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今年も 「道州制はデカすぎる」 で論陣を張ります。近畿地方。場合によって、三重県や福井県・鳥取県・徳島県を含めたり含めなかったりするので、「近畿」 は基本的には 「2府4県」 だが最大では 「2府8県」 扱いもある、という Wikipedia 解説にうならされた。コラム子の府県合併案 (『日本の本領(そこぢから)』の241~277頁) では、以下のように2府2県を提案している。大阪府 = 現状のまま。京都府 = いまの京都府+滋賀県+福井県の西半分(嶺南地方)。兵庫県 = いまの兵庫県+徳島県。南畿県 = 奈良県+和歌山県+三重県のうち紀伊国(きいのくに)・伊賀国(いがのくに)に属する地域。県庁所在地は奈良市とする。1月3日の 『産経新聞』 1面左肩コラムで加地信行(かじ・のぶゆき)さんが書いていた。見出しは 「すんなり進まぬ近畿州議論」。≪いよいよ今年は道州制の議論が浮上してくる。しかし近畿州だけはすんなりと話が進まず、もめることであろう。≫≪近畿州は京・阪・神と並んでいて、どこがトップと決められない。≫このあと、やわらかく女性論議にもっていくあたりが、さすが大人(たいじん)の加地さんである。≪例えば、女性代表自慢。京都と言えば舞妓(まいこ)・芸妓(げいこ)。神戸ならば広く考えて宝塚スター、タカラジェンヌだ。大阪はどやねん。そんなもん、決まってる。だれや。天童よしみや。負けてられるかい。なんなら大阪のオバチャンもおるで。3都それぞれが自信を持っているだけに、行政・経済・文化・大学とどれを取っても互いに譲らないであろう。≫このあと、3都の経済や生活スタイルの違いに触れておられる。なるほど、ここまでそれぞれの都ぶりを競っているものを、近畿州と ひとくくりにするのは無粋かつ現実的でない。加地さんの締めは、≪京・阪・神3市は州から独立し、それぞれ個別独立する特別市という制度を求め、その線の単立で行くほかあるまい。そして近畿州の中心トップは奈良市ということになるだろう。≫加地さんの論によれば、奈良市にある近畿州の役所が舞鶴市や姫路市まで管轄し、そのあいだに京都特別市や神戸特別市が挟まるということになって、現実的ではない。しかし、「近畿は4都」 には賛成。まさにコラム子の説く、新大阪府、新京都府、新兵庫県、南畿県の2府2県が落としどころということだ。
Jan 6, 2009
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さいきん勤務先の若い人たちのメールに 「御座います」 という文字遣いが増えている。わたしの感覚だと、業務上のメールや文書に 「御座います」 などという文字遣いはありえない。呑み屋の女将(おかみ)が「近ごろは御来駕いただけずお淋しゅう御座います」と書いたりするのに使うものではないか。手書きの時代に、筆画の多さをものともせず 「御座います」 などと書くのは手間をいとわぬ水商売の意気があればこそ。そもそも社内に、まどろっこしい 「ございます」 調の文章は、まずなかった。ところが、パソコンだと漢字変換で簡単に 「御座います」 が出る。世間ではあまり使われない文字遣いなのだが、そもそも読書量が少なく、手書きの文章修行もしていない若いひとは、漢字変換機能を先生にしてしまう。年長者が言ってやらないと分からないだろう。お触れ書きを部の全員にメールした。世間さまのお役にも立つかと思うので、ほぼそのままご紹介しよう。≪最近、一部の人たちのメール表現等で気になる点があります。以下の2点に折々留意いただければと思います。いずれも、パソコン使用に伴って漢字変換をしすぎる例です。当部では、経伺書類等で日本語の文章の書き方も大切なので、あえて指摘させていただきます。1. 「御座います」 「御座居ます」「明日の夕食会の場所は xxxxx で御座います」「有難う御座います」のような例を最近 とくに若い人たちのメールでよく見ますが、手書きなら 「御座います」 とはまず書かないことでしょう。「明日の夕食会の場所は xxxxx です」「ありがとうございます」が、自然です。社内業務で、丁寧なほうがいいと思って 「御座います」 を使うのは逆効果です。 バカ丁寧は、失礼なことさえあります。(「御座います」 などという文字表現は、飲み屋の女将(おかみ)が来店催促の手紙に使うようなものだと、あえて付言しておきましょう。)2. 「xxxで有る」 「xxxx大きく無い」「Aさんは肉を食べ無い」「集合場所は渋谷で有る」と書いてあったら、おかしな感じがするでしょう。「食べない」 「渋谷である」 と書きますね。