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ランボーフィールド、パッカーズ対ジャイアンツ試合開始、気温零度、風速による体感温度零下7度。ペイトン・マニングの弟、イーライ・マニング、好調なスタート、しかしパッカーズの8ヤードラインでとめられ、フィールドゴールのみ、3点。次はパッカーズの攻撃。David CronenbergのEastern Promisesを観た、彼の映画はCrashという、僕には意味不明だった映画と、Spiderという暗い映画を観たくらいで、あまり彼のものは好きではないが、これはよかったな、残酷すぎるけど、ロシアサウナでの裸の格闘シーンは凄い。次に読む本を選ぶ時最近はアマゾンの読者評のなかから一星のものをまず読むことにしている、なかには単に好き嫌いで断定するものもあって、それらは問題外だが、その本がいかに創造的な思考をしてないとか、論理的に整合性がないとか、言うことをちゃんと書いてくれてる場合があり、有益だ。チックコリアの500 miles highという曲、1976年ごろの作品だと思うけど、今聴いても全然古くない、Return to Foreverというバンドでしたね、あの処女作は何百回と聴いたな。で、この曲をリズムをボサノバに変えてギターでやろうと思ってる。チックコリアの35年前のアドリブを少しずつコピーしようとしてる、同スピードでやるのは不可能なので二割落としてる、それでも大変、一部で良しとしなければ、Best Practiceというフリーウェアが最適。しかしベストを真似しようとしても凡人には出来ないんだ、ということがよくわかる。トマス・ベルディッチが観衆からブーイングを受ける、ニコラス・アルマグロに勝った後、握手を拒否したため、アルマグロがベルディッチの顔を狙ったことに怒り。しかし、アルマグロは意図したわけではなく、たまたま、それに謝罪していたにもかかわらず。これはベルディッチの勇み足。米西部時間15時40分、SF49ers対NYジャイアンツ、キックオフ、ここSFキャンドルスティックパークは風雨、今朝11時ごろそばを通った時には早くも車の行列、久しぶりのコンファランス決勝戦で北カリフォルニアの住民大挙して押しかけている。さて、どんな試合になるか。Patrice Leconteの「仕立て屋の恋」(Monsieur Hire)を観た、男も女も恋愛幻想を追い求め身を滅ぼす、という小品、いかにもフランス映画、1989年の作品、今はこういう作品はあまり受けないだろうな。IMDBのユーザー評価はまずまずの7.6。まいったな、停電だ、この一年で三回目くらいじゃないか?SF49ersはパント・リターンの二つの凡ミスで負けた。でもミスした選手のことを公の席では絶対に責めない。49ersのジャスティン・スミスは俺達はチーム一体なんだ、勝つときもチーム負けるときもチームさ。と、かっこよく言い放った。これがかっこいいのには理由がある。チームメートを責めないのがカッコいいと感じる価値観は、共同体の歴史で形成されてきた。なぜなら、メンバーのミスを責めあっていたら、共同体の結束なんて強まるわけがない。つまり、強い共同体の維持のための倫理的行動、に過ぎない。べつに個人にとってはどうでもいいことさ、ミスを責めようと。ジョコビッチとマレーの5時間の戦い、やはりテニスはいいね、ボクシングのように一対一の究極の対決だけど、殴りあうような野蛮なものじゃなく、黄色の球をコーナーをついて打ち合う、体力だけじゃなく精神力もぎりぎりまで追い詰められる。マレーは次が楽しみだ。
2012.01.31
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アメリカ合衆国の祝日、キング牧師の日を記念して、彼のスピーチの概要を古いブログから・・・1963年8月28日、ワシントンのリンカーン記念公園で行われた。キング牧師は実にゆったりと話し始める。100年前、一人の偉大なアメリカ人が奴隷解放宣言に署名し、我々は彼の象徴的な影に立っている、しかし100年たっても黒人は依然として自由を勝ち取ってはいない、黒人はいまだに物質的な繁栄の広大な海の真っ只中で貧困の淋しい島に住んでいる、いまだにアメリカ社会の問題として惨めさに打ちひしがれ、自分自身の国でまるで避難民のように振舞っている、今日我々はそんな恥ずべき状況を劇的に表現するために来た。と、若干意訳し過ぎかも知れないが、キング牧師は比喩を巧みに交えながら、徐々に加速してくる。ある意味で、今日我々はこの国の首都に小切手を換金するために来たのだ、建国者たちが憲法と独立宣言を荘厳な言葉を連ねて書いた時、それはすべてのアメリカ国民に約束手形を書いたのだ、約束とはつまり、すべてのアメリカ人、そう黒人も含めて、生存、自由、幸福の追求を保証される、ということだ、しかし黒人に関する限り、この約束手形は不渡りになっている、銀行には十分な資金がないというのだ、我々は正義という銀行がそんな簡単に破産するとは信じない。だからこそ、その約束手形・小切手を換金に来たのだ、有り余る自由と不動の正義を払ってもらう為に。今がその時だ、頭を冷やす余裕はない、徐々にやって行こうよという鎮静剤を飲んでる暇もない、今こそが民主主義の約束を果たす時だ、暗く荒れ果てた差別の谷から這い出して人種の正義という日のあたる場所に出て行くのは今しかない、とキング牧師は今この時のの重要さを強調する。