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花と彫刻に彩られた白鳥路を通り抜けて、お堀通りを右折してから150mほど進み、また細い路地を北へ、ひがし茶屋街に向かいます。 「寺島蔵人邸跡」と示された門も。加賀藩の有能な藩士ゆかりの場所だそうで、金沢城にほど近い此の辺りは中級武士が住まうエリアだったようです。 小さな橋のそばにあったのが「金沢城惣構跡(かなざわじょうそうがまえあと)」。いまも用水として使われているお堀の遺構のようです。 「上坂口」から、ゆっくり歩いて約40分、浅野川大橋に到着。水の庭・兼六園、深い谷のような掘に囲まれた金沢城、小川流れる白鳥路、「堀」の文字が遺された通り、内陸での豊富な物資の流通、手工業に必要な水源など高い技術と豊かな水が守るまちは、この川が支えてきたのでしょう。浅野川を渡って、ひがし茶屋街へ。 着物姿の方もちらほら、街から繋がる寺院群まで、優雅にそぞろ歩きしたいなとも思いましたけれども、夏の午後、甘味の補給のみで足を伸ばしてきた身にはそろそろ燃料切れ☆夕食に向かいました。「夏の金沢 日記」
July 17, 2010
兼六園付近からひがし茶屋街に続く道は、手持ちの地図では交通量の多い兼六園下の交差点から向かうルートと、もうひとつ、金沢城址に沿う白鳥路というルートがあるとのこと。 石川橋から石段を降り、百間掘通りを渡ってよく目を凝らすと、上から眺めたときは緑に覆われて見えなかった路地を発見。白鳥路の文字も確認して、足を踏み入れてみると、前田利家公と思しき像が出迎えてくれました。 それからも、歩むごとに花や彫刻などが次々と現れます。手持ちのガイドブックには詳しく載っていなかったのですが深緑のなかで芸術鑑賞もできる素敵な散歩道になっていました。 金沢ゆかりの文人の姿も。碑銘は自筆のようですね。 道の北端までくると、小川も流れていたことが分かって。ちょうどホタルの時期で、前日も飛びちがっていた様子が記録されていて、暗くなるまで待ってみたかったのですけれども。またの機会になりました。続きます。「夏の金沢 日記」
July 15, 2010
兼六園を上坂口から後にして、金沢城址を目指します。 そろそろ傘を開くことになりそうな空模様、機会があれば入ってみたいなと思っていたお店の灯りに惹かれますけれども駅と近江町市場でいただいた甘味の威力がまだありましたので、風情ある様子をおさめたのみで通り過ぎ、無事に石川門付近に到着。 残念ながら見学の時間は終了していましたけれども、石川橋から見上げた石垣の勇壮と、眼下に走る百間掘り通りまでの胸のすくような距離感で、天守閣に登った気分に。石川門の前では、ヨーガ療法学会で毎年、講演してくださる先生をお見かけできたこともラッキーでした☆さて、石川橋から百間掘り通りへ。地図をみると紺屋坂というやや交通量の多い道が載っていましたが、橋の脇に綺麗に整備された石段をみつけたので降りてみることに。 緑のなかを快適に進んで、日本の道百選の石碑の前に。石段は手持ちの地図には載っていないようでしたが、歩いてゆかれる方にはおすすめのルートかなと思います。続きます。「夏の金沢 日記」
July 14, 2010
閉園まで残り数分、天下の名庭の、目に映るもの全ての美しさについ立ち留まり勝ちになる足を強いて早めて進みます。 春は遠くなった季節、香る花の面影はありませんでしたけれども三年前、これもヨーガ療法学会参加のために訪れた福岡の、太宰府天満宮にも梅林があったことを思い出しながら文字を辿ってゆくと、全国から譲りうけた木々のなかに菅公ゆかりのものもあるようで懐かしく。 由緒のありそうな風格を漂わせていた赤門は「成巽閣」という重要文化財だそうで、「伝統工芸館」の見える角まで塀を辿ると「花見橋」と「竜石」の前に。 レンガ塀に沿って「小立野」を潜って外に出るか少し迷ってから「花見橋」を渡ると、大きな像が見えてきて。「日本武尊の像」は、西南戦争の慰霊の碑とのこと。巨竜が動き出すときに振り落とされる鱗片のごとくはからずも時代の潮流から離れてしまった武の士が最期に集まった場所に対して同じく雄藩として並び数えられていた文化の地から発った人たちが覚えた感情はどのようなものだったのでしょうか。 30分あまりで、散策はタイムリミット。初夏のなごりの花をおさめて「上坂」から名庭を後にしました。続きます。「夏の金沢 日記」
July 13, 2010
眺望台に立つと、やはりここは武から文へ体制をシフトした雄藩の時代を生き抜くための智慧の象徴なのだろうと思えました。 武家好みの侘び寂びの風を踏まえつつ、闘いの気配をそよとも感じさせないよう、潤沢に湧き出る財は湯水のごとく使うように、反旗のために滞留はさせないようにして、世紀をこえた名庭が育まれていったのでしょうか。 「舟之御亭」の舳先に立って。贅沢ながら小さな箱庭…ならぬ箱海?ですけれども志ある人には眺望台から見えるように雄大な次なる大海原が見えていたのかもしれません。続きます。「夏の金沢 日記」
July 10, 2010
金沢は今回が初訪問、閉園まで30分ほどしかありませんでしたけれども、天下の名勝を是非観ておきたかったので、やや早足で進みます。 「真弓坂」から入園、苔生す床の英気を感じ取りながら「瓢池」に。 池端に見えるお茶室らしき建物を目指してゆくと「夕顔亭」と、源氏好きには嬉しい文字がみえました。 お茶室の奥に続く路、石段の方を踏んでゆくと大きなうろの樹。 掃き残された落ち葉は、みどりの庭にひとつひとつ丁寧に形を見定め留め置いてあるようで。 冷涼に吹き上げるひと筋は、日本最古の噴水なのだそうです。 「常盤ヶ岡」という緑を抜けると「霞が池」に。 「虹橋」から「徽軫灯籠(ことじとうろう)」をとらえて。琴柱に似たこのモチーフは、金沢のまちのあちこちで見かけました。(ヨーガ療法学会のスタッフの方のTシャツにもデザインとして使われていたように思います。) お城へ続く水道の遺構も。噴水をはじめ、水の庭の演出を支えた貴重な痕跡なのでしょう。続きます。「夏の金沢 日記」
July 9, 2010
「金沢21世紀美術館」で観たのがベルギーと日本のアーティストを取り上げた「ヤン・ファーブル×舟越桂」展。現代美術は共鳴するものがないと、ごく素早く展示室を観終わってしまうことが多いのですが現在地を計りかねるような美術館の構造を加味しなくとも、かなりじっくりと鑑賞に時間をかけることができたように思います。印象に残ったのは、ヤン・ファーブル氏の玉虫の羽を使った作品群。特に、十字架に連なる無数の甲羅は暗黒の世界に直結しているようでジュリエットが横たわっていた場所を思い起こさせました。同じく玉虫の羽を使った「昇りゆく天使たちの壁」が非常に高い天井を生かして展示されているのも見どころ、ポスターにも使われている「私自身が空になる」は、その天使のすぐ傍にあって、全体像を載せられないのが理解できる、かなり胸を突く作品。ヤン・ファーブルの出身国ベルギーの15~17世紀の古典的な肖像画や宗教画や、観音像と交互に並べられた部屋も興味深いものでした。舟越桂氏の楠を使った彫刻は、先日、同行している友人と行ったメナード美術館にもひとつ、独立展示されていて。今回、その彫刻の下絵も観ることができたのも収穫でした。モディリアーニの肖像画のような長い頭部をもつ彩色された彫刻は楠の質感のためか、艶かしいリアリティがあって。両性具有のスフィンクス像や、双頭の彫刻たちが並べられた部屋など感受性の高い方々は、ヤン・ファーブル氏の作品同様、やや心してご覧になった方がいいかもしれません。どちらかといえば、ベルギーのアーティストの方には連綿と続く因習の鎖に繋がれた現代に血脈を通じつつも羽ばたこうとするエナジーを日本のアーティストの方には、閉じ込められたセクシャリティがふつふつと木肌から染み出でて在らぬはずのものにメタモルフォーゼしてゆく羽音をみることができたように。中央には、この美術館の呼び物のひとつ、観るものと観られるものが同時にアートになれる空間も。水槽の底からみた世界は、水上からのぞいた世界とどちらが美しかったでしょうか。さて、展示場を後にして、アートショップで図録を購入、兼六園への行き方を聞いてから外へ。 やはり、建物そのものがアートと思わせる外観、アートショップでは美術館の見取り図がプリントされたTシャツも販売されていたほど。ラッキーにも一雨過ぎた後らしき、水気を含んだ路を踏んで日本を代表する景勝の地へ向かいました。続きます。「夏の金沢 日記」
July 8, 2010
「金澤屋珈琲店」さんは近江町市場の南端にあって「ふらっとバス」という100円バスのルートにも面しているので15分ごとに通り過ぎるバスを窓越しにみながら、友人と珈琲ブレイク、次の便を見計らって、お店を後にしました。 次に目指すのは「21世紀美術館」。すぐにやってきた可愛いラッピングの小さなバスにワンコイン支払ってから乗り込み、金沢のまちをゆらゆら揺れながら進みます。石垣だけでも充分に威圧されそうな金沢城址の西側をくるっと周り、百万石通りにあるバスストップで降りました。 少し道を戻って車窓から望んでいた「しいのき迎賓館」の前に。ピカソの版画展が開催されているようでしたけれども、このあと兼六園も観たかったので、残念ながらスルー。お隣の「石川四高記念文化交流館」も、レンガ造りの建物が美しく。次回、ゆっくり見てみたいなと思います。 百万石通りから、市役所と向かい合った「21世紀美術館」へ到着。 建物そのものがアートとして高い評価を受けているそうで、上階部分にシートがかかっていたのは、改修中だったのか、もともとの構造だったのか。そのシートの向こう側に、ちらりと見えていた金色の像、帰宅してから図録で確認したところ、「雲を計る男」という今回の特別展でも取り上げられているアーティスト・ヤン・ファーブル氏の作品なのだそうです。続きます。「夏の金沢 日記」
July 7, 2010
