バトル・トーク「『死』を歩く旅~四国遍路と生きる意味」に関して、そのテーマとその表現に対して、ブログやメールでご意見とご質問をいただきました。
拙僧は、主催者から寄せられた~「死」を隠し、唾棄する社会。それが現代の日本です。しかし社会から「死」を遠ざけたことで、人々からはリアルな「生」が失われてしまいました。~という文章に共感しています。そういう状況から少しでも脱するためのトークになることを期待しています。
お遍路については、人により様々なイメージがあり、実際にお遍路をされる方の動機や実際も非常に幅広いものだと思います。人それぞれのお遍路があっていいのだということです。江戸時代でも、一般民衆の旅は、お伊勢詣りやお山詣り、お遍路など、宗教的な意味づけのもとに許されていたけれども、実態は弥次さん喜多さんの旅のように観光が主だったと考えられています。
動機はどうであっても、日常から離れたある種の彼岸を体験することで、人の心にある種の効果をもたらすということに意義があるのだと思います。 それはある人には癒しとなり、ある人には楽しみとなり、またある人には救いになる場合もあるでしょう。自然や人のやさしさや厳しさに触れることで、慈悲心に目覚める人もいるでしょう。何れにしても日常から離れたところで、心の有り様が変わるということは意味のあることです。しかも誰かから強制され教えられてそうなるのではなく、自ら気づくということが尊いのです。いい加減な不肖の仏弟子である拙僧自身はお作法も守らずスタンプラリーのような、楽しい観光気分で始めました。今も外見上は変わらぬ不作法な罰当たり遍路なのですが、心の中は回心できた?ような気がします。仏は心中にあり、山川草木悉皆成仏なのですから、何も札所のお寺の中の仏像を拝むだけがお遍路ではないのです。拙僧は異端派ですから言葉半分に読んでくださいね。
そんな拙僧でも、長い休みをとることができないので何度にも分けて行く毎に、お遍路に惹かれるようになりました。頭も心も空っぽになれること、そして、山も川も一木一草に至るまで、生きとし生けるものが、命が、輝いて見えることに気づいたからです。そうした状態がとても気持ちが良いものだと思ったからです。
そういうお遍路の素晴らしさを伝えられたらいいなと思っています。 もっとも人前で、マイクを握って平常心でいられるかどうか、心配でもありますが。。。 ご興味がある方は応援してくださいね。
たいへんご無沙汰しております! 2017年06月27日
ウサマ・ビンラディン殺害に思うこと 2011年05月04日 コメント(2)
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