ラッコの映画生活

ラッコの映画生活

PR

Calendar

Comments

Jeraldanact@ Проститутки метро Электросила Брат замминистра инфраструктуры Украины…
SdvillkeS@ ИнтерЛабСервис [url=https://chimmed.ru/ ]brueggemannal…
hydraGes@ Новая ссылка на гидру v3 новый сайт гидры v3 <a href=https://hydraruzpnew4afonion…
間違い@ Re:『沈黙の行方』トム・マクローリン監督(米・加2001)(02/21) 姉ではなく、妹です。 なので、弟ではなく…
RogerEQ@ Это вам будет по вкусу разработка сайтов веб сервис - <a hr…

Profile

racquo

racquo

Favorite Blog

コイケランド koike1970さん
Kabu + Plus エースNo1さん
行きかふ人も又 はる **さん
Nobubuのbu… Nobubuさん

Keyword Search

▼キーワード検索

2008.01.23
XML
カテゴリ: 日本映画
DOPPELGANGER

107min
(DISCASにてレンタル)

+0.jpg

黒沢清作品、自分はごく初期の 『ドレミファ娘の血は騒ぐ』 を除けばここ10年ぐらいの作品しか見ていません。「黒沢清→Jホラー」なんてイメージもあるし、「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」なんていうのもあって、人々はホラーを予想して見始めるのではないでしょうか。でも全く外されますね。例のごとく「人間の本性は何か?」なんて問いが根底にあって、一種倫理的とも言えるのですが、作りはかなりコミカルですね。主人公役所広司の分身のドッペルゲンガー役所広司の役のキャラ自体からしてかなりコミカルですね。ボクはもう15年以上ほとんどテレビは見ないから、昨日の日記にも書いたようにこの人の存在を忘れていたのですが、永作博美という女優さん良いですね。いつかテレビで一度見て、良い感じの人だな、爽やかで、実存性もあって、で適度に色気もあって、なかなか魅力的な人だなって思った記憶がありました。ナガサクというちょっと変わった名前なので憶えていました。三十代になってなお魅力的ですね。

+1.jpg

その永作博美演じる独身女性由佳。エタラジストか何かやっていて、作家志望の弟隆志と2人で一緒に暮らしている。ある日仕事帰りに仕事で使うものをホームセンターで買って駐車場に戻ると隆志を見かける。「一緒に乗ってく?」って声をかけるけれど、弟は反応なく去って行ってしまう。ところが由佳がアパートに帰ると隆志は既に家にいてテレビを見ている。ちなみにそれは台風のニュースか何かなんですが、これがちょっと良いですね。政治や殺人事件のニュース、あるいはバラエティーやドラマ等と違って、台風ってのは自然現象だからニュートラル。それに加えて非日常性もある。黒沢映画って日常的でありながら非日常の空気があって、その感覚が面白いのだけれど、台風接近のニュースという選択は合ってます。由佳が夕食か何か台所で作っていると電話が鳴る。「手離せないから出て!」って隆志に言うのだけれど電話は鳴ったまま。やむなく彼女が電話に向かうと、隆志の姿はない。で電話に出ると警察からで隆志が自殺したという知らせ・・・。葬式とかも済ませたらしいんですが、やがて彼女の前には隆志の分身、ドッペルゲンガーらしきが現れるようになり、由佳はその弟の分身と一緒に暮らし始める。今まではグータラで姉に頼り切っていた隆志なのだけれど、分身の隆志は姉の世話をうるさがり、熱心に執筆に勤しんでいる。

+2.jpg

一方発明家早坂道夫(役所広司)は医療機器メーカー務め。かつて10年前に画期的血圧計を開発して会社には利益をもたらしたが、現在研究中のロボット椅子(?)だか介護椅子(?)のようなものの開発は行き詰まっていて、本人も苛立ちを覚えると同時に会社からも急かされている。そんな煮詰まった精神状況にあったある日、家に帰った早坂に自分と瓜二つの分身が姿を現す。研究所で早坂には男女2人の若いアシスタントがついていたが、その女性アシスタントが由佳の友達だったことから、早坂と由佳は同じようにドッペルゲンガーに悩むということで近付くことになる。

