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2007年04月30日
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カテゴリ: 価値観
さらに5月2日に書きましょう。。。
暇なやつだなぁと思われてしまう。。。


犬や猫というのは一度信頼したら裏切るということを知らない。
だが人間は信頼しても裏切ることがあり、また裏切られることがある。それは信頼するということがとても複雑に出来ているからではないだろうか。

「信頼」について考えるとき、まず私たちは、この信と不信が同居しているという人間の心理的状態を強く認識しておく必要があるのではないだろうか。何故ならば、自分の信の裏側に不信の念が隠れていることを認識していない人ほど、簡単に人を裏切ることをしてしまうのではないだろうか。

 さらに、人間は深く信じようと思えば思うほど、裏切られることを恐れるのだという。そして、実際に裏切られたとき、その対応の仕方がいくつかある。一つは、裏切った相手を恨むあるいは憎むということである。そして、もう一つは、“許す”ということだ。さらには途方にくれてしまうなどである。

 もちろん、その時、「信頼」につながるのは“許す”という行為であることに異論はないだろう。問題は、“許し方”にある。“許してやる”という態度では「信頼」につながらないのだと思う。裏切った相手を“許す”ということは、実は自分を“許す”という意味であることを分かって、“許している”かである。

 つまり、恨み、憎みたくなるような相手の裏切り行為は、自分の中にある信の裏側に隠された不信の念なのである。

 このように考えると、“許す”という行為は、“許してやる”といったような傲慢な態度であってはならず、“許す”ことによって“許されている”のは自分自身であり、ゆえに自分が癒されるのである。



私という人間はとっても勝手なもので

人を信じるときは自分の責任であり「この人を信じた自分に間違いはなかった。」

逆に裏切られたときは「なんてひどい人だ。裏切られた」相手の責任である。

信じたときの原因は自分にあり、裏切られたときの原因は相手にあるとはなんて勝手な言い分であろうか?
その人を信じたのは自分であるのだから裏切られたときも自分が原因であると何故思えない自分であろうか?

信頼するということは本当におくが深いものである














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最終更新日  2007年05月02日 17時14分42秒
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クリティ7 @ Re[1]:何年ぶりの日記の更新だろう。。。(09/07) かずはんさん ありがとうございます。 …
かずはん @ Re:何年ぶりの日記の更新だろう。。。(09/07) おたんじょうび、おめでとうございます。 …
きんとと@ こんにちは 体調はどうですか? 胃の調子がよければ …
クリティ7 @ Re:そうですね(10/02) ありがとうございます。 風邪はひかなか…
きんとと@ そうですね >原因は常に内側(自分自身)にあるのだと…

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