全89件 (89件中 1-50件目)
おばあちゃんおれきづかないうちにおじいちゃんになってたよおばあちゃんげんきにしてる?よくけんかしたけどまたあいたいねこんどはおばあちゃんとなかよくはなしがしたいもうおじちゃんのじまんばなしやまんしゅうじだいのじまんばなしはきかないでいいよね
2013年04月01日
千鶴子さんへ母へもうこの3月29日という日は忘れていいのかもしれないあなたには2月15日という新しい誕生日ができたのだからでもね現世に生きる俺にはまだ小さな未練のような日付なんだよ 坂口良子が亡くなったというニュースがとびこんできたテレビには親子で坂口良子が映っていた生きてるじゃないかと思ったらテレビの左上に「追悼 坂口良子」と書いてあるやっぱり本当に亡くなったのか・・・昭和30年31年生まれはやはり同級生というか同志というかそういう感じってあるわけさ浅田美代子アグネスチャン麻丘めぐみ西城秀樹野口五郎郷ひろみ世良まさのり千代の富士江川卓掛布さんままだまだいると思うがやはり同級生が亡くなるのはさびしいものだ坂口良子訃報記事 孫3(3人目の孫という意味)はなんだか俺の小さいときにそっくりなんだ孫娘だから美人になることは間違いないが俺としてはあまり美人になってほしくない
2013年03月29日
3年前のタマ小さい頃は白いタマだったがだんだん大きくなるにつれて少し茶色の毛がふえてきました
2013年03月09日
【送料無料】新佐賀筑後難読地名さんぽ [ 石橋道秀 ]価格:2,100円(税込、送料込)著者石橋道秀さんは山代町大字城に生まれて小城高等学校を出て中央大を卒業して中学校の先生をした人だ昭和33年生まれだから中三トリオと同級生彼の書いたこの本はわがふるさとのことながら知らないことばかりだった俺の主観で好きなところだけを引用してふるさとのみんなにも読んでほしいと思った伊万里とは?大陸から伊万里湾に入ってきた渡来人から軍事上の拠点のひとつであった「吉野ヶ里」を守る要塞の一つであった可能性は否定できまいと、石橋くんは言っているのだ。小島と牧島のあの島同士が狭さおよび小島古墳をどうとらえるかが俺らにはおもしろい「こじま」の「コ」は小さい、「シマ」は「ソム」で地形の意味小島古墳が前方後円墳だったのはなぜか?伊万里湾を航海する海人を守護するとともに、侵入する外敵に対する示威行為であっただろう外敵を防ぐには神威を借りるとともに武力も必要であったその点鉄は重要であった製鉄技能は不可欠であった従って今岳河口から浦ノ崎にかけては製鉄集団が住んでいた可能性もある
2013年03月08日
鎌倉駅和田塚由比ガ浜鶴岡八幡宮小町通り御成通りこのくらいしか知らない鎌倉前回の瑞泉寺がすばらしかったものだから今回も観光地を中心に散策を試みたその記録である。鎌倉界隈スライドショー 1.鏑来清方記念美術館地図でてっとり早く見て鎌倉駅から近いところから巡ることにしたらここが一番になったわけだがまず漢字が読めない鏑来清方と書いて「かぶらききよかた」と読むらしい小町通りの商店街の人に聞いたけどあまり知らない関心が無い様子だった挿絵画家で成功した人らしく美人画に属するらしいが美人と思えるような女性はいなかったのが残念だ個人の好みにもよるのだろうが俺的には風間完の描く女性が美人像なんだ 2.川喜多映画記念館またこれ「川喜多」さんという名前もまったく知らないでいった鏑来清方記念美術館とは隣近所って感じで路地をひとつはさんだだけですぐわかった「監督大島渚&女優小山明子」特集とかがあってて映画ポスター中心の展示だったが十分に楽しめた「愛のコリーダ」とか「愛の亡霊」など西新の奥にあった映画館で見た記憶があるきみおやうたまろと一緒に見て映画館から出てきて西新の通りを歩きながら「きっつあ~~~ん」「おさだ~~~~~」と叫びながら帰ったことを思い出していた。写真を撮ってきてなかった。3.神奈川県立近代美術館ここは鶴岡八幡宮の境内にあって源氏池に隣接した以前から気になっていた場所だった「戦後芸術を切り拓く実験工房展」という催しがあっていた親父に見せたいような親父が若い頃描いていたような匂いのする絵画や彫刻だった今の俺には何か合わないと感じた写真展で武満徹と谷川俊太郎の写真があって昭和30年代の若者が生き生きとそしてノスタルジーっぽく写っていて印象に残った 4.鎌倉国宝館ここも八幡宮境内にあったのだが計画はしていたがいつでも来れると判断して行かなかった5.