ニッポンとアメリカの「隙間」で、もがく。
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父が7月26日、77歳の生涯を終えました。・父の最後の2ヶ月5月の連休中に熱が続き、検査の結果、左側の腎盂にがんが見つかりました。その時にはステージ4で治療のすべがなく、父は緩和ケアを選びました。6月末に、午後には下がっていた熱が下がらなくなり緩和ケア病棟に入院しました。入院中は調子も良く、お見舞いに来てくださった方達と楽しく談笑することもあったそうです。ただ、母と私は状態が確実に悪くなっているのは医師から知らされていました。目に見えて悪くなったのは最後の数日間で、それでも日曜日にはうなぎ丼を少し食べたそうです。月曜日に最後となった私との会話を交わし、火曜日に意識をなくし、水曜日の朝に亡くなりました。私たちに十分心の準備をさせてくれ、しかも長く苦しまず旅立ってくれたのは本当に心の救いでした。母もつきっきりでそばにいたわけではありませんが、たまたまそばにいた時に息を引き取ったそうです。寂しがり屋で甘ったれの父、一人の時に逝くのは嫌だったんでしょう。・「今年会わないと後悔する」という思いアメリカ人でボストン育ちの夫と日本で出会って結婚し、その2年後にボストンに移住すると決めた時、私たちは30代、私の両親は60代で、まだまだ双方とも「老いる」ということについて深く考えていませんでした。当時、まだ子供もいなかった私達は、日本とアメリカ半々ぐらいの生活が出来たらいいね、などと夢のようなことを話していましたが、アメリカでの生活が実際に始まり、特に子供が出来てからは、年に1度の里帰りもなかなか思い通りには行かないことを思い知らされました。ここ数年は夏休み中の航空券代もだいぶ下がりましたが、1名分が約1200ドルほどの往復航空券代(×家族4名)に日本での滞在費(実家に泊まっても交通費、小旅行費、交際費など諸々かかります)を含めると日本円にして50万円以上の費用を毎年捻出することはなかなか難しい。その都度、日本の父が経済的に援助してくれたり、両親がこちらに来てくれたりで、毎年とは行かなくても数年に一度は両親に会えましたが、両親が老いるにつれ、会うたびに「これが最後になるかも」と思うようになりました。遠いところに嫁いでしまったことに罪悪感を感じていた時期もありました。もっと近くに住んでいれば、連休の時などにちょくちょく会えたのに。もっと孫たちの顔を見せることもできたのに。そんなことを考えては憂鬱な気分になってしまったり。あることがきっかけで、子供たちは夫に任せ、1人で里帰りをしたことがありました。その翌年の夏には両親がボストンまで久しぶりに遊びに来てくれ、大きくなった孫たちを会わせることがあったのですが、それまでに親が亡くなってしまったら、私は一生後悔するだろうとずっと思っていました。今回会わなければ、私は一生後悔するだろう。。。そんな時が何度かありました。そして、そんな時は、いつもより努力して会うようにしました。それが何回か続き、ある時やっと、私は「親孝行として、もうやれるだけのことはやった」と思えたのです。それから会えたとしたら、それはもう「おまけ」なんだと思えるぐらいに。結果的に、生きている父に会えたのは、昨年の秋が最後になりました。あの、ボストンの空港での別れが、最後になったのだと。それが最初で最後の「おまけ」になりましたが、後悔はありませんでした。今年の5月に父が末期のがんであることを知らされた時、私は1年近い乳がんの治療を終えたばかりでした。放射線治療の跡がひどい日焼けのようになって痛痒く、抗がん剤治療による脱毛でほぼ頭は禿げに近く、とても日本に帰れるような状態ではありませんでした。それは父も母も十分に分かっていて、私に帰って来いとは言いませんでした。むしろ、帰ってきちゃダメと言っているぐらいでした。父の病状は医師もなかなか読めず、余命は2か月から今年いっぱいぐらいまでと言われていました。そう言われると、人間は勝手に長い方に期待してしまうもので、症状が進んで6月末に入院してからも、私は「夏いっぱいは少なくとも大丈夫だろうから、8月半ばぐらいになったら航空券代も安くなるし(笑)、顔を見に行こうかな」などと、呑気に考えていました。それが、入院してから2週間ほどした辺りから、容態は急速に悪化して行き、毎日のように母から電話で状況を聞くようになりました。ただ、それでも、母は死に目に間に合わないんだったら帰ってきてもしょうがない、という風に私に言ってくれていました。でも、私は考えました。この2か月間で自分の体調はかなり回復した。父の死に目には会えなくても、きちんとお別れはしたい。お葬式には帰りたい。それを母に伝えました。そんな私の気持ちを知ってからは、母は私が帰って来ることを心待ちにしてくれました。私には、1人になってしまう母を支えたいという気持ちもありました。父は、私が日本行きの航空券を買ったその日に亡くなりました。やはり死に目に会えなかったのは残念でしたが、おかげで日本までの道中、焦ることなく落ち着いて過ごすことが出来ました。これも父の粋な取り計らいだったと思っています。親から遠く離れて暮らしていれば、できることは限られています。あれもしたい、これもしたい、と色々思いは募ります。でも、離れているからこそ、自分で納得のできる線引きをすることが大事だと思うのです。もちろん、今回の私の場合、父は急に亡くなったわけでもなく、また、療養期間も2か月と短く、母がいたので看病は任せることができました。母のきょうだい達も助けてくれました。そういう意味では、私にとっては非常に恵まれた状況だったと思います。母の時はそういう訳にも行かないでしょう。でも、その時も、自分で納得の行く選択をしたいと思います。
2017.08.17