ヨーガ療法学会参加のため、前日に友人と高速バスで金沢へ。片道四時間あまりの道中、休憩は南条SAへ立ち寄りました。 好きな笹すしをみかけたので、3つ購入。車中での軽いランチにぴったりでした。ほぼ時間どおりに、金沢駅に到着。凱旋門のような巨大な木のモニュメントに迎えられます。 ホテルのチェックインまで、まだ時間がありましたのでまだ余裕のあるお腹を甘味で満たすことに。 マンゴーとタピオカ入りのソフトクリームと、パンケーキのセット。甘い餡と抹茶と蜂蜜を挟んでいただきました。駅からほど近いホテルも無事に見つかり、荷物を預け歩いて近江町市場を目指します。金沢の街は道路が斜めに走っているため、ストレンジャーには、現在地を確認するのが、やや困難のように思われましたけれども、10分ほど歩いて市場のそば、武蔵が辻に着くことができました。近江町市場に入ったのは、午後3時くらい。すでに生鮮食品は値引きが始まっていて、マップを持って明らかに観光客とわかる私たちにも、しきりにお声がかかります。夫と車で来ていたら、どっさり買い込むのにね~と言い合いながらまずは目的の「舟楽」さんへ。 美味しいと評判のお店で、のどぐろと、みそ鯖の棒寿司を快く送り出してくれた家族のために購入しました。ひとつ目的を果たしたあとは、市場をひと通り見て周ります。 友人が八百屋さんで買い物をしているあいだに、私は紅い誘惑に負けて、佐藤錦の小さいパックをひとつ購入。日持ちがしないようなので、ホテルに戻ってからのお夜食にすることにします。近江市場でのもうひとつの目的が、金沢の珈琲を頂くこと。 「金澤屋珈琲店」さんにて、オレンジタルトとのセット(400円☆ 珈琲180円☆)を注文、美味しかったので、「仙石通ブレンド」という珈琲豆と、ブランデーケーキをお土産に加えました。続きます。「夏の金沢 日記」
July 6, 2010
紫式部ゆかりの地を訪ねてきました。日帰りの旅の様子は、また後日お伝えできればと思います。
March 22, 2010
清水への路らしく、冥界の入り口があるという六道珍皇寺。小野篁(おののたかむら)という方は、昼間は役人として朝廷にお勤めしながら、夜な夜な、井戸から閻魔さまの元に通っていたのだそう。 すでに午後は3時になろうとしていましたので、お参りだけ済ませようと思っていましたら、建物の格子から、少し離れて井戸と、閻魔さまの像を見せていただくことができました。六道の辻に戻って、六波羅蜜寺のそばも通ります。 こちらは、午前中に目にした空也上人が没されたお寺だそう。在り難くも、勿体無くも、訪問は次回に。さて、いよいよ京都国立博物館へ。地図を見ながら南下し、大きな五条通に出て歩道橋を渡ります。歩道橋を降りたあたりで、何処かでお抹茶を…と思っていましたら、大和大路通の角に清福堂さんという宇治茶のお店がありましたので道を尋ねがてら入ってみると、店主さんが気持ち良く応対して下さいました。注文してから袋詰めにして下さったお抹茶も美味しく頂いています。ありがとうございます☆店主さんから聞いた通り、大和大路通を南下してゆくと、以前、レンタサイクルで訪ねた豊国神社の鳥居があり、並ぶ博物館の入り口は現在、工事中とのことで、南門に周りました。 博物館の前に立ったのは、土曜日の午後3時半。(THEハプスブルグの幕におわしますのは「悪魔を奈落に突き落とす大天使ミカエル」)15分の入場制限になっているとのことでしたが、大天使さまに迎えられて入り口まで行くと、すぐに通していただけるようでしたので、素直に入場……しましたが、足を踏み入れた途端、大変な人波。ガラスケースの中身を近くで見るにはかなり時間がかかりそうでしたので、まずはエリザベートを探しに中央室へ向かいました。続きます。「源氏物語ゆかりの地めぐりの日記」「新選組ゆかりの地めぐりの日記」「京都&奈良&姫路探訪の日記」
February 26, 2010
お裁縫のできるオーガニックカフェ・柴洋さんは、京都で是非、行ってみたかったお店。夢二柄の小風呂敷など、気に入った生地が手に入る度に、「これでブックカバーを作れたら…」と願ってきたのですが、できれば、実地で教えていただける場所があると良いなと。オーガニックの食事やお茶をしながら、小物を手縫いで作らせてもらえる柴洋さんのことをカフェ本で知って以来、「ブックカバーの作り方を教えていただくなら、ここ」と決め、今回の京都行きで、幸いにもルートに入れることができたのでした。お店に入って、玄米ご飯のランチと同時に、クラフトに飲み物がついた「お針子セット」を注文。ブックカバーの生地セットの中から、気に入ったものを選んでランチが来るまでの間に、早速にもテーブルに広げました。生地セットは、リバーシブルになるように2枚合わせ、私が選んだものは、すでにチャコペンで印が付いていましたので、すぐに縫い始めます。はさみ、定規、針なども貸していただくことができ、糸は沢山ある中から、いくつか生地に合うものを持ってきていただきました。温かなお店のカウンターで、ちくちくと幸せに針を動かしているとほかほかと湯気のたつ彩り鮮やかなお食事が出てきます。 メインの野菜たっぷりの豆乳シチュー(魚フライも選択可でした)に、根菜スープ、サラダ、高野豆腐、おひたしなど。玄米ご飯は、お代わり自由だそうです。冷めないうちに美味しくいただき、ちくちく再開。自宅から遠く離れた京のまちの一角に、瞬く間に馴染んで、針を動かしているのも不思議な気分。生地を返す部分などを教えて頂いて、ほどなくブックカバーが完成☆早速、手持ちの本のカバーを付け替えました。おやつはマロウ入りのハーブティと、さつま芋のプリン。オーガニックにクラフトに、お店の方の明るい声と笑顔にと、心地よく大好きなものに囲まれた幸せな時間。ありがとうございました☆また伺わせて下さいね。素敵な体験のお礼に、用意した手作り石けん一つを受け取っていただき次は六道珍皇寺に向かいました。 「柴洋さんHP」「源氏物語ゆかりの地めぐりの日記」「新選組ゆかりの地めぐりの日記」「京都&奈良&姫路探訪の日記」
February 25, 2010
ハプスブルグ家も信奉した聖人ゆかりの教会を観た後は、一転、幕末の志士達のゆかりの史跡を訪ねます。以前、新選組ゆかりの地めぐりをしたときにも、手にした地図にいくつか目にしていたのですけれども、反目する立場の方々ということもあってすぐそばを何度も通っていたにも関わらず、足を留めたのは初めてでした。河原町通りから「河原町カトリック教会」の南側の姉小路通を辿り、姉小路橋を渡って寺町通へ出ると、正面にあるのが、「武市瑞山先生寓居之跡」。大河ドラマで現在、半平太と呼ばれている方がいらしたところですね。 並んで、「天誅組」「吉村寅太郎寓居址」の文字も見えました。寺町通を南下、三条通の次の小路(龍馬通)を右折(西向き)すると、「坂本龍馬寓居之跡」。こちらは当時は材木商、現在は木工芸のお店で龍馬さんをかくまったという二階はギャラリーになっているようです。 当時の佇まいが偲ばれる店構えですね。龍馬通をさらに西に進むと、再び大きな河原町通に。通りを渡って南下してゆくと、小さな間口のコンビニがあって、「坂本龍馬遭難之地」の碑が立っています。 気軽に入ってみると、店内は龍馬さんグッズのコーナーも。私は記念に、のど飴を購入しました☆次は源氏物語ゆかりの地に寄って、ランチに参ります。「新選組ゆかりの地めぐりの日記」「京都&奈良&姫路探訪の日記」「明治村&薔薇園&ターシャの庭の日記」
February 23, 2010
THEハプスブルグ展鑑賞のため京都へ。最初の計画では、高速バスで京都にお昼過ぎに着き、展覧会の会場である京都国立博物館まで歩き、鑑賞後、時間があれば六道の辻を歩いてとんぼ帰りの予定でした。それが今月に入って、昨年秋に訪問した明治村の日記を書いていたときに「聖ザビエル天主堂」が、移転前は京都の三條にあったと分かり、できれば、その跡地と現在はどんな建物になっているのか観ておきたいなと思いながら、ここ数年来使っている京都の地図を広げてみると河原町三条のあたりで「カトリック教会」の文字が目にとまって。「聖ザビエル天主堂」で検索にかけても、なかなか分からなかったのですが、「カトリック河原町教会」で調べると、すぐに元の場所であることが判明。また、THEハプスブルグ展の公式HPによると、午後4時以降からは比較的、スムーズに鑑賞できるとのこと。そこで、お昼前に京都駅に到着後、地下鉄に乗り、聖ザビエルゆかりの教会から京都散策をした後に、京都国立博物館に向かうことにしました。当日は、土曜日。高速道路の休日割引のため、やや渋滞したものの、30分遅れで京都駅到着。9月の土曜に行ったときは1時間遅れでしたので、やはり2月は交通量が少なめなのでしょう。首尾よく、地下鉄で烏丸御池駅へ。ちょうどTHEハプスブルグ展フェアをしているという大垣書店さんが見えましたので、地元では品切れ中の中野京子さんのNHK講座のテキストを購入しました。 地図を片手に、三条通へ。四条通りの喧騒と広さに比べ、小路と呼べるような三条通は、明治時代の洋館が郵便局やショップとして、現役で機能しているところがいくつもあるようです。教会を目指して地図を広げつつ見つけてしまったのが、鳩居堂さん。三条通を、蟹料理のお店の角で北上して、寺町通へ寄り道、本能寺さんの向い側の並びにある大好きな和文具のお店に入って、小筆と、小紋の千代紙を購入☆さて、寺町通を少し南下して左折(東向き)、本能寺さんと天性寺さんの境の細い道(姉小路通)を抜けて、ほぼ正面、大きな河原町通りを渡ってすぐのところが「カトリック河原町教会」、このあたりに「聖ザビエル天主堂」が建っていたようです。 明治村に移築された「聖ザビエル天主堂」は、宣教師フランシスコ・ザビエルが京都に滞在していたことを記念して建てられたのだそう。帰宅してから気づいたのですけれども、ハプスブルグ家の繁栄の一翼を担ったマリア・テレジアは私室に聖ザビエルの聖遺物を安置するほど信奉していたようですから、展覧会の前に、日本でも有名な聖人ゆかりの建物の跡地を訪ねられたことは、興味深いご縁になりました。続きます。「京都&奈良&姫路探訪の日記」「明治村&薔薇園&ターシャの庭の日記」
