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台北日本人学校時代の友人と丹波篠山の教頭先生宅を訪問しました。教頭先生は中国にて終戦の調停をした北支那方面軍の陸軍中将小林浅二郎氏の親族だそうです。驚きました。先生のお宅には台湾の歴史資料館で展示してある小林浅二郎中将の書がありました。 日本百景・天橋立。沖縄特攻作戦の後の7月30日、ここ宮津湾にて駆逐艦雪風と初霜は二百機の米軍機の猛攻を受け奮戦します。狭い湾内では船は大きく揺れて祖父は艦内の壁を歩いて移動したそうです。実際に目の当たりにした湾内はとても狭く操艦が大変だったことを痛感します。惜しくも初霜は敵機雷により触雷し陸に乗り上げ、雪風は戦死者を出してしまいます。激闘の宮津湾対空戦を生き残った雪風は伊根港の岸壁につけて、木で艦をカモフラージュし、陸戦の準備をしていました。 祖父は伊根のこのあたりに滞在して自転車に乗って雪風に出勤していたそうです。そして8月15日に雪風甲板にて玉音放送を拝聴。祖父はここで終戦を迎えました。感慨無量なるものがあったそうです。教頭先生、たかし君、同級生の七子さん、今回の旅のチャンスをいただいて感謝します!!
2011/08/15
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2011/08/11
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2011/05/05
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ぶらっとおじーちゃんの家に立ち寄りました。 すると、おじーちゃんは上機嫌で熱心に一冊の本を読んでいました。 「蒼海に消ゆ」1945年4月、沖縄に上陸したアメリカ軍に対して、同じアメリカ国籍を持ちながら「敵艦」に体当り攻撃をした日系アメリカ人、松藤大治少尉の生涯を描いたノンフィクションの本です。 著者のジャーナリスト門田隆将先生が太平洋戦争の取材でおじーちゃんを訪ねてから親交があるそうで、ネーム入りの有田焼を門田先生へ贈ったら、この本が届いたと大変喜んでいました。 その本を手にとり、ページを開きます。著書の直筆のサインが記してありました。 数ページ読ませてもらいましたが、ぐっときます!門田先生の熱意を感じます。よ~し!私ももこの本、買って読もう!! 自宅に帰って、著者の門田隆将先生のサイトを見ると・・。何とおじーちゃんが手にしていた本は昨日の4月26日に発売されたばかり!何とタイムリーなんだ!!中央から遠く離れた田舎に住んでいながら常に最新の話題に事欠かないおじーちゃんの若さに驚きます。 門田隆将先生のサイトを見ていると、強烈に読みたい本と出合いました。 「この命、義に捧ぐ」 終戦時、武装解除の命令に独断で武装解除せずに殺到するソ連軍と戦い抜いて内蒙古在留の4万人の邦人の「奇跡の脱出」を成功させた根本博陸軍中将。この時、邦人を守ってくれた蒋介石と国府軍は4年後、国共内戦に敗れ、金門島へと撤退していた。彼らへの恩義を返すため、根本中将は終戦後のGHQの支配下にある日本から密航して台湾に渡って戦った!! 何て無茶な日本人がいたんだろう!! 「根本博」でググッてみたら、興味深い話が沢山あります。こんな日本人がいたのか!もっと知りたい!読みたい! 私は台湾育ちなんですが、そりゃあもう、台湾の人たちは日本人にとても親切でした。何で!?っていうぐらい。本当に・・・。今回の震災で台湾からの恐ろしすぎる巨額な義捐金で、親日なことを初めて知った人も多いと思いますが、本当に台湾の人は日本を愛しています。 (日本国政府として台湾へお礼もしとらんとは・・。ばかたれ政府め!!恥を知れ~と怒りたくなります。) 台湾の人達が日本人に親切なのは、昔の日本人が台湾の為に一生懸命に働いていた姿を知っているからなのでしょう。台湾の治水事業に尽力された八田與一技師みたいに・・・。(日本人は知らないけれど、台湾の人はよく知ってる日本人ってもっと沢山いるんだろうなあ。) 早速「この命、義に捧ぐ」 を購入して読みました。本当にノンフィクションなの!?と疑いたくなるぐらい面白いです。いい本との出会いに感謝です。
2011/04/27
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91歳になるおじいちゃんと一緒に食事をしました。 最近は週刊文春に登場したりしてますます元気な模様です。 沖縄特攻作戦に出撃した駆逐艦雪風の戦友350人、その時最年少で当時17歳だった新兵も今や81歳・・・。今や連絡のとれる戦友は7人までに減ってしまったと嘆いておりました。(今も密に連絡とりあっているのも十分凄いと思いますが・・。) 天一号作戦に参加した生存者はますます減って、自称・人間国宝級になってしまった今、元気なうちに戦争体験を後世にもっともっとジャンジャン伝えて発信しまくるぞ~!!と鼻息も荒いです。何と元気なじーちゃん!? 来る6月に広島県呉市の大和ミュージアムに招かれて映画監督と対談するそうです。 どんな対談になるのか楽しみです。気をつけて行ってらっしゃい♪ うーん、孫としても負けてられん・・・。
