・ウィルソン(Ricky Wilson)の足跡をざっくりと辿ってみたい。 69年夏にキース・ストリックランド(Keith Strickland)と出会い、すぐさま親友となった二人は、共に曲作りに励んだりしながら音楽活動に取り組んでいた。リッキーとキースは同じクラーク・セントラル高校(Clarke Central High School。CCHS)の友人であるオーウェン・スコット(Owen Scott)と一緒に、一度だけ高校のタレントショーに出たことがあるそうで、その時はジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)をカバーし、体育館の垂木がガタガタと鳴るほどの大音量で演奏したのだとか。 夏の終わりにはリッキーがキースを自宅に招待、キースはそこでリッキーの妹・シンディ(Cindy Wilson)と出会う。サングラスを掛け、黒のプラスチック・ジャケットを着ていたシンディを見てキース曰く「まるで『宇宙家族ロビンソン(Lost in Space)』のアンジェラ・カートライト(Angela Cartwright)のように見えた」そうで、“She's Cool.”とひそかに思ったらしい。 ちなみにアセンズ出身の女優さんで、元ボンドガールとして知られるキム・ベイシンガー(Kim Basinger)はクラーク・セントラル高校でリッキーと同級生だったそうな。 その後リッキーとキースは地元・アセンズのジョージア大学(University of Georgia)に入学。 ある時、大学でストリートダンス集団に出会したキースはそこでニュージャージー州ニューアーク出身のフレッド・シュナイダー(Frederick William "Fred" Schneider III )と知り合う。そしてまたある時、キースはたった一度だけZambo Flirtsというバンドで代役としてドラムを叩いたら、その日偶然にも、これまたニュージャージー州ウィーホーケン出身のケイト・ピアソン(Catherine Elizabeth "Kate" Pierson)が見に来ていた。 「友達の友達はみな友達だ」なんて某TV番組の名物コーナーのフレーズであったが、こうして後のThe B-52'sメンバーとなる5人を含む大きな友達の輪は広がっていったのであった。 学生が金欠なのはいつでもどこでも同じこと、自由奔放なアセンズっ子の彼等もまたそうであった。Potter's Houseというリサイクルショップに毎日立ち寄り、洒落たスパンコールのガウンやポリエステルのスーツ、ローライズパンツや模様の付いたシャツなどが新たに入荷しているのを念入りに探し出したり、El Doradoというベジタリアン・レストランにいつも集まってはオーガニック・サンドイッチをパールビールで喉に流し込んだりしていたそうな。このEl Doradoや近隣にあったAllen'sというクラブは彼等の幾つかの溜まり場のうちの一つになっていたようで、みんなはいつもカフェイン・バズを楽しんでいた。 リッキーの死後、キースはリッキーとの様々なことを思い出しながら、そして彼が自分と一緒に演奏している様子を想像して“Deadbeat Club”という曲を作ったそうだが、同時に故郷・アセンズでの日々も思い描きながら書いたという。 “On this caffeine buzz I was on We were really hummin' …” “Going down to Allen's for A twenty-five cent beer …” [7/20 追記] Wikiさん…というか出典元である「The Encyclopedia of Dead Rock Stars: Heroin, Handguns, and Ham Sandwiches」(Jeremy Simmonds著)によると、76年にジョージア大学を卒業したリッキーはキースと連絡を取り、一緒に欧州旅行を楽しんだそうな。戻った二人はキースの父がマネージャーを務める、アセンズにあるSoutheastern Stages社のバス発着所で働くことに。リッキーはそこでTicket agent(切符販売人)をしていたらしい。 (前回のBlack Narcissusというバンドの話もこの本が出典元ということで、今更ながら確認ついでに購入してみた。リッキーに関する新たなことが分かれば、また追記したい) 76年10月、リッキー、キース、シンディ、フレッド、ケイト、そしてオーウェンは揚げ物の匂いが充満し、提灯が吊るされている典型的なアジアン・レストラン・Hu Nanで会った。みんな食事をするほどお金に余裕がなかったため、代りにフラミンゴ・ボルケーノ(ラムやブランデーにフルーツジュース等を混ぜたカクテル)をオーダー。すっかり酔っ払ってハイになるも、すっからかんになってしまった一同はオーウェンの家へと向かった。 家に着いた途端、オーウェンはまだ仕事が残っていたことを思い出したため、彼以外のみんなは地下室へ。そこには嘗てオーウェンがZambo Flirtsでプレイしていた頃の器材が置いてあった。そこで5人はここにある物でちょっとしたジャムセッションをしてみることに。 キースがギターを弾き、リッキーはコンガを叩き、シンディ、ケイト&フレッドが即興の詞で歌った。セッションは約3時間も続けられ、十分に楽しんだ5人は近いうちにまた会ってもっとジャムセッションをしよう!と決めたのであった。向かって左からリッキー、シンディ、キース、フレッド、ケイト。リッキーの笑顔がキュート
2013.07.16
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8月に読んだ本が7冊、そして9月に読んだ本は8冊だった。読書が好きだと言いながら、3日に1冊も読んでないなんて… でもまぁ、今が人生の頑張り時なのだから仕方がない。イソップ寓話の「アリとキリギリス」じゃないけど、働ける時に働いて、読書の喜びは暫しお預けだ。 9月に読んだ本の中では、先日ご紹介した安岡正篤さんの「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」が最も味わい深く、心豊かになる名著だった。 一方、ティム・バートン(Tim Burton)監督の大人向け絵本「オイスター・ボーイの憂鬱な死(The Melancholy Death of Oyster Boy: and Other Stories)は長男の勧めで読んでみたのだが、これまた結構奥の深い詩であった。 「冷静な平和主義者であろうとするなら、新しい格言に基礎をおくべきである。それは“君が平和を望むなら、戦争を理解せよ”ということだ」とは、英国の戦略思想家・リデル=ハート(Sir Basil Henry Liddell-Hart)の有名な言葉だが、今更ながら初めて戦争に関心を持ち、戦争関連本を読んでみようと思ったものの、あまりに種類が多すぎて一体どんな本を読めばいいのかお手上げだった。 そんな戦争本入門者の私の強い味方となってくれそうな有難い本が、林信吾さんの「「戦争」に強くなる本 ― 入門・アジア太平洋戦争」だ。 アジア太平洋戦争(日中戦争及び太平洋戦争)の背景から敗戦の原因、更には戦後補償の問題まで、資料としてお勧めの本を紹介しつつ大づかみな解説まで加えてくれている。 紹介している本も“現在、書店で普通に入手可能であること”、“資料的価値が高く、且つ、分かりやすい記述(標準的な大学生、もしくは読書好きな高校生ならば、さほど苦労せず読破出来ること)がなされていること”という二点を満たすものを選んでいるという。実に有難い。 この著者が一読感涙にむせび、「お願い、読んで」と言いたくなるほどのお勧め本(『日本軍のインテリジェンス』 小谷賢著)や、究極の戦史ともいえそうな「平伏してオススメ」したくなるという本(『魔性の歴史』 森本忠夫著)などは、いつか機会があれば読んでみたいと思う。あと、タイトルだけは知っている『ノモンハンの夏』(半藤一利著)や『東京裁判』(児島襄著)なども気になった。 やっと灼熱地獄が過ぎ去って読書の秋を迎えたことだし、今月も限られた時間の中で心に残る本と出逢えることを願う。 9月に読んだ本 歴史・時代小説 ・未熟者 伊庭八郎幕末異聞 (秋山香乃) 双葉文庫 2009 歴史・時代モノ以外の小説 ・さつき断景 (重松 清) 祥伝社文庫 2004 海外モノ ・オイスター・ボーイの憂鬱な死【THE MELANCHOLY DEATH OF OYSTER BOY & OTHER STORIES】 (ティム・バートン【Tim Burton】, 狩野綾子、津田留美子 訳) UPLINK / 河出書房新社 1999 随筆、エッセイ 他 ・伊能忠敬を歩いた (佐藤嘉尚) 新潮文庫 2001 ・死言状 (山田風太郎) 小学館文庫 2005 ・酔古堂剣掃 「人間至宝の生き方」への箴言集 (安岡正篤) PHP文庫 2005 ・「戦争」に強くなる本 ― 入門・アジア太平洋戦争 (林 信吾) ちくま文庫 2007 ・知っておきたい 地獄・冥界・異界と天国 (山北 篤 監修) 西東社 2009
2010.10.01
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今から10年ほど前の96年~00年、週刊少年ジャンプにて藤崎竜さんの「封神演義」が連載されていた。登場人物がただでさえ多い上に、その8~9割が男性というか男仙(しかも美形揃い!)ということもあり、連載当時は数多くの同人誌が作られた。 当時の私はまだ同人誌=エロと勝手に思い込んでいたので、興味はあったもののなんとか自制していたが、WJ連載終了とともに同人の世界へ。一歩足を踏み入れたが最後、もう後は坂道を急加速で転がり落ちるが如し。底無し沼にずぶずぶと音を立てて沈んでいったのであった。 だがしかーし、沼底で読み漁った封神の同人誌には、原作とはまるっきり別モノである魅力的なキャラが溢れていた 中でも、漫画ではさほど出番のなかった崑崙十二仙の一人、清虚道徳真君の格好よさったら! フジリューさんの漫画の原作である小説版の道徳は、紂王を諌めて両眼を抉られた楊任を救ったものの、両眼窩に腕を生やして掌に眼をつけるという奇抜な人体改造で超級インパクトを与え、3歳の黄天化が川で溺れていたのを助けたはいいが、家族に内緒で仙界に連れて帰り、十数年も真実を教えずに育てていたという人間に…いや、仙人にあるまじき非道ぶり かと思いきや、対十天君戦では王天君の紅水陣と対決、赤子の手を捻るかの如くさらりと片付け、圧倒的な強さの一端をも披露。 一方、漫画の道徳はなぜかいつもジャージ姿のノー天気スポーツバカとして爽やかに登場!出番こそ少なかったが、仙界大戦では登場シーンも増え、そのやんちゃ坊主的言動に心を鷲掴みにされた。常に笑顔を絶やさなかった道徳が最期に命を賭けて聞仲に立ち向かうシーンで見せた表情がたまらない… 同人誌における彼は、作者の皆様が夢見て作り上げたためにすっかりエセ道徳と化しているが、どれも妙に性格が良くて二枚目(なんだけど若干バカっぽい)で、恥ずかしながら同人道徳を心の中で未だ密かに思慕してやまない。 同人誌と一口にいってもそこは素人さんの作品だけに玉石混淆。うっとりするようなプロ顔負けの名作から、もうちょっと画力を何とかしてから発表すれば?と言いたくなる駄作まで様々。 一時は何十冊と手元にあった封神の同人誌もあらかた処分し(アンソロジーは今でも50冊くらいあるが、もう流石に買い取ってもらえないだろう)、お気に入りの本だけを残している。 ホンマに今更ながらのお気に入り封神同人誌。ほとんどが道徳(道×天)モノだが、本当は道徳×太乙が好きだったりして…(^^ゞ ・浜田芽里さん(VESPA)…「THE VERY BEST OF VESPA ()」、「THE VERY BEST OF VESPA II ()」、「D・R・O・P・S ()」 ・片倉けいさん(AVANT-GARDE)…「PRIDE ()」、「PRIDE II ()」、「楽園伝説4 ()」 ・茉莉さん(WEEKEND)…「世紀末バカップル ()」、「GO WEST! ()」、「TUBTHUMPER! ()」 ・葉桜つかささん(極楽中華街)…「道天酒家 ()」 ・ぺぷろんぐさん…「LOVELY PLACE ()」 ・青柳天国さん…「ELE MENTAL TRICK ()」 ・高尾理一さん(Santa Maria)…「春江花月 ()」 ・すずみミズさん(勇者志願!)…「GAIA ()」 は健全本、 は18禁ということで。どちらかというと、露骨な描写は苦手だ。中でも、浜田さんと片倉さんの作品は何度読み返しても飽きることなく、10年来の愛読書となっている。特に浜田さんの「D・R・O・P・S」の幽霊(?)道徳は、究極の理想像といってもいいくらい♪ あれから10年。同人作家の皆様の蕩けた脳が生み出した妄想カップリングが10年の時を過ぎてなお、田舎に暮らすおばはんの日々の活力の源になっていようとは思ってもいなかっただろう。おまけに今では長男が同人にどっぷり浸かってしまい、時折親子で同人談義に花を咲かせることもVIVA 同人!
