☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで)❷ 17)~29)完


万一の事を思い、少しずつこちらのブログにも残しておこうと思います。

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❶は下記から見ることができます。
☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで) ❶ 1)~16)

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17)女形としての岐路に立つ
橋蔵さんにとってのもう一つの不可抗力の試練とは、
肉体的にも岐路にたたされていたことです。
踊り以外にも、代役ながら「関の扉」の小町という大役をやらされたり、「牡丹灯籠」のお露、「加賀鳶」の子守、「因果小僧」のおその、「御守殿」のお滝、「五所五郎蔵」の皐月など、女形の立派な役どころを演じていましたが、いずれも踊りほど期待に応ていなかったのです。

六代目からは、若い時は立役も二枚目も女形もない、何でも稽古して何でもぶつかって行くように叩きこまれてきたのですが、くせのない美貌とすんなりとした容姿からは、どうしても女形のほうに比重がかかっていたのです。

1951年(昭和26年)11月「摂州合邦辻」姫 (九州、四国巡業)
左:尾上菊五郎劇団パンフレットからの画像、 右:中村芝翫と

1950年(昭和25年)7月「牡丹灯籠」お露(於:三越劇場) 雑誌より舞台の画像

そのため、前回でも書いたように、橋蔵さんは、義兄の女形の尾上梅幸を尊敬いていたこともあり、女形を続けるつもりでいました。しかし、困ったことに橋蔵さんの身長がぐんぐん伸びて、女形には身長が高すぎるようになってしまったのです。
映画時代の橋蔵さんの身長は五尺五寸一分といわれていましたが、この時の身長は五尺五寸近くにはなっていたようです。
女形が背が高くては都合が悪い・・・高島田やつぶし島田のような日本髪の鬘をかぶりますから、余計に背が高く見えてしまいます。
そこに、当時の立役(男役)の俳優は大体が背の低い人が多かったので、釣り合いがとりにくくなってきます。
橋蔵さんは舞台で少しでも背が低く見えるように膝を曲げてかがんだりして、苦心を重ねたのでした。そして、痩せているので、太る努力もしました。
煙草をやめ、ビールばかり飲んでいたこともありました。しかし、なかなか太りませんでした。
女形専門を志していた橋蔵さんは、男役の二枚目もやるようになったのですが・・
そうかといって二枚目では、河原崎権十郎や坂東八十助などと役どころがぶつかり合い争いごとにもなりかねない事情がありました。
橋蔵さんは菊五郎劇団の一員として、また青年歌舞伎の方でと一心に芸道に励んでいました。そういう中で、代役というものもあり、それがよかったとの評価を受けたりしました。

1952年(昭和27年)2月「侠客五所五郎蔵」傾城逢州(於:歌舞伎座)

◆1952年(昭和27年)4月号幕間・〈幕間随想〉掲載から
《大役を頂いて》 (大川橋蔵)
二月(1952年・昭和27年)の「五所五郎蔵」の逢州は、初めは勿論福助さんがなさるはずで、二月休演と決まったもののまさか私にまわって来るとは思っていませんでした。誰方がおやりになるだろうと思っていただけでしたから、本当にびっくりしてしまったのです。こんな大役を頂いて思いがけなく嬉しかった一方、又何とかおかしくないようにしなければならないという責任感で夢中でやりました。
しかし傾城の位とか貫録というものは、どんなに苦しんでも出すことが出来ず、こうした役の難しさをつくづく感じました。

1952年(昭和27年)「盲長屋梅加賀鳶」子守(於:明治座)  左は舞台から(:雑誌:幕間からの画像)
★(批評 幕間から)
橋蔵の子守、もうけ役ながら、努力のあとを感じとれるできである。

1952年(昭和27年)4月号幕間・〈幕間随想〉掲載から
《大役を頂いて》 (大川橋蔵)
今月(1952年・昭和27年)4月の「加賀鳶」の子守は大和屋のおじさん(三津五郎)に教わりました。おじさんが昔なすったことがあるのだそうで、私は教えて頂いた通りにしていますが、この役は五代目さんや義父(六代目)がして大変良かったのだと聞きました。
当時の写真も残っていますが、その頃随分評判だった役らしいのです。
しかし又難しい役で、私は何より背が高いので困っています。
田舎から出て来た子守なのでそれらしく見えなければなりませんが、ぶっきら棒にやると背が大きいために馬鹿みたいになってしまうのです。ある程度三枚目の要素はあっても馬鹿みたいではいけず、といって子守に色気があってはおかしいし、また一方泣かせる芝居でもありますからなかなか大変です。
この劇団ではこうした世話物が多く出ますから、今まででも私は長屋の娘とか子守とかは度々やらせていただいてはいますが、その中でも、この子守はいい役ですし、私としてもいろいろ考えて一生懸命しています。
大体今度の芝居は遠藤さんと、あとは昔見ていて覚えている方たちのご指導でやっていますから、私も色々な方に教えて頂いたわけです。
セリフは田舎の訛りが必要ですが、葛西や何かの言葉でもよくよく勉強しないと捨てゼリフなどなかなか出てきません。
ですからセリフでは初日が開いてからも当分はとても苦しみます。
これからこういう難しい役を追々にさせて頂いて、一生懸命勉強したいと思います。



1952年(昭和27年)10月「若き日の信長」平手甚左衛門 (於:歌舞伎座)
上二枚の舞台写真は雑誌幕間からのものです
★(批評 幕間から)
この場に姿を見せる中務の枠が三人、長男五郎右衛門(市蔵)。次男監物(権三郎)、三男甚左衛門(橋蔵)、それぞれに性格らしいものがでているが、中では橋蔵の三男が、演技の点でも目につく。信長の述懐を、目をパッチリと見ひらいてきいていた甚左衛門が、最後にむせび泣くと・・・。

橋蔵さんは、どちらかというと、義太夫が入るような古典歌舞伎よりも新作にむいていたようです。
橋蔵さん自身「古典物より新作の女形、それも粋な芸者なんかが一番ぴったりして、やりやすいような気がして好きだった」と言っていました。

(厳しいことを書くといわれそうですが)
橋蔵さんの顔は女のように優しい美貌ですが、顔も目も小さいため、舞台では損をしていました。舞台では、顔や目が大きい方が引き立ち立派に見えるのです。
そういう点からも、二枚目を積極的に開拓していくには不利な点がありました。
そして、この頃の橋蔵さんはセリフが特に一本調子で、女形の演技の最中に時々男の声に変わったり、上半身が固かったりする欠点が見えていたようです。

が、橋蔵さんの”踊り”は誰もが認めていましたから、”踊れる若手歌舞伎役者”として橋蔵さんの将来に向けての期待は皆が楽しみにしていました。

芝居の人達の「たぬきの会」では、笛を吹いていました。橋蔵さんはよい音色をきかせる堅田流の名手でした。楽屋の方から時々、とてもよい笛の音が聞こえてくることがあったそうです。(歌舞伎界からいなくなり、楽屋からあの笛の音が聞こえなくなったのを嘆いた人も多かったようです)
小唄は二十歳頃から習い始め、うる覚えは嫌いで、夜半でもかまわず、小声で繰り返し繰り返しおさらいを続けました。
一つのものを、自分が納得のゆくまでは先へは進まないという、橋蔵さんは慎重な性格の持ち主だったのです。

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18)ここでちょっと・・雑誌花道より
舞台雑誌「花道」を見ていましてこんな記事を見つけました。
当時歌舞伎界で脚光をあびてきた若手歌舞伎俳優が恋愛、結婚についての考えを忌憚なくおしゃべりをしているのが載っていました。この頃の橋蔵さんの恋愛観、結婚観はどうだったのでしょう。
橋蔵さんは、いいなと思う人がいたような・・・そんな感じが受け取れます。
【結婚の条件 座談会】  
(花道1949年(昭和24年)2月号より、抜粋し私なりの解釈とニュアンスで書いています)

中村福助、中村梅枝、市川松蔦、坂東光伸、大川橋蔵、市川笑猿、(司会)河原崎権三郎が揃いました。福助さんは遅れて来たため写真撮影には間に合いませんでした)

◇今、各方面で恋愛論や結婚談が裂かんですから、今後必ず結婚なさるだろうから、それまでの恋愛論また結婚についての感想抱負を話していただきたい。
まずは、年長者の梅枝君から口を切ってもらいましょう。
梅枝「やあ、僕からはひどいなあ」
駄目か、それでは恋愛をどう考えますか。
松蔦「初恋の話でもしますか、それとも京都の」
梅枝「今はね、そういう問題じゃぁないんだよ。まず、恋愛は
   いいですねえ、するべきですよ。とぶちゃん(光伸のこ
   と)はどう」
光伸「年少者は最後で話をするよ」
橋蔵「大いにけっこうですねえ。恋愛は神聖なものですから、
   今はやっていないけれどもしたいなあ」
◇では、恋愛をしていない人、手を上げてください。(全員手をあげる)それでは話にならない。嘘を言ってはいけない。
松蔦「人生恋愛なくては終りだねえ、愛は不滅だよ」
橋蔵「ただ、恋愛はすべきだが、世間の人が正しい恋愛を恋愛
   と思ってくれないんだよ、だから困るんだ、まして我々
   の社会はね。直良くとらないねえ、役者というと女たら
   しの様に思われるしね、昔は相当派手らしかったが、
   今はそうでないよ。今僕たちのしている恋愛は真実
   だよ」
光伸「それでは、橋蔵君は恋愛しているのじゃないか、今して
   いないと言ったよ」
橋蔵「しまった、いいよ、これからする恋愛がだよ、とにかく
   ちょっとファンでも知人でもその人と歩いたりお茶でも
   飲むと、直ぐ変な眼で見るんだよ。それが実に不愉快だ
   ねえ、そうした見方を周りの人がよしてもらいたいね
   え」
◇同感。
光伸「実際それが多いねえ、松蔦君らは、そう見られるのがあ
   たり前だろう」
松蔦「冗談じゃない」

◇これはある人の言葉だけれども、女の人と交際するのは大いによろしい、出来る時にはどんどん恋愛もいいが、別れ際を綺麗にしなくてはいけない。それのできないような付き合いはよせといわれたがねえ。
光伸「それはもっともだねえ、何年か先にまた外で会って顔を
   背けるような恋愛の終わりはしたくないねえ」
笑猿「僕は精神的の恋愛だねえ」
◇全員、同感。戯れの恋はすまじ。
福助「役者は恋愛をすべきですよ。愛する人がいると、物事に
   丁寧になり、写真を撮るにも彼女に会う時でも、ちょっ
   とネクタイの一つも取り変える気になるでしょう」
◇では、愛人が来ている時の舞台は一番気を入れているわけですねえ。
笑猿「そりゃそうですよ。ただし平常でも一生懸命ですよ」
◇次に愛人に対してどんなタイプが好きか、社交的な人、家庭向きの人、そして芸者衆かお嬢さんか。
福助「家庭的な人だよ」
◇全員、同感。それは絶対的だね。
福助「まあ芸者さんの方が話は分かるけれどなあ、時代もある
   から」
橋蔵「先ず一番いいのは、待合さんか料理やさんの娘さんだね
   え」
◇無かったら。
松蔦「自分の思うように、話の分かるように、どんな人でも教
   育するよ」
光伸「何でも夫の立場を理解してくれて芸術本位で家庭的な
   人」
梅枝「あるすねえ、そんな人」
松蔦「だから教育だよ、僕は絶対に愛してくれる人、熱烈第
   一」
梅枝「メッカ地でも良いね」
橋蔵「いつわらない言葉だねえ」
◇女性は受け身だからねえ、愛されるよりこちらから愛するのだねえ。
洋服か和服か。松蔦と笑猿は大反対だね。
橋蔵「いや、恋愛中は大いに洋服がいいねえ、和服ではランデ
   ブーちょっと困るよ、結婚する人は和服の方だねえ」
(髪形やマニュキア、目の化粧などの話になって、嫌いなタイプの方へ行ってしまったので、司会者起動修正します)
◇では、好きな人と恋愛から結婚ですか見合いですか。
橋蔵「恋愛から結婚です」
福助「まあ、そうだねえ」
光伸「僕も恋愛からだねえ」
松蔦「恋愛からですよ」

