《櫻井ジャーナル》

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

サイド自由欄

寄付/カンパのお願い

巣鴨信用金庫
店番号:002(大塚支店)
預金種目:普通
口座番号:0002105
口座名:櫻井春彦

2024.01.22
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

ドキュメンタリー映画『イスラエル主義』

 昨年アメリカで公開された​ ドキュメンタリー映画『イスラエル主義』

 アメリカにおいて「親イスラエル教育」を推進しているシオニスト勢力の中心に存在しているAIPAC、いわゆる「イスラエル・ロビー」はアメリカの外交政策に大きな影響力を持っていることでも知られている。

 シオニストがアメリカでロビー活動を始めたのは1939年のことで、そのために創設された団体がAZEC(米シオニスト緊急会議)。1949年にAZC(米シオニスト会議)へ改称した。

 この団体に対し、ジョン・F・ケネディ大統領とロバート・ケネディ司法長官は1963年、外国のエージェントとして登録するように強く求め、公的な立場の人びとへカネを配ることができなくなった。そこで創設されたのがAIPACだ。

 そのケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺され、副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンは議会における親シオニスト派のリーダー格だったことからイスラエルに対する政府の圧力は消えた。なお、ロバート・ケネディは1968年6月5日に暗殺されている。

第3次中東戦争

 ロバートが殺される前年の6月にイスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンに奇襲攻撃をかけて「第3次中東戦争」が勃発した。その直前、5月30日にイスラエルの情報機関モサドのメイール・アミート長官がアメリカを訪問している。

 戦争の最中、6月8日にアメリカ政府は情報収集船の「リバティ」を地中海の東部、イスラエルの沖へ派遣した。この時点でイスラエル軍はエジプト軍を粉砕し、モシェ・ダヤン国防相はゴラン高原の占領を決めている。(Alan Hart, “Zionism Volume Three”, World Focus Publishing, 2005)

 リバティがイスラエル沖に現れた午前6時、イスラエル軍は偵察機を飛ばすなどしてリバティがアメリかの艦船だということを確認したうえで午後2時5分、3機のミラージュ戦闘機でリバティへの攻撃を開始、ロケット弾やナパーム弾を発射した。ナパーム弾を使ったことから乗員を皆殺しにするつまりだったと推測されている。その後、イスラエル軍は艦船への攻撃を繰り返した。

 リバティの通信兵は寄せ集めの装置とアンテナで2時10分にアメリカ海軍の第6艦隊へ遭難信号を発信することに成功、それに気づいたイスラエル軍はジャミングで通信を妨害してきた。

 遭難信号を受信した第6艦隊の空母サラトガは訓練中で、甲板にはすぐ離陸できる4機のA1スカイホークがあったことから艦長は船首を風上に向けさせて戦闘機を離陸させている。

 艦長は艦隊の司令官に連絡、司令官は戦闘機の派遣を承認し、もう1隻の空母アメリカにもリバティを守るために戦闘機を向かわせるように命じるのだが、空母アメリカの艦長がすぐに動くことはなかった。

 リバティが攻撃されたことはジョンソン大統領へすぐに報告されのだが、ロバート・マクナマラ国防長官は第6艦隊に対して戦闘機をすぐに引き返させるようにと叫んでいる。

 その後、ホワイトハウス内でどのようなことが話し合われたかは不明だが、3時5分にリバティへ戦闘機と艦船を派遣するという至急電を打っている。この時、リバティは攻撃で大きなダメージを受け、メッセージを受信できない状況だった。

 3時16分に第6艦隊の第60任務部隊は空母サラトガと空母アメリカに対して8機をリバティ救援のためへ派遣し、攻撃者を破壊するか追い払うように命令。3時39分に艦隊司令官はホワイトハウスに対し、戦闘機は4時前後に現場へ到着すると報告、その数分後にイスラエルの魚雷艇は最後の攻撃を実行している。そして4時14分、イスラエル軍はアメリカ側に対し、アメリカの艦船を誤爆したと伝えて謝罪、アメリカ政府はその謝罪を受け入れた。アメリカの電子情報機関NSAは交信記録を大量に廃棄、隠蔽工作がすぐに始まる。その責任者に選ばれたのがアメリカ海軍太平洋艦隊の司令官だったジョン・マケイン・ジュニア、つまりジョン・マケイン3世の父親だ。