建長寺今回瑞泉寺的な期待をしていったのがこの寺だったお寺めぐりや神社めぐりを重ねていると入り口(門や鳥居あたり)でその場所が魅力があるかないかが直感的に感じるようになってきたあくまで個人的な好みによるものだが完全な観光=お金のにおいがする寺だった歴史がどんなにあってもどんなに美しく守られていても今そこにいる人たちの波動でお寺も神社も存在している宗教云々以前の問題があって俺は拝観料も払わず団体と一緒に奥へ行こうとしていたら男性から呼び止められて300円の拝観料を求められた公園で働く俺としたらこういうわがままで自己中なお客がいちばん印象がわるいごめんなさいね建長寺の拝観料係りの方お坊さんが大きな門の前で仰々しくお話をされていてそれを熱心に聞く人の群れまた別のお寺の中では旗をもった観光バスガイドさんが観光客の人に話をしていた 俺は何か感じるものを求めて歩いていたら懐かしい香りがしてきた白檀の木?詳しくはわからなかったが白檀の来のかおりだったんじゃないかな?写真をのせます 6.浄智寺石段が美しかった。庭園墓地を一周できるように道ができていたが岩肌と地蔵さまがおごりたかぶることもなく自然な状態で存在している感じがして気持ちが落ち着く感じだった。白人の若者に写真を撮ってくださいと下手な日本語で頼まれたので「OK!」と完璧な英語で応えた。 寺院のこともあるが鶴岡八幡宮から建長寺までの道この道は車では味わえない何かがあった。自転車での上り坂下り坂は快感だったよ。そして横須賀線を越えるところで北鎌倉駅がすぐ近くだということとその辺の地理事情には詳しいことを察知した次第である。 7.明月院(あじさい寺)葉祥明美術館の先が明月院だった。梅紫陽花四季折々の花々の美しさがお金になる人を癒すまそのバランスをうまく保ってるのが明月院なのかもしれない。もちろん紫陽花は枝ばかりだった。 時計を見ると2時半だった。お腹がすいていた。小袋谷のとんでんをめざした。家族で何度もきたことのあるファミリーレストランだ。イカの刺身、イカの一夜干、イカ天うどんを食べた。 8.浄妙寺再び鶴岡八幡宮まで戻り今度は鎌倉南部の寺をめざした。浄妙寺。紅色の梅が美しかった。日が西に傾き始めた。 9、報国寺お寺らしいお寺だった。竹林がきれいだった。お坊さんが駐車場にチェーンをかけはじめたので光触寺に行くのは断念した。 鎌倉界隈スライドショーおしまい。
2013年03月04日
横浜散策スライドショー午前8時半起床。9時頃チェックアウト。レンタサイクル「パノレン」をさがして中華街を歩き回る(ここから句読点省略とする)パノレンで電動式マウンテンバイクをかりる(1500円一日乗り放題)サイクリングセンターのおじさんのアドバイスで港の見える丘公園側から攻めることにする マリンタワーの前で地図確認道路に行列が並んでいるので「なにかイベントですか?」と係員にたずねたら料理を食べるための列だとわかった俺には理解できないライブとかコンサートのときの行列としか思えなかった1.港の見える公園工夫のない名前のつけかただと感じたそのまんまじゃないかでもそのまんまがなんとなくすてきに思えるのはなぜだろう?そんなことを考えながらレインボーブリッジはいつも京急リムジンバスからしか見たことがなかったので見れて少しうれしかった 2.大佛次郎記念館本名を「清彦」というのだそうだ。それだけで親近感がわいた。彼の著書は1冊も読んだことがない帰ったら図書館で借りてきて読もうと思った 3.県立神奈川近代文学館ここはすごく気に入った!まだずっといたかったが今日の目的は横浜観光地全政略だったのでまた来よう!と思って立ち去った 4.横浜外国人墓地墓があるだけだった 5.ブリキのおもちゃ博物館なつかしいおもちゃがあった写真に撮った 6.元町公園公園が谷底のような場所で自転車でいったら帰りがきついと思っていくのをやめたまわりの家の豪華さが由比ガ浜界隈の豪邸とはスケールが違う金のあるひとってたくさんいるんだなあと感じた7.イタリア山庭園スケッチされてる女性がいた富士山がすぐ近くに見えた地元の人らしき人にどのくらいの距離かたずねると100キロくらういですと教えてくれた横浜~富士山って近いんだと知った JR石川町駅まで坂道を疾風のように降りていった寒かった適当に走っていたら横浜スタジアムが見えたので安心ファミリーマートで肉まんを買って店の前で食べた有名人でないって本当にいいなあと感じた8.横浜港大さん橋(くじらのせなか)くじらのせなかの広いこと自転車乗り入れ禁止だったからしかたなく歩いた歩いた両親と娘の3人に写真撮りを頼まれた富士山と一緒にお願いしますということで家族にはイタリア山庭園からの富士山がもっと見えますよと教えたら喜ばれた 9 象の鼻公園鳩の恋人なのか夫婦なのかすごく仲良くうらやましかった 10.赤レンガ倉庫やたら人が多い広場ではアイススケートリンクが設立されてみんなが楽しんでいた 俺は赤レンガ倉庫だから単なる倉庫だと思ってたら大間違いだった中に入るとなんだこの人間どもはというように隙間もないような人だかりで伊万里くんちも山笠も博多どんたくもかなわないような人間の群れだった表のかわいいお姉ちゃんに観光するとこないかたずねるとショッピングするとこばかりですと教えられその女の子の笑顔だけが赤レンガ倉庫の思い出にしようと思った二度と行きたくない! 11.サークルウオーク丸い道エレベーターに自転車詰め込みここをぐるぐる自転車で走っただって横断歩道がなかったからしかたがなかった降りるときは階段を自転車かかえて降りた 12.横浜コスモワールド桜木町から見てた観覧車ここだったのかときてみたらたしかに巨大な観覧車だった下にはジェットコースターも走っていたどうでもいい場所だったが人は多かった 13.汽車道(きしゃみち)ここはよかったまたきてもいいゆっくりあるきたいかもここでカメラの電池が切れたそれから北仲橋を渡り桜木町を右に見ながら馬車道駅を通り神奈川県庁前を通り(警官がたくさんいたけどなにかあったのかな?9NHK前を通り中華街に着きこの横浜散策を終えたのであるおしまい 横浜散策スライドショー
2013年03月04日
【送料無料】新佐賀筑後難読地名さんぽ [ 石橋道秀 ]価格:2,100円(税込、送料込)著者石橋道秀さんは山代町大字城に生まれて小城高等学校を出て中央大を卒業して中学校の先生をした人だ昭和33年生まれだから中三トリオと同級生彼の書いたこの本はわがふるさとのことながら知らないことばかりだった俺の主観で好きなところだけを引用してふるさとのみんなにも読んでほしいと思った伊万里とは?大陸から伊万里湾に入ってきた渡来人から軍事上の拠点のひとつであった「吉野ヶ里」を守る要塞の一つであった可能性は否定できまいと、石橋くんは言っているのだ。小島と牧島のあの島同士が狭さおよび小島古墳をどうとらえるかが俺らにはおもしろい「こじま」の「コ」は小さい、「シマ」は「ソム」で地形の意味小島古墳が前方後円墳だったのはなぜか?伊万里湾を航海する海人を守護するとともに、侵入する外敵に対する示威行為であっただろう外敵を防ぐには神威を借りるとともに武力も必要であったその点鉄は重要であった製鉄技能は不可欠であった従って今岳河口から浦ノ崎にかけては製鉄集団が住んでいた可能性もある
2013年03月01日
埼玉のtoshi,さんが製作してくれたYou tubeです。俺の青春の写真が並んでいる。バックで弾いてるギターは三男である。
2012年11月20日
千鶴子遺影 2012年3月14日から2012年10月15日までの母の七ヶ月間をここに簡単に記録しておく。2012年(昭和24年)3・14立石医院の医師が僕と直接話したいという電話を母がしてくる。立石医院の西田医師によると腹水がたまっているので総合病院での検査が必要とのこと。福岡市東区の和白病院で検査することを伝え紹介状を書いて頂く。午後、細君と母をむかえにいく。13:00福岡発。15;00楠久津着。18:00福岡着。表情がなかった母が高速でもどってくるうちに少し安心したのか表情がやわらかくなってくる。夕飯をウエストでうどんを食う。細めんのつけ麺うどんを美味しいと食べる。3・15和白病院へ。母、CTの検査後、はじめての点滴を受ける。母が2時間点滴を受けてる間に医師に呼ばれて・卵巣癌の可能性が高いこと・腹水が腹部胸部にたまってがん細胞が播種していること・和白病院には婦人科がないため浜の町病院を紹介するの3点を告げられる。夜母はすこぶる元気に夕食をとりお風呂にもはいる。3・16浜の町病院へ。安永医師から卵巣癌および腹膜癌であることを告げられ1.化学療法(抗がん剤治療)2.緩和ケアのどちらかの選択をせまられる。1の化学療法を選択し、入院が決まる。3・27腹水を抜く。胸部の水も抜き、癒着剤をつめる。3・28化学療法の1回目。3・29母、80歳の誕生日。誕生日プレゼントは昨日の抗がん剤だと言うと笑っていた。看護士さんたちからさまざまなお祝いをしていただく。 4・2伊万里市役所にいき、母の住民移動の手続き。4・3母、福岡の住民となる。介護保険の申請をする。