February 22, 2010
京都で開催されている展覧会へ。エリザベートの立ち姿を観られるのが愉しみです。感想は後日。「双頭の鷲 美輪明宏さんの舞台鑑賞の日記」
February 13, 2010
天守群の説明にある石落しも、内部と外部からとらえることができました。 かなり高いところからの落下ですので、石といえども実際に使われたら衝撃は大きかったでしょうね。 天守閣をすべて見終わって外へ。柵に囲われているのは、有名なお菊さんの井戸だそうです。 石垣を補修した際には、一部、石棺が使われた箇所が見つかったよう。大々的に集められた石の数や大きさは、幕府に対する忠誠心や各藩の威光を表すものでもあったようですけれども、そのためにすでに名もしれぬ存在になっていた古墳などから、こういった遺構が持ち出されたのかもしれませんね。姫路城見学の後は、共通券でお隣の好古園へ。 「姫路城西御屋敷跡庭園」とパンフレットにあり、姫路城を仰ぎつつ優美な日本庭園を愉しむことができました。 大通りに出て、姫路城の上に飛行船が浮かんでいるのを見ながら、武家屋敷を模した建物にあるお土産コーナーへ。 お店は何軒も並んでいましたけれども、一番端のお店で作っている、「お城やき」を購入。姫路駅から真っ直ぐ伸びる大手前通からの、真正面のアングルからみた姫路城、といった形です☆さきほどの好古園のお茶席のお菓子と同じ餡が使われているそうで、あっさりとした甘さで美味しくいただきました。高速道路のSAでは、神戸のチーズケーキをお土産に。カラメル風味の一味違ったお菓子でした。お正月明けという時期も幸いしてか、今回は渋滞に入ることなく午後4時前に帰宅。運転してくれた夫に感謝です。ご覧いただきありがとうございました。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 25, 2010
頭がつかえそうな梁を潜って、最上階を目指します。 上り切ってみると、フタを閉めて下階からの侵入を防げるようになっていました。 もうひとつ階段を上って、明るい最上階へ到達します。 四方を隈なく見渡せる、御祭神の祀られた天守。かつては姫路駅のあたりまで外堀に囲まれていたそうで優美かつ勇壮な城を抱える街の誇りが伝わってくるようでした。 帰路は、四隅の武者隠しや、武器庫のオンパレード。1階から5階まで壁の武具掛けは槍や火縄銃が揃っていたようで天井付近は弾や火薬を入れる袋が掛けられるようになっていました。 分厚い扉に続いて、昭和の大改修時の展示品も。画像には撮りませんでしたが、歴代城主の家紋の残された瓦や、作業されていた人たちの草鞋など、様々なものが出てきたようです。今回の改修時にも、新たな発見があるかもしれませんね。続きます。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語・明石の帖」「源氏物語・蓬生の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 24, 2010
堅牢な天守閣の内部へ、ようやく足を踏み入れることができました。 はぐれていた夫とも、一階の窓で再会。外をのぞくと随分と遠く、よく広場から城内の夫の位置が分かったものです。 優美な外観に反して軍事要塞らしく、火縄銃や槍などで壁が覆い尽くされているところも。細かく仕切られた窓も、狙い易く、狙われ難い構造になっているようです。 各階の柱に見られた釘隠し。ハートの形にくり貫かれているのに、少し心和みました。 お城を支えているのが、東大柱と西大柱。昭和の大改修の際に替えられた箇所もあるよう、今回はどうなるのでしょうね。 お城の四隅には武者隠しという空間があり、そこから繋がる隙間も機能的に利用されていたようです。次は最上階に参ります。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語・明石の帖」「源氏物語・蓬生の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 23, 2010
姫路城の大きな螺旋を登って、ようやく天守閣が間近になってきました。 天守群の説明には、大天守、乾小天守、千鳥破風、方丈などの言葉のほかに石落としといった文字も見えます。 何度目かの門を潜ると、塩や水などの貯蔵庫も。これだけの規模の要塞なので、収容人員も多く、ライフラインの整備も相当に重要だったと思われます。 姫路城に使われているという瓦紋で興味を惹かれたのが、揚羽蝶と源氏車。関ヶ原以降に西方へ睨みを効かせるために大改修を行った城主の瓦紋と前日によく出くわした、西へ西へ進路を取らざるを得なかった家の紋が共通しているというのは面白い符号だなと。 メモを取りつつ、ゆっくり観ていたためか、天守群のあたりから先を行く夫の姿がまったく見えなくなっていて。 天守閣前の広場に出たとき、ふと見上げると大きな白壁の、幾十もある窓のひとつから手を振っているような影をとらえて、安心。 いよいよ、お城内部に入ります。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語・明石の帖」「源氏物語・蓬生の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 22, 2010
開門に合わせて9時前にお城へ。夜は分からなかった橋の名前も見て取れます。 ひらけた場所は三の丸広場というそう。京都御苑のように、お城周辺にひしめいていた屋敷の跡のようです。チケット売り場には、20名ほどの人が待っていたでしょうか。9時きっかりにドン、ドン…と太鼓の音がして柵が開き、好古園との共通券を手にして入城します。 広い城内、パンフレットを持っていなかったので順路の看板に沿って進んでいましたが、迷いそう。案内図の左側の画像は、西ノ丸へゆく道です。 姫路城は、関ヶ原の戦い以降、豊臣家に味方する大名の多い地方を制するために軍事要塞として徳川家康が改修させたお城だそう。くるくると螺旋を描く塔に導かれるような路と門は門を開けて誘い込み、前後を閉じて封じ込めるため、白い壁には、見えてきました、三角や四角の切り穴。外の様子をうかがい攻撃するため、前方が狭くなっているのは弾除けになるからでしょうか。 ひとつひとつの門が、頭がつかえそうなほど低いのは侵入の速度を緩めるためでしょうか。美しい外観に惑わされたまま愉しく入城してみたのですけれども、進むにつれだんだんと追いつ追われつ、武者か間者の気分も味わえるような感じがしてきました。続きます。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語・明石の帖」「源氏物語・蓬生の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 21, 2010
大改修の前に姫路城を観たいという動機から計画が始まった今回の小さな旅。姫路に到る前に須磨・明石と源氏物語ゆかりの地めぐり、また計らずも平家物語の舞台も同時に辿ることができ、姫路城から徒歩圏内の宿には、午後4時過ぎに到着。もう少し早く姫路入りすることができれば、初日にお城に行くことも考えていたのですけれども、須磨・明石が思った以上に充実していましたので、翌日、ゆっくり拝見することにしました。荷物を置いてから、地図上では何度も訪れた街を散策。いくつかの大きなアーケードを横切って、姫路駅から真っ直ぐ伸びる大手前通に出ると、夕暮れの街路樹に無数の鳥たち。オートマチックに映画のシーンを思い起こしつつ羽音を背景に視線を北に向ければ、彼方の薄闇に白亜のお城が予想していたよりも真正面なアングルで浮かんでいたのでした。ライトアップされたお城を目指して歩いてゆくと内堀の橋を渡った先の門が開いていて、大きな広場に入ることができます。連休中日のイベントでもあったのでしょうか、テントの片付けを終えようとしている人たちや小さなお子さん連れのご家族、広場をジョギングする地元の方など、夜の姫路城周辺は、何となく寛いだ風情でした。 広場から一番お城へ近づけるところで携帯の夜景モードを使いましたが、これが精一杯のところ☆画像をおさめるのは翌日にすることにして、アーケードを見ながらゆっくり戻ります。途中、羽付きのたい焼きのお店に並んだり、何故か姫路で博多&久留米ラーメンを食べ比べたりして、(「虎と龍」さん、美味しかったです☆)宿に帰着。龍馬伝を観終えて寝入ってしまった夫の傍らでエリザベス・キュープラー・ロス博士の「死ぬ瞬間」を読みつつ、旅の初日を終えました。続きます。「源氏物語・須磨の帖」「源氏物語・明石の帖」「源氏物語・蓬生の帖」「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 20, 2010
無事に帰ってきました。姫路城や、明石上のいた岡辺の館跡など、旅の様子は、また後日お伝えしますね。「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 11, 2010
姫路城改修の前に、須磨・明石・姫路を巡る計画を立てています。昨年は、京都、箱根、奈良に足を運びました。旅のプランは夫の休みに合わせて宿の予約をとることができた時点で現地へのルート、足を運ぶ場所、食事、おみやげなどを調べ始めます。旅の予算、皆さまはどの位に設定していらっしゃいますか。我が家の宿の予約は、ここ数年はネットで。最近は観光地に近い上に設備が綺麗なホテルに朝食付きで安価に泊まれるプランがありクチコミなどを読ませていただいた上で決定。平均すると、2人で10000円前後です。現地へのルートは、車が多いのですが、昨年の京都は18きっぷを使ってJR、往復で10000円位。高速道路はETC割引になることが多くなりましたけれども、ガソリン代を含めて、こちらも10000円位でしょうか。美術館や寺社など、入館、拝観料は、2人で約5000円、1日目の昼・夕食と、2日目の昼食合わせて、2人で約10000円、おみやげが約5000円…くらいかなと予算を立てると、トータルで40000円位が、我が家の一泊の旅の予算になります。とはいえ、美味しそうなもの、綺麗なものがあると、ついお財布の紐をゆるめてしまうことが多いので、予備費をプラス、決算をしてみれば、50000円以内になんとか納まるかな?といったところ。どこへ旅をしても、大抵そのくらいになるので、このあたりが我が家の金銭感覚に見合っているのでしょう。今回の旅は、奈良の帰りに行くことを決めたもの。やや距離がありますので、お城をゆっくり拝見できればいいかしら、と思っていたのですが、地図を開いてみれば、姫路に至るまでの道に源氏物語の舞台、須磨・明石の文字。これは是非、立ち寄らねばなりません☆そこで、高速道路で一気に姫路に到達するルートではなく、西宮あたりから海岸沿いを進み、須磨、明石を通る予定にしています。須磨では、光源氏ゆかりと目されているお寺や、松林のある公園、明石では、明石入道の屋敷跡あたりとされている場所や、源氏が流れ着いた海岸を散策できればいいなと思っています。「源氏物語ゆかりの地めぐり」「神戸・京都・奈良探訪の日記」「源氏物語の日記」
January 6, 2010
ラッキーなことに、夢殿も内部が公開中でしたので東大門から長い境内の通路を歩いて東院伽藍へ赴き、太子にちなんだ仏像を拝見することができました。 「日出処の天子」という作品の中では、夢殿は厩戸王子が命じて作らせたもので、人ひとり入れば定員いっぱいという感じだったのですけれども、実物は奈良時代に作られたもので、六角形の一辺が二間以上はあるでしょうか、抱いていたイメージよりも、随分と大きく見えました。 夢殿を囲うように建てられているのが舎利殿と絵殿でこちらは鎌倉時代のもの。二つの建物を繋ぐ廻廊には、参拝、参篭する善男善女が雨風をしのぎつつひしめいていたのかもしれません。 こちらも鎌倉時代、鐘楼を拝見して、外へ。再び東大門へ戻るコースもありましたけれども、南側の道を迷路を辿るように抜け出て、南大門に到着しました。参道のお店で購入したのは、柿の葉寿司のセット。おやつにいただきました。(法隆寺といえば、この日記を書き始めてから放送された「歴史秘話ヒストリア」で子規の俳句が生まれた経緯に触れられていて。結核に罹り、親友・夏目漱石が赴任していた松山で療養した後、東京に帰る途中で3日間、奈良に立ち寄ったときの経験が元になっているそう。子規は甘い柿が大好きだったようです。柿といえば、東大寺の近くで催されていた奈良フードフェスティバルで子供のお土産に購入したのが「月ヶ瀬のハチミツ」。主に樹木の花の蜜が集められているそうで、購入したものはふんわりと柿のフルーティな香りがします。また、大神神社と石上神宮に触れた日記を載せてから検索をかけたところ、江原啓之さんの本がヒット、奈良に数ある寺社の中から、この二つのお社もパワースポットとして訪ねられ、ご著書に取り上げておられることも判明。緑したたる石上神宮は、確かに印象深い場所ではありました。初日に巡った薬師寺で、秋季公開されていた大唐西域壁画殿。30年かけて描かれたという壁画の作者は、今月2日に故人になられた平山郁夫さん。ご冥福をお祈りいたします。)さて、帰路はゆっくりと行きの倍ほどの時間をかけて。毎回、渋滞に入ってしまうので、運転担当の夫は負担になっているかなと思うのですが、懲りずに「次は姫路城に行こう☆」と言ってくれましたので、また旅の計画を立てているところです。ご覧いただきありがとうございました。「京都&奈良探訪の日記
December 4, 2009
子供が小学校で玉虫を見つけた時、動植物に造詣の深い校長先生に随分と褒めていただいたのが今も我が家の秘かな誇りの一つになっているため、法隆寺でこの飛鳥時代の工芸品を間近にできたことは幸せでした。玉虫厨子が納められているのは、平成10年に完成したという百済観音堂を中心とする大宝蔵院。現在、月に一度ずつ放送が進んでいるNHKの「日本と朝鮮半島2000年」にも取り上げられていましたけれども観音堂に百済と冠されていることで、仏教が伝来した当時の経緯もわかるように。石上神宮から法隆寺にかけて、10代の頃に読んでいた「日出処の天子」のイメージが沸々と再燃してきていたのですがこの作品の中でも、日本に大きな影響を与えていた国々の人たちが仏教にまつわる文化、政治、技術といった多方面において活躍するさまが描かれていたのが思い起こされました。玉虫厨子は、その最たるものの一つ。子供が玉虫を見つけたときに教えていただいたのは現在では市内でも年に数回しか捕獲の報告がないということ。飛鳥時代の自然環境は今よりもずっと良かったのだと思いますけれどそれを何万匹も集めて当時の技術の粋である工芸品の装飾を施す行為から、五重塔同様、仏の教えに帰依しようとする熱意が伝わってきます。それは、厨子に描かれたテーマを観ても同じこと。「捨身飼虎図」「施身聞偈図」は、お釈迦様の前世の物語だそうで今は目を凝らさねば分からないほどくすんだ面に壮絶な場面が浮かびあがるときこのテーマが選ばれた意思の強さが、ひしひしと迫るのです。大宝蔵院には、旧一万円札のモデルと思われる肖像画や二歳のときに「南無仏」と唱えたという幼い立像もあって。生まれた瞬間に立ち上がって「天上天下 唯我独尊」と唱えたお釈迦さま、王子の身でありながら全てを捨てて身を捧げる姿が、現代に住まう私にも厩戸王子、太子像にオーバーラップしてゆくように。数々の宝物を拝見し、少し喉が渇いたところで茶所で熱いお茶を。唐招提寺でも休憩所でお茶を無料でいただきましたけれども、疲れた頃に、こうした心配りが嬉しいのです。 ここまでで、広い境内のちょうど半分。法隆寺は当時の最新の学術関連パビリオンの集まった一大テーマパークといったところだったのではないでしょうか。続きます。「京都&奈良探訪の日記
December 3, 2009
法隆寺で柿の葉寿司が名物になっている様子なのは名高い子規の句に、ちなんでのことなのでしょうか。もともと大好きなお寿司でしたので、見かけるとつい購入してしまうのですが、法隆寺参道のお店をいくつか覗いて南大門前の西斜めお向かいの食事処で、また御蕎麦といただきました。 二階の南大門を展望できる窓際でのランチを終えて、一階のおみやげコーナーへ。探していた「まんとくん」のストラップをようやく発見、せんとくんの方は東大寺など、ほかの場所でもよく見かけましたが、お店の方によると、まんとくんの方は公式キャラクターではないそうでまだ販売されている場所が少ないようです。せんとくんの方は、すでに子供が携帯に付けているので、私はマント翻る丸いキャラクターの方を。金色のおみくじバージョンと、白いマントが愛らしいものとふたつ購入しました☆ さて、祭日の午後、ようやく空が晴れ上がり、散策、撮影には絶好の時間に。金剛力士像さんたちにお会いするのも、十数年ぶりくらいでしょうか。阿と吽の音を示された阿吽の像、アウンの呼吸はヨガでもよく行わせていただいているので、お顔の表情をよく拝見させていただきました。受付をすませて、中門を潜ります。 西側には日本最古の五重塔。東西南北それぞれ内部が公開されているところでお釈迦様の涅槃や舎利の分割の様子が場面を変えて示されていました。入滅されたお釈迦さまのいらした洞窟か木の虚のような凹凸はひとつひとつ仏の姿になろうと象られているようにも見えて。そうでなければ、この天を目指す威容を人の手で作りいまに伝えようとするでしょうか。 東側の金堂には、厩戸王子とその両親、用明天皇と間人皇后のためにつくられた仏像と物部氏と蘇我氏の戦いの際、勝利を祈念したとも言われる四天王像。王子が馬上で四天王を呼ぶ名シーンを思い起こして四隅に見入っていたため夫に指摘されるまで、うかつにも気がつかなかったのですがあの有名な壁画の写しも仏像の周りを彩っていました。金堂の売店では、この観音菩薩などが描かれた壁画の絵葉書を手にとりました。続きます。「京都&奈良探訪の日記
December 2, 2009
「日出処の天子」という山岸涼子さんの作品を10代の頃、かなり読み込んでいたのを思い出したのは、観光ガイドで斑鳩周辺の地図を何度も見たため。 斑鳩の地に簡素な住まいを建て、夢殿を運んで瞑想していた厩戸王子の麗しい姿はもちろんのこと、ふと目にとまった「石上」という文字に、物語の冒頭の物部氏と蘇我氏の戦いの様子やその後に描かれた悲恋が20年以上の時を越えて呼び起こされました。 石上神宮は、物部氏の総氏神。朝廷で重んじられていた一族ゆかりのお社は、現在でも地元の方々に慕われているようで、たくさんの方が参拝、七五三のお祝いをするご家族の方々もいらっしゃいました。とはいえ石神神宮の参道で、何故、法隆寺とワンセットでここに行かねばならないかを夫に説明していたときは、悲恋のヒロイン・滅ぼされた物部氏の祭祀を「石上神宮」でひっそりと続けていた斎宮の姫の名前が浮かばないまま。清々しい境内を歩きつつ、帰宅したらいま一度、コミックを読み直さねば…と思いながら手を清めようとしたところ「布留・」と読める文字を見つけて、敵方の御曹司と恋に落ちた「布都姫(ふつひめ)」の名を思い出したのでした。 参拝してから求めた「布留明神暦」によると石神神宮の御祭神は「布都御魂大神」、鎮座地は「布留神山」、町名は布留町だそう。ヒロインと同じ名の神さまが祀られているということは、実際にこういった名前の巫女さんもいらしたかもしれませんね。現地でみた案内地図には「守谷」の文字の付いた地名もあって物部氏の統領、戦闘中に木の上にいて矢を射掛けられた守屋に由来するのかなと。 この後に向かう斑鳩に、仏教に由来した町をつくった厩戸王子とその子孫も、日本古来の神々よりも仏教隆盛を進めることによって権力を握ろうとした蘇我氏も、その後、永らえることはできなかったのを見ても、いまも信仰を集める石神神宮など、敗れた側の物部氏ゆかりの名の方もきちんと残されているのは、興味深いことに思えます。人の営みの意味は、本当に長いスパンで眺めなければ分からないものなのでしょう。御いとまする間際、陽をうけて水煙が立ち昇った樹木。ちょうどカーブしている枝のあたりから水蒸気がシューシュー噴き出ていて木々が息づいているサインのように。またランチの時間が近づいてきました☆続きます。「京都&奈良探訪の日記