ところが、最近以下のような例が経伺書類等に散見します:「融資組成が好調で無い時期には」「事業収益額は大きく無い」「事業収益は xxx 億円で有る」ついつい漢字変換してしまったのでしょうが、このような不自然な漢字の使い方は、かえって文章を読みにくくします。「融資組成が好調でない時期には」「事業収益額は大きくない」「事業収益は xxx 億円である」と書いてあるほうが、目がつっかえずに、すっと読めるでしょう。総じていえば、「ある」 「ない」 は、すべて ひらがなで書いておくのが無難です。漢字変換しても字数は減らないし、読みにくくなるだけです。とくに 「~である」 や 否定の助動詞の 「ない」 は、漢字で書くのは間違いです。(「そういうことも有りうる」 「連絡がなかなか無い」 のように、漢字で書いたほうが読みやすい場合もあります。それは、 「ある」 「ない」 が独立した動詞・形容詞として機能しているときです。)以上、参考にしてください。≫いまの若い人たち、よく頑張っている。その姿を見ているから、わたしは日本の将来に対してまったく悲観的でない。パソコンとメールの時代になって、若い人たちの雑用が減り、実務量が飛躍的に増えた。日々鍛えられていく様子は、見ていて頼もしい。ただしその一方で、わたしが入社したてのころのように、書く文章すべて真っ赤になるまで添削されて文章修行をするということが、いまの若い人たちには無い。だから、ときどきは愛想ならぬ老婆心をふりまくことも必要だ。*ふと思い立ってグーグル検索をしてみた。世間では 「ありがとうございます」 をどう書いているのか。ありがとうございます 67,500,000件有難うございます 5,680,000件有難う御座います 2,240,000件有り難うございます 1,760,000件ありがとう御座います 928,000件有り難う御座います 678,000件有難う御座居ます 57,600件有り難う御座居ます 8,430件ありがとう御座居ます 4,360件「有難う御座います」 「ありがとう御座います」 が大健闘しているのにはビックリである。こういう文字遣いの傾向は年ごとに変化していくと思うので、このようなグーグル検索結果を定期的に行った結果が残っておれば、国語史を書くうえでも有益だろう。
Feb 3, 2009
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こう言っちゃ何だけど、ミュージカルでとびきり感動するのって、セックスと同じなんだ。ミュージカルのいいところでコンビニ袋をがさがさやられるのって、セックスでいきそうなときに電話が鳴るようなものさ。……という比喩を温めてきたのだけど、これがまんざら間違いでないことがわかった。≪カナダのマギル大学のザトーレ教授は、お気に入りの曲を聴いて背筋がゾクゾクする快感(いわゆる「鳥肌が立つ」感覚)をおぼえるときの脳の活動を、PET(癌検診にも使われる装置)を用いて捉えることに成功しました。驚いたことに、音楽を聴いてゾクゾクするときに働く脳部位は、食事や、非合法ドラッグの摂取、性的な刺激によって快感を感じるときに働く部位と同じだったのです。≫ (231頁)「ミス・サイゴン」 のような名作になると、ミュージカル・ナンバーの前奏が流れ出しただけでからだじゅうが感動モードになってしまうのだが、この説明もこの本にあった。≪私たち人間には、音楽による感動という “ご褒美” をあらかじめ予測してドーパミンを出す脳部位 (尾状核) と、感動することによってドーパミンを出す脳部位 (側坐核) の2つがあると言えます。……直前に 「来るぞ来るぞ」 と思って期待する脳の働きと、その後、「来た!」 と感動する脳の働きのそれぞれで、脳がご褒美を得られるわけです。サビやクライマックスの直前で、少しテンポを遅くするピアニストがいますが、これは、聴き手が感動を予測することで得られるご褒美を増やそうとしていると言えるかもしれません。≫『ピアニストの脳を科学する ― 超絶技巧のメカニズム』 古屋晋一 著 (春秋社、平成24年刊)名演奏の情感には、テンポのゆらぎが関わっているのだという。まったく楽譜どおりの機械的な演奏 (= ゆらぎゼロ) から、優れたピアニストが弾いたとおりのゆらぎがある演奏まで、ゆらぎの程度の違う演奏を5つ用意して、多くのひとに聴かせて 「どのくらい情感豊かな音楽に聞こえるか」 点数をつけさせた。≪その結果、ゆらぎの量が減るにつれて、聴き手は、演奏の情感が乏しく機械的だと感じることがわかりました。つまり、ピアニストが演奏に込めた表現は、決して独りよがりなものでも無意味でもなく、聴き手の心にちゃんと届いているのです。≫ (221頁)本書の前半では、ピアニストが練習して体得する能力が脳のどの部位に反映しているのかを語ってくれる。巻末の参考文献リストを見ても、ほとんどが英語書きのもの。日本の読者にとってユニークな本である所以である。
