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延命するか?の難しさ 2022更新 長く生きるほど、その確率は高くなる「今後は延命処置になります」と、医者から言われ決断を迫られる意思決定のできない状態の場合は勿論、認知症で決定権を失ってしまった人は多い他人に決定権が移ってしまい、そこに立ち会う事が何度か有りました「昔、本人が延命しないと言っていたので尊重します」昔って?10年、20年、30年前!?・・・・・・何か違うような気がします何故なら、人の心は移ろうからです 金銭問題、立場や関係の良し悪し、元気な時には想像できない心の乱れなど、とても難しい問題ですこれは、哲学でもあり極めて倫理的な話延命しないと言って記録されると?一過性の心肺停止かもしれないが心肺蘇生はしないので救急車を呼んだところで、すでに死は決定されている取り返しのつかない状況は見殺しと同じ死に行く人が最後に見たのが 私 だと思うと身の毛がよだつ人はウソをつく動物自称「死を覚悟している」人は沢山見てきましたが「正に覚悟できている」と感じる人は見た事がないちょっと思うように行かないだけで「もう、いつ死んでもいい」と人生を憂う 他愛のない事で「生きていて良かった」と感謝する健康なときには見えてこないものや失って気づくもの、因果関係は何処で結び付くか分らないし非常に複雑です聖人君子ならともかく、一般凡人に易々と乗り越えられるようなものではない尚、激痛をともなう難病を抱える人は体も心も疲れ果て、死が唯一の救いとなるそうなので例外になるのかも知れません 昨日と今日は違うし、調子の良し悪しで心はリアルタイムで変わっているもの一番よく聞くのは「もう十分生かされた」「悔いはない」と言う自己暗示結局のところ「もう少し生きたい」何度も聞いてきた特に、予想外の死は覚悟を決めた人たちに追い打ちをかける余命宣告された病気ではなく予想外の死が突然襲ってくる事は結構多く不意打ちに狼狽えて「助けて」と叫ぶ経験上では、往生際が良いと思えたことはなく、本能的に生きようと体が反応するのを見るだけでも辛いです「助けなきゃ!」 一番最初に湧く思い『こころの叫び』を無視したくない延命についてはゾッとしてしまう事ばかりまだ若くて元気の良いときの感覚や、やけくそになった時期の感情も、人生において一過性のものに過ぎないと私は考えています10年前に本人から延命しないと聞いているからなんて通用しない問題だと考え、毎年更新するぐらいの重みが有っていいと考えますその方の今の声を聴く意思表示の出来ない方に対しては、今までに一緒に過ごした日々の内容で判断するしかないと思いますが、今や、そう言った家庭環境の人は少ない真意は別のところに存在する延命は高額なので、無料だとしたら?人はアバウトな生き者で身勝手ですから、終活内容は全然違うものになりそうです一般の人は、精神疾患をはじめ難病や不治の病、事故を含めた人生の不遇の確率が相当高い事を知らないと思います医療が無料なら、延命の話は別物になる延命についての意思の尊重は論外ご本人、身内、包括の各々で何ができるか?出来ないか?それだけを考えれば良いと思います延命や尊厳死の前に、大きな問題があります自然死です生き物として、終末期に入ったら余計な事はしないで天命に任せる施設利用や支援介護の概念を変えるのが先のような気がしますここをクリアできずに尊厳死はないだろう!!と思ってしまうのです ホームに遊びにおいでよ ⇒
2016/07/17
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コリを真面目に考える医者は外科医など限られているコリは医学の用語ではないからだろうか?触診でシコリを探し、特定(ガンや内臓疾患)の狭い視野でしか見てくれないのが現実だろうと思う世間一般がなんとなくコリとシコリを使い分けし、何となく、それなりに診断してもらい治療対象なのか悪質なのかを考えてはいるシコリは筋肉などが硬くなった状態を指すが、シコリの様なものと言う場合もあるし、心にしこりを残すと言った表現もあるコリは夏目漱石が小説で肩張りの表現として使った言葉で、それがメディアに乗って肩コリとして広がったとも云われている何れにせよ近代の言葉らしい実はコリの研究は間接的ですが世界中で行われているスポーツ医学として一般医療も多大な恩恵を受けているコリと言うから見過ごし勝ちですが、結局は筋肉の過労、様々な原因で起こる筋肉の異常な緊張であり、修復が追いつかない状態、自己治癒がままならない状態だと言う事スポーツ界では予防から治癒、養生、ケアまであらゆる分野が連携し最良の結果を出す努力をするわけですが、もちろんお金をかけていますでは、スポーツを職業とするならば、他の職業だって過酷なものは沢山あるわけで、何もないと言うのはおかしい職業病と言われるものは幾つもあるが、一般も国も関心が薄いのは確かだと思います。