1989年1月、アメリカ大統領はロナルド・レーガンからジョージ・H・W・ブッシュへ交代、その直後に新大統領はイギリスのマーガレット・サッチャー首相と会談、ソ連を崩壊させることで合意している。その当時、すでにソ連のミハイル・ゴルバチョフはCIAのネットワークに取り囲まれていた。ブッシュはその年の5月、ジェームズ・リリーを中国駐在アメリカ大使に据えた。
ブッシュはジェラルド・フォード政権時代の1976年1月から77年1月にかけてCIA長官を務めているが、彼はエール大学時代、CIAからリクルートされたと言われている。同大学でCIAのリクルート担当はボート部のコーチを務めていたアレン・ウォルツだと言われているが、そのウォルツとブッシュは親しかったのだ。
しかも、ブッシュの父親であるプレスコットは銀行家から上院議員へ転身した人物で、ウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しかった。言うまでもなく、ダレスはOSSからCIAまで秘密工作を指揮していた人物だ。ブッシュは大学を卒業した後にカリブ海で活動、1974年から75年まで中国駐在特命全権公使(連絡事務所長)を務めている。
ジェームズ・リリーはジョージ・H・W・ブッシュとエール大学時代から親しく、ふたりとも大学でCIAにリクルートされた。リリーは中国山東省の青島生まれで中国語は堪能で、1951年にCIA入りしたと言われている。
このエール大学コンビは中国を揺さぶりにかかる。中国のアカデミーはビジネス界と同じように米英支配層の影響下にあり、揺さぶる実働部隊は主要大学の学生。現場で学生を指揮していたのはジーン・シャープで、彼の背後にはジョージ・ソロスもいたとされている。学生たちと結びついていた趙紫陽の後ろ盾は鄧小平だ。
中国とアメリカは当時、緊密な関係にあると見られていた。1972年2月にリチャード・ニクソン大統領(当時)が中国を訪問、北京政府を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明して米中は国交を回復させているのだ。1980年には新自由主義の教祖的な存在だったミルトン・フリードマンが北京を訪問、新自由主義の推進役だった趙紫陽は1984年1月にアメリカを訪問、ホワイトハウスでロナルド・レーガン大統領と会談して両国の関係は緊密化していく。
新自由主義は社会的な強者に富を集中させる仕組みであり、中国でも貧富の差が拡大、1980年代の半ばになると労働者の不満が高まる。社会は不安定化して胡耀邦や趙紫陽は窮地に陥り、胡耀邦は1987年1月に総書記を辞任せざるをえなくなった。学生は新自由主義を支持していたが、新自由主義に反対する労働者も抗議活動を始めたいた。
そうした中、1988年にミルトン・フリードマンは8年ぶりに中国を訪問、趙紫陽や江沢民と会談したが、中国政府はその年に「経済改革」を実施している。労働者などからの不満に答えるかたちで軌道修正したと言えるだろう。
胡耀邦は1989年4月15日に死亡。新自由主義を支持する学生はその日から6月4日までの期間、天安門広場で中国政府に抗議する集会を開いたのだが、新自由主義に反対する労働者も抗議活動を始めたいた。
西側の政府や有力メディアは6月4日に軍隊が学生らに発砲して数百名を殺したと主張していた。広場から引き上げる戦車をクローズアップした写真を使い、「広場へ入ろうとする戦車を止める英雄」を作り上げているが、この写真が撮影されたのは6月5日のことだ。
例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
西側の有力メディアは2017年12月、天安門広場で装甲兵員輸送車の銃撃によって1万人以上の市民が殺されたという話を伝えた。北京駐在のイギリス大使だったアラン・ドナルドが1989年6月5日にロンドンへ送った電信を見たというAFPの話を流したのだ。
しかし、これはドナルド大使自身が目撃したのではなく、「信頼できる情報源」の話の引用。その情報源が誰かは明らかにされていないが、そのほかの虐殺話は学生のリーダーから出ていた。当時、イギリスやアメリカは学生指導者と緊密な関係にあった。ドナルド大使の話も学生指導者から出たことが推測できる。
また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで群集への一斉射撃はなかったとチリの2等書記官だったカルロス・ギャロは話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)
イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)
治安部隊とデモ隊が激しく衝突したのは広場から8キロメートル近く離れている木樨地站で、黒焦げになった複数の兵士の死体が撮影されている。このデモ隊は反自由主義を主張していた労働者だったと言われている。路上での衝突と広場の状況を重ねて語る人もいるが、全く違うのだ。