しかし、忘れてはいけない、我々は邪悪な行いに手を汚してはいけない、いくら自由を欲して喉が渇いたからといって恨みや憎悪に満ちたコップを口にするのはよそうではないか、高潔で規律のとれた高台で奮闘しようではないか、我々の創造的な抗議が暴力に堕落しないようにしよう、身体的な力に対しては魂の力で立ち向かおう。キング牧師は非暴力を訴え、さらに良識的な白人との共闘の重要さを指摘する。と同時に、アメリカの各地での黒人の状況が非常に厳しいことを確認する。ある者は監獄から出たばかりで今日ここに参加している、ある者は自由を求める戦いで傷つき虐げられ警察の暴力に痛めつられてきた、しかし諦めてはいけない、信仰を持て、ミシシッピー、アラバマ、南カロナイナ、北部の大都市の貧民街に戻ろう、この状況を変えられるし、やがて変わるのだから。我々は今日そして明日、まだ困難に面している、しかし私には夢がある、アメリカン・ドリームに深く根ざした夢だ、という有名な部分が始まる。ここはそのまま原文を貼り付けておく。I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal."I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.私には夢がある、いつの日か、不正義と迫害の焦熱地獄ともいえるミシシッピー州でさえ、我々の手で自由と正義のオアシスに変貌するだろうという夢が。I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.私には夢がある、いつの日か、私の4人の子供たちが肌の色の如何ではなく、その人となりで社会に受け入れられる日が来るという夢が。I have a dream today!I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.I have a dream today!I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together."?最後に、この中から約1分ほどキング牧師の肉声を置いておくので、ここをクリックすると新しいウインドウが開いて聴くことができる。
2012.01.17
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次々に開発される金融商品とそれによるクレジットの拡大、つまり市場に流れ込むマネー(貨幣+信用)の増加が2007年から2010年にわたる世界金融危機を引き起こした主要因だと僕は考えているが、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS、Credit Default Swap)というわけのわからないものも新しい金融商品のひとつだ。簡単に言うとCDSは保険だ、生命保険は死亡に対する保険、自動車保険は自動車の事故や盗難に対する保険、CDSはクレジット(信用、立場によって債権あるいは債務)のデフォルト(不履行)に対する保険。たとえば、A銀行がドウダ自動車の社債を買ったとする。A銀行はCDSを購入してその債権の不履行リスクをカバーする。もちろん<保険料>(スワップ・フィー)は取られるが、不履行になった場合にA銀行は債権額の全部あるいは一部を回収することができる。今風の言葉で言えば、CDSはリスクに対するヘッジ(hedge、未然に防ぐ)として使われる。CDSを買う側の意図はわかる、基本的にリスクの回避だろう。売る側はどうか?不履行が起きるまでは定期的に<保険料>を受け取ることができる。不履行がおきたら、その不良債権、上の例では社債、を引き継ぎできるだけ回収する努力をするか市場で売り払う。通常の保険とCDSの大きな違いは二つ。まず、保険商品とは違って各種行政規制が少ない。もうひとつ、CDSは金融商品として市場で取引することができる。上の例でドウダ自動車の債権リスクをヘッジするためにA銀行が購入したCDS、これをA銀行はX証券に売却することでができる。X証券がCDSを買い取ったのだから、<保険料>を払うのはX証券になる。ドウダ自動車の債務不履行が起きなければ、X証券は<保険料>を払い続けてなんの得もない、支払い手数料の損だけだ。しかし、もし不履行が起きれば、X証券はCDSの額面を受け取ることができる。但しこの場合には、X証券はドウダ自動車の社債の現物を市場で手に入れて、CDSの売り手に渡す義務があるが、この社債は不履行発生後なので大きく値が崩れている、よって利益が出る可能性が高い。ある債権の値段が下がることを見越しの投機、つまり株式や商品市場での空売り(short)のようなものだ。アメリカの金融市場で、CDSの前身は1990年代の始ごろから存在した。90年代後半のS&L(Savings and Loans)危機やアジア金融危機の後、当時の金融関係当局はCDSがリスクを分散する一手段になると考え、証券や商品市場の規制から免除している。つまり、規制をかけずある程度野放しにした、ということだろう。結果、CDS市場は拡大の一途を続け、最盛期2007末の額面残高は62.2兆ドルにもなった。1ドル75円で換算すると、4700兆円になる。2010年の日本の国債残高が768兆円、名目GDPが479兆円、という数字と比べるといかにCDS額面残高がとてつもないかわかるだろう。CDSというものがなんであるかはだいたいわかった。では、CDSの何が問題だったのだろう?CDSは2008年の金融危機でどういう役割を果たしたのだろう?
