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(松川殿之毛拝所)沖縄県那覇市に「松川(まつがわ)集落」があり、集落の北部の丘陵地に「松川殿之毛拝所」と呼ばれるウガンジュがあります。この拝所がある敷地は「殿之毛(トゥンヌモー)」と称され「松川殿之毛拝所」は集落の守護神を祀る霊域となっています。首里王府時代に「殿之毛」北方から南西方向にかけて集落が形成され「茶湯崎村」と称されていました。清の官僚「徐葆光(じょほこう)」が1721年に著した「中山伝信録」には「松川」と記されており、松川脇地頭の所領地でした。明治初年に「松川村」と改称され、明治41年には「真和志村字松川」となりました。また、古くから「首里坂下」とも呼ばれてきた歴史があります。「松川殿之毛拝所」は「真壁・茶湯崎・安謝」の3村を管轄した「真壁(大あむしられ)」と呼ばれるノロ(祝女)が七神を祀り村の繁栄を祈願していました。(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)『賓頭盧尊神/じんずるそんしん』徳と救済・疫病祓いの神仏『土帝君/トウテイクゥ』土地と屋敷の神仏『金満善神』豊作と繁栄の神仏『御嶽火之神/ウタキヒヌカン』御嶽の根神、腰当神(クサティガミ)、祖霊神『東代御通し/アガリユーウトゥーシ』アマミクの世の神・アガリ世の神『中山御通し』首里親国御通し(遥拝所)『北山御通し』今帰仁あおりやへノロ、今帰仁世の神(松川殿之毛拝所/赤瓦屋根の上のシーサー)(殿之毛の石碑)(上之井/水神)「松川殿之毛拝所」の赤瓦屋根の上には一体のシーサーが鎮座しています。沖縄のシーサーは災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの役割がある他にも、幸せを離さない意味も込められています。「殿之毛」は現在「殿之毛公園」として整備され「松川集落」の人々の出会い、親しみ、賑わいを目的とした広場として活用されています。「殿之毛」と彫られた巨大な石碑をシンボルとして、旧6月の綱引きや旧3月の村遊び、更に沖縄相撲(角力)の他にも集落の諸行事の開催の場として「殿之毛公園」は住民の生活に欠かせない場所となっています。「殿之毛公園」には「上之井/ウィーヌカー」の水神を祀った祠が建立されており、祠内には古くから残るウコール(香炉)が設置されています。(上之井/ウィーヌカー)(前之井/メーヌカー)(サーター屋井/サーターヤーガー)「松川集落」は「今帰仁森/ナキジナームイ」を背景に、首里城の西側に位置しています。「殿之毛」の南側丘陵の麓には「上之井/ウィーヌカー」の井戸があり、手押しポンプが設置され、正面には魔除けの「ヒンプン」が井戸を守っています。この井戸から南側には「前之井/メーヌカー」があり、井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られ、同じく正面には「ヒンプン」が設置されています。さらに「殿之毛」の西側、坂下通りの松川交差点近くに「サーター屋井/サーターヤーガー」があります。「サーター屋」とはサトウキビを製糖する小屋の事で、製糖過程でこの井戸の湧き水が使われていました。井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、他の井戸同様に水の神を崇めて水の恵みに感謝する拝所となっています。(新屋敷/ミーヤシチの井戸)(新屋敷/ミーヤシチの賓頭盧神/ビジュル神)(新屋敷/ミーヤシチの拝所)「殿之毛公園」の西側駐車場に隣接する土地には「根屋/ニーヤー」と呼ばれる「松川集落」に最初に移り住んだ始祖の屋敷跡があります。現在は「新屋敷/ミーヤシチ」と呼ばれ、北側に向けられた3箇所の拝所が残されており「新垣家門中」と「豊村(旧姓新垣)門中」の土地となっています。敷地内には井戸を覆った祠があり、内部には石積みされた古井戸の穴が開いていて正面に霊石とウコール(香炉)が祀られています。この祠のすぐ後方にある別の祠内部には「賓頭盧神/ビジュル神」と記された霊石、もう1体の霊石、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。更に、この北側にはコンクリートのブロックでコの字型に囲まれた小型の祠がありウコール(香炉)が祀られています。(松川樋川/マチガーヒージャー入口)(松川樋川/マチガーヒージャー)琉球王国時代「松川集落」には綺麗な湧き水が多く、美人が多くいる場所として有名でした。「殿之毛公園」の北側で、首里城の西側に延びる尾根の南側丘陵に「松川樋川/マチガーヒージャー」の井泉があり、昔から『美人になれる湧き水』として地域住民に親しまれていました。この丘陵の下部は12〜14mの急斜面となっており、湧き水は主に泥岩で構成される豊見城層内から湧き出る地下水であると考えられています。「ノボホテル沖縄那覇」の敷地東側に「松川樋川/マチガーヒージャー」の入口があり、通路を進むとガジュマルの木の下に井泉が佇んでいます。この井戸は平面で見ると鍵穴型をしており、入口から2段の石段を下りた場所に広がる石畳みの踊り場は幅約1.2〜2m/奥行き約3.5mと細長く、両側は布積み(豆腐積み)の美しい石垣が積まれています。