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■明治維新、明治近代化のリーダー、商都大阪を築いた大恩人■
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昨年6月に発足した「社団法人スリランカ友好協会」の松本勝幸代表理事に、特別顧問をされている久保田彌一郎氏を紹介され、スリランカと五代友厚公とのつながりをお聞きしているうちに、胸が熱くなってきて、後日、梅田の「関西文化サロン」でお会いし、取材させていただくことができた。五代友厚公は、明治維新のとき活躍した一人で、明治近代化のリーダーであったばかりか現代の商都大阪の基礎を創った大恩人であることがわかり、五代友厚公の研究をされてきた久保田さんのなみなみならない熱い想いとともに、21世紀の大阪再生のために、五代の志を引き継ぐ人材を輩出したいと言うことでお互いの想いが一致した。
スリランカ人ネルソン氏の
「五代友厚研究」
ーー 昨年、バーズアイで「中之島特集」を組んだ時、五代友厚公の銅像を見上げたことを思い出しましたが、こんなに早く五代友厚の話を聞くようになるとは思いませんでした。初めて久保田さんにお会いしたのに、前から知っているような感覚でお話に吸い込まれてしまいましたが、五代友厚という人物によっぽど惹かれたんでしょうね。久保田さんが「五代友厚公研究」を始められたいきさつからお話いただけませんか。
久保田 私も同じ想いですね。五代友厚公をもっと世に広めてゆきたい、いや、今こそ、五代が世界に、日本に、この大阪に必要なんだという気持ちと、バーズアイとの出会いがシンクロした、という感じがしてとてもうれしいですよ。
私がちょうど1973年ごろの高度成長の時期に、企業コンサルタントとして広島のある企業を訪問していた時、その会社の社長がお世話をしているスリランカの留学生の話を聞かされたのが始まりですね。
ネルソン・ウィターナゲというスリランカの若者が国費留学で広島大学に入って勉強して修士課程を終え、大阪大学で博士課程を勉強したいと言っているので、彼の大阪での後見人になってやってほしい、という依頼を引き受けてバトンタッチしたのです。ネルソン君は頭もいいけどテニスや運動神経も抜群で、後にスリランカ在関西名誉総領事として活躍することになるのです。
ーー スリランカ総領事館には行ったことがあるので、私が会っていた方と同一人物でしょう。奇遇ですね。
久保田 それは、やっぱりネルソン君が引き合わせてくれたんでしょう。
彼は阪大の大学院博士課程に入学してから、宮本又次教授に勧められて「五代友厚の研究」をテーマに卒業論文を書いたのです。
ーー その教授はネルソンさんに「五代友厚」の研究を勧められたんですか。
久保田 そこなんですがね。ネルソン君の育ったスリランカという国は非常に心豊かな国だったのに内紛でいっぺんに貧しい国になってしまったんです。逆に日本は、敗戦で貧しい国になったのに、みるみるうちに経済大国になっていった様子を見て、なぜこんなに自分の国と違うんだろう、そこが知りたい、と言う彼の国を思う気持ちから日本留学を志願して広島大学に入ったのです。
ーー 聞いただけで胸が熱くなります。
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国を思う気持ちが日本留学へ
久保田 つまり彼は自分の国を何とか豊かな国にしたい、という一念で勉強していたから、教授が研究していた「五代友厚」を学んで欲しい、その志を引き継いでスリランカのために働いて欲しい、と言う、これまた教授の熱い想いをネルソン君に注いでくれたおかげなんですね。
ーー 想いが受け継がれたのですね。
久保田 きちんと目的を持って大学に入り、そのための研究をして、それを国や社会に還元する。これが学生と大学の在り方でしょう。
ネルソン君は「五大友厚の研究」に没頭して、それをスリランカの国のため、関西一円の人たちのためにはたらいたのです。それが認められて若くしてスリランカ日本大使館の名誉総領事として認証されたのです。その結果、関西在住のスリランカ人の支援も熱心にして非常に慕われていたのですよ。
それが2005年、インド洋津波で家族を失った子どもたちの支援のため母国に滞在中に急死したんです。日本の友人以上の付き合いでしたから、残念で全身の力がすっかりなくなってしまった感じでした。
ーー 友厚公の志をもっと生かしたかったでしょうに残念ですね。