+3.jpg

多重人格と言うと「ジキルとハイド」(サイレント時代の 『狂へる悪魔』 『迷宮の女』 が面白かった。二重人格・多重人格は同じ1つの身体の人物が複数の人格を交代で持つだけだから、異常心理の世界と言ってもオカルト性、ホラー映画性は低い。しかしここでは二重身(ドッペルゲンガー)だ。同じ人物の2つの人格が2つの身体を具えて登場する。こうなると幽霊と同じで、もう非現実(的)の世界。でも描くことは同じかも知れない。『イブの三つの顔』では、静か過ぎる内気なイブ・ホワイトの人格と、相反する蓮っ葉なイブ・ブラックの人格が合わさって、バランスの取れた本来あるべきイブの人格に統合される。この映画では由佳の弟隆志は自分の中の別の人格を体現したドッペルゲンガーと出会ったことで、それを受け入れることが出来ずに自殺する。早坂の分身は早坂に欠けるものを本来の早坂に指摘する。本来の早坂は最初はまず分身の存在を否定しようとするが、少しずつどこかで分身の存在に影響されるようになり、最後にはある形で2つは統合されることになる。それは自分自身の中にありながら自分でも認めたくない面であったり、自分には欠ける何かであったりする。映画はそれを克服して本来あるべき自分になって、それで解放される過程を描いた物語だ。だから黒沢作品には珍しく最後は一種のハッピーエンドであり、とても清々しい。

+4.jpg

彼の開発している介護ロボット車椅子(?)のようなものは、手足が不自由でも座っている者の意志にしたがって移動し、人造の腕が意志通りに動いてカップを持ってコーヒーを呑んだり、タバコを吸ったりできるもの。この椅子自体が肢体不自由者の肉体的分身のようでもあって、ドッペルゲンガーという分身の物語とリンクしているのが巧い。もともと一人の人物の本体と分身なのだからいつまでも2体が併存し続けるわけにはいかないわけで、統合された人格(&肉体)を得るにはオリジナルとドッペルゲンガーのうち片方が消滅しなければならない。だから早坂が開発した介護椅子は、最後は象徴として、ああなるべきしてああなるのだろう。多重人格は1つの身体の中での複数の人格の葛藤だから、同時に両者が現れることはない。しかしドッペルゲンガーでは同時に2者が存在して対話もする。そういう意味では自分を反省してあるべき自分を模索する物語であるとも言える。早坂が車の中で元同僚村上(柄本明)にそういうことを語るシーンもあった。そんな村上がああいうことになったのは、村上がたぶん分かっていながらもそれを受け入れることが出来なかったということなのかも知れない。頭の中で「自分はこうだけれど、本当はこうあるべきだ」等と悩むのと同じ過程を、一方を分身として実在させることによって映画は描いてということだ。そして早坂は(ああいう形ではあるけれど)それに成功するのであり、だから清々しいのだ。

+5.jpg

ロボット介護椅子を完成させた早坂が売り込み先で語ること、つまり肢体不自由者のためと美しいことを言うけれど、介護椅子で結局会社はそれをネタに大儲けしようとしているだけであり、ノーベル賞等を受賞して名誉を得ることであり・・、といったことだ。このまあちょっと陳腐なセリフを聞きながら思い浮かべてしまったのはアメリカ的ビジネスの世界だ。そしてそれを美化するために作られた大企業のプロパガンダ映画 『ふるさと物語』 でもある。

+6.jpg

最後に一言付け加えるなら、この映画のタイトル『ドッペルゲンガー』は色々な意味で正解だと全く認めるのだけれど、個人的希望としては「二重身」にして欲しかった。

+7.jpg




監督別作品リストはここから
アイウエオ順作品リストはここから
映画に関する雑文リストはここから





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008.01.24 03:56:52
コメント(6) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: