第1章


僕は東京オリンピック以前に生まれ、一時は新人類といわれた世代である。
東京の文京区に生まれ育った。
記憶があるのは幼稚園の頃からだ。
僕が子供の頃は、幼稚園は2年間と1年間があったようだ。
ちなみに僕は2年間通ったが、自分の通う小学校と同じ
場所にあったのに通園に20分掛かった。
もっとも通園エリアの一番はずれというか、越境だったようだ。
今なら7分程度?いや、10分程度だろうか、正確には測ってないし、目的地まで
かれこれ25年くらい行ってないのであくまで予想でしかないが。

さて、幼稚園時代の思い出といえば・・・
ない!記憶がたいしてないのだ、あるとするなら小学校入学間際くらいか。
しかし、アルバムを見ると谷津遊園、向ヶ丘遊園、
その他、数々の遊園地に行っている。
子煩悩な父は毎週のように僕を連れ歩いたらしい。
expo70自分の記憶といえば、小学校に上がる前にexpo’70(日本万国博覧会)
に行ったことぐらいかな。
そこで月の石を見たのと、ソビエト館のミニチュアが
印象的で先進国ってイメージを感じた。
また、岡本太郎で有名な太陽の塔は、エスカレーターを登りながら
地球上の動植物が進化していく過程がみれたのも、かなり鮮明な記憶がある。
ピスタチオ
あとは、ピスタチオというナッツとの出会いが今も忘れられない。
そう美味しかったのだ。
これはイラン館で食べたと思う、生産量世界一かな?
それと、初めて乗る大阪までの新幹線ひかり号もかっこよかった。
これらの記憶は小学校入学間際の3月だった。

しいていえば、幼稚園当時の記憶に残る事といえば、
僕の家の前に都電が走っていたくらいだ。
そして、家のほぼ目の前に電停があったのだ!
しかも山手線の内側なのに。(今も旧王子電鉄だった都電はあるが)
それに乗って一人で秋葉原まで病院に行った記憶がある。
それは小学校1年のときだ。
今の幹線道路と違い、都電が走ってる部分は屋根がついて
いるみたいで低く感じた、又、写真等で見ても町が低く見える。
1945
194501
その後、秋葉原の耳鼻咽喉科で扁桃腺の手術をした。
一人で入院、手術は僕には寂しかったが、今思えばあたりまえだ。
ま、扁桃腺が腫れるくらい体が弱く、冬は鼻水が垂れっぱなし
小学校六年生まで毎日、近所の耳鼻咽喉科に通った。
まぁ、当時通院中、暇つぶしに待合室で漫画を読めるので
苦痛にはならなかった気もする。

111
さて、夏の思い出といえば毎年家族で行く旅行が楽しみだった。
小学校1年のときは三重県のほうに行って、そこでカニを捕まえた。
当時、自宅の愛車はトルコン(トヨグライド)のコロナだった。
父は東名自動車道を全開走行していた。
140キロしか出ないがずっとその速度で走っていたようだ。
一応カタログを見ると最高速140キロ、ゼロヨン19.7秒とかいてあるが
そのあたりも、子供心に覚えているが父は自慢していたようだ。
だが、父は新車だろうが、まず運転が嫌いだった。
さらに父が生きている間、私が知る31年間でただの一度も
自分で洗車したことがなかった。
コロナは、クーラーつきの新車なので、かなり高価だったらしい。
小学校時代のクラスメートで車を所有してる家庭はあまりなかったみたいだ。
ま、公立だったので、私立なら所有率は格段とあがるのだろう。
もっとも東京のど真ん中で車は必要ではないと思うが。(今でも)
本題に戻るが、その頃の僕の趣味はカニや
カブトムシ、クワガタを捕まえることだった。
従兄弟の家は川崎にあり、生田緑地公園が近くだったので
泊まりこみで昆虫採集をするのが夏のイベントの一つでもあった。
また、筆箱に蜂を忍ばして授業中遊んだり、
ヤゴを捕まえたり、遊び道具には事欠かなかった。
このようにふざけた小学生だったことは間違いない。

