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日常×仏教×易経=第五(中道)喜:水雷屯:玉:貪:生:因:苦諦:慈怒:坎為水:剣:瞋:老:縁:集諦:悲哀:水山蹇:鏡:痴:病:果:滅諦:喜楽:沢水困:玉:貪:死:報:道諦:捨(#)
2016.04.06
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意外と誤解されたままの身体操作(で良いのかな?)に、「力を抜く」というのがある。実際、「ある力を抜く指示」をされたとして、それが当然のように出来る身体感覚があるのなら、実は指示は不要だったりして。多くの場合、力は入れることしか出来ないのである・・・( ̄▽ ̄;これは自動車事故等で対象物を避けられず、むしろ対象物に向かって行ってしまうという作用に似ていて、意識が向いている方向や対象に「集中してしまう」という仕組みの影響も大きいようだ。では「力を抜くにはどうするか?」というと、必要な力や姿勢等に(意識を)集中させるしかないのである。「意識出来ない力を入れる」というのも同じで、座禅が好例だが、丹田に力を云々と言われて易々と丹田に力を入れられる人に座禅は不要とすら言えるかも知れん程である。なので、座禅では正しい姿勢を維持することで自然に丹田に力が集まるように取り組むことになる(丹田重視の場合)。古流(武術)の多くも細かな違いはあるけれど、要求される姿勢を取れば、勝手に力が丹田に入るようになっている。「丹田に力を入れる」方法として一般的に簡単なのは、「鼠蹊部を緩める」ことだろう。といっても別に大袈裟な方法は不要で、「しゃがむ」だけで良かったりする。和式トイレは「丹田養成所」として偉大だったのであるwまた「鼠蹊部を緩める」障害になる一つが股関節の位置感覚で、股関節位置が実際より外にあるものと感じていることが多い。実物は坐骨下端のチョイ外上辺りなのだけれど・・・参考)↓座禅で鼠蹊部が緩むのも分かり易いかな?http://araya.s2.zmx.jp/kokansetsu.htmlそして丹田に力が入るとアヤシィ系では会陰も機能して云々(ry・・・もとい、整骨や外科手術類が不要な状態での腰痛なら、少なくとも軽減することが多いです。もっとも上半身の使い方に起因しているケースもありますが(^^;仕事の指示などでもそうですが、「力を抜け」ではなくて「(どこそこに)力を入れろ!」と指示した方が意識の性質として適切な指示になる可能性大だったり(そうでなかったりw)。女子スキー・ジャンプは勿体なかったですね。足幅(スタンス)も、今一つ記録が伸びなかった原因のような気がします。荒涼今日ノ楽シミモ今日ノ哀シミモ又、タダ、タダ通リ過ギテ行クダケナノデシタ捨テラレタ哀シミガ漂着スル海岸デハ、今日モ恋ガ終ワリ始マリヲ繰リ返シテイマス窓ヲ叩ク波音ガ遠クナルマデハ、今日モ浮カブ面影トノ寂シイ戯レガ続クノデシヨウ
2014.02.13
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以前からの怪しい稽古で、稽古相手が「がったん・ごっとん・・・」みたいなぎこちない変な受身を取るので「痛いよ、それ・・・」と想って(言って)たんですが、自分が「掛けられる」と「?!?!?!」ですたw体がスムースに受身を取れるような状態じゃなくされているんですね、自分が受けて始めて分かりました。今、研究中の技術は言葉での説明でも外れてゆくし、体感もアテにするのは危険だったりします。言葉の方は早くから気付いていたので、二人して同じことを別の言葉で話してます。ので、傍で聞いてたら「正常な会話」になっていない可能性大です。それでも自分の言葉を捨ててしまうと迷い道に入ってしまう・・・相手が(伝達用?に)コントロールし(出来)ているか、自分が承知して受けていなければ体感もアテに出来ません。実際、「そんなに慌てんでも、ゆっくり優しくで大丈夫ですよ」と言っていながら、自分が受けたら「こりゃ、勘違いするゎ・・・」でした。とんでもない力で、あっという間にブン投げられたような、としか言いようがなく(多くの技ではハエの如く叩き落されたかのような感じ?)。今でこそ、お互いにコントロールしながら掛けることも出来るようになってきましたが、当初の稽古相手は大変だったと想います。まあ、受け続けていれば体が学習するんですけどね、勝手に。力は無くなるだけでなく、あってもコントロール出来なければ意味がありません。ほんの少しでもコントロールを崩されると、力は十二分な効果に結び付かないわけですが、これを体術でやるのが柔術等でぇ・・・まあ実際、よく見るトリック系もタネや仕掛けを知らないと「???」というものは多いです。そういう意味では一通りのトリックは知っておいて良いかな、と。分からないと、区別、付きませんから(なので、自分自身が出来ない弟子の師匠証言?なんてアテにならんです)。さて確度&精度を上げていくのが目下の課題ですが、楽しませて頂けているのは有難いです。本来なら師に就いて、というのが理想ではあるんでしょうけれど、諸事情で仕方がないですね、少なくとも今の所は・・・というより、稽古相手がいるだけ有難過ぎる位!本質的には個人稽古がベースとは言え、やはり受けてもらわんと分からんですからね。かなりギリギリでしたが、片鱗だけでも間に合って良かったぁ・・・と、毎度、想います。そして、お互いに受身も取れるようにもなってきたのです。で、オマイは一体、何をお稽古しているかというと・・・こんな(↓)感じです???(ぉぃ
2014.02.06
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大変、御無沙汰しております。どうにもコンディションがなぁ・・・とグダグダしていてココを想い出しました。毎度ながら、すっかり楽天ブログも様変わりしていて、使い方も怪しいです。まっく、生存中で御座います(約2年ぶりw)。皆様も御健勝であられますように(祈)。細かいことですが、気付いたら、昨日が立春春分の日なんですね。「今年は収穫(だったかな?)の年になるらしいよ」と言われて、「そうなんだー(棒)」と答えつつ、(まあ「マワリ」的に多少はなぁ)と想っていたのも束の間、いきなりの襲撃⇒ダウンか?と。2年間を振り返ると、敢えて言えば「想い出しの期間」だったかなぁ。色々な意味で付加するでもなく削るでもなく、です。てなことで、また少しの期間、顔出しする「かも」です。ヒッジョーに怪しいですが、取り敢えずなのでしたw
2014.02.05
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う~~~ん・・・今日って火曜日ですよね?うん、火曜日だ。回復するのに時間が掛かってるなぅ・・・なう(違)?冗談が言えるほどには回復した、っつうことで(苦笑)。全く毎度毎度のことながら~~~♪ orz肉体的な負荷は想像出来ない程に低いと言って良いはずなんだがなあ・・・「どこを」というか「どこが」鍛えられてるのだろう???いくら解剖図や参考書(?)を眺めても該当しそうな箇所がないどころか、掠りもしない。暗中模索の最中、「本当に大丈夫なのか?」と不安がる脳味噌と「これでOK!」と言う体と・・・てか「ナニガ」OKなんだ?とだな・・・(==;原理的には肉体の働きというのは、そんなに簡単な現象ではなく、その重層構造を深化していくと・・・ということなんだけど。この肉体の働きというのにも又、DNAみたいな性質があったりして、実際、面白いには面白い。が、シンド・・・グッド・・・つまらん。orz
