遊心六中記

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茲愉有人

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2016.11.24
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カテゴリ: 探訪

この写真は後でご紹介する中御門跡からの坂道を上って来たときに見える道標と戒壇院への石段です。

前回の続きで言いますと、千手堂のところで右折して北に進むと、「華厳寮」と称する建物が見えます。その先に戒壇院の区域の北の門があります。この左の写真で、すこし高台になった境内地にあることがイメージしていただけるでしょう。簡素な門です。境内への通用門という感じです。

少し脇道に逸れますが、『続日本紀』の記録年次を少し遡ると、孝謙天皇の天平勝宝4年(752)の記述は、「春正月1日、太宰府から白亀を献上した」という記録から始まります。そして、夏4月9日、東大寺の盧舎那大仏の像が完成して、開眼供養した」と記録されていて、その時の状況が記述されています。 (資料1)
国史扱いの同書には、東大寺そのものの事項は国事として記録しても、東大寺の一組織となる戒壇院の建立、落慶は記録対象外という識別なのかもしれません。


門を通り、石段を下ってから振り返って撮った写真です。北側の坂道を上ってくると、この石段が正面に見えることになります。東大寺では築地塀に挟まれた通路としてのこの景色が好きな場所の一つです。南大門の観光客で混雑した空間と無縁の静けさを感じる場所の一つでもあります。手許の古い奈良の観光ガイドブックを開けてみて、2001.10.27という日付を戒壇院の項の上にメモ書きしているのを再発見しました。なんと、15年ぶりに東大寺境内のこちらの方に訪れたことになります。


舗装された坂道を下って行くと、こんな基壇のようなものが残されています。
傍に 「御拝壇」 と太い文字を刻した石標が立てられています。

(資料2)
*この壇の南の小高い丘で(現在は竹藪)大仏を御拝されたということが東大寺要録に記載されていると言います。
*都が平安京に移った後は、白河天皇、鳥羽天皇が上皇になり東大寺を参拝された時、この場所でまず御拝されたと伝わるとか。
*この故事にならって、ここにある拝壇が江戸時代に整備されたのだそうです。

地形的に考えるならやはり道路傍のここよりも、大仏殿の建物が見えやすいもう少し高い場所まで上がりそこから拝礼されたという説明が納得できるところです。

そうだとすると、聖武天皇や白河・鳥羽両上皇は、東大寺を参拝するときは、南大門の方向から東大寺に入るのではなくて、境内の西側にあった門のいずれかから境内に入り、この辺りまで来てから一旦大仏殿の方向に向かって拝礼されたということになります。

かつての東大寺境内の西側境界は、現在の国道369号線になるようです。大宮通に面する奈良県庁の東にある県庁東交差点から真っ直ぐ北に向かっている道路です。
この西側境界には、 南から西大門、中御門、転害門と3つの門 があったそうです。
位置関係はこちらの地図(Mapion)を覧ください。


ここが「中御門跡」で、礎石が道路傍に保存されています。道路の南側に門の一部が左写真のように残っています。この道路は国道369号線と交差して、真っ直ぐ西方向に延びています。 交差点は「焼門前」 と称されています。

次の交差点が「転害門前」 です。

道路に面して、この石標が立っています。その案内板があります。

説明の後半には、「境内もきわめて広大で平地部から山間部にわたり現境内よりはるかに広かった。西端は平城京の東京極路で現在の手具通りに面しこれに沿って転害門(奈良時代国宝)中門跡、西大門跡等があり、他の三面もまたその旧規をとどめている」と説明されています。
転害門前交差点の北側が手具町、南側が今小路町という町名です。現国道がかつてこのあたりでは手具通りと称されていたのでしょう。


こちらは転害門を囲む 木柵の南側面に掲示されている説明板


正面から眺めた転害門
三間一戸の八脚門。切妻造り本瓦葺きで、門の高さは基壇部を除き、10.635mだとか。
上記説明文によると、この西面する転害門から真っ直ぐ西に延びる道路がもと平城京の左京一条大路であり 「佐保路門」 とも呼ばれていたそうです。

地図をみますと、転害門交差点から西に延びる道路は、県道104号線で、一条通りの表記もあります。そして、この道を西に行く 佐保川 を渡り、そのはるか先には 「法華寺」 が位置します。

法華寺は藤原不比等の屋敷跡であり、その娘でありかつ聖武天皇の妃であった光明皇后が、皇后宮とした後に、日本総国分尼寺・法華滅罪となったお寺です。木造十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたと伝えられる有名な仏像です。

上記案内板と説明板の内容を重ねてみると、この辺りでの南北の道路の名称はこんな変遷になります。
  平城京東京極路 → 京街道 → 手貝通り → 国道369号線
「京街道に面していたために、平安時代末期から民家が建並び、中世以降には東大寺郷のひとつである転害郷(手貝郷)が生まれ、江戸時代には旅宿として発展した」 (説明板一部転記) といいます。もし転害に音が通じる手貝という漢字も使っていたのなら、手貝町という町名が残るのも納得です。この転害門という名称の解釈にも謎があるようです。