(松川樋川/マチガーヒージャー)(松川樋川/マチガーヒージャーの名板)(松川樋川/マチガーヒージャーの樋口)井泉の貯水槽は半円型で間口約1.9m/奥行き約1.5m/深さ約0.3mとなっています。中央の奥部は上下2段の張り出しとなっており、湧き水は下部の張り出しに設置された石樋を通じて流れ落ち、貯水槽の両側にはウコール(香炉)が1基づつ祀られています。「松川樋川/マチガーヒージャー」の踊り場や張り出しは実用的ではなく装飾的であるため、この井泉は地域住民が生活用水を汲んだり水浴びをしたムラガー(村ガー)ではなく、琉球王府の御殿や庭園の水場として造られたと考えられています。現在でも有名な『美女伝説』が残るこの井泉は「松川集落」では聖地と崇められ、多くの住民が線香を持ち寄り水の神に拝してるのです。
2022.06.17
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(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。(チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所)(現在の真嘉比川に架かる橋)現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。(真嘉比川に架かる橋の北側)(真嘉比川に架かる橋の南側)「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはし)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)「チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡」の直ぐ南側に同じ「真嘉比川」に架かる橋があり、この橋には現在「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」という名称が付けられています。1945年(昭和20)の沖縄戦の後「松川集落」は道路整備に伴い、元の「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の道は旧道となり橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年/昭和8に廃止)が新たな県道となりました。更に川筋も変えられて新しい道路も造られた事から、1953年に橋の位置も移動して新たな「茶湯崎橋/ちゃゆざきばし」が竣工されました。この橋の名称が刻まれた石版は橋が建築された当時のままで、那覇市歴史博物館の写真資料では彫られた橋の名称が当初は黒く塗られていた事が確認出来ます。(現在の指帰橋)(現在の指帰橋の橋名板)(現在の指帰橋/安里川/真嘉比川)「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」の南側で安里川と真嘉比川が合流する地点に「指帰橋/さしかえしはし」が架かっています。この橋の名称はかつて琉球王国時代に、この土地に実際にあった「指帰橋/サシケーシバシ」から受け継がれたもので、首里の儀保や山川を水源とする「真嘉比川」と首里の崎山や金城の周辺を水源とする「金城川」が合流し「安里川」の本流となる首里坂下に架設された橋です。造られた当初は木橋は近世になり石橋に改築され、現在は坂下上り口の元国道の地下に埋設されています。明治末期発行の「大日本地名辞書/第八巻」には『指帰橋は首里坂下安里川の交流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故になづく』と記されています。(現在のさしかえしはしの橋名板)(真嘉比川と安里川の合流地点)(指帰橋の安里川の名板)新訳「球陽外巻/遺老説伝」第19話に「指帰橋」が次のように記されています。『遠い昔の時代、小橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋さしけーしばし/さしかえしばし」といいます。』
2022.06.12
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(慈眼院の獅子)うるま市伊計島の「伊計神社」を訪れた際に「伊計ノロ」の中村ユキ子さんに出会いました。神人(カミンチュ)の中村さんは「伊計権現堂」で神のお告げを聞き、私に「首里十二ヶ所巡り」をするように伝えてくれました。那覇市首里にある四つの寺に十二支が祀られており、自分の干支のみならず十二全ての干支を参拝するように勧めてくれたのです。十二支あっての自分の干支であり、四つの寺で祈る事で次の扉が開くと教えてくれました。(慈眼院/首里観音堂)(慈眼院の石碑)「首里十二カ所巡り」とは那覇市首里にある四カ所の寺院に祀られている十二支の守り本尊を巡拝して、健康や開運を祈願する琉球王国時代から大切に継承される首里伝統の風習です。「首里十二支巡り」や「寺回り(テラマーイ)」とも呼ばれ現在でも多くの参拝者が沖縄県内のみならず日本全国から祈りに訪れます。