Mar 20, 2013
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美樂舎マイ・コレクション展で、わたしは台湾の Natako Oo さんの作品を展示している。展示した2作品のうちの1つは、アートファンなら一目見て分るとおり、会田 誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」シリーズが影響している。剽窃でもパロディーでもなく、Natako Oo作品は会田誠作品を消化し、写真コラージュの手法で昇華したものだ。ここにひとつの系譜があり、アート史の1頁が開かれたと、ぼくは思うね。展示会場には、会田誠作品を画集から縮小カラーコピーしたものを、Natako Ooさんの作品の下に <参考> と明記して貼りだした。展示の初日の午後になって、会田誠さんの所属画廊であるミヅマアートギャラリーの社員が会場に来訪し、カラーコピーを撤去するようにと伝えてきた。会場係がすぐに撤去してくれた。わたしに言わせれば、来訪者が会田誠作品と Natako Oo 作品を見比べることができるようにしたのは、現代アート史を語るためという立派な目的があったのだが、適法違法の微妙なところだから撤去はやむをえないと思った。かりにわたしが、画集の絵を次々に額装して壁に展示し、「会田誠作品展」と銘打った展覧会を行ったとしたら、これはもう完全な真っ黒け。文句なしにバツである。そういうケースと今回のマイコレ展のケースは明らかに異なる。しかし、率直に言って線引きはむずかしい。今回のケースはグレーなのである。* * *しかし、ここから先はミヅマアートギャラリーのほうが非常識だと思う。ミヅマの社員は、あろうことか展示の説明文にまでクレームをつけてきたのである。ミヅマアートギャラリーが問題にしたのは、このくだり:≪アートファンなら、会田誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」の3連作を思い出すはずです。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕事には驚くばかりです。そして、うつくしい。≫驚いたことにミヅマの社員曰く、「会田誠の名前に言及してはならない」。仕方がないから会場係が、Natako Oo 作品の展示説明文も撤去した。勤務先まで急報があり、わたしは勤務を終えたあと会場へ行って、以下のような文章に改めて壁に貼り付けた:≪アートファンなら知っている、ある有名な問題作。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕上げにはドキリとさせられます。Kawaii装飾に彩られた、美しくも目くるめく世界です。≫説明文としてはよくなった。ミヅマちゃん、ありがとう!しかし、である。「会田誠の名前を出すな」とは、いったいどういうことなのだろう。アーティストの名前に言及するためにいちいち所属画廊の許可が必要なのであれば、およそアート史を書くことはできない。ミヅマアートギャラリーの非常識には驚いた。劇評で石原さとみや笹本玲奈について書くために、いちいちホリプロの了解が必要か? みたいな話だ。今回のケースでは百歩譲って、会田誠さんについて「言及がないとはけしからん」と言われるのなら、まだ分る。(その場合だって、会田誠に言及するかどうかは、あくまでわたしの裁量の範囲だと思うがね。)「会田誠の名前を出すな」というくらいなら、この際、会田誠さんの名前を廃止してはどうか。案外、会田さんは「名無しもいいね」とゲラゲラ笑ってオーケーするかもしれないね。【蛇足】 展示会場に来たミヅマアートギャラリー社員を名乗るひとは、会社を代表して掲示物撤去を要求しながら名刺は出さなかったという。社会人として、非常識。ミヅマアートギャラリーは、社員教育からやり直したほうがよいのかもしれない。【続・蛇足】ミヅマアートギャラリー代表の三潴末雄(みづま・すえお)さんが、平成26年8月19日の午前11時ごろに、わたしのFacebook上に以下のようなコメントを書き込んだ。≪会田誠の表面のイメージをパクった醜悪なものだ。作品とは呼べない。会田誠にはきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。≫≪会田誠の作品イメージを勝手に参考資料として、展示しているが、即刻辞めて欲しい。迷惑な話だ!