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あらすじ時は明治時代の終わりか、大正の初めと思われる。小学5年生の仙一は学校の校門際に植えてある薔薇を盗んだ。貧弱な薔薇木にたった一輪咲いていたのを。学校中大騒ぎになった。何故、盗んだのか。病弱で寝ている5歳の妹を慰めたかったから。仙一の家は極貧。朝ごはんも食べずに学校へ行かねばならない。栄養失調の妹二人は家でボロキレにくるまって寝ているしかない。電灯もろうそくもつけない家は真っ暗だ。そんな中での洒落た赤い薔薇の花は一時の慰め。働きものの母親が死んで、気落ちの父親、喜八も病気である。いや、怠け者の極道との世間の噂は一応あたっているらしい。左手の指が生まれつき4本しかない欠陥もあり、心が病んでいるにちがいない。自作農だった田地が今は小作になってしまったのもひねくれから。いよいよ喜八は働きたくなく、親子4人は飢餓にさらされている。近所や親戚も助けてくれることはあるが、所詮足りない。喜八もふて寝の毎日だ。そんな喜八が息子仙一の盗みを知ると病気を忘れて烈火のごとく怒り、仙一を家からたたき出してしまう。はだしで飛び出して、自分の月影を踏みつつ田舎道を彷徨う小学生仙一。普段はガキ大将でもあるのに、心細さはがつのる。手下の三年生を誘うと隣村の芝居小屋に潜り込もうとしたり、それがかなわないと、嫌がる手下を真っ暗な自分の母親のお墓に連れていったりする。行き場がなく、仕方なく自分の家に帰ってくる。「・・・・・土間の戸をそおっと開けようとすると、家の中がなんとなく明るんで見えた。おや、と思いながら這入ってみると、蝋燭の火が一本ほの揺れて、その光のそばで、父親の喜八が後光に包まれたような格好をして、草履を作っていた。仙一の学校草履をもう二足も作っていた。仙一が帰って来たのを見ると、喜八は重い口で「芋食うて寝よ」と言った。仙一ははだしで座敷を上がり、芋を二つ三つ食ってから、利エと由美江(妹たち)の間へ割り込んで寝た。父親の影法師が煤けた壁の上で大きく揺れるのを見つめながら・・・・・」*****貧しい家庭に育つ少年と父親を冷静な描写、あたたかい目線で捉えられ、悲惨ながら感動を与える短編。「貧乏をしても盗むな」というきれいごとの説教ではない、人間の心のひだを探る文学の作品である。*****上林暁の処女作短編。昭和の作家探訪とて昔の新聞の切り抜きから、読んでいこうと思っていてはじめの一歩、No1が上林暁。講談社文芸文庫の短編集『聖ヨハネ病院にて 大懺悔』の一番目の作品。上林暁はその後、私小説作家になるのだが、この一作目は純然たる創作。察するに教員だった父親の話からヒントをもらったのでは。川端康成が作家の「目の誠実」と褒め称えたそうである。
2018年10月21日
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『嵐が丘』の続編。100年以上たってイギリス作家アンナ・レストレンジが創作(1977年)したものを倉橋由美子さん訳で1980年発行にされたものです。もう古本になってしまっていますが、わたしがやっと読むのも情報を知りましてから10年以上もたっています。名作の続編を他の作家がものするというのは興味ありますよ。読んだものでも夏目漱石『明暗』(水村美苗『続明暗』)ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ミッチェル『風と共に去りぬ』など。もっとも、未完だった『明暗』は続きが気になりますが、『カラマーゾフ』も『風と共に去りぬ』も残り惜しいには違いないのですけど一応完結している作品で、この『嵐が丘』も蛇足になりかねないなあと思って読み始めました。つまり、英国版時代小説の感じですかね。狂気のごとく情熱をほとばしらせたヒロイン、キャサリンとヒースクリフの恋愛がヒース荒野の風吹きまくる中で悲恋に終わり、キャサリンの娘といとことが明るい日差しがさすように幸せになるはずの結末が、時代を経ていくうちにどうなったか?
2019年04月18日
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「ハイジ」の訳者解説のはじめにゲーテの作品として引いてありましたので、昔読んで気になってたなーと今日再読。18世紀、ドイツ宮廷に属するお姫様といってもいい女性の魂の自立の物語。宗教的なところは少しもなくて、でも見えない力を信じて自立していく様子は現代にも通じる。ダンスやトランプ遊びにうつつをぬかす華やかで、浮ついた社交界で許婚との恋愛にしていたヒロインが『自分の魂に対して無知でな』くなる。『自分の魂のまっすぐな方向が愚かな暇つぶしやつまらぬことにかかずらっているため妨げられている』こんな姿が自分ではないと。その後許婚とわかれて、18世紀ですから現代女性の自立とはちがい修道女となりますが収入も得て、魂をも浄化させていくのです。実際にモデルがいて、ゲーテとも交友あり、失意の彼の魂を慈愛をもって理解と慰めを与えたそうです。このような封建的な時代にも、女性が人間として苦しみながら、精神的に自己解放していたのかーと感動します。私が影響を強く受けた、犬養道子氏の「ある歴史の娘」にも道子氏が、当時の上海の華やかな社交界のむなしさから自身が解き放たれる過程が延べてあり、オーバーラップしそれも印象的でした。もう、廃刊になっている本かもしれません。でも過去のある時代には好まれたと思いますよ。
2003年12月07日
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新潮社版「山本周五郎小説全集・別巻4」1943年(昭和18年)の戦中に新聞小説として連載されたもの。なぜかわからぬが読み残してあった1冊。解説をよんでみてわかったのだが、著者自身も自信作でなかったらしい。わたしも読み始めがしっくりこなかったので途中でほおっておいた。これでほとんど全作品を読んだことになるから、とにかく決まりをつけたくて読む気になった。しかしやはり山本周五郎の世界だ。なかなかに読みでがあって、言わんとしていることはよくわかる。時代は江戸末期(嘉永5年1852年)幕末の混乱期、水戸家と幕府の確執を下敷きにして、若い二人の男(早水秀之進と太橋大助)の友情と運命を追っている。斉昭、藤田東湖、水戸、攘夷論、大政奉還、討幕、佐幕など・・・が飛び交い、ふたりの会話がとくに讃岐高松の郷士秀之進の独白が作者の気持ちを代弁している。日本の国難、行く末、あり方、国民の自覚が語られるけども、簡単ではない、誤解も起こる、それは太平洋戦争末期の「言いたいことが言えない」作家の苦しみと重なる。維新でも悩み、戦争に突入でも悩み、戦後でも悩み、現在も日本の存在は混とんとしている。そういう思潮的なところが熱いといえば熱い、若い山本周五郎の作品であった。出版社が全集を出して作品を網羅したく、古いのも拾って入れたということであろう。
2019年12月21日
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