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れいめい塾のこの記事を受けて「協働」という言葉は、恥ずかしながら、今春のれいめい塾の生徒の小論文対策で初めて目にした。ちょっと調べてみたところ1990年くらいに初めてできた(訳された)言葉のようで、本来、コオペレーションのことらしい。その後、行政から医療へと広まっていったっぽい。比較的新しい言葉で、私の語彙の中にはなかった。だからその時は、まず「協働」ってなんだ?となり、文脈から今まで連携と呼んでいたものの新しい形、または派生かなと捉えてみたのだが、生徒は、志望動機書を「多職種と協働できる医療従事者を目指したい。」といった趣旨で書く。かなり違和感を覚えたのだが、受験する大学のHPに「多職種協働」という文字が躍っているのだから仕方ない。医療における「協働」とは、「多職種協働:医師、看護師、薬剤師、管理栄養士、理学療法士、医療ソーシャルワーカーなどの専門職が、単なる役割分担を超えて互いの専門性を発揮し、協力し合う体制」と「患者協働:患者や家族を医療の「受け手」としてだけでなく、治療方針の決定や医療安全の向上に参画する「パートナー」として位置づける考え方」に大別されるらしい。医療従事者は専門性が高く、お互いに協力しなければチーム医療はなりたたないのだから別にこの定義自体に疑問はない。患者協働については言葉自体は私にとって目新しいが内容としてはかなり前から言われている患者のQOL向上や、インフォームドコンセントに始まる患者自体を医療における客体ではなく主体として扱っていく流れだからなんの異論もない。それでも「多職種と協働できる医療従事者を目指す。」のが志望動機のメインなのには違和感を覚える。まずは「専門性を発揮できる」ような自己研鑽を目指すべきなのではないのか。主体性をもって「協働」に参画したいのであれば、その主体性を担保できるだけの自信、自信をもてるだけの知識と技術がなくてはならない。この生徒の志望動機書にはその前提条件もなく、多職種協働できる云々と書かれているから違和感となっているのだ。私みたいな小学校の時から「協調性がない」と評価されてきた者としては、自分一人で完遂できる仕事は最初から協働する必要などなくできる限りやりたくない。必要が生じてから連携や提携し、さらに必要があれば協働すればよいと思ってしまうからなおさらだ。医療においても何も全員が臨床をやるわけではない。全員がチーム医療に関わるわけではない。患者協働はともかく、多職種協働が必要がないケースはあると思う。必要もないのに多職種が関わることで、かえって医療にまつわる諸々が煩雑になるケースもあるように思う。実際、そういう声も上がっているそうだ。「多職種協働」はより良い医療のためのひとつの手段でしかなく、それ自体を目的にするものではなく、万能なものでもない。さて、教育の現場にも「協働」が入ってきたらしい。令和3年答申教育課程部会における審議のまとめによると探究的な学習や体験活動などを通じ、子供同士で、あるいは地域の方々をはじめ多様な他者と協働しながら、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、様々な社会的な変化を乗り越え、持続可能な社会の創り手となることができるよう、必要な資質・能力を育成する「協働的な学び」を充実することも重要である。ということらしい。そして、この記事に書かれているような「先生は答えを教えない。こどもどうしで話し合ってグループ内でわかる子に教えてもらう」といった事態が文部科学省のすすめるこの「協働的なまなび」を受けてのものだとすれば、どうやらまたしても中央の思惑と現場との間で齟齬が生じているようだ。前述の医療における協働を参考にすれば、多職種協働であれば専門性、患者協働であれば医療従事者では気づきづらい患者さんそれぞれの価値観や事情をもちよるところから始まるとも言える。これをこどもに当てはめると、どう考えてもうまくいかないケースが多い。数学が得意な子が数学を教え、英語が得意な子が英語を教え、理科が得意な子が・・・といけば理想的で、お互いの価値観を認め、様々な社会的変化にあたるであろう学校から出される課題や問題を乗り越えられるのだろうが、おそらくそうはならない。そんなに都合よくグループ内に各教科のスペシャリストがいるはずもなく、たいていの場合、できる子は全教科でき、できない子は全教科できないことのほうが多いからだ。ほぼひとりかふたりの生徒だけに、教えなければならないという負担がのしかかる。教えることに何の抵抗もなく、人と関わるのが得意な子であればまだ良いが、そうでないのであれば教えなければならない子の心労はいかほどのものとなるのか。教わるほうに教わるための心構えすらないこともあるだろう。そういった状態で、教師による介入も誘導もない場合、れいめい塾の中山先生が言うように、教えなければならなくなった子は、思い通りに動かない部下をもった中間管理職みたいな状態となってしまう。敢えて暴論気味なことを言うが、常に教えなければならない側になってしまう子の時間が削られているのは確かで、自分の時間が奪われることに、教えなければならないことに、その子が苦痛を感じているのであれば、これは立派な児童虐待である。