≫三潴さんが書いた「作品とは呼べない」といった内容は わたしには罵詈雑言に思えるが、アート界でご自身が育てたと自負されているであろう会田誠さんへの父親のような愛情が、三潴さんをして我を忘れさせたのかもしれない。Natako Oo 作品は会田誠作品と以下の点で決定的に異なり、パクりではない。そこがすごいところ。Natako Oo 「少女恋物 #01」 (平成25年)(1) 会田誠作品「犬 雪月花」連作の少女が犬への連想を喚起することを強く意図している。それに対し、Natako Oo 作品「少女恋物」連作は犬を連想させない。むしろ犬を連想させては邪魔になるから、会田誠連作に存在する首輪を Natako Oo 作品はあえてつけていない。(2) 会田誠作品「犬 雪月花」連作が雪月花というモチーフによっているのに対して、Natako Oo作品「少女恋物」連作は医療行為がモチーフになっている。それによって、会田誠作品が描く少女たちの手術前はどうだったろうね? という問いかけにもなっている。会田誠作品「犬 雪月花」は社会的波紋を呼んだ作品であり、それに対するひとつの批評を提供しているという意味で、Natako Oo作品はきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。こういうのを、換骨奪胎というのである。三潴さんご本人が後で否定しないように PC 上で三潴さんの書き込みを撮影した。(なお、17 saat once とあるのは「17時間前」ということ。わたしのFacebookは言語設定がトルコ語になっているので、「いいね」もBegenとなっている。三潴さんの名が Mizuma Sueo とローマ字書きになっているのもそのため。)【8/21 夜、追記】ここ数日、ブログへのアクセスが急増している。8/18 757 (実力値)8/19 4,100 (えらく増えた)8/20 16,981 (こんなこと初めて)8/21 22,894 (23:20現在)「ミヅマアートギャラリー」を風呂に入る前にGoogle検索したら、このブログが検索ヒットの2件目に来た。Wikipedia も抜くとは、ビックリ:ところが風呂から出てみると順位が下がっていた。あれ…? 順位は刻々と入れ替わるようだ:
Aug 19, 2014
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西部劇のポスター展に行ってきた。昭和45年作品の 「ソルジャー・ブルー」 という映画のポスターが、こころを溶かすほど すばらしい。これに比べると他のポスターが皆、坊やの遊びに見えてくる。京橋三丁目の東京国立近代美術館フィルムセンター7階展示室。「ポスターでみる映画史 Part 1: 西部劇(ウェスタン)の世界」西部劇映画というのは大昔からあるのかと思っていたら、たくさん作られるのは第二次世界大戦後のこと。ただしジョン・ウェインの有名な 「駅馬車」 は昭和14年作品で、日本でも昭和15年に公開されている。真珠湾攻撃の前年だ。ポスターを見ながら、ゲイリー・クーパーの 「真昼の決闘」 がまた見たくなった。金曜洋画劇場だったか、中学生ごろに2度観たきり。そして、Soldier Blue である。このポスターには打ちのめされた。ただただ、ため息。「ソルジャー・ブルー」 (昭和45年作品) ポスター後ろ手に太縄で縛られて坐るオールヌードの女性は、赤い羽根飾りをつけた後ろ姿。なんという美しさだろう。「盗まれるポスター」 の筆頭とされそうだが、化粧品のポスターと異なり街中に貼られることがなくて、そういう評判にならなかったのか。このポスターのオリジナル版が売りに出たら、10万円でも買いたい。展示説明によれば≪先住民について劇中でディスカッションを繰り広げるとともに、女性や子供も多数犠牲になった1864年の「サンド・クリークの虐殺」を正面から扱い、西部劇における先住民観を決定的に変えた作品≫とある。昭和30年代後半には、日本でも西部劇もどきが作られていた。宍戸 錠さん主演の 「早射(はやう)ち野郎」 など、舞台が日本なのになぜかカウボーイハットをかぶって登場だから、今から見れば悪趣味なパロディーでしかないけれど、たのしい映画なんだろうな。「ポスターでみる映画史 Part 1: 西部劇(ウェスタン)の世界」 展は、3月31日まで開催。月曜日はお休みです。
Jan 22, 2013
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人工知能が2040年に中国でしでかす「あること」について本を書く準備をしています。(小説という形式になるでしょうね。) 「ハーバード・ビジネス・レビュー」誌の小論文を掲載した本書から若干抜き書きしておきます。『人工知能 機械といかに向き合うか』(ダイヤモンド社、平成28年刊)≪上級の辯護士は法律を熟知しているが、法律のあらゆる細かい点を探求する専門家であることは稀である。彼らは労力の大半を新規案件の獲得――昇進に直結する実績と見なされることが多い――に傾けており、クライアントの懸命な相談相手として振る舞う。もし機械が法律文書を読み取って行動や議論の方向性を示すことができれば、彼らがそれ以外の仕事に向けられる余力は増えるだろう。このことは、その他の専門職、たとえば上級の会計士、建築士、投資銀行家、コンサルタントにも当てはまる。≫ (23頁) なんとまぁ、パートナークラスの辯護士の目下の主業務は “営業活動” かよ、とまずビックリです。≪(ある財務アドバイザーの言)台本を読むだけならばもちろんコンピューターにもできますが、クライアントを説得して投資額を増やしてもらうには、それ以上のスキルが必要です。現にわたしは株式仲買人というより精神科医のような役割を果たすこともしばしばあります。≫ (34頁)≪人間は前例のない状況でも、普通には利かないアナロジーを利かせ、見立てていく。1回や2回の経験からも即座に気づき、学ぶ、これは生命にとってのある種のサバイバルスキルといえる。≫ (52頁)≪AIは問いを投げかける力を持たない。人間の知性の源といえる「複数の視点から本質的なポイントを見つける」「コンテキストに合わせた現象の総合的な理解とその意味合い出し」というような広く深いパターン認識も期待するのは困難だ。」 (52~53頁) そうとも言えないんじゃないの? 人間だって、けっきょくは「あてずっぽ」「下手な鉄砲」の積み重ねでやってるだろう。≪これまでは人間の手で現実世界の森羅万象の中から変数を取り出し、それをコンピューターに与えていた。たとえば、ビールの売上と気温の関係を重回帰分析するとしよう。このときは気温が変数だが、気温ではなく湿度や曜日を変数に置くことも考えられ、何を変数に定めるかは個人の判断で変わる。人間の勘と経験に依存していたともいえる。機械学習ではこうした変数を「特徴量」と呼ぶ。特徴量に何を選ぶかで予測、分類、回帰、分析の精度は大きく変化する。人間のばあい、同じ作業を何度も繰り返すなかで適切な特徴量を決めるコツをつかむ。同様の作業を視覚でもやっており、子供のころから目の前に何があるかを理解するためにさまざまな特徴量を無意識のうちに導き出している。従来のコンピューターは、何が特徴量かを自発的に構成することができなかった。これが機械学習における最大の問題であったと言っても過言ではない。そうしたなか、2012年にカナダのトロント大学が開発した Super Vision が大きな衝撃を与えた。データをもとにコンピューターがみずから特徴量を作り出す機械学習の方法であり「表現学習」の1つとされる「深層学習」(ディープラーニング)によって、驚異的な画像認識の精度を実現したのだ。AI の研究が始まってから約50年刊、コンピューターが自動的に特徴量を探し出せることなど想像もされていなかった。それをディープラーニングが可能にしたことで、「人間の知性はコンピューターで再現できる」という当初の仮説の証明に向けて大きな前進を迎えた。≫ (108~109頁) コンピューターに、特徴量の候補をそれこそ“やみくもに”列挙させ、それぞれを試しに特徴量と置いて“下手な鉄砲”よろしく分析させ、その分析結果を比較させてはどうだろう。 そうすれば、実態にもっとも適合する結果を生む特徴量を選択させることができるのではないだろうか。 コンピューターに“決め打ち”を期待してはいけない。 ムダな作業を厭わないことがコンピューターの取柄なのだから、人間ならやらないようなムダをさんざん繰り返させればよい。≪デジタルの進歩の多くがGDPに勘定されない。たとえばウィキペディアは、昔ながらの『ブリタニカ百科事典』とは違って無料です。つまり、はるかに多くの人々に付加価値をもたらしても、GDPの数値には含まれない。≫ (206頁) であれば、Gross Domestic Product に替えて Gross Domestic Convenience のような概念を打ち出してはどうかな。≪初等・中等教育では、適切で有益なスキルを教えなければなりません。つまり、コンピューターが得意としないもの――創造性、対人スキル、問題解決などです。≫ (211頁) そう、けっきょく人間に残るのは「対人スキル」なのだと思う。 ぼくは、自分が対人スキルにおいて からきしダメなのか ほどほどなのか、じつはよくわからない。
Nov 23, 2016
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