December 1, 2009
旅の二日目は「卑弥呼の宮殿」ではないかと研究・発掘が進められている纒向(まきむく)遺跡の資料が展示された桜井市埋蔵文化財センターへ。 センターへ向かう途中、こちらも卑弥呼に関係があるのでないかという説が提起されている箸墓古墳のそばを通りました。幽玄に霧煙るなかを遠くから眺めましたが、お隣の池に沿って遊歩道があるようで、もっと近くまで行けるのかもしれませんね。箸墓古墳から車で数分で、埋蔵文化財センターへ到着。「弥生後期の集落史」という特別展が催されていました。(12月6日まで)さまざまな展示がある中でも、やはり纒向遺跡関連のものに目が引き寄せられます。写真を自由に撮ってよいとのことでしたのでいくつか画像をおさめさせていただきました。 やはり興味があるのは仮面☆こちらは木製です。いったい、どんな場面で使われてものなのでしょうね。大きさ形状の違う壷は、全国各地で制作されたものだそう。このあたりで当時、活発な交流が行われていたのではないかとも推測できる出土品のようです。 ↑瓦好きの夫のために。菊科の花のように見えますね。 ↑現地発掘中の巻向遺跡の写真。東西に4つの建物が並ぶ遺構が注目されているようです。先日行われたという現地説明会のための資料もいただくことができ、住宅地のすぐ真下に遺構があることを示す配置図や、柱や溝の位置から高床式の建物の復元案が載せられていました。 日本史の教科書の最初の数ページを、久しぶりに繰ったような感覚で外へ。建物に掲示されたマップには、たくさんの遺跡群。これからもいろいろな発見、研究が進められてゆくのでしょうね。埋蔵文化財センターの斜めお向かいに見える鳥居、その大きさに思わず携帯を向けさせていただきました。こちらは三輪明神大神神社の参道口。大神神社は日本最古の神社のひとつだそう。今回は鳥居を拝ませていただくのみで御いとまして、本日のメインになるはずの法隆寺…の、その前に外すことはできない石神神宮へ向かいました。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 30, 2009
大仏殿が戦火などで何度も焼け落ちたことがあると知ったのは奈良行きの計画をたて始めてから放送されたNHKの番組「歴史秘話ヒストリア」を観たからでした。 熱によって湯水のように銅が溶け落ち、雨のように降り注ぐさま、溶かされ修復されるごとに、表情が少しずつ変わっていること、その修復の痕も、よく見れば分かること、造立当時の姿は台座の部分のみに残っているという盧舎那仏が、戦国時代に大仏殿が焼け落ちてから百年あまり、風雨にさらされたままだったこと、ちょうど300年前、公慶という方が全国を勧進されたことがきっかけとなって、盧舎那仏の修復と、その10倍の費用のかかる大仏殿の再建がなされたこと、次の再建のために植えられた木が、300年の年輪を重ねて育っていることなど。これまで数度、訪れている東大寺ですけれども、そういった背景を知って拝見してみるとまた興味深く感じられます。 建物内部や仏像の撮影をさせていただけるのも、こういった場所では珍しいこと。多くの方々が大仏殿の入り口で足を止めカメラを向けることも、ゆったりと受け入れていただいるような。 歴史書をみれば、建立の動機や莫大な費用に関して、当時の人々の負担が重かったという面もあるようですけれども、いま目の前にある光景を見れば、多くを受け入れ多くを与える存在にやはり慕わしさを覚えるのでした。 赤いお召し物をまとわれた方は、大仏殿入り口の向かって右側にあった像。病を得た部分と同じ場所に触れさせていただくことで癒して下さるそうで、夫婦揃って触らせていただきました。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 29, 2009
唐招提寺からレンタサイクルの場所へ戻ってみるとちょうどすぐ傍に食事処がありましたので、ランチをとりました。 さて、ここからは「大仏さんを見たい!」という夫の希望を叶えるべく東大寺を目指します。唐招提寺のある西の京から、その名も東大寺に向かうということは、ほぼ市内を西→東に横断すること。とはいえ距離にすれば、だいたい5キロ、奈良公園付近までは地図上ではフラットな道が続くようでしたので、のんびりと出発します。一面の田畑から見晴るかすことのできる若草山。この地面の下にも、都市の遺構が隠されているのかもしれませんね。午前中に通った自転車専用道路と平行して走る、やや交通量の多い道路。バス待ちの方々の傍らを何度か通り抜けました。東に進路をとった後は、やや障害物の多い道行に。信号待ち、道路工事、高低差などを越えて、ゆっくり進みます。奈良タウンと呼ばれる繁華街に入ると、人通りが増えてきますが自転車を降りるほどではなく。約30分ほどで興福寺付近に到着、急に高低差の大きな坂になりましたので阿修羅像展の看板の前あたりに自転車を停めました。 「阿修羅像展が終わってしまうから、興福寺には早めに行った方がいいよ」レンタサイクルをお借りしたときに係りの方から教えていただいていたのですが、先に西の京に向かったため、現在は12時半過ぎに。出来ることなら、美少年と名高い阿修羅像にお会いしたいなと思っていたのですけれども物凄い人波に圧倒されてしまい、今回は見送ることにして、興福寺の境内を散策させていただくのみになりました。丸い大きな礎石の見えるそばでは、現在、発掘が行われているようです。 阿修羅像展の看板前に戻ってみると、少し遅れて帰って来た夫、奈良に入って初めての鹿さんを見つけ夢中で撮影していた模様です。 人波を掻い潜り、奈良国立博物館の前を通って東大寺付近へ。こちらでも沢山の鹿さんたちが迎えてくれました。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 28, 2009
南大門を潜ると修復が終わったばかりの金堂がその威容で迎えてくれました。左の画像に、よーく目を凝らしていただくと、屋根の東西に鴟尾(しび)が見えますね。天平年間(に創建された当時の本物の鴟尾は、現在は他の場所で保管されているようです。 金堂の北側には同じくらいの大きさの講堂があって、先ほど訪れた平城宮跡に建っていたものを移築したのだそう。講堂の北西角には、紅葉が盛りでした。 最近、夫と出かける機会が増えてきたのですが、カメラを向ける対象がそれぞれ違うのも面白いところ。夫の方は瓦のデザインに興味があるようで、旧開山堂の塀にのったものをアップに。瓦そのものの年代は分かりませんけれども「唐律招提(とうりつしょうだい)」と、ドラマ「唐招提寺1200年の謎 天平を駆けぬけた男と女たち」にも登場した創建当時の名前が瓦に残されていました。 鑑真和上御廟を拝してから通路に出ると瓦を挟んだ土塀が目に入ります。元々は表面に化粧塗りが施されていたのではないかなと思うのですが、風雪に耐えた表情も味わいがありますね。竹格子の向こうには、さらに年月を重ねていると思われる土塀がひっそりと立っていて。以前の塀の位置は、こちらだったのでしょうか、石ひとつ、瓦一つひとつを丁寧に積み重ねていった様子が彷彿とします。 「ここにはきっと、お宝が入ってる!」静かに瓦を画像におさめていたはずの夫のテンションをあげたのは校倉作りの建物。パンフレットによると、二つならんだ建物のうち、確かに夫が気に入っていた方が宝蔵(ほうぞう)でした。現在は、コンクリート作りの新宝蔵に宝物は移動しているようですが、正倉院にも見られる校倉作りは、現在の精密機器で調べても年間を通して湿度温度が一定で、保存には絶好の環境のよう。宝蔵のお隣は、少し小ぶりな経蔵(きょうぞう)。仏教を学びたい方には垂涎の経典がたくさん収められていたのでしょうね。パンフレットや公式HPによると経蔵は「唐招提寺創建以前、新田部(にたべ)親王邸の米倉を改造したもので、正倉院宝庫よりも古く、唐招提寺でも最も古い建造物であり、日本最古の校倉」なのだそうです。ドラマのシーンにも描かれていた、創建当時の人々の真摯な雰囲気が伝わってくるようで、名前からして本好きの身にはこちらの方に心惹かれました。 金堂まで戻り売店で、紫の紐に金の甍が付いた鴟尾のストラップをふたつ購入。おみやげにします。奈良行きの計画をたて始めた頃、実は西の京はルートには入っていなかったのですがドラマを観て、背景を知ってから興味を持ち、訪れてみて正解。仏教が伝来した当時の、初々しい息吹がそこかしこに感じられるような場所でした。そろそろランチタイムです☆「京都&奈良探訪の日記
November 27, 2009