小学校低学年の夏といえば、ラジオ体操だ。
僕は二箇所掛け持ちで通った。
理由は一箇所は毎日ヤクルトがもらえるからだ。
もっとも僕の家は氏子なのでお金払っているんだけど(笑)
そしてもう一箇所は、メジャーなところ(苦笑)
両方ラジオ体操が終ったあとに近所のお兄さんたちに
秘密の森(某邸宅なんだけど)に連れて行ってもらう。
なんとそこは文京区なのに、かぶとむしや、クワガタがガンガン取れるのだ。
低学年の僕たちはそこの塀を登ることが出来ず、見張りとして待っているのだ。
木の場所を聞いてもお兄さんたちは教えてくれなかったが、卒業するころになると
ぼそっと教えてくれた。
どうやら、カブトムシ等に興味がなくなったからだろう。
今考えると、不法侵入だったが、子供のときは罪悪感なんてまるでなかった。

日曜日の過ごし方だが、父は競馬が大好きだった。
週末にドライブに行かない日は決まって銀座の場外馬券場に行くのだ。
父が馬券を買っている間、僕は喫茶店に行ってフルーツババロアを食べるのだ。
これは美味しかったが、今考えるとかなり高価なババロアだったようだ。
もうないが、銀座のオリンピアという喫茶店で、
名鉄メルサのところにあったはず。
まだ、銀座マクドナルド1号店も出来てない時代に、
ババロアは450円したと記憶する。
ま、親のお金はたいして気にならなかったせいもあり、
二個食べたいとか言った時もあったような。
そして、そこで父の馬券購入を待ち、その後、パチンコに連れてってもらった。
当時のパチンコはなんと電動ではなく、一発づつ玉をいれて打つのだ。
100円で50発だった。
当然、この頃のパチンコは技術が要求されたようだし、
釘を見る力も必要だったらしい。
僕はといえば、スマートボールもしくはスロットマシン(この頃からあったのだ)
をやっていたがほとんど勝てないかった。
その後、電動が出て、100円35発になった。
また、お店でパチンコの玉を拾って父に張り倒された記憶がある(苦笑)
しかし、小学生の僕に座らせて普通に遊戯させてた親も病気だと思うが・・・
ま、パチンコに勝ったら景品は僕の欲しいプラモデルに
交換してくれてたのでで文句は言えないな。
それに、小さい頃からギャンブルをある程度みたせいか、
小銭を使うギャンブルに魅力を感じなくなったのを
今にして父に感謝している。

小学校4年生くらいになると、山手線一周に凝った。
初乗り、オトナが30円で池袋~新宿だったので、子供は半額、
さらに端数切捨(国鉄は)なので10円。
大塚駅から乗って一周以上して池袋駅で降りる。
大体1時間ちょっと掛かってたかな、正確には66~70分だけど。
個人的に外回りが好きだった。
キンダー
そうそう、僕は時計が大好きで小学校一年生のときから持っていた。
価格は昭和45年当時で2500円、シチズンのキンダータイム、色は黄色だった。
ま、今じゃ当たり前だけど、僕の時代は中学にならないと
大抵の人は、腕時計は買ってもらえない時代背景だったかな。

その他の趣味といえば、切手収集もあったが、今にして思えば
あれは郵政省(今は郵政公社)の作戦だな・・・
お金を切手に変えたら使いようがない。
永遠の貯金ってことは寄付みたいなもんだと・・・
最近は年賀ハガキの切手シートが当っても、即利用してあげてます(笑)
また、子供のときの遊びで変わってるのは、ビー球ころがしなんてのもあった。
公園の砂場でやるんだが、作ってるとネコの糞にぶちあたったり・・・
ようするに砂場はネコのトイレになっていたのである。
そうそう、近所の公園(護国寺内)のそばに防空壕があったのも、
戦後二十数年しか経ってなかっただろう。
小学校時代に一番はまったのは、プラモデル作りだと思う。
思い出に残るモデルはやはり、小学校一年のときに買った
アポロ11号だった、作れなかったという挫折から入ってるが、いい思い出である。
ただ、すべてにおいて飽きてるのが僕の性格を物語ってるのだろう。
良し悪しは別として、かなり恵まれていた環境の小学校時代であった。

また、習い事等に関しては、習字、そろばん、水泳
4年生から中学受験勉強のため、進学塾に通っていた。
進学塾に通うのは、とても新鮮だった、違う小学校の生徒と会話したり
遊んだりする、また、会話内容も僕の知らない世界の話題があったり、
とくに大人っぽいネタが多かったようだ。
授業内容については、はるかに先のことをやるのも
僕には新鮮かつ楽しかったのだろう。
もっとも中学受験はキッチリ失敗してるが・・・

ざっと、乳児から小学校時代までの思い出はこの程度か。
しかし、ここまで、異性に対して全くといっていいほど興味なかったようだ。


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