2012.02.28
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百恵さんはプレイバックです・・・現時点での陰陽一元の理解に、一番、近いのは「器と中身」の譬えかもしれない。八卦の水が[:|:]=[陰陽陰]こんな感じで現わされるけど川の形だそうだ。陰が器、陽が中身としたとして、でも、セットでなければ川(水)にはならない。火は逆で[|:|]=[陽陰陽]で、火種が陰で現わされ、その働きとしての現れみたいな火が陽で現わされる。これも又、セットでなければ火にはならない。基本的には、どの卦も同じで、後は見方次第。山は[|::]=[陽陰陰](左が上)だけど、表見してるのが山ではなく、視認出来ない中身があってこその山だ。雷は[::|]=[陰陰陽](左が上)だけど、陰を貫いてこそ地に達して陽となるとも見れるし、元より地から発する現象と古も見ていたともだけど、陰と陽がセットで始めて成り立つ。どっちが本質か?とか考えると難しくなるけど、どっちも本質で、どっちも本質じゃないんなんだな。そういう矛盾が当たり前に存在するというか、実際には矛盾ですらないんだけど、言葉にしてしまうと矛盾するだけか。言い換えると、本当に近くなればなるほど、言葉に顕したモノゴトは矛盾するのが本来の“姿”なのかもしれない。そういう意味では最近、矛盾してない方がおかしいと感じるようなことが多くなってきた気もする。話が飛ぶようだけど、私達の存在なんて宇宙と比したら塵にもならん。その塵にもならん私達の存在が・・・(略)
2012.02.27
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ここ最近、易経系ネタ以外もと想いつつ、後から後からクッツクように出てくるので已む無し。「これを陽とすれば、これが陰になるので、 この陰をこうして使うと陽になって元の陽が動かざるを得なくて、 でもってここで陽になったら更にこうして陰が生じて・・・∞」とかやってるうちに、ワケわかめ・・・。orzいきなり「ということは陰を陽にされた敵がその陰を・・・」とか突然、訊かれると「どこを基点にして(仮)陰にして話してるのか?」が分からないとメタクタ。自分で掛けて振っときながら「取り敢えず掛けてもらわないと分かんない・・・」みたいな。視(始)点次第で陰・陽と観ることも出来る・・・というだけの話で陰陽一元というか一元としか捉えようがないということも体感として分かったものの、新しいバテ方に直面することに(苦笑)。正しければ体にセットされてくようにしてる積りではいるんだけど、前回が確か三カ月位前だから早過ぎだ・・・てか「(人間の時間軸からだと)モノゴトは加速する」ということを忘れてました。一周も同平面上を周遊してはいられない構造中にある一方、周径が小さくなってく分、深化が追い付かないと「クルクル~~~・・・・ポンっ!」みたいな(爆)?「まだまだ課題が山積みなのにどうすべ?」と少し?いや、かなり焦る。orz八(六十四)卦・三次元バージョン(怪)をテスト実験する積りが、既に三次元ですらなくなっちゃってもうたかも。てか、あれだけ寝たのに、まだまだ眠過ぎてどうでもいいかも・・・zzz
2012.02.26
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※ 御笑覧の際には、滅茶苦茶、適当に書いているという事を御念頭に・・・とか言うなら書くな、とだな(爆) ※亞さんから立体八卦を伝授さる。ので、せっかくだから・・・と観象したら、確かに凄い!何が凄いって、筮竹要らん!!じゃなく、マンマだ、マンマ!!!観たマンマ!!!しかし、ここで疑問が再燃・・・特に立体八卦だと、初~九の順に進むわけではないのである(私個人の感覚的にです)。八卦に八卦を乗せて六十四卦となるわけで、元はこう・・・上卦と下卦の間から上下方向に行くんでないか?みたいな。まあ、そうすっと上下に二股状態になるわけですが、その二股を結合してですね・・・てなことは感じていたのだけど、立体(八)卦は尚のこと、その感覚が強い(実際には二股どころじゃないわけですが)。ただ、これだと、やはり基卦(爻卦)と本卦の概念がないと分からなくなるな、とも。もっとも本卦も大いなる本卦2の基卦(爻卦)で、その本卦2も更に大いなる本卦3の・・・∞なわけで、プラス時間軸が絡まって時空を超越してですね、自分で書いてても書けば書くほど訳分からなくなるわけですよ(苦笑)。しかも重大な問題が・・・陰と陽が譬えられん(爆)!!!確かに陰と言えば陰、陽と言えば陽なんだけど・・・面白ス(笑)。特に陰。始めは虚を当てればいいのかな?と想ったんだけど、虚実というんでもないなぁ・・・。なんだろ、これあれ???まあ、そんなことは枝葉でごんす。不動にして動、動にして不動。なんてのから始まり、あらゆる矛盾が矛盾のままに矛盾してなくて、何と言うんだ?要するに<激しく怪しい>ことだけは確かなわけです、はい(爆)。稽古ネタ・・・決まったな( ̄▽ ̄)
2012.02.25
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[ 鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。(風沢中孚・九二) ]繋辞伝からスタートした易経ですが、何故か魅かれる一節。オーソドックスな読み下しは・・・「鳴鶴の陰に在り、その子これに和す。 我に好爵あり。吾、爾とこれに靡(よ)わん。」占いの玉手箱よりとなるらしい。私は出来るだけ頭から読むのが好きなので、「鳴鶴の在すは陰、其子和すは之(なり)。 我有す(ところ)は好爵にして、吾が與(くみ)す(ところ)は爾の之に靡う(なり)。」みたいに勝手読みしてしまう(苦笑)。我と吾は使われ方が違うとか、本当は微妙らしい。が、分からんので置いておく(^^;大きく異なってしまうのが後節の後半。少し読み戻し(?)が入ってしまうのだけど「與」をオーソドックスの「○と」と読むと、どうしても違和感があって、かと言って「與(与)える」というのも前節との繋ぎに違和感がある・・・てなことで、こんな↑読み方をしてしまう。まあ間違っているんだろうけど、気持ち良く読めるのでいっか(笑)。こういう読み方をしていられるのは、やはり専門家でない素人の特権かな、と。そういう点、当然ながら亞さんは非常に研究もされた末の持論があっても全開というわけにもいかず、一日一言でも苦心されているのが伺われて大変だろうな、と想う。また、そういう所がプロとアマとの違いなのかな?もっとも、どんな読み方をしても名文は名文なんだけど(爆)。こんな風に美しく響き合う姿、そりゃ、どちらにしても「靡い」ますわな・・・みたいな。周易は「占術(易断?)としてはどうなの?」という見方もあるらしく、確かに五行や梅花に魅かれるのは分かる。ただ個人的には、易経の「残酷なまでの美しさ」は周易に十分、現れている気はする。易断そのものは、その後に来ないと、どれだけ的中するって言っても受け容れられるのだろうか・・・?と想ってしまう。受け容れられない易断は、ただ予知しただけということで終わってしまう。受け容れられないということは、逆に言えば自分が受け容れてないってだけなんだけどな。ああ!考えてみりゃ、そりゃあ俺の読み方のことだった(爆)!!