2010/05/19
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今、夢中になって読んでいる書籍があります。光人社の「坂井三郎 写真 大空のサムライ」です。世界で最も有名なエースパイロットの物語が600枚もの膨大な貴重な当時の写真と共に読み応え十分有り!!私と故坂井三郎氏とは意外な共通点があります。それは・・・。佐賀人だということ。佐賀といえば「葉隠れ精神」発祥の地で「武士道とは死ぬこととみつけたり」という思想が根幹を成すものなのですが・・・・。坂井三郎氏も私の祖父も九死に一生を得て生還し得ています。生き残る術を知るべく、この書籍を今、夢中になって読んでいます。坂井三郎氏は東京の青山学院の中学に入るも、落ちこぼれて中退して佐賀に戻って農作業を手伝いパイロットとして必要な精神力と体力を培ったという話に感銘しました。というのも、実は私も中学時代に京都の某進学校に入学するも校風が合わずに落ちこぼれて遂には学校に行かずに自転車三昧の日々を送っていたことがあるのです。あの落ちこぼれてガリ勉せずに自転車で鍛えられたからこそ、不屈の精神と屈強な体が備わったのだと自負しております。ラッキー!!エース・パイロットを目指す人、戦乱の世に生き残りたい全ての人にとって必携の書です。
2009/01/19
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美しい大村湾周辺をのんびりドライブしていると偶然、ヘンテコな風景を発見!遠目にみると欧州の古城跡のようなのどかな風景が見えます。 近づいてみると何とも不思議な世界が広がっていました。 堅牢な石作りの外壁のみ残り、天井は抜け落ちて大きな木が生えて幻想的な不思議な空間が。 桟橋には軌道の跡が。その場にいた人に尋ねると、ここは以前の帝国海軍の魚雷発射試験場だったとのこと。 魚雷庫、発射場、浮力測定プール、観測所が今も手付かずで残っています。歴史を重ね風化し危うく倒壊しそうですがかろうじて残り、自由に出入り可能です。 地元の人たちが草刈をしているのでしょうか、無茶苦茶に荒れ果てた様子はありません。(釣りキチと海軍オタクには人気のスポットとのこと) 海は波が無く穏やかで磯にはウニが!海水も透明度がとても高く、平和を実感します。 ここは佐世保と近い位置なので私の祖父が乗っていた雪風に装備された93式酸素魚雷もここで開発・実験してたんだろうな~と空想します。 もちろん魚雷とか弾薬なんて物騒な物はありませんし、戦争の遺構なのに怖い感じが全くしません。まるで地中海の廃墟の景色へワープしてしまったかのような不思議な体験でした。注;画像はネットより拝借したもので私が撮影したものではありません。
2008/03/31
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ある日、祖父より電話が・・・。 「た”いちゃーん!元気ね!?」相変わらず元気な我が祖父の声・・・。 「おじいちゃんねー、この前のゴルフ大会で並み居る強豪を抑えて65歳以上のクラスで優勝したよ!」 「へー、凄いや!87歳なのにやったね!!」と祝福しつつ、内心は複雑な気分に・・。全精力を傾けてレース活動をしているのになかなか私は表彰台に立つことは出来ないですから・・。87歳の好敵手になかなか敵いません。「今度おじいちゃん、本に載るよ!た”いちゃんの分も武雄の本屋さんに注文済だから、買わんでよかよ。」 その電話から数日が経ち・・・。郵便受けに書籍が!! モデルアート編集部さんのご好意で私にもその本が贈られたのです!!モデルアート12月号「特集 日本海軍甲型駆逐艦雪風」!!!モデルアートさん、ありがとうございます。 実は密かに模型メーカーのハセガワさんに私の祖父は雪風の乗組員でしたとメールで連絡をとっていたところ、それならば実際お会いしましょうという事になり、今回の取材が実現したのです。 祖父の記事は3ページに亘って特集が組まれていて、非常に読み応えがある素晴らしい記事になってました。(私もオマケでちょっとだけ登場!) 壮烈な戦争を終え、平和が訪れ、月日と共に風化しつつあった沖縄特攻作戦の歴史の記憶。しかし、映画「男たちの大和」公開から再び脚光を浴び、再び歴史を再確認しようという時代の流れが巡ってきたことは特攻隊員の孫としては非常に嬉しく思います。以前より「雪風」をもっともっとみんなに知ってもらいたいと願っていた私は、今回、取材の橋渡しの役割が実現出来て、おじいちゃん孝行が出来たな~、と安堵しております。 モデルアートさん、ハセガワさん、本当にどうもありがとうございます。祖父も非常に感激しておりました。(取材の日にハセガワ常務さんのご好意で祖父に贈られた市販前の「雪風”天一号作戦”」)戦艦大和と共に出撃した駆逐艦雪風と祖父を詳細に取材した大変濃い内容の誌面になっているモデルアート12月号。是非、多くの人に読んで頂きたいと思います。モデルアート12月号は28日に発売されます。
