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ぼくとしちゃん

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November 17, 2024
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11月7日はわの会のイベントで、横須賀の走水に行った。
暑かった今年の秋もようやく涼しくなり、皆さんも重ね着をしておられた。
僕はシャツ1枚だったけど。だってまだ衣替えしていないので仕方ない。

京急の馬堀海岸駅に集合して、走水神社まで歩く。
走水神社で解散なんだけれども、僕はもう少し足を延ばして「ゴジラの足跡」まで行くつもり。
ルートはこんな感じ。


わの会はだいた10時から12時半がいつもの行程。なので僕はその後2時間くらい追加で歩く。

馬堀海岸駅は「まぼりかいがんえき」と読むらしい。
今日の今日まで知らなかった。今までずーっと「うまほりかいがんえき」と思っていた。

駅前のコンビニ付近で挨拶をした後、歩き出すとすぐに「高尾」の看板が有る。


この辺に「高尾横穴墓群」が有ったらしい。
僕はいつも、野島や富岡総合公園付近の山のふもとにある穴は横穴墓だと思うのだけれど、
横浜市の埋蔵文化財センターの人は認めようとはしない。下は野島の横穴墓。


関東には「吉見百穴」のような横穴墓があちこちに有り、
現に横浜市内でも栄区本郷台付近の横穴墓はちゃんと認められて調査されている。
特に横須賀にはたくさんあるのだけれど、埋蔵文化財センターの人は「自然の穴」と言って、
全然感知しないのである。
例えば米軍から返還された土地に、
三浦一族の横穴墓(新編武蔵国風土記に書かれている)何かも有るんだけれども、
きっとつぶされるんだろうな、

金沢区富岡付近で言えば、慶珊寺付近に道路を作る際に横穴墓が見つかり、
あわてて調査して、刀や板碑等が出て来たのだけれども、
せっかく調査したのに、出土品は今は無いらしい。
埋蔵文化財センターは職員が少なく、
他の自治体のように自前の建物が無く旧小学校校舎に間借りしている状態なので仕方ないかも。

教育委員会は称名寺の工事に際して、古い祭祀跡を壊していたのを僕は目撃しているから。

まぁそれはそれとして、看板に書いてある「高尾太夫」は吉原の花魁で有名だったらしい。
「吉野太夫」、「夕霧大夫」と併せて「三名妓」と呼ばれる。
ここの出身は8代目と書いているが、世の中で有名なのは2代目。仙台高尾である。
仙台高尾は僕でもちょっとは聞いたことが有る。
仙台藩主伊達綱宗が3000両(1両は10~30万円)で身受けしたのだけれども、
実は恋仲の男がいて綱宗は振られて怒って船の上で殺したらしい。(史実では無いかも?)
そのせいで伊達綱宗は藩主をクビになった(伊達騒動)のだから花魁ってすごかったんだな。

高尾の看板を過ぎると、馬堀小学校・中学校に着く。ここは元は陸軍重砲兵学校の跡地。


三浦半島は海軍の基地があちこちに有ったのだけれども、陸軍も有ったんだな。

この小学校の向かいに浄林寺が有る。(当日は馬堀観音堂に先に行った)


ここの境内には関東以北では珍しいムクロジの木がある。


ムクロジは本来は暖かい地方の木なので、寒い関東以北では育たないのだけれども、
海岸沿いなので暖かいのだろう。
ガイドさんがムクロジの実をくれたのが上の写真。
サポニンが含まれるので、つぶすと石鹸のように泡立つそうだ。

浄林寺の右手の坂を登っていくと馬頭観音堂が有る。


僕の母親の実家にも昔は馬がおり、火事で亡くなったので馬頭観音が有るのだけれども、
ここの馬頭観音はそれとは違って古くからの言い伝えに基づいて建てられたお堂で、
その言い伝えに基づく清水が脇に湧いている。右の写真。


おぉー!有名な佐々木四郎高綱の馬の池月がこの観音堂の主なのか。
木曽義仲追討の宇治川合戦の先陣争いかぁ。僕でも知っている。
ただ、この看板には池月が「房州嶺岡」の生まれだと書いてあるんだけれども、
(石橋山の合戦で負けた頼朝が千葉に逃れて、
 そこで味方を得て鎌倉に帰る途中の千束=今の台東区で捕まえたのが池月と言うのが通説)
別の説では、桐生(群馬県)の高園寺の出身だとあるんで、どれが本当なんだ?と言う
素朴な疑問はあるが、まぁ吾妻鏡には書かれていない話なので真相は不明。

馬頭観音堂と浄林寺を後にして馬堀海岸に向かう。途中にトンネルが有る。


おぉー!あの有名はヴェルニーの水道かぁ。このトンネルの中を通したのか。
トンネルを抜けると、馬堀海岸が見える。
海辺には走水の水源地が有る。


ここを海側に行くと「ヴェルニーの水」が有る。


それにしても、ここは海の近くだし、付近には大きな山が無いし、川も無い。
ここで湧き出る水はどこから来るんだろう?
横須賀市の水道はこの湧水を水源としていると書かれた本は多いが、
この湧水の元になる地下水がどこからやってくるかを書いた本が無い。
一説によれば、この湧水の源は富士山からの地下水だと言われているが本当だろうか?

ここに至って、僕の長年の疑問を考えてみた。
ここから見る浦賀水道の波は確かに荒いけれども、流れはそれほど早くは無い。
古事記の中のヤマトタケルの命の逸話にも「走水」が出てくるんだけれども、
この海の流れを見て「走水」と言ったのだろうか?(通説ではそうなっている)
海の流れの速さであれば、むしろ六浦の方が速かったのではないか?
そう、六浦はかっては大きな湾の中でその入口はフグの口のように狭く、
潮汐の際にはものすごい勢いで流れていたらしい。
だから海の水の流れから言えば、ここよりも六浦の方が「走水」では?
もしかするとヤマトタケルの命のエピソードはここではなく六浦の話だった?

通説では上に書いたように浦賀水道の流れが速いことが走水の名前の由来とされている。
でも、川などの流れは「水」と言うが、海の場合は「潮」と呼ぶのが普通ではないか?
いわゆる潮の満ち引き、潮流と言う言葉になる「潮」である。水とは言わない。
また、日本書紀には、ヤマトタケルの命が海を望んで、
「是小海のみ。立跳(たちはしり)にも渡りつべし」と言ったことが由来だと言う
馬鹿な説を主張する人も居るがこれは間違いだと思う。
何故なら日本書紀よりも古い古事記に既に「走水」と書いているのだから、
日本書紀が走水の名前の由来であるはずが無い。
ヤマトタケルの命が当地に来た時点で既に当地は走水と呼ばれていたのである。

でも今日答えが分かった。
「走水」と言うのはきっと海の流れではなく、湧き水のことだったんだと思う。
おそらくこの辺のあちこちから湧く水を元に「走水」と名づけられたんではないだろうか?
そして、たまたまヤマトタケルの命が渡る際に海が有れたと言う古事記の記述が有った為に、
走水とは海の流れと言う誤解が生まれたのではないだろうか?
だからやっぱりヤマトタケルの命はここから千葉に渡ったんだと思う。
だってここには昔の東海道(古東海道はここを通って千葉に続いていた)が通っていたんだから。

走水水源地を出て、走水低砲台跡に向かうのだけれども、途中に伊勢町観音が有る。


伊勢町観音は町内会館に有り、町内会館の屋根飾りが面白い。
残念だけれども中には入らず外から眺めただけ。

いよいよ走水低砲台跡に着く。


ここに築かれた砲台のキャノン砲により、東京湾の入口は守られる予定だったらしい。
まぁ実際は時代は航空機の時代に向かっており、艦隊を防いでも意味は無かったかも?
現に砲台は奇麗なままで残っている。
重要な攻撃目標になっていたら、こんなに綺麗に残っているはずはない。
役に立たなかったから攻撃されなかったのだと思う。

キャノン砲は弾道を描いて遠方に着弾するので、
写真のように砲台は地面よりも低く作られている。だから「低」砲台?
合理的ではあるけれどもなんかなぁ。

走水低砲台跡を後に、いよいよ最後の目的地の走水神社と大泉寺に向かう。
まずは大泉寺。


ここはたいして見るものは無かったんだけれども、外に重要な場所が有った。
水琴窟が傍らに有った。


お地蔵様の前の水をひしゃくでお地蔵さまに2回くらいかけると左の筒から音が聞こえる。
僕は生まれて初めて水琴窟の音を聞いた。
前々回の品川歴史館にも有ったんだけれども全く聞こえなかったから、今回聞けてうれしかった。
もっとキンキンした音かと思ったら、ちょっと柔らかい感じだった。
何よりも(補聴器ごしだけれども)実際に音が聞こえるのが良い。

走水に来たらこの水琴窟の音を聞くと良いと思います。

わの会の最後は走水神社。


うーんヤマトタケルの命ゆかりの神社か。
一説によるとヤマトタケルの命はこの付近では天皇(すめらみこと)とされていたらしい。
常陸国風土記にはそう書かれていたそうだ。
なのでここで海に身を投げた弟橘姫命は古事記には「后」と書かれている。


天皇の奥さんでなければ「后」ではない。
例えば秋篠宮の奥様の紀子様は皇嗣妃つまり「妃」であって「后」ではない。
古事記はちゃんとそれを意識して書いているのだろうから、
ヤマトタケルの命はここで天皇に即位していたのかも?(近畿地方では認められないけど)

走水神社の上には上の古事記に書かれたようにヤマトタケルの命を助けて海中に身を投げた、
弟橘姫命の碑が有る。


石碑は伊豆石なんだそうだ。何故伊豆石なんだろう。
確かにこの辺の石は砂岩が多く、石碑には適さないので地元の石は使えないと思うけれども、
もしかすると伊豆石を使うのには何か意味があるのかも?

走水神社がわの会の最後の訪問場所で、みんなはここで解散した。
一部の人はここから横須賀美術館に行くようだけれども、
僕はもっと先の観音崎灯台まで(あるいはもっと先まで)行こうと思い一人旅に出発した。

まずは横須賀美術館。


お金がかかっていそうだけれども、建物としてはデザイン的にはたいしたことはない。
特に左の四角い出っ張りは趣味が悪いと思う。まぁでも人の作品にケチをつけてはいけない。
結局中には入らず眺めただけで次の観音崎公園に向かう。


最初は灯台まで行こうかと思ったけれども、坂道を上り下りするのが大変そうなのでやめた。
もうジーサンになったなと自分でも思う。いつかバスで来よう。

ここを右手にずーっと歩いていくと観音崎自然博物館が有り、
その下あたりのたたら浜に「ゴジラの足跡」があるので行ってみた。


うーん何だかなぁ。
初代ゴジラはここから上陸したらしい。
足跡は実物(本当にゴジラがいたのならば)の1/10だそうだ。
この程度ならば、OPENHOUSEの堺雅人が勝つような気がする。

お天気の心配をしたけれども、何とか晴れて汗もかかないちょうど良い天気で良かった。





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最終更新日  November 17, 2024 07:41:25 AM
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