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閑話休題。「外国人の日本留学試験、中国語と韓国語でも出題へ」ここまで媚びを売らんでも・・・。ちなみに記事によると、「2008年6月の試験では、受験した1万9206人のうち、中国人が74%、韓国人が14%」だったんだそうだ。そこまでするんなら、授業も中国語でやったら?というのは言い過ぎ?まあ「地方私立大バブル」が急速にはじけると困るって面もあるんだろうな・・・。ちなみにこの論法が通るなら、将来的にはTOEFLを日本語で受けさせろ、とでも言いだしかねんな・・・。
Oct 26, 2008
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今日はちょっと切り口を変えてみよう。そもそも「日本以外の活動の場がある」ということを知らなければ、その選択肢自体が自分の中に存在しないように思う。その場合日本が全てであり、その中でなんとかうまくやっていこうとするだろう。ところが自分の場合はそのような選択肢があることを知ってしまった。これは考えようによっては不幸だったのかもしれない。そもそも海外旅行に行ったことがないか、行くとしてもいわゆるサファリパーク形式のツアー旅行でしか海外に出たことがなければ、そこが自分が生きていく場としてどのような環境を提供してくれるのか、などということには考えは及ばないだろう。なにはともあれ知ってしまったからにはやはりどうしても「可能性」を考えざるをえないことになる。その「可能性」を胸に納め、日本で一生を送るか、その「可能性」を試してみるかはそれはもう本人の人生の選択でしかないだろう。ただ、自らの選択肢がアメリカである場合、そのレールは意外にしっかりと引かれている。今までも何度かネタとして出してきたけれど、日本の人は日本は世界に名だたる学歴社会だと思っているかもしれないけれど、実はそれはアメリカの足下にも及ばない。もちろん例外的な成功者はいるだろうけれど、ごく普通の人生を歩む場合、まず大卒か否かで地位や収入がかなり左右され、さらに大学院を出ているか否かでも人生の選択肢がかなり左右される。日本では院卒を条件に入れている求人はまだ希だけど、アメリカの場合、求人の条件に院卒であることが入っていることはそれほど珍しいことではない。我々外国人にとって学歴が直接かかわってくるのはたとえばビザの審査要項だ。学歴が高ければ高いほどより優先的に扱われるようになる。さて、自分が日本で学校に通っていた頃を考えてみよう。たとえば高校のころは本当に勉強は嫌いだったし、自ら稼いで好き勝手のできる社会人に早くなりたかった。ところが社会に出たとたんに学校というところがいかに「楽」だったのかを思い知らされることになる。学校というところは先生というガイド役がおり、さらに教科書や参考書というものがあって、それをこなしていれば、「試験の点数」という明確な結果となってそれが現れてくる。評価の尺度が非常にわかりやすく、受験の際は地獄のように思われたが、高校の勉強なんて後々になって振り返ってみれば本当に狭い範囲のことだし、少なくとも何をすべきかは教科書や参考書というものに明確に示されている。大学でこそ多少こなさなければならないことの範囲は広がるが、それでも先輩などからの情報で「最低限何をすればいいのか」ということは明確に示されていた。ところが社会に出るとそういった教科書的ガイドラインが途端になくなってしまう。営業であればとりあえず営業成績を上げればいいんだろうけど、これさえやっていれば営業成績が上がるという方法論が明確に示されているわけでもない。また、営業成績が良かったとしても職場の人間関係が全くだめで、上司に嫌われようものならいずれは職を失うかもしれない。学校というところであれば、最悪孤独になったとしても成績さえ良ければ先が見えるが、一般の職場だとそうはいかないということだ。話を戻すと、というわけでアメリカは学歴社会。ということはここに来てやるべきことは明快だ。学校に行き勉強すること。繰り返しになるけど、学校というところは先生というガイド役がいて教科書がある。その通りにひたすらこなせばいいわけだ。(実際にはそれほど単純でもないんだけどね。)「学校で勉強することなんて役に立たない。」それはアメリカでも同じ。でも、社会の構造がそういうことになっているのだ。では日本の無能な官僚はなぜクビにならないの? 外により有能な人がいるのになんで中途で採用されないの? 答えは「だって、社会の構造がそういうことになっているから」ということにはならないだろうか。社会の中にはいくらでも「理不尽」というものが存在する。なにはともあれというわけで、アメリカ社会への入り口として、留学というのは非常に有効な手段のような気がする。そして、一度一般社会で社会で試行錯誤した経験があるなら、教科書やガイド役がいる「学校」という環境は、むしろ非常に楽なのではないだろうか。(つっこみが入りそうなので念のためフォローしておくと、実際には話はそこまで単純でもないし、分野などによってはさんざん苦労したあげくに仕事がみつからず、結局アメリカを去らざるをえないことになる場合もある。ただ、少なくともアメリカにいる間にすべきことは明確に示されているという点に変わりはない。)(つづく)
Oct 23, 2008
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今日はちょっと留学ネタはお休みさせてもらって、ちょっと毛色の違う話を。ここ最近さらにエコエコうるさくなってきているけど、個人的には本当にアホらしい現象だと思っている。もちろんエネルギーや物を大切にする心は大切だと思うけど、今、少なくとも日本が進んでいる方向は「言ってることとやってることが違うだろ」状態のような気がしてならない。最近トヨタから極小車、iQが出た。燃費はカタログ上は21km/Lだそうだ。念のため書いておくと、実際に車がカタログ上の燃費を達成してくれることは極めて希で、必ずといっていいほど実際の燃費はカタログ上の数値よりも悪いので、iQの燃費も実際には15km/Lくらいだろう。ところで自分が免許をとってはじめて乗った車の燃費は20km/Lを上回っていた。別に軽自動車などではなく、ちゃんと大人が4人乗れる1.6Lのターボ(!)車だ。こないだ年配の人と話をしていたら、トヨタのプリウスの話が出た。その方が昔運転していた車の燃費は軽くプリウス並だったそうだ。どういうことかというと、これは恐らくあまり資源のことなど心配しなくても良い時代に車の高性能化が追求され、今になって急にエコが騒がれはじめたので、性能(や快適さ)は維持しつつ、さらなる「ハイテク」をつけ加えることによって燃費を押さえ込もうとしているということなんだと思う。そもそも昔の車は構造が単純で重量が軽かった。同程度の車で比較すれば恐らく今の車は昔の車の1.5倍くらいの重量はあるような気がする。これは一般的な乗用車であれば常に大人8~9人を余計に運んでいる計算だ。今の車はエンジンルームを開けると中身がぎっしり詰まっているけど、昔の車は「骨しかないんじゃないの?」と思えるほどエンジンルームがスカスカだ。また、部品なども今の車と比べれば多くが金属製で、リサイクルも今のプラスチックで埋め尽くされている車とくらべればよっぽど効率が良いと思われる。ネジ止めしてある部品も多かったので、その車自体はダメになっても、部品だけ外して他の車に流用することも可能であった。もちろん安全性や排気ガスのことを考えたら、昔の車の方がはるかに劣っていただろう。でもそれではなぜ、あれだけ軽く、構造が単純でリサイクルに向いている昔の車に立ち返った上で、安全性や排気ガスの部分だけ追求しないのかと思う。それができない理由は恐らく車の高性能化が追求された時代にゴテゴテ付け足された部分は作り続けないと(付け足し続けないと)経済が縮小してしまうからなのだと思う。プリウスにしても確かに燃費のみは良いが、その燃費を生み出すためにゴテゴテ付け足された部品等はいずれは「ゴミ」として廃棄されてるか、少なくとも処理をしなければならないわけで、だったらそんなもの付け足さず、さらに快適性や高性能を達成するための部品をとりはらったほうがよっぽど「エコ」のような気がするけれど、実際向かっている方向は全く逆だ。そんな中、最近自分的に一番ヒットだと思っているのが、出演している毛利宇宙飛行士や多部未華子には申し訳ないが、積水ハウスの「CO2オフの暮らし」というCMだ。CMの中で「快適な暮らしをがまんするのではなく、技術の進歩をうまく使えば・・・」と毛利さんは言うんだけど、そんな夢物語が実現したためしはないような気がする。(要するに積水ハウスだって家を買って欲しいわけでしょう。)「日本ほどエコに対する技術をもっている国はない」と日本の技術力の高さを伝えるニュースなどが多いけれど、その日本が京都議定書で自らがイニシアチブをとって「下げる」と約束したCO2排出量がむしろその期間中に上がってしまったというのはなんとも皮肉な話だ。技術力が進歩すればおのずとより多くの物を生産し、結果として消費することになる、というサイクルほとんど必然的なような気がする。では自分自身にエコの意識がないかというと、決してそんなことはない。ただ「快適な暮らし」とやらは死守(棚上げ)した上で、より多くの生産と消費を生み出す「技術力の進歩」に希望を託している形の今のエコには迎合できないということだ。
Oct 20, 2008
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今日はまた、今までにいただいたコメントにコメントを返すかたちでエントリーを書いてみようと思う。10月14日のブログには、kbtさんが、自らの体験に基づいて非常に丁寧なコメントをつけて下さっている。kbtさんも最初は「気軽」に外に飛び出されたようだけど、それができたのも、ご本人がおっしゃっている通り「手に職」があったからだ。ごく普通の事務などをこなすような会社員の場合、それを辞めて留学に打って出た場合、日本への帰り所がなくなってしまう危険性は確かに高いように思う。またこれもkbtさんがおっしゃっているように「手に職」があれば、アメリカでもそれが評価されるという可能性もある。ちなみに直接それだけで職につながるようなものでなくても、自分のやってきたことが役に立つことはあるような気がする。それはそこに留学の「入り口」を見いだすということだ。今でこそ全く関係のないことをやってるけど、自分の場合も留学当初は日本でやっていたことと関連性の深い専攻を選んだ。そこで気づいたのは、手法や考え方などが、分野がかぶっていれば国は違っても似通っているということ。そして、話の内容も想像しやすかったので、英語にも入っていきやすかったことだ。なので、留学初期段階の「勢い」をつけるには、とりあえず日本でやっていたことにからめてみるのも悪くないような気がする。kbtさんのコメントの後半部分では、とりあえず「留学」という入り口をくぐったあと、目的もなく生きている人たちの例に触れられているけれど、実際、自分もこれまでこのような人たちを幾人も目にしてきた。ちなみに、こういう書き方をするとフェミニストに怒られそうだけど、圧倒的に女性が多い。kbtさんのコメントにも書かれているように、女性であれば、水商売などが可能だからだろうか・・・。フリーページの「アメゆきさん」でもそのあたりのエピソードに触れている。ポイントは「本人の意識」だと思う。そのように生きて、後になって後悔しないというのであれば、それはそれで本人の生き方なわけだから放っておくしかないだろう。また、他人に迷惑をかけないという条件もつけておきたいと思う。その点では、そのような女性の存在は、たとえば女性の場合ビザ審査が多少厳しいという結果になって現れているわけで、さてその責任はどのようにとってくれるんだろうか、とは思う。また、どうにもならなくなって日本に逃げ帰り、いい歳をして親にたよったり、はたまた生活保護に頼ったりということになるのであれば、それはそれで無責任極まりないと思う・・・が、残念ながらそういった人も何人か知っている。10月16日のブログにはCalperchさんがコメントをつけて下さった。自分も、Calperchさんがおっしゃるように、逃避的留学というものは一概には否定しないけど、失敗に終わった時にはさらに悪い結果をもたらす可能性があることは知っておいたほうが良いと思う。もう耳にタコができるような言い回しかもしれないけど、逃避的留学だろうが何だろうが、目的意識がはっきりしていなければ、途中でドロップアウトする確率が高い。そして逃避的留学が揶揄されがちなのは、そもそも逃避的留学をする人の場合、たとえば「日本がいやなので日本『以外』に行く」といったような「消去法的、消極的な目的」で留学する人が多く、結果として失敗する人が多いからのような気もする。繰り返しになるけど、それでも振り返ってみて自分の人生の選択に満足できるのであればそれでもいいと思う。しかし、どのような形であれ、志半ばで日本に帰ることになった人の多くはその後、様々な局面で不平不満を言いがちではないだろうか。(つづく)