2012.02.24
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前記事を読んだら、なんか別のことを書くつもりだったらしい=忘れました、はい。ということで、書評の御紹介・・・?お金をもらうために「働き者」になるの?~『仕事と日本人』武田晴人著(評:荻野進介):日経ビジネスオンラインPart2は登録(無料)せねばですが・・・それはお任せということにて。少なくとも戦前位までは、丁稚奉公から番頭さん、あるいは暖簾分け、転職と、意外と「職の自由」があったようだ。かく言う私の母方の祖父・祖母は、ともに両親すら怪しい境遇だったが、色々な職を転々かつ手にしつつ暮らしてきたし、それが当たり前だったかのように幼い頃から聞いて育つと・・・私のような者になる(爆)。近代の不幸の一つは「虚構の自由」にあるんじゃなかろうか?個人的には封建時代の方が自由だったんじゃないか?とさえ想ってしまう。それ位、少なくとも日本人の感覚には「仕事」というものに対する帰属的固定観念とでも言うようなニュアンスがあるようだ。以前にも書いた気がするが、ある人事メインの先輩が米国から帰国して驚いたと言っていたことに、「まさにローリング・ストーンの感覚だ」というのがあった。いわく「日本人のような会社に対するロイヤリティは、一切と言って良い位、期待出来ない」と。実態はそうでもなく、日本式ロイヤリティの構築に成功している会社もあるのだが、やはり少数というのが実際のようだ。逆に、では何故、それ程に日本人は?と感じてしまう。それを「日本人特有の」と言うには歴史が浅過ぎるだろう。つい、この間まで、終身雇用なんての自体がなかったんだし。やはり波風立てたくないとか面子とか、そういうことなのかな?私は何社か渡らせて頂いたけど、普通に正面切って「辞めます」と言って出てきたので、よく分からん。辞めれば良くは言われないのが当たり前だと割り切ってもいたし、言いたきゃ言えばいいんじゃない?としかなあ・・・他の全てがそうであるように「自由」にも代償は付き物だ。仕事をする上で「好き勝手にする」ことを「自由」と言っているわけでもない。それでも私は、自分を束縛するものに対しては断固として闘う。私の人生の責任は、私しか取れない!・・・・なんて格好良いことを考えてもいない。あえて言えば、天上天下唯我独尊(爆)!!ああ言えばこう言うと良く言われるが、こう言われたらああ言えばいいのだ(笑)。全ては正しく間違っており、過ちて尚、正しいのである。ただ・・・少なくとも今生の命は一つしかない。
2012.02.24
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色々なケースを総合してフと想い付いたのだけど、反省というのは難しくも、簡単なことなんだな、と。私は、基本的に人は変わらないものと考えているけれど、同時に、瞬時にして変わることも経験しているし信じている。反省しなくてはならないことの多くは身に染み付いてしまった悪癖から生じる。だから容易には身から離れてはくれないので、頭では解っても、心から反省した積りでも、実は根に至ってないことが多い。人を見て、それを責めるのは簡単だが、先ずは我が身を省みるのが先だ。私の辿り着いた限りでは、反省するというのは、唯、死ぬということに尽きる。少し言い換えると、今までの自分を悔い、今までの自分を殺す、ということ。勿論、生まれ変わって生きるために死ぬ、自分を殺す、という意味だ。なのだが、本当に死ぬ、自分を殺す気になって始めて少し光が見える程に、悪癖といえど、他ならぬ自分そのものでもある。本当に反省が出来た人は、それだけで全てが変わる。そして日々刻々、反省し続けられる人は、生きながら死に、また死にながら生きれる人だ。そんな強さを持った人は、もはや人としての域を超えているとすら言えるかもしれない。それ位、反省することは難しいことでもあるから、私達は何度も何度も繰り返してしまうのだけれど、生まれ変わった自分を信じ続ける限り、きっと光は大きくなっていく。自分が生まれ変われるなんて、自分以外の誰が信じてくれるんだ、という話だ。生まれ変わった自分を信じる強さがあれば、きっと人は変わることが出来る。そして人は、誰しも、きっと自分で想うよりも遥かに強い。今日は別のことも書きたかったけれど、それは又にすべっす。
2012.02.22
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和合という言葉がある位だから、通常は合と和は分けないのだろう。どちらも言葉を使う人自身の向き合い方次第とも言える。ただ多くの利用シーンでは、合は能動的、和は受動的に使用されるようだ。あくまでそれに倣って分類するとすれば、だが・・・意識に沿った場合、合は意識的、和は非(≠無)意識的。なので、時間に沿った場合、合は先行して因、和は後行して果。あくまで便宜的な分類。どんな自分や自己であっても和しているモノがあるということは、畏れるべきことであると同時に最大の希望と言えるかもしれない。
2012.02.09
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時が刻まれるには待つしかない。しかもソコを耐えるのではなく楽しみに変えて。来るべきものは来るべくして来る。唯、時は必要なのだ。そして時と戯れるだけで人は変わる。時と人とは、本来、分かつことは出来ないからだ人にとって時がギフトであるように、時にとっても人はギフトだ。私も又、ギフトなのだ。
2012.02.08
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闘うために必要なツールとして何を想い付くだろう?本当は色々なものがあるんだろう。ただ、まだまだ私には想いも付かず徒手空拳のままだ。自己の深淵には、一体、何が潜んでいるのか・・・闘う決意だけは育てておかねば。
2012.02.06
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先週、ようやく次ステップへの足がかりを掴んだ後輩、稽古の後がキツクなってきた、と喜び半分、嘆き半分(?)。特に始めの内は、何処が疲れてるのか分からない、どう疲れてるのかも分からない、なんで疲れているのかすらも分からない。ただただ、疲れるのだ・・・これからがスタート、そこからがスタート。おいらなんて、入れ込んだ稽古の翌日に起きていられるのは数時間だもん(爆)。「変わる」というのは、そうそう生易しいことではない。さてさて・・・寝るべし。zzz
2012.02.05
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本日、我が家に「天空の羽」が舞い降りました。インド御出身のコンピューター技師さんからよびりんさんへ、よびりんさんから志さん&ハッピー☆ラッキーさんへ、志さん&ハッピー☆ラッキーさんから市村某まっくへ・・・(爆)名も知らぬインド御出身のコンピューター技師さん、有難う御座います!!そして、よびりんさん、志さん&ハッピー☆ラッキーさん、有難う御座います!!特に志さん&ハッピー☆ラッキーさんには、傷付き易い「天空の羽」を手厚くクリア・ファイルに収めてお送り頂くという御手間をお掛けし、深謝深謝!!静電気の関係でファイルに入れるだけでも大変だった事と存じます。さて暖かい陽の国、インドから旅して来てくれた「天空の羽」。ヤケてしまっても・・・と想うも、それは私の事情。本来はインドの大地に戻るべきが、遠路、参上してきて下さったわけです。ということで少しでもオープンな空気の下、陽光に喜んでもらいたいと、天気に合わせてパチリ!!うぅぅ、ふつくしぃ・・・あまりに美しいので「ラピュワー」と名付けました。どこかで聞いた事が・・・ないない、ないです(爆)!あれ・・・?( ̄▽ ̄;
2012.02.03
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* 文字化けしてたらすいません *卦だけで六十四もあると途方に暮れる。というわけで悪いとされる卦から入るのも一法と、四大難卦を読んでた。三 .屯 :水雷屯(震下坎上)二九.習坎:坎為水(坎下坎上)三九.蹇 :水山蹇(艮下坎上)四七.困 :沢水困(坎下兌上)全部、水絡みであり、沢水困を除けば全て上に水が乗る形。で、屯というのは物事の始まり、産みの難であるので除外されて、三大難卦と呼ばれる事もあるらしい。水と書かれてる元々の坎(かん)は「穴ぼこ」とかで、それも「陥れる」というような意味があって、同じ「穴」でも「壁に開いた穴、抜け出る」の意があるという「兌(谷)」とは大違いのようだ。どれも読んでるだけで落ち込んで来るような文章のオンパレードである(爆)。だが、易経に繰り返し出てくる「貞」の一字・・・と言いたいところが、「習坎:坎為水」では出て来ず「孚(まこと)」が示される。「貞」の一字が分からんと・・・と想ってたけど、この「孚(まこと)」も又。どちらも簡単に訳せば「正しい」となるんだと想うけど・・・。「説文解字」とかも見つかったので読んだけのだけど、今一つ、ピンと来ない。易経には「爻」という所まで細かく読むと、他にも厳しいことが書かれてるものが結構、ある。繋辞伝で「厳しい時代に作られたんかな?」という一節がある位だから、昔の人でもそういう印象を抱く程、厳しいということなのだろう。それでも、いずれにしても、とにかく「貞」であり「孚(まこと)」なのだ。勿論、「元亨利貞」が基本なんだろうけれど。「貞」が「道義に法る正しさ」だとしたら、「孚(まこと)」は「本然の幽真から出る正しさ」であろうか?「貞」は「屯」の中で「大貞凶」とあるように、行き過ぎれば間違い兼ねない、いわば意志の力に由るもの。「孚(まこと)」は赤子の時に経ち返った時に、ふと出るような自らの幽奥から滲み出てくるもの、とも言えるのかな。「孚貞なれば・・・」などと想って調べたら、ひっくり返った「貞孚」で小笠原貞孚が出てきた。名家であり、代々の名前の付け方に易経を想わせるものがある。「孚貞」だと「不貞」の音に通じちゃうもんな(^^;亢龍有悔(亢龍悔い有り)、両極にあって尚、人は自己を試すことが出来る。私達は、他ならぬ此の自らの手の内に、試されるのか試すのかの選択を有し得ているのだと想う。天地広大にして万物不定。人たる者、小なりと雖も、孚貞なれば凶に在りて而も光(おお)いに利ろし。
2012.02.02
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三歳、三歳・・・石の上にも三歳。三歳で良いのなら儲けものでは・・・ある。そして今は三時だ散時(苦笑)。
2012.01.31
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よびりんさんが、本日、赤いチャンチャンコの60歳!改めておめでとう御座います!!そして本日、誕生祝いをしようと言っていたお袋が70歳(爆)。見事に十歳違いなのだった。更に続くは亞姐御で、実は親父と十歳違いなのであった(爆爆)。「亞姐御の二十歳の子でも通じるのか~~~(謎笑)」とか想ってはいたけど。おいらは親父が三十の時の生れなので、考えてみたら、そりゃ亞姐御と親父で十歳違いになるわな。ついでに上の娘は、おいらが三十の時の子で、次女はお袋と(中、三十年抜きの)60歳違い(爆)。あれ・・・つまり次女は、よびりんさんと50歳違いなのかっ?!( ̄ロ ̄;↑今、計算してて気付いた人・・・まあ偶然ちゃー、単なる偶然なんだろうけど、この偶然が面白いわけですよ、人生は(笑)。ともあれ、よびりんさん、おめでとうございます!よぼりんさん(をぃ!)になられるまで御健勝のまま、御活躍されんことを!!