2009.07.04
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♪春なのに~ 春なのに~ ため息またひとつ~ ふぅ。春だからこそ断捨離をしよう!と3連休を取ったのであるが、息子のいらなくなった本(ダンボール10数箱分)をBook Offに、ベランダや押入れに放置していた粗大ゴミを市のリサイクルセンターに持っていっただけでせっかくの連休を使い果たしてしまった。嗚呼…。春なのに 涙がこぼれます~♪ この “春なのに” を歌った柏原芳恵さんが今年1月に放送されたTV番組に出演されたそうだが、元々TVは見ないし、昔から芳恵ちゃんには興味がなかったので、そんなことはどうでもいい。ただ芳恵ちゃんといえば、7~80年代の香港映画でたまに見かける役者さんと結婚したんじゃなかったっけ…?と、ふと思い出したものの、お相手の方を度忘れしてしまったので已む無くググってみた。 どうも結婚はされていないらしく、事実婚状態らしい。あ、そうだったんですか、ふーん。で、お相手は90年に芳恵ちゃんが主演した「女ギャンブラー リベンジ香港」なるVシネマでアクション監督を務めたそうで、更に91年には「メイプル・オン・ファイヤー」なる香港と日本の合作映画で芳恵ちゃんが主演し、お相手が監督だったらしい。“実はこの男性は、実力ある武闘家として香港や台湾で活躍し、カンフー映画のファンには知られた存在だったといいます”(Simple LifeHack「柏原芳恵の現在は事実婚25年のマネージャーを看病の日々」より) …とまあ、どの記事にもこのような感じで書かれているのだが、肝心のお相手の名前が一切ないのであーる。元役者さんなんだから、名前を載せてくれてもよさそうなのに。とはいえ、かつては香港電影迷の端くれだった者として、何となく思い出した。芳恵ちゃんのお相手はたしか「ゴッド・ギャンブラー(賭神)」の上山さんこと鹿村泰祥さんではなかったかな?違ったかな!? 89年に公開された「ゴッド・ギャンブラー」は、当時 “亜州影帝” と呼ばれていたチョウ・ユンファ(周潤發)やアンディ・ラウ(劉徳華)が出演して大ヒット。翌90年には「ゴッド・ギャンブラー2(賭侠)」が公開。アンディやチャウ・シンチー(周星馳)らとともに、鹿村さんもちゃーんと出演していた。2014年には再びチョウ・ユンファが主演した「ゴッド・ギャンブラー レジェンド(賭城風雲)」が公開されたらしい。おそらく鹿村さんは出てないんだろうなぁ。 二人が愛を育んだ(かどうかは知らないが)「メイプル・オン・ファイヤー」というのは、たぶん原題を「龍跨四海之致命情人」といい、鹿村さんは出演&執行導演(現場監督)をされたようだ。どうでもいいけど。 もう一つ余談で今年1月、広告撮影中に落馬して重傷を負ってしまったアンディ。回復まで少なくとも半年はかかるそうだが、ゆっくり養生してまた元気な姿をみせてほしい。 さて話を芳恵ちゃんに戻して…といって戻したところで、特に語りたいことは何もないのだが。“ハロー・グッバイ” や “春なのに” が流行った頃はまだ恋愛とも無縁だったため、しっとり系の歌の良さなど分かろうはずもなく、ましてや彼女のナイスバディに惹かれるなんてこともあり得ないので、失礼ながら彼女の魅力は分からずじまいである。しかし今回ググってみて、芳恵ちゃんの現在の画像がいくつか目に入ったのだが、かなりの美人さんであった。こりゃ皇太子さまが若かりし頃にファンだったのも納得だわ(^^)
2017.03.08
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小学生の頃、小学館の学年誌に連載されていた藤原栄子さんの漫画 「うわさの姫子」が大好きだった。特に、主人公のスポーツ万能美少女・梅宮姫子ちゃんのBF・岡真樹くんに当時メロメロ(死語)だった 時は流れて21世紀。なぜだか無性にまた「姫子」が読みたくなり、なけなしのお金をはたいて全巻揃えた。おおッ、相変わらず真樹は格好いいわぁ(*^^*)ピエール先生やひで坊、それに光源氏も懐かしい~(T T) “「うわさの姫子」をこよなく愛す100人の日本人”を選ぶとすれば、ぜひとも末席に加えていただきたいほど、姫子を(というより真樹を)愛してやまない。 さて今回は、そんな自称・姫子マニアが「うわさの姫子」全31巻をごく簡単に紹介したい。題して― 「うわさの姫子」全31巻 一行あらすじ1巻:主人公・梅宮姫子は転校先の小学校で、秀才の柴浦くんやガキ大将の真樹達と出会う。2巻:姫子と真樹は互いに想いを寄せるように。進級した二人はピエール先生のクラスに入る。3巻:美人の笠井さんが姫子から真樹を奪おうとするが、二人の愛は変わらなかった。4巻:姫子が差出人不明のラブレターをもらい大騒動。メガ六が真樹の為を思ってのことだった。5巻:姫子と真樹はクイズ番組で優勝し、姫子の母のいる米国へ。笠井さんがカンニングを…。6巻:自殺しかけた笠井さんを真樹が助ける。ピエール先生は仏へ帰国。そしてひで坊登場。7巻:ひで坊は姫子の幼馴染。二人の故郷、瀬戸内の島へみんなで遊びに行くことに8巻:ひで坊と真樹の間で悩む姫子。そんな時、真樹との交際に反対のおじいちゃまが倒れた!9巻:姫子の家が火事になり、姫子を助けようとしたひで坊はその後、帰らぬ人に…。10巻:姫子ら仲良しメンバーはヨットで冒険旅行に出るが嵐に遭遇し、南の島に辿り着く。 (10巻記念号として、特別読切り)11巻:真樹は野球部、姫子はバトン部に。真樹は男とも知らず女形のお千代ちゃんに一目惚れ。12巻:父親の転勤で真樹がフランスへ。送別会では酔って号泣する姫子の額に真樹がkiss13巻:真樹から届いた手紙の内容を心配し、姫子もフランスに。ピエール先生とも再会。14巻:姫子達のクラスに人気歌手が転校してきた。彼女に対抗して姫子もオーディションを。15巻:正体を隠し、姫子はラッキーという名の男性歌手になりすます。ラッキーは人気沸騰!16巻:海外公演も大成功 しかし正体がバレ、ラッキーはコンサートを最後に引退。17巻:姫子と真樹は演劇部に。だが女役を嫌がり真樹は野球部へ。姫子も体操部と掛持ちに。18巻:真樹の幼馴染・千葉くんが体操部に入部。負けじと今度は真樹も体操部に入るが…。19巻:勝敗にこだわっていた姫子と千葉くんは、真樹の言葉で体操の楽しさ、喜びを再確認。 (姫子と真樹が宇宙で活躍するSF編のおまけ付き)20巻:姫子達は西風学園に一時集団転校。同じクラスには光源氏こと星空光くん等が。21巻:紫式部こと紫式子と真樹のキス騒動などもあったが、西風学園の皆と笑ってお別れ。22巻:今回、姫子はテニス部へ。チームのエース・松下絵美は姫子のラケットに細工を…。23巻:姫子と絵美はモデルにスカウトされる。絵美からの嫌がらせに、姫子は立ち向かう。24巻:姫子は、モデルになるためテニスをやめる絵美とペアを組み、最後の試合で見事優勝25巻:テニス部に新たに入部してきたリマから、またしても嫌がらせを受ける姫子。26巻:姫子と真樹のペアは見事、強敵・ドラゴンズの殺人スマッシュを破る。一方リマは…。27巻:真樹を好きなリマは、姫子と真樹の気持ちが変わらないと分かり、転校していく。28巻:白鳥学園テニス部員からのスカウトを断った姫子に、彼女達は試合を申し込む。29巻:今度はフィギュアスケートを始めた姫子。またしてもライバル・順子からの嫌がらせが。30巻:真樹が男子バレーボール部にスカウトされる。姫子も後を追って女子バレーボール部に。31巻:相変わらずの嫌がらせを物ともせず 結局最後は大団円。めでたしめでたし。
2009.03.30
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「永遠の道士様! ラム・チェンイン(林正英)祭」第28夜の今宵も前回から引き続き、96年に放映されたTVシリーズ「霊幻道士(僵屍道長 II )」について。 このシーズン2は大きく分けて6つの話からなっているが、「幽女編」として日本でDVD化されている「燈蛾撲火」が個人的には最もお気に入り。ラム先生演じる道長・毛小方(モウ先生)を取り巻く人物達の恋愛模様が主に描かれている番外編のような話で、ワン・ティンチウ(尹天照)演じる村の警察隊長・宋子隆(ソン・ジーロン)と、美貌のクリスティ・ヨン(楊恭如)演じる蛾の妖怪三姉妹の長女・盈盈(インイン)との美しくも儚く悲しい恋物語がメイン。 普段は冷静で頼りになるソン隊長が、こんなにも優しくて情熱的な男性だったとは! 凶悪犯を護送中の夜の山中で三姉妹と出会ったソン隊長はインインの美しさに一目惚れしてしまう。だが三姉妹は人間の気を吸う蛾の妖怪であった。翌朝、ソン隊長らが目を覚ますと凶悪犯と三姉妹は姿を消していた。彼等を捜索中、無数の蛾に襲われたソン隊長は意識不明に。そのことを知ったインインはソン隊長の部屋に忍び込んでそっと彼を助ける。 後日、街で再会してからのソン隊長とインインは日に日に愛を深めていく。だがインインの妹達は大反対、仙人になるという長年の目的より人間の男との愛を選んだ姉と決別する。 周囲の反対を押し切って婚約したソン隊長とインインであったが、二人の婚約披露パーティーの席で、暫く人の気を吸っていなかったインインは人型を保てなくなり正体を現してしまう…。 一方、妹達は仙人になるためには高位の人間の気が必要なためモウ先生を襲うも、末妹の青青(ティンティン)が倒された。妹の元に戻ったインインは二妹・素素(ソウソウ)と二人でモウ先生に挑むが、ソウソウもやられてしまう。 残ったインインがモウ先生と闘っているところにソン隊長が駆け付ける。何とかインインを助けようとするソン隊長に「人間と妖怪は結ばれない運命だ」とキッパリ撥ねつけるモウ先生。「運命など関係ない。殺すなら俺を先に―」「血迷うな」 だがソン隊長はモウ先生の銭劍を掴んで鋒を自分に向け、両手から血が滴り落ちようとも尚も懸命にインインの命乞いを続ける。「血迷ってなどいない。愛してるんです。二人でこの土地を離れます。見逃してください。二度と戻りません」「いずれは君も妖怪になる」「構いません、彼女と一緒なら。見逃してほしい」 そんなソン隊長の深い愛情に心を打たれたインインは自ら火中へ…。ソン隊長も必死にインインのもとへ行こうとするが、モウ先生の弟子達に止められる。(ここでインインに「妖怪め」と吐き捨てる、ブレないモウ先生。流石だ…)「ジーロン、許して…。夢を見てた、あなたと永遠に一緒にいる夢を。叶わぬ夢だと分かっていながら…。あなたを愛した私を許して…」 まぁベッタベタでコッテコテの恋愛ドラマなのだが、何度見返してもラストで涙腺が決壊してしまう。嗚呼、ソン隊長がめちゃめちゃ格好ええ~ッ! 。・゚・(ノД`)・゚・。 日本では「完結編」として最後に発売された「戲班冤魂」だが、全50話中第26-33話に放映された話で、本来は最後でも何でもない。何故これを完結編として最後に持ってきたのか理由は分からないけれども、個人的にはラム先生の道士役の最後を飾るに相応しいラストシーンだと思う。 モウ先生達の住む甘田村にやって来た旅回り劇団で起こった殺人事件の話なのであるが、ラストでは劇団員が何人も殺されて足らなくなり、突如モウ先生がピンチヒッターで舞台に立つことに。実はモウ先生、座長の葉天成(ティンシェン)とは幼馴染で、子供の頃ティンシェンの父親に1年半ほど京劇を習っていたのだ。 舞台で妖艶に女形を演じている役者がモウ先生だと知らない村人達は、みんな目を輝かせてウットリ。いや、ひと目でモウ先生と気付くだろ…というツッコミはナシである(^^; これまで何度も書いたが、ラム先生は子供の頃から「春秋戯劇學校」で京劇を学び、京劇時代は女形を演じていたそうで、映画界に入ってからも細身の体型だったため女優のスタントをすることが多かったという。 そんなラム先生の、初めて演技力が認められた作品といえば、81年公開の「ユン・ピョウinドラ息子カンフー(敗家仔)」だろう。主人公の師匠で京劇の女形役者でもある梁二?(ルン)役を、華麗な演技とキレのあるアクションで見事に演じきったラム先生に観客は絶賛した。 