4・42回目の化学療法(抗がん剤治療)4・9ケアプランセンター東部に連絡。介護の準備にはいる。4・18採血の結果、白血球の数値が低く化学療法を見送る。4・20一旦、退院する。4・24再入院。4.252クール目の1回目の科学療法。 5・1さつき(曾孫)誕生。5・7退院。5・11通院抗がん剤治療。2-25・21CT検査。5・25通院抗がん剤治療。3-15・29篠栗南蔵院参拝。 6・4通院抗がん剤治療。3-26・11通院抗がん剤治療。3-36・22二度目の南蔵院参拝。南福岡駅から博多駅まで新幹線にのる。博多駅を散歩。ルクルで帽子、夏用の服を購入。6・25科学療法・4-1伊万里ちゃんぽんを食べる。(金の隈) 7・2科学療法。4-2ルクルにておむれつを食べる。7・4青葉デイサービスとの契約。7・9科学療法スキップ。白血球2100のため。昼、親子丼完食。夜、釜あげうどん完食。河原歯科にて入れ歯の調整をしてもらう。7・10河原歯科で歯全体のそうじ。昼、トリアスで定食。夜、野菜天ぷら定食。食欲旺盛!7・23科学療法・5-1 8・6科学療法。5-2昼、伊万里ちゃんぽん河原歯科で歯のそうじ。8・15ことね(曾孫)誕生。8・208月6日の抗がん剤が効いていないことがわかり入院して、別の抗がん剤に変えることを提案されるが母、入院と抗がん剤を断る。 9・3安永医師に対処療法=緩和ケアについての簡単な話を受ける。(結果的にはこの日が安永医師との最期となる)大久保看護士から詳しく対処療法緩和ケアについての説明を受けて帰る。9・10浜の町病院にぼくひとりで原土井病院への紹介状をもらいにいく。9・14原土井病院へ。山下医師に挨拶しレントゲンを撮ってもらい特に異常は認められないと告げられる。9・21母便秘して食欲がないとのこと。9・25原土井病院へ。レントゲン、CT検査の結果腹水が大量にたまりがん細胞の転移体力の減退のため入院をすすめられる。入院用の靴を買いトリアスで化粧道具を大量に購入。9・26原土井病院東病棟305号室に入院。水を抜いたせいか表情が明るくなっていた。9・27病室から文化幼稚園の運動場がみえ僕の家の前にある緑色の集会所の三角屋根が見えることをすごく喜んでくれる。9・28お月見コンサートに出て、看護師さんとふたりで写真撮影。(これが最期の写真になった)9・30ゆうた家族見舞ってくれる。10・1~10・15までは前回書いたので省略する。10・15午後7時頃 死去。 母よ、このブログ記事が俺のあなたの初七日忌である。心をこめて供養しているつもりだがいかがなものであろうか?
2012年10月22日
親父のときの記録はない。ブログなんてのも知らなかったし記録なんてのを書く余裕もなかったのか・・・おふくろの場合は少し意識してメモ程度の記録を残した。それをここに書き残すことにする。母が入院する頃の記録10月1日(月曜日)朝。母の表情が薄い。言葉数が少ない。視線がうつろ。午後3時。山下医師と面談。病状の進行について。薬が飲めなくなった場合について。食事がとれなくなった場合について。最期のときの対応について。残りの寿命2週間と告げられる。青葉南斎場「彩苑」にいき会員になり葬儀関係資料をもらってくる。10月2日(火曜日)スイミング前に病院へ。表情は比較的おだやか。クロールと平泳ぎの特訓。スイミングをおえて再び病院へ。ソファーで昼寝。夕方細君と彩苑にいく。散髪をする。10月3日(水曜日)夕方玄米ジュースをもっていく。葬式について母と話す。・死に装束について・白い靴下について・位牌について・斎場を決めたことについて・葬式は基本、家族葬にしようということについて夜佐代子オバサン(親戚)と忍おばさん(母の妹)に余命2週間と医師に告げられたことを電話で伝える。10月4日(木曜日)出勤前に病院へ。玄米ジュースを美味しそうに飲む。10月5日(金曜日)佐代子おばさんミエコねえちゃん幾兄ちゃん康子さんが見舞ってくれた。10月6日(土曜日)広島からショウタ(三男)がもどってきてショウタしおりちゃんことねが見舞う。ことね(8月15日誕生)に初対面してすごくよろこんだそうな。10月7日(日曜日)忍おばさんなるみさん見舞ってくれる。ユウタあずさちゃんけいごさつき見舞う。僕は仕事がおそくなり夜見舞えず。10月8日(月曜日)幻聴・幻覚がはじまる。言ってることが意味不明。病院でなく自宅に居るという感覚の話し方。廊下に誰々が来ているなど。10月9日(火曜日)休日。スイミング。クロール背泳午後病院へ。