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(ノロ墓)沖縄県うるま市に「神の島」と呼ばれる「浜比嘉(はまひが)島」があります。約2キロ平方メートルの小さな島には琉球開闢の祖アマミチュー(アマミキヨ)とシルミチュー(シネリキヨ)の夫婦神が暮らしたと伝わる鍾乳洞窟、アマミチューの墓、小高い丘のグスク、更に30ヶ所を超える御嶽や拝所が点在します。勝連半島から海中道路を利用して「平安座島」から浜比嘉大橋を渡ると「浜比嘉島」に到着します。「浜比嘉島」の入口のT字路を右に進むと「浜集落」、左に進むと「比嘉集落」があります。「比嘉集落」に向かう海沿いの道を進み「アマミチューの墓」の小島の手前に「ノロ墓」の標柱が立っているのが確認出来ます。(ノロ墓の入り口)(ノロ墓入り口の厨子甕)(ノロ墓の鳥居)この神秘的な「浜比嘉島」の「比嘉集落」には代々の「比嘉ノロ」が葬られた古墓があります。「ノロ(祝女)」とは沖縄本島や奄美群島の公的司祭者としての神女の事で、一つの集落ないし数集落の祭祀組織を統率していました。ノロの語源は「祈る、祈る人、神の意思を述べる人」などの意味で9世紀頃から人々の生活と共に存在していました。琉球石灰岩の石段を登ると鳥居が現れ、その先に「ノロ墓」が佇んでいます。この「ノロ墓」の周辺にはガジュマル、ソテツ、亜熱帯植物が生い茂り、木漏れ日が神秘的な雰囲気を醸し出しています。「ノロ墓」の入り口には遺骨を収納する厨子甕が置かれており、琉球石灰岩の岩門を通り抜けて石段を登ると「ノロ墓」の鳥居が現れます。(ノロ墓)(ノロ墓の斜め上にある古墓)(ノロ墓の崖下にある古墓)鳥居をくぐり更に急な石段を登ると正面に「ノロ墓」が佇んでおりウコール(香炉)が祀られています。「浜比嘉島」の「比嘉集落」の祭祀を司った歴代「比嘉ノロ」の御霊が眠る古墓は、珊瑚が隆起した琉球石灰岩の急斜面の中腹に位置します。「ノロ墓」に向かって左斜め上の斜面には自然ガマを利用した古墓があり、入り口はブロックが積まれて塞がれています。かつて風葬に使われたガマであると考えらます。更に「ノロ墓」に向かって右下側の崖下にも古墓があり、ガマの入り口はブロックで塞がれてウコール(香炉)が設置されています。この古墓の前方に蓋の無い古い厨子甕が置かれています。(按司の墓のガマ)(ガマ入り口の石棺)(ガマ内部)「ノロ墓」に向かって斜め右上に進む石段があり進むと崖の中腹に大きく空いたガマ(鍾乳洞)があり、鍾乳洞の入り口から差し込む太陽光が洞窟の奥を神秘的に照らしています。ガマ入り口には幾つもの霊石が祀られた「按司(あじ)の墓」の石棺が鎮座しており蓋の破損が確認出来ます。これは南側に隣接する「比嘉グスク」按司の石棺であると考えられます。「按司」とは琉球諸島にかつて存在した階位を意味し、琉球王国が設立される以前はグスク(城)を拠点とする地方豪族の称号として使われました。王制が整った後は王族のうち「按司」は王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)が就任しました。琉球国王家の分家が「按司家」と呼ばれるようになり、更に王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも「按司」が用いられました。(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)(ガマ内部の拝所)ガマ内部を進むと右側に拝所が確認されて幾つもの霊石が祀られています。そこから奥に進むと左側に6体の石柱と霊石が祀られて粗塩が盛られています。鍾乳洞の自然石を利用した6体の石柱が何を表しているのか不明ですが、沖縄の歴史で欠かす事が出来ない「御先の世・中の世・今の世」の3つの世と、沖縄を創造する「天・地・海」の3つの要素を意味していると考えられます。更にガマの奥に進むと大人が1人通れる穴が2つ空いており、その場所には石柱とウコール(香炉)が祀られてる拝所となっています。この地点まではガマの入り口からの太陽光が届きますが、この先のガマは右奥に進む為、光が途絶えて完全に暗闇に包まれます。(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)(ガマ奥地の拝所)そのまま大人が1人通れる程の穴をくぐり、太陽光が届かない暗黒のガマ奥地を進むと、右側に数個の霊石が祀られた拝所があります。この拝所の背後には鍾乳石の石柱を中心に霊石が祀られています。更にガマの奥地には幾つもの霊石が祀られている拝所となっています。この先もガマは続いていますが人が入れない狭さになり、実際にガマがどこまで続いているのかは不明です。このガマは「按司の墓」と呼ばれていますが、ガマ内部に祀られる幾つもの拝所はノロが拝する聖域とも、ユタが修行する霊域とも言われています。うるま市のカミンチュ(神人)もこのガマを拝むとも聞いた事があり、神の島「浜比嘉」のこのガマは神秘的な雰囲気を醸し出しています。(ガマ内部から見た入り口)(ガマの鍾乳石)(ガマから眺望するアマミチューの墓)ガマ、拝所、御嶽などの聖地には呼ばれる人が選ばれていると言います。このガマは順序を経て拝する必要があると私は考えます。ます「ノロ墓」の崖下に湧き出る「ハマガー」の聖水で身を清め、次に「ノロ墓」を拝します。葬られるノロに「按司のガマ」への立ち入りを許可された者のみ、本来ガマに迎えられます。ガマの奥地は非常に心地良い雰囲気に包まれており、瞑想をして魂を浄化する最高の聖地でした。ガマの出口からは神様により計算し尽くされたかの様に「アマミチューの墓」がある岩の小島が眺望できます。「ノロ墓」「按司の墓のガマ」「アマミチューの墓」の地理的バランスは、琉球の開祖である神様のみが創造できる仕業であり「浜比嘉島」が「神の島」だと呼ばれる紛れもない所以の一つなのです。
2021.01.01
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(赤犬子宮)沖縄県読谷村「楚辺集落」に「赤犬子宮」があります。歌と三線の昔始まりや"犬子ねあがりの神のみさぐ"と謳われるように「赤犬子」は琉球音楽の世界では唄三線の始祖として信仰されています。赤犬子は今からおよそ500年前、琉球王国が近隣諸国と親交や交易を深め、琉球文化の隆盛が築かれた尚真王(1477〜1526)時代に活躍した人だと言われています。(赤犬子宮入り口の石碑)「赤犬子宮」の入り口に石碑があり「歌と三味線の むかしはじま里や 犬子称阿がれ乃 神の美作」と記されています。「楚辺集落」の古老伝承によれば、赤犬子は大家のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じては三線を携え各地を巡り歩き唄三線を広めると共に先々の事を予言したり、唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ち帰った偉大なる人物と伝えられています。(赤犬子終焉之地の石碑)赤犬子宮には「赤犬子終焉之地」の石碑があります。晩年を迎えた赤犬子が生まれじまの「楚辺集落」に辿り着き、杖にしていたデーグ(ダンチク)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。毎年旧暦9月20日(昇天した日)に唄三線の始祖、五穀豊穣の神、村の守り神として崇めたて祀る「赤犬子スージ」が行われています。(赤犬子宮の殿)この地は昔から「楚辺集落」のウガンジュ(拝所)で「アカヌクー」と呼ばれています。赤犬子の母親であるチラーには可愛がっていた赤犬がいました。ある年、長い旱魃が続き村の井戸はすべて枯れ果てて村人は大変困っていました。ある日、赤犬が全身ずぶ濡れになって戻ってきました。赤犬はチラーの前で吠え立てて、着物の裾を口でくわえて引っ張って行ったのです。その赤犬は集落南側の洞窟に入って行き、暫くすると再びずぶ濡れになって戻ってきたのです。それから洞窟の中に水があることが分かり早魃をしのぐことができました。これが「暗川」発見の由来です。(米国陸軍通信施設/トリイステーション)赤犬が発見した「暗川」は現在、米国陸軍の通信施設トリイステーション(Torii Station)の敷地内にあります。さて、赤犬子の母親であるチラーはとても美しい女性で村中の若者の憧れの的でした。チラーには子供の頃からの許婿(いいなづけ)であった大屋のカマーがいて、二人の幸せそうな様子を妬んだ村のある若者が、嫉妬のあまりカマーを殺してしまったのです。チラーは愛するカマーを失った悲しさのあまり毎日泣いて暮らしていましたが、そんなチラーの悲しい心を慰めてくれたのが以前から可愛がっていた赤犬でした。チラーはカマーの子を身ごもっていたので、村の若者達は「婚約者だったカマーの子ではなく、赤犬の子を身ごもってしまった」という噂を村中に広めたのです。チラーは村に居る事ができず行方をくらましてしまいました。(赤犬子の案内碑)(赤犬子宮の敷地)その後、何ヵ年か後に両親はチラーが伊計島(現うるま市)に渡っているという噂を耳にして娘を訪ねて行きました。しかし、両親に逢うことを恥じたチラーは、男の子を残したまま自害してしまうのです。両親は悲しみながら我が娘をその地に葬って、男の子は一緒に楚辺村に連れ帰りました。この子は後に「赤犬子」と名付けられました。成人した赤犬子はポタボタと雨の落ちる音を聞いてひらめき、クバの葉柄で棹を作り馬の尾を弦にして三線を考え出しました。その後、赤犬子は三線を弾きながら唄を歌って各地の村々を旅して廻りました。これが赤犬子が唄三線の始祖と呼ばれる所以です。(北谷グスク)北谷町にある「北谷グスク」です。この山には赤犬子にまつわる僧侶「北谷長老」が祀られています。赤犬子は旅の途中、北谷村にさしかかった時に喉が乾いたので、水を乞うためにある農家に立ち寄りました。するとそこには4歳くらいの子供がいて「おまえのお父さんは何処に行ったか」と尋ねると「夜の目を取りに」と答えました。今度は「おまえのお母さんは何処に行ったか」と尋ねると「冬青草、夏立枯かりに」と答えたのです。(樹昌院)北谷グスクの東側には北谷長老が開山した「樹昌院」があります。さて、さすがの赤犬子もこの子供の答えの意味が分からずに、どういうことかと尋ねたら「お父さんは松明り(トゥブシ)取りに」「お母さんは麦刈りに」と答えたのでした。すっかり感心した赤犬子は再びその農家を訪ねて、両親に「あなた方の子は普通の子供より特に優れた知能を持っているから将来は坊主にしてやれ」と言い残して去って行きました。この子が後の僧侶「北谷長老」であったと伝わります。(嘉手納町)赤犬子は唐から麦・豆・粟・ニービラ(山蒜)などを持ち帰り、それを沖縄中に広めたと言われています。ある日、赤犬子が嘉手納地区を歩いている時に、道も悪く疲れていたので転んでニービラを落としてしまいました。それで赤犬子は「この土地にはニ-ビラは生えるな」と言ったので、嘉手納地区にはニ-ビラは生えなくなったと言われているのです。(中城若松の像)北中城村の若松公園にある「中城若松の像」です。この人物も子供の頃に赤犬子に出会っています。赤犬子が北中城村の安谷屋地区を旅している時に、大変喉が渇いたので近くを通りがかった子供に「大根をくれ」と言うと、持っていた大根の葉っぱも取り、皮も剥いで、食べやすいように切って赤犬子に渡したそうです。「この子供は将来きっと偉い人になるだろう」と言ったら、その子供は後の安谷屋グスクの城主「中城若松」になったのでした。(瀬良垣の海)これは恩納村瀬良垣の美ら海です。赤犬子が国頭方面を旅している時に、恩納村瀬良垣に差し掛かりました。その時にお腹が空いていたので海辺で船普請をしている船大工に物乞いをしたところ「あなたのような者に、私達のものを分けてあげることはできない」と冷たく断わられてしまいました。それで赤犬子は瀬良垣の船を「瀬良垣水船」と名付けました。(谷茶前節の歌碑)恩納村の谷茶前の浜には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑があります。赤犬子は瀬良垣を追い払われた後に谷茶に向い、そこでも同じように物乞いをしたのです。すると、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に赤犬子をもてなしてくれました。それで谷茶の船を「谷茶速船」と名付けたのです。その後、赤犬子が予言した通りに瀬良垣の船はいつも海に沈んでしまい、谷茶の船は爽快に水を切って走ったのでした。(赤犬子宮の鳥居)瀬良垣の人達は「あいつの悪い願いで船が沈むようになった。どこを捜しても見つけ出して、あいつを打ち殺さないといけない」と捜して楚辺村まで来ました。そこに赤犬子がいると聞いたので、棒や刀をあげて皆で赤犬子を殺そうとしました。現在の赤犬子宮がある場所に行くと赤犬子は、急に煙となって天に昇っていったそうです。瀬良垣の人達は棒や刀を持っていながら赤犬子を殺すことはできなかったので、赤犬子は神の子であり精霊だったという話が残っているのです。(赤犬子之墓碑)赤犬子宮の西側には「ユーバンタ」と呼ばれる浜があります。ユータティバンタ(世立ちの崖)とも呼ばれ「楚辺発祥の地」とも言われています。戦前までユーバンタ南東側は風葬が行われる一帯だったようで、現在は「赤犬子之墓碑」が建てられています。石碑には「歌 三味線之始祖 赤犬子大主之墓碑」と記されています。また「ユーバンタ」は魚群を発見するイユミーバンタ、旅立つ者を見送るフナウクイ(船送り)の地であり「楚辺集落」の神聖な聖地となっています。(艦砲ぬ喰えー残さー之碑)「楚辺集落」で決して忘れてはいけない人物が「比嘉恒敏(ひがこうびん)」です。比嘉恒敏は「楚辺集落」に生れ、1939年に23歳で大阪に出稼ぎに行き、その後妻と次男を大阪に呼び寄せました。1944年に両親と長男を大阪に呼びましたが、乗船したのが学童疎開船の「対馬丸」で米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈没して亡くなってしまいます。さらに、翌年3月の「大阪大空襲」で妻と次男が米軍の空襲で亡くなるという悲劇が重なりました。戦後、比嘉恒敏は読谷村に帰郷し再婚して再出発をしようとしましたが、故郷の集落は米軍の通信施設(トリイステーション)に接収され「楚辺集落」の住民と共に現在の楚辺地区に移らされたのでした。(石柱とユーバンタ)民謡をこよなく愛した比嘉恒敏は4人の愛娘たちに歌と踊りを教えました。舞台にも出て評判になり、1964年「でいご娘」を結成して本格的に活動を開始したのです。比嘉恒敏は民謡の作詞や作曲も手がけ、1971年頃に「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」を作りました。しかし1973年、比嘉恒敏(56歳)と妻シゲ(49歳)の乗った車に飲酒運転の米兵が突っ込み二人とも亡くなりました。事故の後「でいご娘」は活動を停止していましたが、亡き父の形見の歌を残そうと1975年にレコードを発売したのです。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は非常に強い反戦民謡であったため、当時の沖縄の人が決して口には出せない心の本音を代弁した歌として大流行したのです。(艦砲ぬ喰えー残さーの歌碑)「艦砲ぬ喰えー残さー」とは「艦砲射撃の喰い残し」という意味です。家族や親戚、友達や近所の方々が米軍の艦砲射撃により殺され、生き残った人は死ななかった自分に後ろめたさを感じながら貧困の中を必死に生き抜いたのです。比嘉恒敏はユーバンタの浜でよく釣りをしていたそうで「艦砲ぬ喰えー残さー」の歌詞やメロディはこの浜で生まれたといいます。現在「艦砲ぬ喰えー残さー之碑」はユーバンタの浜の南側に位置し、かつて海を覆い尽くした米軍艦隊からの艦砲射撃の嵐があった歴史を静かに我々に伝え続けているのです。米軍の艦砲射撃に"喰い残され"て生きた比嘉恒敏が、人生の最期に飲酒運転の米兵に"平らげられ"て殺された皮肉は悲劇以外の何ものでもありません。(ユーバンタの浜)沖縄では毎年3月4日は弦楽器「三線」にちなんで「さんしんの日」となっています。「赤犬子」に琉球古典音楽と舞を奉納する大切な日で主会場や県内外、海外各会場で琉球古典音楽の代表的名曲「かぎやで風」等が盛大に演奏されます。 赤犬子宮では「さんしんの日」に琉球古典音楽と舞が奉納されます。読谷村楚辺の「赤犬子宮」と「赤犬子」は集落の住民のみならず琉球民謡に関わる全ての人々の聖地として、これからも大切に守られながら伝統文化が後世に継承され続けて行くのです。
2021.02.08
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(イツクマの浜)「伊計島」は沖縄本島中部のうるま市にあり面積1.8平方km、長さ約2km、幅約1km、周囲7.5kmの南北に細長い島です。与勝半島の北東側に浮かぶ平安座島、宮城島、そして伊計島に順に並ぶ島々はそれぞれハナレ、タカハナレ、イチハナレと呼ばれ、昭和47年に海中道路が開通されるまでは屋慶名港から出る船が唯一の交通手段でした。「伊計島」の住民は島の南部にある「伊計集落」に集中し、さまざまな遺跡文化財を有しています。(ヌンドゥンチ/ノロ殿内)(ヌンドゥンチ内部/向かって右側)(ヌンドゥンチ内部/向かって左側)「伊計集落」の中心部に「ヌンドゥンチ」と呼ばれるノロ殿内があり赤い鳥居が建てられています。伊計島のノロ(神人)が神々に祈りを捧げる聖域で、殿内の内部には向かって右側にヒヌカン(火の神)と七福神の掛け軸が祀られています。向かって左側にもヒヌカン(火の神)とビジュル霊石とウコール(香炉)が祀られています。琉球古民家の仏間と家屋構造は文化的にも歴史的にも非常に価値があります。(ウドゥイガミ/天神堂)(ウドゥイガミ内部/向かって右側)(ウドゥイガミ内部/向かって左側)「ヌンドゥンチ」の東隣に「N高等学校(旧伊計小中学校)」があり、校庭はかつて「伊計集落」のアシビナー(遊び庭)としてエイサーや獅子舞が披露される芸能の中心部でした。現在、その場所に「ウドゥイガミ/踊神」が祀られる「天神堂」があります。建物内部には向かって右側に七福神の掛け軸とウコール(香炉)、中央の仏壇にウコールと花瓶、更に向かって左側にはビジュル霊石とウコールがそれぞれ祀られています。(神アシャギ)(地頭火ヌ神)「天神堂」の南東側に「神アシャギ」があり「トゥンチマー」とも呼ばれます。伝統行事の拝みの際に海から訪れた神をこの場所で集落のノロが迎い入れてもてなします。さらに樹齢の長いガジュマルの木の下に「地頭火ヌ神」が祀られています。ニービ石で造られた石碑にはウコール(香炉)が設置されており、幾つもの霊石が供えられています。「地頭火ヌ神」があるこの場所は昔から集落の中心部であった事が考えられます。(伊計神社/種子取神社)(弁財天)「神アシャギ」と「地頭火ヌ神」があるこの地は「掟殿内(ウッチドゥンチ)」と呼ばれる「掟神(ウッチガミ)」を祀る聖地です。「ヌルドゥンチ」よりも古い歴史があると言われ「伊計集落」の祭祀行事の中心地として崇められました。現在、この地には「伊計神社」があり、境内には「弁財天」の社殿があります。「伊計神社」は「種子取神社」とも呼ばれ「琉球八社」の一つである那覇市奥武山「沖宮」の末社として奉仕されています。「伊計集落」の根所(集落発祥の地)に「伊計ノロ」の家と集落の4つの家の合資により建立された「伊計神社」の御本尊には「大黒」「恵比寿」「弁財天」が祀られています。「沖宮」の先代宮司の一番弟子であったカミンチュ(神人)の「伊計ノロ」が建立した神社であるため「伊計神社」には「沖宮」との強い結びつきが生まれたのです。(伊計権現堂)「伊計神社」に隣接して「七観音」が祀られている「伊計権現堂」があります。ここで「伊計神社」の代表である「中村ユキ子」さんとの出会いがありました。中村さんは現役の「伊計ノロ」で「伊計神社」を建立した「伊計ノロ」は中村さんの母親です。中村さんは「せっかくだから、見てあげるよ」と言い私を権現堂に案内しました。自己紹介と生まれ年と干支を言い会話が始まりました。「ここに迷わずにたどり着けたのは神様に呼ばれた証。あなたのように御嶽などに足を運ぶのは、そこの神様に呼ばれているから。もし肩が重くなったり体調不良になったら、歓迎されていないので立ち去るべき。もし歓迎されているなら非常に心地良い気分になる」など私は現役の「伊計ノロ」との会話に引き込まれていました。(権現堂の内部)続けて中村さんは権現堂の祭壇に目を向けると「あなたは"琉球八社(七宮八社)と首里十二支巡りをしなさい"とたった今、神様から告げられた。時間がある時に無理せず急がず全て巡れば、扉が開き次の段階に行ける。次の段階では新しく理解する事に気付き、新しく見えるもがある」と「七観音」の神様からのお告げを私に伝えたのです。さらに「あなたが住んでいる場所の土地神は普天満宮だから必ず拝みに行きなさい。働いている場所の土地神にも挨拶を忘れずに行うこと」と続け、土地や自然への感謝は人として当然の事だと伝言を頂きました。(伊計神社の祈りの30箇条)更に中村さんから「伊計神社の祈りの30箇条」を頂戴しました。第1条は「伊計神社」を祈る事から始まる意味が込められて、30箇条は第2条から始まっています。「伊計神社」と「伊計権現堂」に描かれた龍の絵画の作者による「弥勒菩薩(ミルク神)」が添えられています。30箇条の全てが大切で重要な要素でありますが、「2. 祈りは魂を込めて」「5. 祈りは無欲無心に」「18. 祈りは原始からの行動である」「22. 祈りは魂の根源に存在する」「23. 祈りは人間性を高める」の5つが現在の私の心に特に響きます。非常に貴重なものを頂いたので額縁に飾り大切にしてゆきます。(伊計島亀岩龍宮神)「伊計ノロ」の中村さんは「今度来る時は電話してから来たら良い」と言って私は名刺を頂戴しました。最後に中村さんに「これから龍宮神に行きなさい」と告げられました。「伊計神社」から南に一本道を進むと「イツクマの浜」に出て「伊計亀岩龍宮神」に到着しました。「亀岩」と呼ばれる孤立した岩には「龍宮神」の石碑が東向けに建てられており、海の神様である「ニライカナイの神」が祀られています。「伊計集落」の神事の中心地である「ウッチドゥンチ」から「竜宮神」への一本道は昔から「神道」であったと考えられます。(イツクマの浜/石獅子)(ウスメーハーメー)「伊計島亀岩龍宮神」に隣接して「イツクマの浜」があり、浜の脇には「石獅子(シーシ)」が設置されています。この「石獅子」は海中から発見されて引き上げられ、次のような逸話が伝わります。『昔、ある男が土地の開墾の為に石獅子を3つに割り除去しました。すると男に災いが起きた事から石獅子の祟りだと信じられたのです。』「石獅子」は元の姿に復元され「イツクマの浜」に向けて海の安全を見守っているのです。また「石獅子」の直ぐ西側には「ウスメーハーメー」の石柱が建立されています。「ウスメー」は"お爺さん"「ハーメー」は"お婆さん"の意味があります。(セーナナー御嶽)(セーナナー御嶽の鳥居)伊計島の最南端に「セーナナー御嶽」があります。この地は伊計島に最初に人が暮らした地と言われる聖なる森です。この御嶽の入り口に「御嶽の鳥居」が建てられています。現役「伊計ノロ」の中村ユキ子さんによると、この御嶽は「伊計神社」と深い関わりがあり、神社建立の礎となった神様が降臨した聖地と崇められています。SNS、YouTube、インターネット上では「セーナナー御嶽」が間違えた認識で紹介されています。御嶽の先の岩場にある"丸い鏡"は新興宗教が勝手に設置したもので「セーナナー御嶽」とは全く関係がありません。勿論、歴代の「伊計ノロ」も現役の「伊計ノロ」の中村さんも岩場の"丸い鏡"を絶対に拝む事はありませんし、うるま市教育委員会も文化財として認めていません。(セーナナー御嶽の石碑)(セーナナー御嶽の社)「セーナナー御嶽」の森に「金刀比羅大神、恵比須大神、大國大主神」が祀られています。「金刀比羅大神」は天神地祗八百万神の中で運を掌る神。「恵比須大神」は七福神の福の神、漁業の神。「大國大主神」は国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神。石造りの拝所は本殿と社殿に3つの神々が祀られていると考えられ、それぞれの神にウコール(香炉)と霊石が供えられています。「セーナナー御嶽」は定期的に「伊計神社」の現役「伊計ノロ」の中村さん達により清掃され拝まれているそうです。(セーナナー御嶽の拝所)(御先神様御降臨の聖地)「セーナナー御嶽」の森から海側に抜ける通路があり、向かって左側に御嶽の守護神である石造りの拝所がありヒラウコー(琉球線香)が供えられていました。海に抜ける道の先も聖域となっており、拝所は神聖な場への"お通し"の役割もあると考えられます。更に向かって右側に「御先神様御降臨の聖地」と刻まれた石柱があります。つまり、この石碑が建立されている森の一帯は神様が降臨した聖地であると示しています。森を抜けると突然辺りが太陽の光に包まれており、大小数えきれない程の色とりどりの蝶々が私の周りを舞っていました。後に「伊計ノロ」の中村さんに話したところ「聖地があなたを歓迎している証。実際に蝶々がいたのか、それともあなたにしか見えない神業か、いずれにせよその不思議な体験は、一つクリアした事になる」と仰っていました。(聖地の石碑)無数の蝶々に歓迎されて森を抜けた突き当たりにニービ石造りの石碑が建っています。「天帯子御世結び (てんたいしうゆうのむすび) 伊計種子取繁座那志 (いけいたんといはんざなし) 中が世産女母親 (なかがゆううみないははしん)」と彫られています。つまり「伊計種子取」の神様を祀る石碑で13〜14世紀の「天帯子」の三山時代に「産女母親」によって建立された事を意味しています。この「種子取」の神は「農耕の神様」を意味し「伊計ノロ」の中村さんによると「伊計神社」は元来、この農耕神を祀った神社で、その証拠に「伊計神社」は別名「種子取神社」と呼ばれます。実際に「伊計権現堂」には「伊計種子取神社」と木彫りされた古い扁額(へんがく)が存在します。(伊計神社のフクギ道)「伊計ノロ」の中村さんが歴代ノロから受け継いだ「種子取神」の伝承があります。その昔、伊計島の先人が「セーナナー御嶽」を抜けた岩場から海に浮く大きな甕壺を見つけました。いくら手を伸ばしても甕壺は逃げてゆきます。その時は汚れた衣服だったので、後日きれいな正装をして再び訪れると甕壺が海から飛び出し上陸したのです。甕壺の中にはサトウキビ、イネ、イモの種子が入っており、先人は荒れた地を耕し種を植えて育て伊計島に果報をもたらしました。それ以来、伊計島では「セーナナー御嶽」の先に降臨した「種子取」を"農耕の神"と崇めて来たのです。(宮城島から見た伊計島)「種子取」の神がもたらした甕壺が浮いていた海底には大きな亀裂が入っており、干潮の時のみ全貌を見せます。「伊計ノロ」の中村さんはその亀裂がある場所に来る度に必ず見えるものがあると言います。どこかの国の民族衣装を着た数名の古代人が亀裂のある場所で祭事を行っている光景で、もしかしたら琉球発祥の地は久高島でも浜比嘉島でもなく、実は「伊計島」なのではないかと考えているそうです。「伊計島」は未だに解明されていない数多くの遺跡があり、島全体に神が宿るパワースポットとして日出る太平洋に今日も浮かんでいるのです。
2021.05.22
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(王妃御墓/ウナジャラウハカ)沖縄県北中城村「喜舎場集落」の北側丘陵の中腹に「ウナジャラウハカ」と呼ばれる琉球国王妃の墓があります。琉球石灰岩の岩陰を塞いで造られた墓で「舜天王統」三代目の「義本(ぎほん)王」(在位1249-1259)の妃の墓所と伝えられています。この墓は「EMウェルネス/暮らしの発酵ライフスタイルリゾート(EMウェルネス/コスタビスタ沖縄ホテル&スパ)」の東側に隣接する深い森にあり、このホテルの南側駐車場と森の北側からアクセスする事が出来ます。(ウナジャラウハカの森)「義本」は「舜天王統」と同様、存在さえ不明であり実在しない伝説上の人物と伝わりますが「舜天王統」の3代目にして最後の王と言われています。「中山世鑑」によると、2代目の王である「舜馬順煕」の第1王子として1206(開禧2)年に生まれ「舜天」の孫にあたります。「舜馬順煕」の死後、1249(淳祐9)年に44歳で「琉球国中山王」に即位しました。しかし、その翌年に飢餓が起き、更に翌年には疫病が流行り琉球国民の半数が死亡したと伝わります。(花崎家中古之墓)この状況を憂いた「義本」は家臣を集め、徳の無い自分の代わりに誰に王位を譲るべきかを問いたところ、皆は「英祖」を推薦しました。試しに「英祖」に政治を行わせると災厄は止み国が治ったので、1259(開慶元)年に54歳の「義本」は在位11年で「英祖」に王位を譲ったとされています。「ウナジャラウハカ」の森を進むと「花崎家中古之墓」が現れます。岩場を掘り込んだ古い墓で「花崎家」は「義本王」の直系の子孫であると言われています。(花崎家中古之墓の石柱)(花崎家中古之墓)「義本」との関わりが深い「花崎家」の伝承によると「義本」は国頭村の辺戸(へど)に隠遁し、時世が落ち着いてから読谷村の瀬名波(せなは)に移り住み、晩年は北中城村仲順(ちゅんじゅん)で没したと伝わります。しかしながら「義本」を祀ったとされる墓は知られている中で沖縄本島北部の国頭村に7箇所、中部の中城村の「ナスの御嶽」に1箇所、更に鹿児島県奄美群島に2箇所と、合計10箇所に点在しています。退位後の「義本」の消息は不明ですが、それが人々の関心と同情を買い、その後「義本」と由縁があると称する者が墓を設置しています。(王妃御墓/ウナジャラウハカ)(王妃御墓/ウナジャラウハカの柱)ウナジャラウハカの森の丘稜中腹に「王妃御墓/ウナジャラウハカ」があります。「北中城村史」(1971年)には「義本王」の直系の子孫である「花崎家」の口伝として、墓内には「義本王」「真鍋樽按司」「西之按司加那志」「桜尚」の厨子が安置されていると記されています。この記述からこの墓は「義本王」の墓である可能性があり、墓がある森には「花崎家」の古墓が伴っており王妃の墓と共に合祀されている為、県内外に伝わる10箇所の「義本王の墓」よりも、この地こそが「義本王の墓」である信憑性が増します。ちなみに「按司」とは王族の位階および称号で「第二尚氏王統」では王子に次ぐ称号ですが、王妃や王女なども「按司」と呼ばれていました。しかし、一般的に女性を呼ぶ場合は「加那志」という敬称を付けて呼ぶのが通例でした。(王妃御墓の東側にある堀込墓)(王妃御墓から登る石段)(王妃御墓の西側にある堀込墓)ウナジャラウハカの森には古墓が点在しており「義本王」の子孫や血縁関係がある家の墓であると考えられます。「義本」が統治していたとされる時代は、小規模のグスクが沖縄の各地に点在し、沖縄本島全域を統治していた人物はいなかったとされています。「中山世譜」によると「天孫氏王統」が首里に王城を築き、それ以降の王も首里を居城にしていたと言われます。しかしながら「義本」らの「舜天王統」は浦添グスクに居住したと伝えられています。この森も史書に記されていない小さなグスク、あるいは御嶽であった可能性もありますが詳細は不明です。(ガジュマルのアーチ)(ガジュマルの下にあるガマ)(ガジュマルの下にある大岩のトンネル)「王妃御墓」からさらに森の頂上に向かうと、樹齢の長いガジュマルが地面と平行に育ちアーチ型を造っています。ガジュマルには精霊が宿る言われており、ウナジャラウハカの森の精霊が住んでいるような雰囲気を醸し出しています。ガジュマルの根元にはガマ(洞窟)が大きな口を開けており、入り口には霊石が祀られる拝所となっています。更に、ガジュマルの枝先が到達する岩場の麓には自然に大岩が組まれて出来たトンネルがあり、神が宿る御嶽のような神聖な空気を感じます。(ウナジャラウハカの森の頂上にある拝所)(ウナジャラウハカの森の頂上にある拝所)(ウナジャラウハカの森の頂上)「義本王」も合祀されていると伝わる「王妃御墓」の森の頂上は見晴らしがよく、周辺地域で最も高い位置となっています。この頂上には拝所がありウコール(香炉)と共に位牌が祀られています。森の頂上に育つソテツの木の間からは米軍の施設「アワセメドウズ」ゴルフコース返還後に開発された「ライカム」エリアが広がっています。「イオンモール ライカム」をはじめ、高層マンションや大規模な病院、更にはコンドミニアムホテルや住宅などが立ち並ぶ新しい街並みと変貌を遂げています。「義本王」も「王妃」も数百年の時を超えて、琉球から沖縄、沖縄戦から現代と、この深い森から見守り続けているのです。
2021.11.19
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(大山貝塚の祠)大山貝塚は沖縄県宜野湾市大山にあり、隣接する「森川公園」と恩納村の「SSS」に並ぶ沖縄の三大心霊スポットとして知られています。沖縄のシャーマン「ユタ」の修行場所としても有名で、大山貝塚は決して遊び半分や肝試しで訪れる場所ではありません。ここは沖縄の歴史を学ぶ場所であり、敬意を払って訪れる聖域なのです。(普天間基地のフェンス)宜野湾市のファミリーマート大山店から400メートルほど坂道を上がると米軍普天間基地のフェンスにたどり着きます。フェンス内は住宅エリアになっていて米軍関係者が普通に暮らしています。沖縄戦の時には大山貝塚近くの防空壕に沢山の沖縄の住民が避難していましたし、この一帯は沢山の犠牲者も出た激戦地でした。(大山貝塚の碑)フェンス沿いに50メートほど進むと「史跡大山貝塚」の碑に迎えられます。米軍基地フェンスに隣接するこの地に大山地区の守り神を祀るウガンジュがある皮肉、これは紛れもない沖縄の現実です。この碑の右手には大山貝塚に続く下り階段があります。(祠へ下る階段)階段を下り正面には大山貝塚のウガンジュが訪問者を待ち受けています。先人の霊、戦死者の魂、亡くなったユタの念が蠢く地場は不気味に、かつスピリチュアルに佇んでいます。階段を一段一段下りるにつれ重たい空気に身体が包まれてゆきます。これ以上進めない、進ませてくれない非常に強いパワーに足が動かなくなりました。(祠と鍾乳洞)石造りのウガンジュに手を合わせ名前を名乗り、訪れた理由を語りかけ沖縄の平和を祈りました。すると、それまで私の身体を縛り付けていた重過ぎる圧力がフッと消え、物凄い心地良い雰囲気に包まれました。ウガンジュの横には鍾乳洞の洞窟に下りる真っ暗な入り口があり「あの世への入り口」と呼ばれる聖域になっています。ユタはここから洞窟に入り厳しい修行をするのです。(大山貝塚のガジュマル)大山貝塚には神が宿るガジュマルがあります。琉球石灰岩をガジュマルの枝が何百年もかけて絡み付き見事な生命力を表現しています。ガジュマルの前にひざまづき瞑想を始め耳に聞こえる物、鼻から匂う物、目をつむり見える物、ガジュマルに触れる手に感じる物、そして精神が素直に想う物に集中して五感を研ぎ澄ませました。(大山貝塚の入り口)大山貝塚は確かにパワーの強いスポットです。遊び半分の肝試しに来る人には怖い心霊現象を与え、敬意を払って訪れる人にはスピリチュアルな心地良い雰囲気を与えます。私がパワースポットに取り憑かれる理由は、この掛け替えないパワーを感じる事と自分自身の魂の浄化の為です。大山貝塚はこの階段の下から今も訪問者を見つめているのです。
