Horse Rainbow 07


Horse Rainbow Vol.07 
「Forever Rice Shower~Last Stayer Story~」



よしきが、テンポイント・マンハッタンカフェと並んで、大好きな馬がいます。
その馬の名前は、ライスシャワー。
そう、京都の3000m以上のレースでは、無類の強さを誇った関東馬。
今回は、その物語を紹介しましょう。
(この物語は、当時の雰囲気を思い出すため、わざと数え年表記にしてます。)


平成4年春、第60回日本ダービー(GⅠ:芝2400m 東京競馬場)
圧倒的な1番人気のミホノブルボンが、予想通り圧倒的な強さで優勝し、無敗のダービー馬(皐月賞も勝っていたので二冠馬)が誕生した。
普通は、1番人気が勝つと配当は低いのだが、この時の馬番連勝の配当は29580円。
2着に飛び込んで来たのが18頭中16番人気のライスシャワーであった為の、高配当だった。
多くの競馬ファンは、この時のライスシャワーの健闘をフロックと言った・・・。

夏場の休養(夏場は暑さに弱い馬のために、有力馬は休養する事が多い)を挟んで、秋になったが、ライスシャワーの好走は続きます。
セントライト記念2着の後、京都新聞杯で宿敵ミホノブルボンと対決。
またしても、2着に破れはしたものの、もはや誰もそれをフロックとは呼ばなくなり、
黒い小さな馬は、ミホノブルボンに次ぐ実力馬として、多くのファンに認められ始めたのである。

ここで、ミホノブルボンについて少々・・・。
無敵の強さを誇るミホノブルボンは、決して良血馬では無かった。
数千万円は当たり前、1億円を超える事も珍しく無い競走馬の中で、購入価格は約700万円
競走馬の価格は、馬格以上に血統が物を言う事を考え合わせれば、購入された時のミホノブルボンは、
まさに「どこの馬の骨・・・」と言っても良いくらいのものだったのだ。
その馬を、戸山調教師が鍛えに鍛えに鍛え上げた。
(ミホノブルボンの話をする時に、亡き戸山調教師を思い出す競馬ファンも多い・・・)
この調教師は、高価な馬には見向きもせずに、マイナーな血統の安い馬を入厩させては、「鍛えて最強馬を作る」を座右の銘に、馬を徹底的に鍛えまくる。
そして、それは厩舎に所属する厩務員にも徹底されていた。
その為に潰れた馬も数知れず、ミホノブルボンの担当になった厩務員も、理論的には判っていても失敗続きで、
他厩舎はもちろん、仲間内からも非難を浴びて、自信を失い、担当馬に
「お前も運が悪いな、俺に当たったばっかりに・・・」
と心の中でつぶやいたと言う。
ミホノブルボンにもハードトレーニングが始まった。
普通1日3回やれば多いと言われている坂路での調教を5回やる。
5回目になれば、馬も疲れから嫌がる。
すると「ぶっ叩いても上らせろ!!」と戸山師からの激が飛ぶ。
潰れた馬の事を考えれば、それは動物虐待なのかも知れない。
しかし、速く走る事でしか生き延びるすべのない競走馬にとって、それは生きる事を賭けた
戦いでなのである。そこには、甘えや妥協と言ったものは一切存在しない。
それを知っていればこそ、鍛えまくる「速く走れ・・・」と。
馬に関わる多くの人は、馬が好きだからこそ、その仕事を選ぶ。
嫌いで続けられるほど、甘い仕事では無い。
そして、自分の関わった馬に対する思い入れは、動物愛護を叫ぶだけの部外者などに、窺い知れるものでは無い。
ミホノブルボンは、そのトレーニングを耐えぬいた。
そして、デビューする頃には、筋骨隆々に成長し、快進撃を続けた。
それは怪物と呼ぶに相応しいほどに・・・。