でもって、ラム先生の代表作といえば何といっても「霊幻道士」シリーズであるが、ラム先生御自身が役者として好きな作品は?と亡くなる前年のインタビューで尋ねられた際に挙げたのは、88年に公開された「七小福」であった。元京劇役者ながら京劇の衰退でスタントマンに転向せざるをえなかった于華元(ファー叔父)役は、未だにファンの間でも高く評価されている。スタント中のワイヤー事故で頭を強く打ったファーはいきなりセットによじ登り、たまたまその場にいたサモ・ハン・キンポー(洪金寶)演じる兄弟子・于古元(ユー)がファーを落ち着かせるため、共にセットによじ登り一緒に「覇王別姫」の一節を歌って舞う。ラム先生の悲哀を帯びた狂気の演技が涙を誘う名作だ。 ラム先生の役者人生は京劇で始まり、京劇役者を演じることで評価を高めた。そんなラム先生の役者としての最後を飾るのに、この「完結編」ほど相応しい作品はないだろう。観客を見遣りながらニヤリと微笑むラム先生の満足気な表情を見ていると、これが最後の京劇の舞台になると分かっていたのではなかろうかと勝手に推測し、胸が締め付けられる思いがするのである。 (この後も「等著?回來(撞到正)」、「一枝花和尚」という電視劇(TVドラマ)に出演しているものの既に具合は悪く、抗癌剤を打ちながらの出演だったという…) ラム・チェンイン(林正英) 道士役作品紹介リスト電影 : 人嚇人 | 時來運轉 | 僵屍先生 | 僵屍家族・僵屍先生續集 | 霹靂大喇叭 | 靈幻先生 | 羞羞鬼 | 一眉道人 | 鬼咬鬼 | 驅魔警察 | 人鬼神 | 天地玄門 | 非洲和尚 | 洪福齊天 | 僵屍至尊 | 贏錢專家 | 零時十分 | 音樂僵屍 | ?皮鬼 | 妖怪都市 | 鬼打鬼之黄金道士 | 精靈變 | 新僵屍先生 | 嘩鬼旅行團 | 笑傲?義黄大仙 | 畫皮之陰陽法王 | 驅魔道長 | 鍾馗嫁妹電視劇 : 僵屍道長 | 僵屍道長 II | 撞到正 道士役以外での出演作品 (紹介済のみ)電影 : 鬼打鬼 | 敗家仔 | 人嚇鬼 | 雙龍出海 | 七小福 | 鬼幹部 ↑今回紹介した作品は赤字で、既に以前取り上げた作品は青字で記しています
2012.07.06
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「さらば、わが愛 覇王別姫」が舞台化されるという。それも日本で。と聞いて驚いた。蜷川幸雄さん演出というからにはそれなりの舞台にはなるのだろうが、主演の東山紀之さんは、こんな難しい役をよくぞ引き受けたと思う。 「さらば、わが愛 覇王別姫(原題:覇王別姫、英題:FAREWELL TO MY CONCUBINE)」は、香港の人気作家リー・ピクワー(李碧華)の原作を元に(自らこの映画の脚本も担当)、台湾のベテラン女優シー・フォン(徐楓)がプロデューサーを、そして中国を代表する監督の一人であるチェン・カイコー(陳凱歌)が監督をつとめた、中国・台湾・香港合作の超大作映画である。 京劇「覇王別姫」の項羽と虞美人を演じる京劇役者・段小楼と程蝶衣。幼い頃から京劇学校で共に学ぶ二人はやがて成長すると、小楼が男役、蝶衣は女役を演じることとなり、人気役者になっていった。しかし、小楼が娼婦・菊仙と恋に落ちて結婚。蝶衣は劇中と現実が錯綜し、嫉妬に狂うようになる。そして日本軍侵略、国民党支配、文化大革命…と、三人の人生は時代の波に翻弄されていく-というストーリー。 女形・蝶衣を見事なまでに演じたのが、今は亡きレスリー・チャン(張國榮)。レスリーは一旦出演を決めたものの、あまりに難しい役どころからか、その後断ったという。結局、半年間北京に滞在して京劇の訓練を受けた後、撮影に臨んだ。京劇の舞台シーンでの見事な演技は全て彼本人によるものだというから驚かされる(声は勿論、吹替ですよん)。 パトロン相手にホロリと流す儚げな涙に目を奪われ(場面1)、文化大革命時代の悲痛な叫びに息を呑み(場面2)、阿片に溺れて心身共にボロボロになり、憎むべき菊仙(演じているのは中国が誇る大女優コン・リー(鞏俐))の胸に抱かれて震える姿に胸が痛む(場面3)。 レスリーの全身全霊を注ぎ込んだ、神がかり的なまでの渾身の演技はまさに圧巻。彼の圧倒的な存在感無くして、この映画の成功はあり得なかったと断言出来るほどに凄まじい。 「Depression. 多謝各位朋友,多謝麥列菲菲教授。這一年[ロ黎]很辛苦,唔能再忍受,多謝唐生,多謝家人,多謝肥肥。我一生沒做壞事,為何這樣?」 03年、レスリーはこのような書付を残し突如この世から去ってしまった。文中の“唐生”というのは、レスリーの永年のパートナーであった唐鶴徳氏のことである。レスリーもまた、劇中の蝶衣と同じく男性を愛し(自らバイセクシャルと語っていた)、やがてこれまた同じく自ら命を絶った。 レスリーの魂が宿っていると言えるこの映画は、93年のカンヌ国際映画祭パルムドール賞(グランプリ)、94年のゴールデン・グローブ賞外国語映画賞を獲得した他、世界各国でさまざまな賞に輝いた 余談ながら、おバカ映画の聖地・香港では公開当時、賛否両論(複雑すぎて理解に苦しんだ?)あったことも追記しておく。 果たしてこの難役を東山クンはどう演じてみせるのだろうか? 舞台の成功を祈る! 本日のひまつぶし ・「覇王別姫」主題歌“當愛已成往事”→こちら レスリーの歌声が切々と胸に響く ・88年に公開され、金像奨(香港アカデミー賞)各部門賞を総ナメにした名作「ルージュ([月因]脂扣)」の主題歌→こちら 原作者・李碧華はこの映画のレスリーの京劇役者姿にインスパイアされて、後に「覇王別姫」を書いた。また、この映画でレスリーと共演し、彼の友人でもあった香港のトップスター、アニタ・ムイ(梅艶芳)も、レスリーが命を絶った03年、子宮癌のため40歳の若さで帰らぬ人となった。
2008.01.18
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12歳の頃に初めてビートルズ(The Beatles)を知り、ジョージ・ハリスン(George Harrison)の端整な顔立ちと繊細な歌声に魅了された。そしてジョージを知れば知るほど、彼の人間性に強く惹かれるようになっていった。 ジョージがこの世を去って10年後の2011年、マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)監督によるジョージのドキュメンタリー映画、「ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド(George Harrison : Living in the Material World)」が公開された。 少年時代からビートルズ時代までの第1部と、ビートルズ解散前後からソロ時代の第2部からなるこの映画は、家族やジョージと親交のあった人々の貴重な証言と数々の名曲で構成されているだけなのだが、210分(3時間半!)があっという間に感じられるほど見ごたえ十分な作品であった。 ちなみにこの映画のキャッチコピーは「世界は彼の音楽で満たされた」――だそうな。 映画に登場する、彼と親交のあった証言者達というのがまたジョージファンにとっては何とも嬉しい面々で、ジョージのお兄さん達や奥様のオリヴィア(Olivia Harrison)、ジョージの若かりし頃にそっくりな一人息子のダーニ(Dhani Harrison)は勿論、ビートルズ仲間だったポール・マッカートニー(Paul McCartney)とリンゴ・スター(Ringo Starr)、亡きジョン・レノン(John Lennon)夫人のオノ・ヨーコ(Yoko Ono)。私はヨーコさんがずーっと苦手なのだが、彼女のジョージに対する証言には好感を持った。意外といい人かもしれない…(^^; ポールとジョージの友人にして元アップル代表のニール・アスピノール(Neil Aspinall)、ドイツ・ハンブルグ巡業時代に知り合ったクラウス・フォアマン(Klaus Voormann)とアストリッド・キルヒヘル(Astrid Kirchherr)。 ミュージシャン仲間では親友ともいえるエリック・クラプトン(Eric Clapton)を始め、謎の覆面兄弟バンド・トラヴェリング・ウィルベリーズ(Traveling Wilburys)仲間であったジェフ・リン(Jeff Lynne)やトム・ペティ(Tom Petty)、他にもドラマーのジム・ケルトナー(Jim Keltner)やパーカッショニストのレイ・クーパー(Ray Cooper)が。そしてプロデューサーのジョージ・マーティン(George Martin)とフィル・スペクター(Phil Spector)、エンジニアのケン・スコット(Ken Scott)の証言も。 映画やモータースポーツともつながりが深かったので、モンティ・パイソン(Monty Python)のテリー・ギリアム(Terry Gilliam)やエリック・アイドル(Eric Idle)、女優のジェーン・バーキン(Jane Birkin)、60~70年代に活躍したF1レーサー・ジャッキー・スチュワート(Jackie Stewart)も登場。 更にシタールの師であり、ジョージの人生の師ともいえるのかもしれないラヴィ・シャンカール(Ravi Shankar)と、ジョージの元妻でありエリック・クラプトンの元妻でもあるパティ・ボイド(Pattie Boyd)も。 「『Revolution 9』はジョージとジョンと私の作品。扇動したのはジョージ。“作ろうよ!”って」(Yoko Ono)あちゃー、そうだったのね。すみません、私はてっきりあなた主導でジョンと作った曲だとばかり思って、大嫌いでした… エリック・クラプトンが結構赤裸々に色々と語っていて、特にエリックとパティ両人がそれぞれに語った当人たちによる略奪愛の真相が興味深かった。当時のパティはめっちゃ可愛いいうえにスタイルもよくて、そりゃジョージもエリックも夢中になるわな、と納得しちゃったりして。 数々の証言の最後を飾るのはリンゴで、ジョージが亡くなる2週間前に会ったときの話なのだが、その時に交わしたジョージの最後の言葉が、何とも彼の優しさが表れていて…。リンゴの涙につられてこちらもしんみり 【5,000セット限定生産】 ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド コレクターズ・エディション 未発表音源10曲SHM-CD付 DVD2枚(1部&2部と映像特典インタビュー)+Blu-Ray1枚(1部・2部)+CD1枚(まさかの未発表音源♪)、更に豪華ブックレットとリトグラフ(というペラペラの写真がプリントされた紙)2枚、最初は開け方に悩むフォトスタンド形特製BOXのセットでお値段16,800円!(Amazonだと今なら新品で6,600円より) 2011年に5,000セット限定で発売されたはずなのだが、まだ在庫があるようで…。ええッ!? ジョージファンってそんなに希少なのかしらん!? まぁ正直なところ、普通に1,000円ぐらいで売っている映画本編2枚組DVDを買う方がいいような気もする(^^; マイブームなる言葉を生み出したのは みうらじゅん氏であるが、マイブームの先駆者といえばジョージだろう。たしかみうらさんがそんなことを書いていたような…。みうらさんと彼の仏友・いとうせいこうさんの共著「見仏記3 海外篇」にも “1966年、ビートルズ(元)のジョージ・ハリスンはインドを訪れた。ラヴィ・シャンカールにシタールを習うためだ。このジョージのマイブームがその後、全世界的にインド・ブームを起すことになる”とある。ホント、ジョージのマイブームなだけだったよね、今にして思うと。当時はみんな感化されちゃったみたいだけど。偉大なるマイブーマー・ジョージ! 47歳最後の夜はジョージの音楽とともに更けていく…(誕生日野宿は無理でした) そして48歳を迎える夜はジョージの一周忌に英国のロイヤル・アルバート・ホールで行われた、オリヴィア&ダーニが企画し、エリック・クラプトン主催のジョージ追悼コンサート「Concert for George」とともに明けたのであった。この映画を見終えてから追悼コンサートを見ると、胸が熱くなるのを感じる。本当に多くの友人から愛されていたのね、ジョージ
2017.08.22
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「秋だぜ!岸部シローちゃんまつり」、第6夜の今宵はシローちゃん(岸部四郎さん)曰く「自分の経歴の中でね、キャリアの中でものすごい重要」だというドラマ『西遊記』について。 「西遊記」は1978年(昭和53年)10月1日~翌年4月1日まで放映され、好評につき「西遊記II」が1979年(昭和54年)11月11日~翌年5月4日に放映された。「III」も製作される予定だったらしいが、残念ながら実現しなかった。 三蔵法師役に夏目雅子さん、孫悟空役に堺正章さん、沙悟浄役は我らがシローちゃん。猪八戒役は「I」では西田敏行さんが、「II」では左とん平さんが演じ、「II」から登場した玉竜(「I」では馬だったが「II」から人間に変身するようになった)役は藤村俊二さんという、まさに奇跡のキャスティング。そして音楽はゴダイゴが担当。嗚呼、完璧すぎる…。 放送当時、私は小学3年生だったが、このドラマが大好きだった。特に「I」での堺さん・西田さん・シローちゃんのアドリブであろうと思われる3人のやりとりが楽しみだった。放送から丸40年経つが、この「西遊記」以上のドラマはない!と断言出来るほど、未だ愛してやまない。 「西遊記」全52話(「I」26話、「II」26話)中、シローちゃん演じる悟浄がメインといっていい話は、I・22話『悟浄白骨の恋』とII・10話『河童の国の悟浄の恋』。タイトルどおり、どちらも悟浄の恋話 II・10話で悟浄と結婚の約束をする沙陥国の王女・翠玉役は山口美也子さん。18歳の設定だが、山口さんは当時28歳。うーん…(^^; でもってI・22話の、幽鬼4兄妹の末っ子で、毒酒で悟浄を堕落させて妻となり、悟浄を助けるために自ら滅ぶことを選んで兄を刺した美宝役を演じているのは島本須美さん。「ルパン三世 カリオストロの城」のクラリス役や「風の谷のナウシカ」のナウシカ役で、透明感のある声で大人気の声優さんになった方だ。 とまぁ、悟浄はそこそこ恋話があり、他にもI・5話『反抗期の妖怪』では、牛魔王の息子・聖嬰大王の奥さんである其美(きび)に惚れるも相手にされなかったり、I・18話『バッタ女王・消えた幻の湖』では、愛愛という娘と仲良くなり、別れ際には口付されたり 「いったい女のどこがええねん。女で苦労するというのは大体アホなんや。ワイはそんなアホなことは一生せんぞ!」なんて、其美に惚れる前は言ってたりしたのだが、どの口が言うてんねん! 沙悟浄は初回『石猿 誕生す』では元々天帝の御簾を警護する捲簾大将(悟空曰く「すだれの番人」)だったが、悟空が天界で大暴れした際に誤って西王母が大事にしていた杯を割ってしまい、地上に落とされてしまった。流沙河で人間の肉を喰らう河童の妖怪となってしまった悟浄は、I・2話『長い旅の始まり』で通りがかった観世音菩薩に襲い掛かるも、菩薩と知るや天上界での贖罪を懇願した。如来のもとに経を取りに行く者を助ければ罪は消えて救われると諭され、沙悟浄はその者が通るのを待つことに。そしてI・3話『三兄弟・天竺への誓い』でついに三蔵達の仲間に加わったのであった。 I・7話『日照り妖怪の子守唄』では、悟浄の父河童(日照り妖怪)が登場。妖怪曰く、悟浄は由緒正しい河童の子(前世は人間、前々世で河童だったらしい)で、この時552歳。幼名はショーチンといい、6歳のとき人間にさらわれたという。腕に7つの黒子がある。日照り妖怪が「ベケムコササラ~♪」と歌う子守唄を聞いて父の記憶を取り戻し、抱きついて涙した。 I・8話『悟空危うし!鱗青魔王の逆襲』では青大将の化身・鱗青魔王に捕らえられ、蛇を仕向けられて絶叫。「うわーッ!! もうアカンもうアカン!! もう我慢ならんもう我慢ならんーッ!!」シローちゃん自身が蛇は大の苦手らしく、蛇が身体を這うシーンでは失神寸前だったとか!? I・23話『女人国・八戒が妊娠!?』では悟浄も子を授かる水を飲んでしまい、妊娠してしまった。落胎泉の水を飲んで堕胎したけどね。 I・25話『妖怪帝国・突破大作戦』では、妖怪帝国にて妖怪階級審判所で妖術試験を受けるも、1Mぐらい浮くだけの大浮揚術や屁玉の術でお情けの補欠合格という結果に…。(三蔵は4242人目ということで試験免除、悟空は一級合格、八戒は三級合格だった) I・26話『あれが天竺・大雷音寺だ!』では、地底の鍾乳洞に暮らす悟浄の許嫁・滴水娘々が登場。容姿がよくないため、悟浄からは邪険にされている。ヒドいやっちゃな、悟浄。 II・1話『再出発・天竺への道』では、天上界に戻って天帝に許しを請い、今日が誕生日という天帝の恋人・嫦娥の慈悲で取りなされて特別に許された。平和な暮らし、平凡な生活、ささやかな家庭の団欒を望み、天女の悠明と婚約して郊外の建売住宅に住むことになったが、子供たちに纏わりつかれ、嫁にこき使われる未来を夢想して、これでいいのかと思い悩む。結婚式当日に赤い番傘を差して地上界に身を投げ、三蔵のもとに戻った。 II・4話『落ちこぼれの恐怖・分数妖怪』では、分数問題を難なく解いて賢さの一端を披露。ちなみに字が読めるのも弟子の間では悟浄だけである。賢いといえば…… II・7話『夢の妖怪・幽鬼将軍』では、毎夜悪夢にうなされる三蔵を助けるべく、夢を追い出す遠心分離の術を考え出したり(遠心力で三蔵も飛ばされたけど)、「暖身摘夢器具(酸素発生装置内蔵)」なる宇宙服もどきを設計してみたり…。インテリ悟浄の面目躍如!? II・9話『地獄極楽・宙ぶらりん』では、勅建相国寺で100文払って潜れば極楽浄土へ行けるという壁の穴潜りで、図体のデカさが災いして穴に詰まって身動きがとれなくなってしまう。休業保証として10万元を請求された一行が金の工面に四苦八苦している間に、痩せ細って自力で脱出した。 シローちゃんの女装が見られる回はというと―― I・16話『独角大王・結婚行進曲』では、独角大王が愛する人間の女・春嬌の息子におもちゃとして与えようと悟空の如意棒を奪ったため、大王の持つ金剛琢を奪って如意棒を取り返すべく、悟浄が春嬌に化けた。人間に化けるのは初めてだとかで、悟空に教わって無事化けた。 II・4話『落ちこぼれの恐怖・分数妖怪』でも、走れメロスよろしく分数妖怪が翌朝までに戻らなければ代りに処刑されてしまう三蔵を助けるため、なかなか戻ってこない分数妖怪に化けた。分数妖怪に惚れている八戒も彼女を救うべく分数妖怪に化けて現れたため、二人とも正体がバレてしまってしまった。 II・18話『悟空氾濫・一人ぼっちの妖怪』では、人間と仲良くなりたくて仕方がないのに、村の人々からは恐れられて寂しい思いをしていた犬の妖怪・卜吉を退治しようと、悟空、玉竜とともに人間の女に化けて卜吉の家に遊びに行ったふりをして潜入した。 IIの最終話『母上は妖怪か?再び天竺へ』では、甘い歌声も披露。「遥か離れた そのまた向こう 誰にでも好かれる きれいな娘(むすめ)がいた~ 誰にでも好かれる きれいな娘がいた~♪」相変わらずの美声にうっとり。もっと聴きたかったよぅ。 シローちゃんとは全く関係ないが、沙悟浄に関しては興味深い小説がある。中島 敦さんの「悟浄出世」と「悟浄歎異」という2作品だ。 「悟浄出世」は、思索に耽ってばかりいる悟浄が自分の納得のいく答えを得ようと、流沙河に住む賢人達に教えを乞いてまわる話。 「悟浄歎異――沙門悟浄の手記」は、悟浄が思う悟空・三蔵・八戒について書き記したもの。悟浄=シローちゃんで脳内変換して読むとなかなか面白いので、おすすめしたい
2018.10.10
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ここ数年、ユニコーンの曲をよく聴くようになった。程よいロック感が心地よく、バンドのゆる~い感じも微笑ましい。80年代後半から90年代にかけてのバンドブームの頃には、全く興味もなかったというのに。ただ、89年にリリースされた彼らの3rdアルバム『服部』だけは、当時聴いていたような気がする。 数年前に何がきっかけでユニコーンに目覚めたのかは覚えていないが、とにかくそのユニコーンが今年、100周年ツアーを開催するというので、彼らの地元・広島で行われたライヴに行って来た。 恥ずかしながら私、ライヴ経験は無いに等しく、49年の人生で観た全ライヴ(当時はまだコンサートと言っていた)というのが…・86年7月(16歳) 倉敷市民会館で観た A-ha・88年4月(18歳) 広島サンプラザホールで観た TM NETWORK・89年秋頃(20歳)某女子短期大学の学園祭で観た SHOW-YAぐらいなので、およそ30年ぶりとなるわけだが、まぁ40代の思い出作りとして行ってきた次第。 ユニコーンが100周年!? 2019年はユニコーン再始動10周年。そして、ABEDON(key)が加入し現メンバー体制となったアルバム『服部』から30周年。そしてそして、ドラムの川西幸一さんがめでたく還暦を迎える60周年。ということでなんとなく足してみましたユニコーン100周年です――とのこと。 3月にリリースされたニューアルバム『UC100V』も購入して予習もOK。いざ行かん、広島へ!! 5月26日、開演時間ちょい前に会場となる広島文化学園HBGホールに到着。グッズを購入する時間的余裕も無く、慌てて席へ。2階で右端の席だったが、ライヴ初心者且つライトファンということもあり、お隣さんに気兼ねすることもなく通路でひっそりと楽しめてちょうどよかった。 おばちゃんが嬉しかったのは、服部メドレー(『服部』に収録されているいくつかの曲のメドレー)や、当時大好きだったバラエティ番組『夢で逢えたら』 の主題歌 “働く男” を演奏してくれたこと。これが生で聴けただけで、来てよかった~♪ ライヴってやっぱりいいね(^^) この日は駅前の橋を渡ったアパホテルで一泊。レンタルPCでぼんやり動画を見ていたら、千鳥の『相席食堂』にて奥田民生さんとテッシー(手島いさむさん)が故郷・広島で相席している回に。おおッ、タイムリー!(放送日は4月2日だったらしい)。 翌27日月曜日、若干の曇天で風もそこそこ吹いており、観光にはうってつけの日であった。向かった先は、勿論安芸の宮島! 生きている間に一度は訪れたいと思っていた厳島神社を参拝し、令和になって初めての御朱印をいただいた。まぁ隣県なので行こうと思えばいつでも行けるのだけれど…。 UNICORN 100th Anniv. TOUR “百が如く” 働き方改楽 なぜ俺たちは楽しいんだろう OP “10Nuts” に続いて “OH! MY RAD10” 生で聴けて感涙。『夢で逢えたら』主題歌 “働く男” あの衝撃から30年。“服部” 懐かし~ この曲も演奏してくれた。“すばやくなりたい” 皆で旗を振り振り大盛り上がり “SAMURAI 5” ラストを飾ったのは “ZERO” PVも格好いい そしてアンコール。“ひまわり”
2019.06.10
