雪月花

建前と愚痴












 分かってもらおうなどということは、とうの昔に諦めていた。いつ諦めたのか、いつなら諦めていなかったのか、そんなこと分からないけれど。ルール違反だとか常識がないだとか、そんなことは遠ぼえにしかならない。人間は皆、プライベートな生き物なのだから。
 事実を確認するのにわざと言い訳ぶったり、悪いのはあたしだよとさみし気かつ潔く笑って繰り返したり、そういうことをするあたしは、結局優しくない。後味良く別れを告げて去ってほしいのだ。そうして、時が経てば、後悔するように。そのことしか、考えていない。残酷だ。ひとにも、自分にも。
 分かってもらおうなどということは、端から無理な話なのだ。頑張れば頑張るほど、自分でさえ嘘臭くなってきてしまうし。それに、ほんとうのことは自分が知っていれば十分だ。突き詰めれば、自分でだって掴み様がなくなるのがこの、感情というものなのだし。きっとそれは、大きな細胞のような、臓器のような、変なもので、それさえなければ毎日を平気で暮らして、平気だということにさえも気付かずに命を続けていけることだろう。だけれど、私は感情だけは無くしたくない。と思っている。痛いにせよいたたまれないにせよ、感じる胸が在ることでしか、生きることは確認できないからだ。私は、いつからか、どんな感情も「味わう」ようになっていた。手のひらに乗せて、眺めるのだ。ああ、悲しいのだな。ああ、嬉しいのだな。五感から入ってくる情報をシナプスに振り分けて、結論を出す。そして、傍観者になる。こうすると、何も怖くない。ひとは、それを麻痺だというが、どこが麻痺しているというのだろう。あたしは着実に、感情を捉えている。それなのにどこか。まるで、溶けない雪の降る水晶玉のような。

 私は、幸福とはなんであるかを知っている。そのただなかにいたことが在るからだ。私が分からないのは、そこへ行き着くまでの道のりと、もし必要ならば、そのための言葉だ。分からない、分からないと。小さなころ、確かに遊んだ秘密基地がどこにあったのか、今はもう思い出せない。そこは確かに秘密と興奮に満ちていて、大人はいなくて、楽しかった。それは思い出せても、場所の景色は思い出せても、道が、もうわからない。それと同じだ。幸福と秘密基地は同じ?そんなことなど言ってはいない。確かにあった場所と、記憶と、道のりだけの話だから。
 例えば何かを好きだと思うとき。音楽でも、洋服でも、料理でもいい。もちろん、人間でも。何かを好きだと思うとき、少なくともあたしは、その「何か」を他の「何か」と比べたりはしない。あそこのより美味しいから好きだとか、あの曲よりきれいだから好きだとか、あのブーツよりかっこいいから好きだとか、あの人より優しいから好きだとか。そんなことは全くない。そこに、「より」なんて言葉は入る隙間が無い。そんな隙間で選んでいるのなら、そうだ、好きなものは、選んだものでは無い。飛び込んでくるのが、それなのだから。好き、という絶対値と、嫌い、という相対値。嫌い、の絶対値は、強力且つ稀だ。それにしても、好きという言葉を好きになれないあたしはおかしいのだろうか。好き、じゃなく欲しい、そう感じた途端に動くのがあたしだからだ。欲しい。なんと純粋な言葉。
 そのせいか、私は愛されることは多くても、信頼を得ることがなかなかできない。愛されないことよりも、信じてもらえないことの方が応えるこの年。小さく器用に、小さく奔放に、見せることができる自分を呪う。あたしにそうさせておいて、その作り物の外側をいつのまにか都合良く信じた周りも呪う。不自然だった。確かに。
 欲しいか、欲しくないかでいつも物事を決めるあたしの態度は、移り変わりやすく見えるらしい。最近は、とみに我慢ができなくなってきたし。欲しいという気持ちが長々と続いて、そうして少しばかりくたびれたその後に目を開けて、欲しがってわざわざ力まなくてもその何かが近くに在り続けるということを知った安心感。まるで、サンタクロースはいるのだよ、とでもいう風に。幸せとは、それだ。
 いくら海が果てしないものだと言ったって、濡れた体はすぐに乾いてしまう。一瞬の花火でできた火傷は、ともすれば死ぬまで付いてまわるというのに。何かを勘違いしたまま信じ込んでいるのは、誰なのだろう。ぼんやり考えて、ああ、ひとりだ、と思う。愛されていても、ひとりだ。愛している、そのことを懸命に主張する男は浅い。愛されていることを知ること、それができる男は、賢い。傲慢で無ければ、そして無謀で無ければ、辿り着くことはできない。攻撃が、最大の防御で在るのだから、攻撃を、まず止めなければ始まらない。攻めている、押している、それはただの逃げだ。静かに受け入れて、体からの情報を、ダイレクトに届く波だけを、信じるまでもなく、すん、と信じる。その勇気しか、いらない。嘘でも、信じる。秘密には、目を閉じる。愛する人の言葉に嘘は無い。知らないのなら、それは存在すらしえないこと。それがなければ、何も無い。海のまん中に身ひとつで放り出され、沈みながら、微笑んで息を深く吐く。それが始まりの合図なのにも拘らず。
 それにしてもなぜ、邪魔をするのだろう。経験と、そして他人とが。わたしは久しぶりに、他人に対してひどくネガティブな感情を持っている。どうして。私がそう思うとき、その感情の名前は、「憎悪」と「軽蔑」だ。恐ろしくなどない。ただ、吐き気がするのだ。嫌いだと思う自分も、嫌いだと思わせる他人も、嫌で嫌で嫌になる。蹴倒して唾を吐いて踏みにじってから死ぬまで無視したい。そのぐらいに。でも気持ち悪いものには触りたくないからまたジレンマに陥る。臆病さもある。宇宙の彼方へ粉にして放ってしまいたいような、後ろの金庫に隠して見張っておかなければ気が済まないような。

 あたしもまだまだだ。








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