東回廊を南側に回ると大きな塔が網に覆われているのが見えました。 中門を守る仁王さんたちに善男善女かどうかチェックを受けながら潜ると正面に金堂、左手に修復中の東塔、右手に西塔があります。 パンフレットによると薬師寺のほとんどの建物は西塔を含めて戦国時代に燃えてしまい、国宝の東塔のみが白鳳時代(大化の改新~平城京遷都 645年~710年)のもの。西塔は昭和56年に453年ぶりに再建された白鳳様式に基づく建物だそうで金堂と同じく色鮮やか、当時の最先端のデザインなのでしょうね。金堂には薬師三尊像。春に訪れた京都の東寺でも拝見したように月光菩薩、日光菩薩を左右に、中心に薬師如来が配されていて、ちょうど僧侶の方々が薬師三尊像の由来などについて説明を始められたところでした。病気の身内のために薬師如来さまの御朱印も求めます。本来ならば、参拝して書写したお経を納めて祈願した証にいただくものだそうで全て手書き、日付も入った御朱印を出来上がった傍から受け取り、北側の門をいったん出て、玄奘三蔵院伽藍へ。 三蔵法師の道程を描いた大きな壁画が納められた大唐西域壁画殿も公開中。壁画は30年もかけて制作されたもので、玄奘三蔵院伽藍と共に、秋と春にしか観られないのだそう。辛苦を重ねられた方々の足跡を有り難くも気軽に拝見させていただいてから、凡夫たちは自転車の無事を確認して安堵します。近鉄西の京駅に電車が着いたところだったようで、降りてきた方が「この自転車、どこから乗って来たの?」と言われましたのでパーク&ライドのことをお伝えしておきました☆さて、陽が高くなり、かなり人が多くなってきた小路を北進、車はすれ違えないのではないかと思われる細い道にもどんどんバスが入ってきます。いつも仕事で車を使う夫は、自転車に乗っても、きちんと停める所を探す視点でサイクリングしていたようで、立ち止まって水分補給をしていた妻が追いついたときは、用水路沿いに頃合の場所を見つけてくれていました。唐招提寺の前に再び到着、先ほど通りかかったときは無かった受付前の行列が長く伸びていて、関心の高さが伺えます。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 26, 2009
平城宮跡から自転車で唐招提寺を目指します。東西に伸びる市内で一番大きな道路を西へ、川に行き当たったところに南北に走る自転車専用道路がありました。 川岸の整備された道を、爽快にサイクリング。市内の道路は交差点が多く、自転車乗りでリズミカルになっている呼吸には信号待ちの時間が、かなり長く感じられるのですけれども、自転車専用道路では、こういったストレスなく走れます。「唐招提寺橋」に書かれた文字によると、川の名は「秋篠川」でした。さて、先日、山本耕史さんなどが出演されたドラマ・「唐招提寺1200年の謎 天平を駆けぬけた男と女たち」でも紹介されていた金堂平成大修理が終わったばかりの唐招提寺。西の京では、こちらを最初に訪問するはずでしたが、門の前まで行くと自転車を停められないことがわかり、うろうろしているうちにお隣の薬師寺の北側に着いてしまいました。 そこで、最寄の近鉄西の京駅の駐車場に自転車を置かせていただき、先に薬師寺から拝見することにします。 パンフレットによると薬師寺は、天武天皇が建立を発願され(680年)、平城遷都(710年)によって現在の位置に移されたのだそう。美しく掃き清められた北側に位置する僧房や鐘楼のあたりを歩いているだけでも薬師如来をいただく場所に来られたことが身内に病を抱えているため、特に嬉しく思えたのですけれども、南門の方にはさらなる見どころがあったのでした。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 25, 2009
「11月の連休に奈良へ行こう」と言われたのが9月末。今年に入って宇治、京都市内と、これまで妻が一人で訪れていた古都めぐりに同行したのが案外に愉しかったらしく、今回は夫からの提案になりました。提案してくれたのは嬉しかったのですけれども、紅葉の季節の観光シーズン、宿の予約は、時すでに遅し……ではないかしらと思いながら旅行サイトを検索していると、奈良市近郊の町に我が家の予算に合う、それもオープンしたての宿を発見、最寄の駅からは歩くと距離があるようでしたが、車で行くには問題なしとすぐに予約、それから旅のプランニングが始まったのでした。頭の中にいくつかキーワードをインプットすると面白いことに、次々と必要なものが目の前に現れます。ガイドブックを購入したり、観光サイトを訪れたりと、以前から行ってみたかった場所を意識してみると現地に関連した番組が続けて放送されたり、人から教えていただいたりと用意されたものを次々差し出されているようなギフトの日々に。遷都1300年を迎える前年ということもあるのでしょう、東大寺、唐招提寺、正倉院と、行ってみたい場所の番組を今回は合わせたように観ることができました。また、奈良行きに合わせて十数巻に及ぶ井沢元彦さんの「逆説の日本史」を最初から読み直していると、ちょうど卑弥呼と日蝕の関係のあたりを読了したあたりで、古代史上の発見が話題にのぼるということも。「世界ふしぎ発見」でもピックアップされたこのテーマを観て数時間後、我が家の車は無事に奈良に到着したのでした。24時間オープンのファーストフード店で朝食を摂りながら、前日まで仕事だった夫に旅のプランを再度確認。その日に目指すのは「大仏さんを見る!」と夫が第一に宣言していた「東大寺」、平城遷都祭(ならせんとさい)の会場となる「平城宮跡」、金堂の修復が終わったばかりの「唐招提寺」と、すぐ近くにある「薬師寺」、余裕があれば「興福寺」や「春日大社」など。観光シーズンの奈良で推奨されているのが「パーク&ライト」。奈良市内に臨時に用意された大きな駐車場が開放される上に場所によってはレンタサイクルもあるのこと。当日は曇っていましたがお昼過ぎまではお天気はもちそうです。「東大寺に近い場所に駐車して歩くか、市内の真ん中から自転車に乗るか、どちらがいい?」「自転車にしよう!」以前、自転車で京都市内の快適な名所巡りができたことを何度も伝えていたことを覚えてくれていたよう、そこから首尾よく平城宮跡近くに駐車、レンタサイクルをお借りすることができました。嬉しいことに、パーク&ライドともに無料なのです☆係りの方に平城宮跡への近道をお聞きして、きちんと整備された道、朝の古都を気持ちよくサイクリング。すぐに朱色の巨大な門の前に着きました。 南方向には、広い公園。こちらも来年、お祭りの人出でいっぱいになるのでしょうね。 「朱雀門」と読める大門を潜って北の方角を見ると、はるか彼方にもう一つ朱色の建物が見えて。南側にある公園の何倍もの広さ、平城宮という一つの大きな街があったことが実感できる空間です。 この広大な街を、コンパクトの極みの機能で何とか撮るべく携帯のズームボタンを押していたところ、イエローオレンジの懐かしい列車「近鉄特急」が画面に。 平城宮跡とされる巨大な空間に、線路さえ通っている傍らで遷都祭の準備を進めている様子なのが興味深く。さきほど自転車をお借りした市内にお住まいだという係りの方との話題の中には「いま家を建てようとしている近所のお宅でも、掘ったら色々と出てきたみたいだね」と。 遺跡の上に生活が成り立っている古都、古代と現代が上手くバランスしているのでしょうね。続きます。「京都&奈良探訪の日記
November 24, 2009
唐招提寺、東大寺、箸墓古墳、石上神宮、法隆寺など、大和路を散策、渋滞を越えてただいま帰って参りました。感想など、またアップしたいなと思っていますのでよろしかったらどうぞ。「神戸&京都&静岡探訪の日記
November 23, 2009
帰路は静岡インターから。すでに道路は混んでいましたので早朝からの運転で疲れている夫の希望で日本坂PAで休憩をとりました。陽が少し傾いた頃、美味しい桜海老を頂いてから出発。交通情報では、数キロ~20数キロの渋滞が4つほど発生しているとのこと。ゆっくりゆっくり進むことになります。 もっとも長い渋滞に入った頃、ちょうど空が大きく開けた場所へ。あまりにも美しいので、助手席から画像を撮ってみました。 彩雲のような色合いもあり、龍が連なっているような形もあり。時間にして20分ほど、日ごとに繰り広げられているはずの壮大な光景をゆっくりと観られたのは幸せ、今回のドライブで一番印象に残る出来事でした。帰宅したのは、午後9時半過ぎ。途中、ほとんどのPAへ立ち寄って休憩しながら進んだため、帰路は数時間かかりましたけれども、充実した日になりました。ずっと運転してくれた夫に感謝です。渋滞に懲りたかなと思っていましたら、すぐに奈良行きを提案してくれましたのでドライブの愉しみは続きそう、また日記でご紹介できれば幸いです。ご覧いただきありがとうございました。「静岡・神戸・京都の旅の日記」
November 6, 2009
東海道の名物・自然薯とろろ汁のお店へ。茅葺の建物に入ると、やはりお客さんがたくさんいて、しばらく待つことに。桃山~江戸ゆかりの品々が並ぶ博物館のような待合室でこの建物に入るだけでも来た甲斐があるなと思っているとほどなく畳敷きの部屋に通されました。注文したのは「丸子」というセットふたつとサイドメニューひとつ。どんぶりいっぱいのとろろ汁に、お櫃で供される白いご飯、お新香とお揚げの小鉢、たたみ鰯入りのお味噌汁、それに自然薯を揚げた焼き餅のような揚げとろろ。夢にまで見た?とろろご飯は、ほとんど夫がいただきました☆ お会計を済ませたとき、レジのそばにあったのが広重の東海道五十三次の絵葉書セット。55枚で630円だったでしょうか、手元に置いて見てみたかったので購入。確認してみると、先ほど訪れた玉露の里のある岡部は21番目の宿。「丸子・名物茶店」として20番目の宿に描かれているのが丁子屋さんなのでしょう、広重の浮世絵とそっくり重なる外観でした。さて、この時点で時計は午後1時前。まだ早いような気がしたのですが道路が混むと思われたので丁子屋さんでいただいたマップに載っていたお店でもう一つ、名物を手に入れてから帰ることに。19番目の宿・安倍川の渡り口にあるのが、安倍川餅の石部屋(せきべや)さん。 駅などのお土産コーナーでも見かける商品名ですけれども創業200年以上というお店のお餅は、その日のうちに食べなくてはならないそう。お店のすぐそばにあったのが「阿倍川義夫の碑」。江戸時代、渡し人夫さんに担いでもらって渡るのが一般的だった安倍川を自分で渡った方が150両もの大金の入った財布を落としてしまったところ、正直な人夫さんに財布を拾われ、無事に届けてもらったそう。人夫さんは謝礼金も受け取らなかったそうで、昭和に入ってからこの美談が石碑になったようです。広重の絵葉書で確認すると、安倍川は19番目の宿で、確かに旅人は女性はお駕籠で、男性は肩車で人夫さんたちに渡してもらっていました。これで図らずも東海道の宿三つを訪れたことに。現代の旅人は、高速道路で帰路につきました。続きます。「静岡・神戸・京都の旅の日記」