 リバティ攻撃はジョンソン政権の意向だという疑惑がある。この政権で秘密工作を統括していた「303委員会」において、1967年4月に「フロントレット615」という計画が説明されたという。リバティを潜水艦と一緒に地中海の東岸、イスラエル沖へ派遣するというもので、実際、後にリバティや潜水艦は派遣されていた。

 この計画の中に含まれる「サイアナイド作戦」はリバティを沈没させて責任をエジプト、あるいはソ連に押しつけて戦争を始めようとしたという推測がある。これが事実なら、ジョンソン政権はトンキン湾事件の再現を狙ったということになるだろう。

 リバティの近くにいたアメリカの潜水艦アンバージャックが潜望鏡を使って見ていたとする証言もある。リバティの乗組員も潜望鏡を見たとしている。ただ、記録したはずのデータは見つからない。存在していたとしても破棄されてしまっただろう。

ネオコンの台頭

 第3次中東戦争の後、アメリカではシオニストの「ネオコン」が台頭してくる。その後ろ盾になったのが「聖書根本主義者」とも呼ばれるキリスト教シオニストだ。彼らの教義によると、キリストに従う「善の軍勢」と反キリストの「悪の軍勢」が「ハルマゲドン」で最終戦争を行い、人類の歴史は幕を閉じる。その際、再臨するキリストによって自分たちは救われるのだという。ジェリー・フォルウエルなど有名なテレビ説教師の大半がこの説を信じていた。

 聖書根本主義者はアメリカ軍を「神の軍隊」だと位置づけていた。ところがベトナム戦争で勝てない。欲求不満の状態になった彼らを惹きつけたのが第3次中東戦争で圧勝したイスラエル軍だった。

 フォルウエルを政治の世界へと導いたのはエド・マクティールだ。彼はフォルウエルをロナルド・レーガン、ジェシー・ヘルムズ上院議員、そしてジョージ・W・ブッシュ政権で司法長官を務めたジョン・アシュクロフトに引き合わせている。( Ken Silverstein & Michael Scherer, "Born-Aain Zionist", Mother Jones, September/October, 2002)

 ベトナム戦争の敗北はアメリカで戦争反対の気運を高め、1972年の大統領選挙には戦争反対を明確にしていたジョージ・マクガバン上院議員が民主党の候補として選ばれた。これは民主党の支配層にとっても衝撃的な出来事で、党の内部ではヘンリー・ジャクソン上院議員を中心にして、反マクガバンのグループが出来上がる。CDM(民主党多数派連合)だ。

 ジャクソン議員のオフィスにはリチャード・パール、ポール・ウォルフォウィッツ、エリオット・エイブラムズ、ダグラス・フェイス、エイブラム・シュルスキーなど後にネオコンの中核グループを形成する人々が在籍していた。

 こうした工作もあり、マクガバンは共和党のリチャード・ニクソンに敗れる。ニクソンはアレン・ダレスに近く、平和的な人物とは言えないのだが、それでもデタント(緊張緩和)を主張する。そこで好戦派は送るのだが、その中にはネオコンも含まれていた。

 そのニクソンは1974年8月にウォーターゲート事件で失脚、副大統領だったジェラルド・フォードが昇格、この政権でネオコンは台頭してくる。デタント派がパージされ、

 チームBの活動には国防総省内のシンクタンクであるONA(ネット評価室)が協力したと言われているが、その室長だったアンドリュー・マーシャルはネオコンに戦略を提供してきた人物。ラムズフェルドはこの人物に心酔していた。またマーシャルの師と言われている人物がバーナード・ルイス。ルイスはサミュエル・ハンチントンと同じように「文明の衝突」を主張、シオニストを支持している。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 ラムズフェルドはマーシャルだけでなく、フリッツ・クレーマーなる人物の影響も受けていた。クレーマーはジミー・カーター政権に政府を離れたが、その自宅へ少なからぬ人が出入りしている。例えばCIAのバーノン・ウォルタース、国務長官になるアレキサンダー・ヘイグ、上院議員のヘンリー・ジャクソン、ネオコンのリチャード・パールやポール・ウォルフォウィッツ、そしてラムズフェルド。(Len Colodny & Tom Shachtman, “The Forty Years War,” Harper, 2009)

パレスチナへ向かわなかったユダヤ人

 イスラエルを「ユダヤ人の国」だと主張する人がいるが、パレスチナでイスラエルの「建国」が宣言されたのは1948年5月のことだ。この建国を実現するため、シオニストは1933年8月、ドイツのナチス政権とユダヤ系ドイツ人をパレスチナへ移住させることで合意している。「ハーバラ合意」だ。

 ナチスはユダヤ人弾圧で六芒星を利用している。六芒星は装飾的なモチーフとして使われていたようだ。ボヘミア王カール4世は1354年、プラハのユダヤ人が六芒星の赤旗を立てることを承認したというが、ユダヤ教やユダヤ人を示すシンボルとして採用されるようになったのは19世紀から。キリスト教における十字架のようなシンボルが必要だと考えたようだ。1897年の第1回シオニスト会議でシンボルとして選ばれた。

 シオニズムという語句を最初に使ったのはナータン・ビルンバウムなる人物で、1893年のこと。その3年後に『ユダヤ人国家』という本を出版したセオドール・ヘルツルが近代シオニズムの創設者とされているのだが、この人物も「旗」を欲しがっていた。「ダビデの星」がユダヤ教やユダヤ教徒の象徴になるのはその後だ。

 ドイツからパレスチナへの移住が推進されたものの、ドイツに住んでいる大半のユダヤ系住民はパレスチナへ移住したくない。ナチスの「ユダヤ人弾圧」でドイツに住めなくなっても逃げた先はオーストラリアやアメリカが中心だった。

 シオニストは1946年夏までに7万3000人以上のユダヤ人をパレスチナへ運んでいるが、パレスチナへの移住を望むユダヤ人が少なかったため、イラクに住むユダヤ人に対するテロを実行する。「反ユダヤ」感情を演出してパレスチナへ移住されたという。

 イスラエルを「建国」するためには「国民」だけでなく、「国土」も必要だが、パレスチナにはアラブ系の人が生活している。その住民を追い出すため、シオニストは1948年4月4日に「ダーレット作戦」を発動された。

 後にイスラエル軍の中核になるハガナの下、テロ組織のイルグンとスターン・ギャングは4月9日未明にデイル・ヤシン村を襲う。マシンガンの銃撃を合図に攻撃は開始され、家から出てきた住民は壁の前に立たされて銃殺された。家の中に隠れていると惨殺され、女性は殺される前にレイプされている。

 襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると、254名が殺されていた。そのうち145名が女性で、35名は妊婦だ。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否されている。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 この虐殺を見て多くのアラブ系住民は恐怖のために逃げ出し、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザやトランスヨルダン(現在のヨルダン)へ避難、その後1年間で難民は71万から73万人に膨れ上がったと見られている。イスラエルとされた地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎない。いわゆる「ナクバ」だ。現在、イスラエルはガザやヨルダン川西岸で同じことを行おうとしているのだろう。新国家の最大の後ろ盾になった国はエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドが住むフランスだった。国際連合は1948年12月に難民の帰還を認めた194号決議を採択したが、現在に至るまで実現されていない。

アメリカのユダヤ人

 ナチ体制から逃れたユダヤ人の多くはパレスチナではなくオーストラリアやアメリカへ逃げた。つまり、アメリカではパレスチナに思い入れのあるユダヤ人は多くなかったはずだ。実際、パレスチナを支持するユダヤ系アメリカ人の比率はアメリカ人全体における比率より高いと言われている。

 イスラエル・ロビーがユダヤ系アメリカ人の子どもに「イスラエル主義」、つまりシオニズムを叩き込んでいるのはそのためだろう。明治体制が天皇を絶対視させるカルト教育を学校で行なったことを思い出させる。その基盤が「教育勅語」だ。皇国史観は一種の優生論で、アジア蔑視を子どもたちに叩き込んだ。ヨアブ・ギャラント国防相はパレスチナ人を「獣」だと表現しているが、似ている。

 日本人の間にアジア蔑視の感情は今も残っている。中国の体制転覆を狙っているアメリカは日本に韓国や台湾と軍事同盟を結ばせたので表面的には反韓国の言動は制限されているようだが、蔑視感情は消えていない。かつてのように学校で叩き込むということはないだろうが、マスコミを通し、イメージは広げられている。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024.01.22 01:22:16


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: