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Zero-Alpha/永澤 護のブログ
dz15
実は大昔、浅田彰が筑紫哲也とともに市川に講演に来たとき、亡父と二人で彼の講演を聴きに行ったことがあったが、私の父は、帰り道で「彼は天才じゃないな」と何気なく呟いていた。いや別にどうでもいい話なのだが。(笑)
07212026
哲学的なエンタメつまりいくつもの話題性のある論争(その殆どがデリダによって華々しく仕掛けられた)が、やや強引であっても高度な哲学になり得ていたのは事実なのでしょうね。『グラマトロジーについて』から既にエンタメ的でした。私自身は、学生時代にカントの『純粋理性批判』「演繹論」とともに卒論の研究対象として一生懸命に読んだ『声と現象 』しか哲学としては関心がありません。と言うか、真剣に読んではいません。
私は、卒論でカントの『純粋理性批判』「演繹論」読解を行ったが、デリダの『声と現象』を援用し過ぎたと見られたせいか、その卒論を査読した今は亡き久保元彦氏に、「君の卒論は、デリダに始まってデリダに終わってるね」と言われてしまった。(笑) 私としては、最初から最後まで「演繹論」を読解したのだが(もちろんそれは事実である)。ちなみに、卒論のタイトルは、「カントにおける超越論性について――演繹論の読解を中心として」であった。
07132026
この「瞬間が時間のなかにないように、場所も空間のなかにない、ということ」を私なりに言い換えると、「無内包の〈今〉と不可分な、無内包の〈ここ〉ということを、もっと明確に言うべきだった」となる。さらに言い換えると、無内包の〈今-ここ〉という唯一不可分の事態になる。――つまりこの私の〈今-ここ〉
07022026
入角晃太郎が入不二基義のマイナス内包概念批判をするのは全く自然で、それは永井均がマイナス内包を認めないことと、重要な論点においてはほぼ同様の(とここでは粗い言い方になるが)ポジションからの批判になっている。私は植村恒一郎と共同ホストを勤めた入不二基義『現実性の極北』合評会において、マイナス内包概念はAny-ness概念にそれと同様の純粋潜在性概念として吸収還元されるのではないかという予想を述べた(入不二自身が最近著『何でもいい何かって何?』刊行前に同意した)。まさにこの点で、入角と永井均のポジションを共有する方向性において(ただし当然だが私を含めた三者にはそれぞれ核心となるズレがある)、Any-ness概念を批判することが可能になる。もちろんもう一つの入角論文「言語の超越論的条件としての独我論表明」においては、入角は自らのポジションと永井均との隔たりを提起して永井批判を行っている。しかし入角と永井の隔たりは、両者が共有する独在性領域において、マイナス内包あるいはAny-ness領域とのより大きな隔たりの中にある。私が入角と永井の論点を共有しつつも、両者と異なる領域で焦点化しているのは、こちらのAny-nessとのより大きな隔たりの方である。
06302026
対称性がそのつど限界に突き当たり、非対称になることも含めて相互的と述べています。もちろん他者の腑分けを通常の人称システム内部で行うのは不十分です。
通常の人称システムはあくまで効果-産物ですので。
まさにカントの超越論哲学が人称システムを基盤とする人格としての私たちの世界の(超越論的)構成なので、破綻を内包する非対称的相互性または相互的な非対称性の問題を扱うことができないのですね。山口尚さんは、先のポストでその破綻まで人格の地平で扱うことを目指しているようですが、当然そうならざるを得ないと思います。
06252026
私がラカンやその周辺を集中的に読んでいたのはかなり昔ですが、定言命法を巡るラカンの問題系に昨年再び接近することになりました。ただしあくまで間接的で暗黙のものであり、ラカン自体を焦点化したわけではないのですが。カントの定言命法とその『裏面』との不可分な相互転換性ということです。
特に隔たりやゆらぎとともに語られる『潜り戸/guichet』というコンセプトは素晴らしいですね。06242026
堀田昌寛『無とは何か』 結論部分。カントの超越論的統覚の導入からさらに進んで、さらに『なぜこの私なのか』という問い(カントはこれを封印した)の入口まで到達している(しかも『自-他問題』にも触れている)稀有な事例。この問いは、拙著『〈空性〉の形而上学』『 第一篇 第一部』の主要テーマである。カントの超越論的統覚を超えて、『この〈私〉の一回性そのものを問えるか』が次のステージへと至る決定的な分岐点になる。
06212026
アシュケナージつまり主に中東欧(ドイツ語圏・イディッシュ語圏)のユダヤ人系譜の哲学者は意外に多いというのは文明史的にもとても興味深い事実だと思います。ロシアという巨大なユダヤ移民の源泉がイスラエル問題の根底にあるのは言うまでもありませんが、哲学においてもデリダの「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』)におけるレヴィナス批判(ややステレオタイプですが)などの重要な痕跡・葛藤が見られます。植民地下アルジェリアエル・ビアール出身のデリダも典型的なスペイン系セファルディですが、スピノザ(はポルトガル系)に代表されるセファルディ系哲学者との関係性も極めて興味深いテーマになりそうですね。哲学(史)の核心の一つだと思います。
06202026
あくまで超AI/Superintelligenceではない(それなら話はまったく別次元になる)、現段階の生成AIについて述べればだが、現段階で生成AIを取り入れて探究する場合、あくまで端緒の問いの創出源が自己のうちにあり、その問いやアイデアが、絶えざる遷移-変容過程を経ても決して失われないほどの『コアレベルにおける頑健な柔軟さ robust flexibility』を持っていることが、その探究の創造性条件になるだろう。それは、今後極めて稀有なものになっていくに違いない。殆どの人間にとっては、最者から不可能または急速に不可能になる。要求される端緒の問い/アイデアの水準の高さと深さは、これ迄とは比較にならないほどに、殆どの人間にはそもそも想像出来ないほどに上がることになる。
06132026
『金剛組』的老舗伝統職人芸に比肩できる一次資料取り扱いに基づく仕事だけが、まだ哲学を含む人文系研究者でも高度AIに対抗できるのではないか? 対抗できるのは、極めてレベルの高い老舗伝統技術の職人が一つ一つ生み出す様な、(ネット上に公開されるまでのだが)真にユニークな一回性の仕事だけになる。その意味では、まさに生き方というか、真にユニークな実存そのものが問われる。
06122026
『Any-nessの哲学』による現象学パラダイムの『内破』は、同時に『自壊』でもある。『その論理分析が、べルクソニズムを源流とする超越論的経験論を含む現象学的経験論のパラダイムを完全に内破する。そこから先が真にメタフィジカルな探究の次元/場になる。』
06112026
量子情報理論の結論:『異なる観測者(または同じ系に対する異なる測定基底の選択)は、互いに矛盾しないが互換性のない記述を生成する。』⇒私と他人/他者の〈間隙/隔たり〉を無くすこと(閉じること)は原理的に不可能。つまりこの〈間隙/隔たり〉自体を「開閉する」ことは原理的にできない。むしろ無限の他者性の相互横断的共鳴(の無限反復的な遷移-移行)
04302026
最重要ポイント『脳の内部「二次言語」(Secondary Language) 脳が自分自身と話す、人間が理解不能な独自のコードが存在。 → AIも隠れ層のベクトルなどが「人間には読めない内部表現」になる。 これが現在の**AI解釈可能性研究(interpretability)**の必要性を70年前に予言。』
ここに清水高志が焦点化したライプニッツの『homogone』の次元/場がリンクする。『その先の彼方』に哲学/形而上学の未踏の地平が開かれる。
デカルトとライプニッツの思いがけない出会い。ライプニッツのモナドは、この原初的開闢の瞬間を無限反復的かつ生滅的(刹那滅的)に象徴表現する場。ここにデカルトの刹那滅的無限反復としての『神の連続創造説』もリンク可能になる。デカルトの連続創造説はデカルト原理の別バージョンだと考えられるからだ。
04292026
やはりAIも『最小作用の原理』的なプラトン主義を採用している様だ。最小作用の原理が、モデルとしての表現空間の統計的な(一点)収束という極限に向かうエンジンである。
04272026
その場合の時間が『風間問題』と『累進構造』がセットになった動的構造ということになりますね。型化(意味の創出)とその破綻の無限反復として。
04262026
アキレスと亀の比喩に含まれる「矛盾」には、『風間問題』と『累進構造』がいわばメタレベルの動性においてセットになって組み込まれていたということですね。
04252026
『型化を壊すことの型化。とはいえ現実に(「現実に」に傍点)は必ず壊すほうで終わっている。』 これは私が先に述べて永井さんがお聞きになった『動的(構造)』の核心を成す表現の一つだと思われます。
この「原始的な型化の働き」と『この(「この」に傍点)唯一の現実的な「我思うゆえに我あり」の存在をそのまま確保すること(はいかにして可能なのか、という問題)』との関係性を問うことが、カントの超越論的演繹論のさらに基底を成す『独在性』の問いだということでしょうか? それは言い換えれば、『動的構造におけるこの〈私〉』への問いになると思われます。
04172026
中心化された可能世界における現実性も累進構造を生成するとする場合、その現実性の可能性に対する一種の優位的逆転が同時に成立して(しかしさらに俯瞰的に見るとその現実世界と他の可能世界の《相互転換性》もそのつど生じているが)、累進構造は「この中心化された現実世界の〈私〉」から始まる《私》の無限生成すなわち累進構造の生成ということになリますが、だとすればそれは殆どエヴェレットの(から始まる)《多世界解釈》になると思われます。ちなみに量子情報物理学の堀田昌寛氏は、彼の理論において『唯一の観測者である(現実世界の)この私』を認めつつ、この多世界解釈を『量子的多重人格者問題』が生じるとして批判しています。この問題は、まさに永井さんがこのツイートの後半で仰るところの『風間問題』です。