話を戻しましょう。
運命を迎えた、第53回菊花賞(GⅠ・3000m 京都競馬場)
京都競馬場には、無敗の三冠馬(皐月賞・ダービー・菊花賞)の誕生を見ようと、大勢の観衆が詰めかけていた・・・。
ライスシャワーに騎乗した的場騎手は、相手をミホノブルボン一頭に絞っていた。
そして、ミホノブルボンに騎乗した小島貞騎手も、京都新聞杯の結果から、
もし負ける事があるとすれば、ライスシャワーにであろう事を予感していた。
その微妙な精神状態がレースで表れる。
レース前から逃げ宣言をしていたキョウエイボーガンに、逃げ馬であるミホノブルボンは、
挑んで逃げるべきか、控えて進むべきか、悩んだ末に小島騎手は、控える事を選択した。
そこには、距離への不安と共に、ライスシャワーの存在が大きく影響していた事は否めない。
スタートして正面スタンド前を通過する時に、宣言通りキョウエイボーガンが逃げ、
それを掛かりながらミホノブルボンが追走している事を、オーロラビジョンで確認できるほどライスシャワーに騎乗していた的場騎手は落ちついていた。
レースは坦々としたペースで進み、4コーナー手前で、満を持してミホノブルボンがキョウエイボーガンを交わして先頭に立つ。
それと同時に、ライスシャワー、マチカネタンホイザも加速して行く。
その差2馬身。そして、最後の直線へ・・・。
歓声が一気にヒートアップする。
残り300m、ミホノブルボンは後続を振り切ろうと必死に走るが、負けじと外からはライスシャワー、内からマチカネタンホイザが追いすがる。
ライスシャワーは残り150mでミホノブルボンに馬体を併せ、さらに加速する。

「あーライスシャワー先頭に立った、ミホノブルボンは3冠にならず。
ライスシャワーです。ライスシャワーです!
あーっという悲鳴に変わりましたゴール前・・・」

ミホノブルボンの三冠を阻み、レコードタイムでの、ライスシャワーの完勝であった。
的場騎手は、レース後のインタビューで
「ミホノブルボンの三冠を阻止した事よりも、ライスシャワーにクラシックの一つをプレゼント出来た事が何よりも嬉しい」
と語った。
そう、このレースはミホノブルボンと言う一頭のヒーローを生み出すために
用意された舞台ではない。
出走した全ての馬に勝つ権利が与えられたレースなのである。
しかし、京都競馬場には一種異様な空気が流れ、世間の反応も冷ややかだった。
ライスシャワーが勝った菊花賞ではなく、ミホノブルボンの勝てなかった菊花賞・・・。
シンボリルドルフ以来の、無敗の三冠馬の誕生を一頭の邪魔な馬が阻止してしまった菊花賞として、
多くの競馬ファンの人の心に残る事になってしまっていた。

負けたミホノブルボンに騎乗していた小島貞騎手は、敗戦の苦さを噛み締めていた・・・。
「もし、控えずに強引に逃げていたら・・・」
競馬世界に、いや勝負の世界に「もし・・・」と言う言葉は禁句と解っていても、考えたくなる瞬間だと思う。
その後、ミホノブルボンは屈腱炎を発症し、二度とターフに戻る事無く引退して種牡馬となった。
生涯戦績は、8戦7勝、2着1回。

ライスシャワーは冬場の間、有馬記念(GⅠ)こそ8着と惨敗したものの、
目黒記念(GⅡ)2着、日経賞(GⅡ)1着とGⅠ馬の名に恥じない戦いを続けた。
そして、春の天皇賞(GⅠ・3200m 京都競馬場)に向け、周囲も盛りあがってきていた。
最強のステイヤーの名を欲しいままにし、王者として君臨するメジロマックイーンか、
菊花賞をレコードタイムで快勝した若きライスシャワーか・・・。
勝負は、この2頭に絞られるであろう事を、誰もが感じていた。
メジロマックイーン・・・祖父・メジロアサマ、父・メジロティターンは共に天皇賞を制し、
自らも昨年・一昨年と春の天皇賞を連覇し、親子3代による天皇賞制覇をした事でも知られる長距離血統の馬である。
そして、今回は春の天皇賞3連覇(史上初)の大記録を狙い、その力に、衰えは感じられ無い。
騎乗する武豊にも、春の天皇賞五連覇と言う大記録がかかっている。
ライスシャワーに騎乗する的場騎手は、まだデビューしたての頃のメジロマックイーンを見て「いい馬だ!」と絶賛していたと言う。
だからこそ、今はライスシャワーと共にメジロマックイーンに挑戦したいと・・・。
相手が強ければ強いほど闘志が沸く・・・。それは、勝負師の性なのかも知れない。
王者と詠われるほどのメジロマックイーンの強さは半端ではない。
それに勝つ為には、ミホノブルボンと同様、鍛えて強くするしかない・・・。
これは、ライスシャワー陣営の一致した意見だった。
小さなライスシャワーに、過酷とも思えるトレーニングが始まった。
関係者の誰もが「可哀想だ」と思える時もあったと言う。
それでも心を鬼にして、敢えて厳しいトレーニングを行なった。
そこには、今のライスシャワーなら、その試練にも耐えてくれるだろう・・・という強い期待があった。