母の病室のソファーで昼寝。「いびきかきよった?」「よ~ねとったね」腹水がたまり苦しそう。夜高木さん(父の友人)から電話。10月10日(水曜日)トイレを汚したと早朝(朝5時頃)細君に電話あり。看護士さんに連絡することにまだ抵抗があるのだろうか?腹水を1リットル抜いたそうで夕方病院にいくとさわやかな表情。10月11日(木曜日)腹水を抜いたことと薬のせいか表情が明るい。だが会話が支離滅裂。テンションが高いのも少し気になる。10月12日(金曜日)病院に母のアルバムと死に装束をもっていく。あと棺にいれてほしいというお寺からのいろんなもの。葬式に飾る写真を既に決めていたが再確認する。はじめて紙オムツをはいて昨夜寝たそうな。10月13日(土曜日)俺の体が疲れて仕事を休む。ずっと寝ていた。母の食欲がなくなった。薬を飲むのが辛そうだ。薬をバリバリ噛んで飲んでいる。飲み込むとき目を閉じて必死の様子。10月14日(日曜日)俺の体がきつい。母も苦しそうだ。薬を飲むとき寝ながら飲む。スプーンで砕いて飲ませるが全部飲むことができなかった。俺達が帰る前にトイレにいきそれから歯を磨く母。10月15日(月曜日)朝、9時半母の年金を銀行からおろす。聴力検査のためすが耳鼻咽喉科医院にいく。右の聴力は絶望的状態。左の耳も徐々に聴力が落ちていくとのこと。昼山下医師と廊下で立ち話。「あとどれくらいですか?」「2,3日だと思います」「苦しそうだからなんとかやわらげてください」「わかりました」その後母の病室で「ボブ・ディランを語りつくせ」を読みながら昼寝。午後4時半目覚める。母は静かに眠っていた。看護士さんがきたので「母が眠っているので自宅に戻ってまたきます」「わかりました」帰ろうとすると眠っていると思っていた母が右手を左右にふる。「おきとったと?ねとるておもったけん一度帰るね」母、軽くうなずく。夕食にカレーを食べ6時半細君と病院へ。母、右向きに寝て目を閉じて呼吸が夕方とはちがっていた。明日、あさってには最期のときがくるかもしれないと思いながら「また、明日の朝、来るけん」と言って病室をでる。ふりかえると妻が母の手を握りなでながら「明日また来ます」と言ってた。病院からジャスコへいく途中香椎のところで携帯がなる。病院からであった。「血圧が急にさがり危険な状態になりました」「危篤状態ということですか?」「はい」「あとどれくらいでしょうか?」「2,3時間だと思います」「わかりました。すぐ病院にいきます」「どれくらいで来られますか?」「20分くらいで来ます」病院に着いたのは7時半。細君が病室に先に入ったが俺が入ると声を出して泣いている。看護士さんの話だと電話をしている間に亡くなったそうだ。やすらかな表情で眠っている母に「よくがんばったね。ありがとうね」と言ったと思う。7時55分当直の医師がきて志望を確認する。志望時刻は7時55分なったが実際に亡くなったのは7時10分~7時15分頃だと思う。母、死去。享年81歳。おかあちゃん、よくがんばったね。おかあちゃん、おれをうんでくれてありがとう!再見! 「み」さんの写真より
2012年10月19日
ゆうやけはゆうやけのままにしのそら 百二十五年物語よいつ再開するのやら・・・・・
2011年07月21日
祖父清吉が亡くなったのが1962年6月13日だった。あの日は暗い雨が降っていた。おれは小学一年生だった。2011-1962=49年仏教界ではなんでもプラス1が好きなようで人が亡くなって49年目を「50年祭」(50年さい)と言うのだそうだ。(おふくろの話だから・・・)3年忌とか7年忌とか呼んできたのが50年過ぎた時点で「忌」から「祭」になるそうなのである。あの世からその上の天上の世界にいくようなイメージなのだろうか・・・ぼくはこれは仏教界の「まやかし」だと感じているがおふくろの信仰を否定することになるからおふくろの話をただ聞くだけにした。 おじいちゃんおれおじいちゃんと暮らしたのはたった7年だったけどおれおじいちゃんのおもいでたくさんもっていきてるからおれおじいちゃんのことほこりにおもってるからおれ清吉の孫に生まれてきてよかった比古太の息子に生まれてきてよかったあと少しまだ努力たりないけどこっちでもう少しがんばって生きてからそっちに行くからまた会おうな!きっと会おうな!草原に敷物を敷いておにぎりを食べるなんていいと思わないか?又衛おじさんにも会えるよなおばあちゃんにも会いたいよ!みんなで会おうな!ペスもよんでペスとも遊びたいよ! 「紫陽花忌」とは比古太がつけたと今日はじめて知った。風鈴縁側で 孫ひざにだき おじいさん真っ赤な夕焼け ながめているよかたわらで ウリの皮むく おばあさん甘い香りがしています チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ浴衣着て 庭に水まく おとうさんまだまだ咲かない 月見草なつかしい歌を歌って おかあさん食後のひととき ながれているよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ チリリン チリリン 風鈴なってるよ(1977・6・4)
2011年06月13日
椿の種類にワビスケというのがあることを知ったのもつい最近です。そのワビスケという花を親父が好きだったということを知ったのも最近のことなんです。詫助(ワビスケ)
2011年03月16日
息子がブログにつづいてホームページを開設したそうなので親として応援してやりたい。PCレスキューホームページ
2011年03月07日
長男が仕事の延長上でお客から相談されるのがパソコンの基本的なことだそうで「PCレスキュー」ということも人の役に立つのではないかと福岡界隈中心としたブログを立ち上げたところ地元の人からはもとより大阪の方からも相談や依頼が出てきたそうである。 息子の仕事の応援をします。どうぞ、利用してやってください!PCレスキュー
2011年03月02日
長男が仕事の延長上でお客から相談されるのがパソコンの基本的なことだそうで「PCレスキュー」ということも人の役に立つのではないかと福岡界隈中心としたブログを立ち上げたところ地元の人からはもとより大阪の方からも相談や依頼が出てきたそうである。 昨晩、夕飯を食べにきて会話。長男「親父のブログはどのくらいのアクセスがあると?」おれ「2000くらい」長男「2000も!!!」おれ「5年つづけてるけんな」長男「5年もしよると?」おれ「うん」長男はi-Phonをのぞきながら長男「すごい!8位やん」おれ「それは楽天だけの順位やろ?普通は10位から15位の間やね」長男「ばってん、すごかやん!」おれ「おまえのパソコンレスキューも宣伝しちゃろうか?」長男「して、して!どんどん宣伝して!」それから俺のブログの数の多さに驚いてあきれた様子であった。(内心、俺だってこの数の多さにはうんざりしてるさ)それから。この機会にとIDとパスワードを書いた手帳を見せて「お父さんが突然死んだときには、埋もれ日のアンソロジーにだけでいいけんが、『長い間親父がお世話になりました』ってお前が書いてくれ!」と頼んだ。長男は、複雑そうな顔をしていた・・・ま、それから長男からあれこれ教えてもらって別れた。約束なので伊東ゆかり特集の途中なのだが息子の仕事の応援をします。どうぞ、利用してやってください!PCレスキュー↑あれ!今見たら、ブログの写真を更新したらしい。夕べまでは上のような写真だったんだ。ま、いいか・・・。「埋もれ日のアンソロジー」ファンの全国1660万人の皆さんへ!飛んでいってtwitterをクリックしたりコメント書いてやって励ましてくださいよ!(就職活動をはじめたコックンより)
2011年02月28日
親が死ぬまでにしたい55のことという本を読んだ。深い意味はないけど読んでおふくろのことおやじのことじぶんのことむすこたちのことあれこれ考えさせられたんだ。
2011年02月27日
比古太が亡くなって8年の歳月が過ぎた比古太の大好きだった映画「ひまわり」あなたのことを思いながらつくってみたヒマワリの海
2011年02月13日
比古太に見せたかったYou tubeや絵本も「百二十五年物語」の中にのせてもいいだろう!
2011年01月28日
比古太の写真を使ってつくったYou tubeがあります。それをのせておく。歌は、比古太が大好きだったイワン・レブロフこの歌を聴きながらよく絵を画いていました。
2011年01月28日
引揚船 信濃丸
2011年01月22日
国見に積もったかすかな雪竹の古場のほうの風景縄屋の倉庫を中心とした風景比古太の残影RAKUTEN FARM錆びた鉄棒と白い橋
2011年01月17日
この絵本ガブリエル・バンサン著アンジェールある犬の物語この絵本は比古太に見せたかったなあ~
2011年01月14日
大連の街から
2011年01月07日
大連の街並み
2011年01月06日
旧満鉄本社跡
2011年01月06日
祖父よ父よこの歌を俺は満州鉄道社歌を聴いてるぜ!昭和86年なう!