Oct 18, 2008
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今日は、最近ちょっと気になっている留学に関する「トレンド」から話を始めてみよう。最近留学系の掲示板などを回っていると、「奨学金について教えて下さい」系のメッセージをより頻繁に目にするようになった。留学斡旋業者のサイトなどでも「奨学金つき」を謳っているところも多い。掲示板にそのようなメッセージが増えてきているのはそうった業者のサイトなどによる「宣伝効果」なのか、「どうやら留学すると奨学金がもらえるらしい」という考え方が一人歩きしているようだ。ちなみにこのことを書くきっかけになったのは、某掲示板にて「語学留学のための奨学金を教えて下さい」というメッセージを目にしたことからだ。個人的には奨学金というものは、「もらえて当たり前」というよりはむしろ「選ばれた、それもそれなりに優秀な人がもらえるもの」といった程度の認識は常識だと思っていたのだが、最近は変わってきているのだろうか(苦笑)。中には留学斡旋業者による、顧客内の成績順位の上位者に、中位以下の顧客の手数料の一部を「還流」させるタイプの「手前味噌タイプ」の奨学金もあるけれど、通常の奨学金というものはそれなりにもっと客観的評価を受けた上での成績優秀者にのみ支給されるものではないだろうか。将来的に返還義務のある奨学金であればある程度はハードルは下がるのかもしれないけど、個人的にそういったタイプのものは借金に近いもののような気がする。そもそも漠然と「勉強しま~す」といっている人全員に無条件でお金をくれる善人なんていないことは、ちょっと想像すればわかるような気もするんだけど・・・。さて、一昨日から続けてそれなりの年齢から留学することが、「現実逃避」と揶揄されることについて書いてみよう。そもそも周りの人が決めた現実から逃避することにどのような問題があるのだろう。日本の社会から切っても切れない問題となっているいじめ問題。日本の学校で一度いじめられる側に回ってしまったら、そこから逃避することはシステム上非常に難しくなっている。引っ越しをせずに転校をすることができる回数は制限されているし、転校したところで「外様」を警戒しがちな日本社会の構造からして、(いじめを避けて)幾度も転校を繰り返した子供が移り先ですんなり受け入れられることはあまり期待できない。これは「周りの人が決めた現実」に順応できない人には何かと生きづらいことになっている日本社会の一面を表しているような気がする。何もこれは悪いことばかりではなく、皆で決めた現実の中にいることができれば、しごく効率よく快適な生活が送れるという面も併せ持っている。ただ、残念ながらどうしても「周りの人が決めた現実」に順応できなければ、そこから逃避してしまうのも一つの生き方ではないだろうか。無理をして周りが決めた現実に自分を合わせて生きたところで、自分にとってどのようなメリットがあるだろう。また、無理をして周りに合わせている人がいることで、周りの人に迷惑がかかる面もあるかもしれない。もちろん安易な気持ちで外に出てしまって、そこでも行き詰まり、とどのつまり「振り出しに戻って」しまったとしたら、それこそ目も当てられない結果が待ち受けているに違いない。だから、一度決心したら真に不退転の決意で外に飛び出すしかないことも確かだとは思う。(つづく)
Oct 16, 2008
