大阪維新の会が国政に打って出ようとしている。
維新塾にも3千人以上の応募者が殺到し、
来るべき総選挙には300人の候補者をたてる、とも言われている。
まさしく「維新の会」ブームであり、
今後の政治の焦点になる。このブームが続けば、次回の総選挙では自民、民主ともに過半数を取れず、大躍進の維新の会との連立のあげく、
事実上、維新の会の政策を丸のみなどという事態も十分に考えられる。
国政に参加する場合の公約である「維新八策」として、
首相公選、参議院の廃止、道州制の導入、
脱原発、TPP参加などを唱えており、上のような事態になれば、刷新といえば刷新であるが、
大混乱といえば大混乱になりかねない。
確かに今日の日本を覆う閉塞(へいそく)感と、自民、民主の「二大政党政治」への強い失
望を前提にすれば、ともかくも行動力が売り物の維新の会への高い期待もわからないで
はない。
既成のシステムへの攻撃や破壊的なエネルギーが「何か」を期待させることも事実である。
しかし、それは 「何」
であろうか。
何を 期待させるのであろうか。
その「何か」は私にはよくわからない。
よくわからない以上、私は維新の会には大きな危惧の念を抱かざるを得ない。
それは原則的なものである。
維新の会の政策は、脱原発のように昨年の事態を受けたものは別として、
基本的には1990年代以来の「改革論」の延長上にある。
いや、それをもっと徹底したものである。
経済的にはグローバル化、市場競争主義、短期的な成果主義、
能力主義という新自由主義路線への傾斜であり、
政治的には、脱官僚化、強力な政治的リーダーシップ、地方分権、財政再建であり、
これらは、この十数年の「改革論」そのものである。
首相公選なども議論として目新しいものではない。
だから話はこうなる。
今日の日本の閉塞感は、自民にせよ民主にせよ、「改革」が十分に達成されなかった点
にある。
かくて、既成政党にはない斬新なエネルギーをもった平成の坂本龍馬たちならば一気に
「改革」を実現できる、というわけだ。
しかし考えていただきたい。
この十数年の「改革」は何をもたらしたのだろうか。
グローバル化のおかげで、日本経済は米中の景気に大きく左右され、
国際金融市場や商品市場での資本の投機に翻弄され、
個人主義的な市場競争化のおかげで地域格差や所得格差が開き、
雇用の不安定をもたらした。
その雇用の不安定化がが更なる少子化を招いたと
私は考える。
そして、政治改革は、確かに小選挙区によって二大政党制を生み、マニフェスト選挙を可能とした。
それで政治はどうなったのか。
この帰結が民主党政治であった。政治そのものが著しく不安定化し、
マニフェストはほとんど無意味であることが判明した。
二大政党政治は、選挙のたびに移り変わる民意を反映して衆参のねじれを生み
だした。
そもそも民主党の失敗の最大の原因は、
脱官僚主義、政治主導にあり、いってみ れば、
にわか作りの素人集団による政治の貧困ということに落ちついたのではなかったろ
うか。
維新の会への期待は素人集団による、あるいはそれゆえの爆発力への期待である。
それは未知であるがゆえの期待である。
ここで「素人」というのは別に政策論がないという意味ではない。
従来の政党政治においては、党内実績や地元との交流、人間相互の信頼関係の醸成、
官僚との調整など時間をかけた積み上げが必要とみなされていた。
このプロセスをすべて省略して政治主導による合理的解法を見いだせるとする政治をこ
こでは「素人政治」というのである。