2020.12.16
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(田場集落/古民家の赤瓦門)旧具志川市の「田場集落」は、現うるま市の中心部で金武湾に面した地域にあります。古い石垣とフクギに囲まれた古民家が残る、古き良き琉球時代の雰囲気を感じる集落です。「田場集落」は伝統芸能が盛んな地域でもあり、臼太鼓や獅子舞、無形文化財指定のティンベーと呼ばれる盾と槍を用いた琉球古武術等が大切に保存継承されています。(浜千鳥の歌碑/表側)具志川ビーチと赤野漁港の間に位置する海辺に「浜千鳥の歌碑」があります。沖縄民謡の「浜千鳥節」や琉球舞踊の「浜千鳥」は非常に有名で、浜千鳥は沖縄の言葉で「チャジュヤー」と呼ばれます。具志川小学校近くの田んぼの水管理をしていたら、赤野浜で鳴く千鳥の声に郷愁感に誘われて歌に詠んだと伝えられ、旧具志川市の伊波家で19世紀半ば頃から代々口承されてきたそうです。(浜千鳥の歌碑/裏側)歌碑に刻まれた歌詞は表側に「旅や 浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘ららぬ 我親の おそば」とあり、裏側には「たびや はま やどぅい くさぬ ふぁどぅ まくら にてぃん わすぃ ららん わやぬ うすば」と記されています。(竜神宮の森)(田場竜神宮の祠)「浜千鳥の歌碑」の南側に「田場の竜神宮」がある森が海辺に佇んでいます。森の入り口から細い階段を登ると竜神宮の祠があります。竜神宮には海の神様が祀られており、海の恵みや航海の安全を祈る拝所となっています。「田場の竜神宮」の森からは金武港、浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島を見渡し、ニライカナイ(理想郷)がある東の海に祈りを捧げる聖地となっています。(竜神宮の祠の右側にある石碑)(竜神宮の祠の左側にある石碑)「竜神宮の祠」の向かって左側に建つ石碑には「あがり世遙拝之碑」と刻まれています。「あがり」とは沖縄の言葉で「東」を意味しており、遠く離れたニライカナイに遙拝(ようはい)する石碑が祀られています。左側にある石碑には「天在子(テンザイシ)の結(ムス)び 田場久麻牟繁座那志(タバクマムハンザナシ) 中が世うみない母親」と記されています。(アカザンガー入り口)(アカザンガー)「アカザンガー」は田場集落で生活用水として利用されてきた水量が比較的豊富な井泉です。この井泉の周辺で弥生時代後期頃(沖縄貝塚時代後期)の遺跡が発見されており、この井泉の名に因んで「アカジャンガー貝塚」と呼ばれています。この貝塚から出土された土器は「アカジャンガー土器」と命名されました。この井泉は現在、地域の子供達の水遊び場として親しまれています。(田場ガー)(洗濯ガー)「アカザンガー」の北西側に「田場(ダーバ)ガー」という井泉があり、別名「産(ウブ)ガー」と呼ばれています。かつて飲み水や生活用水として利用してきた他に、正月の若水や子供が生まれた時の産水、ウマチー(豊年祭)や水ナディー(水撫で)の際に「カー拝」がありました。「田場ガー」の大きな井泉は飲み水や生活用水に使用し、小さな井泉は「洗濯ガー」と呼ばれ、井戸の前にある丸型の石を利用して洗濯をしていました。(田場ガーの祠)(石敷と石段)「田場ガー」は沸口を囲んだ2つの井池と水神の祠、マグサ(目草)、洗濯石、歩き道の石敷で形成されます。石積み様式は相方積み、布積み、土留めの上部には小石の野面積みも確認されます。旧具志川市内では最も優れた石造技術で施されたカー(井泉)の1つとして、田場集落では「命の泉」への感謝が込められ大切にされています。(田場港原の記念碑)「アカザンガー」と「田場ガー」の間に「港原」と呼ばれる田園地帯があり、人知れず草木に覆われて石碑が建っています。この一帯はかつて具志川最大の美田地帯でありましたが、昭和46年の大干ばつを境に土地が荒廃してしまいました。10年後の昭和56年に土地の蘇生整備が行われ、広大で肥沃な土地を再び荒廃させる事の無いよう記念碑が建てられました。そのお陰で現在の港原は豊かな自然に恵まれています。(田場の神女殿内)(田場の神屋)田場集落の北側で赤野集落に隣接する仲本家の屋敷は「神女殿内」で敷地内には「神屋」があります。「神女殿内」はヌルドゥンチと呼ばれ、集落で最高位のノロ(神女)が住む家となっています。「神屋」は神アシャギと言われ、ノロが神を呼び祭祀を行う神聖な場所です。神屋は扉が開けられており、内部には3つの霊石、陶器のウコール、石造りのウコールが設置されていました。(高等教育発祥の記念碑)田場集落の南側(田場1054番地辺り)に「高等教育発祥の地」と刻まれた石碑があります。石碑の裏側には「太平洋戦争直後の1946年1月より40年余、ここ田場原頭に極度の窮乏のなかて、学びて倦むことを知らぬ燃える青春群像があった。琉球大学の前身としての役割を担った沖縄文教学校、沖縄外国語学校が、幾多の俊秀を世に送り出した、ここは、戦後高等教育の発祥の地である。」と記されています。(田場168番地の拝所)田場集落は古より広大な田畑が広がる地域で「田場」という地名もそれに由来していると考えられます。井泉(カー)、神女殿内(ヌルドゥンチ)、御嶽などの遺跡文化財は県道8号の南側に集中している事から田場集落は北側で発祥し、時代と共に居住地が南側に広がったと思われます。そして田場集落の南側で沖縄の戦後高等教育が生まれ、現代の沖縄県の発展に大きく役立つ重要な地域として発展してきたのです。今後も歴史、文化、伝統を大切に守り、未来の沖縄に明るい光を灯す集落で居続ける事を期待しています。
2021.04.05
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(仲順大主之墓)沖縄県北中城村に県民に大変馴染みの深い「仲順(ちゅんじゅん)集落」があります。仲順大主は13世紀の琉球豪族で「仲順集落」の創建者と言われています。有名なエイサー曲「仲順流り」には仲順大主にまつわる伝承が歌詞になっていて、仲順大主が登場する琉球歌劇「仲順流り」も広く知られています。また、1187年から1259年の3代73年間にわたり「琉球国中山王」として王位に就いた舜天(しゅんてん)王統最後の王「義本王」を戦乱からかくまったとの伝説が残っています。(仲順流りの碑)「仲順集落」の北側にある小高い山の麓に「仲順公園」があります。公園には「仲順流りの碑」がありエイサーで有名な歌の歌詞が彫られています。「仲順流り」は北中城村仲順に伝わる仲順大主にまつわる話を題材に、祖霊供養の歌として作られ、各地のエイサーに取り入れられて歌いつがれています。歌の発祥に関わる仲順の地を讃え、歌の末永い伝承を念じ石碑が建立されました。(根殿の社)公園の階段を登ると高台に「根殿の社」と呼ばれる拝所があります。左側の段にはウコールが設置され、その奥には中央に「仲順大主神霊」、左に「義本王神霊」、右に「舜天王神霊」と記載された神棚に琉球仏花瓶が供えてあります。右側の鉄格子の内部には琉球石灰岩のゴツゴツとした神石と灰が納められていました。(お宮の拝所)仲順の「お宮」と呼ばれる「根殿の社」の一帯は「仲順原遺物散布地」となっており、琉球グスク時代(約500〜800年前)の土器や白磁が発掘されています。「お宮」の北側には琉球石灰岩の大岩が点々と存在し、最も北側にはウコールが設置されたウガンジュになっていて神聖な雰囲気に包まれています。(ウフカー)「仲順公園」の南側に「ウフカー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」は「ナスの御嶽」付近から現在地に移動したと伝えられており「ウフカー」は「仲順集落」のウブガー(産井戸)になります。「ウフカー」は集落発祥に関わる神聖な井戸であり、戦前までは仲順公園内のお宮で行われる例祭(旧暦9月13日)の時に拝まれていました。また、戦後の一時期まで「ウフカー」で旧正月の若水を汲んでいたそうです。(上門ガー)「仲順集落」の中心部に「上門ガー」と呼ばれる井戸があります。「仲順集落」の起源は「ナスの御嶽」付近の上門原に住居を構えた七世帯(仲順七煙)にあるとされます。その頃に産井戸として使用されていたのが「上門ガー」です。井戸の中はクルトゥ石(砂岩)で左右に区切られている事からミートゥーガー(夫婦井戸)であったとの伝承もあります。(仲順大主之墓)仲順集落の北側に「仲順大主之墓」があります。現在から約700年前に「仲順集落」を作り統治していた仲順大主には3人の息子がいました。ある時、誰に家督を継がせるか決めるために仲順大主は病気の振りをして3人を試すことにしました。「私は食べ物が喉を通らなくなってしまった。赤ん坊に与える乳なら飲むことができる。赤ん坊はあきらめて乳を全ても貰えないか?」長男と次男は親より自分の子を優先してこれを断ったが、三男は親の命を救うべく自分の赤ん坊に与えるはずの乳をすべて差し出したのです。(仲順大主之墓の左奥の墓)「仲順大主之墓」の左奥にはもう一つの墓があります。この墓が義本王の墓やノロ墓など多くの説が出ていますが、未だに誰の墓なのか謎に包まれたままです。さて、仲順大主は三男の赤ん坊を東の森の三本松の木の下に三尺の穴を掘って埋めるよう伝えました。言われるがままに三男がそこで穴を掘ると黄金の財宝が見つかったのです。財宝と家督は三男が継ぎ幸せに暮らしたそうです。これが有名な「仲順大主の財宝譲り」という民話です。(ナスの御嶽)「仲順集落」はかつてこの「ナスの御嶽」をクシャテ(腰当て)として南側に発展していったと伝わります。御嶽の中にある琉球石灰岩の大岩が御嶽のイベ(神の在所)であると考えられ「琉球国由来記」(1713年)には、神名は「ナスツカサ御イベ」で安谷屋ノロが祈願する場であると記されています。また「舜天」「舜馬順煕」「義本」の3人の王が祀られているとも伝わっています。(仲順ビジュル)「ナスの御嶽」の西側に「仲順ビジュル」があります。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)がなまったもので、沖縄では主に霊石信仰として、豊作、豊漁、子授けなどの祈願が行われる場所です。仲順ビジュルはかつて花崎門中のノロにより旧暦9月9日に例祭が行われていました。以前は「喜舎場集落」にある王妃御墓(ウナジャラウハカ)付近の御願毛(ウガンモー)に所在していましたが、区画整理で現在の場所に移されました。(賓頭盧尊者の石碑)石碑には「賓頭盧尊者」と彫られています。賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)は神通力のとても強い人だったと言われ、お釈迦様が人々の病を治すように命令されました。病気に苦しんでいる人は「賓頭盧尊者の石碑」に直接触れ、自分の患部と同じ場所をなでることでそれが治ると言われます。「賓頭盧尊者の石碑」は病気平癒を叶えてくれる撫仏(なでぼとけ)なのです。(坂道の標識)北中城村の「仲順集落」は坂道が多い地区で遺跡文化財が点在するパワースポットとなっています。沖縄では旧盆には各地の青年団によるエイサーで必ず「仲順流り」が披露されます。歌い踊り継がれるこの念仏歌により仲順大主の偉業も同時に継承され、沖縄の人々の心に強く刻み込まれます。今年の旧盆も沖縄の各集落で無病息災、家内安全、繁盛を祈り、祖先の霊を供養するために行われるエイサーにて「仲順流り」が披露される事を楽しみにしています。
2021.02.01
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(石川龍宮神/石川赤崎)「うるま市石川(旧石川市)」は沖縄本島中部の東海岸にあります。「うるま市石川」の太平洋と「恩納村仲泊」の東シナ海を結ぶ直線距離がわずか4キロであるため、そのくびれは沖縄本島の「みほそ(へそ)」と呼ばれ「うるま市石川」は"みほそのまち"の愛称で親しまれています。石川岳の麓に広がる美しい金武湾を望む石川漁港周辺には5つの龍宮神が祀られており、古より石川の漁業の発展と航海の安全を見守り支えてきました。(石川龍宮神/石川曙)(石川龍宮神の拝所)(龍宮神の石柱)「うるま市石川」の太平洋側に位置する「石川ビーチ」と「石川龍宮ビーチ」間にある大岩の上に、1つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。拝所は北側の金武町方面に向けられており、金武湾の航海と漁業の安全を祈願しています。祠のウコール(香炉)には神に祈る際に使用するシルカビ(白紙)、ヒラウコー(沖縄線香)、粗塩が供えられています。これは燃やさずに供える「ヒジュルウコー(冷たい線香)」と呼ばれる御供です。このお供えは海が満潮に向かう時刻のみに行われる神聖な祈りとなっています。(龍宮神に供えられたウミガメと粗塩)(石川龍宮神の大岩麓にある拝所)「石川龍宮神」の拝所には大小2体のウミガメと粗塩が「龍宮神」に捧げられていました。非常に衝撃的ですが「うるま市石川」の伝統的な「龍宮神」への祈りが継承されている証拠でもあります。「石川龍宮神」の大岩西側の麓には、こじんまりとした拝所が設けられ霊石とウコール(香炉)が祀られています。「龍宮神」が建立される大岩そのものを祀る拝所だと考えられ、規模は小さいながらも大きな意味がある聖域として祈られています。(石川ビーチの鍾乳洞窟)(洞窟内の拝所)「石川龍宮神」の北側に「石川ビーチ」があり、ビーチに隣接して鍾乳洞窟があります。ソテツ(蘇鉄)や亜熱帯植物に覆われた洞窟の内部は浜の砂と岩石で覆われています。入り口は2箇所あり比較的広い空間になっています。床の浜の砂には大量のカニの巣穴があり、冷たく張り詰めた空気に包まれています。ツララのように垂れるゴツゴツした天井の洞窟の奥には霊石が祀られた拝所があります。この洞窟は沖縄戦の時に住民が避難して多数の命が助かったガマであり、現在は「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られています。(ウミチルの墓)「石川龍宮神」の南西側に隣接する場所に「ウミチルの墓」があり、彼女は俗称「チルーウンミー」と呼ばれています。「ウミチル」は石川の集落に初めて機織り、染め物、ウスデークー(女性のみで行われる円陣舞踊)を指導した方と伝わります。戦前からこの地にあった「ウミチルの墓」は1973年の大型台風で流された為、仮安置していましたが2008年に改修されました。現在も「うるま市石川」に伝統文化と芸能を伝えた人物として「ウミチルの墓」は住民により大切に祈られています。(グジヨウ神/ビズル火の神)「ウミチルの墓」の正面に鍾乳洞に「ビズル火の神」の霊石とウコール(香炉)があり「シルカビ」に「ヒラウコー」がお供えされています。「ビズル(ビジュル)」とは主に沖縄本島でみられる霊石信仰で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。仏教の16羅漢(お釈迦様の16人の弟子)の1人である「賓頭盧(びんずる)」がなまった言い方で、自然石が「ティラ」と呼ばれる洞穴などで祀られています。その左側には「グジヨウ神」と呼ばれる神が祀られた石碑とウコール(香炉)が隣接しています。この拝所は現在も「うるま市石川」のノロ(祝女)により祈られる聖域となっているのです。(天願マグジーの名が刻まれた石碑)「天願マグジー」には伝説が残されています。昔、具志川間切に「天願タロジー」という武士と妻の「天願マグジー」が住んでいました。ある日「天願タロジー」は以前より対立していた金武間切の「金武奥間」という武士に刺し殺されたのです。拉致された「天願マグジー」は「金武奥間」を油断させて「あらぶち(現うるま市石川東恩納)」に差し掛かると小刀で「金武奥間」を刺し殺したのです。「天願マグジー」はその後「あらぶち」の洞窟で暮らしたと言われていますが、他の伝説では「伊波按司」の愛人になったとの伝承もあります。この石碑には「伊波按司」と「天願マグジー」の名が一緒に刻まれており、大変興味深い文化財となっています。(石川龍宮神/石川曙)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)(龍宮神岩山の拝所)「石川龍宮ビーチ」の南東側に拝所の岩山があり海側の断崖上に、2つ目に紹介する「石川龍宮神」が建立されています。この「石川龍宮神」の石碑は西側に広がる金武湾と更に奥に続く太平洋に向けられています。非常に古い石碑で長年の間、潮風や台風に耐えながら航海と漁業の安全を祈願し祀られています。この「石川龍宮神」がある岩山は他にも3つの祠が建てられており、昔から御嶽岩山の聖域として崇められてきたと考えられます。(大宗富着大屋子の石碑)(大宗富着大屋子の墓)(石川龍宮神/字石川)龍宮神の岩山から更に南東に進むと崖麓に「大宗富着大屋子の石碑」と「大宗富着大屋子の墓」があります。「大宗富着大屋子」は琉球王府から任命されて恩納村から石川村に赴任し街並みを碁盤目状にする区画整備を行い、石川川の補修工事を行い集落に安全をもたらした人物です。現在は「大宗富着大屋子」の出身地である恩納村前兼久の方々が祈る場所として崇められています。ここから更に参拝道を南東に進み突き当たった岩森の麓に、3つ目に紹介する「石川龍宮神」が祀られ石碑は石川漁港向けに建立されています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)(屋根上に構える龍の石像)4つ目に紹介する「石川龍宮神」は石川漁港の北東にあり、亜熱帯植物が生い茂る森の中にひっそりと佇んでいます。鳥居を抜けて進むと拝所の社があり、社の内部と左右両脇には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。敷地内には1968年に建立された「石川龍宮神」の石碑が祀られており「龍宮」の文字の下に「神人 知念カマ 神子 平良カメ 神子 平良善春」と3人の名前が刻まれています。「石川龍宮神」の屋根上には左右2体の龍の石像が据えられています。(石川龍宮神/うるま市石川赤崎)(龍宮神の石碑)5つ目に紹介する「石川龍宮神」は4つ目に紹介した「石川龍宮神」の社に隣接しています。この場所は元々は金武港の海に面していましたが「石川火力発電所」と「石川石炭火力発電所」の建設により海が埋め立てられ「石川龍宮神」が海から約300m離れてしまいました。そのため4つ目に紹介した「石川龍宮神」の横に新たな「石川龍宮神」の塔を立て、海が望める塔の頂きに「龍宮神」の石碑を建立したのです。塔の麓にはウコール(香炉)が祀られ多くの人々に参拝されています。昔から海と共に生き海の恵みに感謝してきた「うるま市石川」の民は、これからも変わらず守護神の「龍宮神」を崇め祈り、大切な伝統文化を後世に継承して生きて行くのです。
2021.09.27
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(経塚の碑)沖縄本島中南部「浦添市」の北側に「経塚(きょうづか)集落」があり、この集落の東端は自然豊かな「ウチョーモー/お経毛」と呼ばれる森の丘となっています。琉球王国時代に造られた首里城と読谷村を結ぶ「中頭方西海道」と呼ばれる宿道沿いにあるこの森に、浦添市指定史跡の「経塚の碑」が建立されています。尚円王統の尚真王の時代(1477-1526年)に紀州(和歌山県)の真言宗知積院の住僧である「日秀上人」が沖縄に仏教を広めていた1522年、首里から浦添に通ずる道中の丘にマジムン(妖怪)が出没して人々を困らせていました。その話は尚真王の仏教の師となった「日秀上人」の耳にも入るようになり、マジムン(妖怪)が出ると言われる浦添の丘に出向いたのです。(経塚の碑/金剛嶺の石碑)(経塚の碑のウコール/香炉)(史跡経塚の碑の記念碑)「日秀上人」は「金剛経」のお経を記した石をマジムン(妖怪)が現れる丘に埋めて、その上に「金剛嶺」と三文字を彫った石碑を建てました。すると、たちまちマジムン(妖怪)は退散して人々は安心して通れるようになったそうです。この言い伝えから「お経を埋めた丘/塚」という意味で、この土地は「経塚」と呼ばれるようになりました。さらに、この「経塚の碑」がある「毛」と呼ばれる森を地元の人々は「お経毛/ウチョーモー」と呼ぶようになりました。現在も「金剛嶺」と記された石碑が建立する「経塚の碑」にはウコール(香炉)が2基と霊石が1体祀られる拝所となっており、集落の人々は「氏神」として大切に崇めて旧暦10月1日の祈願祭が執り行われています。(お経毛/ウチョーモー)(いちゃりば兄弟の碑)(いちゃりば兄弟の碑)「経塚の碑」が鎮座する「お経毛/ウチョーモー」には「いちゃりば兄弟の碑」と呼ばれる巨大な石碑が建立されています。「いちゃりば兄弟/ちょーでー」とは沖縄の有名な言葉で「一度出会えば皆兄弟」という意味を持ちます。「経塚集落」は1944年に、周囲にある「安波茶・前田・沢岻」の3集落の一部を割いて作られた新しい集落で「日秀上人」の『お経を記した石を埋めた塚』から「経塚」と名付けられました。3つの集落が寄り集まり、一度出会えば皆兄弟の一致団結を祈願して「いちゃりば兄弟の碑」は建てられました。さらに「お経毛/ウチョーモー」は「うちょうもう公園」に整備され、緑豊かな憩いの場として地域の住民に親しまれています。(経塚橋/ちゅうちかはし)(経塚橋/ちょうちかはし)「お経毛/ウチョーモー」の北側には小湾川に架かる「経塚橋/ちょうちかはし」があります。「経塚の碑」が建てられた土地周辺は琉球王国時代から「経塚/ちょうちか」と呼ばれており、この地から生まれた、地震の際に唱える有名な呪文が昔から伝わっています。ある時、旅人が「経塚/ちょうちか」で昼寝をしていると、近くの村人が大騒ぎをしているので目が覚めました。旅人が村人に聞くと「今、大地震があったのに知らなかったのですか?」と不思議そうに答えたのです。旅人は近くの村が全て大地震で揺れたのに経塚だけはお経の力で揺れなかったと知りました。この話が広く伝わり、それから沖縄では地震の際に『ちょうちか、ちょうちか』と呪文を唱えて、地震の揺れがいち早く止むように祈願する事になったのです。(安波茶橋/石畳道)(小湾川に架かる南橋)(アブチ川に架かる北橋)(安波茶橋と小湾川)「経塚の碑」の北側に続く「中頭方西海道」に「安波茶橋」があり、現在も琉球王国時代に敷かれた「石畳道」が残っています。「安波茶橋」と「石畳道」は1579年に「尚寧王」の名で浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたとされています。首里城と中頭(なかがみ)/国頭(くにがみ)方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々や旅人の往来で賑わい、琉球国王もこの道を通り琉球八社の1つである「普天満宮」に参詣しました。「安波茶橋」は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨大な石を積み上げる大変な難工事であった事が分かり、当時の石積みや石橋作りの技術の高さが見て取れる非常に貴重な資料となっているのです。
2022.06.22
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(神アサギ/神アシアゲ)沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線に「冨着/ふちゃく集落」があります。この集落の西側で、南側に隣接する「前兼久/まえがねく集落」との境界線に位置する丘陵に「冨着集落」の「古島」があります。1635年に集計された資料である「琉球国高究帳」には『ふ津き』と記されており、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には『富着』との記述があります。更に清の官僚で琉球王国の「尚敬王」を冊封した「徐葆光/じょほこう」が1721年に著した「中山伝信録」には『富津喜』とされています。また、大正時代には「冨着」は『フジチ』と呼ばれており、現在は『フチャク』の名称となっています。「冨着古島」から見て海沿いの砂地を「前兼久」と呼び、その後方に位置する現在の「冨着集落」の場所を「後兼久」と称していたと伝わります。(神アサギ/神アシアゲ)(地頭火神)(地頭火神の祠内部)(冨着礼拝所の通路)「冨着古島」の「冨着礼拝所」と呼ばれる場所に、かつて「山田ノロ」が祭祀を執り行った「神アサギ/神アシアゲ」があります。「琉球国由来記」には『神アシアゲ 富着村 稲穂祭之時、シロマシ二器・麦神酒四 谷茶・仲泊・前兼久・富着四ヶ村百姓、五水八合・神酒一・肴二器 同四ヶ村地頭。稲大祭之時、五水八合・肴二器・神酒一 同上、同四 同四ヶ村百姓中、供之。稲穂祭之時、山田巫ニテ祭祀也。且、同大祭之時者山田巫、谷茶・仲泊・富着・前兼久、四ヶ村居神ニテ祭祀也。』と記されています。この「神アサギ」に隣接して「地頭火神」の祠が建立されており、祠内部にはウコール(香炉)が設置されています。かつての祭祀の際には「山田ノロ」を中心として「富着村」から出自した「前兼久根神」や4ヶ村から参列した「居神」等の神女達は「地頭火神」を拝した後に「神アサギ」の祭祀を行ったと言われています。(アガリ家の屋敷入り口)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)(アガリ家の屋敷跡)「冨着古島」の集落で宗家と言われている「アガリ家」の屋敷跡が「神アサギ」の東側に隣接しています。この旧家からは「富着村」の「根人/ニッチュ」が出自し、この「根人」出自の「ミーヤ家」も「アガリ家」の昔分家であると伝わっています。「山田ノロ」による祭祀に供えられる神酒は「アガリ家」で作られ、祭祀終了後に「山田ノロ」を接待する場も「アガリ家」だったと言われています。集落の盆踊りも「アガリ家」から始まり、次に「根屋神」を訪れます。8月の「豊年祭」の時には「根神屋」を拝した後に「アガリ家」を拝して「遊び庭/アシビナー」で豊年芝居が執り行われました。この集落宗家である「アガリ家」は現南城市「佐敷」の「鮫川大主」を祖先としています。この「鮫川大主」は琉球王国の第一尚氏初代国王「尚思紹王」と「場天ノロ」の父にあたる人物とされています。(上小家の敷地にあるカミヤー)(カミヤーの建物内部/仏壇)(カミヤーの建物内部/ヒヌカン)(上小家の屋敷跡/礎石)「アガリ家」の西側で「神アサギ」の南側に隣接した場所はかつて「上小家」の敷地で、現在は「カミヤー/神屋」が建てられています。この建物内部にある仏壇には『冨着根屋御元祖』と記された位牌と『冨着神女』と記された位牌が祀られており、仏壇の壁には2本の薙刀と2枚のカージ(クバ団扇)が飾られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。「冨着古島」は「山田ノロ」の管轄でしたが、集落には「富着村」から出自した「前兼久根神」や「居神」等の神女が存在し「山田ノロ」の補佐役として祭祀を務めていました。また「山田ノロ」の後継が途絶えた後は「根神」を柱として「富着村・前兼久村・谷茶村・仲泊村」の伝統的な「四村合同祭祀」が継続して執り行われました。ちなみに「上小家」の敷地には昔の屋敷に使われた珊瑚石の礎石が現在も多数残されています。(カーニー家のアコウ)(メーヌカーに降る道)(メーヌカー)(メーヌカーの拝所)「冨着古島」の草分け旧家である「アガリ家」の南側に隣接した敷地にはかつて「カーニー家」があり、現在は樹齢の古いアコウの木が幾本もの根を伸ばしています。この「カーニー家」から南側に降りる丘陵が続き、谷底には「メーヌカー」と呼ばれる拝川が流れており古い霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「冨着集落」では9月15日に「メーヌカー」にて「カー拝み/井泉拝」が行われています。この行事は「カチンジョウ拝み」とも言われており「富着村・前兼久村・谷茶村」の三部落の遠い先祖がこの地に住んでいた時代に水の恩恵を受けた井泉への感謝を示す為に拝されています。この「カー拝み」の日には「アガリ家」の屋敷から「メーヌカー」と祖先である「鮫川大主」の出身地である「佐敷」の方角に向けて遥拝が行われていたと伝わります。ちなみに、一説では稲の伝承地である「玉城」の方面を拝していたとも言われています。
2023.04.12
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(中城若松の銅像)中城若松(安谷屋若松)は琉球組踊の創始者である玉城朝薫(1684-1734)の組踊「執心鐘入」の主人公「中城若松」のモデルとされている人物です。さらに時代をさかのぼると琉球王国時代の歌謡集「おもろさうし」にも登場しています。若松は第二尚氏初代国王尚円王と安谷屋ノロ(神女)との間に生まれた子と言われていて、父尚円王が即位してから中城若松は安谷屋城主となりました。(ユナハン丘稜)その後、尚真王が王位に即位し地方の按司(豪族)などを首里に集居させる「中央集権」により首里に上り、上間村(現在の那覇市上間)の地頭職に就きました。死後、中城若松の遺言により安谷屋の地に葬られたと伝えられています。「中城若松の墓」は「安谷屋集落」の北側の「ユナハン」と呼ばれる丘陵の山頂にあります。山頂は隆起した琉球石灰岩が剥き出しになっており、多くの樹木に覆われながらも比較的広い空間となっています。(中城若松の墓)ユナハンは現在「若松公園」として整備されていて北中城村や宜野湾市の住民の憩いの場になっています。ユナハンの頂上にある「中城若松の墓」は昭和57年3月18日に北中城村の史跡に指定され、墓の前方には琉球石灰岩の切石を積んで囲んだ墓庭があります。墓は岩土に宝珠が設置された塔型の祠になっており、宝珠の下部が墓の本体という説とウコール(香炉)の奥側が墓だという説があります。墓のある頂上からは南側の麓に広がる「安谷屋集落」から西海岸を見渡せる絶景が広がっています。(中城若松の母の墓)(中城若松の妻の墓)「中城若松の墓」から石段を降りてゆくと「中城若松の母の墓」があります。ユナハン丘陵の中腹にある洞窟を琉球石灰岩の岩石で蓋をする型の古墓で、洞窟内にはウコール(香炉)が設置されて安谷屋ノロであった中城若松の母が祀られています。さらに「中城若松の母の墓」の隣には「中城若松の妻の墓」があり、墓の前には石製のウコールが設置されています。中城若松の母と並んで祀られており、ユナハンの中腹から頂上に佇む夫である中城若松を見守っているのです。(中城若松の火ヌ神)(拝所/ウガンジュ)「中城若松の墓」から東に100メートルの場所に「中城若松の火ヌ神」があります。この祠はもともとユナハンの麓に建っていた中城若松の屋敷跡にありましたが、若松公園の広場建設に伴い屋敷跡が埋め立てられる事になり、1989年12月12日に現在地に移設されました。「中城若松の火ヌ神」の祠内にはウコールや神石が設置されてウガンジュ(拝所)の役割があります。「中城若松の火ヌ神」がある小高い丘の裏麓には別の「火ヌ神」があり、ウコールと3つの神石が祀られていました。こちらの「火ヌ神」は若松公園と安谷屋の地の守り神として設置されていると考えられます。(邊土大主之墓)(野呂殿内/ヌルドゥンチ)「ユナハン」の南側の麓に「邊土大主之墓」が建てられています。「大主」とは「按司」に次ぐ高い身分の称号で「邊土大主」は「安谷屋按司」に次ぐ権力者でありました。また「安谷屋集落」の中心部に「野呂殿内」の屋敷があります。ノロ殿内やヌルドゥンチとも呼ばれる場所はノロ(祝女)が集団で住み祭祀を行う聖域で、現在は安谷屋ノロの子孫が暮らす屋敷となっています。ノロ制度が存在しない現在でも多くの人々が「野呂殿内」を訪れて現代の安谷屋ノロに会いに来るのです。(安谷屋のおもろ碑)「野呂殿内」から南西側の安谷屋公民館脇に「イームイ公園」があり、敷地内に「安谷屋のおもろ碑」が建立されています。歌碑には安谷屋グスクと城主、その城主と村人が互いにふさわしい関係にあったと謡い、安谷屋に世果報をもたらす城主を讃える事により村の繁栄を願った「おもろ」が記されています。御さけやらはかふし一 あたにやの きもあくみの もりに 世かほう よせわる たゝみ又 くすくと たゝみと しなて又 たゝみと まなてすと しなて (「おもろさうし」巻ニ)一 安谷屋の敬愛されている杜に 世果報を寄せなさる城主又 安谷屋グスクと城主がつり合って又 城主と愛すべき村人が和合して(安谷屋グスク)「中城若松の墓」がある若松公園の東側には「安谷屋グスク」が隣接しています。北中城村に点在するグスクでは、この「安谷屋グスク」が最も古いと言われています。安谷屋按司は勝連グスク按司の阿摩和利を討伐した鬼大城を中心とする第二尚氏の転覆計画に加わりますが、クーデターが察知されて鬼大城は滅ぼされます。後難を恐れた安谷屋按司は身を隠し、その後に尚円王の子である中城若松が安谷屋グスク城主になりました。(根所の火ヌ神/ニードゥクルヌヒヌカン)「安谷屋グスク」は南北約80m、東西約110mの大きさがあり二つの郭からなる連郭式の構造です。北西側にあるグスクの入り口には「根所の火ヌ神」(ニードゥクルヌヒヌカン)があります。この火ヌ神は一帯に「安谷屋集落」に関わる家があった事を歴史的に示す拝所で、字の祭事行事があるたびに拝まれています。「安谷屋集落」発祥の神が祀られている土地の守り神の役割があります。(イーヌカー)安谷屋グスクの中腹にある「イーヌカー」と呼ばれる井泉跡です。現在は湧水は出ていませんが、琉球王国時代には「安谷屋集落」の大切な水源として住民は洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用してきました。また、旧正月の元旦には若水を汲んでヒヌカンや仏壇に供えて、新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈っていたと考えられます。水の神が祀られるこの井泉は地域住民の祈りの対象とされています。(上の御嶽)「安谷屋グスク」の山頂にはウコールと琉球石灰岩が並べられた「上の御嶽」というウガンジュ(拝所)があり、グスクの守り神だと考えられます。中城若松は有名な琉球組踊「執心鐘入」に主人公として登場します。美少年として名の知られた中城若松は、首里での奉公に向かうその途中に日が暮れてしまい山中の宿に泊めて欲しいと願います。その宿では若い女が1人で留守番をしていました。女は親が居ないときは泊められないと断ります。しかし若松が名乗ると女は有名な若松に憧れの思いを寄せていたので、これは思いがけない好機と態度を一変させて家に招き入れたのでした。(宿の女の銅像)若松公園の入り口に設置されている「宿の女」の銅像です。若松は眠りにつきますが、女は若松への思いを遂げようと若松を起こして関係を迫ります。「そんなつもりはない」と頑なに拒む若松に女は「これも運命ですよ」と激しく迫り、しつこく若松に詰め寄ります。身の危険を感じた若松は、女の手を振りほどき外へと逃げ出したのです。(遍照寺跡)首里の末吉公園にある「遍照寺跡」です。当時、遍照寺は万寿寺とも呼ばれ、現在はわずかな石垣の遺構のみ残っています。さて、若松は末吉の万寿寺に逃げ込み住職に助けを求めます。住職は若松を鐘の中に隠し、寺の小僧達に番をさせ「決して寺に入れるな」と言いつけます。そこへ若松を追って宿の女がやって来たのです。(遍照寺跡の敷地)遍照寺(万寿寺)跡に残る寺の土台の一部と敷地です。ともあれ、小僧達は女を追い出そうとしますが、女は強引に寺に入ってしまいます。 寺中を探し回る女のただならぬ気配に気付いた住職は、若松を鐘から連れ出して逃がします。逆上した女は鐘にまとわりつき、鬼に変身してしまいます。しかし、住職は法力によって鬼女を説き伏せ鎮めることができ、中城若松を助ける事に成功したのです。(劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑)末吉公園に「劇聖玉城朝薫生誕三百年記念碑」があります。記念碑には中城若松が主人公である組踊「執心鐘入」の様子も表現されています。沖縄の民俗文化の未来のために生誕三百年を記念して「執心鐘入」ゆかりの地を朴し、この記念碑は建てられました。中城若松は組踊の他にも琉球歌謡集「おもろさうし」にも登場します。(若松のおもろの石碑)若松公園には「若松のおもろ」の石碑があります。石碑には「あだにやのわかまつ あはれわかまつ よださちへ うらおそうわかまつ 又きもあぐみのわかまつ」と記されています。直訳すると「安谷屋の若松は枝を伸ばし村を守護する立派な松である」と言う松の木を褒める内容ですが、この歌には安谷屋の若松の根心と聡明さ、有望な未来を若さと豊かさを象徴する松の枝に託して謡われた「おもろ」が掛けられているのです。(中城若松の墓)おもろ名人として知られる唄三線の始祖「赤犬子」が安谷屋のあたりで「まつ」という一人の子供と出会い、その振る舞いを見て作った歌がこの「若松のおもろ」です。中城若松は遺言に託した通り、愛する生まれ故郷の安谷屋の地に母と妻と共に同じ丘陵に永眠し、ユナハンの頂上から沖縄の平和と繁栄を見守っているのです。