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今日は昨日のエントリーにひよこまめ2006さんがつけて下さったコメントへのコメントから書き始めてみようと思う。留学の目的はひとそれぞれなので、何をもって成功とするか失敗とするかも人それぞれ、とまさにその通りで、そもそも普遍的に留学に失敗成功のワクをはめるのははっきりいって不可能だと思う。まあ、それでもあえてはめるのであれば、世間一般では留学後にいわゆるキャリアアップができれば成功ということになっているのではないだろうか。ただ、少なくとも自分のまわりを見回せば、留学の結果、誰の目から見ても明白なキャリアアップ(つまり、大幅な収入増をともなったキャリアアップ)ができた人というのはかなり希だ。ちなみに個人的に、ああこの人は留学しなければよかっただろうにな、と思ってしまうのは、どのような形であれ、留学を終えた後に不平不満を言う人だ。学校をドロップアウトしたことになんとか「自分ではどうにもならなかった」理由をつけて言い訳をする人、日本で留学したこと(英語がしゃべれること、日本の学生とは比べものにならないくらい勉強させられたこと)が評価されずに怒り出す人などなど。もちろん最近は親にレールを敷かれて、自分でもわけのわからないうちに留学している人も多いような気もするから、そういった事情であれば万が一途中でめげてしまった場合、かろうじて「親のせい」にもできるような気がする。しかし今回主眼をおいている、多少社会経験を積んでからの留学の場合、そりゃ留学の決心をしたのは自分でしょう。ということは大人として結果責任も負うべきではないだろうかとも思う。本当に自分にはどうにもならない理由で日本に帰らざるをえなくなってしまった人もいるとは思うけど、留学を途中で断念する理由はたとえば「留学資金が底をついた」「プログラムが厳しすぎた」などなど。えっ、それって留学する前にわかってたことじゃない? そして「日本で英語がしゃべれることが評価されない」というのも、渋谷のセンター街のにーちゃんねーちゃんでもブロークンな英語を振り回すご時世、もういやというほど知られていることだと思うけど。そして日本に帰ってから過去をふりかえって不平不満を言っているようであれば、それは「失敗」と言えるのではないかと思っている。さて話を戻すと、へたをすれば20代後半以降、そして30歳を超えてからの留学は、2~3日前のコメントでそおぷさんも指摘されているように、「現実逃避」「自分探しの旅」などと揶揄されることがある。「自分探しの旅」についてだけど、もし本当に留学をしてから何かを見つけるつもりだったら、留学したところで現地で自分を見失なってしまうことが多いような気がする。しつこいようだけど、無論例外はある。海外に出て、新たなものと劇的な出会いをし、それにのめりこんで大成する、という例は探せばあるだろう。ただ、あくまでも自分の周りを通り過ぎていった「自分探し系」の留学生を見ていると、結局どうやら捜し物は見つからなかったような人が多かった。「現実逃避」についてはまず現実とは何か、ということを考えてみたい。ここで言われている現実とはどうやら「周りの人が決めた現実」のことではないだろうか。つまり留学=日本の社会の現実からの逃避ということなんだろうか。ただ、現実はもう一つある。自分という現実である。これからはなかなか逃れることはできない。なので留学先でも自分という現実は歴然と存在し、逆にそれから逃避したらむしろ目標の達成に至ることができない。そういった意味では留学はむしろ現実を直視する場とも言えるような気もする。留学中はなんか仏門に入って修行をしているようだな、と思ったこともある。(つづく)
Oct 14, 2008
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今日は昨日のエントリーにいただいたコメントへのコメントを書いてみようと思う。まずは現役lecturerさんがあげて下さったポイント。自分はアメリカの事情しかわからないけれど、現役lecturerさんが2週間以上の連続有給休暇x年3回と書かれているように(ちなみに現役lecturerさんはイギリス)、日本と比べて給料は落ちるかもしれないけれど、自分の時間というものがもてることは確かなような気がする。