2012.01.12
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Twitterで耳にした、紅白でレディ・ガガの歌についていたNHKの訳詞がおかしいと。このブログで問題提起されている。Whether you're broke or evergreenYou're black, white, beige, chola descentYou're lebanese, you're orientWhether life's disabilitiesLeft you outcast, bullied or teasedRejoice and love yourself today'Cause baby, you were born this wayNo matter gay, straight or bilesbian, transgendered lifeI'm on the right track, babyI was born to surviveこの歌詞につけたNHKの訳が、貧富の差も 肌の色も 国籍も関係ない人生で困難があっても いじめられ からかわれても自分を信じ 愛してあげようそれがあなたの人生だから性的好みなんてどうでもいい私は正しい道を進んでいる どんな困難も乗り越えるで、この方が問題にしているのが、二点“You're black, white, beige, chola descent You're lebanese, you're orient”の部分を「肌の色も 国籍も関係ない」と訳したこと、そして“No matter gay, straight or bi lesbian, transgendered life”を「性的好みなんてどうでもいい」と訳したこと。まず後者、これはNHKとしては苦肉の策でしょう、訳詞画面のスペースやタイミングの問題もあるし、一つ一つ訳す余裕がなかった、と好意的に解釈できる。ただし、「好み」と訳すよりは現代生物学的な視点から「指向」と訳す方が、NHKの知力を示せたろうに。前者は少々複雑だ。歌詞の中では、black、white ・・・とあって、そのあと一息ついてlebanese、orient とあり、前半部分が肌の色と訳され、後半が国籍と訳されたのだろう。後半部分は、国籍のことを言っているとも取れないことはないが、文脈を考えれば、前半で人種的な違いに触れて、後半は民族な背景と考えて間違いないだろう。ちょっと脱線するが、僕は人種という言葉をraceの訳語と考え、民族をethnicityに対応するものと考えいる。人種は生物学的な起源の違い、例えば肌の色の違い、民族は文化的な違いに根ざすものとして概念化している。アメリカの日常ではraceとethnicityが互換的に使われることが多く、厳密に区別している人は少ない。国勢調査では、raceは科学的、人類学的なものとしてではなく、家系も含めた社会的文化的特質を考慮したもの、と定義し、raceには白人、黒人、アジア人(日本人、中国人、韓国人などが入る)、アメリカ原住民、太平洋諸島人、などが含まれ、中近東の人々は白人に属する(レバノン人は白人に入る)。つまり、国勢調査はrace(人種)の下位カテゴリーでさまざまな民族を区別しているわけだ。国勢調査上のethnicityとはヒスパニックかどうかという区別のみである。話をガガの歌詞に戻すと、lebanese、orientをNHKが国籍と訳したのは、アメリカでは国籍と民族が違う、という事情を本当に理解していないためだと思われる。つまり、アメリカ人には日系も、中国系も、レバノン系も、インド系もいるわけで、そのどれもが現在の国籍はアメリカなのだ。以前、日本人学校に外務省の方が来賓として話をされ、「アメリカにはアメリカ人も黒人も中国人日本人も、いろいろな人達がいますから」というような内容のことを言われたが、これなどもNHKの訳の場合と同じで、アメリカにいる少数民族をアメリカ人と認めない潜在意識が表面化したものと思われる。白人はアメリカ人の一部だが、アメリカ人は白人だけではない。もう少し訳詞の方を見てみよう。Whether life's disabilities left you outcast, bullied or teased という部分のlife's disabilities は訳すのが難しい。NHKは人生に困難があっても、苛められ、からかわれても、としているが、これだと人生のはじめから与えられた困難、先天的な障がい、が意味から抜けてしまうように思う。ガガの歌詞では、人生の障がいが理由で除け者にされ、苛められ、からかわれても、と言っているのだから、NHK訳じゃ若干の誤訳と言えるだろう。最後に、you were born this way だが、「それがあなたの人生だから」としてしまってはニュアンスが違うような。「こういう風に生まれたのだから」と言ってるわけで、人生での選択を言ってるわけじゃないと思う。どういう障がいや性的指向や人種・民族的背景をもって生まれようとも、そういう自分を受け入れて愛していこう、というアメリカ的なポジティブ志向の歌でしょう。もっとも今のアメリカの若い世代には、この自分に自信を持て、自分を愛せ、というメッセージはちょっと鼻につく、と感じてる人達もいるようだけど。全く無関係な話、スウェーデンの映画「The Girl with the Dragon Taoo」を観た、久しぶりに傑作の推理物、主人公の女性キャラが非常に変わっていて映画の香辛料になっている、彼女の生い立ちについては続編で明らかにされてるけど、こちらの方が推理としては一段上、これについてはまたいずれ。
2012.01.03
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