そして迎えた、第107回天皇賞(春)の当日。
ライスシャワーの馬体重は、前走時に比べて-12kgまで落ちこみ、今までのレースの最低体重まで減っていた。
しかし、物凄い気合・・・闘争本能の固まりのように、馬の目つきが、まるで違っていた。

ゲートが開いて、レースがスタートした。
前半は、出走馬の中でたった一頭の逃げ馬だったメジロパーマーのスローペースによる淡々とした流れの中、
メジロマックイーンは4番手、ライスシャワーはそれを見るように5・6番手で、レースは進んで行いった。
レース終盤、メジロマックイーンがトップを走るメジロパーマーを捉えに行く・・・。
それに反応するかのように、ライスシャワーも差を詰めにかかる。
最終コーナーの出口で、メジロマックイーンが僅かに先頭にたった。
内にメジロパーマーが粘る。外からライスシャワーが追う。
この3頭が完全に抜け出した。残りは直線の400m・・・。
各騎手が必死に鞭を振るう。

この時の実況放送を、私は忘れる事は無いだろう・・・。
「ライスシャワーかわした、ライスシャワーかわしたか、もう一度マックイーン。 今年だけ、もう一度”頑張れ”マックイーン。しかしライスシャワーだ・・・」

多くの人が望んでいたのは、メジロマックイーンの勝利による記録の達成・・・。
ライスシャワーは、この時も完全に悪役だった・・・。
しかし、望まれなくても、それはライスシャワーにとって、またしてもレコードタイムを叩き出したかけがえの無い勝利であり、栄光の瞬間であった。
鞍上の的場騎手は、レースを終えたライスシャワーの首筋を優しく撫でていた。
今までの頑張りをたたえるかの様に、万感の思いを込めて・・・。

このレース以後、ライスシャワーは「刺客」または「マーク屋」と呼ばれるようになった。
これは決して、誉めるために使われる言葉では無い・・・。
ミホノブルボンの毛色は、輝くような栗毛(金色)。メジロマックイーンは葦毛(白)。
しかも2頭とも、実績はもとより馬体も雄大で、ヒーローと言うに相応しかった。
それに引替え、ライスシャワーは黒鹿毛(黒)で、馬体も小柄と今一つ冴えない。
そんなライスシャワーがヒーロー2頭を打ち倒してしまった事が、悪役としてのイメージを定着させてしまったようだ。
悪役は、たとえヒーローに勝ったからと言って、ヒーロー以上に評価される事は無い・・・。

また、主戦騎手として鞍上にいた的場騎手も、派手なイメージは無く、今一つパッとしない。
騎手の多くは、大レースに勝った時には、ガッツポーズなどのパフォーマンスをする場合が
多いのであるが、的場騎手は決してしない。馬の首筋を撫でるだけなのである。
的場騎手は言う。
「勝ったのは馬であって、僕ではない。レース後に自分で完璧に乗れたと思うレースなんて、滅多にある事じゃないし、
もし、完璧に乗って勝てたとしても、それは馬にそれだけの能力があったと言うだけの事。
それに、馬を仕上げて下さった方の苦労を考えれば、そんな事は、僕には決して出来ない・・・」


春の天皇賞を勝った後、ライスシャワーはその疲れを癒すべく、休養に入り(放牧されて)夏を越えた。
夏が終わり、秋になってライスシャワーは競馬場に戻ってきた。
最強馬と言われていたメジロマックイーンに、春の天皇賞で快勝したライスシャワーは、秋のGⅠ戦線の主役になると思われたが、結果は惨憺たるものだった。
緒戦のオールカマー(GⅢ)3着、秋の天皇賞(GⅠ)6着、ジャパンカップ(GⅠ)14着、有馬記念(GⅠ)8着と惨敗を繰り返す。
これと言って、体調が悪いと言う訳では無い。
闘争心が消えたように、ここ一番の踏ん張りが効かない・・・。
メジロマックイーンとの死闘は、ライスシャワーには大きな精神的な痛手だったのかも知れない。
それは、あのレースで全てを燃やし尽くしてしまったのように・・・。
関係者は、調教法を変えるなど、闘争心を取り戻させようとする必死の努力をするも、ライスシャワーの闘争心は戻っては来ないまま、その年は暮れていった。
そこには、菊花賞・春の天皇賞馬としての面影は見られなかった・・・。
「ライスシャワーは一発屋だったんだよ。もう終わりだね」そんな言葉が囁かれはじめていた。

年が明け、京都記念(GⅡ)は、良い所なく5着に沈んでしまったが、続く日経賞(GⅡ)ではかつての闘争心が戻って来たかのように好走。
惜しくも、ステージチャンプに鼻差で破れたものの、これまでの凡走と違う手応えが返ってきた事に、春のGⅠ戦線への期待が膨らんだ。
目標は、もちろん「春の天皇賞連覇」である。
しかし、思いもよらない事故が起こった。
ライスシャワーが調教中、軽いキャンターをした時に右前足を骨折してしまったのだ。
幸い、命に関わる事は無かったが、長期休養を余儀なくされた。
馬は痛みには敏感なので、骨折の痛みに耐えられず、暴れたために怪我を悪化させて、命を落とす馬もいる。
しかし、ライスシャワーは必死にその痛みに耐えていた。
それが自らの為だという事を知っているかのように・・・。

この時に、周囲はライスシャワーの引退を心のどこかで考えていた。
一命はとりとめたものの、あれだけの骨折では競走馬として復帰する事は難しい。
しかも、ライスシャワーはもう6歳。引退してもおかしくない歳でなのである。
「今まで良く走ってくれた。これからはGⅠ2勝の実績を持つ種牡馬として活躍して欲しい・・・」
しかし、世間の風は厳しかった。輸入種牡馬が多数入ってくる時代、国産場は余程の成績を残していなければ、種牡馬になる事は難しい。
加えて、GⅠ2勝と言っても、両レース共に3000メートル以上の長距離戦である。
現在の日本の競馬界は短・中距離が主流になっていて後に「高速ステイヤー」「最強のステイヤー」と評されるライスシャワーでは、
この時代に種牡馬になって活躍する事は、難しかったのである。
もし、一昔前の長距離全盛時代に生まれていれば、違った評価が与えられたのかも知れないが、
これが現在のステイヤー(長距離馬)に対する競馬界の評価であった。
実力が正当に評価されない・・・。掴み取った栄光さえも、欠点のように評価される・・・。
あまりの理不尽さに、関係者は唇を噛みしめていた。
種牡馬としての道が閉ざされている以上、ケガの回復を待って、再度走る事だけが
ライスシャワーに残されてた唯一の道であった・・・。


ライスシャワーのケガは、関係者の努力により思いのほか順調に回復にむかい、その年の最終レースである有馬記念(GⅠ)に出走が可能な状態になっていた。
この年は、4歳馬は質が非常に高かった。
いや、4歳馬と言うよりも、2頭の4歳馬と言った方が良いのかも知れない。
一頭は、ナリタブライアン。クラシック三冠をはじめ、重賞を6勝。
あらゆる距離を圧勝し、日本史上最強ではないかと言えるほどの実力を持っていた。
もう一頭は、ヒシアマゾン。外国産馬であるためクラシックには出走できなかったが、
11戦8勝、2着3回と一度も連対を外す事はなく、GⅠ2勝を含む重賞7勝。
それまでの牝馬の記録を尽く塗替え、女傑と称されていた。
有馬記念も、当然の事ながら、ナリタブライアンが1番人気。
そのような中、ケガにより長期休養明けで、関係者さえも勝算を持てなかったライスシャワーが4番人気に推されていた。
理由は、古馬(5歳以上の馬)にナリタブライアンに勝てそうな馬が見当たらなかった事もあるが、
往年の激走を知っているファンの心の中に「ライスシャワーならもしかして・・・」と言う感覚が沸いていたのかも知れない。
レース終盤、最後の直線に入って、全馬一斉の叩き合いとなったが、やはり抜け出したのはナリブライアンで、徐々にその差を広げて行く。
その後に、ヒシアマゾンが続く。
その後方は、一団になっていたが、その内から小さな黒鹿毛の馬が抜け出してくる。
もはや、届かない事は明らかであったが、先頭の2頭をライスシャワーは必死に追かけていた。
結果、ライスシャワーは3着であったが、関係者はライスシャワーに闘志が戻ってきた事に、一条の光をみいだし、喜んだ・・・。