もちろん数限りない種類の仕事があり、住む場所によっても状況は変わってくるけれど、たとえば自分が今東京にいて、ごく平均的なサラリーマン生活を送っていたとして、通勤時間は片道1時間といったところだろうか。一方、現在の通勤時間は片道30分もみれば十分だ。とすると一日あたり30分、月25日と考えておおよそ年間で150時間余計に自分の時間が持てることになる。その上、恐らく休暇は寄せ集めれば年間で1ヶ月はとっているのではないだろうか。それも日本のようになかなかとりづらいということはあまりない。さらに残業はほとんどなく、いわゆる仕事の後のお付き合いというのも全くない。ちなみに自分の時間がもてる、というのはただ単に趣味の時間が増えるという以外にもメリットがある。たとえばもし、また人生の方向転換をしたいと思った時、学校に行くなどその時間をその新たなチャレンジのために生かすことができる。さらに言えば人生は限られた時間ということを考えた場合、そして時間というものはいかなる金持ちでも買うことができないわけで、その貴重な時間を自分のものにできるというのは、これは非常にありがたい事なのかもしれない。(これは厳密にいえばそうでないかもしれない。人を雇って本来自分がやる筈のことをまかせれば、時間を買っている、ということになるのかもしれない。)さて次は春花 in USAさんが指摘されているポイント。留学すること、ひいては海外に居を構えることで失うものも多い。春花 in USAさんが挙げられている日本にいる家族や友人との時間はもちろんのこと、たとえば自分の場合、日本の田舎が大好きで、そういった場所にちょっと旅行に行く、という機会を作るのはアメリカにいる限り、なかなか難しい。ただ、日本にいたとて地方出身者が田舎に帰るのは盆暮れ正月、それも全てを合わせて2週間くらいではないだろうか。ちなみに自分の場合、長期休暇は全て日本に帰ることに費やしており、日本で家族と過ごしている時間は年間3週間を超える。さらに言えば、最近のスカイプなどの普及によって、動画ではあるけれど、家族と「顔」はほぼ毎週合わせている。といったようなことを考えると、これは日本にいた場合とあまり変わらないのではないか。もちろん家族と同じ町に住んでいればまた話は別なのだろうけど。それから旅行にしても、日本で普通に勤めに出ていれば、たとえ国内旅行であってもどれだけ出掛けることができるだろう。とはいえ、こちらにいる限り週末日帰りの旅行や各種のイベントなどに行けないことは確かだし、さらに言えば日本の日常風景、日本の味、四季の移り変わり(自分は去年、13年ぶりだかで日本の桜を見た)に触れたり、さらには日本で新しい友達ができたり、友人と顔を合わせたりする機会を作るのが非常に難しくなることも確かだ。(とはいえ、自分が日本に帰ることを「ダシ」にして、旧知の友人が集まってくれたり、そして話を聞けば、日本にいたらいたでそういう機会でもない限り、けっこうわざわざ会ったりはしないという話も聞くのだけれど。)余談になるけれど、この「日本の日常風景」という点において、日本のテレビがアメリカにいながらにして垂れ流し的に見られるロケーションフリーの力は侮れない。あくまでもバーチャルではあるけれど、ロケーションフリーをつければその間は部屋の中が日本のバーチャル空間になる。さらに春花 in USAさんが指摘されているもう一つのポイント。「可能性」。これについては特にタイミングを逃して(つまり一度社会に出てから)留学した場合、よほど手に職やコネを持っていなければ、日本での可能性はつぶすことになると思う。そのかわり、アメリカに留学すればアメリカでの、その他の国に留学すればその国での、さらにそれを足がかりにしてその他の国へ手を広げる可能性は確かに広がる。もちろん就労許可などの関係で、日本で職をえるよりは手枷足枷は多いが、恐らく日本から直接飛び出すよりは、色々な可能性を考えられるようになるのではないだろうか。そして少なくともアメリカの場合、世界中の色々な所から人が集まってきているので、そのあたりの足がかりもつかみやすいような気がする。(つづく)
Oct 13, 2008
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結局ゲートウェイ21の件についてもフォローアップができていないわけだけど(といってもゲートウェイ21はワーホリなど「遊学系」がメインなので自分にとってもジャンルがちょっと異なる)破産管財人が設置したHPによると、被害者の方には申し訳ないけど「全くお手上げ」の状態のようだ。(既に払い込んだ費用は一切手もとに戻らず、現在留学中の人も後は自分で何とかしてくれという状態。)一部の語学学校や現地エージェント、さらには留学受け入れ先となっていた学校がボランティア的に被害者向け割引サービスを提供したりしているようだけど、恩恵を被れるのはごく一部の被害者に過ぎないように思う。何はともあれ「次」も囁かれているようなので、個人的にはそもそも留学斡旋業者というものを使うことはお勧めしないが、あえて使われる方は重々注意されたほうがいいように思う。さて、一つ前のブログにそおぷさんがつけて下さったコメントに触発されて、留学とは何なのか、何だったのかということに対する自分なりの考えを書いてみようと思う。相変わらず飛び飛びでネタもあっちこっちに飛びまくること受け合いだけど、よろしくお付き合いの程、よろしくお願いします。「進学」というスタンスで留学するのであれば、たとえば高校を卒業してからすぐに海外の大学へ留学、大学を卒業してから海外の大学院へ留学というケースが考えられる。そのような留学をして、その後素直に日本に戻るのであれば、英語で勉強する環境におかれる、などという点を除いては日本で進学するのとあまり変わりがないような気がする。こと大学留学においては、少なくともアメリカでは日本の企業のジョブフェアなども年々大規模になり、多少の有利不利はあっても日本の新卒大卒とあまり変わらず、そのまま仕事に就けば少なくともその後の収入における留学というものの「経済効果」はそのまま日本にいた場合とあまり変わらないか、英語ができるということが評価されればごくわずかにプラスになる程度ではないだろうか。もちろん全体を平均して、の話だ。中にはとてつもなく優遇されるケースもあるだろうし、またその逆もあるだろう。(念のため付記しておくが、まともにまともな大学を卒業できれば、の話だ。日本の大学生と比べて留学生の卒業率が低い(失敗率が高い)ことを忘れてはならない。)ところが世の中にはそれなりに年齢を経てからふと留学を思いつく人がいる。恐らくそおぷさんの場合もそうであろうし、自分の場合も「進学」とはほど遠いほど学校というものから一端離れてから留学している。もし、日本で普通に仕事についていて、それを辞めてまで上記のような留学をするのであれば、経済的にプラスになる可能性は極めて低い。しつこいようだけど、もちろん例外はある。ただ、たとえば30歳まで普通に会社員をした上で大学院留学をしたところで、海外で就職できればまだいいが、状況はそれほど甘くはなく、日本に帰ったところで以前勤めていたところより厚遇の仕事にありつける確率はそれほど高くないと思う。そうなると、果たして経済面以外で留学が自分に与えてくれるものはないか、と考えざるをえなくなる。もしかしたらそれは生きがい、というやつなのかもしれない。自分は何のために生きているのか。自分の人生とは何なのか、その人生の中で自分は何をするのか、といったようなことだ。遅くとも20代前半までにそれを見いだして、後の人生はその道をまっしぐらに進める人は幸せだ。しかし悲しいかな、そのようなことを真剣に考え始めるのはけっこう30の声を聞いてからという人も多いような気がする。そして日本は社会構造上、人生半ばでの方向転換が非常にしづらい仕組みになっている。ちなみに、20代前半の次にそのチャンスが訪れるのは定年前後の年だ。30代、40代、50代と、本当に自分のやりたいことではないような気もするがなんとか勤め上げ、定年になってからさて、自分の本当にやりたいことを、というのも一つの生き方だと思う。でも、そうでない人もいる。その場合、一番安直な選択肢は日本を出てそのような生き方を受け入れてくれる所に活動の場を移すことだ。そして留学というのはその入り口としての選択肢の一つなのだと思う。(つづく)
Oct 12, 2008
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