2021.02.09
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(尚巴志王之墓)沖縄本島中部の読谷村「伊良皆集落」に「サシチムイ(佐敷森)」と呼ばれる緑豊かな森林があります。この森は国道58号線と米軍嘉手納基地弾薬庫の間に位置し、琉球三山(北山/中山/南山)時代を統一した第一尚氏王族の陵墓がひっそりと佇んでいます。「佐敷森」の名前は第一尚氏の出身地である「南城市佐敷」を偲んで名付けられ、王族が眠るこの森は混乱の世を生き延びた一族の誇りと、親子三代の強い絆を物語る逸話が込められています。(殿内火之神/トゥンチヒヌカン)国道58号線を嘉手納町から読谷村に入り「伊良皆」の信号を超えて直ぐ右に東に進む農道があります。真っ直ぐ進むと「ヒーハナジモー」がありますが、現在は米軍嘉手納弾薬庫の敷地内にあります。農道の一番初めを左折すると「サシチムイ(佐敷森)」に進む小道が続きます。まず初めに右手に「殿内火之神」があり「サシチムイ」を背に建てられており、祠内には中央の霊石を囲むように3つのビジュル石が祀られています。「サシチムイ」の入り口にある「殿内火之神」は聖なる森の"お通し"を意味する拝所となっています。(前ヌカー)(前ヌカー脇の香炉と水甕)ちなみに「殿内」とは琉球士族の総地頭職にある親方家を指す尊称で、王族である御殿の下に位置し高い格式を誇る家柄を指します。「殿内火之神」から続く「新綱引き(チナヒチ)道跡」を100メートルほど進むと右側に「前ヌカー」があります。状態の良い石垣で囲まれたこの井泉には現在も豊富な湧水があり、井戸の上部には2つのウコール(香炉)が祀られています。さらに井戸に向かって左側にはもう1つの香炉と非常に古い石造りの水甕が設置されていました。(ウフカー)(唐ヌカー/ウブガー)「前ヌカー」をさらに「サシチムイ」方面に向かうと右側に下る脇道があり進んで行くと「ウフカー」と「唐ヌカー」があります。子供が産まれた時に使用する産水を汲んだ井戸で、2つの井戸は近い位置に存在しています。「ウフカー」は水が枯れた井戸跡でしたが3つのウコールが設置されています。「唐ヌカー」は保存状態が良い石垣造りの井戸で、現在も豊かな水源をもたらしています。井戸にはウコール(香炉)があり、水の神に祈る拝所にもなっているのです。(ユナサモーの拝所)さらに農道を北に進むと沖縄戦の際に造られた「軍用機秘匿場跡の石畳」が続きます。この石畳に沿った右側は「ユナサモー」と呼ばれる森の御嶽となっています。「ユナサモー」には拝所が森の御嶽に向かって建てられおり、祠内には中央奥に御嶽を祀る主体のウコール(香炉)があり、前方に4基の香炉が設置されていました。御嶽の神と天地海空を意味するウコールが祀られ、集落の住民により祈られています。(イーヌカー/上ヌカー)「サシチムイ」の麓に「イーヌカー(上ヌカー)」があり、周辺では一番大きく湧き出る水量も最大となっています。「伊良皆集落」の住民の飲料水や生活用水に利用され、収穫した野菜を洗ったり衣類の洗濯をした井戸であったとも考えられます。「イーヌカー」は旧正月には若水を汲み、年中行事の中で祈りを捧げる神聖な場所であります。井戸の上部には祠が設置されておりウコールが祀られています。現在は農業用水として利用され、この一帯は現在も伊良皆の人々により整備や清掃がされて大切に守られています。(平田子之墓の鍾乳洞)(平田子之墓)(平田子の家系図)「イーヌカー」の直ぐ脇に「サシチムイ」の森があり、中腹には「平田子之墓」があります。「平田子(ひらたぬしー)」とは琉球三山時代を統一して琉球王国の初代国王に即位した「尚巴志」の長男です。「尚巴志」は父である「尚思紹」の次男「平田大比屋」が南山攻撃で戦死した際に「佐敷王子」だった長男を跡目に継がせました。こうして「尚巴志」の長男は平田家の養子となり「平田子」となりました。「平田子之墓」には「平田子」の家系図を示す石碑があり、息子が「高荘平田」その息子が「休林平田親雲上」さらに、その息子が「平田親雲上嗣嵩」と家系は続いてゆきます。(尚巴志王之墓の石碑)(尚巴志王之墓に向かう森)(第一尚氏王族陵墓の石碑)「尚巴志」は1429年に三山を統一して初代王に父の「尚思紹」を押し立てて「第一尚氏」王統の始祖となりました。父が亡くなった後に「尚巴志」は二代目の王となりました。その後、7代(63年)続いた「第一尚氏」の王達は最初、首里の天山陵に葬られていましたが、金丸(のちの尚円王)擁立のクーデターで一族と家来たちは首里を追われ、陵墓が焼き討ちにされる前に家臣の「平田子」と「屋比久子」達は亡き王達の遺骨をたずさえ各地に逃げ落ちたのです。(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓の鍾乳洞)(尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓)(陵墓の脇に続く鍾乳洞)かつて「尚巴志」が北山討伐の際に駐屯し、妾(めかけ)の「喜納東松田ノロ(祝女)」の故郷である読谷村伊良皆の森の岩陰に「二代目尚巴志王」の遺骨を埋蔵し「三代目尚忠王」と「四代目尚思達王」の遺骨は同村喜納の東側にある「竹山慶念堂」に葬り、後世になり伊良皆の「サシチムイ」の森に移動されました。陵墓の鍾乳洞からは現在も水滴が滴り落ち、墓前のウコール(香炉)には献花、酒、果物、お賽銭が供えられ、常日頃から参拝に来る人々が絶えない事が分かります。陵墓に向かって左側には鍾乳洞穴が奥深く続いており、非常に神秘的な雰囲気に包まれています。(屋比久子之墓の鍾乳洞)(屋比久子之墓)首里の天山稜で「尚巴志」「尚忠」「尚思達」の遺骨を焼き討ちから守った「屋比久子(やびくぬしー)」は一緒に遺骨を持ち出した「平田子」の息子で「尚巴志」の孫にあたります。祖父の遺骨を「サシチムイ」に葬った「屋比久子」の墓も同じ森に位置しています。「屋比久子之墓」は丁度「平田子之墓」と「尚巴志王之墓」の中間にあり、現代に至ってもなお「第一尚氏王族」の陵墓は「平田子」と「屋比久子」に守られている形となっています。墓前には父親である「平田子之墓」と同じ扇子の模様が彫られたウコール(香炉)が設置されています。(佐敷村字佐敷みひち門中参拝記念碑)「尚巴志王/尚忠王/尚志達王陵墓」の入り口に「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」の参拝記念碑があり、現南城市のこの門中は「第一尚氏王族」を氏神と称して崇める氏子(うじこ)です。「門中(もんちゅう/ムンチュー)」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事です。「門中」は17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達し、のちには本島北部や離島にも拡がりました。 その活動形態や組織結合の度合いは地域によって大きく異なります。(宮城島東江門中参拝記念碑)更に「サシチムイ(佐敷森)」の陵墓には「宮城島東江門中」の参拝記念碑も建立されています。うるま市宮城島宮城自治会の「なぁぐすく字誌」(2005年11月発行)によると「宮城島東江門中」は中山系で宗家は佐敷の新里にあると言われています。始祖は尚巴志の父(尚思紹王)の兄弟の分かれで、三山統一後に宮城島に逃れた者がいないか調べに来た際に、宮城島の女性と結婚して島にそのまま住み着きました。両門中は「神シーミー(神清明/門中シーミー)」や「東御廻り(アガリウマーイ)」に毎年訪れて参拝しています。(平田子のマーイサー)「尚巴志」「平田子」「屋比久子」の墓が祀られる「サシチムイ」の麓にある「イーヌカー」には大岩があり、これにまつわる「大力平田子(だいりきひらたしー)」という民話が読谷村に伝わります。『「平田子」は伊良皆に住むようになってからは畑仕事をしていたそうです。ある日、牛に犂すきを引かせて田を耕していると、金丸(のちの尚円王)からの刺客が佐敷森に「平田子」を探しに来たのです。すると「平田子」は田を耕していた大きな牛を捕まえて引っ張り畦あぜに放り上げました。さらに「イーヌカー」脇の土手にあった非常に巨大な石を「平田子」が一人で持ち上げ放り投げたのです。「こんな大きな牛を掴まえて放り投げるし、更にこんなに大きな石も取って放り投げるのだから恐ろしい人だ」と刺客は逃げ帰ったのでした。』(サシチムイ/佐敷森)この民話にちなんで「イーヌカー(上ヌカー)」の脇にある大岩は現在「平田子のマーイサー(大きな石)」と呼ばれて多くの人々に愛されています。そして、琉球王国の初代の王「尚巴志」は実の息子である「平田子」と孫の「屋比久子」に現在も守られ、更に所縁の深い「佐敷村字佐敷みひち(御引)門中」と「宮城島東江門中」に毎年参拝され「第一尚氏」一族は「サシチムイ(佐敷森)」に安らかに眠っているのです。
2021.06.01
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(湧川の御嶽)沖縄本島北部「今帰仁なきじん)村」の「湧川(わくがわ)集落」は1738年に創設されたムラです。約200年の歴史があるとされる集落では伝統行事が大切に継承されており、「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部では年中行事の「豊年祭」の際に県無形民俗文化財に指定されている中国由来の「路次楽(ろじがく)」という舞踊、棒術、獅子舞などが奉納され、集落の五穀豊穣と住民の無病息災が祈願されています。「路次楽」で用いられる吹奏楽器は「ガク」や「ガクブラ」と呼ばれ、主に行列をなすときに吹奏されます。なお「湧川集落」は周囲の集落と比べて新しいムラで、琉球士族が多く移り住んだ土地であったと伝わります。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ムラガー/村ガー)(ムラガーの水源)「湧川公民館」の北西側に「ヌルドゥンチ(ノロ殿内)」があり、社の祠内には火の神が祀られています。境内は70坪ほどあり「ノカネイ」と呼ばれる神職により管理されてきました。「ヌルドゥンチ」は通常、各集落のノロ(祝女)が住んだ場所ですが「湧川集落」は集落の発祥当時から現在に至るまで「勢理客ノロ(シマセンコ巫)」により祭祀が執り行われています。「湧川公民館」の北東側には「ムラガー(村ガー)」と呼ばれる井戸があります。かつて「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部で重宝された共同井戸で、現在も枯れる事なく水が湧き出ています。「ムラガー」の奥にある岩の割れ目が水源となっており、丘陵に降った雨水が琉球石灰岩により自然濾過されて湧き出ています。(イビヌメー)(イビヌメーの内部)(御嶽頂上のイビ)(御嶽のイビの霊石))「ヌルドゥンチ」の北側は「湧川の御嶽」の森となっています。森の丘陵中腹部に「イビヌメー(イビぬ前)」と呼ばれる小屋が建てられており、聖域である御嶽に入る門の役割をしています。御嶽の内側の神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を表していると考えられます。「イビヌメー」の奥から御嶽頂上の「イビ」に向かう階段が一直線に続いています。「イビ」は「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要な場所を意味します。更に、御嶽に祀られている霊石や御神体も「イビ」といいます。旧暦4月の最後の亥の日には「湧川集落」の年中行事である「タキヌウガン(嶽ヌ御願)」が執り行われ「勢理客ノロ」や「湧川の神人」により拝されています。(メンビャの広場)(メンビャの井戸のウコール)(シーシヤー/獅子屋)「湧川公民館」の西側に「メンビャ」と呼ばれる広場があり、そこにある大木の下には井戸跡がありウコール(香炉)が設置されています。「メンビャ」では「湧川集落」の棒術の演舞や、中国に由来する「路次楽(ろじがく)」の奉納踊りが行われます。「湧川集落」には今から約200年以上前に「與儀家先祖」と「與儀銀太郎」が移り住んだ際に「路次楽」が伝わり、戦時中も避難する壕の中で「路次楽」の楽器や道具が大切に保管されました。「湧川集落」では現在でも「路次楽」の踊り、音楽、楽器、楽器の製法や奏法などが忠実に受け継がれています。「メンジャ」から「按司道(あじみち)」と呼ばれる道を北に進むと「シシヤー(獅子屋)」の小屋があり「湧川集落」の守り神である「獅子」が大切に収納されています。(運天竜宮)(運天竜宮の祠内部)「湧川集落」の北東側沿岸に「運天竜宮」と呼ばれる「竜宮神」を祀った祠があります。海の航海安全と豊漁を祈願する拝所で、祠内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。さて「湧川集落」に伝わる有名な民謡に「モーアシビ(毛遊び)の歌」があります。『村寄しりしり 湧川村寄しり 村ぬ寄しらりみ あん小寄しり』(ムラをこちらに寄せてこい 湧川のムラを寄せてこい ムラを寄せることなどできるものか そちらこそ娘たちを寄こしなさい)「湧川集落」から海を挟んだ対岸にある「屋我地島」の若者が、一緒にモーアシビ(毛遊び)ができるように「湧川」のムラを引き寄せてこいと詠います。それに対して「湧川集落」では、そちらこそ「屋我地島」の娘たちを「湧川」に寄せなさいと返している歌です。(湧川の御嶽)『湧川美童や 天ぬ星ごころ 拝まりやすしが 自由やならぬ』(湧川の乙女たちは 天空の星のようなものだ 姿かたちを拝見することはできるが 自由に一緒に遊ぶ事はできない)これは「屋我地島」や隣接する集落の若者が詠ったとされる歌です。当時の「湧川集落」は地位の高い士族が多く住む集落で「名護市史近代歴史統計資料集」によると、1903年の「湧川集落」の士族戸数は247戸中100戸(約40%)という非常に高い比率となっていました。その為、士族の娘たちは集落の平民が集う「モーアシビ(毛遊び)」になかなか参加することが出来なかったそうです。
2022.03.22
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(パマイタラシキ御嶽)沖縄本土北部の名護市東海岸に「嘉陽(かよう)集落」があり、約1700年前の沖縄貝塚時代後期から存在するこの集落は方言で「ハヨウ」と呼ばれます。太平洋に面した砂地に立地する「嘉陽集落」は間切ごとの石高を示した「琉球国高究帳(1635-1646年)」には名護間切「かやう村」と記されています。「嘉陽集落」の西側にある「ハンサ山」の裾には墓地が広がり、かつてこの山は風葬や洗骨が行われ、ワラビ墓と呼ばれる子供の墓もあります。「ハンサ山」の西の麓には「パマイタラシキ」という御嶽があります。「琉球国由来記(1713年)」には「濱板良敷嶽 (神名:ソノイタジキノ御イベ」と記載されており、この御嶽は「イリヌウタキ/西ヌ御嶽」とも呼ばれています。(パマイタラシキ御嶽の祠)(パマイタラシキ御嶽の祠内部)「パマイタラシキ御嶽」にはかつて首里から伝えられたミカネ(御鐘)が鎮座していて住民の御願の対象となっていましたが、沖縄戦の混乱の中で失われたと伝わります。この御嶽は旧暦1月1日の「ハチウガミ(初拝み)」の際に集落の住民により拝され、さらに旧暦9月9日の「クングヮツクニチ」の「チクザキ(菊酒)」には、昔は各家庭でご馳走を持ち寄り「パマイタラシキ」の木の葉に乗せて皆に振る舞っていたそうです。西側に向けて建てられた御嶽の「イビ」である祠内部には、神が宿るとされる幾つものビジュル(霊石)が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。(ガジュマルの老樹とシーサー群)(アンスナー/遊び庭)「嘉陽集落」は全体が「嘉陽貝塚遺跡」に属しており、集落内からは沖縄貝塚時代後期後半を代表する括れ平底の土器、グスク時代の土器、奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていたカムィ焼、中国産の青磁、染付、南蛮陶器などが発掘されています。「嘉陽集落」はアガリ(東)とイリ(西)に分かれており、アガリには「アンスナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。「アンスナー」には樹高12m、推定樹齢120年以上のガジュマルの老樹があり、名護市の名木にも登録されています。ガジュマルの前には大小合わせて13体のシーサー群が立ち並び、集落の憩いの場として親しまれています。(アンスナーの合祀所)(拝所のヒヌカン/火の神)(拝所のヒヌカン/火の神)「アンスナー/遊び庭」の広場にかつて点在していた「ニガミヤー」「ニーブガミ」「アジヌヤー」の3つの拝所は現在、ガジュマルの脇に1ヶ所に集められた合祀所となっています。集落発祥の根屋(ニーヤ)から出た姉妹である「ニガミ/根神」が住んだ家を「ニガミヤー/根神屋」と言い、神酒を管理した役職は「ニーブガミ」と呼ばれていました。それぞれの家のヒヌカン(火の神)がこの合祀所の拝所に祀られており、3体のビジュル(霊石)と1基のウコール(香炉)が設置されています。また「嘉陽」の土地を治めた「按司(アジ)」が住んでいた場所を「アジヌヤー/按司ヌ屋」と呼び、木製の扉が付いた拝所には位牌と綱引きの際に使うトゥールという旗頭が大切に収められています。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ヌルドゥンチ/ノロ殿内の内部)(比嘉家/根屋)ガジュマルの老樹がある「アンスナー/遊び庭」から道を挟んだ西側に「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の社があり、内部にはヒヌカン(火の神)が祀られています。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の西側に隣接して「比嘉家」の屋敷があり「嘉陽集落」の発祥に関わった「ニーヤ/根屋」となっており、集落の祭祀を司る「嘉陽ノロ(祝女)」は代々この「比嘉家」から出ていました。「アンスナー」の「ニーブ神」は「比嘉家」の拝所として、集落のムラ行事で御願する事はありません。また「ニーブ神」の神職には「比嘉家」の男性が就く決まりがありました。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の東を通る道は「ヌルドゥンチジョウグチ」と呼ばれる神聖なカミミチ(神道)で、葬式の際に遺体を運ぶ龕(ガン)と呼ばれる屋形の輿の通行や参列者の往来は固く禁じられていました。(シーシーヤー/獅子屋)(シーシーヤー/獅子屋の内部)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内の内部)「比嘉家」の屋敷の西側にある「シーシーヤー/獅子屋」では「嘉陽集落」の獅子が納められています。旧暦8月15日は獅子の誕生の日とされており、獅子舞が奉納され「ウシデーク/臼太鼓」と呼ばれる女性による踊りが行われます。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の木の下で着替えた踊り手は西側に隣接する「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」から踊りを始め「アンスナー/遊び庭」に移動して踊り続けます。この「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」には出所がわからない七基のウコール(香炉)が祀られており、かつて南西側の「安倍集落」と北東側の「天仁屋集落」から、それぞれ「比嘉家」の長男系と次男系のムンチュー(門中)が御願に訪れていたと伝わります。(カミミチ/神道)(ウトゥーシン/御通神)「アンスナー/遊び庭」から「嘉陽集落」の東にある「ウイグシク/上城」方面に向かう道も「カミミチ/神道」と呼ばれています。この神聖な道の先には「ウトゥーシン/御通神」と呼ばれる拝所があり「御通神」と彫られた石碑が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。「ウイグシク/上城」の拝所は山の上にあるため、足が悪い人やお年寄りはこの「ウトゥーシン/御通神」から拝します。「ウイグシク/上城」に向けられて建立された「ウトゥーシン/御通神」は「嘉陽城嶽」の御嶽を御願する遥拝所の聖域として崇められているのです。このように「嘉陽集落」は東西を「嘉陽城嶽」と「濱板敷良嶽」の2つの御嶽に挟まれており、集落の中央には拝所が点在する聖域となっているのです。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.05.19
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(健堅大親の墓/健堅之比屋御墓所)沖縄本島北部「本部町」の西側で「瀬底島」の東側に「健堅/けんけん集落」があります。この集落は沖縄の方言で「キンキン」と呼ばれており、国道449号(本部町南道路)の「瀬底大橋」の入り口付近に「健堅大親の墓」があります。この墓は「健堅之比屋御墓」や「キンキンヌヒャーの墓」とも言われています。この墓がある「健堅集落」は琉球王府時代からの古い村で、1666年(尚質王代/康熙5年)に今帰仁間切より伊野波間切を創設した際の11村の内の1つとなっています。また、本部町で最初に文献に出てくるのが「健堅大親/キンキンウフヤ」で、琉球の正史と言われている「球陽」巻一察度45年(1394年)の条には『本部郡健堅大親給馬中華人似蒙招撫/もとぶぐんきんきんうふやうまをちゅうかじんにきゅうしもってしょうぶをこうむる』と記されています。(健堅大親の墓への階段)(健堅大親の墓のウコール)(健堅大親の墓の石碑)「久米島」の「堂之大親/どうぬうふや」と親交を結んでいた「健堅大親」が島を訪れた際、暴風の悪天候で漂流した中華人を「健堅村」に連れ帰り、中国に帰る為の船と良馬を与えた事から、中国の皇帝は琉球王国を通じて神に奉献する幣帛(へいはく)と石碑を贈り褒賞したとの記述が「球陽」に残されています。ちなみに、この文献から中国貿易が行われていた「察度王代」の14世紀末には、琉球には相当な数の集落が形成されていたと考えられます。「健堅大親」の墓がある丘陵一帯は「駈ヶ原/カキバル」と呼ばれており、この名称は「健堅大親」が中華人に馬を与えた事に由来していると伝わっています。この墓のウコール(香炉)には『奉納 鳳姓一門』と刻まれており、石碑には『鳳姓元祖 父 松寿 五十三才 健堅比屋御墓所 明治三十六年吉日 幼名 次郎 同年迠三百六十二年 次男 亀寿』と彫られています。(健堅集落の古島周辺)(アメラグスク)(アメラグスク/健堅之比屋御屋敷跡の入り口)(健堅之比屋御屋敷跡/井戸跡)「健堅集落」の主要な拝所がある「ウインバーリ/上バーリ」の北東側約700メートルの位置は集落の「フルジマ/古島」と呼ばれています。古老の話によると「健堅村」は北側に隣接する「辺名地」から移動し「ヒナンジャー/辺名地川」(大小堀川上流)南側の大地に集落を形成したと言われています。この「フルジマ」には「健堅大親」の屋敷跡や井泉がありましたが「ベルビーチゴルフクラブ」の建設により、現在は拝所として「アメラグスク」に移設され祭祀の対象となっています。「健堅集落」の北側にある「アメラグスク」は標高50〜60メートルの丘陵上にあり、石垣遺構などは確認されておらずグスクの調査が困難となっています。しかし「アメラグスク」は海や船舶の管理や監視の為に築造されたと言われており、12〜13世紀に「今帰仁グスク」が築城された為に途中で放棄されたグスクであると伝わっています。(アメラグスク拝所)(アメラグスク拝所の石碑)(アメラグスク拝所の祠内部)(健堅之比屋御屋敷跡の石碑)(健堅之比屋御屋敷跡/移設された井戸跡)「アメラグスク」の西側にはグスクの入り口があり、階段を登ると「アメラグスク拝所」があります。拝所の石碑には『アメラグスク拝所 建立 平成十一年二月十日 旧十二月二十四日』と刻まれています。拝所の祠内部には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに、この拝所の敷地には「フルジマ」から「健堅大親」の屋敷跡と井戸跡が移設されており、石碑には『健堅之比屋御屋敷跡 拝所』と彫られており、石碑には向かって左側には井戸跡と『鳳姓健堅御屋敷』と記されたウコールが設置されています。「健堅村」は本部間切の「名島/なじま」と呼ばれる一村で、地頭代(地頭の代官)として地方行政を担当した人物は「キンキンヌペーチン/健堅親雲上」と呼ばれていました。地頭代職を務めた家は現在でも「キンキンヤー/健堅屋」と言われています。(ニーヌファ/子の方)(ニーヌファの神屋内部)(ニーヌファのウコール)(ニーヌファのヒヌカン)「健堅集落」の東側に航海安全を祈る「ニーヌファ/子の方」と呼ばれる拝所があります。女神が祀られていると言われている「ニーヌファ」は旧暦の7月19日〜24日に執り行われる集落の年中行事である「シヌグイ」で拝されています。最終日の24日に実施される「ウワイシヌグ」では、まず最初に「ニーヌファ」の拝所に行きます。神屋では神役の「ニガミ/根神」が3基のウコールに2ヒラ(1ヒラは6本)づつのウコー(御香/沖縄線香)を立てます。次に共に参加する一般の婦人達も各々2ヒラを「ニガミ」に手渡しウコールに立ててもらいます。その後「ニガミ」を中心にして全員で手を合わせます。「ニーヌファ」に祀られている2基のウコールには、それぞれ『村元根神支』『如女神支』と記されており「ヒヌカン/火の神」の丸型のウコールには『国火山岳』と彫られています。(シジマ乙樽本墓)(竜宮神/お宮の鳥居)(竜宮神/お宮)(竜宮神/お宮の拝所)(竜宮神/お宮の拝所)「健堅大親の墓」の北東側約100メートルの海岸沿いに「シジマ乙樽本墓」と記された石碑と墓があり、2基のウコールと花瓶が設置されています。三山時代に今帰仁グスクの南側に「志慶真村/シジマムラ」という集落があり「乙樽/ウトゥダル」という絶世の美女がいました。神様のように気高い「乙樽」は「今帰仁御神/ナキジンウカミ」と呼ばれていました。時の今帰仁の主(王様)は「乙樽」を城内に召し上げて寵愛し、王妃が産んだ今帰仁王子を「乙樽」は我が子のように可愛がったと伝わっています。さらに「健堅集落」の東側にある「浜崎漁港」には航海安全と豊漁を祈る「竜宮神」の拝所があり、住民からは「お宮」の名称で親しまれています。「崎浜漁港」は古くから中国や薩摩への船が停泊した場所で、漁港の入江や大小堀川の河口は「ヤンバル船/山原船」が出入りした津(港)として知られて賑わっていました。
2023.08.14
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(殿/内原ノ殿)「新垣グスク」は「新垣集落」の北側約170mの位置にあり、地元では「御嶽(ウタキ)」と呼ばれています。グスクの石積みはほとんど無く築城年代は不明ですが、1300〜1350年頃にアラカチヤマ(新垣山)高方に築城されたと伝わります。「中城グスク」と同年代に築城されたと言われており、城壁を支える根石がみられ1500年代にかけて「殿/内原ノ殿」周辺まで城壁が築かれていました。「新垣グスク」には1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された歌謡集である「おもろさうし」に「新垣のねだかもりぐすく」と謡われるなど、グスクと城主を称える「おもろ」が残っています。また、城主家の婚儀を祝して神女官から下された神託の「おもろ」も謳われています。(カミミチ入口)(カミミチ入口の階段)「カミミチ(神道)」は「新垣上原遺跡」から「新垣グスク」を通り「中城ハンタ道」へと通じる道で、現在通行止めになっている本来の「中城ハンタ道」の迂回路としても利用されています。「カミミチ」周辺には「新垣グスク」の遺跡文化財や古墓群が多数点在し「新垣の御嶽(上の御嶽)」と「殿/内原ノ殿」の2つの拝所への参拝路である事から「カミミチ」と呼ばれています。この2つの拝所は「琉球国由来記(1713年)」にその名称が記されています。「カミミチ」は神様の通る神聖な道なので塞いではならず不浄な行いも禁じられています。古来より「新垣集落」の人々により大切に守り受け継がれている聖なる道なのです。(ナナジョウオハカ/七門御墓)「カミミチ」の階段を登ると丁字路になっており、右に進むと「カミミチ」で左に進むと「新垣の御嶽(上の御嶽)」の森となっています。「新垣の御嶽」方面に進むと右側に「ナナジョウオハカ(七門御墓)」があり「新垣集落」の各門中(ムンチュー)の祖霊神を祀った場所だと言われています。岩盤の割れ目の元にはウコール(香炉)があり、その奥に立ち入ると祟りが起きると恐れられています。かつては「ムラシーミー(村清明祭)」に祈願されていましたが、最近ではお米が収穫できたことへの感謝祭である旧暦8月10日の「カシチー」に拝まれるようになりました。(カニマンオハカ/カニマン御墓)「ナナジョウオハカ」から御嶽森を進むと大岩があり、その麓に「カニマンオハカ」が祀られています。「カニマン御墓」とも呼ばれ、カンジャヤー(鍛冶屋)との関わりがあった人物や、集落で最も裕福だった人物の墓だったなど諸説ありますが詳細は不明のままです。戦前までは西側の崖の近くにありましたが、戦後直ぐに崩落してしまい現在地に移設されました。この大岩の根本にはガマ(洞窟)に造られた掘り込み式の「カニマンオハカ」があり、ガマの入り口には石垣の跡が残されています。この古墓は「新垣集落」の重要な祖先の墓として現在も住民に祈られています。(ウシノハナモーモーの岩)(ウシノハナモーモーの香炉)「カニマンオハカ」の西側で「新垣グスク」の最西端の森道に「ウシノハナモーモー」と呼ばれる岩があります。この岩は牛の頭の様な形をした鍾乳石で、宜野湾市「野嵩集落」の「ノダケバンタ(野嵩崖)」と「ウシノハナモーモー」が喧嘩をし両方が吠えて共鳴したとの伝説があります。北西側に隣接する「野嵩集落」方面からやって来る悪霊から「新垣集落」を守る守護神として「ウシノハナモーモー」にはウコール(香炉)が祀られており、現在も集落の住民から大切に祈られています。(ミージャーガーのガマ)(ミージャーガーのガマ内部)「ウシノハナモーモー」から森道を北に進むと、右側に東に向かう道があります。その道の先には「ミージャーガー」のガマ(洞窟)が姿を現し、ガマの内部に「ミージャーガー」の井戸があります。豊かな水量と質の良い水である事から「新垣集落」の人々の生活に欠かせない井戸だったと伝わります。正月の若水や出産の産水、豆腐作りなどに使用され「ミージャーガーの水で顔を洗うと若返る」という伝承もありました。当初、ミーヤ(新垣集落の旧屋)の犬がこの井泉を発見した事から「ミーヤーガー」と呼ばれていました。後にそれが訛って「ミージャーガー」となったと伝えられています。(ミージャーガーの石碑)(ミージャーガーの石碑)ガマの内部には非常に水量の多い井戸水が溜まっており、左奥の水路から湧き水が流れ込む音がガマの内部に響いています。「ミージャーガー」の傍に「昭和ニ年十月改築」と「字新垣青年團創立十年記念」と刻まれた2つの石碑があります。「新垣集落」に水道が普及してから、水瓶を頭に乗せて歩く女性達の姿は見られなくなりましたが、現在でも甘くて美味しい湧き水として定評をえています。「ミージャーガー」にはウコール(香炉)が祀られており、集落の人々は水の神様に豊かな恵みを感謝する井戸拝みで祈りを捧げています。(カミミチ)(ワーランガー)(新垣の御嶽の古墓)「カミミチ」に戻り東に進むと左側の崖の麓に「ワーランガー」の井泉があります。「ワーランガー」の言葉の由来や意味は不明ですが、石垣に囲まれた穴からは水が湧き出ています。「ワーランガー」の崖から北側に広がる森は「新垣の御嶽(神名:天次アマタカノ御イベ)」の神域となっており「上の御嶽」または「新垣ノ嶽」とも呼ばれています。御嶽森の奥深くの場所に大きな口を開けたガマ(洞窟)があり、入り口には幾つもの石垣が積まれています。向かって左側には花瓶や湯呑みがお供えされている為、このガマは掘り込み式の古墓であると推測されます。古の琉球では風葬が主流で、亡くなった死体を人目のつかないガマに運び骨になるまで安置しました。この「新垣の御嶽」のガマも風葬に使用された洞窟であったと考えられます。(殿/内原ノ殿)(殿/内原ノ殿の案内板)(殿/内原ノ殿の祠内部)「新垣の御嶽」から東側に約60mの位置に平場が広がっており、横幅4m/高さ2m/奥行き3mの祠が建てられています。「殿/内原ノ殿」は「ヨキヤ巫」と呼ばれるノロの管轄する祭場で、祠内には御神体として幾つかの自然石(霊石)とウコール(香炉)祀られています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願には、この平場に「新垣集落」の住民が総出で集まりウンサク(神酒)をお供えし祈っていました。グスク時代には「新垣集落」の女性達が住んでいたと伝わる事から、集落のノロが住み祭祀を行っていた「ノロ殿内」の役割があったと考えられます。祠内には他にも古い琉球赤瓦が並べられており、戦前の技法で造られた歴史的価値の高い赤瓦だと思われます。(イリヌカー/西ヌ井戸)(アガリヌカー/東ヌ井戸)「イリヌカー(西ヌ井戸)」は「新垣グスク」の殿曲輪内で「殿/内原ノ殿」の向かって左側にある石積みで囲まれた井戸跡です。「アガリヌカー(東ヌ井戸)」は「殿/内原ノ殿」から北側約20mの位置にある石積みで丸く囲まれた井戸跡です。いずれの井戸も戦前まで井戸水が豊富にあったと伝わっています。戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー(稲ニ祭)の豊作祈願に拝まれています。「新垣内原遺跡」が入口の「カミミチ(神道)」は「アガリヌカー」から東側に進み階段を降り、再び「中城ハンタ道」に合流する地点が「カミミチ」の出口となっています。(カミミチの出口/新垣グスクの案内板)「カミミチ(神道)」の出口から北側に「中城ハンタ道」が続いています。「新垣集落」の北方にそびえる新垣山に「新垣グスク」があり、そこには周辺地域を支配する城主(按司)が存在していたとされます。「おもろ」の内容を見ると城主の威厳と繁栄をうかがわせる内容が謳われています。また、良質の輸入陶陶器も多く出土していることから、当時の「新垣グスク」とその周辺の地域は「中城」の内でも特に栄えていたと考えられます。(ツンマースから眺める中城湾と知念半島)「新垣グスク」に関する「おもろ」一 あらかきの、ねたか、 もりくすく、てたか、 ふさよわか、くすく 又 てにつきの、ねたか、もり (訳) 新垣の根高杜城(新垣グスク)は、 城主の居城にふさわしいグスクである一 あらかきの、ねだか、 もりぐすく、てだが、 ふさよわる、ぐすく 又 てにつぎの、ねだか、もり(訳) 新垣の天頂の根高杜ぐすくは、 太陽の栄え給うぐすくである一 あらかきの、くにの、ねにけよ、 しよる、つかい、 もゝとの、つかい又 天つぎの、しまのねに(訳) 新垣の天頂の国の根(中心)に 今日している神迎えは、 いく度もくり返したお招きなのだ−『琉球王国時代の中頭方東海道@中城村「中城ハンタ道」(後編)』に続く−
2021.10.28
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(スクブ御嶽)沖縄市登川の閑静な住宅地に「すくぶ公園」があり、敷地のど真ん中には「スクブ御嶽」の神山がどっしりと構えています。沖縄の公園で御嶽があるのは珍しく、公園敷地の大半を御嶽が占めている神秘的な空間に包まれています。(スクブ御嶽の石碑)赤い鳥居の左側には「スクブ御嶽」と記された石碑があります。石碑の奥には御嶽のガー(井戸)が祀られており石造りのウコール(香炉)が設置されています。スクブ御嶽のスクブとは稲の籾殻の事で、沖縄市には「三人の力持ち」という有名な琉球民話があります。(鳥居脇のウコール)昔、池原にウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーという三人の力持ちがいたそうです。三人はいつもスクブ御嶽に手を合わせて「催眠術を教えて下さい」とお祈りしてから武術の稽古をしていたので、たいそうな力持ちになり三人に勝つ者は誰もいなかったそうです。三人は稲を刈ってきたら、それをお椀に入れてつつき、食べた後の籾殻が山のように積まれたことから「スクブ御嶽」という名前が付いたそうです。(スクブ御嶽の階段)鳥居を潜り階段を登って行くと奥には拝所が見えてきます。ここから一直線に天空に延びる階段を一段一段上がるにつれて、御嶽周辺の登川地区と池原地区を見渡せる素晴らしい風景に変わって行きます。(お通し拝所のウコール)鍵がかけられた鉄格子の中には3つの石造りのウコールと琉球石灰岩で作られた古いウコールが1つ設置されていました。私は拝所にひざまづき手を合わせ、自己紹介とスクブ御嶽に訪れた理由を告げて沖縄の平和を祈りました。(拝所脇の出入口)拝所の右にも鉄格子があり、半開きながらも私を奥地へと誘い込む雰囲気を醸し出していました。私は拝所にこの先に進み見学する旨を告げて一礼し、暗闇に不気味に続く縦に細長い入り口に足を踏み入れたのです。後日、登川地区に住む方から話を聞いたのですが、この扉が開いている事は滅多になく、正月やお盆など特別な時のみ解放されるそうです。(スクブ御嶽の丘陵)扉を抜けるとそこは整備されていない亜熱帯ジャングルになっており、ここからは完全に神の聖域で非常に強いパワーが張り詰めた空気に一変しました。ガジュマル、シダ植物、多種にわたる亜熱帯植物をかき分けつつ、猛毒のハブに気を付けながら足場の悪い道なき道を少しずつ少しずつ進み続けます。(スクブ御嶽)辿り着いた場所は「スクブ御嶽」のウガンジュで、ウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの三基の石造りウコールが設置されていました。御嶽の右手前にはマース(琉球粗塩)が三つ盛られるのを確認できます。私はスクブ御嶽にウートートー(拝み)して沖縄の平和を祈りました。(お供えの沖縄粗塩)どうやら先程通過した拝所は「スクブ御嶽」のヒヌカンと考えられ、御嶽本体へのお通しの役割があると思われます。ハブがいつ出ても不思議でない無整備の亜熱帯ジャングルは足場が非常に悪く、御嶽を訪れる方々がもし足が悪かったり歳を取られていた場合、手前のお通しの拝所で祈る事が出来るのです。(御先御殿/殿内)再び入り口の赤い鳥居に戻り公園を時計回りに散策すると、山の麓の右手に「御先 御殿 殿内」と記された拝所を発見し、拝所に続く階段を登り鉄格子のある場所を目指します。(御先御殿/殿内の内部)そこには足元に大小多数の石と一つのウコールがあり、格子内部には四つのウコールが設置されていました。さらに左奥に白装束を着た白い髭の神様の絵画、中央奥には観音様の像、右奥に子供を膝に座らせて抱き抱える観音様の像が祀られていました。(御先御殿/殿内の石碑)拝所の右側を進むと石碑が建てられており「子(ネ)ぬは午(ウマ)ぬは卯(ウ)めは西(トイ)め 四チン中軸(ナカジク)や池原と登川 登川ぬ村ぬ湖金軸拝(クカニジクウガ)で 池原ぬ村ぬ波座軸(ナンザジク) 拝(ウガ)で世々といちまでん 幸(シアワ)せぬ御願(ウニゲ)」と記されています。(ウガミン登/金満宮の石碑)石碑の右奥には「ウガミン登 金満宮」と記されたもう一つの石碑と四つの石造りウコールが設置されていました。石碑には霊石が祀られています。かつて、この地に「ウガミン登 金満宮」があったと考えられます。(スクブ御嶽麓の拝所)さらに左奥に登る坂道を進むと鍾乳石の下に黒く丸い筒状の石物があり、その横にはヒヌカンのウコールが無造作に置かれていたのです。中央の黒い筒状の物体は御嶽公園入り口にある井戸跡と同じ素材と形状をしていました。これは鍾乳石から湧き出たカー(井泉)があった場所だと考えられます。(すくぶ公園の竣工記念碑)スクブ公園の北西には竣功記念碑が建てられていてスクブ御嶽の歴史が記されていました。第二次世界大戦後、登川地区はキャンプ ヘーグ(Camp Hague)と呼ばれる米軍海兵隊の基地がありました。1977年5月14日に沖縄に全面返還されましたが、それまでは基地内で小型核兵器の訓練などが行われていたのです。訓練中に兵士数人が事故で被ばくし、通常の80倍以上の濃度の内部被ばくが確認された事が報告されています。(すくぶ公園)沖縄市登川地区で生まれ育った知り合いの話では、米軍統治下のスクブ御嶽の山を海兵隊が崩そうとすると、必ず重機が倒れる原因不明の事故が連続し、海兵隊員が3名死亡したと言われています。更に、沖縄返還後に民間の工事業者がスクブ御嶽の区間整備をしていたところ、重機が突然ひっくり返る大事故が起きたとも言われています。また、スクブ御嶽周辺の住宅やアパートでは心霊現象がかなり多く、御嶽の神山に謎の青い発光体が出現する目撃情報も多数耳にします。(スクブ御嶽のウコール)これらの不可解な出来事は琉球民話に登場するウーヌナーカウスメー、カーローベンサー、メーローウスメーの「三人の力持ち」がスクブ御嶽を守護している証なのか。それとも祀られた石の神様の祟りなのか。いずれにせよ、御嶽に訪れた私自身が奇妙な力により惨事に巻き込まれなかった事に感謝したいと思います。
2021.01.04
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(砂辺馬場公園)「砂辺集落」は沖縄本島中部北谷町の西海岸に位置し、集落の歴史は古く1713年に琉球王国の王府が編纂させた地誌「琉球国由来記」にも名前が記されており、美ら海を望む平和な暮らしがあった集落でした。海面を覆い尽くす米軍艦隊による艦砲射撃と共に上陸作戦が遂行された悲劇の日、1945年4月1日までは…(第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント)「砂辺馬場公園」には「第二次世界大戦米軍上陸地モニュメント」があります。日本唯一の悲惨な地上戦は、一般住民をも巻き込み沖縄全体で20万余りの尊い命を奪い去りました。モニュメントには「沖縄戦の体験と実相から、戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、平和の理念として戦争に繋がる一切の行為を否定する…沖縄戦の風化をゆるさない歴史的礎として、米軍上陸碑をここに建造する」と記されています。(砂辺馬場公園の砂辺之竜宮神)「砂辺集落」西側の海辺には「砂辺馬場公園」があり、敷地内に「砂辺之竜宮神」の拝所があります。竜宮神は海の神様が祀られており竜宮神の石碑と石造りの香炉が設置されていました。沖縄戦で米軍に占領されていた砂辺集落は1954年(昭和29年)に沖縄に返還されました。集落に戻った住民は砂辺集落の復興に力を尽くしたのです。(唐井之水神)(唐井之水神の井戸内部)砂辺馬場公園の北側に「唐井之水神」があります。「トーガー」と呼ばれるこの井戸は深さ3メートル程あり、水量は現在も豊富で石組は戦前から存在しています。米軍により井戸は埋め立てられていましたが、ある住民の眼病をきっかけにユタの助言で井戸が発見され整備されました。「トーガー」は戦前より水の神に祈るムラウガミ(村拝み)の対象であり、現在は旧暦1月2日の「カーウガミ(井戸拝み)」で拝まれています。(ウブガーの入口)(砂辺ウブガー水神の石碑)「ンブガー」または「ホーヤーガー」とも呼ばれ、階段を降りた鍾乳洞窟の先に水が沸いています。子供が産まれた時に井戸の水を音を立てないように汲み眉間に水を付けました。また、水を組む時に手を振るわせると子供が喘息になるとも言われたのです。正月の若水もこの井戸から汲み、芭蕉(バナナ)の葉で作ったニーブと呼ばれる器でゆっくりと水を飲んでいました。(クマヤーガマの門)(クマヤーガマへの階段)砂辺集落の南部にある自然の形のままのガマ(洞窟)で「クヤマー」と呼ばれています。米軍による1945年10月10日の「十・十空襲」の後、クマヤーガマを防空壕として使う様に整備されて天井には6つの空気穴が設置されました。その後の空襲では300人余りの住民が非難し、1人も死傷者を出さなかったと言われています。(クマヤーガマ納骨拝殿)戦後に砂辺集落が米軍に摂取されガマの入口が埋められてしまいました。クマヤーガマ周辺は1956年に返還され更地になり、住宅地の開発が行われました。平成元年にガマの入口が発見されると発掘調査が行われたのです。ガマの入口からヒスイやかんざし等の装飾品が出土した他に、風葬が行われた場所であったため多数の古い頭蓋骨や人骨が発見されました。それらの人骨はクマヤーガマに隣接した納骨拝殿に納められています。(砂辺之寺/ティラ)(ティラのガマ)「クマヤーガマ」の西側にあるガマで拝所として聖域として拝まれていました。ガマの内部は10名程が入れる狭さでしたが、戦時中に「クマヤーガマ」と細い地下通路で結ばれて防空壕として利用されました。旧暦8月15日に「ティラメー」という拝み行事があり、旧暦9月には住民が重箱に揚げ豆腐、芋の天ぷら、魚料理などを持ち寄り「ティラ」に拝みに行きました。(天孫子按司之墓)国頭村辺戸の「安須森」今帰仁村の「カナヒヤブ」南城市の「斎場御嶽」を創った天帝と呼ばれる琉球開闢の神様が、自分の子供である男女を地上に降ろし、二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなったのです。長男は「天孫子」と名乗り国の主として統治したと伝わり、砂辺集落にあるこの「天孫子按司之墓」は次男の按司が眠る墓だと言われています。(踊神之墓の石碑)(踊神之墓)砂辺公民館に隣接する場所に「踊神之墓」がありウコール(香炉)が設置されています。戦後に砂辺公民館を建設する際に多くの人骨が発掘された為この地に祀られています。戦前にはこの地にアシビナー(遊び庭)があり、集落の住民はムラアシビ(村遊び)でエイサーを踊っていました。それに因んで踊神(ウドゥイガミ)を祀る墓が建てられたのです。(獅子屋/シーシヤー)「踊神之墓」から東側の道路を1本渡った場所に「獅子屋」と呼ばれる獅子舞を奉納する拝所があります。獅子舞の獅子を収める小屋で集落では神聖な場所とされています。旧暦7月17日のシーシヌウグヮン(獅子の御願)や旧暦8月15日の十五夜に集落の有志により獅子舞が披露され、普段は「獅子屋」に箱に収められ大切に安置されています。(地頭火の神の入口)(地頭火の神)この地はもともと地頭と呼ばれる砂辺集落の集落長の屋敷があった場所で、廃藩置県で地頭が那覇に引き上げた後も残ったヒヌカン(火の神)を祀っています。この場ではかつて集落の公的な祭祀に使用された場所で、以前はヒライサーと呼ばれる石化したテーブル珊瑚で造られた祠でした。弱い造りだったため台風が来るたびに劣化してしまい、現在は砂辺集落により堅固な祠が建立されています。(伊平屋ウトウシ神)「伊平屋ウトウシ神」はイヒュウトゥーシとも呼ばれる拝所で、伊平屋の按司を遥拝するための拝所です。砂辺集落の最北端に位置し、「カンカー」と呼ばれる魔除けの儀式や「イヒャウトゥー拝み」と呼ばれる祈願行事を行なっていました。砂辺集落の北の入り口を見張る守り神としての役割があり、集落への「お通し(ウトウシ)」として拝する場でもありました。(砂辺集落北部を仕切る嘉手納基地のフェンス)(砂辺集落上空を飛来するMC-130J)1945年の沖縄戦に米軍が上陸した砂辺集落は米軍嘉手納基地に隣接しておりフェンスで仕切られ、上空を特殊作戦機MC-130Jが爆音を立てて日常的に飛来します。かつて米軍が上陸したビーチには現在、米軍関係者を対象とした巨大マンションや宿泊施設が建てられ、砂辺集落には米軍関係者が数多く生活しています。砂辺集落は琉球王国から継承される遺跡文化財が数多く残ると共に、返還後も米軍関係者が普通に生活する"チャンプルー集落"となっています。沖縄では米軍基地問題は賛否両論多々ありますが、砂辺集落は沖縄の米軍基地の現状を分かりやすく示している集落となっているのです。
2021.04.26
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(勢理客ノロ殿内)沖縄本島北部の本部半島に「今帰仁(なきじん)村」があり、村の北東側に「勢理客(せりきゃく)集落」があります。「勢理客」という名称は浦添市の「勢理客(じっちゃく)」という読み方で知られていますが「今帰仁村」の「勢理客」は「せりきゃく」と読みます。尚、琉球王府により編纂された「おもろさうし」(1531-1623年)には「せりかく」と謳われています。「勢理客集落」は「今帰仁村」で最も面積が小さなシマですか「シマセンク(シマセンコ)巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ(祝女)」は「勢理客・運天・上運天・湧川」の4集落を管轄し祭祀を司った位の高いノロでした。「勢理客公民館」の敷地には「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」でも拝される「勢理客ノロ殿内」があります。(神アサギ)(神アサギ内部のタモトギとウコール)「勢理客ノロ殿内」に隣接して「神アサギ」が建てられいます。「神アサギ」とは沖縄本島北部地方においてノロが集落の祭祀を行う小屋で、4本柱または6本柱で壁がない吹き抜け構造をしています。また、沖縄本島中南部にある「トゥン(殿)」と呼ばれる祭祀場の原形と言われています。「神アサギ」が分布する地域は「神アサギ文化圏」や「北山文化圏」に分類され、三山統一以前の「北山王国」の文化に由来しています。ちなみに「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」とは「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄で親族一門が行う聖地旧跡の巡拝行事で、多くの門中(もんちゅう)によって行われています。「神アサギ」の内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られており、人々に拝される聖域となっています。(勢理客の御嶽)(勢理客御宮新築記念碑)(勢理客の御嶽の祠)(勢理客の御嶽のイビ)「勢理客公民館」の北側に「勢理客の御嶽」の森があり、御嶽の入り口には鳥居と「勢理客御宮新築記念碑」の石碑が建立されています。鳥居をくぐり階段を登って頂上に辿り着くと「勢理客の御嶽」の祠があり「イビ」と呼ばれる祠の内部にはウコール(香炉)2基と数個の霊石が祀られています。「イビ」は「イベ」とも言われ、御嶽の中で最も神聖な場所を意味し、同時に祀られている霊石自体も「イビ」と呼ばれています。第二尚氏王統の琉球神道における最高ノロ(神女)である「聞得大君(きこえおおきみ)」の神名は「しませんこ あけしの」であり、この神名はもともと「勢理客の御嶽」の神名であったと伝わっています。「聞得大君加那志(チフィウフジンガナシ)」と呼ばれ、琉球王国最高位の権力者である国王と、王国全土を霊的に守護するものとして崇められてきた存在です。(ウイヌハー)(ヒチャヌハー)(ヨシコトガー)「勢理客公民館」の北西に「ウイヌハー」と呼ばれる井戸があります。「勢理客集落」の上(ウイ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)である「ウイヌハー」は「勢理客ノロ殿内」や「神アサギ」に近い事から「勢理客ノロ」も祭祀の際に使用した井戸だったと考えられます。公民館から北西に坂道を下った場所には「ヒチャヌハー」があり、集落の下(ヒチャ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)となります。「ヒチャヌハー」は集落の共同井戸(ムラガー)であると考えられ、野菜を洗ったり衣類の洗濯にも利用されていたと推測されます。更に公民館から約500mほど北に下ると「ヨシコトガー」と呼ばれる比較的規模の大きい井戸があり、森の丘陵麓から湧き出る水が貯められて周囲の農業用水として利用されています。(勢理客の顕彰碑)(天底小学校発祥之地の石碑)(勢理客のシシヤー/獅子屋)琉球王府が編纂した歌謡集である「おもろさうし(おもろそうし)」(1531-1623年)に「せりかく(勢理客)」が謳われている「おもろ」があります。『 一 せりかくの のろの (勢理客の ノロの) あけしの のろの (蝉の ノロの) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 うむてん つけて (運天に 着けて) こみなと つけて (小港に 着けて) 又 かつおうたけ さがる (嘉津宇岳に 下る) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 やまとの いくさ (大和の 戦さ) やしろの いくさ (山城の 戦さ) 』
2022.03.14
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(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。(チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所)(現在の真嘉比川に架かる橋)現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。(真嘉比川に架かる橋の北側)(真嘉比川に架かる橋の南側)「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはし)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)「チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡」の直ぐ南側に同じ「真嘉比川」に架かる橋があり、この橋には現在「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」という名称が付けられています。1945年(昭和20)の沖縄戦の後「松川集落」は道路整備に伴い、元の「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の道は旧道となり橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年/昭和8に廃止)が新たな県道となりました。更に川筋も変えられて新しい道路も造られた事から、1953年に橋の位置も移動して新たな「茶湯崎橋/ちゃゆざきばし」が竣工されました。この橋の名称が刻まれた石版は橋が建築された当時のままで、那覇市歴史博物館の写真資料では彫られた橋の名称が当初は黒く塗られていた事が確認出来ます。(現在の指帰橋)(現在の指帰橋の橋名板)(現在の指帰橋/安里川/真嘉比川)「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」の南側で安里川と真嘉比川が合流する地点に「指帰橋/さしかえしはし」が架かっています。この橋の名称はかつて琉球王国時代に、この土地に実際にあった「指帰橋/サシケーシバシ」から受け継がれたもので、首里の儀保や山川を水源とする「真嘉比川」と首里の崎山や金城の周辺を水源とする「金城川」が合流し「安里川」の本流となる首里坂下に架設された橋です。造られた当初は木橋は近世になり石橋に改築され、現在は坂下上り口の元国道の地下に埋設されています。明治末期発行の「大日本地名辞書/第八巻」には『指帰橋は首里坂下安里川の交流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故になづく』と記されています。(現在のさしかえしはしの橋名板)(真嘉比川と安里川の合流地点)(指帰橋の安里川の名板)新訳「球陽外巻/遺老説伝」第19話に「指帰橋」が次のように記されています。『遠い昔の時代、小橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋さしけーしばし/さしかえしばし」といいます。』
2022.06.12
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(天之岩戸向洞穴)日本全国に伝わる「天岩戸伝説」は太陽の神であるアマテラス大御神が岩戸に隠れたために世間が真っ暗になったという有名な日本神話です。南国の沖縄県にも「天岩戸伝説」が伝わり伊平屋島の「クマヤ洞窟」が日本最南端の「天岩戸伝説」として知られています。しかし、それよりも更に南に位置する沖縄本島沖縄市にも「天岩戸伝説」が存在し多くの謎に包まれています。(八重島地区の墓地群)(天の岩戸の石碑)沖縄市八重島地区の墓地群を進むと、その奥地に一本琉球松がそびえる森があります。隆起した琉球石灰岩で覆われた小高い丘には、真の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」が密かに佇んでいます。墓地群を抜けると石碑があり「天の岩戸 艮金神(ウシトラコガネ) 龍神 地上天國 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と記されています。(琉球石灰岩の洞穴)(天之岩戸向洞穴)その右手には琉球石灰岩の小さな隙間に暗闇が奥深く続いているが見えます。どれ程の深さがあるのかも予想不可能な暗黒に、思わず吸い込まれそうになる雰囲気を奇妙に醸し出しています。先程の石碑の左側に石段があり昇って行くと開けた空間が現れました。ゴツゴツした琉球石灰岩は緑の苔に覆われ、ガジュマルと亜熱帯植物が生い茂る中に別の石碑と石造りの祠が確認できました。(天之岩戸向洞穴の石碑)(天之岩戸向洞穴の入口)この石碑には「天之岩屋 天之御柱 艮黄金萬神 風水大神 昭和二十七年 十一月十五日誕生」と掘られています。その右奥には大きな穴が開いていて琉球石灰岩の岩間に漆黒の闇が奥深く続いています。石碑の右側には鉄格子が付いた石造りの祠があり、その奥には神秘的な洞穴が続いています。正に、ここが真の日本最南端の「天岩戸伝説」が伝わる「天之岩戸向洞穴遺跡」の闇穴そのものです。私は鉄格子の前で一礼し洞穴内部を覗き込みました。(天之岩戸向洞穴の内部)鉄格子越しに洞穴内部から物凄い勢いで湿った熱波が発生していて、私が掛けていたメガネが一気に曇りました。なぜ洞穴内部から暑い湿気が出てくるのか?今まで何度も様々な洞穴を訪れてきましたが、洞穴入り口から湿った熱を激しく排出する体験は初めてです。暗闇の洞穴奥はウガンジュ(拝所)になっていて「天岩戸の神」が祀られている聖域になっていました。(天之岩戸向洞穴の丘)通常ならば外気よりも涼しい冷気が洞穴内部から吹き出してくるので、この説明し難い現象は「天岩戸の神」が何かしらのパワーを発している証なのでしょう。やはり日本最南端の「天岩戸伝説」は沖縄市八重島の「天之岩戸向洞穴遺跡」に存在している事は間違いなさそうです。洞穴の右手に琉球石灰岩の丘の頂上に向かう通路を発見しました。石段や階段は無く苔が覆う非常に滑りやすい斜面が続いており、足元に気を付けながらゆっくりと登り進み無事に頂上に到達しました。(天之岩戸向洞穴の拝所)すると目の前に広大な絶景か広がり、そこは石造りのウコール(香炉)が3基設置されたウガンジュ(拝所)になっていたのです。沖縄市からうるま市、江洲グスクや喜屋武グスク、更に世界遺産の勝連グスクや宮城島まで見渡せる雄大な眺望に目を奪われました。天地海の3神と考えられる3つのウコールは太陽が昇る東を向いていて、私は「太陽の神」であるアマテラス大御神に祈りを捧げました。(天之岩戸向洞穴のハブ)(天之岩戸向洞穴の石碑)帰宅の途に着こうと来た道を戻ると、ひっくり返り動かない状態の「ハブ」が足元に突然現れました。ハブは非常に驚いた時このように死んだ振りをするそうです。夜行性で猛毒の蛇として恐れられるハブですが、意外にも臆病な生き物で大きな音に怯えて逃げ出すと言われています。「天之岩戸向洞穴遺跡」の洞窟とその真上に位置する絶景の御嶽はまだまだ謎が多い聖地で、遺跡がある沖縄市でさえも詳しい調査が未だになされていません。しかしながら、謎に包まれている事で「天岩戸伝説」がこの地に生き続ける訳であり、科学的に証明されない神秘のロマンがあるからこそ、今後も人々に語り継がれる聖域として存在し続けるのでしょう。
2021.01.12
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(松川殿之毛拝所)沖縄県那覇市に「松川(まつがわ)集落」があり、集落の北部の丘陵地に「松川殿之毛拝所」と呼ばれるウガンジュがあります。この拝所がある敷地は「殿之毛(トゥンヌモー)」と称され「松川殿之毛拝所」は集落の守護神を祀る霊域となっています。首里王府時代に「殿之毛」北方から南西方向にかけて集落が形成され「茶湯崎村」と称されていました。清の官僚「徐葆光(じょほこう)」が1721年に著した「中山伝信録」には「松川」と記されており、松川脇地頭の所領地でした。明治初年に「松川村」と改称され、明治41年には「真和志村字松川」となりました。また、古くから「首里坂下」とも呼ばれてきた歴史があります。「松川殿之毛拝所」は「真壁・茶湯崎・安謝」の3村を管轄した「真壁(大あむしられ)」と呼ばれるノロ(祝女)が七神を祀り村の繁栄を祈願していました。(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)『賓頭盧尊神/じんずるそんしん』徳と救済・疫病祓いの神仏『土帝君/トウテイクゥ』土地と屋敷の神仏『金満善神』豊作と繁栄の神仏『御嶽火之神/ウタキヒヌカン』御嶽の根神、腰当神(クサティガミ)、祖霊神『東代御通し/アガリユーウトゥーシ』アマミクの世の神・アガリ世の神『中山御通し』首里親国御通し(遥拝所)『北山御通し』今帰仁あおりやへノロ、今帰仁世の神(松川殿之毛拝所/赤瓦屋根の上のシーサー)(殿之毛の石碑)(上之井/水神)「松川殿之毛拝所」の赤瓦屋根の上には一体のシーサーが鎮座しています。沖縄のシーサーは災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの役割がある他にも、幸せを離さない意味も込められています。「殿之毛」は現在「殿之毛公園」として整備され「松川集落」の人々の出会い、親しみ、賑わいを目的とした広場として活用されています。「殿之毛」と彫られた巨大な石碑をシンボルとして、旧6月の綱引きや旧3月の村遊び、更に沖縄相撲(角力)の他にも集落の諸行事の開催の場として「殿之毛公園」は住民の生活に欠かせない場所となっています。「殿之毛公園」には「上之井/ウィーヌカー」の水神を祀った祠が建立されており、祠内には古くから残るウコール(香炉)が設置されています。(上之井/ウィーヌカー)(前之井/メーヌカー)(サーター屋井/サーターヤーガー)「松川集落」は「今帰仁森/ナキジナームイ」を背景に、首里城の西側に位置しています。「殿之毛」の南側丘陵の麓には「上之井/ウィーヌカー」の井戸があり、手押しポンプが設置され、正面には魔除けの「ヒンプン」が井戸を守っています。この井戸から南側には「前之井/メーヌカー」があり、井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られ、同じく正面には「ヒンプン」が設置されています。さらに「殿之毛」の西側、坂下通りの松川交差点近くに「サーター屋井/サーターヤーガー」があります。「サーター屋」とはサトウキビを製糖する小屋の事で、製糖過程でこの井戸の湧き水が使われていました。井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、他の井戸同様に水の神を崇めて水の恵みに感謝する拝所となっています。(新屋敷/ミーヤシチの井戸)(新屋敷/ミーヤシチの賓頭盧神/ビジュル神)(新屋敷/ミーヤシチの拝所)「殿之毛公園」の西側駐車場に隣接する土地には「根屋/ニーヤー」と呼ばれる「松川集落」に最初に移り住んだ始祖の屋敷跡があります。現在は「新屋敷/ミーヤシチ」と呼ばれ、北側に向けられた3箇所の拝所が残されており「新垣家門中」と「豊村(旧姓新垣)門中」の土地となっています。敷地内には井戸を覆った祠があり、内部には石積みされた古井戸の穴が開いていて正面に霊石とウコール(香炉)が祀られています。この祠のすぐ後方にある別の祠内部には「賓頭盧神/ビジュル神」と記された霊石、もう1体の霊石、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。更に、この北側にはコンクリートのブロックでコの字型に囲まれた小型の祠がありウコール(香炉)が祀られています。(松川樋川/マチガーヒージャー入口)(松川樋川/マチガーヒージャー)琉球王国時代「松川集落」には綺麗な湧き水が多く、美人が多くいる場所として有名でした。「殿之毛公園」の北側で、首里城の西側に延びる尾根の南側丘陵に「松川樋川/マチガーヒージャー」の井泉があり、昔から『美人になれる湧き水』として地域住民に親しまれていました。この丘陵の下部は12〜14mの急斜面となっており、湧き水は主に泥岩で構成される豊見城層内から湧き出る地下水であると考えられています。「ノボホテル沖縄那覇」の敷地東側に「松川樋川/マチガーヒージャー」の入口があり、通路を進むとガジュマルの木の下に井泉が佇んでいます。この井戸は平面で見ると鍵穴型をしており、入口から2段の石段を下りた場所に広がる石畳みの踊り場は幅約1.2〜2m/奥行き約3.5mと細長く、両側は布積み(豆腐積み)の美しい石垣が積まれています。(松川樋川/マチガーヒージャー)(松川樋川/マチガーヒージャーの名板)(松川樋川/マチガーヒージャーの樋口)井泉の貯水槽は半円型で間口約1.9m/奥行き約1.5m/深さ約0.3mとなっています。中央の奥部は上下2段の張り出しとなっており、湧き水は下部の張り出しに設置された石樋を通じて流れ落ち、貯水槽の両側にはウコール(香炉)が1基づつ祀られています。「松川樋川/マチガーヒージャー」の踊り場や張り出しは実用的ではなく装飾的であるため、この井泉は地域住民が生活用水を汲んだり水浴びをしたムラガー(村ガー)ではなく、琉球王府の御殿や庭園の水場として造られたと考えられています。現在でも有名な『美女伝説』が残るこの井泉は「松川集落」では聖地と崇められ、多くの住民が線香を持ち寄り水の神に拝してるのです。
2022.06.17