コリは職業や生活がそのまま表れるので、そのままにしておけば結果として将来に異常をきたすわけですなので警告の一つがコリだとも言える筋肉の問題としてサルコぺニアの概念が有りますが、非常に深刻なのに世間に浸透していかないのは何故だろう?そこには痛みというポイントが有る骨や関節異常では屈折しようが横ズレしていようが削れて尖っていようが痛みの症状が出るのは30%程度と言われ、コリも痛みのないものが多く、原因となる場所も本人に自覚のない箇所に存在する事が多いです痛みが無ければ治療もケアもしないのが当然です。つまり過半数の人は放置した状態で何年も過ごすことになります。たまたま痛みを発症しても、現代医療での完治は見たことないですし、後遺症が残ってしまうのが現実です。最も多いのは痛みだけとれて麻痺や痺れが残ったり、歩き方や姿勢が大きく崩れたり、車いす生活になってしまう事です。そうなってしまった理由は明確です。医療の問題として、痛みの研究はある程度進んだが、他の感覚については分からない事も多く、完治または予防が遅れている。現実の話、病気を治す技術は病気全体で比べると無いと言ってよい。できる事は未だに人体の仕組みを手助けするだけです。そして、コリが廃用症候群と結びつけば拘縮へと発展し、その時に限っては必ず激痛が伴います。病院や介護施設では、なんとしても避けたい厄介な問題です。今のところ、それを緩和する最も適した療法はマッサージだといえます。日常生活の随所でみられるスキンシップや身体をさする行為は、その重要性を無意識で認知しているといえます。なのに必要と思える場所で積極的に取り入れる事ができなかったのは科学的根拠に欠けていたからです。最近はコリとマッサージについても科学的根拠を示唆するものがメディアやマスメディアでも取り上げられてきていますが、その分、不確かな情報が飛び交っています。介護するもの、ボディーケアするものとしては、それなりの知識を持ち、その知識を活かさなければなりません。
2016/07/15
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福祉の仕事に身を入れた理由は、不安と恐怖からたまたま運が良く今まで大きな病気も事故もなく生きてきたけれど、介護に関わり医療や福祉を見ていると、自分の老後を含め家族・親友・知り合いと、それぞれが相応に報われる事はあるのだろうか?と、考えるようになった人は確かにすばらしい生き物なのかもしれませんが、現時点では「賢い人は極極限られる」としか思えない前頭葉や側頭葉の働きがポイントで、認知症改善でアクセスする場所になる認知症でなくても、そこが上手く働かなければ人は危うい物事において知らなければ、それはそれで幸せだと言う考え方も有りますしかし!「現場では無知による害が非常に多く、皆さん自ら絶命してしまう始末」 「スタッフの無知は明らかに相手の死を助長し、それが命に直結していく」ただ事ではない と、言うわけです以前の記事の重複になりますが、定員8名の病室に伺ったとき、そこには年齢とお名前のプレートがベッドの淵に掛けてありました60代から90代の方が同じ姿勢と方向でベッドに横たわり身動きしない光景は異様でした年齢差は30~40年、それぞれの人生の違いは何なんだろう?遺伝や運?それだけでしょうか?厳しく突き詰めれば自己責任、その方の生き方=生活習慣そのものだと今は痛感しますフレイルの概念が発足されて健康長寿の促進が世界規模で行われていますがそれも取り組みが遅すぎて人類の不覚とされ、大きな課題となっています2023年例えば厚生省が表記する栄養摂取基準で、食材数や品目数をバランス良くなすると、食費が非常に大きな負担になります物価の上昇は1.5倍前後を往来、買えるものに隔たりや制限が大きく掛かる贅沢病とか欲張り病と言われている現代人ですが、コロナ解禁の意味はなく、何だかコロナ自粛が予行練習だったような気もしてきます一昔前ですが、家族が糖尿病を発症し病院から食事摂取ガイドを渡されました。日常生活で働きながらの食事療法一日食材21種以上と毎食5品目と言う当時の厚生省の基準を基に栄養バランスとカロリー制限をした結果、贅沢をしたわけでもないのに手間と食費が倍近く掛かってしまいました半年を過ぎた頃、血糖値を正常に戻すことができ医者が驚いていました。2016年大分県などの一般年収は250万~300万程度で、福祉施設では夜勤を入れて手取りが月16~8万程でした一家の大黒柱としては成立しません食生活を切り詰めるという家庭が殆どではないでしょうか?かと言って、食品や食物を安くすれば良いなんてナンセンスな資本主義は、第一次産業を追い詰める結果となりますでは、どうすれば良いのでしょうか?私は政治家ではないのでお国の事情は分かりません。