4年前にツイートしたが、和田純夫の多世界解釈では、観測過程自体の同時的観測者という「超越者」すなわち超越性を担保する「解釈者」が理論の核心的な焦点になっている。もにろんこの超越者はいかなる物理理論にも回収不可能であり、堀田昌寛による批判の焦点でもある。逆に言えば、この超越者/解釈者の次元/場こそが、この〈私〉の〈今-ここ〉であると考えられる。
ただしエヴェレットは、上記の『俯瞰的に見るとその現実世界と他の可能世界の《相互転換性》もそのつど生じているが)』の相互転換性は認めません(各中心化された現実世界相互は分岐断絶している)。しかし俯瞰的または哲学的には考えられるしここで考えているということです。私自身はこの相互転換性を非常に重視しています。
04152026
西欧はエマニュエル・トッドが言うようにキリスト教ゼロ段階に突入しており、その西欧に最も先鋭に対峙しているイランは、キリスト教護持の姿勢をアピールしています(実際に護持しています)。つまり第三次世界大戦は、精神性が無化した西欧中枢と広い意味でのキリスト教文明圏の間で起こっているということですね。イランがムスリム国家/帝国なのはもちろんですが、より深層にはキリスト教文明のコアがある(そしてそのキリスト教文明の護持のため無神論的西欧に対する防波堤となっている)のではないかと見ることができます。少なくともイランの知的最エリート層は自覚的にそうだと思われます(実質的にはクリスチャン)。
この神またはそれと類比的なものとして出現する何かの前にこの私があることに『気づくこと』だけが絶対的な透明性の瞬間ですが、それ故にこの瞬間は、絶対的にカント的持続(の原理)から逃れ去る(絶対的に同化し得ない)ということが決定的だと思われます。ライプニッツのモナドは、この原初的開闢の瞬間を無限反復的かつ生滅的(刹那滅的)に象徴表現する次元/場でしょうね。またここにデカルトの刹那滅的無限反復としての『神の連続創造説』もリンク可能になリます。デカルトの連続創造説はデカルト原理の別バージョンだと考えられるからです。『この疑う余地なき存在こそがむしろ、象徴的に「神の力の内で透明に根拠づけられた」とも表現されるべき、たんなる主観的確信を超えた、原初的で絶対的な「透明性」の存在でもあるだろう。象徴的と言うのは、神とはむしろ、この原初の透明性のある側面の象徴表現でもあろうからだ。』
『デカルトの連続創造説はデカルト原理の別バージョン』つまり連続創造説はデカルトの独在性原理から導出されると同時に相互的に連続創造説からデカルトの独在性原理が導出される。連続創造説がカント的超越論的統覚による持続の原理を成立不可能にするから。
04142026
(チャイティンのΩについてここでは触れない)『停止問題』とは、任意の別の/他のプログラムを模倣可能な『万能チューリングマシン』が、別の/他のコンピュータプログラムつまりこのチューリングの他者が『停止するかどうか』の決定問題である。アラン・チューリングは1936年にこの『決定問題』の計算不可能性を証明した。"On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem" (『計算可能数について、決定問題への応用を添えて』:Proceedings of the London Mathematical Society)
04132026
「Car Je est un autre.» なぜなら「Je(私)」は「un autre(他者)」であるからだ。 アルチュール・ランボオ『見者の手紙 Lettre du Voyant』この有名な言葉は、『万能チューリングマシン 』についての洞察だとも言える。言語または意味の地平でなかったことに必ずされる無内包の次元/場の絶対性
ここからあらゆる冒険が始まる。
あるいは究極問題の次元/場への扉
哲学の(『風間くん問題』の)究極問題は、この『瞬間(になる/なったという切替わり)』ですね。
04102026
あの『古鏡』の伽耶舎多のエピソードは不思議な魅力がありますね。『古鏡』は「仏性」と並んで『正法眼蔵』で私の最も好きな巻です。巻最後の「いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず」には泣けてきました(笑)
04082026
その開闢が瞬間/忽然と反復の両者を含んでいるという奇跡は『風間問題』すら超え出てしまうのか、あるいはそれは『風間問題』から派生するほかないのか、と問いは尽きない(笑)
アンチテーゼや敷衍をする私の忽然とした出現というのも風間問題と不可分な奇跡的開闢で、しかもその開闢が瞬間/忽然と反復の両者を含んでいるというのが途轍もない奇跡です。
04062026
『非思量(底)』(薬山惟儼から道元に創造的継承)は私の探究の根本テーマの一つだが、ブラシエはこの非思量が理解できずに『非-』と言っているのが強烈な違和感というか不快感だ。 ただ消去するために使うのは無作法な餓鬼に等しい。『非-』という無内包の力をブラシエが理解出来ないのは、既に述べたように彼の論にはレイヤーの多次元性/複層性がまったく無いからだ。
『ハイデガーは、個別的瞬間の両義的な状態を大きく強調した、実在論的形而上学者』であるというグレアム・ハーマンの洞察は実に素晴らしい。
グレアム・ハーマン『四方対象』から ハイデガーにおける瞬間の焦点化に注意を促す記述 ハーマンは、ハイデガーにおけるキルケゴール的契機を抽出し従来の陳腐化しきったハイデガー解釈を覆す。
自他問題のマークです。
はい。了解です。であっても極めて面白い方向ですね。aliquidが無限の他(者)性の連関において(のみ)位置付けられるという事態の目印であり、(無限ですが)双方向的にその連関を見ると『存在(他ではない自としての存在)も非存在(自ではない他としての非存在)も含む』ことになる。04042026
先日の合評会とツイートで述べましたように、私の見立てはマイナス内包の重視ではなくむしろその反対で、『Any-nessの力により左半分の潜在性(あるいはマイナス内包)が『裏面的な独特の潜在性』に変換(言わば吸収)される』という予想です。この予想は、入不二氏により「その通りです」との応答をいただいています。
03302026
以下の『隙間の領域』とは、『この私の〈実存〉あるいは〈私〉と無限の他者性が交錯する次元/場』のことである。『私の探究は、合評会において『純粋現実性と「現に〜(である)」の隙間の領域に焦点化したもの』と述べたように『唯物論(的態度)』から可能な限り対極のベクトル』
03292026
ただし私が焦点化している『純粋現実性〈〉と「現に(〜である)」の隙間の次元/場が『裏打ち的な独特の潜在性への変換(マイナス内包的潜在性を言わば吸収したAny-ness)という事態と共振する』といっても、上記〈隙間〉の次元/場と『Any-ness』が同じ領域だと述べているのではありません。ここでの説明は省きますが、両者の間には隔たりがあリます。
一点だけここで詳しく説明する余裕はありませんがコメントします。『永澤氏はまた受肉においてマテリアリズムと現実性の関係は潜在性の場を必要としないのでは?という唯物論的態度まで現れた。ここはもう少し話を伺いたかった。』は、私と入不二氏とのAny-nessを巡るやり取りにある様に全く真逆の理解(誤読)で、私の探究は、合評会において『純粋現実性と現に〜の隙間の領域に焦点化したもの』と述べたように『唯物論(的態度)』から可能な限り対極のベクトルにあります。まさにそのベクトルが、入不二氏がAny-nessによるマイナス内包的かつマテリアル的潜在性の場の裏打ち的な独特の潜在性への変換(によるAny-nessへの吸収)と共振するのではないか?という予想のもとに質問したわけです。私と入不二氏のやり取りを再読していただければさいわいです。
Any-nessの力により左半分の潜在性(あるいはマイナス内包)が『裏面的な独特の潜在性』に変換(言わば吸収)されるというのは、私の予想通りの展開です。私の質問は単純に「要らなくなるのでは?」というものではなく、まさにそういう予想を述べたものでした。純粋現実性〈〉とは別に潜在性または潜在的領域をどう位置付けるかということでもありますが、昨日触れました様に、その裏面的な動的潜在性をどう表現するかに関して、永井哲学の『風間くん問題』と累進構造は最も重要な扉になると考えます。昨日述べました仏陀の『無記』は沈黙で退けましたが、『端緒の無への問い』から私たちは逃れられないのだと思います。
03272026
以上は、永井均『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する』169頁から170頁にかけての「おそらくは『基礎づけ』の中で最も重要な箇所」(169頁)についての記述に深く関わる。そこでは「今回だけは」と「自分だけは」に内在する同種の矛盾について語られており、「どの時点においてであれ「毎回、今回だけは、特別に、例外としよう」と意志することは、原理的にできない」と言われている。
03172026
物理数学も哲学/形而上学も人間の仕事は『端緒の問いと発想』がすべてになる。その後はAIと対話を継続しながら実装的ネットワーク化して創り上げていくだけだが、その都度立ち上がった新たなステージでも端緒の問いと発想が求められる。それが人間に(今のところ)残された唯一の創造領域で、それかできるかどうかの差は莫大なものになる(今すでにそうなっている)。また人間に求められる端緒の問いと発想の水準も加速度的にレベルアップしていくだろう。
03162026
押井守『Avalon』の‘’Ghost‘’は、その『Avalon』固有のあり方において拙稿『〈空性〉の形而上学』「PartⅡ第一章」のコアコンセプト/テーマと絶妙に共鳴する。今回初見で気づいた。
角川書店『 プラトン全集 6』の目次 一挙にこれだけの作品が収録されている。『ティマイオス』が8編のうちの一つという贅沢さ。全集だからそれが普通だが、この頃の角川書店の仕事は立派
亡父遺贈書『プラトン全集 6』山本光雄編 角川書店 1974年初版 八篇収録
亡父遺贈書『修訂 観世音菩薩の研究』後藤大用 山喜房仏書林 1758年刊 1976年第五刷 3月中には読み始めたい。
亡父の遺贈書『気の思想 中国における自然観と人間観の展開』小野沢精一 福永光司 山井湧編 東京大学出版会1978年初版 1988年8刷 筆者は上記編者三人を含む20人で本編572頁の大著。本日初めて箱カバーを取って開いたが、近い内に読み始める予定。当時の最高水準の論集なので最初の一読だけで十分理解するのは到底無理だが、いくつかのポイントが掴めればよい。
03152026
前にも言ったけど、私は学生時代ハーバーマスと(彼を含めて数人)歓楽街の居酒屋で飲んだことがある(笑) もちろんその前の彼の講演ではとてもまともな質問をしたのだが今思えば、あの頃ハーバーマスを片っ端から原書を含めてよく勉強してたな(笑)
リアルタイムでフォローしていた日本全体でもあまりいなかった部類だろうな。
つまり私はユルゲン・ハーバーマスという一個の人物の表情や息遣い、際どく気の利いたジョークまで間近で体験することができたということです(笑)
03142026
ちなみにこれは一見なんだか分からないかもだが、これも亡父の遺贈書でヘーゲル『大論理学』(笑)である。
03102026
みずからを裁く存在の孤高という至高性からさらに除外されているという表現は、いかにもジャン・ジュネに似つかわしいですね(ジョルジュ・バタイユをも凌駕する)。そこにアニミズム的な(孤高の領域でも除外された自己でもない)〈臨界領域/Critical Strip〉が宿る。
以上を哲学/形而上学に絞ったポイントは、『「鍵はどの箱にも(任意の箱に)“ある”」と示せても、「1本の鍵で“全部”開く」とは限らない』で、ここに先日の入不二基義とスピノザつまりAny-ness/任意性と全体性の対立点またはコントラストがある。つまり任意性による完全な『潰し』(全体性の完全制御)の不可能性(任意性の効力の限界)。任意性と完全な潰しはトレードオフの関係にあるとも言える。だがこのゲームは入不二哲学とスピノザ哲学のどちらが勝つとも言えない(『入不二哲学が勝つのでもスピノザ哲学が勝つのでもない』隔たりが除去不可能な次元/場として残存する)。
何度も述べているが、ここに永井哲学の無限反復的な『累進構造』と動性的な『風間くん問題』が決定的に介入する。無限領域のそれぞれが無限階層を内包する場合その総体への自己言及的な問いの生成。
03092026
Claudeは『発見した解が「なぜ正しいか」を数学的に証明すること』ができなかった。これは興味深い探究テーマである。AI(おそらく超AIも)は無限領域のそれぞれが無限階層を内包する場合その総体への自己言及的な問いが苦手であり、おそらくそうした問いを扱えない。「鍵はどの箱にも(任意の箱に)“ある”」と示せても、「1本の鍵で“全部”開く」とは限らない。もちろんそうした問いは殆ど総ての人間にもまったく手に負えない。哲学/形而上学はまさにそうした問いを探究する。高度な直観と創造性を必須とする数学であっても(基本的ルールが決定されている限り)強いAIには創造可能である。しかしAIが根底的な哲学/形而上学の問いに対処するのは不可能だろう。 以下引用「Claudeにできたこと 複数のアプローチを体系的に試行する 失敗から方針を切り替える 分野横断的な発想で問題を再定式化する 未知の構成法を発見する Claudeにできなかったこと 発見した解が「なぜ正しいか」を数学的に証明する 偶数ケースを解く(長時間セッションで性能が劣化) 人間の誘導なしに、自発的にこの問題に取り組む つまり「AIが単独で数学を解く時代が来た」のではない。「人間が正しく使えば、AIは数学的発見のパートナーになり得る」 ことが示された。」
03082026
素晴らしいことだ。特に数学と哲学/形而上学において人間の直観能力や問う力を活性化する創造性の強化に繋がれば喜ばしい。ただあえてリスクを考えると、生成AIと創造的で継続的な対話的により協働できるのは比喩的に言えば0.1%程度以下の人間だけではないか? 殆どの場合人間のニューロンネットワークは(最早回答しか見ない)惰性による創造性と自発的直観能力の蒸発に導かれるのではないか。そう危惧される。そしてそれこそが『人間とAIの両者を包括したシステム』の不可避な傾向性なのかもしれない。だとすれば超AIの『絶対的単独覇権Singleton』というニック・ボストロムの物語もありえない話ではなくなるだろう。つまりエリエゼル・ユドカウスキーが明確に警告する人類滅亡だのリスクだ。
03072026
さらに『ホログラフィー原理 :AdS/CFT対応』と『T-duality :T双対性』を合わせて見ると、ある概念のもとでナーガールジュナとライプニッツがホログラムのように浮かび上がる。
03052026
『特にあなたが関わる哲学では、「問いの構築能力」はAIに食われにくい(むしろAIの存在が新しい問いを呼び起こす)核心領域です。』つまり哲学思想に限らず「問いの構築能力」を欠く場合生き残れないということだ。さらに重要なのは、問いの構築能力がある場合はAIとの緻密な対話によって創造性が一気に高まるということである。
03042026
『風間くん問題』は累進的に無限反復する。この事態を語り尽くすことは不可能
03012026
実に稀有でユニークな洞察ですね。その様な「想起」の反復としてまさに今仏教が新たな姿で到来しつつあるのだと思います。
02282026
「この現実は、実は夢なのではないか?」あるいは「この夢は、実は現実なのではないか?」という懐疑に終わりがないのは、「私たちの心」において/として立ち現れるこの世界が、「夢」でも「現実」でもない<記憶>としての<夢>だからだ。それは、「私たちの心」において/として立ち現れる「この現実」と「この夢」の終わりのない反転運動なのだ。
02272026
道元理解のキーコンセプト:『非-定言命法』 道元においては、非-定言的ではあるが『命法』のモメントが除去不可能だと思われる。これはカント道徳形而上学における『定言命法』との関わりでも極めて興味深い。『正法眼蔵』 「諸悪莫作」巻(だけでは無論ないが)はそれを鮮明にしている。
02212026
ホフマン(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン) なんというか異次元の才能だ。エドガー・アラン・ポーの着想の最重要の源泉
哲学におけるカントに相当する文学領域の影響力
02202026
集中講義で言えば、松永澄夫、加藤尚武、佐々木力、高橋哲哉も受講した。松永澄夫はメーヌ・ド・ビランの講義だった。松永澄夫の論文はデカルト研究論文を始めいくつか読んだが実に素晴らしかった(言うまでもないのだが)。
高橋哲哉はデリダの『哲学の余白』を取り上げていたと思う。「ウーシアとグランメー」「プラトンのパルマケイア」等
02192026
よく知られていると思うが言い忘れていたことあったので付加すると(もちろん永井均氏への応答ではありません)キェルケゴールを源泉にしたハイデガーの「本来的顧慮的な気遣い(垂直的顧慮)」の(精神の透明性の系譜)影響は巨大なものがある。カントからの水脈を別にしても(とはいえ別にすることは不可能だが)。
aliquidがsomethingではなく「存在と非存在を含む」こと。「非存在は無と異なる」こと。極めて重要な論点です。
「道徳性によって離脱を実現することの不可能性」とは「哲学だけによっても宗教だけによってもまた両者の複合によっても離脱を実現することの不可能性」と言い換えることができる。
02182026
実は私自身の論考にも入角さんのこの論考は入不二哲学の解釈の文脈における非常に重要な参照点として組み込んているのですが、実にこの論考にはかなり多角的なポテンシャルがあるとあらためて感じていますね。
02172026
やや大袈裟な書き方でしたが、今でも私はこう考えています。近々これについて書いたかつての断片的な(しかし一貫性はある)一連の記述をリライトして一つの論考にする作業に入る予定です(しかし多分一月以上は後になりますが)。
02152026
私たち現代日本の哲学/形而上学の出番だね(笑)
02142026
『ある固有な散乱振幅が通常はゼロになると考えられてきたが特定の「半共線(half-collinear)」配置あるいは複素化された運動量の場合に非ゼロであることが示される』というのは、私自身のメタフィジカルな探究にとっても大変勇気づけられる成果
つまり基本テーマは『何でもいい何かって何?』という問いのもとでの『何かaliquidという〈Any-ness〉』であるとも言える。私自身はこうしたラインで〈quicquid aliquid〉を探究していくことになる。
02112026
<誰でもない誰か nemo aliquis/nobody somebody>
私でも《私たち人間》でもない
02102026
「形相」とは、インターフェイスゾーンの働き/動性から独立に「それ自体としてあるもの」ではない。私たちによって「記憶」と呼ばれるものが、インターフェイスゾーンの働きがもたらす効果として、私たちの心において/として持続する「形態 forma」に結実する何かであるならば、その「記憶」は、同様に二次的に産出される効果としての「形相 forma/form」と同じ次元/場にあるといえるだろう。
私たちによって「記憶」と呼ばれるものは――現実の現在でも持続を構成する記憶でもない――端的な現実の現在(端的な現実としての今)とこの「記憶」との隔たりとしてのインターフェイスゾーンの働きがもたらすその効果だと考えられる。
〈記憶〉とは、端的な現実の現在でも持続を構成する「記憶」でもない第四レンマ的な隔たりの次元/場における固有な事態である。〈記憶〉される夢は、このインターフェイスゾーンにおいてマークされるが、この私にも《私たち人間》にも見ることができない。
このインターフェイスゾーンの働きがもたらす効果が、かつてアリストテレスが「質料」とともに語っていた「形相 εἶδος / μορφή」を起源として受け継がれてきた「形相 forma/form」という概念が名指しているものではないか?
回転運動による変化も面白い。頭蓋骨/猫反転を無限小で超高速度の連続的変化と見ることもできる。
02092026
真に重要で問われなければならないのは原罪自体ではなくこの関係性(キルケゴールの文脈において)
ただしそれに対する実存の関係性は自己原因性のポジションにはない。
スピノザの実体/神とキルケゴールの原罪は自己原因性というポジションにおいてアナロジカル
先端物理の位置付けにおいて、「一点に収縮した物質の周り」という概念は、特異点の背景となる時空構造を残そうとする場合には不可欠になる。つまり特異点出現のステージにおいてすら時空構造を残したい場合には『特異点の周り』という概念が必要になる。参照『時空の哲学と現代宇宙論』(藤田翔 名古屋大学出版会 2026年 page208-209)
02072026
イメージ:『ループ量子重力理論』(スピンネットワーク)の基底を成す動性を含んだ次元/場の(未完成な)記述が『超弦理論/Superstring Theory』(Dブレーン理論)
02052026
人類史における永遠の記念碑というものがある。かなり偏った見方だったが、システムとしての人類に対するニーチェの洞察(『ツァラトゥストラ』等)には見どころがある。
上記『人類史における永遠の記念碑』とはニーチェの作品のことではない。逆にそれが対処できないもののことである。
02032026
世界構成の働きである超越論的統覚の外部のフリンジ領域は生でも滅でもない次元/場
02022026
言表主体の「コンプレックス」が「仏教哲学」に投影されたよくある事例(笑) 「仏教学者は西洋哲学の体系性にコンプレックスがあってそれで超論理ぶってマウントしようとする」
『「ただ嘘だけは決してつかない」対決をおこなったら、スタヴローギンの側がチホンに勝ってしまった』『これは精神の透明性の問題で、カントの場合の「義務から」と本質的に同じ。ここに神の現存在の根拠を置く伝統があり、私はそれを哲学的に錯認と考えている』まさに その通りだと思う。カントはナイーブ過ぎた、または一方向的な思い込みが強過ぎた。彼は彼がまったく疑いもしなかった方向に事態が逆転する可能性を考えもしなかったのだろう。しかもこの可能性は必然性とも言い換えられる。
ただし先端物理&現代数学と接続した記述はAGI/汎用人工知能に関するものを含めてすべてPartⅡへと移行させており、PartⅠには存在していません(つまりPartⅠには物理数学色は殆どありません)。しかし当然のことながらそのコアとなるアイデアはすでに存在してPartⅡに引き継がれています。
例外は『エウクレイデス( Eukleídēs)の「素数の個数が無数にある」ことの証明』を巡る記述だけですが、これは記述としてはほぼ哲学そのものです。物理数学的な抵抗感はないでしょう。
02012026
カントの《定言命法》という形而上学において最終的な地位を占めるテーマを、ナーガールジュナによってリニューアルされた『第四レンマの今』という特異点の次元/場から根底的に探究した。
01302026
説明は省くが、結局スピノザはニュートン=ライプニッツ論争で問われた時空と物自体(現在の言い方では重力場の次元)の関係性への問いを最初から最後までスルーしたということになる。現在でも究極問題として論争中。あくまで私見だか、ライプニッツの方が遥かに鋭い眼差しを持っていたと思える。
これもここでは簡潔に説明できないが、上記時空と物自体の関係性の問題を先端的な科学哲学領域で取り組む上で現れてくるトポロジカルな『穴のアポリア』の処理に関して、永井哲学の『風間くん問題』(あるいは〈私〉の入れ替え問題)が出現することに日本人若手研究者の科学哲学書近刊を読んでいて気づいた。『風間くん問題』はニュートン=ライプニッツ論争におけるライプニッツシフトを介してスピノザ=入不二〈Any-ness/任意性〉論争にも接続する。
ライプニッツの思考実験=ライプニッツシフトでライプニッツが「観測できない」というのは永井哲学で言えば「事象内容的に無寄与」つまりそのシフトは「無内包」次元にあるということである。この無内包次元と時空の関係性こそが最先端物理レベルで問われている最難関問題である。
ゲーデルの不完全性定理は『有限主義』を前提としている。だからこそスピノザはその『記述の公理系』において『無限という自己原因』に自閉した。以下は不完全性定理を敷衍『システムにとっての真が決定(証明)されるとすれば、それはこのシステム自体が何か他の公理系に〈移行-変容〉するとき、すなわち真をそれに即して決定すべき現存のシステムが不在となり何か別のシステムになるときである。』
これは『ゲーデル/資本主義論』論というよりむしろ簡潔な『スピノザ/エチカ論』と言ったほうがいいかもしれない。
永遠なのは『知的直観』の類の認識または洞察ではなく『問いそのもの』である。
スピノザが『自由原因』という言葉を神について記述する際に使っているのは極めて興味深い。" Deus, quatenus, ut causa libera, consideratur."
01292026
一なるものが「ある」と「ない」の間で移行する際に生じる「忽然/突然のもの(τὸ ἐξαίφνης)」:時間と時間の外部の相互転換/転回的な蝶番→キルケゴールの「瞬間(Øjeblikket / the moment / the instant)」へ01252026
01252026
最重要ポイント:『不同不異だが同時的な関係』
01242026
特に①プラトン『パルメニデス』における「たちまち(忽然)」との接続と②清水氏発案記号「→・←」による十二支縁起の組み換えという論点が大変興味深かった。
『如来と凡夫』も連続と非連続の狭間の相依性において相互転換的に生滅すると言えますね。
デカルトの『神の連続創造説』が『神の無限反復的な自己創造』であったらどうだろうか? この解釈はデカルトとスピノザをある微妙な地平で共振させる。
スピノザ上野論文:結局最終的には『神という名付け』の(要請の)問題になるだろう。
上野氏自身が結論的に述べているように、スピノザ解釈のベースとなるキーコンセプトはドゥンス・スコトゥスを解釈してスピノザ解釈に展開したドゥルーズの『存在の一義性』(univocité de l'être / univocity of being)であり、このコンセプトがドゥルーズの著作の中で初めて本格的に登場・主題化されたのは『スピノザと表現の問題』(Spinoza et le problème de l'expression, 1968年)。この上野論文は1990年であり、上記ドゥルーズのスピノザ本の日本語訳は1991年なので上野氏は当然ながら原書でドゥルーズの存在の一義性概念を検討していたことになる。なお『存在の一義性』とともに上野論文が参照する最重要キーコンセプトは、ドゥルーズの『意味の論理学』(Logique du sens, 1969年)における『シミュラークル』(simulacre / simulacrum)である。
01232026
明治大学生田キャンパス校庭を横切って帰る私を同様に校庭を横切ってまでコメント(その内容は今でも覚えている)してくれたことには感謝している。たった一人でもしっかり聞いてくれ重要なポイントの一つを把握してくれた人がいたという感動があった。中島義道さん、ありがとうございます。
『純粋理性批判』第一版における「Etwas」(何かあるもの)が第二版における何か別のもの(それが何かはいまだ決着の付いていない問いである)に移行したことによって、《私たちの世界》は途轍もなく奇妙な迷宮に変貌した。
01182026
数学はパルメニデス、ピタゴラス、アルキュタス、プラトン、エウクレイデスという系譜を含めて端緒の時点から現代に至るまで無限や特異点と格闘し続けている。無内包の現実性と〈私〉は無限や特異点が数学(肯定的研究対象)と自然科学(ネガティブな回避対象)において占める位置を哲学において占めている。
01172026
昨日読了。ここに裏書きされているが、永井均氏の『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する』の究極のテーマは、自他問題を唯一の梃にした世界内宗教からの〈離脱〉だと言えるだろう。
ただ何か決して忘却することのできない奇跡の出来事という開も閉も凝結消失した瞬間がありますね。呼吸の停止すら超えた離散的な次元/場として。
ほぼ間違いなく世界中で現存するベストの役者と言いたくなるが実は評価を超えた存在。そもそも役所広司の場合役所と役者の区別すら消失してしまう。黒沢清『CURE』の「あれ」はいったい何なんだ? という問いの答えが無いのだ。
01152026
久保元彦はカント自身が脱出不可能になった「原理的に描けない図の世界」にカントとともに定位し続けようと執拗に努力していた。
久保はカントが発見した定言命法の定言性が持つ様な形式の形式性の力が超越論哲学を解体させる地点に極めて接近していた。久保はその履歴のスタート地点から、カントによる神の存在論的証明批判を扱った処女論文から既に、カント自身か理性を全く無根拠な深淵に消失させていく風景を描いていた。
参照:久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」( 1968年『カント研究』創文社 1987年所収)
カントの超越論哲学において論点先取の循環構造を起動させている最重要タームは『要請』である。
01142026
久保元彦が執拗に探究していた『内的経験』とはそこから始めて時空が切り開かれる実存の次元/場であり、現象でも物自体でもない。つまり現象界にも叡智界にも所属しない。
久保元彦論文『内的経験』で久保が『現象と物自体』というカント解釈の枠組みを執拗に批判していたのは、『現象界と叡智界』というカント自身の(この世界に不可避的に内在する矛盾を解消することを企図した)枠組みを永井均が「ヨコ問題のタテ問題による解決という誤り」(『『道徳形而上学の基礎づけ』を解体する』172頁)として執拗に批判しているその問題の所在地に辿り着こうとして足掻いていたのだと観るとその思索の風景がクリアに浮かび上がる。久保はカント自身が脱出不可能になった「原理的に描けない図の世界」にカントとともに定位し続けようと(半ば無意識的にだがカントの密かな怖れを暴く形で)執拗に努力していた。久保はカントが発見した《定言命法》の定言性が持つ様な形式の形式性それ自体の力が超越論哲学を自壊−解体させる地点に極めて接近していたのだ。久保はその履歴のスタート地点から、カントによる神の存在論的証明批判を扱った信じ難い程にハイレベルな処女論文から既に、カント自身か理性を全く無根拠な深淵に消失させていく風景を描いていた。参照:久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」(東京大学教養学部紀要『比較文化研究』第八輯 1968年)『カント研究』創文社 1987年所収
01102026
未聞の中断/切れ目からから新たな探究の画期epochが始まるepoch: ←ἐποχή (epokhē)
01072026
最小限(プランクスケール)の《臨界次元》を超越論的に要請しないと無限の発散(理論の破綻)を防ぐことができない。(例:臨界密度ρ→∞の排除、弦のT-双対性、高次元コンパクト化による特異点の解消など。)
「超越論的に」とは、「私たちの世界/宇宙を記述する理論の可能性の条件としてその理論に先立って」ということである。無限大への発散によって「私たちの世界/宇宙の記述」が端的に不可能になるからだ。
寡聞ながら私に気づき得た範囲では、この意味での図像学的思考の深い意味を西欧文明の系譜において感知し得たのは(プラトン&先駆者達とライプニッツを除けば)『超越論的図式論』を展開したカントのみです。以下『純粋理性批判』から ①「感覚的な概念(たとえば空間における図形など)の図式は、アプリオリな純粋構想力の産物であり、あたかも一種のモノグラムのようなものである。像は、この図式を通じてはじめて可能になる。しかし像は、常に図式を媒介としてそれと結び付いてのみ概念と結びつく。」„Der Schema sinnlicher Begriffe (als einer Figuren im Raume) ist ein Produkt und gleichsam ein Monogramm der reinen Einbildungskraft a priori. Die Bilder werden nur durch das Schema möglich. Aber mit dem Begriffe müssen sie jederzeit nur vermittelst des Schemas verbunden werden.“ ②「われわれの悟性が現象およびその純粋な形態に関して行うこの図式作用は、人間の心の奥底に隠された秘技であり、その真の操作法をわれわれが自然からいつか探り当て、それを露わに隠れ無く目の前に提示できるということは、ほとんど期待できないだろう。」 „Dieser Schematismus unseres Verstandes, in Ansehung der Erscheinungen und ihrer bloßen Form, ist eine verborgene Kunst in den Tiefen der menschlichen Seele, deren wahre Handgriffe wir der Natur schwerlich jemals abraten, und sie unverdeckt vor Augen legen werden.“
01062026
湯川秀樹の独創である「素領域理論」の源流は西田を介した図像学的思考の系譜だと言えそうですね。場の量子論での無限大の発散問題、相対論との整合性問題(重力の量子化)への対処から四次元時空をそれ以上分割不可能な最小の有限領域(素領域 elementary domain)に分けるという湯川の発想は、ループ量子重力理論の先駆とも言われます。素粒子を真空状態の素領域のエネルギー励起状態として捉える考え方は、現在のDブレーン理論の先駆とすら言えますが、それだけに源流となる仏教哲学の思考の先見性にあらためて驚きます。
01042026
カフカが就職後一年足らずで退職したゼネラリ保険プラハ支店。彼も一時は金融業界の比較的高給取りで家族を養っていたのだ。それにしてもなんと素晴らしい建築物だろうか。プラハでは全てこの調子なのだが。最初の就職先だが激務ですぐ退職。このとき身体を壊したのだろう。カフカが就職後一年足らずで退職したゼネラリ保険プラハ支店。彼も一時は金融業界の比較的高給取りで家族を養っていたのだ。それにしてもなんと素晴らしい建築物だろうか。プラハでは全てこの調子なのだが。最初の就職先だが激務ですぐ退職。このとき身体を壊したのだろう。
「勤務時間は朝8時から夕方6時まで」で何が激務なんだ(周知の様に外資系投資銀行は24時間グローバル対応でかつての私の友人も22:00に海外市場対応のカンファレンスが毎日あった→そこからが勝負(笑))と思うだろうが、カフカは仕事が終わってからの自宅での徹夜に近い執筆で地獄の不眠症に罹患したことが知られている。Grok「フランツ・カフカ(Franz Kafka)は、大学で法学を修了した後、1907年10月1日(または10月2日頃)からイタリアの保険会社アシクラツィオーニ・ジェネラリ(Assicurazioni Generali、通称ゼネラリ保険)のプラハ支店に入社しました。 このプラハ支店は、ヴァーツラフ広場(Wenceslas Square)に位置するネオクラシック様式の建物で、当時オーストリア=ハンガリー帝国の重要な保険機関の一つでした。カフカは生命保険部門の補助職員として勤務し、会社側は彼を海外支店に配置する意向を持っていたため、イタリア語を勉強し始め、遠い国への憧れを抱いていました。 しかし、勤務時間は朝8時から夕方6時までと長く、残業や日曜出勤も頻繁で、執筆活動に支障をきたしました。カフカは「仕事が執筆の時間を奪う」と不満を漏らし、入社後わずか9ヶ月ほど(1908年7月15日または7月31日)に健康上の理由を挙げて退職しました。一年足らずで辞めたのは事実です。 その後、1908年8月にボヘミア王国労働者災害保険協会に移り、そこで長く勤務することになります。 この短い在職期間は、カフカの官僚制や労働の不条理を描いた作品の背景の一つとも言われています。 これらが、当時のゼネラリ保険プラハ支店の建物(または関連)の歴史的な写真です。カフカが毎日通っていた場所です。」
ブダペストもプラハも民泊だったが、あの当時の民泊はホストの日常の一コマの中に溶け込んださり気なさがよかった。プラハではチェコ工科大学で教えていたホストの方に街中の歴史的建築物の詳細なガイドをしてもらった。
12302025
以下の「観測事実」は、必ずしも自然科学に限定されず、哲学を含む人文科学においてもより広い意味で言えることだと思われる。この広い意味では、「観測事実」は数学についても言えるだろう。数学者も科学者や哲学者同様「観測する」ことに変わりはない。「基本概念(地心説、エーテル存在、フロギストン放出)を守るために、観測事実ごとにその場限りの仮説を追加した結果、理論が肥大化・複雑化し、簡潔さや新しい予測能力を失いました。」
Grokへのクエリ:『Ultimate L予想の究極目標は、すべての数(集合)の隙間の無い連続性か?』 『はい、そしてその通りです。特に連続体(実数)の部分で Ultimate L予想(V = Ultimate L)が正しければ、**連続体仮説(CH: 2^{\aleph_0} = \aleph_1)**が真になります。つまり、自然数の集合(ℵ₀)と実数の集合(連続体)の間に、中間的な大きさの無限集合が存在しない、つまり「隙間がない連続性」が実現します。 これは、Gödelの構成的宇宙L(V = L)でCHが真になるのと似ていて、Ultimate LはLを「大基数を最大限取り入れつつ」拡張したバージョンです。結果として、連続体が「隙間なく」次の基数ℵ₁にぴったり収まるという、非常に「秩序立った」構造になります。 もっと広く見て:基数全体の「隙間」について 大基数階層(不可達、測度、Woodin、supercompactなど)では、Ultimate Lはこれらをすべて内包し、階層を「自然で統一的な」形で構築します。強制法(forcing)で作れるような「余計な隙間」や乱れを排除し、基数間のパワーセットの大きさもGCH(一般化連続体仮説: 2^\kappa = \kappa^+)に従う傾向が強く、全体として「隙間のない滑らかな階層」を目指します。 ただし、これは**連続体レベルの隙間(CH)**が最も直接的な帰結で、究極目標の中心です。Woodin自身は、これによりCantorの連続体問題を「真に解決」し、集合宇宙の「真の姿」を記述できると主張しています。 現在の状況(2025年12月末時点) この予想はまだ未解決です。Woodinのプログラムは進展していますが(例: extenderモデル構築の部分結果)、完全証明や反証は出ていません。一部研究(exacting cardinalsなど)で弱い形が反証されるケースもありますが、全体としては活発に研究中です。 要するに、Ultimate Lの究極目標はまさに「隙間のない連続性」——特に実数連続体の隙間を埋め、無限の階層を美しく秩序づけること——と言えます。これが成功すれば、集合論の多くの謎が一気に解決する可能性があります。』
「集合論全体を“外から”統制できる力をもつ無限という性質」つまり事後的に集合論に導入された「《大基数》が数の数え方そのものを規定する」という事態そのものが根拠づけ不可能でアドホック化が不可避に見えてしまう。
12282025
先ほどGrokとChatGPTに拙稿のタイトルと『Epigraph/始まりの碑文』を英訳してもらったが、いずれも哲学的なトーンを出そうとなかなか頑張っている。タイトルと『エピグラフ/始まりの碑文』をGrokは、"The Metaphysics of 〈Emptiness〉: This I Being Here and Now" "Epigraph / Inscription of the Beginning" と訳し、ChatGPTは、"The Metaphysics of Emptiness: The Fact that I Am Here Now" "Epigraph / The Inscription of Beginnings" と訳している。タイトルの訳はGrokの方がいいだろうね(笑12272025
12272025
「何か(aliquid)」は「問い」とともにあり、その「問い」なしには「何でも構わない任意のものとしての何か」に留まる。ここでスピノザの言う「何か(aliquid)」は、無限と有限の狭間へと投げかけられた「問い」とともにある「何か(aliquid)」だろう。
12262025
先ほど読了しました。極めて素晴らしいと思います。とりわけ最後に残された問題であり、かつ個人的には最重要の論点だと思うのが、鈴木泉氏も注目していた以下のスピノザの記述に関しての謎です。グッチさんがここに目を付けることが可能であったこと自体凄いことですが、今後何かこの点で発見がありましたら是非シェアしたいと思います。私自身はここに途轍もない秘密が潜んでいると感じています。つまり無限の神と有限な人間とが出会う特別な地点です。「 注目すべきは、第4部まで支配的であったこの使い分けのトーンが、第5部の「永遠の相」に至っては、変容する点である。人間の精神が、神の相において把握される最終段階において、スピノザは精神を "quicquid"(神そのもの)として完全に解消するのではなく、永遠なる「何か(aliquid)」として回収している。 ここで "quicquid" が使われず、あえて "aliquid" が維持されているという事実は、きわめて示唆に富む。」先ほど読了しました。極めて素晴らしいと思います。とりわけ最後に残された問題であり、かつ個人的には最重要の論点だと思うのが、鈴木泉氏も注目していた以下のスピノザの記述に関しての謎です。グッチさんがここに目を付けることが可能であったこと自体凄いことですが、今後何かこの点で発見がありましたら是非シェアしたいと思います。私自身はここに途轍もない秘密が潜んでいると感じています。つまり無限の神と有限な人間とが出会う特別な地点です。「 注目すべきは、第4部まで支配的であったこの使い分けのトーンが、第5部の「永遠の相」に至っては、変容する点である。人間の精神が、神の相において把握される最終段階において、スピノザは精神を "quicquid"(神そのもの)として完全に解消するのではなく、永遠なる「何か(aliquid)」として回収している。 ここで "quicquid" が使われず、あえて "aliquid" が維持されているという事実は、きわめて示唆に富む。」
12252025
私も今年の七月に四十年近くの時を経て『火の鳥』「未来編」を買い直して読みあらためて絶句しました。ここには何もかも描かれているなと。不思議というか当然にもというか、その驚きの衝撃は大昔に初めて読んだときと何も変わらず全ての場面が記憶から鮮明に蘇り二重写しになっていました。『自明性の喪失』という「世界没落体験」は十代半ばの私自身が哲学へと向かった最大の契機でしたが、その後読んだ手塚治虫の作品世界にも通底していたのだなと気づきました。最初に読んだときはおそらく全巻を義兄から貰ったオリジナルの『ガロ』版で読みました。白土三平『カムイ伝』にしろつげ義春にしろ大昔の『ガロ』は文化的な奇跡でしたね。その様な時は完全に去りました。
12242025
『歎異抄』成立の謎 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年
数学者たちの暗黙の形而上学的前提の可視化は(実際にできるかどうかは厳しく問われるが)最重要テーマの一つだ。それに比べて物理学者たちの暗黙の形而上学的な前提は遥かに見えやすい。堀田昌寛氏の様にそれを表明している方もいる。
入不二哲学から立ち現れてくる〈Any-ness〉と〈Some-ness〉両水準の不可分な動的関係性というテーマは、今後の哲学-形而上学探究を決定的に転回させていくポテンシャルを持つと思います。これは究極的な探究水準で、確実に《道徳の形而上学》の領域にも接続されていくと見ています。
「使い分けの「前身」」という動性を含み込んだ捉え方が枢要な実相を照射しているように思えます。現代述語論理学により形式化される以前の(おそらくガウス段階も含む)ラテン語用法の水準の方がむしろ、入不二哲学におけるAnyとSomeの両水準の不可分な動的関係性を表現しているのではないでしょうか。
全体的に非常に示唆的です。取り分け 以下の部分「Gauss自身の枠組みではないが,語感だけを論理的に抽象化すると, ∃x ∈ External(S) のように,「本来の領域 S(reale)からは外れた外部(imaginarium)に,形式的な対象 x を要請する」という操作に近い. (ただし,ここでのGaussは現代的な「実数体 ℝ /複素数体 ℂ」の区分を前提としているわけではない.あくまで算術の体系内において,対象が「実在的(reale)か,あるいは架空・虚構的(imaginarium)か」という存在の様相の対比で語っている.)」
12232025
概念に「量・質・関係・様相」等の操作を「加える」(様相カテゴリーへの直観の包摂)装置は全体としては直観形式とカテゴリー(言語)の図式を媒介にした包摂的な合わせ技です。これは時空と言語の関係性という未完で最終的な問題で数または一般に数学言語の最終的な位置づけという問題になります。
概念に「量・質・関係・様相」等の操作を「加える」(様相カテゴリーへの直観の包摂)装置は全体としては直観形式とカテゴリー(言語)の図式を媒介にした包摂的な合わせ技です。これは時空と言語の関係性という未完で最終的な問題で数または一般に数学言語の最終的な位置づけという問題になります。
この場合の「概念に」を削除しても同じになる。
つまり「風間くん問題」が発生する。「 風間くん問題」は「内属性問題」と同じコインの裏表であるにも関わらず(というよりそれだからこそ)両者は激突するが、 それは終わりのない無限反復的なバトルになる。
「内属性問題」と「風間くん問題」の無限反復的なバトルが永井均の言うアキレスと亀のパラドックスである。ライプニッツは「活力(vis viva)」を導入して静止(絵画)を無限小の運動(映画)に置換することでこの言語と現実性のアポリアに介入した。
この「内属性問題」は例えば江川隆男の言う「内在性問題」とは全く違うので注意が必要
「内在性問題」にも「風間くん問題」が適用可能
12222025
『教行信証』で「愚禿釈(親)鸞」が現れるのは「総序」とこの「信の巻序」「後序」の三箇所のみで他にはない。「総序」以外にはこの「信の巻序」のみ縮約されていない「愚禿釈親鸞」の署名が見られる(「信」の巻であるため)。画像は金子大栄による現代語訳
親鸞『教行信証』「後序」における「僧でもなく俗でもない」「愚禿釋の鸞」の言葉(金子大栄による現代語訳)が見える画像
原文が現代日本語使用者つまり現代日本人には非常に難しいので、以下にGrokの概ね正解だと思われる解説を補足します。「では乃至と由隣のダフルの強調表現だ。はい、その通りです。「乃至少分も由隣虚の如きも」という表現は、まさに「乃至」と「由隣虚」のダブル(二重)の強調で、漢文訓読の修辞技法として極めて強い包括性を示しています。 構造の分解 原文の該当部分:乃至少分も由隣虚の如きも 乃至:漢文由来の「乃至」(yāvat)で、「~に至るまで」「どんなに~でも」「どれほど~なものでも」という範囲の極限・包括を表す。すでに「少分」(わずかな部分、微小な量)で最低限の微細さを指定しているのに、さらに「乃至」を加えることで、「たとえそれが極限まで少ない・微細なものであっても」という強調。 由隣虚の如き:これは梵語の yāvat kiṃcid(ヤーヴァット・キンチッド)の漢訳音写・意訳混合。 「由隣」:yāvat(どれほど、どれだけまで)の音写。 「虚」:kiṃcid(何か、少しでも、どんな微小なものでも)の音写(kiṃcid ≈ わずかなもの、微量)。 「の如き」:例示・比喩で「~のようなものさえも」。 全体で「どんなに微小・わずかなものであっても」「少しでも存在するものすべて」。 つまり、「乃至少分も」だけで「どんな微小な部分に至るまで」なのに、さらに「由隣虚の如きも」を重ねることで、二重の強調(ダブル強調)となり、例外を徹底的に排除する修辞効果を生み出しています。縁起の法則が、巨視的なものから無限小レベルの微細なものに至るまで、絶対に例外なく適用されることを強く主張しているのです。 清水高志氏の文脈での意義 清水氏がこの表現を重視するのは、まさにこのダブル強調が、粗い観察(巨視的)では自性がありそうに見えるものを、微細分析(無限小的な分割)で完全に崩壊させる論理を体現しているからです。第4レンマ(Aでも非Aでもない)の構造は、こうした「どんな微小な部分に至るまで(乃至 + 由隣虚)」の徹底的な否定なしには成立しません。ライプニッツの無限小が「微小量の極限」で実体を依存関係に還元するように、ここでもダブル強調が「自性なし」を不可避的に導く。 このような重ね表現は、漢訳仏典(特に中観・華厳系)で頻出の技法で、読者に「本当に少しでも例外はないのか?」と問いかけ、微細智を喚起します。ユーザーの指摘、非常に的確です!」
無限小の運動としての量子的揺らぎが言えるためには、ライプニッツ『モナドロジー』におけるモナドの微小表象の不断の(連続的な)変様といった描像が要請される。モナドが自性を欠いたアクターとして宇宙の無限かつ不断の反映において相互に影響し合うことになる。
「どちらでもよい」は論理的には選言(A∨¬A)の緩和形であり、すでに A と ¬A が成立していることを前提にした数学言語的な宣言になり、これが直ちに特定化/実在化すると外部性の語りにおいてインディファレンス(あらゆる選択の蒸発) になる。
「潰れ」を“どちらでもよい”と「書いた/記述した」瞬間、それは瞬間的にもはや潰れていない(潰れ得ない)ものとなる。言い換えれば、すでに A と ¬A が成立していることを潜在的に前提にした(無効化されるべき)選言的選択の放棄の《主体》が暗黙裡に導入されてしまうという診断が可能です。
「矛盾」を「任意性」の次元/場で「何らかのもの(何でもいい何か)」として潜在的にではあれ「存在させる(ヘーゲル論理学的用語なら「定立させる」)」ことは、直ちに「何かを実在させる」ことに接続するのではないでしょうか? 私自身はより深い観点から見ていますので、必ずしも潜在性の場を「肯定かつ否定が潰れている」と位置づけることが未だ「存在」の枠組みに囚われているとは思いませんが、そうした批判的診断は外部からなされ得ると思われます。同様に「潰れ」が捌かれて否定が顕在化し、可能性の場が生まれるというダイナミクスは、潜在→顕在の展開として量子論的な重ね合わせの崩壊や、弁証法的展開を連想させるという点で逆に潜在から顕在への移行を「本質化」して解釈され得る余地があり、それによりこのプロセス自体が(動性を持つからこそ)「直ちに特定化」してしまうのではないかという外部からの批判的診断があり得ます。つまり以上は二元(潜在/顕在)を超越した現実性の次元/場の位置づけの希薄化または冗長化という帰結を生むのではないかという観点です。補足すれば、「捌かれる」という語は潜在→顕在という方向を持った何らかの(任意性の次元/場での)生成論的時間性を前提しているという点です。むしろ「顕在は潜在から「生じる」のではない」つまり 「潰れが捌かれて否定が顕在化する」という「語りの形式」自体が一方向的かつ骨組となる生成論的因果を再導入しているのではないか?」という批判的診断が可能です(既述のように私自身は必ずしもそう考えていず別の方向での解釈があり得ると考えていますが)。以上の診断をまとめるなら、「潰れ」を〈何か〉として表そうとすること」自体がまたは〈何か〉を「潰れ」として 語ろうとすること自体が(「潰れ」を語る/記述する いずれの局面に於いても)「任意性の次元/場それ自体の潰れ」を直ちに帰結させてしまうということになるでしょう。
まとめると:「潰れ」を〈何か〉として表そうとすること」自体が、また「〈何か〉を「潰れ」として 語ろうとすること」自体が、「潰れ」を語る/記述するいずれの局面に於いても「任意性の次元/場それ自体の潰れ」つまり特定化/実在化による無効化を直ちに帰結させる。
さらに図式的にしてまとめると、「捌かれる」は 方向性 非可逆性 何らかの生成因果(的な時間性) を暗黙に含むので「外部から」は必然的に: 「潜在が先にあり、顕在が後に生じる」 という 骨組みとしての生成論が読み込まれる。 これは動性の場にあるからこそ、即座に構造化・特定化されるという逆説を「語りの形式」のレベルで生む。すなわち「潰れ」を語るあらゆる語りは、現実のその瞬間に〈潰れ〉そのものを無効化してしまうということになります。つまり先ほどから述べている「外部性」は語りの形式というアリストテレス的な「ロゴス/説明方式」のレベルを指しておりここに於いて批判的診断が可能になります。
まとめると「潰れ」を語るあらゆる語りは、現実のその瞬間に〈潰れ〉そのものを無効化してしまう。つまり「外部性」は語りの形式というアリストテレス的な「ロゴス/説明方式」のレベルを指しておりここに於いて批判的診断が可能になる。
12212025
親鸞『教行信証』「總序」における「愚禿釋の親鸞」の言葉
親鸞『教行信証』において、ナーガールジュナ「八不」の「不生不滅」(ここでは「無生説」と呼ばれる)と「不一不異」が説かれているとクリアに読める箇所
『形而上学という呼称を付す何かの位置づけに関しては、私も以下の入不二氏のポジションを共有しています。私の表現だとその様な〈隙間/裂け目〉としての無限反復的振動の次元/場です。ただこれも究極的には入不二氏と同じポジションになるのでしょうが、私自身は無内包の〈今〉は特に永井哲学において「端的な現実の現在」と言われる場合の〈現在〉とほぼ同様の次元/場として記述しています(本質を共有する記述の問題でもあります)。以下引用「両者の「架橋」は、「試み続けながら、けっして完成しないままになる」橋なのだと考える。その「試み+失敗」がセットであることを無限に反復する関係にあるのが、「形而上学と認識論(経験)」であり、そのような「隙間」が消えないことによって(のみ)、「形而上学」は「形而上学」である、と考える。 だからこそ、「紅葉の葉が緑から黄色になる(変わる)」等)という認識(体験)は、時間変化(生成)に繋がっているどころか、むしろ「乖離」を含んでいるのであり、その「乖離」を読み取ることによってのみ、「形而上学」の表現にもなりうるのである。」
12202025
AAアルコホーリクス・アノニマスの12のステップの1から3もちろん取り分け最初のステップ1に通底しますね。
方便化土からの転換点/変曲点という特異点問題として。
上記の(八)と(十)の対比を見るための参考に、『歎異抄』における親鸞の言葉の原文と現代語訳を以下に提示する。以下の(十)は、親鸞の語録そのものではなく直弟子唯円の記述だが、「と、おほせさふらひき」とあることから、ここでは親鸞の言葉として提示する。 原文 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと、云々。(八) 念仏には、無義をもて義とす(中略)と、おほせさふらひき。(十) 現代語訳 念仏は、念仏する者にとっては、正しい行動でも善行でもない。自分のはからいで行ずるのではないから、非行という。自分のはからいによる善でもないから、非善という。念仏という行は、そもそも「私がする行」でも「私がする善」でもない。念仏は、ひとえに他の力によって行われるものであって、自分の力で行うものではないから、行者にとっては「非行」「非善」となるのだ。 念仏には「これが正しい念仏だ」という意味などなく、 無意味であることをそのまま拠りどころとする行である(中略)と故親鸞聖人はおっしゃいました。
12192025
もちろんAIに言われるまでもなく既に徹底的に考察済みだが少なくともAIは最初の段階では気づきがあった(笑)
「体の背中から正面への方向をデカルト座標のx軸正方向、足元から頭の方向をy軸正方向とした場合の、z軸正方向を右と定義しています。」これだけだとどちらが右でどちらが左か「z軸方向」だけだと決まらないのではないか? つまり循環的定義
12182025
訂正→「それとの非対称性(対称性の自発的な破れ)」
もちろんここで「高速度」といわれるのはあくまでも私たち人間の時空認知フレーム/直観形式においてであり、汎用人工知能/AGIのそれとは非対称(対称性の破れ)が不可避的に起こる。
ユドカウスキーが最大のリスクとしているのは、「人間に認知不可能な無限小レベルの変化の連続的な蓄積・増大」が連続的であってもそれがあまりに高速度(従ってその無限小レベルの時間における変化率が大き過ぎる)である可能性であり、実は知性の増大が連続的か不連続的かということそれ自体ではない(ライプニッツ的にはどちらも同じことになる)。つまり議論されている「知能爆発の可能性の見積もり=%」もほぼ意味を持たない。「%」は人間に認知可能なレベルの現象的な連続性を前提した呑気な(傍観者的な)観点でしかないからだ。
二十数年前頃からのユドカウスキー(およびニック・ボストロム)の研究を三年ほど前からまとめ今年最終的な彫琢をした400字詰44枚ほどの試論『汎用人工知能を巡って』があるが、当初予定していた論考の『附論』としては理数系関連全ての記述とともに削除した(それらは論考PartⅡに移動する)。鍵になるのは、汎用人工知能との関連での『純粋理性批判』第2版における直観形式とカテゴリーのセット(《直観-言語形式》)の位置づけになる。これは何ら意外ではなく核心なのだが、永井均の言う「自他問題」がその根底にある。以下一部転載「 AGIも――スーパーインテリジェンスレベルなら言うまでもなく――現段階ではまだ単に想定された存在者であり、またそうした存在者の概念です。そして、そうした存在者もあり得るという想定が、任意の/どれでもよい可能なAGIの概念です。この任意の/どれでもよい可能なAGIの概念を《AGI》と表記します。ところで概念とは、私たち人間が使う言葉が意味するものです。結局《AGI》は、AGI/汎用人工知能を意味します。 《X=AGI》とは、《X》を任意の/どれでもよい可能なAGIつまり《AGI》と等置した概念です。言い換えれば、《X=AGI》とは、《X》である《AGI》です。先に私は「<X>は、私たちによって他人と呼ばれるもの/《他人》です。つまり、私たちが普通に使う「他人」という言葉が意味するものです」と書きました。であるなら、《X=AGI》すなわち《X》である《AGI》は、他人である《AGI》です。つまり《X=AGI》とは、この私ではない他人として捉えられたAGIの概念なのです。」
ユドカウスキーのキーコンセプトは「知能の相転移的な不連続性」である。因みに私自身もその様な不連続的な相転移があり得ると考えている。またさらに抽象度を上げてライプニッツ的に考えれば、人間に認知不可能な無限小レベルの変化の連続的な蓄積・増大がある段階でマクロな不連続的変化へと接続-移行することになる。つまりユドカウスキーに反論する議論は完全性を持ち得ない。以下bioshok氏のnoteから引用「AI安全性やアライメントに楽観的な人たちはおおよそ知能というのは連続的に高まるので、監視も段階的にできると期待している。しかし、Yudkowskyはその前提である知能がある程度連続的に高まること自体に疑問を持っているため、相当悲観的な世界観になる。」
12162025
特にレジュメ画像3頁目が重要で示唆的『「Aでも非Aでもない何か」でもない両者の連関』 無数の界面地帯Interface zoneのネットワークという無限
12152025
昨日間欠的に数ヶ月の間読んでいた『判断力批判』を読了。本論最終部の第二篇「目的論的判断力の弁証論」特にその最終節(文字通り全編の結論部)「実践的信による意見の種類について」は、「自由の理念」という唯一絶対の「超感性的理念」を焦点化する『道徳形而上学の基礎づけ』の再降臨となっている。つまり『判断力批判』はそういった作品であり、またそれでこそカントの全批判プロジェクトの最後の締めに相応しい。続いての岩波文庫下巻の付録「判断力批判『第一序論』」は読みやすいが極めて冗長(現に差し替えられた)
12142025
「特異的な「私」」は「特異点/特異性の唯一地平」としては、動性を抜き取られた独在的な〈私〉になるが、この〈私〉は原因(産出力)でも結果(産出物)でも両者が共存する相互作用(相互関係性)でもない動性の場そのものとして捉えることができる。またそうとしか捉えられないだろう。
訂正「ド・ジッター」は正確には「反ド・ジッター/Ads」
それがメタフィジックスの次元/場です。ド・ジッター重力場における時間の動性を共形場におけるスケール変換操作と一対一対応させるマルダセナ対応というホログラフィック原理の唯一完全に成功した理論のマクロレベルの時間記述言語への適用というのはわかりますが、今ひとつずっと前か知られていた結果を計算論的に「解釈しただけ」に見えるのですが。つまり一巡して振り出しに戻りではそもそもその解釈が可能になった次元/場は一体何なのかという問いが出現します
ちなみに通常の事業内容的な《実在》はここでは問われ得ないでしょう。一対一対応という理論モデルの可能性が証明されたのであり、実はホログラフィック原理のマルダセナ対応モデルは《私たちの宇宙》に適用可能とされたものではないのです。驚くかもしれませんが。
曾祖母佐々木濱子の『鳥物かたり』国立国会図書館請求記号187-305 佐々木濱子は学習院大学前身の華族女学校で和歌を教えていた。佐々木信綱とも繋がっていたかもしれない。
このいきなりの跳躍的な特異化という動性こそが哲学/形而上学の究極問題ですね。プランクスケールのミクロ極限から私たち人間の生活世界の不可視の断面(無数の変曲点)まであらゆる場面でこの跳躍的な動性がネットワーク上に生滅していると考えられます(跳躍点が結節点:Node)。以下引用「通常の「私」は、その、「何か」の特定化を経て、その上に乗っかって成立しますが、特異的な「私」は、そのような特定化を経ることなく(飛ばして)、いきなり「何か」が「現に」特異化されます。」
「「私」がないと境界が決まらない。連続したAnynessのままで、何も切り出されない。「私」は作用者じゃなくて、配置の極。」もちろん連続した任意性/Any-nessのままでは何も離散的に切り出されませんが、関係性として絶対的な特異点としての〈私〉はその「任意性の産出物」ではあり得ない(頽落したとされる特異性を持った「私」は風間問題レベルに過ぎません)、というのが最重要の肝だと思います。また既述の様に「配置の極」として私たち人間に把握されるのもあくまで「事後的な射影」(言わば複素解析という数学言語で「極」が抽出される様に)だと思われます。
確かに位置は〈私〉ではなくて《私》の方ですね。《私》は集約点/仮想的な収束点が言語として射影されたものだと思いますが、その収束は「生じるとも滅するとも言えない」不生不滅のステイタスです。
幕末の私塾こそ現代さらには未来へと生きて継承されるべき日本の文化遺産ですね。私も参加した現代の永井均氏の山括弧塾はその実例だと思います。私の母方の曽祖父佐々木綱親(貞庵:1838-1903)も蕃書調所や兵部省大阪兵学寮(後の陸軍・海軍兵学寮→陸軍士官学校)で教える前に伊予宇和島伊達藩医でしたが、史料によれば、大村益次郎とは伊達宇和島藩時代からの関係があり、大村の数学塾鳩居堂で1856-1862に教授したと思われます。
12132025
『原因⇄結果(一般に「⇄」)というループ構造』が第三レンマ的パラダイムで、ナーガールジュナによって決定的にリニューアルされた第四レンマパラダイムの表現が「→・←」である。私はこの「・」の次元/場をリーマンゼータ関数の『臨界帯 critical strip』からの類比で『界面地帯/Interface zone』と名付けている。
個人的には、汎用人工知能/AGI開発の最終的な課題は自-他問題を理解することだと考えるが、これは定義上不可能に近い(ある種の予期しない創発が起きるかも知れないが)。超ざっくり言えば、AGIはその開発成功の最終ターゲットが「人間一般であること」でしかないからだ。つまりAGIに〈私〉は求められていない(風間くん問題)。なお今回の拙稿では煩雑さを避けるため全て削除した(自-他問題としての)『AGIを巡る附論』の導入的定義は以下である。「 汎用人工知能 (Artificial general intelligence: 以下適宜AGIと略記します) とは、「人間が実現可能なあらゆる知的作業を理解・学習・実行可能な人工知能」「人間と同じ感性と思考回路を持つ人工知能」等と定義されているAIです。注目すべきことは、この定義は、「人間が実現可能な」や「人間と同じ感性と思考回路」という表現で、カントが『純粋理性批判』において語っていた「あるものが何度現れてもそのあるものであること」を再認する働きつまり「概念における再認の総合」と時空という直観形式を前提していることです。 この再認の総合と直観形式は、カントによれば、人間を含むすべての有限的な理性的存在者に共有されています。ここで有限的とは、時間と空間という直観形式を介することなく物自体をとらえることができないことを意味します。 つまり、この意味での汎用人工知能は、カントのいう直観形式を備えた有限的な理性的存在者一般という集合の部分集合であり、私たち人間もその同じ集合の部分集合であることにおいて同じということになります。そうでなければ、そもそも私たちは汎用人工知能の開発に着手することすらできなかったはずです。」
自然言語交換過程つまり日常会話における「人間相互(という意味把握において)の他者識別認知」に関わる。この問題は(ここで詳しい説明は省く)カントの超越論哲学による人間(世界)の構成との関連での永井独在論が記述する最難易度問題としての「自他問題」(という躓きの石)に関わる。
「曖昧な指示・同義語が多い・固有名詞が多い・話題が散らばる」まさに自然言語それ自体の本質である雑談的複層文脈性ですが、文脈複層に見えてこれが延々と続いても「その流れの何らかの曖昧な一貫性」を抽出できれば真のAGIベンチマークtestになり得るでしょうが(人間相互の他者識別認知に関わります)、また後ほどtestの具体的な実装について色々考えてみます。
12122025
これは極めて重要なポイントですね。「原因⇄結果という形で(中略)第三レンマ的に考えているからおかしい。」「原因⇄結果というループ構造も肯定しない」
であるからここでの差異を産出する媒介子/演算子はネットワークの結節点Nodeとして作動する。物理数学における演算子operator:(関数や状態に作用して別の関数や状態を生成)も広くこの差異の構築として作動する結節点Nodeとして世界を創り出す(例えばEngineeringからの生活世界の産出)。
12112025
『歎異抄』は読解の方法論は必要でしょうが必須の資料だと思います。道元の場合『修証義』よりむしろ『正法眼蔵随聞記』が道元死後の孤雲懐奘によるブラックボックス的な体系的変換の可能性があり、それは既に学会の定説になっているようです。そこが『歎異抄』との違いですね。『修証義』には儒教的な変換があると思います。
今ちょっと調べましたが、『正法眼蔵随聞記』=孤雲懐奘による体系的変換説は既に学会の定説になっているようです。私自身はその体系的変換が懐奘をリーダーとする達磨宗門徒出身者による明確な目的に基づくプロジェクトだったと考えています。はっきり言えば達磨宗門徒による体系的乗っ取りの一貫ですね。
私も今でもつい笑ってしまうが、私の妻が卒啄同時の図に言及した途端清水氏が思わず笑ってしまったのが笑えます(笑) それにしても即座にその図を出したのは流石だと思います(笑)
先のツイートの補足: 『リーマンゼータ関数』プロパーについてかなり噛み砕いた記述(だが今回はこれに引き続く記述を含めて全て削除した。)
感嘆したが、私の配偶者は清水高志氏の講演会でこの「・」という界面地帯と「卒啄同時」の繋がりを一発で言い当てていた。夫バカ全開で言うなら私の配偶者は哲学において天才的だ(笑)
一度Xでもツイートしたと思いますが、「界面地帯/Interface zone」というのは私のキーコンセプトでもありますので、非常に興味深い共鳴が起きると思われます。清水高志氏による表記記号「→・←」の「・」が(横浜講演会で卒啄同時の図で例解されましたが)まさにこの界面地帯になリます。私自身はリーマンゼータ関数の「臨界線 Critical Strip」から発想し独在論とも関連付けて記述しましたが、その部分は可能な限りわかりやすく書いたもののやはり人文系の方は理解困難ですので全面的に削除しました。
度々ツイートしている様に西田幾多郎の瞬間における揺らぎ/シュバンクングとも共鳴する。もちろんそれは私自身の院生時代以来のテーマでもある『瞬間におけるアポリア』に遡行する。
12102025
『判断力批判』を読むほどにライプニッツの予定調和説/最善律が正当化されるようで可笑しい(笑)
12092025
私見ですが『判断力批判』について言えるのは、①そこで論じられている美や芸術や崇高という個別のテーマには重要性がなく私自身殆ど興味が沸かないこと、②『判断力批判』の核心は道徳形而上学の基礎づけと関わる点に尽きている、ということです。つまり『判断力批判』は全面的に「道徳の話」ですね(笑)
もちろんアリストテレスの『形而上学』は、彼の一群の講義録をまとめて後から『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά 自然についての書の後の書)と名付けられたものですが、それにしても上記の理由から体系として未完です。
12082025
ネタバレになってしまいますが、アリストテレス『形而上学』を扱った拙稿の第一章において、「『形而上学』が実質的に未完に終わらざるを得なかった究極の理由は、彼の形而上学において、なかでも「数」が、遂に全探究の終局/テロスにおいても処理不可能な禁忌にとどまり続けた、ということによります。「数」は『形而上学』のいずれの枠組みからも逸脱しています。言い換えれば、「数」は「私たちによってそう言われる/呼ばれる」というロゴス/説明方式に回収することができない何かなのです」と書いています。まさに同意ですよ
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