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『ギター殺人事件 AC/DC流血ライブ』 AC/DC 「If You Want Blood You've Got It」 AC/DC (78)想像を絶するクライマックスの連続。ああ!! またアンガスのギターが叫び、のたうちまわる!!AC/DC狂気のステージを完璧に再現、全ハード・ロック・ファンを直撃するベスト・ライヴ!!A面 1. リフ・ラフ - Riff Raff 2. 地獄は楽しい所だぜ - Hell Ain't A Bad Place to Be 3. バッド・ボーイ・ブギ - Bad Boy Boogie 4. ジャック - The Jack 5. 素敵な問題児 - Problem ChildB面 1. ホール・ロッタ・ロジー - Whole Lotta Rosie 2. 地獄のロックンロール - Rock N' Roll Damnation 3. ハイ・ボルテージ - High Voltage 4. ロック魂 - Let There Be Rock 5. 俺らはロッカー - Rocker トホホ邦題界(?)ではすっかりお馴染みの「ギター殺人事件 AC/DC流血ライブ(If You Want Blood You've Got It)」は、オーストラリアを代表するHR/HMバンド・AC/DCが78年にリリースした彼等の初ライヴ・アルバムである。 78年4月30日にスコットランド(英国)・グラスゴーのアポロ・シアターで開催されたライヴを収録したもので、1曲目の “リフ・ラフ” からパワー全開!ライヴの迫力がビシビシ伝わってくる名盤だ。 この頃のメンバーはヴォーカルがボン・スコット(Bon Scott)、リード・ギターは半ズボン姿がトレードマークのアンガス・ヤング(Angus Young)。リズム・ギターがアンガスの実兄であるマルコム・ヤング(Malcolm Young)で、ベースはクリフ・ウィリアムズ(Cliff Williams)、ドラムスがフィル・ラッド(Phil Rudd)の計5人。ちなみにヤング兄弟はグラスゴー生まれである(オーストラリアへは63年に引っ越したらしい)。あ、そういえばボン・スコットもスコットランド生まれの豪州育ちだ。 そのボン・スコットが80年2月に33歳の若さで急逝したため、このアルバムはボン唯一のライヴ・アルバムになってしまった。 まぁ確かにこのジャケットを見る限りだと、「流血ライブ」という邦題もしっくりくるわな。お腹にSGが突き刺さり、血に染まるアンガス。 でもって何故「ギター殺人事件」なのかというと、裏ジャケで… アンガス、死んでるやん! Σ(゚д゚;) 画像が小さくて分かりにくいが、ギター(SG)が背中に貫通しているのだ。おおぉ、恐ろしや~、って一体何なんだこのジャケットは!? 14年、マルコム兄ちゃんが認知症を患って脱退、17年に64歳で逝去した。 20年には17作目のスタジオアルバム「パワーアップ(Power Up)」をリリース。ボン・スコットの後任ヴォーカルとして加入するも聴力障害で16年にバンドを離れたブライアン・ジョンソン(Brian Johnson)、14年に覚醒剤所持やら殺人教唆および脅迫罪容疑で逮捕されて活動を停止していたフィル、相次ぐメンバー交代で活動意欲を失くして引退表明していたクリフも復帰したこの最新アルバムは、世界21ヶ国でチャート1位を記録した。ちなみにマルコム兄ちゃん亡き後のリズム・ギターは、ヤング兄弟の甥であるスティーヴィー・ヤング(Stevie Young)がつとめている。 そんなAC/DCに興味を持たれた方は…、と普段なら2、3曲ほど御紹介して終わるところなのだが、このアルバムはぜひとも最初から最後まで通して聴いていただきたい。 なので時間がある方はゆっくり御鑑賞くだされ♪ ギター殺人事件 AC/DC流血ライブ (Full Album)
2022.02.11
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84年8月にリリースされたハノイ・ロックス(Hanoi Rocks)の5thアルバム「トゥー・ステップス・フロム・ザ・ムーヴ(Two Steps from the Move)」。フィンランド出身でロンドンに活躍の場を移していた彼らはついに米国のメジャー・レーベルと契約し、このアルバムで全米進出するはずであった…。 80年に結成されたハノイ・ロックスのメンバーは、voのマイケル・モンロー(Michael Monroe。本名:Matti Antero Kristian Fagerholm)、gのアンディ・マッコイ(Andy McCoy。本名:Antti Hulkko)&ナスティ・スーサイド(Nasty Suicide。本名:Jan Stenfors)、bのサミ・ヤッファ(Sami Yaffa。本名:Sami Takamäki)、そしてdrのジップ・カジノ(Gyp Casino。本名:Jesper Sporre)の5人であったが、82年にdrがジップから英国人のラズル(Razzle。本名:Nicholas Charles Dingley)に交代した。 84年12月8日、初の米国ツアー中にモトリー・クルー(Mötley Crüe)のvo.ヴィンス・ニール(Vince Neil)宅でのパーティー中にビールが尽きたため、ヴィンスの運転する車にラズルが同乗して買出しからの帰りに衝突事故を起こしてラズルは即死。(ヴィンスは3日間の懲役と4年間の保護観察を言い渡された) ラズルの後任には元クラッシュ(The Clash)のテリー・チャイムズ(Terry Chimes)が加入したものの、以前からアンディとゴタゴタしていたサムがバンドから去り、後釜ベーシストも一応入ったが、85年6月17日にマイケルがバンドを脱退することを表明してバンドは解散した。ちなみにその日はマイケルの23回目の誕生日だった…。 解散後のメンバー達の活動はごちゃごちゃし過ぎて一々書ききれないが、マイケルはソロとなってまずまずの売上は上げたものの、ちょっと厳しいかな…ということでサミやらスティーヴ・スティーヴンス(Steve Stevens)らと90年にエルサレム・スリム(Jerusalem Slim)を結成するも、スティーヴがヴィンスのバンドに加入するとかで抜けたため解散。次いでサミ、ナスティらとデモリッション23.(Demolition 23.)というバンドを組むも、ナスティが脱退(音楽業界から引退して製薬会社勤務)して解散。 01年にはマイケルとアンディの2人がハノイを再結成するも09年に解散し、翌10年マイケルはサミや新メンバー等とマイケル・モンロー・バンド(Michael Monroe Band)を結成――等々。 22年9月に行われたマイケル還暦(60歳!)ライヴでは何とマイケル、アンディ、ナスティ、サミ&ジップのオリジナルメンバー揃ってのライヴ(この1回限り)を行ったうえ、更にサミ、ナスティ、新dr&マイケルによるデモリッション23.再結成ライヴが披露され、今秋フィンランドでミニツアーを行うそうな。うおーッ、観に行きてーッ!! サミちゃ、格好ええ~ ナスちゃ~!! でもって昨年1月に制作会社トラブルでわずか数日で配信停止になったマイケルのドキュメンタリー映画が、今秋にフィンランドの映画館で公開されるそうな。トレーラーがYouTubeに上がっているので、興味のある方は見てみてくだされ。 Michael Monroe - dokumenttielokuvan traileri サミ、アンディ、マイケル母ちゃん、ガンズ(Guns N' Roses)のスラッシュ(Slash)、アリス・クーパー(Alice Cooper)等がチラっと登場。 さて、本題のアルバム「Two Steps from the Move」であるが、当時は飽きるほど聴きまくった。特にお気に入りだったのが “Up Around the Bend” と “High School”。先行リリースされた1stシングル “Up Around the Bend” はPVが何というかほのぼのとしてて大好きだった。“High School” はロックな感じが大好きで今でも時折聴いている。 全曲YouTubeにリンクしているので、興味のある方はポチッ! “Up Around the Bend” を含むシングルリリース3曲は当時のPVをお楽しみくださいまし♪「Two Steps from the Move」 Hanoi Rocks - My Fave Albums of the 80's. Vol.30 1. Up Around the Bend 2. High School 3. I Can't Get It 4. Underwater World 5. Don't You Ever Leave Me 6. Million Miles Away 7. Boulevard of Broken Dreams 8. Boiler (Me Boiler 'n' Me) 9. Futurama 10. Cutting Cornersおまけ…2022年9月22日マイケル還暦ライヴにてオリジナルメンバー復活! Hanoi Rocks Reunion Full Show
2023.07.11
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「Mr.Boo! マイケル・ホイ(許冠文)祭」第24夜となる今宵は、04年に公開された「鬼馬狂想曲」を御紹介。 今作は「半斤八兩(Mr.Boo! ミスター・ブー)」(76) のリメイクであると共に70年代香港映画への愛とオマージュがたっぷり詰まっており、マイケルは特別出演で出番は少ないながらも、ホイ兄弟好きは必見の作品だ。 邦題も18年ぶりに “Mr.Boo!” が付いた「新世紀Mr.Boo! ホイさま カミさま ホトケさま」となっており、吹替は勿論広川太一郎氏で、マイケルそっくりに演じている劉青雲(ラウ・チンワン)とマイケルの二役を担当。 OPのアニメーションも往時を彷彿させてくれ、とてもノスタルジック。 69年の香港。劉青雲(ラウ・チンワン)演じる701私家探偵社・社長は、部下である古天楽(ルイス・クー)演じる傑と陳小春(ジョーダン・チャン)演じる雞泡と共に玉石の鎧を着込んで骨董店の警備中。にも拘らず傑と雞泡はTVで「歡樂今宵」の葛民輝(エリック・コット)演じる “掃街茂” を観て大笑い。空腹の雞泡が出前を取るのに裏口を空けていたところ、強盗が侵入。格闘の末に強盗は捕まえたが、多量の骨董品を破損して電卓から火が出るほどの大損害に。 雞泡は持ち帰った骨董品のランプに従妹と結婚したいと願い事を呟いて擦り、傑と社長もやってみるが、社長はランプを取り上げて窓から放り捨てた。そこへ電話が掛かってきて、米国でロケット研究しているその雞泡の従妹が人の鼻を噛み千切ったとのこと。雞泡は従妹に会うため、貯金箱を持って出て行った。するとランプから魔法学校の劣等生で瓶底メガネの女の子、張柏芝(セシリア・チャン)演じる哈米波波が現れ、ランプを擦った人に願いを3つ叶えてあげると言うが、波波を雞泡の従妹と勘違いした社長達は彼女を追い出す。波波は魔法を使って証明しようとするも魔法が効かず、魔法学校に電話して尋ねているうちに、吳鎮宇(フランシス・ン)演じる奸人堅の強盗団が身包み剥がして金品を奪っている所に遭遇する。靴を撃たれたものの何とか助かった波波だが、箸を失くしたことに気付き再び探偵社を訪れる。箸は妹で、使った人と同じ性格に変身するとのこと。願いを3つ叶えないと学校に帰れないので泊めてほしいと波波に頼まれた社長は、傑の口添えもあり已む無くOKする。その頃、奸人堅の手下に拾われた箸はTwins(蔡卓妍・鍾欣潼)演じる筷子姊妹花に変身し、奸人堅そっくりの強盗になっていた。 翌朝、社長は麻雀に、傑は功夫を習いに行き、波波は留守番しながらタイプや清掃を頼まれる。魔法で何とかしようとするがちっとも効かず、今はぬいぐるみになっている従妹で恋人の垃圾蟲に泣きついていると、垃圾蟲はそこらじゅうにピンク色の便をして大暴れ。清掃して一息着いているとタイプが勝手に動き出し、魔法は遅れて効くことがわかった。 3週間後、映画館の椅子を壊した犯人を見つけるため社長らが9度目の張込をしていたところに、奸人堅の強盗団に出くわす。足を負傷した社長らが探偵社に戻ると、社長の顔写真だけに垃圾蟲の便が。怒った社長がぬいぐるみの垃圾蟲を窓から投げ捨てるも、恐竜のように変身した垃圾蟲に襲われる。ビルのとある厨房に逃げ込んだ社長と傑は中華鍋と油切りで防戦。そしてヌンチャク代りにソーセージを手にした社長に対して垃圾蟲は鮫の歯型を銜えて応戦し、社長の顔面に脱糞して報復したのであった。 波波が魔法使いであると認めた社長は願いを言えという波波に、美女と言ったところに鍾麗緹(クリスティ・チョン)演じる美女・林亞珍がやって来る。何も思い出せないでいる亞珍を自分が魔法で出した幻だという波波。その言葉を信じた亞珍は社長に尽くし、社長はメロメロに…。 ある夜、蓮花打手をバックに傑が歌うディスコだかクラブだかで社長と亞珍、筷子姊妹花を含む奸人堅の強盗団連中が踊っているところに、波波もやって来る。傑と波波の仲のよさに垃圾蟲が嫉妬するなんて可笑しい、と波波は言いながらも傑と口付けしてしまう。一方、ロケットと聞いて錯乱した亞珍は奸人堅の鼻に噛み付こうとし、止めに入ろうとした筷子姊妹花は驚いて箸に戻ってしまった。波波は無事に妹である箸を回収したが、亞珍は担架に乗せられ病院へ。 探偵社に帰った社長らの元に雞泡が戻り、彼は慌ててTVを付けて人類初月面着陸の模様を従妹の写真に見せていた。香港人が月に行けるのはいつだろうと言う傑に、波波は2020年の明日だと答える。魔法使いだから分かると言う波波に、雞泡は香港人初宇宙飛行士の写真とサインが欲しい、従妹にあげたいと願う。その従妹の写真を見た傑は、社長の恋人である幻の亞珍だと気付く。怒った雞泡は2番目・3番目の願いは社長を殺すことだと言い放つ。恐竜になった垃圾蟲は傑を呼びつけるが、傑は波波を好きになったと白状し、彼女を幸せにするから認めて欲しいと頭を下げる。波波も垃圾蟲はハンサムすぎて釣り合わないと言う。二人の繋いだ手を見た垃圾蟲は、嘗て彼女と撮ったツーショット写真(に映っているのは波波と劉德華(アンディ・ラウ)!)を見て涙しながら黙って去っていった。 従妹の見舞いに行こうとした雞泡は、亞珍の見舞いに行こうとする社長と鉢合わせになってしまうが、揉みあう内に雞泡が姿を消した。雞泡は2020年7月21日の月面に現れ、張達明(チョン・ダッミン)演じる香港人初の宇宙飛行士と会って写真撮影してサインまでもらい、姿を消した。その様子はTV中継され、香港市民も宇宙飛行士も言葉を失う。雞泡がランプの主人だと分かった波波らは、雞泡の第2・第3の願いを思い出して慌てる。しかし、筷子姊妹花を取り戻したい奸人堅らに社長、傑、雞泡、波波の4人は拉致されてしまう。銃で脅され、絶体絶命のピンチに陥った4人の前に現れたのは、恐竜の垃圾蟲だった。強盗団をやっつけて垃圾蟲が去った後、魔法学校から波波に電話が入り、一人を2回殺せないから願いはキャンセルするとのこと。改めて願いを2つ聞かれた雞泡は従妹の回復、そして…。3つの願いを叶えた波波は消えた。最後に皆の願いを一つずつ叶えて、と願った雞泡らの前に、マイケル演じる魔法学校の校長が現れる――。 主人公の張柏芝(セシリア・チャン)演じる哈米波波の設定は「哈利·波特(Harry Potter)」のパロディだが、おかっぱで瓶底メガネという格好は「搶錢夫妻」でも少し紹介した蕭芳芳(ジョセフィン・シャオ)が70年代にTV番組で演じた人気キャラクター・林亞珍がモデルだ。 その林亞珍が役名となっている鍾麗緹(クリスティ・チョン)演じる幻の美女のモデルは、マイケルの映画初出演作「大軍閥」(72) で大胆な全裸を披露した狄娜(ティナ)である。狄娜は映画界を引退後、中国の航空宇宙産業に目を向け、発展させたとのこと。 そして吳鎮宇(フランシス・ン)が好演している奸人堅のモデルは、言うまでもなく「半斤八兩」で強盗団のボス・九叔を演じた石堅(シー・キエン)。ここまで面白おかしく演じてくれるとは! また、葛民輝(エリック・コット)演じる “掃街茂” は、TVB(無綫電視)の開局翌日(67年11月20日)から94年まで放送された人気長寿バラエティ番組「歡樂今宵」内のドラマ「阿茂正傳」の主人公で、当時演じていたのは李添勝。マイケルもこの生放送のバラエティ番組の司会を68年から71年まで務めた。 蔡卓妍(シャーリーン・チョイ)と鍾欣潼(ジリアン・チョン)の二人からなるユニット・Twinsが演じている筷子姊妹花、この筷子姊妹花(The Chopsticks)も60年代後半から70年代初頭に活動していた仙杜拉(サンドラ・ラング)と阿美娜(アミナ)によるユニットで、当時大人気だったそうな。写真を見ると、本当にTwinsが演じている通りの髪型だった模様。 まだまだ他にも70年代パロディが散りばめられている。 主題曲 “天才與白痴” はサム(許冠傑)の曲を鄭中基(ロナルド・チェン)がカヴァーしたもの。06年に鄭中基と蔡卓妍は結婚したが、10年には別れてしまった。 あ、そういえば「神算」や「富貴人間」で音楽を担当している劉以達(タッツ・ラウ)が、今作に奸人堅に脅される鶏泥棒役で出演している。 そして垃圾蟲(ゴミ虫くん)というのは、“街をきれいに” キャンペーンのマスコットとして香港人にはお馴染みのキャラクターらしい。「ハンサムすぎて釣り合わない」と波波が何度も言っていた彼の正体が、まさかの香港四天王の一人である劉德華(アンディ・ラウ)だったとは!香港四天王については「神算」でも触れたが、とにかく90年代初頭あたりからの人気は凄まじかった。私も嘗ては華仔(劉德華の愛称)のFC会員だったぐらい。 傑役の古天楽(ルイス・クー)は93年に設立され、マイケルが初代会長を務めた香港演藝人協會の現会長である。 監督・脚本・製作の韋家輝(ワイ・カーファイ)は、03年に香港がSARSに襲われた際に人々を元気付けようと撮影された11本の短編映画をまとめた「1:99電影行動」で、杜琪峰(ジョニー・トー)監督と「狂想曲」というサムの曲に基づいた作品を公開したが、それと今作は関係しているのかな。 マイケル本人の出演シーンは3分ぐらいしかないが、とにかく “Mr.Boo!” 作品の懐かしシーンがてんこ盛り!ベースは「半斤八兩」だが、「摩登保鑣」の翡翠の鎧や運転練習のシーン、「天才與白痴」でバンドをバックにサムが歌うシーンやら。片眉・片髭を剃られるシーンは「半斤八兩」と「鐵板燒」かな?波波の持っている魚の携帯電話は「合家歡」にも出てきたような…。 鬼馬狂想曲 Fantasia 2004年1月15日(香港) 邦題 : 新世紀Mr.Boo! ホイさま カミさま ホトケさま 出品人 : 向華強 監製 : 韋家輝 導演 : 韋家輝 編劇 : 韋家輝、歐健兒 制片商 : 一百年電影有限公司(One Hundred Years of Film)、銀都機構有限公司(Sil-Metropole Organization)、中國星集團有限公司(China Star Entertainment) 演員 : 劉青雲、張栢芝、古天樂、陳小春、吳鎮宇、蔡卓妍、鍾欣潼、鍾麗緹、葛民輝、張達明、許冠文 音樂 : 泰迪羅賓 主題曲 : 鄭中基 語言 : 粵語(広東語) 票房 : HK$ 25,244,771(2004年第2位)
2023.09.30
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「Mr.Boo! マイケル・ホイ(許冠文)祭」も今宵でとうとう第30夜。今回御紹介するのは21年に公開された日本未公開作「總是有愛在隔離」。 この作品は新型コロナ (COVID-19)流行に基づくチャリティ映画で、香港演藝人協會と香港電影工作者總會が発起、映画の収益をコロナの影響で困窮している香港映画業界の草の根労働者に寄付するためのものだったそうな。そういえば日本の芸能界でもそんな声が上がってたっけ。 なので91年公開の中国洪水被害支援映画「豪門夜宴」ほどではないが、この作品も出演者がなかなか豪華で、香港演藝人協會の歴代会長及び役員達も多数出演している。ちなみに協会の初代会長はマイケルである。 古天樂(ルイス・クー)をリーダーとする防疫センターに方力申(アレックス・フォン)、林家棟(ラム・カートン)、吳鎮宇(フランシス・ン)演じる病原体保有者3名が次々と連れて来られた。行動範囲や接触者等を尋ねたところ、3名ともから「格尼酒店(格尼ホテル)」の名が挙がる。格尼ホテルは即座に防疫センターから完全閉鎖を命じられ、滞在する全ての宿泊客及び従業員は急遽14日間の強制隔離を受ることに。 結婚式を予定していた陸永(ロック・ウェン)演じるWilliamと蘇麗珊(セシリア・ソー)演じるJudyのカップルに張達明(チョン・ダッメン)演じるJudyの父親、防疫員と患者に変装してホテルで楽しく過ごそうとしていた梁家輝(レオン・カーファイ)演じる任因九や曾志偉(エリック・ツァン)演じる天哥達、張智霖(チョン・チーラム)演じる雷公と張繼聰(ルイス・チョン)演じる柴油が各々率いる反社グループ等々。 いきなり閉じ込められてロビーに集まった客達の前に、マイケル演じる格尼ホテルのオーナー・Tommy Leeが現れる。「親愛なるゲストの皆様、今皆さんが心配しているのは分かってます。(略)最後の1分1秒まで皆さんと一緒です。14日後、またこのロビーで会いましょう」長い長いオーナーの挨拶後、錢嘉樂(チン・カーロッ)演じるホテルの保安主任が客達に拍手を促すもロビーは静まり返ったまま。しかし「14日間の食事全てをこちらで面倒見ますので、自由に楽しんでください」と言った途端に大拍手が沸き起こる。こうして隔離生活がスタートした。 …が、オーナーは挨拶直後からあらゆる手段を使ってホテルからの脱出を試み、敵対している雷公と柴油は強制的に同室にさせられ、Judyの父は日本のAVに興奮。陳家樂(カルロス・チャン)演じるフロントマネージャー・Dannyは大忙しの中、シングルマザーの親子と仲良くなっていく。 ある日、またしても脱出を試みようとするオーナー達の前に成龍(ジャッキー・チェン)演じる防疫センター主管が現れ、パンチを食らった従業員が吹き飛んでガラス扉を粉々にしてしまった。ベネチアの吹きガラスブロックで1塊41万するんだぞ、お前の月給はいくらだ?と主管の胸をつんつんしながらオーナーが詰め寄ると、じゃあ苦情を申し立ててくれと主管もオーナーの胸をつんつん。暫くお互いの胸をつんつん突きながら文句を言い合うも主管が部下達に呼ばれたため、お開きに。オーナーは別の脱出手段を考えるのであった。 そんなこんなで格尼ホテルに閉じ込められた皆は無事14日間を過ごせるのか?WilliamとJudyは無事結婚出来るのか? 香港演藝人協會は香港の音楽・映画・テレビ・ラジオ・粵劇(広東オペラ)・舞台等の芸能人を団結させることを目的として、舞台裏を含む様々な分野の芸能関係者によって設立された非営利団体で、900名超の会員が在籍する組織とのこと。93年、当時の裏社会の横行と芸能界における芸能人への弾圧を鑑み、この傾向に対抗するために設立されたという。歴代の会長は許冠文(1期、2期)、成龍(3期、4期、11期、12期)、梅艷芳(5期)、曾志偉(6期、7期、9期、10期)、譚詠麟(8期)、古天樂(13期~現在)が務めている。梅艷芳(アニタ・ムイ)は03年に40歳の若さで逝去しており、譚詠麟(アラン・タム)は残念ながら今作には不参加。 でもって現在の副会長は錢嘉樂と余安安(キャンディス・ユー)で、余安安も天哥の妻役で出演している。 今作で梁家輝が演じている任因九は自身が主演した「江湖告急」(00) のキャラで、曾志偉の演じる天哥も同じく自身の主演作「大丈夫(大丈夫)」(03) で演じたキャラだそうな。あ、梁家輝は「大丈夫」でも任因九(九叔)を演じているようだ。残念ながらどちらも未見なのでよく分からなかったけど、観ていたら楽しめただろうなぁ。 個人的に面白かったのは、張智霖演じる雷公と張繼聰演じる柴油の敵対する反社グループのボス二人。同室にされた当初はいがみ合っていたものの、ある日二人ともプールサイドでうつ伏せのまま眠り込んでしまい、背中が日焼けで真っ赤に。ローションをもらうも背中に手が届かず、かといって敵に背中を向けられない二人は何故か抱き合って互いの背中に塗り合い、ついついお互い気持ちよくなってしまう。別の日には、どうも熱っぽく咳の出る二人の前に非接触型体温計を手にした職員が次々と現れる。二人は何故か寄り添い、「英雄本色(男たちの挽歌)」で周潤發(チョウ・ユンファ)が演じたMark哥さながらに敵を往なす。このシーンでバックに流れる歌は勿論、陳小雲の “免失志” だ。飲一杯飲一杯 我沒醉♪ そして連続バク転を華麗に決めて成龍が登場するシーンでも、BGMはこれまた勿論「警察故事(ポリス・ストーリー/香港国際警察)」のお馴染みの主題曲 “英雄故事” であった。 