ただ、グルメや安くてお得な情報ばかりに関心しか持てない国民性を問います苦労や仕組みを知らない消費者と企業努力をしないで仕入れを叩いてしのぐ様な構造で景気回復ができるはずないのです便乗値上げも問題です悪疫質な需要と供給のしわ寄せは職業格差にも現れて、ブラック企業は相当多い健康長寿にはお金が必要!貧乏人は食や運動、趣味など、知恵を使い、工夫しながら身の丈にあう範囲で努力しなさいと言っているジムに通えないならペットボトルに砂をいれる散歩なら出費も最小限傷物の野菜や賞味期限切れの食べ物を探す100均ですべて揃えた日用品が実のところお得ではなく損しているとか風邪や少々の怪我や痛みなら病院はいかないなど、言い出したらきりがないとは言っても、お偉いさん達も頑張っている弱者を守る平等という人権の下に作られているはずの法や条例ですが、感心するほど細かく作られている覚えきれるような量じゃない悲しい事は、末端の人々の生活には不都合なことが結構多いと言う事平均的な視野が基準なんだろう?けど、その平均以上ってのが適切でない病院でも各施設でもやっぱり最後はお金ですか?と、なる健康長寿が非常に難しい事は、仕事を通して実感してます。年齢と共に、やがては誰もが意識する事ですが、経済環境で断念する方が多いのは事実です大人達が環境改善もできず、次の世代に伝える事ができないのなら義務教育に取り入れるべきでは?運動をする習慣として朝のラジオ体操で不足なら職場の食事や休憩時間と同じように業務日程に取り入れる事を義務化しちゃえばいい年老いていく自分への投資は成人した者の義務にし、貯蓄型にして定期預金のような金額枠を設け金額を明白にすればいいあなが老後に使えるお金で上限も下限もない、投資の循環活用です介護税だとか、年金とかややこしい制度にするから不正が起きたり、横流しして使い道を間違えたりするのではないか?単純、明快が一番!何故なら人はそんなに賢くないからです表面は理性的ですが内面は本能的です更に今までの仕事が無くなってしまう時代を想定してるわけですし、すでに収入の概念が変わってきている職業が存在しているですから制度の改革は進むど素人の講釈でしたが、どう時代が変わろうと老後で誰の世話にもならない確率は0と言って良い近いでしょう。家族の世話にしろ、どの道、健康とお金次第と言う事に間違いないと結論を下すのでした。
2016/07/07
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今日は休み!実質、経営とは無休なものですが、それなりの解放感をもって過ごすことができました。松任由美のアルバムを聴きながら、過去を思い出すのでした。刹那さが心地よい複雑な気持ち。後悔だらけの人生ですが、今のところ悔いはないと思えるので良いのかな?しかし、主婦とはスゴイ!年中無休だし、自分にはマネのできない人生!なんで?母性愛・・・・・・旦那さんへの愛は?形を変え別物になっているだろうからな~。義務だけでは理解できないし、専門家では執着心が大きいと言う人もいる。等価価値の法則で、家族と過ごした時間という犠牲は取り返しのつかないほど大きく、自分の見合う結果を見出すまで退く事ができないと言う事です。恋愛を含め、人の絆は時間とお金に比例し手放すことができなくなるわけです。絆についての美談がありますが、それは無条件の中で欲の絡まない関係であった稀なケース。大概は腐れ縁として認識されている事なのだと思います。若い頃は、ホントは大好きなのにお祭りやイベントに行かなかった。幸せそうな家族連れや男女のグループを見て、すべてが偽りに見えた。演じているんだろうな~と、思うと許せない気持ちになり、路上にツバを吐きたくなる気分になった。今も変わりないけれど、偽りを認めることができる様になったので微笑むことが出来るようになった。心理学者の言うとおり、どこ?で、どう?演じきるのか?が、人生の違いだとすれば大いに結構な話である。と、思えるようになった。子供を見ると無条件で守りたくなるし、世代交代を感じる。そんな年の所為でもあるんだろう。脳の勉強や心理学の本を読んでいるうちに、いつかしら人が脳みそに見えてしまうようになった。人の表情をみると、この脳みそは何を企んでいるのだろう?と思う。そして相手の脳みそに乗っかることが出来るようになった。福祉の支援介護でも先を読む事が重要になります。本人の代わりに危険を予測し、防止や回避を行う仕事で有る事と、物事を差支えなく進めるには相手に余分な心配をさせない事、言いたいことを先回りする必要があるからです。違う事を考え、違う事をしていては事故につながるし、楽しくない!お互いに喜びを感じることはできないのです。明日からまた、幅広い世代の脳みそを相手に、ビールが大好きな自分の脳は自分を演じるのだろう。
2016/07/06
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