2006/10/24
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職場にてカメラ好きな患者さんと雑談、「この近所で昔、飛行機作ってたそうですね。」すると患者さんは、「あー、私、震電の写真もってますよ。今度持ってきます!。」それが、この写真・・・。B29を迎撃するために九州の工場(福岡県の雑餉隈)で設計、製作。高速化と重武装、空力向上の為にエンジンと主翼を後ろにしたヘンテコリンでユニークな機体です。後退翼とジェット戦闘機を思わせるスマートな機首がかっこいいです。背振山方面へテスト飛行した後、終戦を迎え実戦投入はされませんでした。患者さんはこの写真は終戦後、米軍の友人より譲ってもらったそうです。進駐してきた米軍の関係者もこの機体を見てさぞかし驚いたことでしょう。敗戦色濃厚な終戦直前、限られた時間と物資の中で技術者の皆様の未知なる技術への挑戦は困難の連続だったと思います。努力と情熱は計り知れない・・・。私の職場から歩いて行ける距離にて、日本を守る為にプロペラ機の限界を打ち破る高速試作機が製作されていた!という事実を写真を目の当たりにして実感しました。感慨深い思いでいっぱいです。先人達の英知と技術、情熱、アイディアに畏敬の念を感じます。
2006/10/12
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祖父のアルバムにある雪風竣工時の雄姿です。雪風竣工時のキットを製作されている方の参考になれば幸いです。フリーページ「ハセガワ・雪風」をアップしましたので、よろしければ是非ご覧下さい。
2006/09/13
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モデラーの方のご意見など全く聞かずに自己流にひそかに製作が進められていたハセガワのプラモデル「雪風」が終戦記念日の今日、遂に完成しました。プラモデル作成に関しては素人同然の私ですが、どうにかカタチになり、ほっと胸を撫で下ろしている次第であります。私の祖父は昭和20年・7月30日、僚艦の初霜と共に宮津湾にて停泊中、180機の米軍機の攻撃を受け、僚艦の初霜は触雷し大破、祖父の乗っていた雪風は無事であったが、狭く十分な対空回避が出来ない宮津湾に停泊しつづけるのは危険だと判断。戦闘が終わってすぐに出航し、宮津湾を出て伊根という漁港の近くに接岸し、艦の上に網を被せ樹木で覆いカムフラージュし、機銃の半数を陸に揚げて陸戦の準備をしているうちに8月15日の終戦を迎えたそうである。祖父の話では沖縄特攻作戦は米艦載機は大和を集中的に狙っていたが、宮津湾対空戦はたった2隻を二百機近くの米軍機の攻撃でしかも狭い湾内は機雷だらけで戦闘はひどいものだったそうだ。昭和20年8月15日、雪風前甲板にテーブルを設置しラジオで正午の玉音放送を総員で拝聴したそうだ。様々な思いを寄せながら製作した雪風。この奇跡の艦があったからこそ、今の自分がここにいる!!孫が製作した新製品の雪風のプラモデルにきっと祖父も喜んでくれるだろう。
2006/08/15
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ハセガワの雪風キットの製作に着手しました。プラモデルの製作は久しぶりですが、勢いで取り掛かりました。まず、基本的な作り方もよく分かりませんが、楽しむことが第一ですのであまり深く考えずに製作を開始します。ランナーからパーツを爪切りで切り離し、接着剤を使用せずに仮組みします。おおーっ!!いきなり感動!パーツ同士の精度が恐ろしく高くピッタリ合います。昔、少年時代に作ってた時代とは違いますね~。さすが最新技術!接着剤で接着して組み立てます。今回、初めて模型店の勧めで「流し込み接着剤」も併せて使用しましたが、作業効率が上がります。昔に比べて随分楽になったものです。正確に接着する為にマスキングテープで固定してます。かなり自己流に作ってますが・・・。ちゃんと完成するのかな??モデラーの方、どうかこんな私にご指導お願いします!!
2006/06/09
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私の祖父が戦時中乗っていた駆逐艦雪風が(株)ハセガワの65周年特別企画としてプラモデル化され発売されます。今も元気に活躍している祖父の為にこのキットを購入し、自分で製作してプレゼントしたいと思います。ハセガワさん!どうもありがとうございます!!孝行できるチャンスを頂き、感無量です。
2006/05/23
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誰もいない近所の公園。街灯に照らされた満開の桜。我が祖父は昭和二0年四月七日、沖縄奪回のため海上特攻隊として沖縄を目指して出撃した。 敵の空襲は烈しく、世界最大の大和をはじめ数多くの僚艦は轟沈していった。 黒い重油の浮かぶ海域で生存者を救助し、四月八日、母港佐世保に帰還する。そのとき祖父は緑色の戦闘服は血で紅に染まっていた。二度と見るとは夢想だにしなかった佐世保は春の日差しが美しく桜の花が満開だったそうだ。 小学校時代、祖父と佐世保の海軍墓地に墓参りに行った記憶が蘇る。誰も花見をしていない満開の桜の景色。私はその光景の美しさに圧倒されたが同時に、誰もいないひっそりとした寂しい光景に畏怖を感じた。 散る桜、残る桜・・・。あれから60年。自分も精一杯生きてみようと思う。
2006/04/07
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映画を観てきました。もう言葉にはなりません。私の祖父は60年前の春、駆逐艦雪風に乗り、大和と共に沖縄を目指し出撃しました。私の祖父が決死の覚悟の下、特攻作戦に参加。そして奇跡的に生き残り、そのおかげで私の母やその子である私が今、生きているわけですからこの作品は私にとって非常に意義の大きい作品でした。60年前の祖父の見てきた体験、思いにすこしだけ近づけたような気がします。写真は駆逐艦雪風に特攻作戦時、掲揚されていた戦闘旗です。
2005/12/22
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敬老の日、じーさん宅を訪問したことは前回述べましたが、その時アルバムを見ていたら・・・・。「伊号潜水艦」なるものが写ってました・・。これって当時は最高機密なわけで写真とかって撮って良かったのでしょうか?軍法会議モノだったのでは!?浮上した直後の迫力ある映像が撮れてます。さすがウチのじーさん・・恐るべし・・。
2005/09/21
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敬老の日でジーさんの家へ行ってきました。仏間に絵画が・・。うちの母上の従兄弟のじろーおじちゃんの作品とのこと。絵に描かれているのは駆逐艦雪風で第二次大戦時、ジーさんが沖縄特攻作戦の時、戦艦大和の護衛の任務で乗っていた艦です。(不沈艦) 高校時代、親戚の人々に「た”いこ”ろうは大人になったら何になるの?」との問いかけに「レース関係の仕事」と回答してました。レースと死を直感した親戚一同は「た”いこ”ろうにレースを諦めさせる会」を結成し、私の夢をぶち壊す活動を開始しましたが・・。当時の私も頑固で反対意見なんて聞く耳を持ちませんでした。痺れを切らした親戚一同は終にレーシングチームと企業のスポンサーシップを結びつける業務を行っている広告代理店を経営しているじろーおじちゃんを刺客としてはるばる名古屋から呼び出したのでした・・。(そこまでヤル!?)「た”いこ”ろうを諦めさせる会議」にてレースを夢見る何も知らない高校生の私にレース業界を知っている夢の業界人にレース業界の厳しい現実を叩き付けられ非常にショックを受けました。金銭面やその他諸々の現実を・・。この「諦めさせる会」の論戦で完敗した私は悔しくて仕方ありませんでした。こうなったら何としてでもレースをしてやる!と決意を固めたのは言うまでもありません。あれからかなりの年数が経過し、草レースとはいえ高校時代の夢は叶いました。じろーおじちゃんも若かりし頃は画家を夢見て芸大を受験するも浪人の末、結局夢かなわず法学部に進学し・・・。でもやっぱり絵画の世界を捨てきれず法学部在学中も絵を独学で描き続けたそうです。そして今も絵筆をとるじろーおじちゃんの姿勢に感動しました。レース業界への進路は止めて医療従事者になった私ですがレースに賭ける情熱は少年の頃の思いと変わりありません!!
2005/09/19
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