国分寺で太宰を読む会

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「散華」 2



ここで 少し 脱線して 私の話をしたいと思うのだが。

戸石君が初めてやってきた時の話で、ロマンチシズム、新体制という言葉が出てくる。

これは、昭和15年の12月に戸石君は、太宰のところに初めてやって来て、その直前11月に太宰は「清貧譚」という小説を書いている。

この「清貧譚」は、中国の「聊斎志異」を材料にした小説である。

冒頭には、こういう言葉がある

「それに、まつわる空想を書いてみたい。」とある。

ここで古典を材料に小説を書くことの弁明を書いてある。

もとがあるということは、一段低く見られる可能性があるからだ。しかし、その後に

「私の新体制もロマンチシズムの発掘以外にはないようだ。」とある。

この言葉に、私は 昔から、こだわっているのだ。

「新体制」 これを言った太宰の意味というのは 一体 何なのか?

「新体制」とは、この小説は15年に書かれて 16年の1月に発表されているのだが

15年の6月に、近衛文麿が枢密院議長を辞して 新体制運動に邁進した。

この「新体制運動」というのがある。

それから1と月後に 第1次近衛文麿体制が始まって その暮れのしばらく後に

大政翼賛会が出来て それまでの政党は解散された。

その目的は、膠着した 中国戦線から 南進政策をとり、その翌年に、陸軍のベトナム進駐がある。

これは、太平洋戦争よりも、(ハワイ)1年ちょっと前である。

ということは、昭和15年というのは、大変な年だった、ということなのである。

戦争に向かって突き進んで目まぐるしく動いていった年で「新体制」ということが 盛んに言われていた時だ。

そういう状況の中で、自分は一体どうするのか?ということだ。

それで 「ロマンチシズム」も「新体制」も・・といっているのだ。

しかし、この「も」が どうしても 私には 気になるのだ。

「ロマンチシズムの発掘以外にない。」とある。

しかし ここでは 色々な取り方ができるわけで その解釈は難しいのだ。

特に 昭和10年は 日本浪漫派 ドイツ浪漫派の流れを受けた、と説明もある。

私には 納得しかねるところがある。

ロマンチシズムというのは、いろんな掴み方ができて 一般的な常識では リアリズムに対するものだが、要するに、現実的な論理を超えたものに そこにむしろ空想、理想を求めてゆく、というのだが 戦争の最中にそんなことを言っても仕方がないことである。

「なぜ?戦争をするのか?なんで死ななければいけないのか?」なんてことは 言わずに 「美しく死ぬ」というところには ロマンチシズムの 危険な側面があるのだ。


「ロマンチスズム」ということを言い始めると 行き先がない。そこには かなり危険性が出てくる。

ここで 少し脱線するが

安岡章太郎氏が 書いている 「私説 聊斎志異」というのが 興味深い。

その中で、昭和15年の当時 九州にいた安岡さんが (父親が軍医であった)東京駅のホームで 太宰の「清貧譚」を読んで、その中で「私の ロマンチシズムは新体制の発掘以外にはないのだ。」という言葉を読み、その時「これだ!」と思った、というのだ。

つまり 彼は文学に突き進もうとしている時だったが この言葉で 軍医の父親を、説得できると確信した、というのだ。 

これは、後 実際に 安岡さんに聞く機会があった。

両親は「こんな時におまえは 文学をやるのか!」と そんな話もあるが。

つまり 安岡さんは この暗い時期に 文学をやる、そのことに意味があるのだ、と考えたという 話がある。

そんな話を聞くと 私には、太宰が本当に、文学の在り方を考えていたとすれば、この「散華」という小説は、意外にも、その「文学の在り方」というものが あまり書かれていないと・・・そのように思えるのだ。




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