2012.01.29
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何事にも矛盾は付き物だが、一般には矛盾というのは悪い事、悪い面が強調されがちだ。だけど矛と盾、双方が相研鑽し合っていると見ればどうであろう?矛盾を恐れていては、きっと何事も進展しない。ソレは矛盾の中にこそ潜んでいるに違いない。矛盾を恐れているうちに、人生はきっと終わってしまう。「矛盾しているようだけど・・・」という、その先にこそ、自分の観たいものがあるはずだ。
2012.01.29
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易経の本を読んでいると「うう・・・」と唸るような辞に逢うことがある。正直、「立ち直れんよな~?」 と一瞬、想ってしまうのだが、そんな時には「易」の意味に立ち返って「万物は変化止まず」ことを強く想う。 物事は変化し続けるものだが、易経には「好調を戒め、逆境を励ます」ようなところがある。状況が悪い時に「そりゃ、あんたのせいだよ」と言うは易いが、そうではなく「必ず変わるよ」と言うかのような優しさ・・・?基本的に厳しいのだけれど、その厳しさをも糧にする、ある意味、非常に欲張りな視点。一歩を踏み出すのか、止まるのか?別の道があるのか??折に触れ迷ってしまう凡人にとって、 易経の示す指針は非常に参考になる。せっかくなら(易)占術も、と想って本探してて少し残念だったのが、その逆をいくような筆者も、結構、多いことだった。なにより・・・人に厳しく自分に甘いんですもの・・・(^^;易に限らず、占術というのは、そういうものなのかなあ?と首を捻ってしまった。より良き一歩を選ぶ指針とならん!なんてのはどうでも良いというか・・・。 貞しく迷っている人の一筋の光明たらん・・・少なくとも易経は、そういう本だと想う。私には占う技術も知識もないけれど、占術を糧とする人が、その智慧を活かすには、尚の事、人に優しく自分に厳しくあるべきだろう。まあ人の事はどうでも良くて、自分だ、自分(苦笑)。まだ占術は早いということかもしれんのっす(爆)。易経に取り組むと、結構、私なんかは大騒動になるけれど、さすが亞さんの「一日一言」 とかはお薦めです。もっとも、ブログに全文掲載されてますけど・・・。しかも二回り目ですけど・・・(爆)。手元にあるだけで易の温もりを感じる事が出来るはずです。そんな本を目指されていたようですから。はい、コマーシャルでした・・・(違爆)
2012.01.28
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この所、時折、色んな卦が念頭を過るも意味が分からんので放置。そもそも、どんどん変わるので追い切れない。今日は珍しく長時間、念頭を離れなかった卦があった(↓)ので見てみた。──── ─ = 艮上─ ───── ─ = 離下───◇原文元:占いの玉手箱 易経の解説~読み下しは勝手適当です◇< 賁:離下艮上 山火賁(さんかひ) >卦辞)賁、亨。小利有攸往。⇒賁(ひ=飾る)は、亨る。小しく往く攸(ところ)有るに利(よ)ろし。彖伝)彖曰、賁亨、柔來而文剛、故亨。分剛上而文柔、故小利有攸往。天文也。文明以止人文也。觀乎天文以察時變、觀乎人文以化成天下。⇒彖曰く、「賁亨」は、柔来りて剛を文(かざ)る、故に亨るなり。剛を上に分かちて柔を文る、故に小しく往く攸(ところ)有るに利ろし。天文也。文明以て人文を止むる也。天文を観じ以て時変を察し、人文を観じ以て天下を化成す。大象伝)象曰、山下有火賁。君子以明庶政、无敢折獄。⇒象曰く、山下の火を有すは賁なり。君子以て庶政を明らかにし、敢えて獄を折(さだ)むる无(なし)。爻辞+小象伝)初九。賁其趾。舎車而徒。⇒初九。其の趾(あし)を賁(かざ)る。車を舎(す)てて徒(かち)す。象曰、舍車而徒、義弗乘也。⇒象曰く、「舍車而徒」は、義にして乗るざる也。六二。賁其須。⇒六二。其須(ひげ)を賁る。象曰、賁其須、與上興也。⇒象曰く、「賁其須」は、上を興すに與(くみ)する也。九三。賁如、濡如、永貞吉。⇒九三。賁如(ひじょ、如=然)たり、濡如(じゅじょ)たり、永貞なれば吉。象曰、永貞之吉、終莫之陵也。⇒象曰、永貞之吉なるは、終に之を陵ぐ莫き也。六四。賁如?如。白馬翰如。匪寇婚媾。⇒六四。賁如たるもの?如(はじょ)たり。白馬は翰如(かんじょ)たり。寇するにあらずんば婚媾せんとす。象曰、六四當位疑也。匪寇婚媾、終无尤也。⇒象曰く、六四は位に当たること疑わしき也。「匪寇婚媾」は、終に尤めなき也。六五。賁于丘園。束帛戔戔。吝終吉。⇒六五。丘園に賁る。束帛(そくはく)戔戔(せんせん)たり。吝なれども終には吉。象曰、六五之吉、有喜也。⇒象曰く、六五之吉は、喜び有す也。上九。白賁。无咎。⇒上九。白く賁る。咎なし。象曰、白賁、无咎、上得志也。⇒象曰く、「白賁、无咎」とは、上にして志を得れば也。読み下しが滅茶苦茶ですいませんが、なんとなく成る程と想わないでもない。というか、実のところ意味は解っていない(爆)。さらに識りたい!という気持ちと、踏み込んだら更に(爆)自滅ロードという畏れと。六十四卦、三百八十四爻もあるんだから、少しづつ楽しみながら読んでいくんでも良かろう。★ 一部の方には朗報? ★たまたま「Unicode-その他の記号」の中に入ってるのを発見!単語登録しちゃうとか、メモ帳にでも移しておいてコピペして利用されると便利かも、と。色んな方々の御世話になりっぱでしたので、少しでもお返しになれば・・・(^^;?? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤 天 沢 火 雷 風 水 山 地・・・と想ったら、楽天ブログ環境では再現出来なかったです。orz賁も急遽、代替文字を利用したけど美しさが・・・他サイトで少し使ったのですが、特に問題ありませんでした。「Unicode-その他の記号」の中に八卦が入ってるので探してみて下さい。面倒だったら御連絡頂ければ何か手を考えます。普通にUTF-8で見れるはずなのに、どうも楽天ブログの仕様は分からんちんっ・・・(><)
2012.01.27
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ここのところ、アレコレの合間に宿題にも色々と取り組んでた。そんな中、いくつかの伝書から老子に遡るも、「こりゃ(=老子)、易の坤じゃねぇのんか?」ということで再度、易経に戻って仏典とも引き合わせながらウンウン唸る・・・だけ(爆)。(原始)仏典は老子に通じる点が多いのだが、途中をすっ飛ばしてるようなとこがあって、しかも途中に嵌るとキリがねぇ・・・とか想いつ、あまりに面倒が過ぎて寝込む。その間、ずっと頭にあった美の一文字を見てみた。結局、今の自分には、「この世で重んじられる全ては、どんなモノゴトも“美”に帰着する」という結論が、一番、シックリ来る。「美に生ず」というのは、美しさの中に自然とナニカが現れるということ。「美を生ず」というのは、美しさを生む(見出す)ことでナニカが現れるということ。言葉遊びみたいだけど、取り敢えずは表裏で一つ、どちらか一方では不足してしまう。陰陽で言えば「美に生ず」のは陰の働き、「美を生ず」のは陽の働きだと想う。仏典の観点からも感官を楽しませるという意味での美ではないのだが・・・ニュアンスが難しい。自分が納得出来ればいいんで、このまま美しく(ぇ?)終わろう・・・
2012.01.26
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女房が腰が痛いというので、手っ取り早い方法でササッと。「はい、そいでは。」と言うと、御不満の様子。痛みが取れるだけではいけないんですの。ハート・フルな形も大事。女房が一番、手強い(爆)。
2012.01.25
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足りん・・・のか、使い方がド下手なのか・・・orz最近、不慣れながら少しは勉強してるからかなぁ。たった一つの事にしか集中してないはずなんだけど、それでも足りんというか、時計を見ればシンデレラ。余計な独りツッコミを入れながら勉強してるからだろうか?( ̄▽ ̄;もっとも勉強しちゃ捨て、勉強しちゃ捨てしてるんだから勉強の意味があるのかどうかも分からんのよね。今しばしは続くか・・・辛抱、シンボー・・・心棒は辛抱により信望を得るに至る!!とか余計なことを考えてるから進まんのだな(爆)。
2012.01.24
