ノルマンディー上陸作戦は1944年6月6日に実行された。その80周年を記念するイベントがノルマンディーで開催され、多くの人が参加したという。この作戦を題材にした作品「史上最大の作戦(The Longest Day)」をハリウッドの映画界は1962年に公開、多くの人はその映画で作戦のイメージを作り上げているようだが、この作戦はドイツ軍の主力がスターリングラードで壊滅、ドイツの敗北が決定的になってから1年半ほど後に実行されたのだ。
ドイツ軍は1941年6月22日、ソ連に対する奇襲攻撃を開始した。バロバロッサ作戦だ。全戦力のうち約90万人を西部戦線に残し、約300万人を東方へ振り向けたのだ。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。ヒトラーは西から攻められないことを知っていたのではないかと疑う人もいる。
その前年、つまり1940年の5月下旬から6月上旬にかけて、イギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているのだが、その際、アドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命じている。そのまま進めばドイツ軍が英仏軍より早くダンケルクへ到達することは明らかだった。この停止命令はヘルマン・ゲーリングのアドバイスによるとも言われている。
第2次世界大戦の終盤、ドイツの幹部はウォール街の弁護士でOSSの幹部だったアレン・ダレスらと接触しているが、その一人がゲーリングだ。1930年代から親ファシズムで、ナチスに資金を援助していたウォール街の人脈はゲーリングを戦犯リストから外そうとしたが、ニュルンベルク裁判で検察官を務めたロバート・ジャクソンに拒否された。ゲーリングはニュルンベルクの国際軍事裁判で絞首刑が言い渡されたものの、処刑の前夜、何者かに渡された青酸カリウムを飲んで自殺している。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
1940年9月から41年5月までドイツ軍はロンドンを空襲しているが、空襲が終わった5月にアドルフ・ヒトラーの忠実な部下として知られているルドルフ・ヘスが単身、飛行機でスコットランドへ飛んでいる。パラシュートで降りたとされているが、イギリスで何があったのかは秘密にされている。無線通信を避けなければならない重要な情報をイギリス政府へ伝えるため、ヘスはドーバー海峡を渡ったのではないかと推測する人もいる。
1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、兵糧攻めにする。多くの死者が出たが、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにはことが進まない。この段階でドイツ軍は苦境に陥ったと見る人もいる。
同年9月にはモスクワまで80キロメートルの地点にドイツ軍は到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
しかし、レニングラードもモスクワも攻撃に耐え、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏。残ったドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するのだが、11月からソ連軍が反撃、ドイツ軍25万人は完全包囲され、43年1月にドイツ軍は降伏。主力が壊滅したドイツ軍の敗北は決定的だった。
これを見て慌てたイギリスやアメリカの支配層は動き始め、1943年1月にウィンストン・チャーチル英首相とフランクリン・ルーズベルト米大統領はモロッコのカサブランカで会談、シチリア島とイタリア本土への上陸を決定。米英両国軍はその年の7月にシチリア島へ上陸、9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。ドイツ軍の主力は東部戦線で壊滅していたわけで、難しい作戦ではなかった。そして1944年6月6日のノルマンディー上陸だ。
大戦後、イスメイはNATOの初代事務総長に就任、NATO創設の目的はソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつけることのあるとしている。