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2006年08月03日
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"門"
writen by (夏目漱石)



宗助(そうすけ)は先刻(さっき)から縁側(えんがわ)へ坐蒲団(ざぶとん)を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐(あぐら)をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。
秋日和(あきびより)と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄(げた)の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。
肱枕(ひじまくら)をして軒から上を見上げると、奇麗(きれい)な空が一面に蒼(あお)く澄んでいる。
その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較(くら)べて見ると、非常に広大である。

障子の中では細君が裁縫(しごと)をしている。

「おい、好い天気だな」
と話しかけた。

細君は、「ええ」と云(い)ったなりであった。
宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。
しばらくすると今度は細君の方から、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。
しかしその時は宗助がただうんと云う生返事(なまへんじ)を返しただけであった。

二三分して、細君は障子(しょうじ)の硝子(ガラス)の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗(のぞ)いて見た。
夫はどう云う了見(りょうけん)か両膝(りょうひざ)を曲げて海老(えび)のように窮屈になっている。


「あなたそんな所へ寝ると風邪(かぜ)引(ひ)いてよ」
と細君が注意した。
細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。

宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、


それからまた静かになった。
外を通る護謨車(ゴムぐるま)のベルの音が二三度鳴った後(あと)から、遠くで鶏の時音(とき)をつくる声が聞えた。
宗助は仕立(したて)おろしの紡績織(ぼうせきおり)の背中へ、自然(じねん)と浸み込んで来る光線の暖味(あたたかみ)を、襯衣(シャツ)の下で貪(むさ)ぼるほど味(あじわ)いながら、表の音を聴(き)くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
「御米(およね)、近来(きんらい)の近(きん)の字はどう書いたっけね」と尋ねた。

細君は別に呆(あき)れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、
「近江(おうみ)のおうの字じゃなくって」と答えた。

「その近江(おうみ)のおうの字が分らないんだ」

細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指(ものさし)を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、

「こうでしょう」と云ったぎり、
物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺(なが)め入った。

宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と云ったが、
冗談(じょうだん)でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。

細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当に好い御天気だわね」と半(なか)ば独(ひと)り言(ごと)のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫(しごと)を始めた。

すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。

「なぜ」

「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。
――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」

「まさか」

「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。

「あなたどうかしていらっしゃるのよ」

「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」

「そうよ」と細君は夫の顔を見た。
夫はようやく立ち上った。

針箱と糸屑(いとくず)の上を飛び越すように跨(また)いで、茶の間の襖(ふすま)を開けると、すぐ座敷である。
南が玄関で塞(ふさ)がれているので、突き当りの障子が、日向(ひなた)から急に這入(はい)って来た眸(ひとみ)には、うそ寒く映った。
そこを開けると、廂(ひさし)に逼(せま)るような勾配(こうばい)の崖(がけ)が、縁鼻(えんばな)から聳(そび)えているので、朝の内は当って然(しか)るべきはずの日も容易に影を落さない。
崖には草が生えている。
下からして一側(ひとかわ)も石で畳んでないから、いつ壊(くず)れるか分らない虞(おそれ)があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主(やぬし)も長い間昔のままにして放ってある。
もっとも元は一面の竹藪(たけやぶ)だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤(どて)の中に埋めて置いたから、地(じ)は存外緊(しま)っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺(おやじ)が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。
その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。
すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘(うま)く行くもんじゃありませんよ。
しかし崖だけは大丈夫です。
どんな事があったって壊(く)えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力(りき)んで帰って行った。

崖は秋に入(い)っても別に色づく様子もない。
ただ青い草の匂(におい)が褪(さ)めて、不揃(ぶそろ)にもじゃもじゃするばかりである。
薄(すすき)だの蔦(つた)だのと云う洒落(しゃれ)たものに至ってはさらに見当らない。
その代り昔の名残(なご)りの孟宗(もうそう)が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。
それが多少黄に染まって、幹に日の射(さ)すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味(あたたかみ)を眺(なが)められるような心持がする。
宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰(つ)まるこの頃は、滅多(めった)に崖の上を覗(のぞ)く暇(ひま)を有(も)たなかった。
暗い便所から出て、手水鉢(ちょうずばち)の水を手に受けながら、ふと廂(ひさし)の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。
幹の頂(いただき)に濃(こま)かな葉が集まって、まるで坊主頭(ぼうずあたま)のように見える。
それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂(ひっ)そりと重なった葉が一枚も動かない。

宗助は障子を閉(た)てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。
座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。
北側に床(とこ)があるので、申訳のために変な軸(じく)を掛けて、その前に朱泥(しゅでい)の色をした拙(せつ)な花活(はないけ)が飾ってある。
欄間(らんま)には額(がく)も何もない。
ただ真鍮(しんちゅう)の折釘(おれくぎ)だけが二本光っている。
その他には硝子戸(ガラスど)の張った書棚が一つある。
けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。

宗助は銀金具(ぎんかなぐ)の付いた机の抽出(ひきだし)を開けてしきりに中を検(しら)べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締(あきら)めてしまった。
それから硯箱(すずりばこ)の葢(ふた)を取って、手紙を書き始めた。

一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐伯(さえき)のうちは中六番町(なかろくばんちょう)何番地だったかね」
と襖越(ごし)に細君に聞いた。

「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、
宗助が名宛を書き終る頃になって、
「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。

「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」
と云い切ったが、細君が返事をしないので、

「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。

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最終更新日  2006年08月03日 05時00分36秒
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