November 5, 2009
体験茶園もある山際の清流地は、東海道五十三次にも描かれていて京都の宇治、福岡の八女に並ぶ玉露の三大産地なのだそうです。 東屋にひょうたんの形の窓があったのは「瓢月亭」にちなんでのことなのか、この辺りも手中にしたと思われる太閤さんの運にあやかってのことなのでしょう。 お茶の名札には耳なじみのものもあり、奥ゆかしく響くものもあり。体験茶園というからには、茶摘の季節には何らかのアクションに携われるのかもしれません。 庭園の端まで歩き、朝比奈川沿いの遊歩道へ。つり橋が見えると渡ってみたくなるもの。 少し揺れましたけれども快適に空中散歩。鉄線を使った立派なものができる前にも、この場所に架けられたものがあったのでしょう。川を眺めながら遊歩道を戻っていると、網を手に魚篭を腰に提げた男性が上流に向かって水を渡る姿も。 少し歩いてこなれたところで、ショップにも。こちらでは、手摘みの玉露と、玉露入り飴を購入。迷いましたが、玉露アイスもやっぱり手にしてしまいました☆また膨らんでしまったお腹を抱えつつようやく今回の目的である「丁子屋」さんに向かいます。「静岡・神戸・京都の旅の日記」
November 4, 2009
朝霧の時間に訪れたいような山際に沿う玉露の里へ。すぐそばの小学校では、ちょうど運動会が行われているところでした。 「茶の華亭」という食事処も。当然のことながら☆お食事の方は今回は見送りましたけれども露店では抹茶のお菓子とひまわりと栗を購入。 →ひまわりは、朝比奈という地名の響きに佳く合う瑞々しさ。栗は、帰宅してから早速、栗きんとんにしていただきました☆ 朝比奈川を挟んで建つのが「瓢月亭」という茶室のある日本庭園。 玉露の名をもつ場所らしく、垣根も随所にお茶の木が使われていました。続きます。「静岡・神戸・京都の旅の日記」
November 3, 2009
休日の高速で静岡へ。自然薯とろろ飯を食べたい一心の夫の提案です。提案と運転は夫でも、下調べは妻のお仕事。バイク乗りである夫が行ったという「丁子屋」さんは江戸時代なら東海道丸子宿、現在は焼津インターを降りたあたりで、途中のパーキングエリアや周辺の見どころなどをチェックして出発です。午前8時ごろ、朝食をとったのが小笠PA。夫は卵焼きが美味しそうな定食、私はお蕎麦をいただきました。静岡といえば、桜エビ。先回、箱根の帰りに富士川サービスエリアで食べた天麩羅がとても美味しかったのが印象に残っているのですけれども、実は大変希少なエビなのだそう。小笠PAでは「駿河湾 桜えびせんべい」を購入。お土産にする予定だったのですが、桜エビ好きの夫がすぐに袋を開けてしまい高速を降りる頃にはなくなっていました☆さて、「丁子屋」さんの開店時間までは、まだ時間があるのでもう一つの目的地である「焼津さかなセンター」さんへ。広い市場を隅々まで巡っていると、何度も試食のお声がかかります。「もう少しお腹をあけておけばよかった…」とぼやく夫に食べるのをまかせ、最初に手に入れたのは、梅入りと海草入りのちりめんじゃこ。 わさび漬とうなぎボーンも購入した後、どうしても素通りできないお店で鮪のお刺身三種を保冷パックしてもらってから、丼ものもひとつ追加。 「もう食べられない…」と言いつつ、玉露入りのペットボトルの緑茶とともに外のテーブルで箸を伸ばし500円とは思えない美味しさに「やっぱり食べておいて良かった!」と夫。2周巡ったところでは、目に入りやすい外周にあるお店よりも内側の通りのお店の方が同じ商品でもリーズナブルなお値段になっているようでした。さて、まだまだ「丁子屋」さんの開店には間があり、しかも満腹。先ほどペットボトルを購入した際、レジのそばでいただいたパンフレットに「玉露の里」という文字が見えましたので、お腹ごなしも兼ねて向かうことにしました。続きます。「静岡・神戸・京都の旅の日記」
November 2, 2009
山本耕史さんの舞台の後は「黒蜥蜴」ゆかりの場所を目指し阪急西宮北口駅から梅田駅、さらに乗り換えて淀屋橋駅へ。お天気が良ければ、梅田から中之島まで歩こうかなと思っていたのですが雨足がかなり強くなってきましたので一駅、地下鉄のお世話になりました。 ***(以下、緑川夫人実は黒蜥蜴の台詞は美輪明宏さんのお声でお楽しみください☆)黒蜥蜴 第一幕 第一場緑川夫人 そんなに夜の河がめずらしいの?はじめての大阪でもないでしょうに。早苗 女学校のとき一度来たわ、京都のかえりに一日きり。緑川夫人 それっきり?早苗 ええ。ここ中ノ島っていうのね。川は淀川?緑川夫人 そうよ。小学生みたいな質問ね、十九にもなって。早苗 おばさま、私の年まで御存知なのね、いやだわ。緑川夫人 何でも知ってるのよ、あなたのことなら。それに知られて困る年でもないでしょう?早苗 私のほうはおばさまのこと何も知らないわ。緑川夫人 それが仲好しになる秘訣よ。 三島由紀夫 1956年 黒蜥蜴より ***河岸のかなり近くまで増水している淀川。これまで大阪には幾度も来たことがあるですが、緑川夫人実は黒蜥蜴にからかわれてしまった早苗のようにこの辺りまでは足を運んだことがなく。今回、大阪経由で神戸、西宮に行くに当たって、限られた時間で行けるところはないかしら?と地図を広げたところ、「黒蜥蜴」の冒頭のシーンに登場する中之島(本では中ノ島)の文字が目に入り、欧風建築も残されているところから、選んでみたのでした。 淀屋橋を渡って中之島の東側へ入ると、すぐに見えるのが大阪市役所。「みおつくしプロムナード」という道、晴れていれば河岸のお散歩に良さそうです。市役所のお隣にあるのが、中之島図書館。南側の道を帰りの時間を気にしながら歩いていたせいかパンテオン神殿のような正面が分からず画像を撮らなかったのが残念なのですが、開館時間に間に合っていたら、間違いなく入っていたところ。 ↑図書館に続くのが中央公会堂。赤煉瓦の壮麗な建物はネオ・ルネッサンス建築の傑作なのだそう。一階には「中之島倶楽部」さんという洋食レストランがあり、ちょうど食事を終えた方が「どうぞ」とにこやかにドアを大きく開けて下さいました。時間がないのとまだ神戸のランチでお腹がもっていたので、こちらも次回のお愉しみに。さて、一番観たかった公会堂から引き返して淀屋橋まで戻ると、御堂筋の向こう側にも荘厳な建物が見えます。 手元のマップで、はじめてそこが桜の名所としても有名な日本銀行大阪支店ということを確認。交差点を渡って、列柱をおさめました。 さらに増水している淀川。遊覧船が木の葉のように浮かんでいます。***第一場早苗 …夜になっても川をとおる舟があるのね。あかりが動いている。あんな舟の中で寝起きしている人もあるんだわ。緑川夫人 この世の中は誰でもあなたのように、お金持ちの宝石商のお嬢さんで、ホテルのシュイット・ルームに泊まれる人ばかりじゃないわ。 三島由紀夫作 黒蜥蜴 1956***黒蜥蜴が早苗と語らった場所、もしくは三島さんが淀川を眺めたスイートルームはどのあたりかしら……などとイメージしながら、さらに強くなった雨を通り抜けて帰路へ。観劇にともなって、思いがけず神戸&大阪に足を伸ばすことができたこと、限られた時間で予定していた場所を全てまわれたこと、そして心よく送り出してくれた家族に感謝。次回は桜の季節に訪れたいなと思います。ご覧いただきありがとうございました。明日は「ドリアン・グレイの肖像」の観劇日記の5をアップする予定です。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」「美輪明宏さんの舞台&映画の日記」
October 24, 2009
北野通りには英国館もあってドリアンの前に観るなら、ここだったかしら?と思いながら、西方向へ。 右方向に見えた白い建物はジャイナ教寺院。毛足の長いワンコとお散歩している人もいてこの辺りに住めるのも良いなあと思いながら、もう少し進み、駅方向へ下ります。 細い路地を選んで歩いていると、また二度ほど、同じワンコに出会います。山本通りを少し戻ってハンター坂から東門街を線路まで進むと、ちょうどランチに予定していた「洋食 いくた」さんに着きました。 こちらでは特製ランチセットを注文。冷たい水を飲み干すと、すぐに次を注いでくれるのが嬉しく。最初に平皿のスープ。昔ながらの洋食の雰囲気たっぷりなところにハンバーグ、エビフライ、スパゲティなど、かなりボリュームのあるお皿。もちろん、ライスまで残さずいただきました☆お店を出たときは、12時少し前。開演までは2時間近くありましたが、西宮は初めての街だったのと、行きの阪神とは違う路線でしたので早めに行くことに。阪急三宮駅から乗車して10数分後、無事に西宮北口駅に到着できました。続きます。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 23, 2009
ドールハウスのようなドイツ建築は、玄関付近の意匠も素敵です。 何故か目を惹いたのが、半地下の部分。公開はされていませんでしたが明かりがついていましたので、使用されているよう。そばには萌黄の館と同じく、小さなお庭が控えていました。(このあと鑑賞したドリアンの舞台で、肖像画の隠された場所が原作の上階から地下室になっていたのを、この洋館と思い合わせることに。)さて、風見鶏の館を出た時点で、時刻は11時半前。二つの洋館をみた後は、駅方面へ向かおうかなとも思っていたのですが少し余裕があるので、北野町広場の観光案内書でガイドマップをいただき天神坂を下って北野通りを東へ進み、ラインの館へも足を伸ばしました。 ラインの館は入場無料。とんとんと階段を上がって窓辺に立つと、曇天ながら街を見渡すことができました。 二階には3つの部屋があり、全て寝室だった模様。広く開け放たれていて阪神・淡路大震災時の被害と復興の様子が写真と映像で展示されています。一階は、元応接室が企画展示室に、居間が休憩コーナーに、食堂がショップに。こちらでは黒猫のシールをお土産にしました。 駆け足で鑑賞して外に出ると、レトロな観光バス、シティループが目の前に停車中。時間があれば乗ってみたかったのですが、次回のお楽しみになりました。続きます。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 22, 2009
北野町広場に面した洋館のもうひとつが、風見鶏の館です。 こちらはドイツ人貿易商のトーマス氏の自邸で、明治42年(1909年)頃に建てられたのだそう。設計もドイツの方だそうで、重厚な感じがしますね。 玄関ホールのすぐ右側にある書斎の暖炉とキャビネット。タイルウォッチングの愉しみを覚えてしまったのでさっそく目がゆきました。 玄関ホールから、左側の居間へ。暖炉に飾られているのは、トーマス夫人と娘のエルゼさんの肖像。 居間はダンスでも出来そうな、子供が走り回っても大丈夫そうな空間でした。 神戸の街を眺められるベランダから続く食堂へ。お隣の萌黄の館と配置は違っていても同じ構成で、一階はビジネス、社交など、公けの場になっていることが分かります。 格子窓の明かりに照らされた階段を上って二階へ。一階の居間と同じ位置にある子供部屋の暖炉だったでしょうか、書斎と同じ色合いのタイルが使われていました。 浴室の隣にある客用寝室は、図面によると小さいながらもバルコニー付き。素敵なライティングデスクもあって、ホテルの一室のようですね。 パンフレットによると風見鶏の館は、シャンデリアや扉のノブなど、アールヌーヴォー風の装飾が随所に残されているのだそう。書斎のキャビネットも、よく観ればミュシャ風のデザインに思えて。新しい芸術運動は欧州各地に伝わっていたのでしょう。続きます。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 21, 2009
萌黄の館のショップで袋入りのパイクッキーをふたつ購入して再びお庭へ。 お庭までは、どなたでも入れるようになっている模様。奥には阪神・淡路大震災のときに屋根から落ちたという西側の煙突が当時のまま残されていて、大きく根を張ったクスノキと対照を成していました。震災時は三本ある煙突が全て落下、建物は1年をかけて修復されたのだそうです。 木々に囲まれ生えるように建つ萌黄の館、ハーブでも育てられそうな裏庭のそばを通って北野町広場へ。 ベンチで陽気に街を見晴らす像と同じ視線に立つと、十数年前、卒業旅行で訪れたときに、この辺りで記念撮影したような記憶も蘇って。次は風見鶏の館へ参ります。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 20, 2009
当時の意匠が細部に残っているのも洋館ならでは。 二階には、寝室二つに子供部屋、化粧室の四室。各室に暖炉があり、はめ込まれたタイルのデザインが違っているのも面白く思いました。 ↑は、明かりを点けるスイッチと思われるもの。もしかしたら、いまだ現役かな? 今にも旅に出そうな鞄が置いてあったのは東側の寝室。小さめなのでビジネス用かもしれません。 子供たちが滑り降りて遊びそうなアールを描いた階段手すり。もちろん昭和の、ごく一般庶民の家具ですけれども、実家にあった木製の二段ベッドや、ソファの木部のデザインも、こんな感じだったように思います。 二階にある浴室と、ベランダをもう一度見てから階下へ。 最後に入ったのは、一階の食堂。家族が集まる部屋らしくピアノも。同時代のアメリカの小説「若草物語」で食事の後に賛美歌を歌うシーンが彷彿とします。開国したばかりの土地にやってきた人たちは、家族の意向を含めて自国の建築意匠のみならず、生活スタイルをも維持しようとしていたのでしょう。続きます。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 19, 2009
山本耕史さんの舞台鑑賞の前後に神戸&大阪を歩いてきました。ヴィクトリア朝時代の作家・オスカー・ワイルド原作の「ドリアン・グレイの肖像」を演じられることにちなんで、ほぼ同時代、明治に建てられた洋館を中心に画像を撮りましたので、よろしかったらどうぞ。西宮の芸術文化センターでの開演時間は午後2時。高速バスで現地へ向かう方法もありましたが、今回は上演前にドリアンの原作を再読したかったので列車での移動にしました。事前にアクセスを調べて、まずは近鉄難波駅から阪神電鉄で三宮駅へ。乗り継ぎが上手くいったおかげで午前10時過ぎに到着しましたので、移動時間も加味して約3時間の、大好きな神戸散策開始です。9月は雨が降らない日が続いていたのが、その日だけは雨の予報。(楽天さんにアップしている旅日記、読み返してみると、ほぼ毎回、曇天の雨予報を何とか凌いで歩いている感じですね☆)さて、阪神三宮駅から北野坂へ。いつもはJRからでしたので少し迷いましたが、人通りの多さから見当をつけて坂を上ってゆきました。 洋館を活かしたスターバックスを越え、さらにまっすぐ上ると見えてくる階段付近が北野町広場です。 北野町広場の、左側が萌黄の館、右側が風見鶏の館で共に重要文化財の洋館。 今回はこの二館を見学する予定で、まずは萌黄の館の自動発券機で二館共通券を購入、お庭の方に少しまわってから、スリッパに履き替えてクリームグリーンの建物へ。萌黄の館は、アメリカ総領事・ハンター氏の邸宅として明治36年(1903年)に建てられたのだそう。 入り口でパンフレットをいただき、まずは左側の応接室へ。外壁と同じく、クリームグリーンを基調にした館内に優しく映える家具や装飾品が並んでいます。 ドリアンが逍遥しそうな階段から二階のベランダへ。晴れていたら神戸の街がもっとはっきり見えるのでしょうね。続きます。「神戸・京都・箱根探訪の日記」「山本耕史さんの舞台&映画&ドラマの日記」
October 18, 2009
二日目は肖像画とヴェネツィアングラスを鑑賞するためにふたつの美術館へ。午前中に訪れたのは、ポーラ美術館。傾斜した地形を生かして造られた建物そのものが、何度も賞を受けているのだそう。霧雨煙る丘陵地に浮かび上がった巨大なガラスのオブジェは幽玄な雰囲気を漂わせていました。 モディリアーニ、ピカソなどの肖像画や、ベル・エポック時代の人物写真、年代を追った手鏡をはじめとした化粧道具など、膨大な展示のほぼ全てが所蔵品という贅沢極まるガラスの空間、アクアリウムを泳ぐように観てまわります。 次に足を運んだのが「箱根 ガラスの森美術館」。 ヴェネツィアングラスがたくさん展示されていましたけれども、さすがは箱根の連休中日、物凄い人波でしたので、息をつくのがやっと。早々に図録を手に入れてから、ガラス製品がどっさりのミュージアムショップに入るととうとう夫とはぐれてしまいました。イタリアンジェラートをいただきながら出口付近で待って何とか合流、帰り際にメイプルスプレッドの試食販売をしていましたので、あれこれお味見して生キャラメルとスプレッドの中瓶を購入。夫の機嫌も上向きになりました☆御殿場に向かう途中にあった「ふじみ茶屋」さんというお店で購入したのは、金時ハム、焼きぷりんケーキ、地元の方の作ったお野菜など。午後になっても空は曇ったままでしたので、富士山の姿はほとんど観られませんでしたが涼しく、快適に、たくさん美しいものに触れることができた二日間、よい旅になりました。お菓子などはあっという間になくなってしまいましたけれども、ラリック美術館と合わせ、3つの美術館で手に入れた4冊の図録と、寄木細工のからくり箱でいまも繰り返し、箱根を愉しんでいます。ご覧いただきありがとうございました。「箱根探訪の日記」
August 16, 2009
宿で見かけた金屏風。十二単を纏った女性などが描かれているようでしたので朝食のあと、ゆっくりと鑑賞させていただきました。 舟遊びや、琴や書に興じたり、美しい女人を垣間見る公達の姿が見えますね。元は皇室にお仕えしていた方々の宿舎だったとのことでこういった文化財が残されているのでしょう。 施設は古めかしい中にもきちんとメンテナンスされ、美人をつくるという温泉は、肌も髪もつるつるに、食事は夕・朝食ともに新鮮なお刺身が出るなど味・量ともによく、宮ノ下の見どころに歩いてすぐゆけるロケーション、箱根としては、かなりリーズナブルに泊まれる上にスタッフの方々も気持ちよく応対してくださる素敵なお宿。またお世話になりたいと思います。続きます。「箱根探訪の日記」
August 15, 2009
翌朝も宮ノ下を散策。箱根神社からチャップリンの散歩道へ。 こちらは、湖畔にある箱根神社の御分社のよう。早朝の参拝で爽やかなまま、喜劇王が散策したという道を探し少し迷ってから、浅間山登り口にも繋がる小路に行き着きました。 晴れていれば、霊峰を望める富士見台へも行けるようでしたが、その頃はまだ梅雨が明けず、曇っていましたので石段を眺めるのみに。チャップリンの散歩道は、富士屋ホテルさんの後ろ側にあってかつて使われていたという通用門が残されていました。 散歩道を曲がると、煙る山々を背景に温泉町の屋根が見えてきて。富士屋ホテルの建物に沿うこの小路は、チェンバレンの散歩道。お雇い外国人として来日、和歌や茶道などに通じて日本文化を世界に紹介したバシル・ホ-ル・チェンバレンという方にちなんでいるそうです。散歩道の途中に小さく拓いた場所は、彼の書庫「王堂文庫」の跡地。関東大震災の被害を免れるも、終戦の年に火災で焼失したと解説にありました。 跡地の上方にあるのは、熊野神社。温泉地を守護してくださっているそうで、お社には竜神様の姿がありました。宮ノ下という地名の由来になる二つの神社と、震災で犠牲になった方々も数多く弔われているという常泉寺も参拝、静かな気持ちで宿に戻りました。続きます。「箱根探訪の日記」
August 14, 2009
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