年が明け、ライシャワーは7歳になっていた。
この年の1月17日、戦後最大と言われる阪神大震災が京阪地区を襲った。
それにより、建物の崩落・馬場の亀裂等の大被害を受けた阪神競馬場では、当面の開催を断念し、京都競馬場での代替開催に変更になった。

有馬記念の好走から、京都記念(GⅡ)、日経賞(GⅡ)共に1番人気に推されたものの、共に6着と惨敗してしまう。
「小柄なこの馬に、この斤量はやはり厳しいな・・・。せめて58kg程度なら・・・」
競馬には、レースで馬が乗せる斤量を決定する方法として「定量」「別定」「ハンデ」などがある。
定量は年齢と性別によって、決まるのだが、その他はそれまでの実績や獲得賞金によって、斤量が決まるのである。
つまり、GⅠ2勝のライスシャワーは、定量戦か、自らと同等以上の実績の馬が出走するレース以外は、
常に重い斤量を背負って競馬をしなければならなかった。
他の馬も同条件とは言え、小柄な馬にとっては、想像以上の大きなハンデとなってしまう。

結局、勝って勢いをつける事が出来ないまま、ライスシャワーは春のGⅠ戦線を迎えてしまう。
そんなライスシャワーに「ナリタブライアンが股関節炎で天皇賞を回避する」と言う、思いがけない幸運が舞い込んだ。
ナリタブライアンさえ消えれば、後はそれほど突出した馬はおらず、どの馬が勝ってもおかしくないくらいに、実力は伯仲していた。
「まだこの馬には、運が残っていた・・・」
徐々にだが、調子も上向いてきている事も含めて、ライスシャワーに流れが向いてきていた。

第111回天皇賞(春)(GⅠ・3200m京都競馬場)
平成5年にメジロマックイーンと死闘を演じたレースから、2年の時が流れていた・・・
あの時に戦った15頭のうち、今年の淀のターフに立ったのは、ライスシャワーだけだった。
そのライスシャワーも、あの頃の猛々しいほどの気迫も、体力も今は衰えを見せはじめている。
しかし、ライスシャワーには、長距離戦での圧倒的な実績と豊富な経験がある。
「とにかく、ライスシャワーの競馬をしよう・・・」
レース前に鞍上の的場騎手は、そう心に期していた。
そう、今回は2年前のように挑む立場では無い。挑まれる立場なのだ。

ゲートが開いてレースが始まった。
レース中盤まで、ライスシャワーは先行集団で追走していた。
そのライスシャワーをマークするかのようにハギノリアルキングとステージチャンプが虎視眈々と追走している。
早く動き過ぎれば負ける。しかし、遅れを取れば差しきれない。仕掛け所が難しいレースだ。
全ての騎手の様々な思惑の中で、レースは進んで行く・・・。
京都競馬場の向う正面は、坂になっていて、この坂をゆっくり登って、ゆっくり下る事が、
勝つための鉄則とさえ言われているのだが、そこでライスシャワーが動いた。
向う正面中央付近で、ライスシャワーが行くそぶりを見せると、的場騎手もそれに答えた。
ライスシャワーが、するすると数頭を抜き去り、3コーナー入口で完全に先頭に立った。
場内から、驚きの歓声が一斉に上がった。
「早い、仕掛けが早過ぎる・・・。あれではゴールまで持たない・・・」誰もがそう思った。

それを見るように、他の各馬が仕掛けにかかる。標的は、もちろんライスシャワーだ。
ライスシャワーは先頭に立たされた訳ではない。自らの意思で先頭に立った。
「あそこで仕掛ければ、直線できつくなるのは分かっていました。でも、敢えて行ったんです。
2年前にメジロマックイーンに勝った時の状態であれば、決して3コーナー先頭に立つような事はしなかったでしょう。
でも、今回はあの時の状態とはまったく違った。普通の乗り方をしていたら勝てないと思ったんです。
この乗り方で負ければ、騎乗ミスと言われると思って乗ってましたが、僕は、何パーセントかの勝てる可能性に賭けたんです。
動かないで2着、3着になるよりも、大負けするかも知れないけれど、少しでも勝てる可能性の方を選んだんです。」
レース後、的場騎手はそう語った。

ライスシャワーは、首を低くして、さらにグングン加速を続け、後続を引き離しにかかる。
最終コーナーを廻った時、後続との差は3馬身に開いていた。残りは400m・・・。
「俺が王者だ。来るなら来てみろ。絶対に抜かさせるものか!!」
そんな気迫がライスシャワーに漲っているように見えた。

残り200m。ステージチャンプとハギノリアルキングが末脚を伸ばして、
猛烈な追い込みをかける。
的場騎手も、ライスシャワーに鞭を入れ、必死に馬を追う。
残り100m。しかし、ここで急激にライスシャワーの脚色が悪くなった。
馬は、体力の限界がくると、一気にスピードが落ちるのだ。
ステージチャンプが見る見る迫ってくる。
「長い・・・、まだゴールは来ないのか・・・」
僅か数秒が無限の長さのように感じられる・・・。
覚悟の上だったとは言え、想像以上の苦しさがライスシャワーと的場騎手を襲う。
あと数メートル。ステージチャンプの姿が、的場騎手の視界の中に入ってくる。
場内の歓声が一気に高まり、内外離れて馬体が重なった所がゴールだった。
「勝ったのか、負けたのか・・・? いや、勝ったはずだ・・・」
思わす的場騎手は、ステージチャンプの鞍上の蛯名騎手に目をやった。
蛯名騎手は自信ありげに、ガッツポーズを繰り返してる・・・。
「まさか・・・」
オーロラビジョンには、レースのリプレーがスローで再生されていた。
そこには、体力も精神力も使い果たし、ボロボロになりながらも、必死に走るライスシャワーが、
ステージチャンプよりも僅かに速くゴール板を通過する姿が映し出されていた・・・。
それは、ライスシャワーにとって、メジロマックイーンに勝った天皇賞以来、実に2年ぶりの勝利であった。
と同時に、3回目のGⅠ制覇による復活の瞬間でもあった・・・。
的場騎手は、ライスシャワーの首筋を、いつものように軽く優しく撫でた。

長かった・・・。2年前に頂点に立ち、そこから不振が続いた。骨折による絶望感も味わった。
あまりに惨めで長いトンネルは出口を迎え、関係者の懸命な努力は、再び、陽のあたる場所へとライスシャワーを導いた。
「まるでドラマのよう・・・。本当によくやった。ありがとう」
関係者の祝杯は、いつまでも続いていた・・・。


春の天皇賞での劇的な復活は、ファンの胸中にも大きな印象を残した。
それは、宝塚記念(GⅠ・2200m)の出走馬を選出するファン投票で第1位を獲得した事に現れ、
今まで、実力に人気が伴わず、常に敵役と呼ばれていたライスシャワーが、初めて主役として認められたと言う事でもあった。
しかし、それとは裏腹に、関係者の心境はむしろ複雑で、ライスシャワーには、
天皇賞での激走の疲れが残っていて、本来ならば使いたくない状態であった。
2年前にも宝塚記念の出走権を手に入れていたが、その時は疲れを理由に回避しており、
今回も出来れば、放牧に出して休養に入りたい所でもあるし、2200mと言う距離は、ライスシャワーにとっては短過ぎるのである。
ただ、この年の宝塚記念は「震災復興支援」と銘打つ、特別なレースなのである。
その特別なレースのファン投票で1位に選ばれた馬が、故障等の明らかな理由もなく、出走を回避する訳にはいかない・・・。