琉球王国時代より寺院は王府に大切に保護されてきました。現在は十二支を守護する全八体の仏像が首里にある四つのお寺に祀られています。まず一つ目の寺は那覇市首里山川町にある「慈眼院(首里観音堂)」です。(慈眼院本殿の本殿)(萬歳嶺記の石碑/観音竹)臨済宗妙心寺派萬歳嶺「慈眼院(首里観音堂)」の守り本尊と干支は「千手観音菩薩(子)」「虚空蔵菩薩(丑・寅)」「普賢菩薩(辰・巳)」「勢至菩薩(牛)」の四支です。「萬歳嶺(ばんざいれい)」とは「上(ウィー)ナチジナームイ」とも呼ばれていた首里台地の西端に位置する丘です。1617年に後に国王となる「尚豊」が国質として赴いていた薩摩から無事に帰国しました。首里に入港する船が丘から見えて「万歳」を繰り返した事から「尚豊」の父「尚久」がその丘を「萬歳嶺」と名付け、千手観音像を奉じ「観音堂」と「慈眼院」を建立しました。(大平山安國寺/仁王門)(安國寺本殿/不動殿)那覇市首里寒川町にある臨済宗妙心寺派太平山「安國寺」は、第一尚氏の第六代「尚泰久王」の時代(1457年)に開山した歴史ある禅寺です。「安國寺」の守り本尊と干支は「不動明王(酉)」です。「安國寺」はもとは那覇市首里久場川町に位置していましたが康熙13年(1674年)に現在地に移転しました。沖縄戦で寺院が焼失し住職も戦死しましたが、戦後に復興し現在に至っています。(安國寺/首里森十二支堂)(安國寺/観音菩薩)「安國寺」は県立首里高校と世界遺産の「玉陵(たまうどぅん)」に隣接した閑静な地域に位置しています。「尚泰久王」や次代の「尚徳王」(位1461~1469年)の時代には「護佐丸・阿摩和利の乱」や「鬼界島征服」が行なわれ、多くの人命が失われたことから「安國寺」創建の動機として、敵味方問わず供養を行ない善願をもって日々に願いを立て冥福を祈る目的があったと考えられます。また、世祖の冥福を修し当君の健康を祈るために造られた梵鐘にみえることから、戦乱の世を沈め平和を懇願する意図が建立に込められていたと思われます。(西来院/達磨寺)(達磨寺本殿)那覇市首里赤田町にある臨済宗妙心寺派「西来院(達磨寺)」の開山は菊隠宗意、山号は達磨峰、寺号は達磨寺です。1573~1619年に建立されたとされていますが、実際の建立時期はそれよりも前にあり「西来院(達磨寺)」の守り本尊と干支は「文殊菩薩(卯)」と「阿弥陀如来(戌・亥)」です。建立当初は那覇市儀保町ありましたが明治時代に現在地に移設されました。沖縄戦で消失しましたが直ぐに再建され「首里十二カ所巡り」や健康、開運、安産祈願で沖縄県内外から多数の参拝者が訪れます。(南無水子地蔵菩薩)(稲荷大明神)(ニ尊堂)「首里十二カ所巡り」は沖縄の言葉で「テラマーイ」と呼ばれ、自分の守り本尊(守護仏)を知り、今生に感謝しながら巡礼することを意味します。本殿には「達磨仏」の銅像が設置されており「なぜだるま」として長年に渡り参拝者に撫でられて祈願されています。「達磨寺」の境内には、観音様や水子地蔵が祀られたお堂があります。本殿前の鐘の脇を下りると正面に「稲荷大明神」の鳥居があります。その奥に弁財天と観世音菩薩が祀られた「二尊堂」や「金運神社」が建立されています。(盛光寺の仁王像)(盛光寺本殿)臨済宗妙心寺派「盛光寺」の詳しい建立時期は不明ですが、明治元年には那覇市久米に存在していました。明治の後期頃に現在の那覇市首里宜保町に移転しました。沖縄戦で消失してしまいましたが、十二代住職により再建され現在に至ります。「盛光寺」の守り本尊と干支は「大日如来(未・申)」です。「盛光寺」のニ階にある本殿には「釈迦如来坐像」が祀られており"今月のことば"として「本来無一物」と「親が拝めば 子が拝む 拝む姿の 美しや」と掲載されていました。(涅槃堂)(智拳印の釈迦如来坐像)「盛光寺」の一階には「涅槃堂」の納骨堂があり「釈迦如来坐像」が祀られています。「釈迦如来坐像」は「智拳印」の印相を構えています。「智拳印」とは「大日如来」独特の印相で、最高の智慧を表している姿だと言われています。右手が左手の指を包むような形は、インドで"清浄の手"とされる右手が「仏」を表し"不浄の手"とされる左手が「衆生」を表します。つまり「仏」の智慧が「衆生」を包み込むことを表しています。薄暗い納骨堂には「釈迦如来坐像」が醸し出す静かで優しい雰囲気に包まれていました。(宜保の南無地蔵菩薩)(盛光寺の石碑)「盛光寺」本殿の「本来無一物」とは「事物はすべて本来、空(くう)であるから、執着すべきものは何一つない」という事を意味します。「涅槃堂」の納骨堂の入り口には「宜保のお地蔵さん」と呼ばれる「南無地蔵菩薩」が祀られています。菩薩像の足元には二十六体のお地蔵さんが並んでいます。「涅槃堂」の正面に「心の内に仏あり」と刻まれた石碑があります。「首里十二カ所巡り」の最後を締め括る素晴らしい言葉で、私は「伊計ノロ」の中村ユキ子さんの言葉を思い出しました。「神に祈る事は人として自然な事だが、神は祈っても何かを叶えてくれる存在ではない。祈る人の心を変えるのが神なのです」
2021.06.02
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