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(濱龍宮神の拝所)沖縄本島中部に「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の東海岸沿いに「浜集落」があります。1879年の廃藩置県の後に屋号「大謝名堂/ウフジャナドウ」が現在の「浜集落」の土地に移住したことが集落の始まりである伝承があります。その後、首里から「屋良/ヤラ」字北上原から「仲本/ナカモト」が移り住んだと言われています。戦前は「謝名堂」姓が多かったため「謝名堂屋取/ジャナドウヤードゥイ」または西側にある「奥間集落」の外れに位置している事から「奥間ヌ下/ウクマヌシチャ」と呼ばれていました。1919年(大正8年)に作成された「沖縄県中頭郡中城村註記調書」や1925年(大正14)の「沖縄県下各町村字並屋取調」には「奥間集落」に所属する「屋取/ヤードゥイ」として「謝名堂屋取」と記載されています。(濱龍宮神の祠内部)(浜漁港)(メーヌハマ/前ヌ浜)「浜集落」の東海岸沿いにある「浜漁港」の敷地に航海の安全と豊漁を祈願する「濱龍宮神」の祠が建立されており、コンクリート製の祠内部には石碑とウコール(香炉)が祀られています。「浜漁港」は昔は砂浜で「メーヌハマ/前ヌ浜」と同様に「サバニ」と呼ばれる沖縄の伝統的な木製の小形舟を陸上げする場所でした。「サバニ」はとても重く干潮で海が遠くなると「海人/ウミンチュ」は舟を押し出せないため、干潮と満潮の時間を計算して舟を出していました。「浜集落」では主に素潜が盛んに行われており「海人」は明け方から昼過ぎまで海に潜り「イヨグン」と呼ばれる銛を使ってイカ、タコ、貝、魚、フカ(鮫)などを獲っていました。普段は水深3〜5メートル、深いところでは約20メートル近くまで潜ることもあったそうです。(屋号大謝名堂/謝名堂門中)(屋号仲謝名堂)「謝名堂門中/ジャナドウムンチュー」は「浜集落」に最初に移住したと伝わり、集落において一番大きな門中を形成しています。『首里系士族 任氏 大宗 任興元稲福親雲上忠記 名乗頭 昌』で、本家は那覇市首里にある屋我家、中元は那覇市安謝にある謝名堂家です。「浜集落」の大屋は屋号「屋号大謝名堂」で屋敷内に「御神屋/ウカミヤー」があり、ここで那覇市の本家や中元に行く代わりに遥拝するようになったと伝わります。「謝名堂門中」の姓は「謝名堂・浜田」で、戦後に屋号「仲謝名堂」を含む数件が「浜田」へ改姓しました。「ナカミチ」の通り沿いにある屋号「仲謝名堂」は屋号「大謝名堂」の屋敷南側に隣接しており、戦前は「馬車ムチャー」と呼ばれる職業に就いており、依頼を受けて馬車で荷物を運搬していました。(屋号サンラー屋良/屋良門中)(カーラ/川)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)(ハシグヮー/コンクリート橋跡)士族帰農で「浜集落」に移住してきた「屋良門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚龍徳越来王子朝福 名乗頭 朝』で、本家は那覇市首里の嘉味田家です。「尚龍徳越来王子朝福」の支流六世朝長の三男、七世朝眞が首里から「浜集落」に移住したと伝わります。その後、屋号「サンラー屋良・下屋良」と分家し、現在の「屋良門中」を形成しています。集落の西側から東海岸に流れる「カーラ/川」は仲通りに沿っており、この小川にはかつて「ハシグヮー」と呼ばれるコンクリート製の橋が架かっていました。「カーラ」は子供達の格好の遊び場で橋の下にはセークグヮー(エビ)、魚、カニなどがいる釣り場でした。旧正月にはこの川から子供達がワカミジ(若水)を汲みウフヤー(大屋)に持って行き、お年玉をもらったという古老の話が残っています。(屋号松尾/与那嶺鰹節店)(屋号松尾/与那嶺鰹節店の井戸)(屋号松尾/与那嶺鰹節店)「屋号大謝名堂」の屋敷から南西側に隣接する「与那嶺鰹節店」の土地にはかつて屋号「松尾」があり、屋敷には「カチューウヤー/鰹売り」が住んでいました。この家のお婆さんがカチュー(鰹節)を売り歩いており、昔からカチューは味噌と一緒にお湯でときカチュー湯にしてにして飲むと風邪に効いたと伝わります。鰹節は那覇から自転車で配達され、それをお婆さんが籠に入れて頭に乗せ、字新垣や宜野湾の野嵩や普天間に売りに行きました。籠は重さ約20キロありましたが、お婆さんはそれを頭に乗せて小走りする事も出来たそうです。屋号「松尾」のお婆さんが鰹節を売りに来るのを楽しみに待っていたお客さんが大勢いたと言われています。また、この屋敷には「ウミンチュ/海人」も暮らしており、沖縄戦の時には5〜6名の日本兵が寝泊まりしており、獲った魚を提供していたと伝わります。(屋号謝名堂小)(チンジュウガー/鎮守井戸)(チンジュウガー/鎮守井戸の拝所)「与那嶺鰹節店」がある屋号「松尾」の西側に隣接して屋号「謝名堂小」の屋敷がありました。現在、この家の敷地には「チンジュウガー/鎮守井戸」と呼ばれるコンクリート製の古井戸があります。蓋が施された井戸には石造りのウコール(香炉)が設置されています。この井戸に向かって左隣には「チンジュウガー」の拝所があります。この祠内部には「御守神」と彫られた石碑が設置されており、この拝所にも石造りのウコールが祀られています。戦前まで「チンジュウガー」の井戸は屋号「謝名堂小」近くにあった畑の中にあり、旧暦の9月9日に家族の健康祈願を行う「チクザキ/菊酒」の御願行事で拝されていました。更に、旧正月の若水や子供が産まれた時の産水も、この「チンジュウガー」から汲まれていたと考えられます。(屋号仲本小の屋敷跡)(メーベーのサーターヤー跡)(クシベーのサーターヤー跡)浜漁港沿いで「浜集落」の最も北東側の場所には、かつて屋号「仲本小」の屋敷がありました。「仲本門中」は『首里系士族 夏氏 大宗 諱居数越来親方俗叫鬼大城賢雄 名乗頭 賢』で姓は「仲本」です。本家は首里にあり中元は字北上原の「石嶺仲本小」で、字北上原から「浜集落」に移住してきたと伝わります。「浜集落」には3つの「サーターヤー/砂糖小屋」があり、屋号「仲本小」の南側には集落の「メーベー/前方」に所属する家と「クシベー/後方」に所属する家が使用した2つの「サーターヤー」がありました。収穫したサトウキビは「サーターヤー」に運ばれ、サトウキビを圧搾するサーターグルマと呼ばれる機械に差し込まれます。このサーターグルマに木製の棒を取り付けて馬に繋げ、馬を歩かせてサトウキビを搾りました。「サーターヤー」には作業をする馬の水浴びをさせる「ウマアミシグムイ」という溜池が常設されていました。(スガチミチ/潮垣道)(スガチミチ沿いのサーターヤー跡)(洗濯場跡)サトウキビを運搬するトロッコ軌道が敷設されていた「スガチミチ/潮垣道」沿いの「カジマヤー/十字路」にはかつて「サーターヤー」があり、屋号「知念小・松尾・新屋謝名堂・三男知念小・新知念小・謝名堂小」などが使用していました。サトウキビは貴重な換金作物であったため、集落の多くの家で栽培されていました。そのため「サーターヤー」では冬から春にかけて黒糖作りが盛んに行われていました。更に、戦前までこの十字路には川が流れており、川沿いには約2メートル幅の土手があり所々に石が積まれていました。この場所では川に降りられるようになっていて、女性達が集まって洗濯物を洗っていたと伝わっています。現在の川はコンクリートで塞がれていますが、かつての面影を感じ取る事ができます。
2022.10.16
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(ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン)沖縄本島中部の西海岸に「北谷町/ちゃたんちょう」があり、この町の北西部に「浜川集落」があります。沖縄の言葉で「ハマガー」と言うこの集落の中心部には「ヨリアゲノ御嶽/浜川ウガン」があり、この御嶽の森の西側沿いに戦前まで「テツドー」と呼ばれる「沖縄県営鉄道嘉手納線」が南北に走っていました。1922年3月に開業した鉄道は那覇市「小波蔵駅」と嘉手納町「嘉手納駅」を結び全長は22.4kmでした。太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、沖縄戦で米軍により路線施設が破壊され消滅しました。この「テツドー」が通る以前は海岸線の「シラハマ」という名前の砂浜が集落の近くまで押し寄せていたと伝わります。この「シラハマ」は現在は埋め立てられていますが、戦前まで集落の住民の恰好の水浴びの場でした。(浜川ウガン/ハマガーウガン)(浜川ウガン/ハマガーウガンの祠内部)奇岩屹立した「ヨリアゲノ御嶽」の岩山(シー)の南側麓に「浜川ウガン/ハマガーウガン」の祠があり「浜川オガン/ハマガーオガン」とも呼ばれています。「浜川ウガン」は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『島森ヨリアゲノ嶽 神名 イシノ御イベ 浜川村 平安山巫崇所』と記されています。琉球石灰岩が用いられた寄棟造の家形祠は南側に向けて建立されており、祠内部には3基の石造りウコール(香炉)と霊石が祀られています。戦前まで旧暦2月には集落に悪疫の侵入を防ぐ行事である「シマクサラシ/シマクサラサー」が行われ、旧暦3月には父方の共通先祖を持った「門中/ムンチュー」と呼ばれる血縁者達が本家に集まりご先祖様の墓参りをする「カミウシーミー/神御清明」で拝されていました。(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(ヨリアゲノ御嶽の按司墓)(按司墓の陶器製厨子甕)「浜川ウガン」の祠北側には「ヨリアゲノ御嶽」の岩山が聳えており、丘陵のほぼ頂上付近の斜面に「按司墓」があります。墓前には2基の石造りウコールが祀られており墓は野面積みの石垣を土台にブロックが5段に積まれています。このブロックの上部は開いた造りとなっており古琉球の風葬墓である事が見て取れます。この風葬墓の内部には三基の蓋の無い陶器製厨子甕が安置されており、厨子甕の内部に人骨が確認出来ます。この古墓は「浜川集落」の土地を治めていた按司の墓で、陶器製厨子甕の細かい装飾から見て、この三基の厨子甕に葬られた人物達は身分の高い豪族の物である事が分かります。古琉球では崖や洞窟に遺体を置き数年間かけて腐敗を待ち洗骨し厨子甕に納骨します。崖や洞窟は古来「現世と後世」の境界の世界と考えられ、聖域であると同時に忌むものとされていました。(ヨリアゲノ御嶽の古墓)(ヨリアゲノ御嶽の森)(ヨリアゲノ御嶽の森)「按司墓」の下方で「ヨリアゲノ御嶽」の丘陵中腹にアコウの根が幾つも絡みついた古墓があります。墓門には石造りウコールと霊石が祀られており、墓に向かって左側にはあの世のお金である「打紙/ウチカビ」を焚く「銭倉/ジンクラ」が設けられています。この古墓も「按司」に関係する人物の墓であると考えられます。「浜川ウガン」や「ヨリアゲノ御嶽」がある岩山の森は「浜川ウガン遺跡」として北谷町文化財指定第一号として登録されています。この遺跡の丘陵南側には8〜10世紀の貝塚が形成されており、丘陵の上部から投棄された遺物が地層に組み込まれていると考えられています。また、この遺跡は祭祀遺跡の可能性もあり詳しい調査が必要だと言われています。類例遺跡として伊是名島の「アギギタラ貝塚」があります。(字浜川旧部落の銘石)(殿之神/浜川之殿)(殿之神/浜川之殿の祠内部)「浜川ウガン」の南側に隣接する場所に「殿之神」の祠があり「浜川之殿」とも呼ばれています。『琉球国由来記』には『浜川之殿 浜川村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛浜川地頭、神酒三宛芋。同村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也。』との記述があります。また、1731年に成立した漢文による地誌である『琉球国旧記』には『浜川殿 在浜川邑』と記されています。祠内部には「殿之神」と刻まれた石碑がありウコールと霊石が祀られています。「殿之神」で行われる行事は旧暦2月に豊年満作と健康祈願する「ニングヮチャー」、旧暦2月の麦の初穂祭である「ニングヮチウマチー」、旧暦3月の豊漁と海の安全を祈願する「サングヮチャー」、旧暦5月の稲の豊作祈願の「グングヮチウマチー」、旧暦6月の稲の収穫祭である「ルクグヮチウマチー」で「ウカミヤー/御神屋」と呼ばれる屋号「クラニー/蔵根」の家が取り仕切っていました。(瀧宮神)(瀧宮神のヒヌカン/火の神)(合祀拝所)「殿之神」の祠に向かって左側に「瀧宮神」があり、安良波原の西側海岸に連なる「アラファヌシー」と呼ばれる岩礁の「瀧宮神」へ遥拝する為に設けられたと伝わります。戦前は背の高いスーティーチャー(ソテツ)があり、それを目標にして祈願が行われていたと伝わります。「瀧宮神」があるこの広場は旧暦3月3日に重箱を持ち寄り海の神様にお供えして拝していました。この「瀧宮拝み」の行事が終わった後に酒宴を行なっていた事から、この一帯は「サングヮチャーモー」と呼ばれています。「瀧宮神」に向かって右隣りに3体のビジュル石と1つの霊石が祀られた「ヒヌカン/火の神」があります。「瀧宮神」に向かって更に右側奥には4基のウコールが並んでおり「拝所カーシヌシー」「拝所アワグルン」「拝所トグチヌマタ」「拝所シリーン作」と記されています。「カーシヌシー」は集落の北側で米軍嘉手納基地の敷地内に位置する岩山の事で、現在この4基のウコールは米軍嘉手納基地内に点在する拝所をウトゥーシ(御通し)する合祀拝所だと考えられます。(メーガー/浜川集落の合祀井戸)(浜川集落の合祀井戸のウコール)(浜川集落の合祀井戸の建物内部)「浜川ウガン」から南東側に約200メートル程の位置に「浜川集落の合祀井戸」があります。集落には先人達が使用したと伝わる「メーガー・クシヌカー・イリヌカー・イリクシヌカー」の4つのカー(井戸)があり、この合祀井戸には「メーガー」に他の3つの井戸が併せて祀られています。「クシヌカー」は国道58号線の拡張により消滅しましたが、子供が生まれた時の産水を汲む「ウブガー/産井」として使用されていました。「イリヌカー」は集落の西側にあった事からその名称が付けられ「イリクシヌカー」は集落の西側後方で現在の国道58号線上にありました。合祀拝所には向かって右側から「前之神井戸・後之神井戸・西之神井戸・西後之神井戸」と記された銘石があり、前方には4つの井戸を示す4基のウコールが祀られており、一番手前には合祀拝所を祀るウコールが設置されています。(アマジチメー)(ウカミヤー/御神屋)「ヨリアゲノ御嶽」の西側で「シラハマ」の北側一帯は「アマジチメー」と呼ばれ、海岸沿いに沢山の墓がありました。ここは昔から病死した家畜や浜に流れ着いた水死体、さらに無念仏などを葬る土地でした。また、この地には「ナーファバカ/那覇墓」という墓があったと伝わり、その墓の主は那覇の人であったと言われています。現在もこの場所には多数の大きな「カーミナクーバカ/亀甲墓」が点在しています。この「アマジチメー」にある屋号「クラニー/蔵根」の屋敷に「ウカミヤー/御神屋」があります。この家は「浜川集落」の草分けの家筋で、創始者を祀る建物は母屋とは別に屋敷の東側に所在しています。「浜川集落」の創始者を祀る仏壇がある「ウカミヤー」は「アサギ」とも呼ばれ、旧暦2月・旧暦5月・旧暦6月のウマチー(三ウマチー)の際に家主により拝されています。
2022.12.11
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(伊波ヌール墓)沖縄本島うるま市石川伊波に「伊波ヌール墓」があります。ヌールとは沖縄のノロの事で琉球神道における女性の祭司、又は神官を指します。地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司る重要な役割を果たしていました。琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に任命されて王国各地に配置されました。「伊波ヌール墓」は歴代の伊波ノロの遺骨が納められた聖域として崇められています。(伊波ヌール墓の標識)「伊波ヌール墓」が位置する石川伊波地区は当初1990年に石川バイパス工事の開発地区に予定されていましたが、伊波ヌール墓や周辺の貴重な文化財を保護する案が浮上したのです。伊波ヌール墓のある山の地質は千枚岩と堆積した琉球石灰岩であり、トンネルを通す地質条件に適していませんでした。しかし、うるま市のみならず沖縄県の歴史的価値の高い文化遺産を残す目的で、急遽バイパスは「伊波ヌール墓」の真下を通関する「石川トンネル」の整備に変更されたのです。(伊波ヌール墓へ降りる石段)琉球王国時代に伊波、嘉手苅、山城、石川の各集落の年中祭祀を正式に司っていた歴代のノロ(伊波ヌール)の遺骨が墓に納められています。沖縄の「ノロ」や「ユタ」は神がかりなどの状態で神霊や死霊など超自然的存在と直接に接触や交流し、この課程で霊的能力を得て託宣、卜占、病気治療などを行う呪術や宗教的職能者を指します。「ノロ」は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し「ユタ」はいわゆる霊、神霊、死霊と交信します。(伊波ヌール墓がある崖下)「伊波ヌール墓」は崖下の鍾乳洞を利用した掘り込み式です。墓室内にはサンゴ石灰岩製蔵骨器11基と陶製蔵骨器4基の計15基が安置されています。ほとんどの蔵骨器に2体分の遺骨が納められています。現在でもウマチー(収穫祭)や清明祭の時に参拝の人たちが訪れるなど地域的信仰の対象となっています。1994年には貴重な文化財として市の指定を受け、地元住民の重要なウガンジュ(拝所)として大切に保護継承され続けています。(伊波ヌールガーに生える大木)(伊波ヌールガー)「伊波ヌールガー」と呼ばれる井泉が「伊波ヌール墓」の南西にあります。伊波ヌールが祭祀を行う際に利用した水源で、聖なる神水として崇められた聖域でした。「伊波ヌールガー」にはウコール(香炉)が設けられ、井泉の脇から大木が力強く育っています。この大木は「伊波ヌールガー」周辺で極めて目立つシンボルとなっており、聖なる神水で成長した木の枝が天に向かって伸びている神秘的な光景となっています。(伊波按司の墓/伊覇按司之墓)(伊波中門祖宗之墓)「伊覇按司之墓」は伊波グスクを築いた按司の墓で、旧具志川と旧石川を結ぶ国道329号(石川バイパス)が通る石川山城地区にあります。伊波グスクから南に1キロほど離れた場所にある墓は天然の要害を利用して築かれ、野面積みの石垣が現在も残っています。伊波仲門門中(なかじょうムンチュー)が管理しており、同門中の始祖(伊波按司)が祀られています。向かって左側には「伊波中門祖宗之墓」が隣接しており、現在も子孫等の多くの参拝者が訪れて拝んでいます。(数明親雲上の墓の入り口)(数明親雲上の墓)「伊波集落」の中央に「数明親雲上(スミョウペーチン)の墓」があります。数明親雲上は伊波集落の生まれで第二尚氏第4代「尚清王(在位1527〜1555年)」に神歌主取として仕えていました。尚清王が久高島からの帰途に嵐に見舞われた際、船の舳先に立ち神歌(おもろ)を謡い風波を鎮め無事に帰港したと伝わります。この墓は伊波原に所在する古墓で地元では「屋嘉墓」とも呼ばれています。(尚泰久王墳墓跡)第一尚氏第6代「尚泰久王(在位1454〜1460年)」の墓跡と伝えられています。伝承によると、第一尚氏第7代「尚徳王(在位1461〜1469年)」の亡き後、第二尚氏の「尚円王(在位1470〜1476年)」に政権が代わった際、首里の天山陵に祀られていた尚泰久王の遺骨が密かに移葬されたと言われています。それを隠すためか、この墓は「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうです。(ウミナイ墓)「ウミナイ墓」は「尚泰久王墳墓跡」の右側に隣接し、尚泰久王の母親もしくは乳母が祀られた墓だと伝えられています。1982年に発掘調査が行われ、墓の中に石灰岩製の石厨子が3基あり、中央に位置する大型の石棺からは風化の進んだ人骨、鳩目銭2枚、猪の第3臼歯が発見されました。毎年、清明祭には伊波仲門門中、大屋門中、尚泰久王に縁のある人々が多く訪れ拝まれています。(伊波ウブガー/東側入り口)(伊波ウブガー/西側入り口)「伊波ヌール墓」の南側に「伊波ウブガー(産川)」があり、東西を繋ぐ地下トンネル内に現存しています。伊波集落で最も古い井泉とされる「伊波ウブガー」は生活用水、産湯、正月の若水、病気の際のミジナディ、死者の清め水、霊水として使用されていました。石川バイパス整備の際に地下横断路を作り、場所、位置、形を変えず昔のままの姿で残っています。「伊波ヌール墓」もバイパス整備で「石川トンネル」を掘る事で守られたように、歴史ある先人からの遺跡文化財を大切に守り継承する素晴らしい郷土愛が「伊波集落」には強く根付いているのです。
2020.12.21
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(江洲グスク)沖縄県うるま市の南西部に位置する「江洲集落」に「江洲グスク(イーシグスク)」があります。標高約100mの琉球石灰岩丘陵に築かれたグスクで、 通称「えすのつちぐすく」とも呼ばれています。名称の通りグスクの石積み遺構は見られず土のグスクで、麓にはグスクを取り囲むように8つの井泉があります。「江洲グスク」からはグスク土器、須恵器、中国製の磁器などが発掘されていますが、未だに詳しい調査がなされていない謎に包まれた聖域となっています。(陵墓の石碑)(仲宗根按司之先祖の墓)「江洲グスク」の入り口を進むと大きな石碑が現れます。生い茂る木々に佇む石碑には「大宗江洲按司宗祖武源明 妹 つきおやのろ 之陵墓 昭和六三年周辺整備」と刻印されています。石碑の左側には山の頂上に向かう石段があり亜熱帯植物に深く覆われていました。頂上に向かう山の中腹右側には「仲宗根按司之先祖の墓」があり、その先には他にも江洲グスクを司ったノロの墓などが三基並んでおり、それぞれにウコールが設置されていました。手前の一番大きな石墓には「江洲王時代 仲宗根按司之先祖 昭和四十八年七月三十日竣工」と掘られています。(江洲按司の墓/江洲按司の妹の墓)(墓前の石柱)石段を上り詰めると頂上に初代江洲按司から三代目迄の「江洲按司の墓」と江洲按司の妹である「ノロの墓」が並んでいます。1453年の「志魯・布里(シロ・フサト)の乱」後に第6代国王尚泰久の5男が「江洲グスク」に入り、その後3代に渡り居住したと言われています。2基の墓のちょうど間にはニービ石造りの細長い石碑が建てられています。石碑には「兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右」と刻印されていました。因みに「江洲グスク」は第1尚氏王統が消滅した1470年頃には廃城になったと伝わります。(グスク頂上からの景色)「江洲グスク」頂上の江洲按司と妹ノロの墓からは東南植物楽園や倉敷ダム、さらにはうるま市石川山城方面の山々を眺める絶景になっています。一説によると「江洲グスク」は中城城の護佐丸や勝連城の阿摩和利のどちらにも属さない中立的なグスクで、高台からグスク周辺を見張り首里の王に情報を伝える役割を果たしていたと言われています。(江洲ヌン殿内)(火ヌ神)「江洲グスク」の麓には「江洲ヌン殿内」があります。琉球王国時代には集落の祭事を司るノロには一定の土地が与えられ、その住まいはノロ殿内(ドゥンチ)と呼ばれました。神アシャギと呼ばれる神棚と火の神(ヒヌカン)を祀った離れ座敷を持つのが特徴で、この聖域で集落の祭祀の神事が行われていました。「江洲ヌル殿内」の敷地には「火ヌ神」があり、祠内にはウコール(香炉)と3つの霊石が2対祀られています。(津嘉山ガー/チカザンガー)(津嘉山ガーの井泉)江洲公民館の南西側に「津嘉山ガー(チカザンガー)」があります。この井泉は「シードーガー」とも呼ばれ1872年(明治5年)に「江洲集落」の先人達が堀削したと言われます。集落で子供が生まれたときの産湯、命名水、飲料水、正月の若水として全戸がこの井泉を使用しました。新年を寿ぎ家族の健康と繁栄を祈願しました。「江洲集落」の住民の誕生から生存まで無くてはならない唯一の「産井(ウブガー)」として重宝されてきました。現在も水の神に感謝する祈りが捧げられています。「江洲集落」の中心部にある江洲公民館には「獅子」が大切に納められています。うるま市(旧具志川市)には獅子が住んでいたという伝説の「獅子山(シーシヤマー)」があり、7つの集落で伝統的な獅子舞が継承されているように「江洲集落」も獅子に縁が深い土地となっています。「魔よけ」の意味合いが強く、百獣の王である獅子が集落の守護神となり病気の元凶や悪魔を退治するとされています。(江洲七神神殿)(江洲七神神殿の内部)江洲公民館の敷地内に「江洲七神神殿」があります。七神の由来は地球上のあらゆる生物を生み育ててくれた宇宙と大自然のわずらみで、七神への感謝が神体化されました。神殿には生命の根源である七要素が七神と称され古代から崇拝されて祀られているのです。神殿内には7つのウコール(香炉)が祀られています。「江洲集落」の七神は生命誕生の神として子孫繁栄、無病息災、部落発展の神として信仰されています。また、集落を作った当時の7つの家の火の神様(ヒヌカン)を祀り現在もその信仰が継承されています。更には、7つのウコールはそれぞれ1週間の月曜日から日曜日を表しているという説も存在します。(守護神/島カンカン)「江洲集落」には沖縄でも非常に独特な信仰が伝わり、旧暦3月3日に疫病や災厄を払う御願「島カンカン」が実施されています。守護神である「島カンカン」の霊石に御三味をお供えし、三枚肉を神頭(石碑の上)に捧げて1年間の集落内における安全祈願を行っています。因みに「カンカン」とは"見張る"という意味で、神が集落を見守るという役目があると伝えられているのです。(大屋殿内/ニーヤ)「島カンカン」の北西側に「大屋殿内(ウフヤドゥンチ」があります。「根屋ニーヤ」とも呼ばれるこの敷地には「江洲集落」発祥に関わる住民が代々住んでいました。「江洲七神神殿」を訪れた時に神殿内で拝む一人の男性がいました。その方はうるま市江洲自治会長の安里義輝氏でした。安里氏によると昔から「江洲集落」の東西南北に豚肉を結んだ縄を張る事でフーチ神(悪霊)が集落に入らないようにしたと言われており、コロナ禍の現在も「江洲集落」の出入り口4箇所に豚肉を吊るし、コロナウィルスが集落に入らないようにしているそうです。江洲自治会長の安里氏は祈る大切さを私に優しく教えてくれました。祈る事により魂が浄化され心豊かに暮らせるのです。伝統と信仰が強く生活に根付く「江洲集落」の自治会長は信仰心の強い方で、この地区は確かに七神と守護神に守られている御加護を感じます。安里氏は最近では沖縄の人でも神に祈る人が減った中で、県外出身の人が沖縄の信仰伝統に興味を持つ事を非常に喜んでいました。自治会長の言葉に甘えて、今後も喜んで「江洲集落」に祈りを捧げに足を運ぼうと思います。
2021.01.18
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(宮城島の宮城御殿)うるま市宮城島の中心部に「宮城集落」と「上原集落」が東西に隣接しています。宮城集落にある「宮城御殿(ナーグスクウドゥン)」は通称"カミヤグワー"と呼ばれていて、「観音堂」の呼び名でも親しまれています。一説には北山系の按司を祀っているとも言われています。昔、泊グスク近くのトゥマイ浜に大木が漂流しているのを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが全く動きませんでした。(宮城御殿/ナーグスクウドゥン)神のお告げを聞いた喜屋原ユタハーメーが「ノロ(神女)の仲泊ハーメーが音頭を取らなければ動かない」と言うので、仲泊ハーメーが大木に乗り音頭を取ると、不思議にも簡単に陸揚げする事が出来ました。村人はこの大木で現在地に神殿を造り、宮城集落の守護神として信仰してきたのです。(宮城ヌル御殿)宮城御殿の向かいには「宮城ヌル御殿」が建てられいます。沖縄のノロ(神女)はヌルとも呼ばれ「宮城ヌル御殿」には喜屋原ユタハーメーや仲泊ハーメー、更には宮城集落の歴代のノロの魂が祀られています。浜に漂着した神木一本で建てられた宮城御殿は、特に幼児の健康や発育に特にご利益があり、旧暦1月18日には「ウクワンニンウガミ」(御観音拝み)が行われ、島内外から沢山の参拝者が訪れます。(地頭火ヌ神)宮城中央公園内に「地頭火ヌ神」があり、琉球王府時代の地方役人(地頭)と結びついた火ヌ神を地頭火ヌ神と言います。火ヌ神(ヒヌカン)の祠には3つの霊石が祀られており、宮城集落の村人を厄災から守り健康を守ってくれる神様として崇められているのです。(世持神社)宮城御嶽の東側には「世持神社」があります。「世持(よもち)」とは沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味があります。「世持神社」農耕の神様で宮城集落の村人は五穀豊穣を祈り、収穫された農作物を神社に捧げて神に感謝しました。(泊グスク)宮城集落の東側、宮城島の北東に「泊グスク」がひっそりと佇んでいます。標高37.4メートルの琉球石灰岩の大地上に作られたグスクで、グスク内や周辺からは琉球グスク時代に属する輸入陶磁器や土器などが発掘されています。泊グスクは別名「トマイグスク」や「隠れグスク」とも呼ばれています。(泊グスクの階段)「泊グスク」の入り口から一直線にグスク中腹に登る階段があります。1322年、後北山王国の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた今帰仁グスクの仲宗根若按司の末っ子である志慶真樽金の一族が、宮城島に逃れた後に「泊グスク」を築いたと伝わります。また「泊グスク」は伊計グスクとの抗争に負け、生き残った樽金の子孫は後に「宮城村」を作ったと言われています。(泊グスクの中腹)グスク入り口の階段を登ると、グスク南側の琉球石灰岩の壁沿いに進む道が続いています。グスク内には拝所があるようで、年に数回ほど宮城集落のノロ(神女)が拝みに訪れて崇め敬われています。また、無闇に肝試しや遊び半分で立ち入ると厳しい神罰が下ると言われているので、普段から立ち入る者がいない「神山」となっているそうです。(アガリ世ヌ神)そんな畏怖の念を起こさせる「泊グスク」の奥地に、私は一歩一歩ゆっくりと足を進ませて行きました。深い森の内部に入ると辺りが薄暗くなり始め、ゴツゴツした琉球石灰岩と亜熱帯植物が行方を困難にさせて行きます。しばらく暗い細道を進むと突き当たりに拝所を発見しました。「アガリ世ヌ神」(アガリの御嶽)と呼ばれるウガンジュ(拝所)でウコールと霊石が祀られていたのです。(按司ヌメーの御嶽)「アガリ世ヌ神」の少し手前に更に細く薄暗い道があり、行き止まりかどうか半信半疑のまま足を踏み入れました。すると急に張り詰めた空気に一変し、四方八方から数多くの"何か"に見詰められている気配を強く感じたのです。私は恐怖心に襲われないよう、必死に森に話しかけながら心を落ち着かせて平常心を保ちました。そこから数十メートル先の突き当たりに「按司ヌメーの御嶽」が私を待ち受けていたのです。御嶽には巻貝殻やウコールが設置されていました。(上原集落のヤンガー)「按司ヌメーの御嶽」にお賽銭を供えて手を合わせて拝み、神罰が当たらない事を望みながら私は「神山」の泊グスクを後にしました。さて、琉球石灰岩と第三紀層泥灰岩(クチャ)の地質で成り立つ宮城島は、雨水を保水する理想的な地形で多くの湧き水があります。上原集落の「ヤンガー」は宮城島で一番の湧出量を持ちます。(ヤンガーの井泉)上原集落と宮城集落の村人の飲水としてだけでなく、毎年正月の若水や赤子が産まれた時の産水としても使用されており、日常生活に欠かせない貴重かつ神聖な水源となっています。「ヤンガー」は1849年に間切の地頭代が他の役人や住民と共に造られました。この改修工事の功績を称えた琉歌があり「やんがはいみじや いしからるわちゆる よなぐすくうめが うかきうえじま(ヤンガ走い水や 石からどぅ湧つる 与那城御前が 御掛親島)」と記された歌碑が建てられています。(上原ヌン殿内)「ヤンガー」から程近い場所に「上原ヌン殿内」があります。集落の祭祀を司る最高位のノロ(神女)はヌンと呼ばれ、ヌンの住居を「ヌン殿内」といい、ヌンや他の神人がウマチー(村の五穀豊穣や繁栄を祈願する祭り)などの祭祀を行う場でもありました。「上原ヌン殿内」の敷地には数本の魔除けの石柱が設置され神秘的な雰囲気を醸し出しているのです。(高離節の歌碑)上原集落の南西側にある「シヌグ堂遺跡」には「高離節の歌碑」が設置されています。歌碑には「高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばうれ」と記されています。歌の作者は近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻である真亀(まがめ)と伝わっています。歌は「高離島(宮城島)は様々なことを教えられるところです もう十分に思い知ることができました 私の生まれ育った地に願わくば 命あるうちに帰りつけますように」という意味で、悲劇的に宮城島に流刑された真亀の複雑な心情が歌われています。(シヌグ堂遺跡からの絶景)真亀は夫の平敷屋朝敏が薩摩に首里王府を告発する投書をしたことで政治犯として処刑され士族から百姓に落とされました。夫が悲劇の死を遂げ島流しにあう辛さ、寂しさと貧しさに耐えながら、優しく接してくれる島の住民への感謝の念と故郷への思いを募らせる真亀の心情が「高離節」の歌に込められています。「高離節の歌碑」は絶景が広がるシヌグ堂バンタに建てられています。(宮城島の浜)宮城島は面積が5.5kmで周囲が12.2kmの小さな離島でありながら、宮城、上原、桃原、荻堂の4つの集落に多数の遺跡文化財や井泉が点在しています。更に縄文時代、グスク時代、琉球王国時代、そして現代へと歴史の移り変わりの中で激動の時代を生き抜いてきました。現在でも石垣が積まれた琉球古民家が多く残り、優しい島人は生まれ育った宮城島を誇りに思いながら、伝統行事を大切に守り後の世に継承してゆく事でしょう。
2021.02.16
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(ウガングヮームイ/御願小森)「大里集落」は沖縄市の南側に位置し泡瀬地区の西側にあります。大里集落の最南端に「ウガングヮームイ/御願小森」と呼ばれる小さな森があります。竜宮神を祀っていると言われる拝所で、かつて「ウガングヮームイ」周辺には船着場や防空壕がありました。勝連グスクの阿麻和利を討伐した鬼大城が百度踏揚を連れて首里に向かう前に隠れた場所との伝承があります。(ウガングヮームイの内部)「ウガングヮームイ」の内部には宇宙を構成する「地水火風空」を示す5つのウコール(香炉)と霊石か祀られています。昔は海外へ移住した村人たちの健康祈願も行われていた場所で、戦時中は戦地へ出発する兵隊を見送る場所でもありました。「ウガングヮームイ」は地元の住民に「イチバンチ」の名称で呼ばれています。(ウサチウガンジュ)(火之神)「大里集落」の東側に「ウサチウガンジュ」と呼ばれる拝所があります。「ウスクギー」と呼ばれるアコウの木の下に「大里氏地頭」と刻まれた石柱とウコールが設置されています。「ウサチ」とはそのアコウの木に由来しており、この木の樹齢は約100年と言われています。アコウの木の右側に「火之神」の霊石があり、集落の住民は俗に「ウサチヒヌカン」と呼んで拝しています。(カーウリガー)(カーウリガーの正面にある石敢當)「ウサチウガンジュ」の西側で大里2丁目23番地に「カーウリガー」があります。この井戸は出産時の汚れた衣服や布を海で洗った後に、仕上げをするために使用されていました。「カーウリガー」から道を挟んだ正面にはニービ石造りの石敢當があります。神聖な「カーウリガー」の井戸を悪霊から守るように設置されています。(ソーリーガー)(ヒーゲーシー)「大里集落」の北東に「ソーリーガー」があります。飲料水や生活用水として利用された他に「大里集落」で死者が出た際に死者の身体を清める水をこの井戸から汲む慣わしがありました。道路に突き出るように造られた井戸は比較的珍しい型で、一般的な井戸に併設しているウコール(香炉)が設置されていない事も特徴があります。大里公民館の北東側に隣接する桃原集落との境目に「ヒーゲーシー」があります。現在のクムイ(溜池)には水は見られませんが、重要なクムイの跡として現存しています。このクムイは村のヒーゲーシー(火を返す魔除け)のために設置されたと言われています。(地頭火之神)(地頭火之神の内部)「大里集落」の北側の坂道にある「地頭火之神」で、祠にはジトゥーヒヌカン(地頭火之神)とカミジー(神の土地)が祀られています。「地頭火之神」と刻まれた石碑と霊石が設置されヒラウコー(沖縄の線香)が供えられていました。集落の土地の守り神として地元住民により大切に拝されています。ちなみに「地頭」とは琉球王朝時代(1429~1879年)に各間切(マギリ/現在の市町村)の地頭(領主)として地方行政を担当した人のことで、間切番所(現在の町村役場)の最高の役で、諸般の行政を監理する役目を担っていました。(エーヤマ遺跡の案内板)「地頭火之神」の西側に「エーヤマ」と呼ばれる遺跡の森があります。「大里集落」の6つの拝所がある聖地で、この地の植物を切ったり刈ったりする事は固く禁じられていました。「大里集落」はこの森の周辺で発祥したと言われており、旧暦4月15日の「アブシバレー」と呼ばれる虫払いの儀式では住民が山の森全体を拝んでいます。「エーヤマ」はグスク時代(12〜16世紀頃)の遺跡として永きに渡り「大里集落」を見守っているのです。(トゥンチナー/殿内庭)(ウサチガー/御先井)「大里集落」の「火の神」が祀られておりトゥンチナーやトゥンヤーと呼ばれています。この場所では旧暦3月、5月、6月のウマチー(豊年祈願/感謝祭)の行事、旧暦6月25日の綱引き、旧暦9月9日の菊酒(健康祈願)が行われます。戦前は瓦屋根の建物でしたが沖縄戦で失われました。戦後、他の拝所に先駆けて現在の形に復元されました。「ウサチガー」は初めて大里集落に住んだ人々が使用していたとされる井戸です。戦前は隣接する国道329号線内にありましたが、道路建設に伴い現在の位置に移されました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(エーガー/ウフガー)(ヌンミジガー/飲水井)「エーガー」は「大里集落」で最も古い井戸の一つです。「ナナヒチヒャーイ」という記録的な大干ばつの時にも水が枯れる事がなく、周辺の集落からも「エーガー」に水を汲みに来たと伝わります。以前は「エーガー」から若水(元旦に初めて汲む水)を汲み茶を沸かし、1年の健康を祈願して飲んでいました。「ヌンミジガー」は大干ばつの際に「エーガー」だけでの水では足りなくなり造られた井戸です。井戸の構造が三日月に似ている事から「ミカヅキガー」の名称で親しまれています。「エーガー」同様、正月にはこの井戸から若水を汲み重宝されていました。現在でもカーウガミ(井戸拝み)などの集落の行事で拝まれています。(タキグサイ)(カンジャーガー)戦前は「エーヤマ」の頂上に香炉が置かれていましたが、戦後に「エーヤマ」が大きく削られた際に香炉や霊石が木の根付近にまとめられていました。その場所は現在のように屋根を付けて復元されました。祠内には天地海を示した3つの香炉と霊石が祀られています。また、海外へ移住した人々の健康祈願も「タキグサイ」で行われていました。「エーヤマ」のこの地で鍛冶屋(カンジャー)を始めた人が使った井戸と伝えられています。戦前は水溜りぐらいの井戸だったそうですが「エーヤマ」が削られた際に失われてしまいました。現在の「カンジャーガー」は実際の場所を探し当てて復元されたものです。(望月按司の石碑)(大里繁座那志の石碑)「エーヤマ」には「望月按司」の石碑があります。望月(茂知附)按司は9代目の勝連グスク城主で、その後10代目城主になる阿摩和利に追放された人物です。勝連グスクから追放された望月按司がエーヤマに逃れて大里の地で祀られています。「望月按司の石碑」の近くには「大里繁座那志の石碑」が建てられおり、大里の土地神がエーヤマの森に一緒に祀られているのです。(大里集落の琉球赤瓦屋根と芭蕉)「大里集落」は「エーヤマ」の聖地に守られている神秘的な集落で、琉球の文化が大切に継承される魅力溢れる土地です。琉球赤瓦屋根の古民家が残る静かでゆったりとした時間が流れる集落です。「大里集落」はかつては海に面していた集落で船着場跡も残っています。比較的小さな集落ですが、古の琉球ロマンがたくさん詰まった聖地として、現在でも集落の住民により神様への祈りが捧げられ続けているのです。
2021.04.06
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(美里集落の石敢當)沖縄本島の沖縄市中部に「美里集落」があり、現在の沖縄市の前身となった美里村があった歴史の古い地域です。沖縄戦の前から残る琉球赤瓦の古民家が多く現存する古き良き琉球を感じる街並みには、数多くの貴重な遺跡文化財が大切に保存継承されています。「美里集落」は平地でありながら井泉が多数湧き出る水の聖域として崇められています。(美里ビジュル)(ビジュルの霊石)「美里集落」の北側の境界に「美里ビジュル」があります。「んさとびじゅる」と刻まれた石碑と一緒に"天地海"を示す3つの霊石とウコール(香炉)が祀られています。ビジュルとは十六羅漢のひとり賓頭盧(びんずる)に由来し、沖縄では主に霊石信仰として豊作、豊漁、子宝などの祈願が行われる神聖な場所として拝されています。(イジュンガー)美里集落北部にある沖縄市立美里小学校の東側に隣接する場所に「イジュンガー」があります。「泉川」と刻まれた石碑があり井泉の跡を保存継承しています。小学校の身近な場所に美里集落の歴史跡がある事で、子供達への歴史教育に役立つ非常に貴重な文化財として地域住民により大切に拝されています。(ヒージャーガー)「ヒージャーガー」とは湧水を樋でひいて利用する形態の井戸の事です。明治25年(1895年)に生まれた地元の古老が物心ついた頃には井泉が存在したと言われています。「ヒージャーガー」は子供が産まれた時に産水を汲むウブガー(産井)として利用され、ウマチー(豊年祭)には集落の融資が祈りを捧げました。また、昭和初期まで集落の飲料水として使用され、洗濯をする「洗濯ガー」としても賑わっていたと伝わっています。(ヒージャーガー池跡)「ヒージャーガー」の南側にある溜池跡で「ヒージャークムイ跡」とも呼ばれています。水道が整備される以前の沖縄では、5〜6月の梅雨時期と8〜9月の台風の季節以外は干魃が相次ぎ、農業用水として雨水や排水をためる共同の溜池(クムイ)も使用していました。「ヒージャーガー池跡」の片隅には拝所が設けられており「「元」樋川池」と「馬□□」と刻まれています。(イリーアタトウヤマの入り口)(銀山御嶽/ヒンジャン御嶽)(シチャヌウカー/ヒチャヌウカー)美里公民館の北側にある「イリーアタトウヤマ」と呼ばれる聖なる小高い山があります。東側にある「アタトウヤマ」の西(イリ)側にあり、石垣や居住地跡が残されています。山の上には「銀山(ヒンジャン)御嶽」と呼ばれる拝所があり、祠内には霊石とウコールが祀られています。「イリーアタトウヤマ」の南東側の麓には「シチャヌウカー(ヒチャヌウカー)」と呼ばれる井泉があり、聖なる山からの神聖な水として崇められています。(村屋跡/アシビナー)(村屋跡の記念碑)「美里村屋」や「ンザトゥムラヤー」と呼ばれる美里集落の「遊び庭(アシビナー)」で、集落の子供達や若者が集う遊び場でした。また、集落の年間行事が行われる中心地として賑っていました。現在は集落の青年会会館として利用されています。集落の古老によると、村屋が建てられたのは1914年頃と言われています。「村屋跡」は文化庁の登録有形文化財として、建造物は貴重な国民的財産に指定されています。(石畳跡)(サークヌカー/ニーブガー)美里小学校の南側に位置する場所に「石畳跡」の道があります。現在は石畳跡の西側に国道329号線が並行していますが、琉球王国時代には集落の主要道路として石畳が敷かれていました。この石畳跡を進んだ先には「サークヌカー(ニーブガー)」があり井泉の周りには畑地が広がっており、周辺にも敷石と考えられる遺構が残っています。現在「サークヌカー」の水は農業用水として重宝されています。(ジナンヌシチャヌカー)(キャッチャガー)「ジナンヌシチャヌカー」は石畳跡の北側にあり畑地に囲まれています。かつては集落の生活用水として重宝されていたと考えられます。また「ジナンヌシチャヌカー」の西側には「キャッチャガー」があり、飲料水としてだけではなく農作物を洗ったり、衣類を洗う井戸として使用されていました。現在でも豊富な水量があり、農業用水として大切に利用されている現役の井泉です。(印部石/しるべいし)美里3丁目7番地に沖縄市指定文化財の「印部石(ハル石/さ/さく原)」があります。「ハル石」とは琉球王府により行われた「元文検地(1737〜1750年)」と呼ばれる土地測量の際に各地に設置された石の事です。美里集落に残る唯一の印部石(しるべいし)で、約280年前に建てられたこの「ハル石」は、琉球王国時代に行われた測量の状況を知る上で非常に貴重な文化財となっています。(美里3丁目8番地の霊石)ニービ石(ニービヌフニ)の霊石は魔除けとして集落のT字路や突き当たりに設置され、現在では珍しく歴史的にも文化的にも価値が高まっています。沖縄市「美里集落」は琉球王国時代から続く古い地域で、現在でも迷路のような細い路地や琉球古民家が残る歴史を感じる聖地となっています。「美里」という名前が示す通り琉球の文化美が詰まった空気が漂い、静かでゆったりとした時間が流れる里として私達を癒してくれるのです。
2021.04.12
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(美里集落の琉球赤瓦屋根)沖縄市「美里集落」の南部(美里1丁目/2丁目)には数多くの琉球赤瓦屋根の古民家が現在も立ち並び、令和の時代から古の沖縄の時代へ一気に空間を超越する事が出来ます。そこには歴史的価値が高い文化財が豊富に人々の暮らしに自然に溶け込み、先祖が残した大切な遺産を受け継がれているのです。(美里グシク)(美里グシクの香炉)美里集落の南部に「美里グシク」の拝所があります。この拝所は国道329号線と国道330号線が交わる場所にある小高い丘の頂上にあり、南南東に向けられて建つ祠内には「美里御城」と刻まれた石碑が祀られています。また「美里グシク」のウコール(香炉)は西南西に向けて設置されており霊石、貝殻、花瓶が供えられています。(グシクヌニー井戸)(仲元前のカーグヮー)「美里グシク」の北西側に「グシクヌニー井戸」があり「ソニーヌチンガー」とも呼ばれています。「美里グシク」から一番近い場所にある井戸の脇にはニービ石作りの霊石が魔除けとして祀られており「グシクヌニー井戸」は神聖な水源として、集落では水の神様へ祈る拝所となっています。さらに、この井戸から北西側には「仲元前のカーグヮー」と呼ばれる井戸があり、美里集落南部の生活用水や飲料水として重宝されていました。(ヌルドゥンチャー)(ヌルドゥンチャーの内部)「仲元前のカーグヮー」の西側に「ヌルドゥンチャー」と呼ばれるノロ殿内(ヌルドゥンチ)があります。「美里の殿」の名称でも親しまれる神アサギで、美里集落の琉球ノロが祭祀を行う神聖な場所でした。沖縄戦の前に造られた琉球赤瓦の建物で、歴史的にも文化的にも非常に価値があります。「ヌルドゥンチャー」内部には天地海を表す3つの霊石、3つの香炉、貝殻が祀られています。(ヌルドゥンチャー南西の霊石)(ヌルドゥンチャー北西の霊石)「ヌルドゥンチャー」は集落で行う祭祀において中心となる場所であり、村落の最高祭祀であるノロ(祝女)の火神が祀られています。集落でいくつか行われる祭祀において、ノロ(ヌル)はここに集合してから祭事に取り掛かります。「ヌルドゥンチャー」は豊年祭、ウシデーク、エイサーなどの諸芸能が奉納される場でもあり、ノロが神と交信交歓できる聖域でもあるのです。(ヌルドゥンチャー北東の霊石)(ヌルドゥンチャー南東の霊石)美里集落の「ヌルドゥンチャー」はこの他に東西南北にも霊石が祀られており、四方八方が魔除けの霊石で守られています。ノロは琉球王府に正式に定められた神職で、ニライカナイや太陽の神々と交信することのできる存在でした。また祭祀の間はその身に神を憑依して神そのものになる存在とされています。そのためノロは神人(かみんちゅ)とも呼ばれているのです。(美里間切地頭火の神ガー)「ヌルドゥンチャー」の西側に「地頭火之神」があります。石碑には「美里間切地頭火の神ガー」と記されていますが、現在はガー(井戸)は確認されません。井戸跡とウコール(香炉)が設置されており、美里集落の西側を悪霊を払う土地の守護神として祀られています。また、美里集落のお通しの役割を果たす拝所でもあり、住民だけでなく集落に訪れる人々の玄関口としても重要な場所でありました。(セークガー)美里公民館の南側に位置する「セークガー」は沖縄市の指定文化財に登録されています。井戸は堅固な石積みで2つの取水溝と四角の形をした覗き穴がある。戦後に改修された記録はなく、往年の技法を伝える重要な文化財となっています。詳しい建造年代は不明ですが、美里集落の発祥に関わる井泉だと言われています。美里集落の中心部に「メーデーガー」があり、現在でも豊かな水が湧き出ています。井泉は飲料水や生活用水の他にも、収穫した野菜や衣類を洗う為にも使用されていたと考えられます。旧正月には若水を汲み茶を沸かし一年の健康を祈願して飲んでいました。また、集落で子供が産まれた時には産水としても使用されていました。(美里2丁目11番地の石敢當)(美里2丁目17番地の石敢當)(美里2丁目21番地の石敢當)美里集落の美里2丁目には数多くの古い石敢當が点在しています。ニービ石で造られた石敢當は少なくとも100年以上前のものと考えられ、昔からこの地域に人々の暮らしがあった事が分かります。また、美里2丁目には琉球赤瓦屋根の古民家も集中的に多数残っており、美里集落が発祥した地域としての可能性も高まっています。(カニチヌマーチ)「美里集落」には道の角に孤立した三角地が設置されている独特な風景があります。これは美里2丁目18番地にある「カニチヌマーチ」と呼ばれる三角地です。美里集落でしか見られない珍しい区画形式で、魔除けの意味があると考えられますが詳細は不明です。美里集落の南部は美里集落発祥の地と考えられ、歴史あるノロの祭祀建物も大切に保存されています。美里集落に伝わる古き良き琉球文化を肌で感じる事ができるこの地は、スピリチュアルなパワーを感じる聖域として、ゆったりとした時間が今日も流れているのです。
2021.04.13
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(浜川御嶽)沖縄本島南部にある「南城市」の東海岸に「百名(ひゃくな)ビーチ」があり、その北側には「浜川御嶽」の森が静かに佇んでいます。「百名ビーチ」は美しい白い砂浜と広範囲に渡る遠浅が特徴の天然ビーチで、地元住民からは聖なる浜として親しまれています。また"神の島"と呼ばれる「久高島」と深く関係するパワースポットとしても知られており「浜川御嶽」(神名:ヤハラヅカサ潮バナツカサの御イベ)は聖地として崇められています。(ヤハラヅカサの石碑)「百名ビーチ」の北側の海中に「ヤハラヅカサ」の石碑が建立されており、満潮時には水没し干潮時のみ石碑の全容を現します。石碑がある地点は琉球開闢の女神「アマミキヨ」が「ニライカナイ」と呼ばれる理想郷から上陸した際の第一歩を印した場所と伝えられています。石碑には「ヤハラヅカサ」と記され、石造りのウコール(香炉)が設置されています。4月の稲穂祭には琉球国王や聞得大君(きこえおおぎみ)が参拝しました。(浜川御嶽への石段)(浜川御嶽の祠)「ヤハラヅカサ」の石碑がある「百名ビーチ」から森に入ると「浜川御嶽」に向かう石段が続いています。琉球開闢の女神である「アマミキヨ」が「ヤハラヅカサ」に上陸後、50メートルほど森に入った場所にある「浜川御嶽」に暫く仮住まいしたと伝わります。その後、南城市玉城の仲村渠(ナカンダカリ)集落の「ミントングスク」に安住の地を開いたと言われます。「アマミキヨ」はこの地で3男2女を儲け、その子孫が沖縄全土に拡散したと伝わります。(浜川御嶽/南東の拝所)(浜川御嶽/祠後方の拝所)(浜川御嶽/祠前方の石樋)「浜川御嶽」がある岩山の下に懇々と清水が湧き出る泉があります。「アマミキヨ」は「ヤハラヅカサ」に上陸後、この泉で疲れを癒やしながら近くの洞穴で暮らしたと言われます。現在も水量の多い湧き水が豊かに湧き出ており神の水として崇められています。「浜川御嶽」には拝所が多数あり石造りのウコール(香炉)や霊石が祀られています。御嶽の祠内には陶器製のウコールが設置されておりヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。祠の前方には湧き水を海に流し出す為の石樋も設置されています。(天然岩のトンネル)(岩を絞め殺すガジュマル)「浜川御嶽」で現在も行われている「東御廻り(あがりうまーい)」と呼ばれる聖地礼拝は、太陽の昇る東方を「ニライカナイ(理想郷)」のある聖なる方角と考え、首里からみて太陽が昇る東方(あがりかた)と呼ばれた「南城市」の玉城、知念、佐敷、大里にある御嶽を巡るものです。 起源は国王の巡礼と考えられており、以後時代の流れにより士族や民間へと広まりました。(岩間に絡まるガジュマル)琉球国王と共に「浜川御嶽」を参拝した「聞得大君(きこえおおぎみ)」とは、沖縄で古くから信じられてきた女性の霊力に対する信仰をもとにした「おなり神」の最高位の呼称です。国王の姉妹や王女など、主に王族の女性が国王によって任命され、第二尚氏時代の琉球神道における琉球王国全土のノロ(祝女)の頂点に立ち様々な儀式を司ってきました。(受水速水の入り口)(受水走水の拝所)「浜川御嶽」から南南西に500メートル程の場所に「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」と呼ばれる拝所があります。神名は「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」で、沖縄稲作の発祥の地として伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」によると「アマミキヨ」が「ニライカナイ(理想郷)」から稲の種子を持ってきて、この地の「玉城親田」と「高マシノシカマノ田」に植え始めたと言われます。(御穂田の石碑)(受水走水の霊石)(受水走水のガジュマル)伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」と呼ばれる場所に落ちて死んでしまいました。稲穂の種子は発芽し「アマミキヨ」の子孫である「アマミツ」により「受水走水」の「御穂田(みふーだ)」と呼ばれる水田に移植されたと伝わります。この地は「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所として霊域になっており、旧正月の初午の日には田植えの行事である「親田御願(うぇーだうがん)」が行われています。(アマミキヨのみち)「南城市」の「百名ビーチ」沿いに「新原ビーチ」から「浜川御嶽」に長閑に続く約1キロ程の道は「アマミキヨのみち」と呼ばれています。沖縄では琉球王国時代から伝わる自然崇拝的な信仰思想に基づく各種の宗教儀礼や祝祭が今日でも盛んに行なわれており、市民の生活や精神の中に資産が活用され、伝統文化として生き続け継承されています。「百名ビーチ」は透明度が高い美しい海で、まさに神に選ばれた"美ら浜"として人々に愛されています。「浜川御嶽」と「受水走水」の拝所には力強いパワーがみなぎり、自然界の神々を五感で感じ取れる聖域として存在しています。
2021.08.09
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(平敷屋製糖工場跡の煙突)「平敷屋集落」は沖縄本島うるま市勝連半島の東端に位置し、海抜約50m〜80mの丘陵地点にあります。「尚貞王」代の1676(延宝4)年に勝連間切から与那城間切が分離して「平敷屋集落」に勝連間切の番所が置かれました。それ以来、1910(明治43)年に勝連平安名に移転するまで「平敷屋集落」は間切行政の中心地として繁栄していました。かつて「村の高さや平敷屋村」と謳われたように、勝連半島の先端で栄えた高台の古集落でした。(嘉手納嶽/シリー御嶽)(嘉手納嶽/シリー御嶽)「平敷屋集落」の中央にある小高い森に「嘉手納嶽」があり「シリー御嶽」とも呼ばれています。南西側に向けて建てられた祠内には幾つもの霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られており「火の神」として集落の守り神として拝まれています。「火の神」に隣接してブロック積みに囲まれた拝所があります。この拝所は勝連半島の先端がある南東側に向けて建てられおり、小さな古墓の様な造りの入り口には霊石とウコールが祀られています。(勝連間切番所跡)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」の東側に「勝連間切番所跡」の空き地が広がっています。日本本土とは異なり琉球王国において「番所」とは、近世期に地方機関である間切を統治する役所の事を指しました。地頭代(領主の代官)以下の間切役人が交代で番所に勤務し、王府及び地頭への貢租上納、夫遣い、地方行政全般に渡って執り行い首里との人馬網の拠点としても用いられていました。「勝連間切番所」の特徴は集落の中心部に番所と御嶽があり、番所沿いには主要道路の宿道が設けられていました。(ヒッチャマー/平敷屋神屋)(ヒッチャマーの内部)「嘉手納嶽(シリー御嶽)」に隣接して「ヒッチャマー」があり「平敷屋神屋」とも呼ばれ「平敷屋集落」の氏神(神道の神)で、かつての村屋(村番所)跡に建立しています。平敷屋エイサー 、ウスデーグ(豊稔祈願の女性によるの祭祀舞踊)、集落の行事は「ヒッチャマー」に祈願してから始められています。また、戦前は毎年旧暦6月14日と24日に「タコ綱引き」と呼ばれるタコの足のように縄が分かれている綱引きがここで行われていました。(ノロ殿内)(とうの御嶽)「ヒッチャマー」の裏手にはかつて「平敷屋集落」のノロ(祝女)が住んでいた「ノロ殿内」があります。現在は「野呂内」という表札がある琉球赤瓦屋根の屋敷となっています。さらに「ヒッチャマー」から東側に「とうの御嶽」と呼ばれる森があり拝所が建立されています。この御嶽は「平敷屋集落」の誕生事を助ける神様で、子孫繁栄を祈願するウガンジュ(拝所)となっています。祠内には3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。(平敷屋タキノーの入り口)(平敷屋タキノー)「ヒッチャマー」から南東の場所に「平敷屋公園」があり、その敷地に標高70m余りの「平敷屋タキノー」と呼ばれる丘稜があります。1727年に脇地頭としてこの地に配属された和文学者であった「平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)」は水不足に苦しむ農民の為に溜池を掘削し、この時に掘り出した土を盛り上げて築いたのが「平敷屋タキノー」です。勝連半島を取り巻く太平洋を眺望できる景勝地にあり、集落史の研究の上からも重要な史跡でうるま市の指定文化財に登録されています。(平敷屋タキノーの溜池)「平敷屋朝敏」は1700年に首里金城町に生まれました。1734年に王府の高官だった友寄安乗らと共に、当時首里王府において実権を握っていた蔡温を批判した文を薩摩藩の琉球在番奉行の川西平佐衛門の宿舎に投げ入れるなどして捕らえられ、34歳の若さで那覇の安謝(あじゃ)港において「八付」の死刑に処されました。「平敷屋朝敏」は薩摩支配下における苦難の時代に士族という身分におごる事なく、農民を始めとした弱い立場の人達に温かい手を差し伸べた沖縄近世随一の和文学者でした。(平敷屋タキノーの歌碑)「平敷屋タキノー」には「平敷屋朝敏」の歌が刻まれた石碑が建立されています。『哀そのはた打かへす (この暑さで働いている) せなかより (農夫の背中から) ながるるあせや (瀧の様に汗が流れ落ちる姿が) 瀧つしらなみ (気の毒である)』この歌は平敷屋朝敏の働く農民に対する労りの心が伺える事から「平敷屋タキノー」の歌碑に選定されました。(米海軍港湾施設ホワイトビーチ)1945年の沖縄戦で形あるもの全てが焼き尽くされた沖縄の惨状がハワイの沖縄移民に届けられると、嘉数亀助は沖縄に「生きた豚」を届ける計画を立てました。ハワイの沖縄移民達は資金を集めて5万ドルで550頭の豚を購入し、1948年9月27日に勝連半島の「ホワイトビーチ」に到着したのです。陸揚げされた豚は全ての市町村に公平に分配されて繁殖を繰り返し、順調に頭数を増やし4年後には10万頭を超えました。これを境に沖縄の食糧事情は改善されて多くの人々の命を救いました。(平敷屋製糖工場跡)(貯水槽)「平敷屋タキノー」の南側に「平敷屋製糖工場跡」が隣接しています。「平敷屋製糖工場」は1940(昭和15)年「平敷屋集落」の11組のサーターヤー(製糖屋)が合併して建造されました。蒸気を動力とする共同製糖工場で建物は南向きで3基の煙突が立ち、煙突の1つは45馬力のボイラーに繋がり燃料は石炭が使用されていました。製糖工場は沖縄戦で米軍に破壊されましたが、工場跡地には今でも煙突1基と貯水槽が現存しています。(火立森/ヒータティムイ)(ヒラカー)「平敷屋製糖工場跡」は標高約66mの「火立森(ヒータティムイ)」の山麓にあります。「火立森」は別名で「遠見台」「烽火台」「火立所」「火番盛」など種々の呼称があり、琉球王国時代の情報伝達手段に利用されました。宮城島の「火立(ヒータチ)」に焚き火が上がると「平敷屋」の「火立森」からも狼煙(のろし)を上げて貿易船に合図をし、首里までの航海を導いたと言われています。「火立森」の小高い山に降った雨水が製糖工場脇の「ヒラカー」から湧き出ており、かつて製糖工場や貯水槽に利用されて重宝されていました。(火立森のガジュマル)(ノロガー)「ヒラカー」から更に「火立森」の奥地へ降りて行くと、枝が複雑に絡み合った高樹齢のガジュマルが神秘的な雰囲気を醸し出します。更に渓流を越えて進むと「ノロガー」が待ち構えていました。ノロ(集落の祭祀を担当する王府から正式に任命された神女)が利用する井戸で「ヌールガー」とも呼ばれます。「火立森」の粘土質の崖中腹にあるアカギの大木の根元に「ノロガー」の井泉があり「平敷屋集落」の発展を祈願する拝所となっています。「ノロガー」の周辺にはアカギの群落が広がる大自然の森となっています。(アマミキヨの拝所)(前の御嶽)「平敷屋製糖工場跡」の北西側に「アマミキヨの拝所」と呼ばれる祠があります。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコール、更に2対のヒヌカン(火の神)が祀られています。この拝所から西に坂道を登ると左手の森に「前の御嶽」の祠があり、御嶽の森の入り口に西側に向けられて建てられています。祠内には3体のビジュル石、霊石、ウコールが祀られており、集落の住民により大切に拝まれる拝所となっています。(平敷屋タキノーのシーサー)「平敷屋集落」に継承される「平敷屋エイサー」は100年以上という沖縄県内で1番古い歴史を持ちます。ジユーテー(地謡)、ハントゥー(酒甕)持ち、太鼓打ち、踊り手、中わち(世話役)で構成され、白と黒で統一された衣装を身にまとい、太鼓打ちは裸足で踊るなど古式エイサーの伝統を留めた独自の様式となっています。「平敷屋トウバル遺跡」等の遺跡文化財は現在も米海軍港湾施設「ホワイトビーチ」内にあり「平敷屋集落」の詳しい歴史が解明されていません。琉球の歴史を塗り替える新しい発見がある可能性が秘められているのです。
2021.09.15
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(三重グスク/大河ドラマ「琉球の風」ロケ地)「高志保集落」は沖縄本島読谷村の北西部に位置し、西海岸から内陸部に細長く広がる集落となっています。通称「タカシップ」と呼ばれる「高志保集落」は読谷村でも古い集落の1つで「琉球国高究張(1640年代)」に「たか志ふ村」と記載されています。海岸に位置する7〜8世紀頃の遺跡である「連道原貝塚」からは、唐の貨幣である「開元通宝」が出土されている歴史の長い集落です。(高志保集落の中道/南の入り口)(ハタクンジマーチ2世)「高志保集落」の中心に「中道(ナカミチ)」という主要道路が通じています。南の入り口は読谷小学校裏の読谷郵便局前となっており「中道」は「高志保公民館」に続いていきます。公民館に隣接する「護永之塔」の広場には「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれる琉球松(マーチ)があり、集落の旗頭「高翔」が掲げられます。「高志保集落」の伝統と心意気の素晴らしさや、住民が志を高く保ち空高く翔る昇龍の如く天に向かう限りない「高志保」の発展への強い思いが込められています。(前之泉/メーヌカー)(前之泉の社内部)公民館脇に「高志保児童公園」があり敷地内に「前之泉」の社があります。「メーヌカー」とも呼ばれ埋め立て前は降泉(ウリカー)となっていました。「高志保集落」の生活を支えた水の恵みに感謝して現在も多くの参拝者が来訪します。かつて周辺には飲料水の「東之泉(アガリヌカー)」産水の「中之泉(ナカヌカー)」洗濯用の「西之泉(イリヌカー)」があり、社の内部には「前之泉」の井戸と共に3つの泉を祀った霊石と"奉納"と記されたウコール(香炉)が設置されています。(女の神/ミンの神)(根人玉城家の拝所/ニッチュタマグシク家の拝所)「前之泉」の北側に「女(ミン)の神」が祀られており「ミンヌオー」とも呼ばれています。詳細は不明のままですが集落の発祥に関わる根神(ニガン)と関連していると伝わります。「女(ミン)の神」の北東に「根人玉城(ニッチュタマグシク)家の拝所」があり「高志保集落」で最も古い家とされる「玉城家」の屋敷跡です。祠内には2基のウコール(香炉)と数個の霊石が祀られており、現在は集落により管理され住民により拝まれています。(西南風佐事家の拝所/イリヘンサジ家の拝所)(東南風佐事家前の火の神/アガリヘンサジ前のヒヌカン)「女(ミン)の神」の北側に「西南風佐事(アガリヘンサジ)家の拝所」があり「高志保」の元処(ムートゥドゥクル)とされる家です。「高志保」の発祥に関わる先祖が祀られており、旧暦7月16日の「旗スガシー」と呼ばれる五穀豊穣と無病息災を祈願する伝統行事は、この拝所に祈りを捧げてから開始されます。また、南東側にある「東南風佐事(アガリヘンサジ)家前の火の神(ヒヌカン)」には霊石とウコール(香炉)が祀られ、集落の守り神として住民に大切に祈られています。(高志保の御嶽/ウタキ)(神アサギの広場)「高志保集落」の北側に「御嶽(ウタキ)」があり、戦前は瓦葺の御神屋(ウカミヤ)がありました。この地は「高志保」の人々が最も頼りとする神聖な場所であり最上位の拝所となっています。「御嶽」東側の広場は「神アサギ」跡となっており、首里王府編纂による「琉球国由来記」(1713年)には「高志保之殿」と記されています。戦前は「神アサギ」の広場がムラアシビ(豊年感謝祭)のスーダチ(打合せ/所作合わせ)の場となっていました。(鎮守神/大明神)(不動尊)(前寺神/後寺神)「不動尊」は元々「高志保集落」の3箇所にあり「カンカー祈願」の際にフーチゲーシ(流行病の厄払い)の祈願をしていました。戦後「護永之塔」の敷地に3つの「不動尊」の祠が安置された後、1968(昭和43)年に「御嶽」の社に移設されたのです。かつてこの地には「乃木神社」が建立されていた歴史があり、現在「御嶽」の社には東側から「鎮守神」「大明神」「不動尊」「不動尊」「不動尊」「前寺神」「後寺神」の7つの神々が祀られており、集落の住民により大切に崇められています。(高志保集落の中道/北の入り口)(龕屋/ガンヤー跡石碑)かつては綱引きも行われて賑わった集落の大通りである「高志保集落の中道」の北の入り口は県道6号線の読谷クリーニング店の位置にあります。北の入り口から西側に「龕屋(ガンヤー)跡石碑」が建立されています。火葬が普及する前は葬儀を終えた遺体は棺に収め、龕(ガン)と呼ばれる御輿に載せて墓に運びました。この地には龕を収める龕屋があり、役目を終えたその跡地には石碑が造られ歴史的価値を偲ぶ場となっています。(さとうきび畑の歌碑)(さとうきび畑の歌が流れるボタン)「高志保集落」西側に広がる農地に「さとうきび畑の歌碑」が建立されています。作曲家の寺島尚彦氏が作詞作曲し、森山良子さんにより歌われた有名な曲です。寺島尚彦氏が初めて沖縄を訪れ、沖縄戦の激戦地であった「摩文仁(まぶに)」のさとうきび畑を訪れた体験を元に作られた名曲です。読谷村は米軍が最初に沖縄に上陸した地として、この歌碑は読谷村に寄贈されたのです。緑色のボタンを押すと寺島尚彦氏の娘でソプラノ歌手の寺島夕紗子さんによる「さとうきび畑」の歌が流れます。(歌碑周辺に広がるさとうきび畑)「さとうきび畑の歌碑」の周辺一帯は広大なさとうきび畑が広がっています。西海岸からの海風が「ざわわ ざわわ ざわわ」と通り抜けます。「さとうきび畑の歌碑」には「ざわわ憲章」が表明されています。♪ 歌碑は、いくさのない世界を目指すために活用します。♪ 歌碑は、こどもたちの平和な心を育みために活用します。♪ 歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。♪ 歌碑は、沖縄に点在する平和学習の場のひとつとして活用します。♪ 歌碑は、さとうきび畑の自然景観を守るために活用します。♪ 歌碑は、作者が詩と曲に込めた平和の精神を歌い継ぐために活用します。(三重グスク/復元)(三重グスクの海中堤防)「高志保集落」の最西端の浜に「三重グスク(ミーグスク)」が復元されています。かつて琉球王国時代に現在の那覇港の北側に「三重グスク」があり、砲台を構えた城塞として造られましたが、時代の移り変わりにより那覇港を出港する船の見送り台として役割を変えました。NHK大河ドラマ「琉球の風」(1993年放送)のロケ地として「高志保」の浜に再現されました。また、角川文庫の小説「テンペスト」(2008年発行)でも「三重グスク」がストーリー展開の上で重要な役割を持っています。(三重グスクの主郭)(三重グスク/主郭内部)更に「三重グスク」の主郭は、沖縄出身の女性ダンスボーカルグループ「MAX」の曲「ニライカナイ」(2005年発売)のPVロケ地としても知られています。琉球王国の歴史に欠かせない「三重グスク」が読谷村「高志保」に見事な形で復元され、琉球の歴史を語る上で非常に貴重な有形文化財となっています。「三重グスク」に吹き抜ける西海岸からの"琉球の風"を感じながら、古き良き琉球王国の時代にタイムスリップできる最高のパワースポットとなっているのです。
