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先ほど、Upした「 暇な時はありがとうを 」と「 問題を自分に帰す 」には、
共通点がある、
共に、本気なんかで、思っていないこと、ざっくばらんに言えば、Fakeである、
フェイクダウンコート、フェイクレザーのFake、
要は、偽物である、
ありがとう、と言ってみただけ、
試験的に、問題を自分に帰してみただけ、
そして、これでいけてしまうところがミソ、
逆にこれを本気でやるとドーなるか、あ、あ、あ、ありがとう、とか、
私がワルーございました、とか、
(体験的に思い浮かぶのは、)
いかにもと言う感じで、
スゲー、宗教っぽくなるだろうな、ということ、
力まない、他人行儀で、
あたかも、劇をやっているような感じで、
これで思い出すのが、トマスアケンピスの、
原義タイトルは、
Imitation of Christ(キリストのまがいもの、偽物)
であるにも関わらず、
邦訳タイトルが「キリストにならいて」、良書なのに、タイトルで躓いてしまい、
(あとの訳も多分それの延長で、)
単なる宗教・啓蒙書になってしまった!?
信仰の極意をケンピスは心得ていたと思う、キリストに倣うなんて、とてもじゃないができない、
キリストのまね、フリ、
そうイミテーションこそが、人の分であり、そして、それで十分であることを、
それはあたかも、こちらが、器を用意して、
前に差し出すに似る、差し出された器には、
直ちに、上から、本物が注がれる、ここはミステリーだ けど、 最大のポイント 、
用意し、差し出す器とは、たとえば、先ほどの、
(試してみればわかる よ、 )
ありがとう、であり、
問題を自分に帰す、である、
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