2011年01月05日
息子らよ!2011年になってしまった。おまえらはそれぞれ27才、25才、21才となり俺は56才になる。お前らの祖父であった比古太が亡くなって8年。お前らの曽祖父である清吉が亡くなって半世紀が過ぎた。1885年から計算すると「126年目」になるわけだがタイトルはそのまま「百二十五年物語」として今年こそ完結する気持ちで書こうと思うがまず今年最初はYou tubeにある満鉄、大連のアップから。おまえらに語りかけるつもりで書いてゆくが道をそれる場合があってもそれはそれでいいだろう?
2011年01月04日
今年も一年間ありがとうございました。来年もよろしお願いいたします。
2010年12月30日
比古太が生きていたら見せてあげたいYou tubeがあたくさんある。もちろん祖父清吉にも見せてあげたい。もうそんな地上への執着は消えた頃だろうけど。
2010年12月29日
大連 南満州鉄道株式会社本社屋跡と隣接の資料館 BBSとか読んでいなくてBBSにコメントくださった皆様ありがとうございます。そして失礼しました。長七さんが貴重なYou tube資料を教えてくださった。謝謝。
2010年12月28日
長男宛の絵手紙しかないのがさびしいが「ある」だけでも感謝かな・・・
2010年12月27日
孫への手紙ー2-
2010年12月27日
比古太から孫への絵手紙である。孫への手紙
2010年12月27日
切手の話
2010年12月27日
2002年9月に胃癌手術。翌月10月退院。生還したという喜びで10月、11月を過ごす。12月師走には再び体調が悪くなり2003年1月再入院。抗がん剤治療を拒否。2003年2月13日永眠。比古太には時世の句などというのはあるのかないのかどれなのかわからないんだがこの3枚の絵が結果的には最期の絵になったわけだ。3枚の絵とも写真ではわかりにくいと思うが葉っぱはぜんぶ紙なんだ。貼り絵になってるんだ。上等じゃない糊を使ったのかはがれるから時々貼ってあげないといけないんだ。
2010年12月24日
楢ノ木大学士の野宿この物語をあなたに紹介できなかったことを悔やんでいるよ。鉱物が大好きだったあなたにはおもしろくておもしろくてたまらない物語だったことだろうと想像しているよ。あなたが集めた鉱物や化石がはいった木箱たしか・・・どこかに寄付したような気がする。
2010年12月23日
宮沢賢治の「虔十公園林」を比古太に紹介したときの反応は今でも覚えている。あらすじを聞いた比古太は「その本、送ってくれ」だった。あまりの素直な反応に少し驚いたが福岡で絵本をかって郵送した。比古太は数年後「天神の杜」というのを設計して土木作業に入った。死を予感していたのか最後の活動という想いがどこかにあったのかもしれない。キャンバスや紙のうえに描いた絵などよりも虔十の公園林のようなものに強い憧れがあったのだと思う。たしかに「天神の杜」は本光寺の敷地であるが神社の様相を呈しているので永遠的な比古太作品になるような気がする。
2010年12月22日
大連の街から こんな大連で検索できるYou tube親父に見せてやりたかった。
2010年12月21日
大連市清吉が住んだ町が大連であり、そこでツナと再婚し、又衛と比古太が生まれた。この大連という町について知ろうと昨夜の「坂の上の雲」を見ながら思った次第。
2010年12月20日
南満州鉄道南満州鉄道株式会社南満洲鉄道株式会社、みなみまんしゅうてつどう、通称 満鉄は日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州(中国東北部)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、そちらが事実上の本社となった。また東京市麻布区麻布狸穴町[1]に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。「日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され」ということは清吉はいったいいくつで大陸に渡ったのだろう?それがわかったからといって全部謎がとけるわけではないのだが・・・。1906年。清吉21才。年齢的には、自分の命運をかけて大陸へ渡るにはいちばんいい年令のように思うのだが・・・。
2010年12月10日
日露戦争1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。1904年、清吉19才。日露戦争に兵士として出兵した話は聞いていない。日露戦争を考えなかったらぼくの想像では19才の清吉はすでに南満州鉄道に従事していたと思うのだが・・・。高学歴があったとも聞いていないからその清吉が大連で高い地位につき小銭を貯めたには何かの要因があるはずなんだがそれがわからない・・・。 とにかく清吉19才、20才の頃日露戦争があったことをここに刻むのみである。 この写真が清吉の19才20才の頃のような気がしないでもないがこの格好はモダンだな~。どこの学生だったんだろう?