学校の目的は、少なくともそのひとつは、学生の基礎学力をあげることであり、その目的のための手段としてグループ学習であったり、教えあうということがあってもよい。しかし、それが唯一の手段となってしまっては手段と目的を取り違えていると言わざるを得ない。念のために書いておくが、私は必ずしも教えあうこと自体は悪いとは思っていない。むしろ、他人を教えることは理解が深まることにつながるので推奨している。れいめい塾でも教えたり教えられたりしている。れいめい塾の場合は、教えられた子が別の子を教えるようにしたりと、ある程度コントロールしているという話を聞いているし、それで効果も出ている。私の塾でも、生徒同士で教えあうことはある。私の塾の場合は質問したい子は勝手に質問してたし、教えたい子は勝手に後輩を集めて授業をしていた。塾なら良い。塾なら良いのだが、何度もこのブログで言っているように、学校は塾と違い、合わなければやめるということができない。不登校にでもならない限り、学校の指導から逃れられない。だからこそ強制力をもちすぎ、こどもによっては負担となったり、こどもによっては却って学力が下がる可能性がある指導には注意をもってあたらなければならない。ちなみに文部科学省のいう「協働的なまなび」にあたるのは、文化祭、体育祭などの学校行事や、地域活動への参加だと思う。こういった活動をしっかりと充実させていったほうが良いと思う。私自身、高校の文化祭をするにあたり、「えっ、こいつパッとしやんやつやとおもっとったけど、めっちゃイラストうまいやんけ。」とか「えっ、なんでこいつ作曲なんかできるん?」だとか、いろいろ気づいたし、びっくりしたし、かなり価値観ひっくりかえされた記憶がある。こっちのほうがよほど「他者を価値ある存在として尊重する」ことにつながるし、「多様性」を認めることにもなると思う。※多様性を認めるの「認める」は「許す」の意味ではない。蛇足だが、「天は人の上に人を作らず」にしろ、「おもてなし」にしろ、「お客様は神様だ」にしろ「協働」にしろ言葉自体が祭り上げられてしまうと、言葉が一人歩きしてしまってだいたい言葉の本質から、本来の趣旨から外れていくのだな。面白いと言えば面白い。
2026.06.29
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これまでずっと、解法暗記、パターン暗記に頼りすぎると、大学できちんと学ぶつもりがある人、特に上位大学へ進む人は、大学の講義についていけなくなるよ。だから、しっかり自分なりに理解して解けるようにしようとうちの生徒には言ってきた。今は教えてくれる塾があるからいいけれど、大学生になったら公務員試験や司法試験対策の塾はあっても、それ以外の学部生に対する塾なんてないんだからね。自分自身でどうにかして問題解決する力を身に着けようねと言ってきた。実際、私が通った大学でも、大半が物理選択で入学しているはずの学生たちであるはずなのに、高校で物理を選択していなかった私が1年で単位がとれた物理学(専門ではなく一般教育の)においてクラス(確か120人程度)の半分以上が単位取得できないといった有様だった。3年次になっても単位が取れなくて、留年してる人もいた。工学部なのに大丈夫か?と思った。実験が始まったら、クラスで試薬の希釈の計算と手順がわかるのは私ともうひとりだけだった。新設大学で受験レベルが低かったとはいえ、本当に大丈夫か?と思った。また、うちの卒塾生で数学科に進んだ子は大学生になってもオンラインで頻繁に私に質問することとなった。その時の名残がこのブログにも残っている。アステロイドの証明←これ(正しいかどうかの保証はしない)卒論、修論の指導も何度もしてきた。だから、作文力もいずれ必要になる力だから身に着けておこうねと常々言ってきた。参考記事:朝日新聞「大学生の塾」盛況 難関大の講義が難しい… 単位落とす学生ら通ういつのまにかできてたんですね。大学生向けの塾。それとも昔からあったんだけど気づかなかっただけなのかな。しかも盛況だという。さもありなん。受からなければならないというのはわかる。現在の受験界隈の風潮が解法暗記なのも賛成はしないがわからないでもない。だからといって受かればなんでもいいということではない。確かに覚えた方が早いということはある。ただ、丸暗記しただけで自分の中で消化できていないものは本当に応用が利かない。そんなことはない。という方もいるだろう。解法暗記だけで受験を乗り切ったし、大学にいっても苦労はしなかったという方もいるかもしれない。それは、本人は解法暗記しただけのつもりでいるが無意識に暗記した解法の本質的な部分を理解しているケースだと思う。成績上位陣のうち、優秀な人はどんな教え方をしてもそこに自分なりの解釈を加え、自分の中で定義づけ自分のもの(理解・手法)として昇華しているからだ。そうでなくては、同じ授業を受けて成績や理解に差が出るはずもない。
2026.07.05
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