東大寺は幾度も火災や兵火に遭遇してきています。歴史を繙くと、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2度の戦火に被災していることがわかります。東大寺伽藍の苦難の変遷の中で、この転害門が天平時代の唯一の遺構なのです。 (資料3)




正面からみて、 門の左側に数多くの石仏 が集められて祀られています。
そして、門には大きな注連縄が掛けられています。後日に調べてみると、全長15mの大注連縄で、周辺住民の人々がもち米のわらで作製され、 近年は4年に1回、秋分の日に掛け替え が実施されているようです。2013年9月23日に実施された報道記事があります。来年(2017)の秋分の日には、掛け替えが見られることでしょう。 (資料4)
上記説明板には、周辺住民というのは川上町の有志と少し具体的に記されています。地図で確認すると、東大寺の北方を南西方向に流れる佐保川流域と若草山の北側山間部にまで大きく広がる町域です。手貝町の北西隣も川上町です。


柱には部分修理の跡が見られます。
門の側面、屋根の下部を眺めると、緩やかなカーブを描く梁(虹梁こうりょう)の上に蟇股が置かれその上に更に虹梁・蟇股を組み合わせるという形で、屋根の桁、棟木を支える構造になっています。「二重虹梁蟇股」と称されるそうです。 (資料5)


上掲の写真と併せ、この天平時代の転害門に、「鎌倉時代の大仏様の木鼻」が付いていることから、東大寺が鎌倉時代に再興された折に、転害門も部分的に修理が加えられたことが、このことからわかるそうです。(資料5)




この転害門は東大寺の鎮守社である「八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた」といいます。そこで、「基壇中央には、神輿安置の小礎4個が据えられ、天井も格天井に改められ」たのだとか。 (説明板部分転記)


天平時代の建築物が部分修理されていても、こんな形で現存していることに柱をみていて感動します。まさに歳月が刻み込まれていることに・・・・。


転害門をいろいろな角度から眺めてみました。
八脚門と称されるのは、扉がある列に親柱が4本あります。それぞれの親柱の前後に控え柱がありますので、合計8本の柱がプラスされている構造です。そこから八脚門の名が生まれたそうです。この写真がわかりやすいと思います。
転害門の柱の直径は70cmほどあるそうです。勿論、東大寺南大門の柱の太さには及ばないものの、法隆寺金堂の柱(約60cm)を上回り、現存古建築群の中でも上位になる太さだとか。 (資料5)

東大寺の転害門がその歴史を厳然と見せているのです。是非、大仏殿とともに、戒壇堂や転害門の方も散策してみてください。


夕方が迫ってくると、多くの鹿をみかけました。


転害門から東に参道を進むと、T字路になっていて、正面に数本の木々があります。その背後は鉄柵の垣根になっていますが、この東側は正倉院の敷地です。こんもりとした森が校倉造りの建物との間にあるのです。

ここを右折して大仏殿を経由して東大寺境内を抜けながらJR奈良駅に戻ることにしました。国道を南下するより、やはり時間をかけても静けさの中を散策しながら、雑踏の衢に戻る方を選択したのです。

「大仏池」(二ツ池) の傍を通ります。池の東側に、大仏殿の側面が見えます。


池には鳥が遊泳し、池畔には秋の種々が繁茂しています。この辺りまで夕刻近くに足を運ぶ観光客は少ないようです。




池を回りこみ、左折すると、その緩やかな坂道は中御門跡に繋がる道路でした。

大仏池から東の丘陵上の草地のあちらこちらで、鹿が草を食んだり、屯したりしているのを眺めながら戒壇院から下った坂道を、今度は上って行くことになります。

[追記]
ブログ記事を載せた後、さらに調べていて「転害門」の名の由来について、一説の記述をみつけました。
「その名のおこりについては諸説がある。そのなかで、749(天平勝宝元)年、八幡大神が東大寺造営の守護神としてむかえられたときここからはいられたので、勅命によって、殺生を禁じたことから害を転ずという意味で転害門とよんだという説から転害門の字があてられる。この故事によって、東大寺八幡宮の祭礼である手掻会(てがいえ)は、この門をお旅所として執行される」
(『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会著 山川出版社 1981年 p13-14)

つづく

参照資料
1) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫  p105
2) 喫茶 工場跡事務室と東大寺 御拝壇   :「奈良・桜井の歴史と社会」
3) 転害門  境内のご案内 :「東大寺」
4) 東大寺の転害門、4年ぶり大しめ縄掛け替え 全長15メートル、周辺住民ら作製
          2013.9.24     :「産経WEST」
5) 『奈良の寺 -世界遺産を歩く-』 奈良文化財研究所編 岩波新書  p169-171

補遺
旧京街道と押上町、今小路辺り   :「奈良きたまち」
東大寺転害門の謎  :「鳴き沙」
奈良市きたまち転害門観光案内所  :「奈良市」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


観照&探訪  正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ
探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ
探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へ






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Last updated  2016.11.24 22:49:06
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