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そもそも、殿様がそのようなひ弱な人物なら、家臣が切腹覚悟で遺恨を晴らす必要などありません。むしろ、その程度のツマラナイ殿様だったというのなら、それ自体が赤穂浅野家のいい恥さらしであり、恥のために討入りなどすれば、それは「恥の上塗り」にしかなりません。
では、なぜ、討入りまでして遺恨を晴らしたのか。その理由を説明するものは、公式記録には何もありません。けれど、大石内蔵助以下の赤穂浪士たちは、その理由を、後世の人にちゃんと伝わるよう、明確な証拠を残しています。その証拠というのが、討入りの際の「山鹿流陣太鼓」です。
山鹿流の始祖は、山鹿素行です。山鹿素行は、皇室こそ我が国の国体であり中心であるという皇室尊崇論を説いた江戸初期の学者です。徳川絶対の治世をはじめたところに、たとえそれが事実であったとしても、屋根の上に屋根を架すがごとき学説を将軍家のお膝元である江戸で説くというのは、乱世の世を終わらせることを至上課題としていた徳川一門にとって、決して好ましいものではありません。
といって、山鹿素行の論は、正しいものです。なぜなら徳川将軍家の権威は、陛下から授かった征夷大将軍の称号に由来するからです。つまり、山鹿素行の論は、正しい論です。正しいことを主張している者を、江戸所払いにはできません。けれど、当時の世は、徳川家が日本を平定して、まだ間もない時代です。徳川の権威を確立しなければならないのです。そのためには、頭はひとつでなければならない。
江戸と京都と、頭が二つあるかのごときイメージを、民に与えることは、乱世を招く遠因になりかねません。だからこそ徳川幕府は、山鹿素行(やまがもとゆき)を「江戸所払い」にしています。そして赤穂浅野家に山鹿素行を「お預け」しました。
なぜ赤穂浅野家なのでしょう。これも理由があります。そもそも、浅野家の始祖である浅野長政は、秀吉の妻の兄の家柄です。もともとは雑兵の身分です。その長政が大名にまで出世したのは、もちろん長政自身の粉骨砕身の努力の賜物でもあったけれど、それ以上に、秀吉の出世が大きく影響しています。
けれどその秀吉も、家柄は「どこの馬の骨とも知れない」下賎の身分です。下賎の者だから、源氏の棟梁でなければなれない征夷大将軍にはなれません。つまり、秀吉には、豊臣幕府を作る権利がありません。そのため、秀吉が国内を統治する権威は、貴族の最高位である関白太政大臣という律令役職に基づく位によってもたらされるという形をとりました。そして浅野家も同様に、武門の長であると同時に関白太政大臣の家系に連なる貴族としての地位が、その名誉と身分を保障したのです。
このことは、もっとわかりやすく言うと、浅野家は、そもそも武門の棟梁の家ではなく、ご皇室を尊崇することで、はじめて大名としての権威を得ることができる家柄である、ということです。だからこそ皇室尊崇論者である山鹿素行は、ご皇室尊崇の家門である浅野家にお預けとなったわけです。
ただし素行は、江戸所払いというある種の受刑者です。そうなると、浅野の本家(広島)というわけにはいきません。なので、分家の赤穂浅野家にお預けとなった、というわけです。そして浅野の殿様は、山鹿素行を家老待遇に処したうえで、孫の内匠頭、親戚の子の大石内蔵助、その他か新一同に、幼いころから山鹿流を、山鹿素行本人から徹底的に叩き込みました。
つまり、浅野内匠頭や、大石内蔵助らは、山鹿素行直伝の尊王主義者として育ったわけです。これに対して吉良上野介は、足利幕府以来の「高家」です。駿府の掛川領民に治政の評判もすこぶるよくて、禄高は少ないけれど、足利幕府以来の名門の武家であり、あくまで武門の礼法の長としての高家です。
つまり、武門第一の吉良家と、ご皇室第一の浅野家では、その基本的国家意識がまるで異なったわけです。そしてこの二人の思想信条の違いが、結果として勅使下向の接待役としての意見の衝突を産み、殿中松の廊下での刃傷事件に発展しました。
結果、浅野内匠頭はその日のうちに切腹のお沙汰となっています。けれど、吉良上野介には、なんら処分は下っていません。なぜでしょう。本来なら、喧嘩両成敗のはずです。
それが片方だけの処分となった理由は、簡単です。松の廊下での刃傷は、浅野内匠頭の一方的な暴力行為とみなされた、ということです。
交通事故でいったら、停まっている車に、一方的に衝突したみたいなものです。被害割合は10:0となり、吉良上野介には処分はありませんでした。つまり、上野介は、なんら抵抗していなかったからです。そして赤穂藩はお取り潰しになる。
けれどこのことは、山鹿流第一、ご皇室第一とする浅野の家門として、はたまた山鹿流を学んだ者として、到底容認できないことです。尊崇の意思だけは、武士の魂にかけて護り抜かなきゃならない。とりわけ内匠頭と一緒に、幼いころから山鹿流を学んだ大石内蔵助にしてみれば、立場上、これを放置するわけにいかない。放置しないということは、吉良上野介を斬らきゃきゃならない。けれど、それをしたら、自分は死罪です。
考えてみれば面倒なことです。だからこそ、一時は内蔵助は芸者をあげて遊び呆けます。そして、ついに内蔵助は、討入りを行いました。その討入りの際、公式記録上も、歌舞伎や文楽などの芸能上も、吉良上野介は屋敷内で討たれ、首を挙げられた、ということになっています。
けれど、一説によれば、内蔵助らは討入りはしたけれど、上野介に会うと、首を刎ねたのではなく、隠居を願い出たという説があります。四十七士は、討入りをしたのではなく、「隠居しないなら、首を刎ねる」として押し入っただけだ、というのです。そして上野介は、隠居を承諾し、吉良に帰って静かに晩年を過ごしたという説です。
討入りはした。けれど上野介の命は奪わなかった。多少のけが人はあったけれど、死者は出ていない。実際、「討入り」といいながら、四十七士にけが人は出ていません。これまた不思議なことです。つまり、四十七士は、押し入って吉良高家に、隠居を迫った。吉良上野介は、これを承諾した。
そのため幕府は四十七士の処分にとまどい、結果として切腹の沙汰までに長い日数を要したというのです。志士達の目的も、山鹿流陣太鼓を打ち鳴らして討入りを果たすというところにあり、それによって彼らの討入りの理由、つまり「山鹿流の正当性の主張」が実現するわけだから、それ以上の無駄な殺生を好むものではない。
結果、討入りの際に、多少のけが人はあったものの、死者は出ず、だからこそ四十七士の側にもたいしたけが人や死者も出なかった。盛大な斬り合いは、単にドラマの上での創作でしかない、というのが真相だというのです。
実際、殿中松の廊下で浅野内匠頭から一度斬りつけられて額を割られ、また、四十七士に討ち入られて刃傷沙汰を起こしたと、二度にわたる不祥事があれば、吉良家は本来なら、当然、お取り潰し処分となるはずです。なぜなら、繰り返しになりますが、喧嘩両成敗は武門の伝統的処分方法だからです。
けれど事実は、吉良上野介は、殿中松の廊下では、ただいきなり一方的に斬りつけられただけ。同様に、四十七士の討入りも、これが「討入り」であり「斬り合い」であるなら、吉良家の処分は免れないのだけれど、斬り合いがなかったのなら、被害割合は10:0、すなわち吉良家に処分はありません。
なぜなら、討ち入られておいて、刀も抜かずに斬られたとあっては、家門の恥、武家の恥だからです。討ち入られたなら、たとえ敵わぬといえども、正々堂々と切り結んで死ぬのが武家というものです。それさえもしなかったというなら、武家の恥であり、仮に幕府が処分をしなかったとしても、吉良家は自ら廃家を申し出なければなりません。それが武家社会というものです。けれど、そうはなっていない。
ところが、実際には、内蔵助らは、「山鹿流陣太鼓」を叩きながら、四十七士で吉良家に「押し入り」、吉良上野介に隠居の要求を突きつけ、上野介がこれを承諾した、という事件なら、吉良家には、処分のしようがありません。被害割合は10:0で、四十七士だけが処分を受けることになります。
要するに、吉良家と赤穂浅野家の確執というのは、あくまで皇室尊崇か、武門第一かという、いわば保守思想上の争いであり(実はこういう思想上の争いというのが、いちばん感情的になりやすく、過激行動にも走りやすい)、一方的に被害者となった吉良家は、一切のお咎めなし、四十七士は江戸の市中で騒動を起こした罪で一同切腹となった、そして上野介は、隠居し晩年を吉良で過ごした、というのが真相だというのである。実は小生も、この説を支持している。
基本的に、日本人は、人が人を殺すことを極端に嫌う性格を持っているからです。殺さずに、できるだけ生かすようにする。そして、一定のコトを起こすときは、相手の命を奪うよりも先に、自らの意思を通したうえで、正々堂々と自分の腹を斬る、というのが、日本人の日本的思考だからです。
公式記録にも、物語にも、上述のような記録は一切でていないけれど、彼らの行動をよくよくみていくと、なるほど、そういう解釈も成り立ちうるし、もしかしたら、それが真実かもしれないと思えるのです。(【終】)
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