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以前にも書いたような気がするが、以前、御神仏について、「なるほど~!確かにそりゃそうだ(爆)!!」と大納得した話を聞いた事がある。曰く、確か前振りはこんな感じ。「善行に励んでる人が憂き目に遭い、悪行三昧の人が世を謳歌しとる! というんで、この世に神仏何ぞあるものか、と仰る方がいらっしゃる。」「とんでもない見当違いで、神様仏様から観れば悪人も善人もない。 ただただ目前の凡人の我々を“手当たり次第に”御助け下さってるだけだ。」というような感じだったかな?確かに八百万を少し水増しして千万の神様がいらっしゃるとして、日本“人”だけで一億四千万を越えるわけだから、十人/一神という勘定になる。加えて神様は人だけを助けてるわけじゃなくて、動物だけでも小さくは蟻ン子から大は熊までの動物、それに加えて植物だの何だのと面倒をみるわけである。これは神様と言えど非常に大変なことだろう。にも関わらず一年365日中、ただの一回でも幸運に恵まれれば御神仏の御蔭様、と感謝出来るのは人間位じゃなかろうか?この方の仰ることは考えてみれば至極、当たり前な話で、何ぞの謂れで神様仏様が人間の愚考するが如くに振る舞わねばならぬものだろうか。そんだけの力があるんなら、改心位はお手のもの、始めから「出来た人間」だけを現世に送り込めば良かろうもん(爆)。それに、確かに「こやつはお気に入りだから助けるけど、あやつは悪人だからイヤじゃ~~~!!」とか言うような神様、仏様なんて・・・なんか、イヤだ(爆)。それじゃあ俺らアホ人間共と大差ないというか、なんも変わらんじゃんけ。やはり人の世は人が倫(みち)を成すしかないし、生きる目的なんぞも御本人が見出すしかないのだと想う。人が成すべき人倫まで人頼み神仏頼みにしてるから人倫乱れ、果ては「おら、何のために生まれてきたんだっけかな?」てなことにまでなるんじゃなかろうかと想う。人倫を成すには、とにかく何でもいいから為さねばならぬのだ。先ずは自分の足で歩く、つまり生きたいように生きてみることだ。歩けば歩いただけ良くも悪くも道が出来るように、為してこそ始めて人倫も成さずして成っていくのである。そして道は跡踏む人が途絶えれば消えていく・・・それだけのことだ。御神仏は御神仏で御多忙である上に、御立場上、御断り出来ないのであるからして、あまり手間をお掛けするものではない。いつか機会があったら御神仏の御愚痴の一つも御拝聴奉りたいくらいだ。神社仏閣には参上するんだって御礼を申し上げに行くのが本筋なのである。かくすれば御神仏の御加護が・・・なんて、それこそ畏れ多い。それは御加護じゃなく御過誤で御座る(爆)。いつの日か、一層のこと本当に末期の一際だけでも良いから、微笑みながら、幸いにして幸運ならば「全く以て御神仏の御蔭様で御座います」と謙虚に人に分かち、不幸にして不遇ならば「全く以て不徳の致すところで御座います」と自らを省す。そんな風に心から想い振る舞えるようになれたらいいな、と少し想った。“少し”という所が我ながらナンなんだけど・・・今晩はナンを食べたんでナンかな?(^^;
2012.01.22
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最近、繋辞伝からスタートして少し易経関係を読んでいてフと想ったんだけど、「結局、易経って物事をありのままに自分で観て感じたままに行動しなさい」って、繋辞伝も含めて何度も何度も繰り返し言ってるだけのような気がする。「ありのままに自分で」というのは、馴染んだ言葉で言えば「赤心」、赤子のような心ということだ。誠に言うは、いと易し・・・(爆)。で・・・なのだけど、赤ちゃんが「こうなるから、ああなるから、こうしよう、ああしよう」とか考えてるんだろうか?多分、そんなことはなくて、日々、文字通りの赤心にて「生きているだけ」だろう。そこにナニカあるとすれば、それは我則天、天則我の、ありのままの自分であること・・・?例により難しい事は分からん・・・(==;ただ「自分で観て、感じたままに・・・」という所は分かるような気がする。言葉というのは厄介なもんで、往々にして発した途端に嘘になる。正しく言葉を使うというのは言霊を発するに等しく、本当に難しいことだ。だから稽古の時も、「どうしても頭でも理解したくはなるでしょうから、その時は私の言葉はアテにせず、自分自身の都合の良い(つまり納得出来る)言葉・表現に変えて理解して、語って下さい。」といつも言うんだけど、私と私以外の人では、たった一つの言葉の意味すら本当に異なる。だから、言ってる言葉なんてのは、全然、違って構わないのだ。稽古では「(そこで)起きてる事」を共通体験として持ち得れば十二分に過ぎて、そのキッカケとなる以上の役割を言葉に課す必要はないと言い切っていい程だと想う。で、易経から更に一歩、進めて(易)占でも同じじゃないだろうか?ちなみに私は、占いは信じる方だ。当たる占いは当たる(当たらない占いは当たらない 爆)。そこには確かに、浅はかな人智では蘊奥の果てを汲み取り得ぬ言葉がある。それと、どう向き合うかは易経でも占じる人でも誰でもなく、他ならぬ自分自身だ。ただ、単に良い悪い(過去・現在・未来、etc.)を知ったから、その場しのぎに言動を変える・・・というのはどうなんだろう?と想う。人に占わせたとしても、自分の考えるが如く都合の良いように良いように、と言うのなら違和感が拭えない。逆に為さねばならぬことは為さねばならぬだけのことで、そこに成る成らないは不要と割り切るのならば、占は頼るに足らない。あってもなくても自分の為さんことに変わりはないからだ。また厳として人によって出来ること、出来ないこともある。毎度の如く訳も分からん間に長文になった。さて、繋辞伝にはレギュラーな解説では書けない様な超常的なことにも触れられているのだけれど、それは兎も角、初っ端、いきなり「玩(もてあそ)ぶ」 という表現が出てくる。後に延々と易経の深遠なること、尊く軽んずべからざることを書いているにも関わらずなのだけど、これは文字通り「玩(もてあそ)ぶ」んだろうと想う、「赤心の者」であれば。凡夫の我々は、先ずもってして、そんな境地は難しいので「自らに由って立たん」という決意こそが立志ということになるのかなあ?などと愚考。出自が赤心ならぬ言葉は嘘になる・・・そして勿論、私の言葉も全てが嘘八百であって八百万であろうはずがないのだ(爆)。吉凶に玩ばれるということは、言葉に玩ばれるということに等しい。私達は、むしろ言葉のない世界にこそ、そのホトンドを委ねているという事実に謙虚になるべきだ。
2012.01.21
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今年の4月から本格的に武道必修化がスタートするとか。非常に危険なので、とにかく怪我だけはしないように・・・なにより、先生が怪我をさせないように心して下さい、本当に。剣道は竹刀・防具の関係で取り組む学校は限られるとは想いますが、「打つ」動作で危険が高いのに耳が挙げられます。面を打たれそうになって首を傾げて耳を直撃、というパタンです。足捌き、最低でも竹刀捌きで外せなかったら、潔く打たれましょう・・・また中学生では突技はないのですが、相互に突っ込む形になった時に突き垂れ下から喉を直撃、というのもあります。竹刀の手入れが行き届いていなくてササクレ立ってたり、先革(竹刀先端のガード)がボロってて、それが首に刺さる、なんてことも。最悪、面金を突き抜けて・・・ということも・・・。最低でも竹刀と防具の手入れ、確認を入念にするだけで相当の怪我が防げます。そして竹刀を振り回して勝つこと以上に、正しく中段に構えて崩さないことに徹する。相撲は土俵自体がないので、どうするのかな?と想うのですが、多分、校庭でやるというようなこともあるんじゃなかろうか???基本的には柔道よりは怪我をし難いルールでやるとは想うのですが・・・本来の相撲は、かなりルールが緩いことに要注意!!ケタグリなんて、もはや蹴りですよ、あれは・・・(苦笑)とにかく変な技を繰り出して勝つこと以上に、四つに組んでの押し相撲に徹する。柔道は道場のある学校も多く、道着さえ人数分あれば比較的、取り組ませやすいので要注意。変な投げ技を応酬したら、まず間違いなく取り返しのつかない事故が起きると覚悟しましょう。十分に受身を練習すれば大丈夫などという安易な考えは捨てること。元々、柔道、その原点の柔術は受身が通じないように投げる技も多いのです。現代の(競技)柔道では、そういった危険技はかなり排除してはいるのですが、少し変形しただけで受身は取れません。流派によっても違うかもしれませんが、本格的に受身を練習する時はコンクリ床に身をダイブしてバッターンッ!としても平気という位、衝撃吸収の出来る体作りをするものです。とにかく無理に投げよう投げられまいとせず、柔道の基本姿勢の一つ、自護体に徹すること。剣道なら正眼の構え、相撲なら四つ組の押し相撲、柔道なら自護体という、各武道で基本とされていることを徹底するだけでも、怪我は大幅に減るはずです。そして競技では消極的姿勢ということでマイナスですが、競技者になることが目的ではないのですから、少しでも危険を感じたら、どんなに怒られようとも逃げの一手、負けるの一手。とにかく「絶対に怪我をしない、させない」と心して授業に臨んで下さい。そして・・・出来れば武道を嫌いにならないで下さい。指導者の方々も色々と大変だとは想います。遠い将来のいつの日かでいいじゃないですか。たった一人いるかどうかかもしれないですが、「あんとき、少しだけ柔道やったけど面白かったですよ!」と言ってもらえたとしたら・・・それ以上、何を求めることがありましょうや?必修化されようがされまいが、武道が子供達から未来を奪う資格なんぞ、微塵もないし、あってはいけないことなのですから。