2010年12月09日
軍神広瀬武夫は生まれ故郷の大分県竹田市で神社になってるとは知らなかった。さあ、あと数分後には「坂の上の雲」の第2部がはじまる。あの番組から様々なことを学んでいる。広瀬中尉
2010年12月05日
比古太は戦争を恨んでいた。自分の運命を180度変えただけでなくふるさとまでもを奪った戦争を。しかし、「広瀬中尉」の歌を口ずさんだことがある。俺は興味なかったので聞き流したが今となっては悔いが残る。あの歌が文部省唱歌などとは知らず比古太にとっては小学校で習った歌であり「全部歌えるぞ!」と言って勇ましく歌う比古太の歌を聞き流す息子だった・・・。広瀬中尉
2010年12月05日
日清戦争1894年~1895年明治27年~明治28年日清戦争とは、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。清吉の生誕を1885年と仮定してこの話を書いているゆえ清吉9才~10才のときの戦争である。いくつか年下の弟キヨマツその下の妹八重が生まれているから兄弟姉妹4人両親がどのような人かはわからないが神戸須磨区界隈で穏やかに暮らしていたのか?それともいわゆる「造り酒屋」が傾いて経済的に厳しい状況だったのかはわからない。数多くの大連での裕福な時代の写真は残っているが神戸時代のものは家族で帰省した際に奈良公園などを旅したときの写真が残っているだけだ。
2010年12月04日
小説「坂の上の雲」を読んだのは25才前だった。25才か26才のときには横須賀の戦艦「三笠」をたずねた。あの頃は、祖父清吉のことを思ったことはなかった。父比古太には「坂の上の雲」のことを話したことがあるが「なぜお前が日露戦争の物語に夢中になるのか?」と疑問を投げられた記憶がかすかにある。僕にとって「坂の上の雲」はヒーロー物語にすぎなかった。秋山兄弟、正岡子規の3人という伊予人のヒーロー物語だった。今回、NH系テレビで再放送を見ながら思うことは祖父清吉と日清戦争祖父清吉と日露戦争のことばかりである。なんの手がかりも残っていないが年代をたどることによって清吉が生きた時代をたどってゆきたい。日清戦争価格:777円(税込、送料別)
2010年12月03日
この「百二十五年物語」を書く目的を今夜は記録しておく。主人公は僕の祖父清吉(せいきち)である。1885年か1886年に生まれて1967年6月13日に亡くなった僕の愛する祖父が主人公である。ただ、1885年か1886年も曖昧であるように清吉の誕生日もわからぬ。その生い立ちや満州での仕事などまた父親としての清吉のことなど祖父が日記を書いてたわけでもなく何もわからんのだ。清吉のことを話してくれた親父比古太(ひこた)も7年前に死んでしまった。僕は清吉のただひとりの孫として来年55歳になる。そんな何もわからない中で何を書くのか・・・何を書くのかわからない。わからないが知ってることを書くにすぎない。わかったことを書くにすぎない。何のために。清吉ー比古太ー僕ー三人の息子が貧乏なバトンリレーしているような感覚なのだが僕としては清吉を三人の息子の中のだれかに伝えたいそれがこの「百二十五年物語」を書く動機になっているのだ。我が家には家系図があるわけではない。そういうものを嫌ってきた空気の中で育ってきた。そういう話もしていくが清吉を語る上ではその周囲の脇役たちのことを語ることができる。それらが昨日の登場人物一覧表になっているのであるがこれを書くにあたって思うことは人間はみなどこかでつながっているということ。広大な宇宙の小さな星のその星の島国と大陸を行き来した清吉とその孫である僕が「百二十五年物語」をこれから構築していくのである。家を建てるときは柱から建てるのかもしれないがこの物語はいきなり屋根瓦から作ったり、トイレから作ったりするお話である。1885年から来年2010年までを区切ってとりあえず「百二十五年物語」というタイトルにしたがこの話が完結するのが5年先になった場合は安易に「百三十年物語」とかえればいいだけである。はやく「おしまい」と書いて、この物語を三人の息子に捧げる。と、書きたいものだ。
2010年11月11日
昼寝の夢に比古太がでてきた。新幹線にのっていた。行き先はどこかわからなかったが「おい、東京に行こう」「なにしに?」「美術館を案内しろ!」「美術館・・・」「いいじゃないか」「・・・・・・」新幹線のグリーン車だったのかやけにゆったりとした座席だった。背もたれをおもいきり倒してリラックス状態で会話した。「タバコはすわんでいいと?」「タバコはやめた(あっちの世界で)」「ふ~ん」「おまえもやめたみたいだな」「7,8年前にやめた」「それが正解ぞ」「・・・・・」そんな他愛もない夢だった・・・
2010年11月11日
あいだの部屋の壁で関東の空気を吸いながら過ごしているヒコタの絵葉書たち・・・
2010年11月08日
ヒコタの絵がいろんなところで生きてゆけたらうれしいなあ~~~続・ぽかぽか
2010年11月06日
全89件 (89件中 1-50件目)