2021.09.23
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(諸見里拝所)沖縄県沖縄市の南西部に「諸見里集落」があり、集落は米軍嘉手納基地の施設からコザ運動公園を経て、北中城村島袋に隣接する南北に縦長に広がっています。現在、国道330号線から北中城村島袋までの地域は「久保田」という住所になっていますが、もともとは古より「諸見里集落」の土地でした。集落の中心部の「諸見里公民館」沿いに「諸見里拝所」が建立されており、集落の土地神である「諸見里」の5つの守護神が祀られています。(諸見里拝所の鳥居と石獅子)(諸見里拝所の社)左右2体の石獅子に守られる「諸見里拝所」の鳥居をくぐると琉球赤瓦屋根の拝所の社が建てられています。社の内部には向かって右より「森城(むいぐしく)ビジュル」「松下丘(まーしんちゃー)ビジュル」「竹園(たけーら)ビジュル」「巫女火神(ぬーるひぬかん)」「地頭火神(じとぅーひぬかん)」が合祀されています。5つの土地神(守護神)にはそれぞれウコール(香炉)が設置されており、一緒に霊石が祀られています。(拝所に祀られる5つの土地神)「諸見里拝所」に合祀されている3つの「ビジュル」と2つの「火神(ひぬかん)」の拝所は、もともと現在の「コザ運動公園」敷地周辺に点在していました。1973年に前年の沖縄県の日本本土復帰を記念して開催された「復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)」の開催を記念して「コザ運動公園」が建設され、それぞれの土地神(守護神)の拝所は現在「諸見里公民館」に隣接する場所に合祀されています。ちなみに「若夏国体」の大会スローガンは「強く、明るく、新しく」で、沖縄県の本土復帰を祝う特別大会でした。(タケーラビジュル/竹園ビジュル)「コザ運動公園」の南側に隣接する場所に「もろみゴルフレンジ」があります。この施設の入り口にある森の頂に「タケーラビジュル(竹園ビジュル)」があり、現在でも"コの字型"の古い祠が草木に埋もれながら残っています。かつてはノロ(神を司る女性)の関わる行事が殿毛であったそうで、その時に村の娘たちはこの「タケーラビジュル」で控えていました。また娘たちはノロや村の神へ奉納する踊りをこの拝所で練習していたと伝わります。この拝所は現在「諸見里拝所」に合祀されています。(めーぬかー)(祠内部/めーぬかー/前の井)(祠内部/なかぬかー/中の井)(祠内部/いりぬかー/西の井)「もろみゴルフレンジ」の南側に「めーぬかー(前の井)」の祠があります。この井戸は「ウブガー(産井)」とも呼ばれ、正月の若水や出産の時の水をこの井戸から汲んでいました。「めーぬかー」は飲み水の他にも洗濯や畑の用水としても利用され、戦後には個人経営の簡易水道や銭湯の水源地として重宝されました。現在は旧暦9月吉日の「ミジナディー(健康祈願)」の時に集落の住民により祈られています。かつて「上武川原」と呼ばれる場所にあった「なかぬかー」と「いりぬかー」は「コザ運動公園」整備のため「めーぬかー」の祠に移動し、合祀されてウコール(香炉)が設置されています。(メーヌハラガー)(祠内部)「諸見里集落」の南側に「メーヌハラガー」と呼ばれる井戸があり、祠内には鶴瓶式井戸の跡が残されています。1959(昭和34)年に水道が開通し普及するまで「メーヌハラガー」は周辺住民の飲み水であり、洗濯や畑の水としても利用されていました。かつては集落の住民が集まり、語らいの場として賑わっていました。現在は住宅地の中にひっそりと佇んでいますが、取り壊される事もなく「諸見里集落」の歴史を継承する大切な文化財として守られています。(ヤマガーガー/山川ガー)(フサトガー/冨里ガー)「諸見里拝所」の北西に「ヤマガーガー」と呼ばれる井戸があります。屋号「山川」の屋敷隣にあった事から「ヤマガーガー」のなで知られてきました。地元の古老の話によると、この井戸は飲み水の他にも洗濯や農業用水にも利用されていました。さらに「諸見里拝所」の北側には「フサトガー」の井戸があります。飲料水の他にも洗濯や畑の水にも使用され、井戸には周辺住民で賑わい語らいや出会いの場でもありました。古老によると、かつて「フサトガー」周辺には大きな松の木が数本あり、夕方になると雀の群れの寝ぐらになっていたそうです。(創元之宮)(創元之宮のウコール)「諸見里集落」の南東部に「創元之宮」があります。現在この場所の住所は沖縄市久保田2丁目ですが、もともと「諸見里集落」の土地でした。「創元之宮」は松門門中(ムンチュー)及び「字諸見里」の創始者の霊を祭神したものです。「創元之宮」のウコール(香炉)は7基あり、左より「久保田 東」「久保田 中」「久保田 西」「石迫 東」「石迫 西」「上武川」「前迫」の7つの霊が霊石と共に祀られています。ヒラウコー(沖縄線香)もお供えされており、普段より住民に大切に祈られているのです。(諸見里ノロの墓)「創元之宮」の敷地内に「諸見里村大殿内(諸見里ノロ)の墓」が建てられています。「諸見里ノロの墓」を長年の間管理してきた豊田律(沖縄市山内在住)様、及び諸見里御友会の協力により建立されました。「ノロ」とは琉球神道における女性の祭司、神官、巫の事で、地域の祭祀を取りしきり御嶽の祭祀を司りました。「ヌール」や「ヌル」とも呼ばれ琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備され王国各地に配置されました。(久保田2丁目の井戸)(ソージガー/竿字ガー)「創元之宮」の北側の久保田2丁目に「井戸」があります。住宅地を階段で降った先にあるこの井戸の名称は不明ですが、産まれた時にミジナディ(井戸の水て額を3回撫でる呪法)をしてもらった古老が現在も拝みに来る井戸である事から、この井戸は「諸見里集落」のウブガー(産井)であると考えられます。この「井戸」から更に北側には「ソージガー(竿字ガー)」と呼ばれる井戸があります。荷馬車が通る道の近くにあったこの井戸は馬が水を飲み休憩する場所として使用され、周辺の住民は飲料水、洗濯、畑の水としても利用していました。(真言宗金剛山遍照寺)かつて「諸見里集落」であった沖縄市久保田に「真言宗金剛山遍照寺(へんしょうじ)」が建立されています。「遍照寺」は東寺真言宗の寺院で本尊は大日如来、山号は金剛山、元寺号は万寿寺(まんじゅじ)です。景泰(けいたい)年間(1450年~1457年)に「鶴翁和尚」により創建されました。「遍照寺」は明治時代の神仏分離以前は、琉球八社の一つである末吉宮(那覇市首里末吉町)に隣接する別当寺でした。寺は沖縄戦で焼失してしましたが、戦後に現在地の久保田1丁目に移転し再建されました。(遍照寺事務所)那覇市末吉町にあった「遍照寺」は沖縄の組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の作品「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台になった寺として知られています。鬼女と化す女から主人公の中城若松(なかぐすくわかまつ)を守るために「遍照寺」の住職が鬼女を退治する場面は有名です。現在、那覇市末吉町の「末吉公園」には「遍照寺」の跡である寺の土台と石垣のみ残されています。そんな由緒ある「遍照寺」は先代の「海舟師」により沖縄市久保田に再建されました。(諸見里拝所の石獅子)「諸見里集落」に伝わる沖縄市瀬帝文化財である「旗スガシー」は毎年旧暦の7月16日に行われます。安政年間(1854~1860年)に当時の越来間切諸見里村の地頭が製作したものと伝えられる「諸見里」の村旗を先頭に、地域住民が集落を練り歩き「地域繁栄、五穀豊穣、健康祈願」を願い、最後に自治会の広場でエイサーや獅子舞などが披露されます。戦前から引き継がれている「諸見里」の伝統行事です。「諸見里集落」は魅力ある文化財に溢れた土地として、住民は誇りを持って伝統行事を大切に守り継承しているのです。
2021.10.17
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(モーヤマウタキ)沖縄本島沖縄市に「知花グスク」があり、地元では「チバナグシク」と呼ばれています。標高87mのカルスト残丘地形にグスクが構築されており、付近はうるま市天願と北谷町砂辺を結んだ「天顔構造線上」にあります。沖縄本島北部と中南部を区分する断層上にあるため、地質学や植物学的にも重要な地域となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「知花集落」の「カナ森/神名:イシノ御イベ」「森山嶽/神名:イシノ御イベ」「カナヒヤンノ嶽/神名:イシノ御イベ」の3つの御嶽が記されており「イシノ御イベ」とは「霊石」を守護とした神を意味しています。(ユナガー/米川)(火之神)「知花グスク」の東側に「ユナガー(米川)」という井戸があります。「ヌールガー」とも呼ばれており、その昔「知花ノロ」が使っていた事からその名が付いています。「ユナガー」の井戸には祠が祀られており、線香を供えるウコール(香炉)が設置されています。また「ユナガー」から溢れて下方に流れ出た水溜りは、ノロや按司が手や足を洗う場所であったと伝わります。「ユナガー」は「知花集落」で最も神聖な拝所の1つとなっており、敷地内の拝所には「火之神」の石碑が建立され、手足洗い場を示すコンクリートの小池も設けられています。(ノロ殿内の拝所)(フウの木と霊石)(ウガンヌシー)「ユナガー」の北側に「ウガンヌシー」と呼ばれる御嶽の森があり「ムイグチヌウカミ」の拝所が設けられています。この森の南側には神に仕える祝女を輩出する「ノロ殿内(ヌルドゥンチ)」の屋敷が建てられています。「ノロ殿内」の敷地内には一般の住民が祈る拝所があり、家主の島袋さんが1955年に台湾から種子を持ち帰って育てたマンサク科の「フウ」の木と、複数個の霊石が鎮座しています。島袋さんは若い頃にハワイ大学の招待で農業研修生として6か月間ハワイに滞在しました。その時にハワイから持ち帰った数本のヤシの木が「ウガンヌシー」の森で現在も立派に育っています。(カンサジヤー/神アサギ)(知花グスク北側の洞窟)「知花グスク」の北側にノロが祭祀を司る「カンサジヤー(神アサギ)」があります。この広場は旧暦の5月15日と6月15日の行事に「知花集落」の発祥の地である古島(倉敷ダム東側一帯)へ遥拝するために拝まれ「知花ノロ」の管轄である「知花、池原、登川、松本」の4集落が祭祀に参加します。現在の建物になる以前は茅葺造りでしたが、それよりも昔には建物がなく祭祀の際にはクロツグの葉などで仮小屋が造られたと伝わります。この「カンサジヤー」は「琉球国由来記(1713年)」には「知花之殿」として記されており「下之殿」とも呼ばれています。また「カンサジヤー」の東側でグスク丘陵麓には鍾乳洞の洞穴が口を開いています。(上之殿毛/イーヌトゥヌモー)(上之殿毛の祠)「上之殿毛(イーヌトゥヌモー)」は「カンサヂヤー(神アサギ)」の南西側の高台広場に位置する御嶽で、石造りの祠が設置されており内部には霊石が祀られています。「松本之殿」とも呼ばれており、旧暦の5月15日と6月15日の「ウマチー(稲穂祭/稲大祭)」の際に、知花と松本の自治会と有志により拝みが行われます。「上之殿毛」の広場周辺に張り巡らされた綱は年に1回、旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に自治会関係者により新しく張替えられます。「縄張り」とも呼ばれるこの祭祀では、一年の感謝と繁栄の祈願(御用納め)が行われます。(ムイグチウタキ)(ムイグチウタキのウコール)「知花グスク」頂上にある展望台から北西側の丘陵中腹に「ムイグチウタキ」と呼ばれる琉球石灰岩の大岩があり、麓には拝所を示す石組みの囲いが施され中央にはウコール(香炉)が祀られています。この御嶽も旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に拝される「知花集落」の重要な拝所で、大岩の右側にある木を起点として中央の岩穴と左側の岩と3本の縄を渡す「縄張り」が施されています。「琉球国由来記(1713年)」に記されている「石城之嶽」はこの「ムイグチウタキ」であると考えられます。(モーヤマウタキ)(モーヤマウタキの祠)「知花グスク」の北西側の森を下って進むと「モーヤマウタキ」があり、石造りの祠と神が宿る岩塊が鎮座しています。「イーヌトゥヌモー」「ムイグチウタキ」と共に「知花集落」の平和と繁栄を祈願する「御用納め」で巡拝される3つ目の御嶽がこの「モーヤマウタキ」です。この御嶽にも「縄張り」の3本の縄が右側の木を基点として中央の岩塊に巻き付けられ、さらに左側の木に結ばれて固定されています。一説によると「琉球国由来記(1713年)」に記される「森山嶽/神名:イシノ御イベ」は「モーヤマウタキ」があるこの深い森を示すと言われています。(夏氏大宗墓の碑文)(夏氏大宗墓)1853(咸豊3)年に「鬼大城」を始祖とする「夏氏」の子孫が建てた碑文が「知花グスク」の南側丘陵中腹にあります。1716(康熙55)年に知花にあった「夏氏の墓」を美里の「宮里村中間原の墓」へ遺骨を移して双方の墓を祀りましたが、風水見の「鄭良佐与儀親雲上」は「知花グスク」に墓を祀る方が風水の良い場所と判断しました。さらに「知花グスク」には「鬼大城」の遺骨も葬られている為、それらの理由から現在の場所に「夏氏の墓」を移葬したと伝わります。因みに「鬼大城」の子孫には摩文仁間切(糸満市摩文仁)総地頭の「夏氏摩文仁殿内」がいます。(鬼大城之墓)(鬼大城之墓)「夏氏大宗墓」に隣接して「鬼大城之墓」があります。「鬼大城」の名前で知られる「越来賢雄」は15世紀の琉球武将で、唐名は「夏居数(かきょすう)」です。越来間切の総地頭に就任する以前の名前は「大城賢雄」でした。知花で育った「鬼大城」は武勇に優れ、第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」に仕えていました。1458年に首里王府軍の総大将として勝連按司の「阿麻和利」を討伐し「尚泰久王」の長女である「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻に迎えました。その後、政変により第一尚氏王統は滅び「鬼大城」もこの地に追われ自害し、その場所が墓になったと伝わります。(祝女墓/ノロ墓)「祝女墓」は「鬼大城之墓」の東側に位置し「知花集落」では「ヌールバカ」と呼ばれています。元々は岩陰を利用して前面を石積みにし、墓口をアーチ工法にした「岩穴囲い込み墓」の古墓でありましたが、現在はコンクリートで改築されています。昔、ある葬式の時に「ヌールバカ」へ入った人は、墓内部に約30基の蔵骨器を見たと証言しています。「知花、池原、登川、松本」の4集落が「知花ノロ」の管轄であった事から、この地域一帯での「知花ノロ」は非常に位の高い祝女であったと考えられ、歴代の「知花ノロ」が「知花グスク」南側の丘陵中腹の「祝女墓」に葬られています。(カーグヮー)(フクマガー)「知花グスク」の南側で比謝川の支流とユナガーの合流地点に「カーグヮー」と呼ばれる井戸があります。かつては「大村渠(ウフンダカリ)集落」の住民が松本に移り住むまで使用し、その後は「知花集落」の住民の生活用水となりました。「ニーガンヌール(根神ノロ)」が仕立てた井戸である事から「ニーガンウカー」や「イカンガー」とも呼ばれています。井戸には祠とウコール(香炉)が祀られています。因みに「根神(ニーガン)」とは琉球王府が公認したノロ(祝女)が幅広く配置される以前から、集落の祭祀を司っていた神人を意味します。更に「知花グスク」の東側にある「フクマガー」も「大村渠(ウフンダカリ)集落」があった昔から使用された古井戸であると伝わります。(知花橋から見た知花グスク)「おもろそうし巻二」の中城越来のおもろには「知花グスク」を謳った「おもろ」があります。 ちばな、かなくすく(知花金城) ちばな、いしくすく(知花石城) ももしま、まじうんいしくすく(百々島共に石城)又 けおのゆかるひに(今日のよき日に) けおのきやかるひに(今日の輝く日に) ちばな、こしたけに(知花こし岳に) あんは、かみ、てずら(我は、神をまつらん) かみや、あんまぶれ(神は我を守りたまえ)又 ちばな、にしたけに(知花北岳に)
2022.02.06
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(風葬墓)沖縄本島北部「今帰仁(なきじん)村」に「運天(うんてん)集落」が所在します。この集落の「ムラウチ」と称される海沿いの部落には、元来より「運天港」と呼ばれていた港があります。「運天港」は古くから知られ「海東諸国紀(1471年)」の「琉球国之図」には「雲見泊 要津」と記されています。また1531-1623年にかけて琉球王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし」では「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われています。更に12世紀頃に「源為朝」が流刑された伊豆大島から脱出する際に、嵐に流されて「運は天にあり」と漂着したのがこの港で、この事から港は「運天港」と名付けられたと伝わっています。(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓の石柱)「運天」の「ムラウチ集落」に「ウーニシ(大北)墓」という崖中腹のガマ(洞窟)を利用した古墓あり、別名「按司墓」とも呼ばれています。「今帰仁グスク」で第二監守を務めた「北山監守(今帰仁按司)」と、その一族を葬った墓で「今帰仁グスク」麓の「ウツリタマイ」と呼ばれる墓を1761年に「今帰仁王子十世(宣謨/せんも)」が拝領墓として建造し「運天」に安葬したものです。墓室内には第二尚氏王統の「北山監守(今帰仁按司)二世(介紹/かいしょう)、四世(克順/かつじゅん)、五世(克祉/かつし)、六世(縄祖/じゅうそ)、七世(従憲/じゅうけん)、更に「聞得大君」を頂点とした神人(カミンチュ)組織の中で「三十三君」と呼ばれる高級ノロ(神女)の一人である「阿応理屋恵(あおりやえ)」など30名余りが葬られています。(大和墓の石碑)(龍宮神)「ウーニシ墓」の南側にある「今帰仁漁港協同組合」の敷地内に「大和墓」の2基の石碑があります。左側の石碑の正面に「明和五戊 子□八月 妙法□定信□」と彫られており、天台宗や日蓮宗の戒名である事を示します。この石碑の右側面には「屋久嶋宮之浦 父立也新七敬白」と記されており、当時薩摩藩だった鹿児島県屋久島宮の浦出身の新七という人物をその父親が1768年8月に葬った事を意味します。更に、右側の石碑の正面には「即心帰郷信士」と彫られており、帰郷を切望する大和人男性が琉球国「運天」に祀られている意味が戒名に込められています。この石碑の右側面には「安政二年卯 十月七日」と記されており1855年に造られた石碑だと分かります。「大和墓」に向かって左側には航海の安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の石碑が建立されており、ウコール(香炉)が祀られています。(神アサギ)(神アサギの内部)「運天集落」の祭祀は「勢理客ノロ」の管轄で催されます。五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウタキヌウガン」の際には「勢理客ノロ」が「湧川、勢理客、上運天、運天」の集落を巡り、各集落から太鼓打ちの子供達と各区長が参加します。「運天」の「神アサギ」は「ウタキヌウガン」の最後に祈られます。屋根の低い瓦屋根葺きの建物である「神アサギ」は「シマセンク巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ」と集落の女性のみが祈り、村人は「アサギミャー」と呼ばれる「神アサギ」の庭でウガン(御願)が終わるのを待ちます。「ウタキヌウガン」が終わると昆布、揚げ豆腐、三枚肉、モーイ豆腐、紅イモの揚げ餅、魚料理などのご馳走を振る舞いウガンを締めくくります。(ウッチヒヌカン/掟火神)(ウッチヒヌカン/掟火神の祠内部)(チンジャ/掘り込み井戸)「神アサギ」がある「アサギミャー(アサギ庭)」に「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠が建立されています。ヒヌカン(火之神)と霊石が祀られた「ウッチヒヌカン」は「タキヌウガン」の際に拝されます。「ウッチ(掟)」とは琉球王国時代の間切や村の役人を意味し、地頭の下に置かれた地頭代と同格の役職です。「按司掟、大掟、西掟」などの種類があり「運天」には「村掟」が置かれたと考えられます。かつて「村掟」の役人が住んでいた場所に、現在「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠があると推測されます。「神アサギ」の裏には、かつて集落の共同井戸として重宝された「チンジャ」と呼ばれる掘り込み井戸の跡があります。(風葬墓)(風葬墓)(風葬墓の人骨)「ムラウチ」集落の「運天港」に面した崖中腹には、風葬墓の掘り込み穴が多数存在します。「運天港」に吹き込む潮風が直撃する崖は遺体を風葬にするのに非常に適した地形となっており、遺体を風葬にした数年後に洗骨をした人骨を家型の木棺や厨子甕などに納めます。風葬墓の入口は木の板や「チニブ」と呼ばれるヤンバル(山原)竹を編んで作った竹垣で塞ぎます。他にも「ムラウチ」集落には丸太や板を用いて入口を塞ぐ風葬墓もあり、時の流れと共に劣化して崩落した「チニブ」や木の板の内部に木棺から剥き出しになる人骨も確認されます。集落では先人の伝統的な葬制を守る為、葬られている人骨の現状を維持していると考えられます。(ムラウチ集落の石敢當)(ムラウチ集落のフクギ並木)沖縄県にはT字路の突き当りや、十字路の角に「石敢當(イシガントー)」と彫られた魔除けの自然石や石柱があります。一説ではこの「石敢富」の起源は「石敢富」という名前の勇士であると伝わります。「琉球学術調査報告(昭和38年)」には「石敢当の"石"という姓には岩石の神秘性と強力さがあり、名の"敢当"にも力強さを持ち合わせている」と記されています。更に「石敢当という人物はたとえ実在しないとしても、この姓名からは悪霊を追い払う勇敢で力強い人物を想像できる」とも報告されています。海沿いの「ムラウチ」集落はフクギの木が防風林として多数植栽されており、この見事なフクギ並木は集落の美風景として魅力となっています。(ウブガー)(ウブガー/天泉大神の石碑)(運天トンネル)(運天港)「運天」の「ムラウチ」集落の最西端に「ウブガー」と呼ばれる井戸があり「天泉大神」の石碑が祀られています。かつて「ムラウチ」集落で子供が産まれた時に、この井戸から産水を汲んでいました。「ウブガー」の南側の崖麓に1924年(大正13)に竣工された「運天トンネル」があります。1916年(大正5年)頃から物資の運搬が海上から陸上に移行し、以前から急な坂道を往来して難儀を強いられていた「ムラウチ」集落の人々にとって「運天トンネル」の開通は生活を便利に一変させる恵みとなりました。「古宇利大橋」を望む「ムラウチ」集落は、古より琉球から沖縄の世の節々で重要な港町として栄え、今日も「運天港」には静かで穏やかな波が寄せています。
2022.03.05
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(イビの森のガジュマル)沖縄本島南部の南城市佐敷に「新里(しんざと)集落」があります。この集落について『字誌新里』には琉球開闢の創世神である「アマミキヨ」の一族が玉城村字仲村渠の「ミントン/免武登」から玉城村下親慶原の「アマチジョウガマ/天次門ガマ」に移り、そこを拠点として新里の「澤川原」周辺で生活した後に「名合(なごう)ムラ」辺りに移り住みました。それが「新里」の先住民である「並里系統」の始まりであると伝わります。この「並里系統」は14世紀初期にやって来た「佐銘川系統」や16世紀以降に移り住んだ他の門中と共に集落を発展させて、農業や漁労で暮らすようになったといわれています。(旧場天御嶽/場天原)(イビの森の入り口)「新里集落」の中心部で新里公民館から南東に約400メートルの「場天原」に「旧場天御嶽」の森があります。1959年(昭和34年)10月に沖縄本島を襲った台風18号「シャーロット台風」に伴う豪雨により「軽石山」付近の大規模な崖崩れ及び地滑りが発生し「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」の居住跡があった「旧場天御嶽」一帯が埋没しました。その1年後「旧場天御嶽」にあった「佐銘川大主住居跡」、その住居跡で使用していた2つの井戸「上場天御井戸/下場天御井戸」、天の神への御通しの「御天竺神」、佐銘川大主の生まれ故郷である伊平屋島への「御通し」で、別名「ヤマトバンタ」とも呼ばれる「伊平屋神」が「澤川原」に佇む「イビの森」に移転されて合祀されました。(場天御嶽/場天殿)(場天御嶽の石柱)「イビの森」の北側入り口の階段を登ると右手に「場天御嶽」と彫られた石碑が建つ「場天御嶽/場天殿」が祀られています。珊瑚岩が組まれた祠にはウコール(香炉)と幾つもの霊石が祀られています。1713年に琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記」には『バテンノ殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテンノロ祭祀也。且、祭之前夜、巫・根神・掟ノアム、トノヘ一宿故、夕食・朝食、一汁一菜ニテ百姓中ヨリ賄仕有。』と記されています。「場天御嶽/場天殿」の拝所は「新里集落」の他にも第一尚氏の子孫である石原、勢理客、佐久間の各門中が崇める拝所となっています。(イビ御嶽)(イビ御嶽の祠)(イビ御嶽の石柱)「場天御嶽/場天殿」の南側に隣接した場所に「イビの森」の御神木であるガジュマルの巨樹が生えており、樹下には「イビ御嶽」が祀られています。珊瑚岩で造られた祠にウコール(香炉)と多数の霊石が祀られている御嶽は「新里集落」の祖霊神を祀った拝所で、集落の守護神として昔から大切に崇拝されている聖域となっています。「イビ御嶽」は「琉球国由来記」に記載されている『サクマチヤウノ嶽 神名 西森イシラゴノ御イベ』であると考えられており『バテン巫崇所。年浴之時、花米九合・五水四合・神酒壱百姓。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・芋神酒壱百姓、供之。同巫祭祀也。』と記されています。(御天竺神/上場天御嶽)(御天竺神の石柱)「イビ御嶽」に向かって左側に隣接した場所に「御天竺神/ウティンチク神」が祀られた拝所があります。珊瑚岩が組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)がヒジュルウコー(火を灯さない線香)の作法で供えられています。「御天竺神/ウティンチク神」は「旧場天御嶽」の森に祀られていた「上場天御嶽」であると考えられており「琉球国由来記」には『上バテンノ嶽 神名 サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ 昔佐敷按司御屋敷タル由也』と記されています。琉球王国時代における「御天竺神/ウティンチク」とは遠い東の海の彼方にある理想郷に住む神の事で、この拝所は「ニライカナイ」へ拝する「御通し」であると考えられます。(伊平屋神/下場天御嶽)(伊平屋神の石柱)「イビ御嶽」の正面には「伊平屋神/ヤマトバンタ」が祀られた珊瑚岩の祠があり、この拝所は「旧場天御嶽」から移された「下場天御嶽」であると言われており「琉球国由来記」には『下バテンノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベ』と記されています。「尚巴志」の祖父である「佐銘川大主(さめかわうふぬし)」が生まれた「伊平屋島」を遥拝する「御通し」として祠は北側に向けられています。「伊平屋島」から「今帰仁村運天」に渡った「佐銘川大主」は「シマセンク巫/勢理客ノロ」の宣託により「佐敷村」に移り住みました。魚を売って行商として暮らしていた頃に「大城グスク」辺りで大城按司の娘と出会い、後に結婚して「旧場天御嶽/場天原」で暮らし始めたのです。やがて2人の子供に恵まれ、1人は「尚巴志」の父親の「尚思紹」で、もう1人は「場天ノロ」でありました。(上場天御井戸/ウィーバテンカー)(上場天御井戸/ウィーバテンカーの石柱)「イビの森」の東側に「上場天御井戸/ウィーバテンカー」があります。「旧場天御嶽/場天原」から移設された井戸跡で「上場天御嶽」では産井(ウブガー)として使用されていました。子供が産まれた時に使う産水(ウビミジ)は産井(ウブガー)から汲まれて用いられ、その水で産米(ウブイメー)を炊き、赤子の額に3回水を撫で付ける「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。出産の日か翌日に赤子の名前を付ける「ナージキー/名付け」が行われ、その日の儀式は「カーウリー/川下り」とも呼ばれていました。その名前の由来は出産の汚物をクムイ(溜池)や家の井戸などで洗い流し、産井(ウブガー)から汲んできた産水(ウブミジ)で沸かした産湯につかわし「ミジナディ/水撫で」をする事から来ていると伝わります。(下場天御井戸/シチャバテンカー)(下場天御井戸/シチャバテンカーの石柱)「上場天御井戸/ウィーバテンカー」の南側に「下場天御井戸/シチャバテンカー」があり、こちらも「旧場天御嶽/場天原」から移設された産井(ウブガー)跡となっています。産まれたばかりの赤子は名前を付けられた後に「大鍋(ウフナービ)カミラスン」と言って赤子の額にナービヌヒング(鍋のすす)を塗りつけたり、ウブミジ(産水)を額に『ミミガニソンガニ 肝(チム)ヌソーアリ』と唱えて3回撫でる「ミジナディ/水撫で」の儀式が行われました。次に屋敷の入り口にあるヒンプン(目隠しの塀)の前方で赤子の「ナージキー/名付け」の儀礼をします。その後、ヒヌカン(火の神)とウグヮンス(仏前)に「ナージキー/名付け」の報告をするのです。産井(ウブガー)の水は人が生まれて最初に使用される清らかな水であり、生誕の儀式には欠かす事ができない特別な水でした。(新里ノ殿の標柱)(新里ノ殿)(新里ノ殿の祠)「イビの森」の南側に「新里ノ殿」と呼ばれる拝所があり、約9メートル四方で高さ約2メートルの円形の土台の上に鎮座しています。珊瑚岩で組まれた祠の内部にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、火を灯さないヒジュルウコーの形式でヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「琉球国由来記」には『新里之殿 稲二祭之時、シロマシ・神酒二宛百姓、供之。バテン巫祭祀也。』と記されています。この拝所は「新里大主(しんざとうふぬし)」の屋敷跡であると伝わり、当家の子孫や門中のみならず「字新里」全体で「新里ノ殿」を拝みます。また、字の「風水/フンシー」とも言われており、昔から変わらず「新里大主」の屋敷の神様が祀られているのです。
2022.08.11
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(七瀧拝所/喜如嘉七滝)沖縄本島北部の西海岸に大宜味村「喜如嘉(きじょか)集落」があり、集落の南側に大規模に広がるヤンバルの森に「七瀧拝所」と「喜如嘉七滝」があります。『七瀧拝所』と刻まれた扁額の鳥居をくぐると右手に小高い塚があり「七瀧拝所」の祠が建立されています。この拝所は1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』には『キトカサネ森 神名 七嶽ノイベナヌシ 喜如嘉村』と記されており『毎年、四度・四品・百人御物参之有祈願也。此時御花米、自公庫。仙香・御五水、間切ヨリ出也。』との記述があります。更に、王府の命で1731年に琉球王国の官僚・歴史家であった「鄭秉哲/ていへいてつ」が漢文で編集した地誌『琉球国旧記』には「七瀧拝所」は『奇度重森(在喜如嘉邑。神名曰七嶽威部那主)』と記されています。(喜如嘉七滝)(七瀧拝所の祠)(七瀧拝所の祠内部)「喜如嘉七滝」は「段瀑/だんばく」と呼ばれる滝で、最上段から滝壺まで七段の軌道がある事に由来して「七滝/ななたき」と言われています。この滝の水は北側の「幸地川」に流れ込み、その後「アミガー/浴川」に合流して北西に進み西海岸の海に到達します。また集落の古老によると、その昔「喜如嘉七滝」の流れを利用した水車が稼働していたとの伝承が残されています。琉球王国時代には滝壺の東岸側に石を積んだ拝所としていましたが、昭和10年に現在の位置に祠を建立し「七滝拝み」と称して拝されています。琉球赤瓦屋根が葺かれたコンクリート製の祠内部には「七瀧ノイベナヌシ/七嶽威部那主」が祀られた3組のビジュル石(霊石)と3基のウコール(香炉)が設置されています。更に「喜如嘉七滝」の地下深くにある天然深層水を汲み上げた天然ミネラル豊富な「沖縄の命水/七滝の水」が「ぬちぬみじ/命の水」として販売されています。(七滝の水/鎮守の森)(シークワーサーの木々)(シークワーサーの実)「七瀧拝所/喜如嘉七滝」に向かって右側に広がる丘陵は「鎮守の森」と呼ばれています。この森は「七滝」から西側にある「ヒンバームイ/ヒンバー森」の南側にかけては聖域とされており、かつては樹木の伐採が厳しく禁じられてらいました。現在「鎮守の森」の丘陵斜面にはシークワーサーの木々が植えられており沢山のシークワーサーの実が育っています。「喜如嘉集落」がある大宜味村はシークワーサーの産地として有名で「シークワーサーの里」と呼ばれています。シークワーサーはミカン科の寛皮柑橘で果皮が緑色、未熟の間は酸が強く黄色に熟したものは適度の甘味と酸味があります。沖縄の言葉で「シー」は酸「クヮーサー」は食べさせるを意味し「イシクニブ・フスブタ・タネブト・ミカングヮ・イングヮクニブ・ヒジャークニブ・カーアチー・カービシー」などの系統があります。(アカガー/赤川)(ミーガー/新川)(アサウイミガー/朝折目川)「喜如嘉集落」では旧暦1月2日に「ハーウガン/川御願」の行事が行われます。集落で昔から利用されている井泉にはウコール(香炉)が設置されており水の神が祀られています。集落のハミンチュー(神人)や住民が井戸や拝所を巡り集落の飲料水や恩恵に感謝して拝み、同時に集落の発展と住民の健康も祈願します。「ハーウガン」は『アカガー/赤川・ミーガー/新川・ビガーガー/比嘉川・ウガミ/御神(七瀧拝所)・アサウイミガー/朝折目川・アサギガー/アサギ川・ミンカーガー/ミンカー川・マザガー/真謝川・ハーグチガー/川口川・ヤマニーガー/山根川・ヒンバームイの拝所』の順序で祈願されます。海の神と山の神へ感謝する「ウンガミ祭り/海神祭」の早朝に「喜如嘉」の浜辺に下りてニライカナイの神を迎える「アサウイミ」の儀式に向かう直前、集落の神女達が必ず決まってこの井戸の水を飲む事が「アサウイミガー」の名称になったと伝わります。(アサギガーの石柱)(アサギガー跡)(ミンカーガー/ミーカーガーの石柱)(ミンガーガー/ミーカーガー跡)「ハーウガン」では各拝所で唱えられる次の祈願文句がありました。『○○ガーヌウカミガナシ グンドゥイチグヮチフチカナヤビティ アザガーヌミジハミヤビークトゥ クガニマクヌクヮーマーガターヤ健康 成功シミティウタビミソーリ』現在「ニーヤー/根屋」の拝所がある敷地にはかつて「神アサギ」があり、そこから北側に隣接した場所には神女が祭祀を行う際に使用された井戸があり「アサギガー」と呼ばれていました。この場所は現在「アサギガー」と刻まれた井戸跡を示す石柱が設置されています。更に「喜如嘉七滝/七瀧拝所」の北側には「ミンカーガー/ミーカーガー」の跡があり、井戸の痕跡はありませんが「ミンカーガー」と記された石柱のみ現在は残されています。その昔、この井戸は「喜如嘉集落」南西側の住民の飲料水や生活用水として重宝されていたと伝わっています。(マジャガー/真謝川)(ハーグチガー/川口川)(ヤマニーガー/山根川)「ハーウガン」の祈願文句は『○○川(川/井戸名または拝所名)の神様 この度一月二日になりました このように字の川々を拝んで感謝しておりますので どうか黄金マク(神言葉で喜如嘉集落の意味)の子孫は健康 成功させてくださいますようお願い致します』という意味となっています。「マジャガー/真謝川」と「ハーグチガー/川口川」は「イリナカジョウ/西仲門」の屋敷の下に二基並んで構えています。また「ヤマニーガー/山根川」は「山根」の屋敷内にある井戸です。「喜如嘉集落」には『道あきり』というウムイ(神唄)があります。『あきり あきり(あけよ あけよ) かみがみち あきり(神の道 あけよ) しどがみち あきり(勢頭の道 あけよ) ぬるがみち あきり(祝女の道 あけよ) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します) かみが たなばるに(神の 棚原に) いながにぶ うきてぃ(おなた様の柄杓 浮けて) かなやさちみそり(カナヤ先参れ) うとぅむさびら(御伴します)』(平良真順の銅像)(門中拝所)(門中拝所の祠内部)「喜如嘉公民館」の向かい側に「平良真順/1874-1972年」の銅像があります。『喜如嘉の四大偉人』と呼ばれた「平良真順」は医師として地域医療に貢献し、村議や県議として沖縄の政界で活躍した功績を讃え、1984年の十三回忌に際し「平良真順」の生家敷地に銅像が建立されました。また「平良真順」の生家の南隣に隣接する屋敷に「門中拝所」があり「マジャウイ/真謝上」の森に向けて建立されています。コンクリート製の祠内部にはビジュル石(霊石)とウコール(香炉)が祀られており、花瓶と湯呑が供えられています。「喜如嘉集落」には次のような『諸神御送りが節』という唄があります。『エイエイ あふの御神(エイエイ あふの御神) なーむとむかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて) やまぬ神(山の神) なーむとむとかち(庭元に) 御移り召しょうち(御移り給いて)』(キザハターブク/喜如嘉田圃)(喜如嘉民謡の石碑)(琉球赤瓦屋根とシーサー)「喜如嘉集落」の北側には美しい田園地帯が広がっており、地元では「キザハターブク/喜如嘉田圃」と呼ばれて親しまれています。以前は稲やビーグ(井草)の栽培が盛んでしたが、近年は生花用のオクラレルカやフトイなどの花々の産地として知られています。また集落には「喜如嘉朝憲」作の『喜如嘉民謡』があり歌碑が建立されています。『一、めぐる山陰によ かくまりし喜如嘉村 前や海ひかえ ウマル吾村よ 二、ひんば森登てよ うし下い見りば 稲穂ぬみるく なうりゆがふよ 三、七滝ぬ水やよ 七ちから落てるよ 白糸ぬ眺み なうり美らさよ 四、八月んなたるよ 喜如嘉浜下りて 若者ちゃぬ恋路 浜ぬ千鳥よ 五、謝名に立つるよ 喜如嘉糸芭蕉や 喜如嘉美童ぬ てかしかきてよ 六、文化大宜味喜如嘉村 民主々義ぬ魁けよ 老いん若さんわらびんちゃまで 皆うり福々よ』
2022.11.16
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(尚宣威王の墓)「尚宣威王/しょうせんいおう」(1430-1477年)は琉球王国第二尚氏王統の第2代国王(在位:1977年)です。第二尚氏王統の初代国王である「尚円王」の弟で、出生は伊是名島諸見村で神号は「西之世主/にしのよのぬし」でした。死去した場所は現在の沖縄市越来の「越来間切」で、死後に賜った諡(おくりな)は「義忠」となっています。「尚宣威王」は数え年の5歳の時に父母(尚稷/瑞雲)を失い、その後は兄の「金丸/後の尚円王」により養育されました。9歳の時に兄に付き添って首里に移り住み、1453年に下司(げし)士族階級の「家来赤頭/げらへらくかべ」に昇格し、さらに1463年には地方役人である「地頭代/親雲上」として「黄冠」を賜りました。兄が「尚円王」に即位した後は越来間切を領地として「越来王子」と称していました。(尚宣威王御墓の石碑)(尚宣威王の墓に向かう階段)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)(岩山中腹の入母屋式石製厨子)沖縄本島中部にある沖縄市の中央部に「越来/ごえく集落」があり、集落の西側に沿って流れる「比謝川」と昔に流れていた「セーシャー川」が合流する場所にある岩山の中腹に「尚宣威王」の墓があります。「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑が建立されており、この場所には古い時代に使われていたと思われる古い階段跡が残されています。「尚宣威王」の墓に向かう階段の途中にある岩肌の窪みに2基の入母屋式の石製厨子が現在も露わに置かれています。向かって左側の石製厨子には屋根型の蓋が施されていますが、向かって右側の石製厨子には蓋が無く前方に人骨らしき物体を確認できます。死後に風葬された遺体はある期間経過すると遺骨が取り出され、洗骨により洗い清めた後に厨子に納められます。この岩山中腹の石製厨子は「尚宣威王」に関わる人物のものであると推測されます。(尚宣威王の墓/尚宣威王御来歴の石碑)(尚宣威王の墓)(尚宣威王の墓に祀られたウコール)階段を登り切ると正面には「湧川家・普久原家・泉水家・角ヌ屋家」により建立された「尚宣威王御来歴」の石碑があり、高さ約3mの崖上に「尚宣威王」の墓があります。この墓の下には石製ウコール(香炉)が祀られており湯呑と花瓶が供えられています。1476年に「尚円王」が死去すると翌年、世子の「尚真」がまだ幼い事から群臣の推挙により「尚宣威」が第二尚王統第2国王に即位しました。しかし、その年の2月に琉球神道に伝わる陽神「キミテズリ/君手摩」が出現して、その神託により僅か半年で「尚宣威王」は退位しました。この「キミテズリ」はニライカナイに住む海と太陽を司る琉球王国の守護神で、王国の存亡の機に君臨するとされています。新しい国王の即位の儀式中に神女に憑依して神意を伝えると言われます。(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓)(ウナジャラ/王妃の墓のウコール)(ジンクラ/銭倉)「尚宣威王」の墓に向かって左側に隣接して「ウナジャラ/王妃」の墓があり、墓の下にはウコールと霊石が祀られています。さらに、この墓に向かって左側の角には「ジンクラ/銭倉」があり、あの世のお金である「ウチカビ/打紙」を焚く為の場所となっています。即位式で「尚宣威」を新王として讃えるはずの「キミテズリ」が「尚円王」と「オギヤカ/宇喜也嘉」の13歳の子である「尚真」を讃える次のオモロ(神歌)を唱え「尚真王」が即位しました。『首里オワル王(テダコ)我が思子ノ遊ビ見物、遊び躍(ナヨ)レバノ実物、鷲ノ羽差シ給ワチヘ。ト、神歌ヲゾ召サレケル。尚宣威王聞召シ給フテ、我ソノ徳ニ非ズシテ、帝座ヲ汚シタルコト、コレ天ノトガメ有リゲルゾヤトテ、在位6ヵ月ニシテ、御位ヲノガレテ、世子中城王子ヲゾ即位ナリ奉リ給フ。』これは王府の女官を掌握していた「尚円王」の未亡人であった「オギヤカ」の陰謀でした。(尚宣威王の墓に向かって右側の古墓)(尚宣威王の墓から降る階段)「尚宣威王」の墓に向かって右側には石が組まれた古墓があり2基の石製ウコールが祀られています。「キミテズリ」が唱えたオモロの意味は『我が世子の欣喜雀躍し給うみ姿の美しさよ、鷲の羽をかざし給う御子こそ、我が王である。』で、我が世子とは「尚円王」の世子「尚真」を指しています。このオモロを聞いた「尚宣威王」は愕然としてしまい、神女達が式場から退場すると不安に襲われながら引き上げていったと言われています。「尚真」は「尚円王」が50歳にして初めて授かった子で「尚真」の母后である未亡人の「オギヤカ」は、その当時32歳の権勢欲も虚栄心も十分に持った女盛りでした。そのため「尚宣威王」が「オギヤカ」の子である「尚真」に代わって第2代国王に即位した事に不満を持っていたと言えます。(尚宣威王の墓の麓にある古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)(那志原貝塚の古墓)即位した「尚真王」は13歳と幼かったために母后の「オギヤカ」が政治の実権を握りました。この件について当時琉球王国に保護されていた朝鮮人漂流民が『朝鮮王朝実録』にて『世嗣の王は幼少で、母后が政治を見ている。』と供述した記録が残されています。「尚真王」は母后の意思で全琉球のノロ(祝女)を統括する「聞得大君/きこえおおぎみ」という最高神女職を設け「尚真王」の妹(オギヤカの長女)を任命し、沖縄本島南城市にある「斎場御嶽/セーファーウタキ」にて就任の儀式である「御新下り/うあらうり」が行われました。「キミテズリ/君手摩」のご加護を得て「聞得大君」としてのセジ(霊力)を身に宿すとされ、就任後は原則として生涯職となっていました。これにより「オギヤカ」は「政治の支配」と「神の神託」という形で民を統治し「尚円王・オギヤカ」一族によって琉球王国を完全支配する体制の基礎固めに成功したのです。(那志原貝塚の森)(大工廻の拝所周辺の墓)(比謝川と尚宣威王の墓の丘陵)「尚真王」は第二尚氏王統の歴代国王を葬られる墓所として、現在の那覇市首里金城町に「玉陵/玉御殿/たまうどぅん」を造営しました。1501年に建立された「玉陵の碑文/たまおとんのひのもん」には「玉陵」に埋葬されるべき被葬者の資格が刻まれており「尚円王」と「オギヤカ」の子孫のみか記されていて「尚宣威王」やその血統以外の者は除かれていました。これも事実上、王国の実権を握っていた「オギヤカ」の意思であると考えられています。「尚真王」が国王に就任すると「尚宣威王」は「越来間切」に戻り、半年後の8月に「越来グスク」にて病死したと伝わっています。「尚宣威王」の墓については、その墓の所在地に異説もあります。一つは「尚宣威王」の墓は北谷町の「北谷グスク」にある説と、もう一つは沖縄市津嘉山町の「津嘉山森遺跡」にあるという記録も存在しています。
2022.12.06
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(山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン)「当間集落」は沖縄本島中南部の西海岸に広がる「中城村/なかぐすくそん」の中央部にあります。「当間集落」の南北に通る国道331号線の西側に集落発祥の丘陵があり、国道の東側に広がった「屋取集落」の平地は中城湾まで続いています。「中城村役場」「中城観光協会」「吉の浦公園/ごさまる陸上競技場」など中城村の主要施設は「当間」に属しています。この集落は「久保原/グローバル・平原/ヒラバル・犬川原/イヌガーバル・佐久川原/サクガーバル・前原/メーバル・比嘉田原/ヒジャタバル・浜原/ハマバル」の7つの小字から成り立っており、琉球王国時代の「当間村」には現在の「北上原」の一部の「榕原/ガジバル・若南原/ワカナンバル」を含めた広い面積がありました。(山田ヌ殿/向かって右側)(山田ヌ殿/向かって左側)(山田ヌ殿/移設された拝所)「当間集落」の北西側に「山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン」があります。屋号「山田」の北側に位置しており「山田門中」は集落の創始家とされ、ムラで行われる祭祀の中心的な役割を担ってきました。年中行事であるチナヒチ(綱引き)の際、先祖供養の為に列になり練り歩き「山田ヌ殿」に向います。集落の北側(イーグミ/上組)と南側(シチャグミ/下組)がお互いの隊列や踊りを乱す「ガーエー」と呼ばれる勝負をした後、めでたい先例である「カリー/嘉例」をつけて祈願しました。戦前は旧暦7月16日に行われる「ワラバーヂナ/子供綱引き」と翌日17日の「ニーセージナ/青年綱引き」があり、さらに7年毎(マール)に「ウフヂナ/大綱引き」が行われ「マールヂナ」とも呼ばれています。綱引きは集落の安泰と豊作を祈願する大切な行事で、どんな悪天候でも必ず行われたと伝わります。「山田ヌ殿」に向かって左側に隣接する祠は、かつて西側の畑の中にあったものが移設されたと言われています。(山田ヌ井戸/ヤマダヌカー)(山田ヌ井戸の湧き水)「山田ヌ殿」の北側に「山田ヌ井戸/ヤマダヌカー」があり「カブイ」と呼ばれる石積みの屋根が施されています。この井戸は現在も水が湧き出ており、旧暦1月2日に行われる「ハチウビー/御初水」は水に感謝する日とされ「山田ヌ井戸」は拝されています。この井戸がある屋号「山田」の家は「根人/ニーチュ/ニーンチュ」と呼ばれる集落創始の家系「根屋/ニーヤー」の当主で、かつては「当間集落」の祭祀を管轄した「屋宜ノロ」と共に祭事を司りノロの補佐役として重要な役割を担っていました。因みに「屋宜ノロ」は「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄していました。「山田門中」は綱引きの際に使われる灯籠や旗頭などの保管場所となっていました。「イーグミ/北組」の旗頭には「和気」「協力一致」と記され「シチャグミ/南組」の旗頭は「清風」「南北豊年」となっています。(ヒージャーガー)(かつて松の木があった休憩場所)(ヒージャーのクムイ/溜池)(仲前ン田小のサーターヤー跡)「山田ヌ殿」の北側に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡があり、かつては正月に汲まれる若水として利用されていました。水源の北側丘陵の土砂崩れが起こる以前は水量が豊富で2mほどの水深があり子供達が水浴びをしたと伝わります。戦後に「ヒージャーガー」の水を利用する為に「山田ヌ殿」の敷地にタンクが設置され、集落の3箇所にパイプを通し簡易水道として利用されていました。現在この井戸跡の近くに鉄塔が建てられていますが、昔は大きな松の木があり地元の人達が休憩する場所として利用されていたそうです。「ヒージャーガー」の西側に「ヒージャー」のクムイ(溜池)があり、こちらも戦前は若水を汲んでいたと言われています。このクムイに隣接して屋号「仲前ン田小」が所有していた「サーターヤー/製糖小屋」があり、戦後は牛舎として利用されていました。(仲門前ヌ殿/メーヌトゥン)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって右側)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって左側)(仲門ヌ前/ナカジョーヌメー)「当間集落」の中央部に「仲門前ヌ殿/ナカジョーメーヌトゥン」があり、旧暦2月1日の悪疫祓いの行事である「ニングヮチャー」の際に拝されています。地元住民からは「ニングヮチャーヌトゥン」または、屋号「仲門/ナカジョー」の向かいに位置しているため「前ヌ殿/メーヌトゥン」と呼ばれていました。「仲門前ヌ殿」の敷地と隣接した道を含めた一帯は「仲門ヌ前/ナカジョーヌメー」と称され「ニングヮチャー」の行事では牛を潰し牛汁を炊き「仲門前ヌ殿」に供えました。また「仲門ヌ前」には集落の住民が集まり皆でそれを食しました。更に潰した牛の生血を「ギキチャー」と言うミカン科の木である「月橘/ゲッキツ」の枝葉に付けて持ち帰り、屋敷の四隅に魔除けとして挿したと伝わります。また集落の四隅にも同様に生血を付けた月橘の枝葉が設置されたと言われています。(仲門前ヌ殿のクムイ/溜池跡)(ムラガー/ウブガー)(屋号伊佐の井戸)「仲門前ヌ殿」の西側に隣接した場所にはかつてクムイ(溜池)があり防火用の水を溜めていました。昔の集落は茅葺きの家がほとんどで、火事が度々起きていたと言われています。この溜池から道を挟んだ場所に屋号「西仲門/イリナカジョー」の屋敷があり、敷地内には集落の共同井戸である「ムラガー」があります。昔から水が豊富に湧き出る井戸で、集落で子供が産まれた時に使用する「産水」を汲んでいた事から「産井戸/ウブガー」とも呼ばれていました。また、この井戸の北側にある屋号「久手堅」の脇に小高い丘があり豊富な水が湧き出ていました。その下方にある屋号「伊佐」には溢れ出た湧き水が堰き止められ、水が溜まる井戸が設置されていました。現在は堰き止めた石積みの前にコンクリート製の枠が設置されています。(ヌール道)(屋号眞境名小の井戸)(ノロの休憩場所)「仲門前ヌ殿」の南西側に「ヌール道」と呼ばれる道があり「グングヮチウマチー/5月稲穂祭・ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の時に「当間集落」で祭祀を終えた「屋宜ノロ」が「安里集落」に向かう際に通った道と言われています。屋号「眞境名小」の屋敷手前に大きなガジュマルの木があり、ノロはその木陰で休憩を取った後に現在国道331号線を通り「安里集落」に向かったと伝わります。古老の話によるとウマチーの祭祀の際に「ウンサダイ」と呼ばれるノロのお供は「屋宜ノロ」を乗せる駕籠を用意して担いでいましたが、ノロはそれには乗らず祭祀の際に着用する白装束だけ駕籠に置いて皆と共に歩いたとの伝承があります。その為「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄した「屋宜ノロ」が全てのウマチー祭祀を終えるのは夜遅くだったと言われています。
2023.01.07
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(小禄墓)沖縄本島中南部の宜野湾市「嘉数(かかず)」の「嘉数高台公園」は沖縄戦で数多くの人々が亡くなった激戦地でした。この公園の北側には琉球大学の敷地から国道58号線を超えて、西海岸に流れ込む全長4.5キロの「比屋良(ひやら)川」があります。緑豊かな川の両脇には10m余りの断崖絶壁がそそり立ち、多い所で3段もの横穴状に彫り込ん古墓群が連なっています。これらの古墓は数100年前に造られ、沖縄県指定の有形文化財に登録されています。(宇地泊川/比屋良川の橋)(小禄墓)「比屋良川」は別名「宇地泊(うじどまり)川」とも呼ばれており、この川沿いに「小禄(おろく)墓」があります。川沿いの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切石や自然の雑石で塞いだ古琉球の墓です。「小禄墓」の大きさは幅8.5m、横2.4mで、葬式の際に龕(がん)と呼ばれる御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま墓に入ると伝えられるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地が付いており、常時取り外せるような仕組みとなっています。墓内には「おろく大やくもい」という古琉球の高級官人が葬られています。(小禄墓石彫香炉)(小禄墓石彫獅子)墓前に祀られた石造りウコール(香炉)の四面には火炎宝珠(太陽)、麒麟、花生け、四隅には獅子が浮き彫りされています。嘉慶11年(1806年)に中国の「馮姓」の士族により寄贈されました。香炉に向かって右側には墓を守る石彫の獅子が祀られています。現在は劣化が著しく原型が分かり辛い状態ですが、獅子が立ち上がっている形をしています。「石彫香炉」と「石彫獅子」はそれぞれ宜野湾市の指定有形文化財に登録されています。(小禄墓内石厨子)(小禄墓古墓群)「小禄墓」の内部には沖縄県指定有形文化財の「小禄墓内石厨子」が納められています。琉球王国第二尚氏王統の第三代「尚真王」時代に造られた、粗粒輝緑岩(あるいは細粒斑粝岩)製の石厨子です。石棺の正面中央には「弘治七年おろく大やくもい六月吉日」の銘文が彫られています。中国年の弘治7年(1494年)と記する文字は、沖縄県で最古級の平仮名文字と言われています。「小禄墓」の断崖には他にも3段に彫られた古墓が群がっています。高級官僚であった「おろく大やもい」同様、古琉球において身分の高い人物の墓だと考えられています。(宇地泊川/比屋良川沿いの古墓)(シュイワタンヂ/首里渡し)「宇地泊川(比屋良川)」周辺にある崖の中腹には「小禄墓」の他にも多数の古墓が点在しています。中腹まで石段が積まれている墓や、断崖絶壁で辿り着けない墓まで多種多様です。この川には「シュイワタンヂ(首里渡し)」と呼ばれる道があります。旧国民学校の通学路と川が交差する場所にあった川を渡る「ワタンジ(渡し)」の事で、大雨が降ると川が増水して渡れませんでした。この道は首里に行く道であったため「シュイワタンヂ(首里渡し)」という名前が付けられました。(ウシヌクスービラ/ウシヌクブービラ)「小禄墓」の南側に「ウシヌクスービラ」と呼ばれるビラ(坂道)があります。昔は現在よりも坂道がきつく牛が糞をしながら登った為「ウシヌクスービラ」と名付けられた説と、周囲の地形が牛のコブや牛の後頭部(クブー)に見える事から「ウシヌクブービラ」と呼ばれるようになった説があります。かつて、この坂道に交差して首里への道として利用されていた宜野湾村を横断する道がありました。道の両側に松の木が林立していたので「ナンマツ(並松)」と呼ばれていました。それに因み、現在この周辺には松の木が多数植えられています。(アガリガー)(アガリガーのウコール)宜野湾市「嘉数公民館」の南西側に「アガリガー(東ガー)」があります。比較的に規模の大きなこの井戸は「嘉数集落」のウブガー(産ガー)で、集落で子供が産まれると「ウブミジ(産水)」として井戸の水が使用されました。また、正月には「ワカミジ(若水)」を汲んでいました。「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られており、水の神と恵みへの感謝を祈る拝所となっています。この井戸は現在も水量が多く、ポンプで水が汲まれ農業用水として重宝されています。(ティラガマの出入口)(ティラガマの内部)(ティラガマの拝所)「嘉数集落」の最南端で浦添バイパス(国道330号)沿いに「ティラガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。この鍾乳洞は沖縄戦の際には防空壕として「嘉数集落」の住民の命を守りました。さらに、このガマは昔より伝説がある洞窟で「首里桃原」に住んでいた美女が家から逃げ出した時に休息したガマだと伝わります。その女性は宜野湾市にある「琉球八社」の一つの「普天満宮」の祭神である女神だと言われています。「ティラガマ」の内部奥は神が宿る鍾乳石があり、2基のウコール(香炉)と霊石が祀られる拝所となっています。この拝所にはヒラウコー(沖縄線香)がお供えされており、普段から人々の祈りの聖地として崇められているのです。
2021.12.07
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(浦添グスクの城壁)沖縄本島の浦添市に「浦添グスク」があり、グスクは隆起珊瑚礁が約400m続く断崖の上に築かれています。「舜天王」の時代に創建され12〜15世紀初頭にかけて「舜天王統」「英祖王統」「察度王統」が10代に渡り居住したグスクと伝えられています。グスク内の建物は改築を繰り返しましたが、1609年の薩摩侵攻により焼失してしまいました。また「浦添グスク」は沖縄戦において激戦地となり日本軍と米軍共に多数の死傷者を出しました。(ディーグガマ)(ディーグガマ内部の拝所)「浦添グスク」の頂上広場の西側に「ディーグガマ」があります。鍾乳洞が自然陥没して出来たガマ(洞窟)の御嶽で、デイゴ(ディーグ)の大樹があった事から「ディーグガマ」と呼ばれるようになりました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に「浦添グスク」内の御嶽について記されており、その中に「渡嘉敷嶽」という名前が見られ、それが「ディーグガマ」にあたると考えられています。ガマの入り口は2箇所あり千羽鶴が供えられています。沖縄戦後にガマの内部に遺骨を収めていましたが、後に糸満市の「摩文仁」に移動されました。(浦添王子遺跡の碑)(ディーグガマの拝所)「ディーグガマ」に向かって右側に「浦添王子遺跡」の石碑が建立されています。「浦添王子」は「浦添朝満(1494-1540)」です。琉球王国第二尚氏王統の第3代「尚真王」の長男でしたが、王位を継ぐ事はなく弟の「尚清」が第4代の王となりました。死後は一旦「浦添ようどれ」に葬られましたが、弟の「尚清王」により琉球王家の陵墓である「玉陵(たまうどぅん)」に移葬されました。「浦添王子遺跡」には「浦添朝満」の魂が祀られています。更に、この石碑に向かって右側には拝所があり霊石とウコール(香炉)が供えられています。(ハクソー リッジ/前田高地の碑)(アメリカ陸軍工兵隊の調査標識)「浦添グスク」頂上の広場北側に「前田高地」と呼ばれる沖縄戦での激戦地跡が残されています。この丘陵一帯は米軍に「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」と呼ばれていました。米軍の攻撃は北側丘陵の断崖絶壁を正面とし、頂上まで登り詰めた米軍に日本軍が猛烈な戦術を仕掛けました。激しい攻撃を浴びせられた米軍は退却の際に多数の負傷兵が取り残されたのです。「ハクソー リッジ/前田高地の碑」の岩の麓には金属製の「アメリカ陸軍工兵隊の調査標識」が埋め込まれています。(デズモンド ドス ポイント)「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」は2016年のメル ギブソン監督による米国伝記映画「Hacksaw Ridge」の舞台になり話題になりました。実話に基づくこの映画では、宗教上の理由から武器を持たない衛生兵「デズモンド ドス」が日本軍の猛烈な砲火のなか数多くの兵の命を救った事が描かれています。後に「デズモンド ドス」は名誉勲章(メダル オブ オウナー)が授けられました。この「Hacksaw Ridge/前田高地」の地点は「Desmond Doss Point/デズモンド ドス ポイント」と呼ばれています。(浦添グスク正殿跡)(トゥン/殿)この遺構は1998年に行われた発掘調査で発見されたもので、縁石が置かれ石が敷かれている様子が確認されています。他にも石列や柱の跡と思われる穴などが見つかっています。これらの遺跡は、この場所に正殿があった事を示すものと考えられます。遺構がある広場は「トゥン(殿)」と呼ばれ、ウマチー(豊作祈願/感謝祭)の際に「仲間集落」と「前田集落」が合同で祭りを行なっていました。神々が通る門を表現した2本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かってノロ(祝女)や参列者が手を合わせて祭りを開始したそうです。(ワカリジー/為朝岩/ニードルロック)(ワカリジーの拝所)「ワカリジー」は「浦添グスク」の南島端に位置する岩で、頂上の標高は148mと浦添市内で最も高い場所となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「小城嶽」と記され「為朝(ためとも)岩」とも呼ばれています。沖縄戦の際には米軍に「ニードルロック(針のような岩)」と呼ばれ、日米両軍の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。「ワカリジー」は「英祖王」とノロ(祝女)との間に生まれた「イソノシー(伊祖の子)」を祀った場所とされ、ウコール(香炉)や霊石柱が設置される拝所となっており、首里や那覇から多くの人々が参拝に訪れていました。(浦添グスクの前の碑)(石畳道)(カラウカー)「浦添グスク」の南側丘陵に「浦添グスクの前の碑」が建立されています。この石碑は1597年に「浦添グスク」と首里を結ぶ「石畳道」を整備した時の竣工記念碑です。石碑の表には平仮名で琉球文、裏側に漢文で「尚寧王」の命で国民が道路を作った様子が記されています。碑首は16世紀の琉球王国の象徴文様である「日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)」で飾られています。石碑の前の大岩は「馬ヌイ石」と呼ばれ、馬に乗る為の踏み台だと言われています。元の石碑は沖縄戦で台座もろとも破壊されたため1999年に復元されました。「石畳道」の脇には「カラウカー」と呼ばれる井泉跡が現在も残されています。(カガンウカー/鏡川)(泡盛「宝船」のラベル)「浦添グスクの前の碑」の南側に「カガンウカー(鏡川)」と呼ばれる井泉があり、旧暦5月6月のウマチー(豊作祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)などの年中祭祀で「仲間集落」の人々により拝まれていました。「カガンウカー」の水は琉球国王に献上された名水として知られており、水面を鏡の代わりに使用するほど澄んでいました。戦後は「カガンウカー」から湧き出る水で「宝船」という泡盛を造っていました。「宝船」はかつて浦添にあった「宝船酒造場」の地酒で、宝物を沢山積んだ船の帆に「宝」の文字が描かれた印象的なラベルでした。酒造場は本土復帰前に倒産しましたが、現在も「幻の酒」として浦添市教育委員会文化課で保管されています。(シーマヌウタキ)「カガンウカー」の西側にある深い森の奥に「シーマヌウタキ」と呼ばれる聖域があります。この御嶽は「仲間集落」の拝所で旧暦5月と6月のウマチー(豊年祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)など年中祭祀の際に村拝みが行われています。琉球国時代の地誌「琉球国由来記(1713年)」によると「シマノ獄」(神名:シマノ御イベ)と記されています。沖縄戦の前までは「シーマヌウタキ」にはウコール(香炉)が供えられ灯籠が2つ設置されていました。(ユムチガー/世持ウカー/アガリガー)「シーマヌウタキ」の南西側で「浦添市立浦添小学校」の体育館東側の森に「ユムチガー」があります。小学校の敷地内という事で、事務所にて教頭先生の許可を貰い見学させて頂きました。この井泉は「世持ウカー」や「アガリガー」とも呼ばれ、石を積んで水を溜める造りとなっており「仲間集落」のウマチー(豊作祈願)では浦添ノロをはじめとする神女たちに拝まれていました。更に、隣接する「前田集落」ではこの井泉を「ヌヌサラシウカー(布さらし御井)」と呼んでいたそうで、戦前は芭蕉や布を洗うことにも利用されていました。(暗しん御門)(浦添ようどれのアーチ石門)「浦添グスク」北側の丘陵に「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる場所があります。造られた当初は加工した岩盤と石積みで造られたトンネル状の通路でした。「暗しん御門」は薄暗く冷んやりしており、地下通路を通って"あの世"に通じる様な雰囲気だったと伝わります。トンネル状であった通路は沖縄戦で破壊され天井部分が崩落してしまいました。「暗しん御門」を通過して更に進むと「浦添ようどれ」のアーチ石門に辿り着きます。(英祖王の墓)(ようどれの碑文)(尚寧王の墓)「浦添ようどれ」は向かって右側の西室に13世紀に造られた「英祖王の墓」があります。向かって正面には「ようどれの碑文」の石碑があり1620年に「英祖王の墓」が「尚寧王」により改修された経緯が記されています。更に、向かって左側の東室は「尚寧王の墓」となっており、彼の一族と共に葬られています。両方の墓室には遺骨を収める石厨子が安置されています。沖縄戦や戦後の採石で「浦添ようどれ」は徹底的に破壊されてしまいましたが、2005年に戦前の荘厳な姿を復元しています。ちなみに「ようどれ」とは「夕どれ」の事で、夕方に波風が鎮まる"極楽の夕凪"を意味しているのです。
2021.12.12
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