しかし、その反面で、今回のレースに限っては、多少の思惑もあった。
まず、開催地が震災の影響で例年の阪神競馬場ではなく、京都競馬場での開催となっていて、
GⅠ3勝の全てを京都競馬場で飾っているライスシャワーにとっては、得意のコースである事。
また、定量56kgの斤量で戦え事も魅力である。

天皇賞の劇的勝利も、ライスシャワーの種牡馬としての評価を、大幅に変えるまでには至らなかったものの、
人気が上がった事は確かで、引退後は種牡馬としてJRAが面倒を見ると言う話が持ちあがっていた。
しかし、単なる長距離馬と言うイメージでは、種牡馬としてのインパクトが少なく、良い繁殖牝馬への種付けが減ってしまう。
種牡馬としての、ライスシャワーの今後の事を考えれば、2000m台のGⅠと言うタイトルがどうしても欲しい所だ。
そして、ライスシャワーはもう7歳、あと何レース走れるのかも解からない。
もし休養して、一昨年のようになってしまっては、実も蓋も無いのである。
もしかしたら、このレースが最後になるのかもしれない・・・。

関係者は、宝塚記念への出走を決意した。
「疲れているのは解かっている。でも、もう少しだけ頑張ってくれ。今度は誰の為でもなく、自分自身の明るい未来を切り開く為に・・・」
疲れているであろうライスシャワーを、休ませてあげたいと思いつつも、休ませてあげられない関係者の、偽らざる気持であった。

GⅠのファンファーレが鳴りわたり、各馬がゲートイン。そしてスタート・・・。
「行きっぷりが悪いな~。やっぱり、この距離は短過ぎるのかな? あるいは作戦か~??」
画面は2段に分れ、メインが先頭集団を、サブが全体を映し出していた。
本来なら、先行集団の中にいるはずのライスシャワーが、中団のやや後方を追走して、レース終盤の3コーナー入口を迎えていた。
「おいおい、いくらなんでも、そろそろ行かないと届かないぞ・・・」
そう思った時に、ライスシャワーが前を捉えるために加速を始めた。
その途端に、ライスシャワーは後脚から崩れるように転倒した・・・。
「うわ。ライスが落馬!ライスは?大丈夫なの?」
画面は切り替わって、ゴール前での叩きあいをする馬を全面に映し出していた・・・。
しかし、どの馬が勝ったかなどは、どうでもよくなっていた・・・。

各馬がゴール板を駆け抜けた後に、3コーナーを過ぎた所にいたライスシャワーの姿が画面に映し出された。
立ちあがっていたライスシャワーの脚は、レースの為に巻かれていた緑色のバンテージが、血で赤く染まり、
その先には、白い骨が肉と皮を突き破って外に露出し、足首がブラブラとぶら下がっていた・・・。

「ダメだ、助からない・・・」
そう思った瞬間に、様々な事が脳裏をよぎり、涙が溢れてきて、視界がゆがんだ・・・。
競馬場に行かずに、一人、部屋で観戦している事に、この時ほど感謝した事は無かった。
人目をはばからずに、涙する事が出来るのだから・・・。

左前脚第一指種子骨開放脱臼。
もはや、回復の為の処置は不可能だった。
人が、ライスシャワーにしてあげられる唯一の事は、馬を苦しませないように、一刻も早く安楽死の処置を取る事だけである・・・。
平成7年6月4日 敵役と言われ時代の波に翻弄され続けられた馬。
「20世紀最後のステイヤー」・「史上最強のステイヤー」・「レコードブレイカー」。
ライスシャワーは、GⅠ3勝と言う大きな花を咲かせた淀のターフ(京都競馬場)で、主役として散っていった。
人々の心に、忘れ難い思い出を残して・・・。


これからの時代、ライスシャワーを超えるステイヤーがいるだろうか?
マンハッタンカフェも、菊花賞・天皇賞には勝利したものの、結局故障で引退。
やはり、京都の3000m以上だけでGⅠを3勝以上するのは、今でも至難の業である。
そう、関東馬ながら、今でも京都競馬場には、ライスシャワーの追悼碑がある。
いつも、よしきが京都競馬場に行く時は、ライスシャワーの前で、無事を願う。
もう、あんな悪夢が繰り返さないように。。。


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