マイケル演じるオーナーは何とか脱出しようと、パラシュート内蔵ジャケットを着て屋上から飛び降りてみようとしたり、ロビーにある大きな水族館を潜って地下に出ようとしたり、ランドリー室から通気ダクトを這って出ようとしたり。ダクトを通っての脱出は成功したものの、蝙蝠の大群に遭遇してホテルに戻る羽目に…。果たしてオーナーはこの先どうなる!? 總是有愛在隔離 All U Need Is Love 2021年4月22日(香港) 出品人 : 向華強、楊受成、林建岳、李綺雯、周焯華、江志強、黃百鳴、李國興、樂易玲、林小明 監製 : 黃百鳴、曾志偉 導演 : 谷德昭 聯合導演 : 馮德倫、陳慶嘉、陳嘉上、陳大利、黎振龍、張家傑、鄒凱光、錢嘉樂、秦小珍 編劇 : 馮勉恆、陳茂賢、李思臻、黃子桓、鄧允賢、麥家曦、黃浩華、駱競茵、歐穎瑤 製片商 : 中国星電影有限公司(China Star)、英皇電影有限公司(Emperor Motion Pictures)、天下一電影製作有限公司(One Cool Film Production)、太陽娛樂文化有限公司(Sun Entertainment Culture)、安樂影片有限公司(Edko Films)、東方影業出品有限公司(Mandarin Motion Pictures)、寰亞電影有限公司(Media Asia Film)、美亞電影製作有限公司(Mei Ah Film Production)、寰宇影片發行有限公司(Universe Films)、邵氏兄弟國際影業有限公司(Shaw Brothers) 演員 : 曾志偉、梁家輝、張智霖、張繼聰、陳家樂、陸永、蘇麗珊、許冠文、錢嘉樂、張達明、古天樂、吳鎮宇、林家棟、方力申、余安安、羅蘭、李璨琛、鄭則仕、成龍など 主題曲 : 「如果心裏是愛」 盧冠廷、劉德華、張學友、李克勤、容祖兒、草蜢、蘇永康、梁漢文、周柏豪、薛凱琪、鄭欣宜、鄧麗欣、鄭融、連詩雅、吳浩康 語言 : 粵語(広東語) ↑維基百科(Wikiさん)を参考にしてつらつらと書いたが、映画のOPクレジットでは出品(ここでは製片商)と出品人を除く全ては “一群熱愛香港的電影工作者” となっており、エンディングロールも電影工作者として500人超の名前がひたすら流れるだけなので間違えてたらすみません
2023.10.14
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給湯器の不具合が始まったのは昨秋ぐらいのこと。シャワーの途中で水に変わってエラー表示が出るようになったため、給湯器パネルに書かれてある番号に電話して業者さんに見てもらったところ、もう寿命だと告げられた。買換工事の見積も提示されたが保留にし、一応まだ温水も完全に止まったわけではなかったので騙し騙し使っていたが、初夏の頃ついに温水が出なくなった。幸い今年の夏は暑かったので秋までは水シャワーでも大丈夫だったのだが、11月には冷水シャワーもキツくなり、遂に先頃新たな給湯器を設置した。 そんな12月初頭の極寒冷水シャワーを浴びていて、ふと脳裏を過ぎったのが「銭形金太郎」のビンボーさん達であった。 「銭形金太郎(以下「銭金」)」は02年(平成14年)から07年(平成19年)まで放送されていたバラエティ番組で、当初は大好きで楽しく見ていた。 この頃のテレビ朝日系列の23時台のバラエティはとても充実しており、月曜の「内村プロデュース」、水曜の「Matthew's Best Hit TV」、木曜の「銭金」、金曜はおらが町では「探偵!ナイトスクープ」という最高のラインナップであった。(水曜の「ぷっすま」は芸人さんの番組ではなかったので個人的にはあまり…) 現代社会で明るく生きている人たち… それは夢あるビンボーさん。 彼らの生活の知恵、逞しさ、生き様を学びましょう。 そして、彼らには番組から夢を掴むチャンスを! 「銭形金太郎」はそんな彼らをサポートする生活応援バラエティです。 というTARAKOさん(今年3月に急逝されてしまった)のナレーションで始まる「銭金」は、ネプチューンの名倉潤さんと原田泰造さん、渡辺満里奈さんの3人が進行役、そしてネプチューンの堀内健さんが審査委員長を務め、貧乏さん達のサポーターとしてくりぃむしちゅーの上田晋也さんと有田哲平さん、Take2の東 貴博さん(東MAX)、土田晃之さんなどが出ていた。名前の色は番組で着ていた衣装(つなぎ)の色である。 名倉さんと渡辺さんはこの番組での共演がきっかけでめでたく結婚。何となくそういう雰囲気は感じていたので、番組内で発表したときは微笑ましく、この後渡辺さんは寿降板した。 この番組に登場したビンボーさん達の中には台所のシンクでお風呂を済ます人もいたが、伊集院光さんがサポーターの回でスゴい家(築100年越え)を訪れた際にガスを引いてなくてお風呂が水だった方がいた。寒い群馬で水風呂に入らされた伊集院サポーターは「沸かせ!」と怒鳴り、その後に巨体で床板を踏み抜いてしまったのだった。まぁこの番組は後にやらせがあったとかつて出演したビンボーさんにバラされたので、どこまで本当かは分からないが、貧乏だったら水風呂は無理でも冷水シャワーぐらいなら何とか気合で乗り切れるものなのであーる。温暖な瀬戸内気候のおかげもあるけど。いや、でも流石に真冬は厳しいかな。私もこれ以上冷水シャワーを続けていたら死ぬかもしれないと思い、給湯器取換工事をお願いしたからなぁ…。 23時台に放送していた頃はビンボーさん達の慎ましくも逞しく、ちょっとおかしい生活っぷりとサポーターさん達のやりとりを楽しく見ていたのだが、20時台に移行してからはネタが尽きたのかパワーダウンしていき、いつの間にか見なくなり、気が付けば番組は終了していた。 「銭金」に登場したビンボーさん達は今頃どうしているのだろう。結構学生さんが多かったので、放送から20年も経った現在は社会人として普通の生活を送っているんだろうなぁ。ちゃんと温かい湯船に浸かれているかしらん…
2024.12.15
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慶長3年(1598年)に起こった朝鮮・慶長の役における泗川の戦いでの圧倒的大勝利、はたまた慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの “島津の退き口” と呼ばれるまさかの敵中突破&前進退却で知られる、鹿児島が誇る戦国武将・島津義弘。島津家第17代当主であり(近年この説は否定されつつある)、島津家第18代当主にして薩摩藩初代藩主となった島津忠恒(家久)の父でもある。 時代は下がって宝暦3年(1753年)、幕命により木曾三川の治水工事(宝暦治水)を命じられ、完成の翌月に病弱のうえ心労も重なったのか享年27歳という若さで卒去した島津家第24代当主で薩摩藩第7代藩主の島津重年。 このお二方が生まれ育った薩摩の風景を是非ともこの目で見、肌で感じてみたく、山陽・九州新幹線の最速達列車「みずほ」で鹿児島へ向かったのであった。 6:51に岡山を出発して9:46には鹿児島中央駅到着。みずほ速ッ! まず最初に向かった先は前々から是非とも行ってみたいと切望していた、歴代島津家の墓所である福昌寺跡。福昌寺は島津家代々の菩提寺だったが明治2年(1869年)の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は島津家歴代(6~28代)の墓地として保存されている。早速義弘の墓前で手を合わせる。画像から想像していたより小ぶりな印象を受けた。近くには本来であれば島津家第18代当主となるはずだったが朝鮮・文禄の役に参陣し21歳にして現地で病死した、義弘の次男・久保の墓もあった。そして念願だった重年の墓に向かおうとするも、まさかの立入禁止 重年の墓だけでなく、重年の長男で “高輪下馬将軍” と称されるほど権勢を振るった島津家第25代当主で薩摩藩第8代藩主の島津重豪の墓やら忠恒の墓やら、そこらかしこが立入禁止に。万が一崩れたりでもしたら危ないから仕方がないのだけれど。もっと早くに訪れていれば自由に展墓出来たかと思うとちょっと…いや正直かなり悔しかった。けどまぁしゃーない。 気持ちを切り替え、続いては慶長6年(1601年)に薩摩藩初代藩主となった忠恒(家久。通称 “悪久”)により築城された鹿児島城へと向かう。父・義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があるため城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していたとか。 福昌寺跡から歩くこと暫し、途中、西郷隆盛終焉の地(明治10年(1877年)に西南戦争で自害)という看板があったが幕末の薩摩藩には興味がないのでそのまま通り過ぎ、へろへろになりつつ歩き続けていると、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士を弔う薩摩義士碑が建っていた。幕吏や地域住民との対立、 悪疫の流行などで88名の犠牲者を出し、およそ40万両(通説)もの莫大な費用を負担する羽目になった宝暦治水。総奉行を務めた家老・平田靱負は工事終了後、幕府目付による検分報告を国元に認めた翌朝に自害(病死説も)。しかしそんな彼らの偉業も幕府に遠慮してか地元では知られておらず、大正10年(1921年)になってようやく慰霊碑が建ったという。慰霊碑の線香台(っていうの?)には木曽川、長良川、揖斐川とそれぞれに彫られた3つの石が置いてあった。 慰霊碑から水堀に沿って進むと鹿児島城御楼門に到着。鶴丸城ともいうが、明治以降に呼ばれるようになった通称とのこと。御楼門を潜ると中は鹿児島県歴史・美術センター黎明館という資料館が建っており、島津家に関する資料(書状とか)もあった。 歩きすぎて足が痛くなったので帰りのバスを待っていると、地元のおばあさんから何やら尋ねられた。バスがいつ来るかというようなことだったと思うのだが、鹿児島弁なので正直ほぼ分からず。分からないなりに会話は進み、暫し談笑していると鹿児島市内の観光地循環バス・カゴシマシティビューがやって来たので乗車。そのまま終点の鹿児島中央駅に向かうつもりだったが、ふと思い立って有名観光地である仙巌園(磯庭園)で下車してみた。 仙巌園は万治元年(1658)に忠恒の次男で島津家第19代当主にして薩摩藩第2代藩主・島津光久が築いた別邸で、桜島や錦江湾を庭の景色に取り入れた借景庭園は「仙巌園附花倉御仮屋庭園」として国の名勝に指定されているそうな。また園内の旧集成館反射炉跡は世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にもなっているらしいが、まぁそれらは結構どうでもいい。ここに来た目当ては尚古集成館所有の島津家に関する資料のみである。 うわッ!見つけた時に思わず声が出そうになったのが「島津重年書状」。宝暦3年(1753年)12月に幕府から仰せつけられた濃州・尾州・勢州川々御普請に対し、重年が御礼を述べた書状だ。宛先は幕府の若年寄・松平宮内少輔。おおッ、嬉しいかな釈文付!有難いことに撮影OK(展示物の一部は撮影不可)とのことなので、スマホでパシャリ。まさかここで重年の書状に出会えるとは。…もしや重年公、呼んでくださいました? 園内にある鶴嶺神社は明治2年(1869年)の創建で、島津家の歴代当主とその家族、及び分家の玉里島津家歴代当主とその家族が祀られており、中でも島津家第16代当主・島津義久(義弘の兄)の三女で久保の室、久保の死後は久保の弟である忠恒の室となった亀寿を祀る神社として知られているそうな。亀寿と忠恒の不仲は有名で、福昌寺跡の墓所でもこの夫婦の墓だけ離れた所にあったりして。 美しい錦江湾と雄大な桜島をカゴシマシティビューの車窓から眺めつつ鹿児島中央駅に戻り、駅西口すぐのビジホにチェックイン。腕時計を外す際、ふと目にした歩数計は23,279歩となっていた。初日から張り切りすぎだって。 福昌寺跡 島津義弘公墓(宝篋印塔) 島津重年公、重豪公墓所 薩摩義士碑 鹿児島城 御楼門 仙巌園 鶴嶺神社 島津重年書状