<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/30/0000887630/22/imga6ddbfefzik9zj.gif" width="200" height="145" alt="水夫">
今、なぜ五代友厚公なのか
久保田 彼が亡くなって、膨大な研究資料だけが残り、それを眺めてばかりいました。その資料もネルソン君と一緒にイギリスまで行って調べてきたものもあり、それを見て彼の心残りのことを想うと胸が痛くなり、私はもう一度五代友厚公について勉強し直してみようと思ったのです。
ショックだったのは、日本人の中で「五代友厚」とう人物がどんなことを成し得たのか、ほとんど知る人がいないということが判り、これほどの人物を政府の高官すら全くと言っていいほど知らないのはなぜなのか、という疑問に突き当たったのです。
それで、五代友厚公のことを誰かに本に書いてもらうか、どのようにして世に知らせて行けばいいのか、寝ても覚めても頭にあるのは五代友厚公のことばかりでした。
そんな頃、今度は私自身の人生に大きな試練が次々に訪れてきて、それどころじゃない状況になってしまいました。体調を崩した上に交通事故で緊急入院するはめになって、何もかもあきらめかけていた頃、NHKの「その時歴史は動いた」という番組で五代友厚公のことが放映されたことを知ったのです。
それではじめてわれに返って、五大友厚公のことをもう一度考えようと思ってから元気になれました。そして、機会があって今年の10月から一年間の約束で「五代友厚公に学ぶ大阪活性化のために」という連載を書くことになったのです。
ようやく、遣り残したことに息を吹き返したところです。今年の9月は、五代友厚公が没して125年目、生誕175年なんです。いよいよ時が来たという感じを強くしているところです。
大阪を愛し、大阪で活躍し、大阪を近代化に導いた大恩人
ーー 久保田さんから頂いた資料をもとに「五代友厚」に関する情報を集めてみようと書店や図書館に行って調べて見ましたが、明治維新の志士たちの所にただ一行名前が書いてあるだけで、何にも情報が手にはいらなかったのですが、どうしてなんでしょうか。
久保田 そこが不思議なところですよ。薩摩藩の武士として西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、坂本竜馬たちと共に激動の時代を駆け抜けた志士の一人だった彼が、明治政府樹立後は、政府高官の地位を辞し武士の地位も捨て、大阪復興のため、商人として活躍したためか、陽の目を見るようになったのは、実業家としての功績でしょう。
でも彼が大阪の中之島にある造幣局や商工会議所を創った人物であることや大阪製銅(住友金属)などの企業を起こしたことや鉱山王であったことを知る人は少ないですね。ましてや大阪を東洋のマンチェスターにと、都市づくりに尽力したのになぜなんだろうと思って追求しました。
彼はあれだけの大事業をやりながら名も金も残さなくていい、ただただ日本のために、という人だった。それで私なりの納得がいったのです。
ーー 五代友厚を書き表した著書で「士魂商才」(佐江衆一著・新人物往来社刊)をお借りしたのを読んでみて、五代の熱い気持ちが伝わってくる箇所がありますね。新政府の中枢にいた五代が大阪に造幣局を創り電信事業を手がけ、大阪湾を近代港へと建設してゆく。その五代が上司の小松帯刀に話すくだりが五代の心意気を表しています。
「小松さぁ、俺は奔放不羈じゃっで、宮仕えはむきもはん。性に合わんとじゃ。この際、官を辞めせい商人になる腹ばきめもした。幸い大阪の商人が慕ってくれもす。俺は武士もやめせえ、こん大阪を東洋にマンチェスターにしとうごわす」ここに、惹かれますねえ。
久保田 そして五代が辞職の決意をこう伝えるんです。「これからは、新生日本のために貿易をし産業を興す。欧米列強に日本が伍す富国強兵の殖産興業じゃ。大久保さぁもぜひ欧米をその目で見、肌で感じてきやんせ。残念なことに、いまの日本の商人は世界を見る見識がなく、旧態依然として細利に汲々とし、世界に通用する企業を起す者がおらん。俺がやらねばなりもはん。俺はもともと商人にむいちょっとじゃ」
ーー それからの五代の活躍はすざまじい勢いでしたね。
久保田 造幣局に納入する地金を製造する金銀分析所、金銀銅鉱石の採掘と精錬をする鉱山、活版印刷所、堺に紡績工場、大阪新聞の発刊、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現在の大商工会議所)、銀行、鉄道(南海電車)、船会社(大阪商船)と次々に手がけてゆく。そのほとんどが現在の中之島周辺のいたるところにあるのですよ。