2012.01.20
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久し振りの社会系ネタ???英語版のWikiPediaで大々的に反対運動がスタートしたSOPA。比較的まとまっているのがギズ・モードの記事?確かにSOPA(Stop Online Piracy Act)+PIPA(Protest IP Act)の打撃は大きいよなぁ・・・双方に言い分はあるだろうけれど、つい先日、「今後はライブで人を呼べるアーティストしか生き残れないよね。」と話していたばかりだったこともあって、落下点に注目したい。プレイヤーからしても著作権を守るはずのJASRACっちゅうのは、何を守ってるんだか訳分からん、とかなんとか言ってたっけか(苦笑)。日本は、こういう権利(著作権みたいな)の主張に対しては比較的おおらかな方かもしれない。それが良し悪し双方の面を持っていることは確かだとしても、その大らかさは日本人が常に「より良いもの」を追求してきたことによるのかもしれない。日本は自由と平等の命題なんかでもそうだけど、比較的自由主義的と言えるのかな?「自由と平等」という相反する概念を同時に与えられたことで文化がコントロールされいる・・・なんて話があるけど、日本人は平等より自由を求めそうな気がする。事業家でも、有名な所では松下幸之助の創業当時のパクリ話を想い出してしまう。パクられた側からすれば腹立たしい事この上なかろうが、それをテコにしてこその後の松下と言えなくもない。もっとも全ての(文化)活動なんて、そもそもパクリそのものの蓄積だろうと想うけどな・・・(苦笑)El Cascabel 踊る大捜査線パクリ元の原曲「事件はDVDの中で起きてるんじゃない!インターネットで起きてるんだ!!」・・・みたいな?
2012.01.19
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大学時代の畏友が一人、近在してて「パブだけど落語があるのでどうか?」との御誘い。参上すると、友人の義兄がSaxプレイヤーでそこそこの活動をされてる方なのだけど、落語とのコラボとのこと。それを聞いて、ちょっとイヤな予感が走る・・・(爆)。よく和魂洋才というけれど、大抵の場合は、ただ目新しさを求めてるだけにしか感じないことがホトンドだからだ。ところが今回は・・・事前打ち合わせもほとんど無い中でのチャレンジだったという。一頻りの噺が終わって私達の席にも来て下さり、その辺りを含めてアレコレと座談会のようになってからが又、非常に面白かった。春風亭笑好さんが来て下さったのだけれど、真打を控えてるとは言え二つ目なので大変だとか(もっとも真打でも大変らしいが)。古典落語も非常に丁寧に、大切にしつつも時代に応じていこうという滲み出るものには感銘を受けた。企画の方も良い意味での和魂洋才だったということにも話が進み、「皆、同じようなことを感じてるもんなんだな」とも。作り込む時間がなくブッツケに近いこともあって混乱してる所から調っていくところが良かったよねー、などと、考えてみれば専門家を前に皆で言いたい放題ですな(苦笑)。ただ実際、そう感じたのだから仕方ない。作り込んで仕上げたコラボといいうのは、結局、「どっちか一方に絞ってくれた方がいいと想うんですが?」ということが多い。和と洋とで元から合うわけがないのであって、それを客の反応もダイレクトに感じながら調えていくから良かったんだろう。音楽、特にジャズなんかでは即興演奏が一つの見物だけど、ある程度のコード進行(アウト・ライン)を決めても、どうしてもズレが出る。そのズレが合っていく様が、また快感なんだと想う。これ又、ライブならではの醍醐味だろう。本来は、どんな分野でも同じなんだと想う。和魂洋才どころか洋魂和才、更に越えて洋魂洋才か?とも多く感じる昨今、和魂洋才を面白かったり興味深く感じることなんて、本当に難しくなってきているんじゃないだろうか?少なくとも元々の素養も無い私なんかはそうだ(苦笑)。そもそも和魂洋才を謳いながら和魂喪失していってしまった時間は永過ぎるほど永い。しかし、だからこそ取り戻したい、とも想うのかな。時代が違うんだから外見が変わっても、それは流石に時代の流れ、仕方ないことだろう。でも中身は・・・不可能とばかり嘆いて終わるには早過ぎると想うのだ。そんなことを想わされたコラボだった。♪さぁ走り抜けよう この歌を胸に抱きしめ 今 高く高く羽撃けるさ 晴れわたる あの空を目指してゆけ♪戦う君よ THE BACK HORN歌詞
2012.01.17
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以前から何度か話してきてはいるのだけれど、過日に再度、話が出た。「分かってはいても、環境を変えたりギャラリーがいると、 自滅してしまいがちなんですよね・・・」「そういう類の弱さ、つまり我の強さは克服していくべきだと想うけれど、 そういう弱さが自分にあることを知ることは明日に繋がりますよ。 全て自分に因るものであると覚悟した上で、 我が強く見栄体裁に走ってしまう・・・つまり虚構を怖れている弱い自分を知ることが出来る。 それは新たな明日に繋がる可能性を見出すことで素晴らしいことだと想います。 人を教える立場、先生になった方は、 どうしても、それを見失いがちになることは見ていて分かりませんか?」と。うまくいかない事に遭遇して自分の愚かさを知る、それを恐れる人に本質的な進歩はない。ただ虚飾する道が残されているだけだ。ハードルを上げていけば当然、失敗の可能性も増える。それでも試行し、失敗に終わったとしても、明日を楽しみにする糧にする。上手く行っていることを楽しむのも良いが、実は陥穽に嵌っているだけではないのか・・・?自虐的に自分を卑下するのではなくダメな自分を笑って認め、より高みを目指す自分であり続けたいがためだとでも想って受け入れる。それでいいんだと想う。誰ぞに誇ることや認められることを望みたいのなら、この道は適さない。いずれ、どんな剣も振るわずに済めば、それに越したことはないのだし。♪等身大の自分を知るうちに なぜかしらん 力が満ちてく♪僕たちの季節:映画エンディングVer. DOES歌詞僕たちの季節:TVエンディングVer. DOES
2012.01.16
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毎度、つくづくに想うんで書くが、やっぱりバカだからなんだろうな。それも二人セットでバカだというのは有難いと言うか何と言うか・・・(笑)どこまで行っても何も無いであろうと分かってもいるんだけど。まあ・・・そんなもんだ、というくらいしか言いようがない(苦笑)。♪いざ征こう 信じたこの道を何処までも いざ征こう この命ある限り♪刃 THE BACK HORN歌詞凡そ、そんな気になれることに限って下らないことばかりなんだけんどもね。下らないことに一生懸命になって何が悪い?となっす(爆)。
2012.01.14
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まだまだ続くも、少し「繋辞伝」の読解作業も一息、いや一区切りすべき所には何とか・・・かな?いかに人が理を以て言行を尽くそうとも、自然は唯、厳然たる営みを全うするのみで、それは時に苛烈に過ぎる。人も又、万古不易に省みることを知らぬまま、卑しく、醜く、矮小で、怠惰で、強欲で、尊大で、卑怯で、身勝手で、小賢しく・・・挙げるに際限なく。一体、そもそも人とは、この天と地の間に立つことが出来得るものなのだろうか?それでも、いや、それだからこそ荘厳にして温かなモノに触れることが、作ることが出来得る・・・そういうことなのかな?神而明之存乎其人。黙而成之不言而信、存乎徳行。と、繋辞伝には伝えられる。KOKIAさんの「星屑のヴォカリーズ」を想い出した。*ヴォカリーズ=母音のみで歌う歌唱法いかなる人も、ただ卑しく、ただ尊く・・・だから・・・
2012.01.13
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やばば・・・すぐに切り上げる積りでいたのが20時って、いつの間に4時間(苦笑)?このノッコミの調整が今一、いや今二、いやいや今∞だのぅ・・・そろそろ歳も考えねば(爆)。そういや女房も、こういうパタンは凡そ二、三種位しかないと心得てて、「それって関係あんの~?」「う~ん、多分・・・」という遣り取りだけで放置、後は風呂はおろか食事など一切についてノー・タッチ。もっとも女房の御楽しみ中や御仕事中に介在すると、「やり返すわよっ(ビシッ)!」みたいなんだから似た者夫婦なのだろうか?あ、俺の場合は「邪魔」だから違うな、コリャまた(爆)。なんか歌を聴くのも久し振りな気がする・・・毎日が冒険なのさ(笑)!!♪さぁ、出かけよう 一切れのパン ナイフ ランプ かばんにつめ込んで♪君をのせて【合唱版】歌詞♪地球は回る 君を隠して♪あぅっ・・・!おぅっひぃゃぁあ~~~~~~~~~~~~~っ!!そ、それはイヤハヤ、ヒジョーに困りますですがな(^^;
2012.01.12
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一通り、繋辞伝の勝手な読み下し作文は終了、修正は山程(爆)。やはり諸先生方の読み下し文と違うのが多く、我ながら無茶をしたことよのぅ・・・意味が真逆になるんじゃねぇ?位のが出てきたのには、流石に焦る焦る(滝汗)。文法や字義、背景なんかの知識欠如で誤読してる所は追々修正してくとしても、あの美しい詩的な構成や雰囲気を無視するのはなぁ・・・ちと受け入れ難し(^^;もっとも字義なんかは先生方ですら当て字っぽい読み方を披歴されてたりするし、文法的ニュアンスも先生方の視点によって異なるから仕方ないのかな?大体が漢文というのは、時制や主語・目的語なんかが曖昧らしくって、中国の方でも読み難いとか言う話を聞いたことがあるくらいだからな。孔子先生の話を、間違いつつも(爆)楽しんで聴くような、今みたいな読み方でもいいのかもしんない(笑)。そんな合間にGサイトの使い方も少しは覚えたし、次は愈々Appsだー(笑)。
2012.01.11
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ただいま、亞姐御のアドバイスを頂戴したんで「私家版 繋辞伝」に取組んでおるわけですが・・・かな~り、フリーズしてますので、色々と御容赦下さい。意味なんか分かってもないのに何だか流れ込んで来てます、キャパ・オーバーです、フリーズです、意味不明です(爆)。これだから古の方々は・・・(==;取り敢えず体の方だけでも、多少は鍛練しておいて良かったのかな?と。まだ半分も終わってないんですけどね・・・(涙)
2012.01.10
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天尊地卑、乾坤定矣。-----天尊地卑、乾坤定む。(#)
2012.01.09
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少し前にテレサ・テンの記事を書いた。中で触れた浅田次郎の作品が「勇気凛凛ルリの色」というエッセイ中、「アイドルについて」という項でありました。是非、通しで読んで頂きたいのですが、少し引用を。>たぶん彼女の魅力は、悪いやつでなければわかるまい。>テレサ・テンは私たちにとって、決して口には出せぬ「良心」そのものだった。なるほど確かに、浅田次郎は中々に小憎らしい稀代の書き手である。そういや、亞姐に私の抱いている印象はテレサ・テンに似てることに気付いた。幸いにして遭遇したことがない方は、御存じのテレサ・テンに+○○年したら、凡そ亞姐になると想っておけば間違いないかもしれんです(爆)。時の流れに身をまかせ テレサ・テン誰の誰に対する誰の為の歌なのか・・・
2012.01.09
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最近、珍しく毎日、書いてるつもりでいたんだが、コメント巡りしてたら一日分が消えてて焦った。なんてことはなく、昨日、ババッと記事書いた後にアレして稽古して帰ってきて倒れて、ナニして今頃の初詣行って帰って再倒れして今、復活した間に記事がアップされてたので二日分になってただけらしい。おいら、この世に一日いなくなってたのかとオモターよ(ぉぃ 笑)。慣れない事をするもんじゃねぇな・・・(==;年越しで、いきなり稽古のハードル上げたら、やっぱキツかったようで。飯食って寝るべ。
2012.01.08
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比較的、知られてはいるものの面白い命題なので。「本来、自由と平等のベクトル(方向性)は反対向き」これは、相当数の日本人にとっては共通の、無自覚な程に当然に感覚化された基本テーゼと言っても良いかと想います。(だから過日のNYデモが日本には波及しなかった、とも言えるのかな?)日本人の感覚に拭い難く受け継がれてきたからこそ、(私的には失敗に終わった)明治維新や第二次世界大戦を経ても尚、「日本という国家」には可能性が残されてるんじゃないかな?この手のテーゼに無反省な違和感を覚える方々が中枢にいる時、つまり今の政権がそうなんですが、日本ですら非常に危うくなります。悪が天使を装って見えると言われるのと同じく、善も悪魔の顔をして見えるもの。これは見る側にも問題があるわけで、時・場所を問わずに不変なのかも。
2012.01.07
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本格的に新しいプリンターに切替。世話になったPIXUS 950iともお別れだ。すっかり様変わりしたかのように感じる。やっぱり少し寂しいのぅ・・・新プリンターは両面印刷どころかコピーにスキャンまで出来ちゃうんだぜー!スンゲーっ!!十分に使いこなせるかは分からんけど、ヨロシクね!!!
2012.01.06
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最近、文に起こせない様な事が増えてきた。書こうと企て、何とか書いても、自分でも解読不能(爆)。文として書けることに限界のあることを痛感する日々。
2012.01.06
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昨晩は指折り数える程、久し振りにお会いする方多く呑み交わす。まあ良い意味で変わらない変わらない、変わってない(笑)。この歳になって旧交を温める機会も増えてきて想うのは、やはり芯の部分というのは変わらないんだな、と。ガキの頃には分からなかったが、まさに三つ子の魂百までなんだな。男冥利に尽きると感じることの一つに、十年単位で跨いでの再会でも昔日を昨日かと錯覚してしまうように呑み交わせる事がある。(要するに、男はバカで成長しないとも言えるわけなので女性には御勘弁をば ^^;)でね、何が言いたいかというと・・・おいらの場合、圧倒的に野郎共率が高過ぎるんですが何故に・・・(滝涙)???「受け継がれる意思、時代のうねり、人の夢・・・これらは止めることの出来ないものだ。 人々が自由の答えを求める限り、それらは決して留まることはない。」濃い、野郎共(違)!! なんとなく想い出したもんで・・・(笑)
2012.01.05
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三が日が終わり、一月四日。今日は飲み会であ~る、楽しみ。・・・であるのだが、早速に夢の中では稽古始め(^^;もちろん、現実の体がキツイ、フツーの稽古も大変ではある。が、この夢中稽古が、実は地味かつ相当に堪えるのである(苦笑)。夢の中では、あらゆる物理法則が無視される。のみならず大怪獣も妖魔も何でもありなんである(爆)。して、ほぼ100%、おいらは無手で体も想うようには動かない。ので意識だけで稽古(?)してるようなもんだ。夢の中、というのは朧に分かりはするんだけど、しんど~~~(苦笑)。こういうのに定期的かつ強制的に巻き込まれたりして、我ながら怪しいこと、この上ない(笑)。♪夢の中へ 行ってみたいと想いませんか?♪夢の中へ 井上陽水行きたかねぇーよっ(爆)!!
2012.01.04
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今日で三が日も終わるし、そろそろ又、楽天もしばらく休業になるべさ~、と想ってレイアウト弄ってたら、フリーページを全削除してもうた・・・。orz初やってもうた?いや、既に数え切れないか・・・( ̄▽ ̄;まあ例により、大したことは書いてないので、どうでもいいわけですが(爆)。それよりテーマ・ソングだよな、やっぱり・・・(違)
2012.01.03
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えっと・・・本が届きました、読みました(笑)。尾張徳川、二代目・光友公の頃の話とか。初代・義直公より仕えて五千石の御年寄にまでなった成瀬主計頭なる方あり、日頃から武士としての戦心得も忘れず、また下々の者ともよく交わったという。その組下に市村六左衛門なるものが、武芸をよくするも気がさ者で奴の風体をしていたことから「市村奴」と称されていたそうな。して、みずや得法なる金持ちの町人、いかなる手蔓からか光友公に取り入り、御前にも出る、お立ち寄りまで願うという栄え様。ついには娘が尾張家重鎮、成瀬豊前守の側室になるほどで、一身の奢を極めていたと森銑三は続ける。これが得法、ある年の平に遊女街を豪奢な衣服に身を包み、手代・小者を大勢従えて闊歩、従前、大抵の武士すら自ら一声を掛けて避けて通していた程という。それを心憎しと想っていた市村奴と行き遭ったところが災難か、市村は得法を睥睨して避けるわけもない。これが癪に障ったか、行き過ぎて「あれが市村奴というあばれ者じゃ」と共の者どもに吐き出すように一言、漏らし、手代・小者共も「どっ」と嘲りの笑いを市村の背に浴びせた。ここで市村「おのれ」と言うや取って返して得法を拳固で一殴り、さらに投げ倒して踏み据えたという。手代どもが主人・得法の一大事と寄るも片っ端から手玉に取られて寄る術もない。日頃から憎く想われていた得法、他に助ける者とてなく、折見て、「討っても棄てるところだが、それも刀よごしじゃ。助けてとらせる」と踏み据えた足に力を入れて一蹴り加え、得法を転がし去ったという。己の傲慢が招いたとは言え、怒りの収まらぬは得法方。そこは権力に近い金持の定法、あれやこれやと焚き付けて、ついに市村奴の切腹を言い付けるに相成った。ここに市村奴の主、成瀬主計頭が登場して快く市村奴の切腹を承り、「して得法儀も、定めて磔で御座いましょうな」と成瀬豊前守に問うたという。「いや、さようなことは御座らぬ」となれば当然であるが、「得法が磔にならぬ内は、市村に腹を切らせ申す事は、 この主計頭が身命に懸けて御断り申上げまする。」と。次第からすれば命を助けた市村も手ぬるいとまで言って一歩も退かぬ。揉めに揉めたが君寵笠に奢る得法の傲慢も知れ渡っており、叱責にて相済んだが、市村には御叱りを、との言葉。成瀬主計頭、上の言葉通り市村奴に以後、謹みおれと言うに加え、「但しまた、重ねて勘忍の相成りがたき儀もあらば、 何時なりとも相手を斬り棄ててよかろうぞ」と、一段と声高に言い付けたという。得法を憎んで市村奴の肩を持っていた家中の面々、「さすがは主計頭殿のなされ方」と褒めそやしたという。一方、市村奴の切腹を聞いて喜んだも束の間、左様な次第を聞き及んだ得法は、以降、迂闊に外へ出ることすら出来かねる仕儀と相成ったとの御話。その間の動静伝えられぬ市村奴も、奴さんらしい。まだ江戸初期の、戦国の熱冷めやらぬ武士気風も残っていた頃の話と言えようか。ちなみに私は、そんな乱暴者ぢゃないですので誤解なきよう・・・(滝汗)でね・・・やっぱり私にピッタシの絵は他にあると想うんですのよ(爆)
2012.01.03
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松崎しげる1976年、マジョルカ音楽祭で最優秀歌唱賞と第2位に輝いた、いわば世界的歌手である。松崎しげる 愛の微笑 ~ マジョルカ音楽祭しかもこの歌を何と35年歌い続けて衰えるところを知らず。なのに、なぜか・・・チョコレートになったり?色々とこれがまた・・・(爆)松崎しげる 愛のメモリーしかーしっ!たまに(?)本気を出しちゃったりするとコウ↓なる・・・(凍)松崎しげる 国歌独唱そして普段は人を笑わせていても、背中が語ってしまう男、松崎しげる・・・松崎しげる ルパン三世のテーマ↑ オススメ!最後まで聴いたって下さいな!! ↑ヤベぇ・・・明日、おいらのフジ子ちゃ~んが帰って来るのを想い出しちゃったよ・・・orzえっとぉ・・・まだ怒られることはしてないハズなんだな・・・確か、まだ今は・・・( ̄▽ ̄;
2012.01.03
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忘れるところだった・・・元日にチョキ、二日にグーのはずが、元日に呑み倒れてずれてんだった(爆)。ということで期間限定企画、グー編!!パーをチョキで下したら、今度はファイトのグーである!しかし・・・期限切れなのコチラ(↓)なのである(笑)!!んでもって例により、お好み次第の別アングルもサービス終了なんである(爆)?我ながら何をやってんだかね・・・(爆)
2012.01.02
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昨年秋、NHK-BSで塚原卜伝が放送された時、BS受信してるお袋に頼んで録画してもらってたのを忘れてて「早く見ろ~!」と叱声が(苦笑)。何とか半分程は・・・残りは明日にでも。ドラマはドラマですので細かい事は置いといて、逆にドラマだからこそ、ということも少なくない。塚原卜伝は伝説的な印象が強いが、今も卜伝を祖とする卜伝流が伝承されていたりで、もちろん不明な点も多いが、資料自体は比較的多い方だと言える。鹿島・香取のW-K両神武を学んだ、由緒ある人物であることは確かだろう。であるのに、素行の方の伝承は、まぁ・・・(苦笑)。鹿島(香取も?)の剣は、その後、新陰流を創始する上泉信綱も学んだとされ、後の柳生のみならず諸流の源流となる。鹿島・香取は、古くは伊勢と並んで神宮と称された三社だという。伊勢も又、武に縁浅からぬ地ではある。武と神と・・・いずれにしても、当然なんだけど私なんぞ「武の問い」自体のホンの入口にすら辿り着けてはおらず、まだまだ時間も必要だあなぁ・・・と。こういうことを定期的(?)に想い知ることで、また今日・明日への力ともなるわけですが。(今年も、少しでも歩を進めねばの・・・)と、心新たに想わされただけでも感謝、感謝!
2012.01.02
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2011年末のパー企画から始まり、三が日限定タイトルに続く第?弾!!元日に酒呑み過ぎて忘れちった・・・まあ呑まなくても忘れるけどね、おいらの場合・・・( ̄▽ ̄;我々の生活をパーにされたのなら・・・チョキを出すんであるっ!そしてお好みの変形チョキは削除なんであるっ(爆)!!それでも歌は出すんであるっ(笑)!!!汚れちまった悲しみに&幾時代ありまして 一世風靡セピア(魁!!男塾 OP&EDバージョン)幾時代ありまして(Fullバージョン) 一世風靡セピア汚れちまった悲しみに(Fullバージョン) 一世風靡セピア☆削除されたグー・チョキは、武道愛好者としては晒してはならぬ手の内でもあるので削除したんであるっ! 御覧になれた方もなれなかった方も、幸いなので気にしないんであるっ(爆)!!☆
2012.01.02
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