2025.11.23
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今日は何となく心身がスッキリしないので、いつもの秘薬を取り出した。そう、私の一番の疲労回復剤は一昔前の香港おバカ電影を鑑賞することだ。 ということで、今日は数ある愛すべき香港おバカ電影の中でMy Best 3に入るお気に入り作品である、90年公開の香港・日本合作映画「スパイゲーム(中日南北和)」を久々にまったりと鑑賞 ツイ・ハーク(徐克)率いる電影工作室(フィルム・ワークショップ)の編集者、デヴィッド・ウー(胡大為)の初監督作で、ツイ・ハークもプロデューサーとして名を連ねるこの作品、日本人キャストは置いといて香港側のキャストがやったら豪華というか、単に個人的に好きな役者さんが揃っていてめっちゃ嬉しい 話の筋はというと、何者かに命を狙われ、まだ見ぬ父親がいるという香港に渡った日本の人気ロッカー・貴子が、偶然知り合ったドジで不運な香港のニュースキャスター・ケンにひたすら迷惑を掛けまくりながら逃げる話。 笑いあり、スリルあり(?)、音楽シーンありの洒落たスパイ映画もどきとでもいおうか…。 日本では、(この作品の出演者達の中で日本における)知名度の高いジョイ・ウォン(王祖賢)と時任三郎さん主演のスパイ映画だと宣伝されていたが、実際はお間抜けでお人よしのケンを演じた阿Bことケニー・ビー(鍾鎭濤)と貴子役の泉本教子さん(知らないけど)がメイン。 時任さんは貴子を探しに香港まで来た彼女のバンド仲間(サックス担当)で、その貴子探しに協力する刑事役がジョイちゃん演じるジョイ警部だ。 他の香港側の出演者はレイ・チーホン(李子雄)、チャーリー・チャン(陳惠敏)、フィリップ・チャン(陳欣健)など。普段は堅い役が多い彼等もこの作品ではとってもお茶目♪ ちなみにチーホンは阿Bの学生時代からの友人兼ライバル・キャスター兼阿Bの恋人のお兄さん。チャーリーさんは刑事役でフィリップさんは阿Bのダメっぷりに頭を抱える上司の役だ。 180cmの長身で二枚目、バイクが趣味でハスキーボイスがとっても魅力的な阿Bは本当はめちゃめちゃ格好いい男性なのだが、なぜか映画で演じる役の大半はおとぼけ役だったりする。そのギャップがたまらなく愛しいっす~ この映画のお気に入りシーン・その1は阿B、チーホン、チャーリーさんの3人が仲良くノリノリで“Happy Birthday Sweet Sixteen ”を歌うシーン♪ 観ているこちらも最高にHAPPY気分 お気に入りシーン・その2は阿Bのマンション炎上のシーン 広東語が全く話せない貴子を成り行きで自宅マンションに泊めてあげた阿Bは、彼女をひとり部屋に残して出勤。遅刻してニュース本番直前にスタジオ入りした阿Bは、下は映らないからいいや、とトランクス姿でニュースを読み始めた。 「臨時ニュースです。又一路の住宅地で火事が発生、現在消火活動が行われています。では現場を見てみましょう。 現場は達之路8番…達之路8番301号…」この住所は…?マンションが炎上している様子をじっとモニターで見入る阿B。ん?ここって… 「くそったれ、俺の家じゃないか!何やってんだ、早く消せ!まだローンだって残ってるんだぞ!」ズボンを穿いていないことも忘れ、生放送中にもかかわらず思わず興奮して立ち上がる阿B。でも家よりもっと心配なことが…。 「貴子…貴子が!」生放送そっちのけで、トランクス姿で慌ててスタジオを飛び出す阿B。 ラーメンを作っていたことを忘れ、呑気にTVに見入っていた貴子のせいで住む家を失ってしまった可哀相な阿B。おまけに家に女の子を泊めていたことがバレ、恋人にもフラれちゃうわ…。なのに真っ先に貴子の心配をする阿B。どこまでお人よしなんだ~!でもそこが阿Bの、というかケンのいいところなんだなぁ(^^) でもこの後、子供番組に飛ばされちゃいました(後に報道に復帰)。 そしてお気に入りシーン・その3はラストのライヴシーン! 父親も無事に見つけ出し、KGBだかCIAだかもチャーリーさん達に逮捕され、一件落着した貴子は後ろ髪を引かれる思いで帰国。日本でのライヴを前に楽屋では貴子が阿Bと写った写真を暫し見つめていた。そこへバンド仲間が呼びに来て、貴子はステージへ。 いつものように歌い出す貴子。続いてステージ後方にいるサックスの男性が歌う…あッ!時任さんじゃない…阿Bだ!初めは驚いた貴子も、やがて満面の笑みに そしてステージ中央に躍り出て貴子とデュエットする阿Bもニッコリ。元々温掌(ウイナーズ)というバンドのvo.でサックスも担当しているだけあって、堂々たる歌いっぷりが格好いいッ!少々舌っ足らずの日本語もめっちゃ可愛いし ちなみに元のサックス担当であった時任さんはというと…。香港でジョイちゃんに一目惚れし、二人でスパイに立ち向かった際に意気投合したのかは分からないけど、なぜか香港で刑事になり、ジョイちゃんと働いてたりする。香港って外国人でも簡単に刑事になれるのかしらん? 阿Bと貴子こと泉本さんがラストでデュエットしている「PARADISE PARADOX」という曲も大好き♪ 一応歌詞だけ御紹介。阿Bは“愛”の発音が“あえ”になっちゃってるけど、それもまたご愛嬌。 日本公開ver.と香港公開ver.では若干の違いがあり、香港ver.の方が歌のシーンが長く、阿Bのサックスソロも十分堪能出来てファンには嬉しい(^^) PARADISE PARADOX lyrics T(泉本さん):息さえ詰まりそうな 排気ガスが 体にまとわりつく スクランブル K(阿B):こぼれそうな夢を カバンの中に隠した 恥ずかしがりやの街 T:無邪気に愛を語る 男達と 優しく傷つけあう One…??(聴き取れない) K:物語が生まれ 金色の雨に消える 時計仕掛けの愛 まるで TV Show※T&K:ここはパラダイス いつもパラドックス この街が好き 夢を探し 愛を探す Plastic Town(?) T:無邪気に夢を?す 女達と 優しく傷つけあう One…??(聴き取れない) K:物語は続き …??(聴き取れないよー)になった 時計仕掛けの夢 まるで TV Show ※ Repeat ×2 この間、阿BのSax Solo有 T&K:ここはパラダイス いつもパラドックス この街が好き 夢を探し 夢を壊す 愛を探し 愛を壊す Plastic Town ~♪ 嗚呼、この曲のCD、どこかに売ってないかしらん… 本日のひまつぶし ・「中日南北和(スパイゲーム)」国際版Trailer → こちら
2011.01.18
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「君幼而頴悟、長受業於林祭酒、出入昌平黌、才學文章夙超越同儕(君幼くして才知に優れ、長く学問を林大学頭に受け、昌平黌に出入す。才学文章は夙に仲間に超越す)」と墓碑に書かれてあるとおり、幼い頃から英俊で、写真からも眉目清秀ぶりが窺える池田可軒(長發)。 そんな彼の為人(人となり)はどうだったのだろうか。幾つかの文献から抜載してみた。今回は其ノ壱である。 努 力 家「嘉永三年十一月三日於學問所素讀御吟味。十二月十六日素讀出精に付丹後縞五反頂戴。嘉永六年九月五日炮を學び。同月二十八日射千本を試む。安政二年五月十九日吹上御物前見に於て馬揃上覧相勤。安政三年八月中學問所に於て辨書並文章時務策御試しを請く。十二月二十四日學問出精一段の事に依り拝領物被仰付」(可軒著・家譜) ――13歳のときに “素読吟味(口述試験)” 、その5年後に “学問吟味(筆答試験)” を受けてどちらも優秀な成績で褒賞をいただいた。また、学問だけでなく砲術や馬術も稽古した。「宝蔵院流の鎌槍は相当の重さがあったという。技術面でも努力訓練を要した。遣欧節当時の可軒の写真から判断すると、可軒の身体は優形華奢で、重い槍を操作するには適していない様である。その可軒が免許皆伝の証状を獲得したのだから、大変な努力と訓練を重ねたことであろう」(鶴遣老) ――18歳にして宝蔵院流鎌槍術を会得、免許皆伝に達した。「一つの書籍を繰り返し、繰り返し繙いて、あるものには非常に克明に補注をつけてゐる。かういった努力の迹を見る時、我々は彼が非常に俊秀な學徒であったことを知るとともにその反面、非常に地味地な努力家であつたことも窺ふことができる」(池田可軒の舊藏書)「余平素好手抄古人之書、有人笑其迂者、於是乎、列古人之言係抄書者於左、以答于其人、清人馮蕈溪云、讀書不如抄書、古人讀書、皆經手鈔、蓋有三益、一加簡練、一備遣忘、一兼學書法不爲家不蓄書也、凡讀經史、其義欲全部貫通、其文欲逐字採掇、有全鈔、此巾箱自備本也、因是觀之、古人著書之富、亦兆於此也晰矣、…」(可軒・抄書説) ――単なる読書より寫書(手抄)の重要さを説く可軒さんは、コツコツと地道に努力するタイプだったようだ。 短 気「池田は未だ壮年であり、殊に勝ち気で人にゆずらない性質なので時としては談判の席でも議論が少し合わないと、往々怒気を顔にあらわさずにはいられないのだ…」(幕末外交談)「池田は狷急(心がせまく短気)悻直(正直で怒りっぽい)の士である」(同上) ――可軒さんが27歳で正使を務めた横浜鎖港談判使節団に随行した田辺太一が明治31年に出した回顧録「幕末外交談」より。可軒さんは彼より9歳下だった。「ロイスは筑後守の像を石膏でとらせ、また腕だけのものを作らせ、あるとき談判の具合で池田がいつもの疳癖を起こしてくると、ロイスは自分の手で石膏作りの池田の手をしかと握って(略)うまくなだめたことなどもある」(明治・大正史 外交篇) ――ロイスとは当時のフランス外務大臣エドゥアール・ドルアン・ド・リュイス(Édouard Drouyn de Lhuys)。「気象(気性)の烈しい人となりであったと記録に残されている」(鶴遣老) ――文武両道で出世街道を驀進した可軒さん、若い頃は結構短気だった御様子。 好 奇 心 旺 盛「使節が上海につき、旅館にはいると、日本人が二名きて、みずから薩摩の脱藩人であると称して面会を乞うた。そして言うには、西洋の風光を見るためにここまで来たが、旅費がつきたので、これから前へ行くことができない。どうか節下に加えて欧州に連れて行っていただきたい、と。池田は物好きな性格の人とて、大いにこれらを連れて行きたがったが…」(幕末外交談) ――可軒さんは面白がって連れて行きたがったそうだが、結局二人を漂流民ということにして旅費を渡し、日本に送還することにしたそうな。「池田正使がその象に乗りたいというと象使いは象にひざまづかせたので、正使はその後方から上がって、その背にうちまたがった」(奉使日記) ――これまた横浜鎖港談判使節団に随行した杉浦愛蔵が記した「奉使日記」より。西貢(サイゴン)でのこと。「(パリの劇場でグノーの『ファースト』を観劇)日本語の台本が用意されていたのでよく理解され、池田は(主演の)ボア夫人の至芸に屢々拍手を送り、兵士の合唱が特に気に入った様であった。しかし池田の興味を引いたのは悪魔メフィストフェルで、終演後支配人室に招ぜられてこの俳優を紹介された時、池田はじめ一行の人々は争ってメフィストフェルを取り囲み、奇怪な黒い衣装を手で触って見たり、顔の隈取りをしげしげと眺めたりした」(悲劇の大使) ――パリのテアトル・リリック座でゲーテ原作、グノー作曲の歌劇『ファウスト』を鑑賞したことを、当時の新聞記事から書き写したもの。可軒さんは悪魔・メフィストフェレスに惹かれたらしい。 モ テ た !?「やや色気のある一婦人が旅館に見えて窮状を訴え使節に会わせてくれとせがむ。田辺組頭が心得て程よくあしらって帰す」(奉使日記) ――使節とは池田正使のことらしいが、田辺さんがあしらって帰したとのこと。何かプライベートなことだったりして!? まさか百数十年後に幕末のイケメン侍として有名になっているなんて、可軒さんも草葉の陰でさぞや驚いていることだろう。
2023.11.16
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