◇家庭を持つについて、親と同居ですか、別居ですか。
松蔦「別居ですねえ」
福助「僕は親と一緒かな」
梅枝「僕の家なんか一緒にいられないよ、あんなに兄弟がいて
   は」
笑猿「本も別居だよ、両親が若いからねえ」
橋蔵「僕は断然親と一緒ですねえ、でも先ず別居をのぞむ方が
   多いだろうねえ」
松蔦「ぼくはね、家庭を持つとなったら、丸窓の四畳半の日本
   趣味の部屋で新婚を夢みたいなあ、ごく時代的な雰囲気
   で」
光伸「ダンスホールはどうかね」
橋蔵「うれしくないんだねえあの空気」
笑猿「でも踊れるんだろう」
光伸「富成(橋蔵)さんだけかな」
◇踊れないんだよ。僕たちは。
松蔦「司会者は?」
◇踊れないんだねえ、恥かいたことがあるよ。
司会者に対して
笑猿「30でどうしてまだ結婚しないんですか」
父が32で結婚したからね、僕も32に今年なったから今年はもう遠慮なく結婚しますよ、随分誤解をうけているからねえ。
梅枝「相手はアノ人」
◇さあ、アノ人とは。
橋蔵「今恋愛しているの」
松蔦「聞くだけ野暮だよ」
笑猿「趣味は日本的だろうなあ」
福助「洋装の人と歩いていたよ」
◇もう一通り話は住んで、もう時間だよ、楽屋入り楽屋入り。
  (終り)

どうでしたか、橋蔵さんが一緒に歌舞伎役者として頑張っていた方々の、当時の結婚に対しての考え、しきたりの世界で、今のように思うようにはいかなかった時代でした。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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19)ここでちょっと・・・雑誌幕間より
橋蔵さんが一生懸命勉強に励んでいた時、若手のための勉強の場として青年歌舞伎が催されるようになりました。橋蔵さんは、この舞台で人気を集めていたのです。
青年歌舞伎に対して仲間とどう思い、どう考えていたか・・・ちょっと覗いてください。

《三越 青年歌舞伎 大いに語る》より
(1950年(昭和25年)10月号幕間より抜粋し、私なりのニュアンスと解釈にて書いております)

話に出てくる1950年(昭和25年)8月三越劇場の出し物「妹背山婦女庭訓」のお三輪は四日替、求女は一日替、「奇蹟」の僧秀寛と僧の丁は四日替というようでした。
このことは先輩の役者さんからも、一日交替というのは、三越劇場に対し意義が出ておりました。

出席者は

(司会)本日は楽の日でいろいろとお忙しい中を、お集まりいただきましてありがとうございました。
さて、このたび、青年歌舞伎として若い方々がこのような機会を得られたことは本当に喜ばしいことで、勉強と同時に多くのものを感じ、教えられたのではないでしょうか。まず始めに、こういうチャンスへの感想をお願いしましょう。

《出演の感想》
源平「そりゃあ、とってもうれしかったですよ。だって大役がやれるでしょう」
橋蔵「笑猿、松蔦、梅枝、源平君などは、比較的重い役をさしてもらっているが、光伸君や僕は大役をやったことがないでしょう。ですから、なかなか勉強ができなかったが、その面からいってこの試みは、ぜひやってほしいし続けてもらいたいと思います。
(一同賛意)
光伸「それは勿論そうだけど、でも、僕には、それだけになお責任を痛感しました」
こんどの興行に出演してどんな風に感じましたか。
源平「僕は、大きい人とやっているとね、自分が貧弱に見えるんだけれど、今度は、皆同じような年齢でしょう。だからわりに楽な気持だった。
お互いの舞台は毎日見ていたのでしょう。
(一同、ええ勿論そうです)
今度は一日替りで、しかも女形四人立役三人といった変則な組み合わせで、いろいろ都合があったのでしょうが、やる場合どうですか、一日替りと何日か続けてやるのでは?
(一同 一日替りは絶対反対です)
源平「僕は一日替りがいいな」
(一同 おやおやといった様子)
松蔦「そうかな、どうしても変わらなければいけないなら替わっても仕方ないが、少なくとも同じ役を四日ぐらい続けてやりたいと思うけど」
梅枝「そうですね、同じ役を四日ぐらい続けないと身につかないと思います」
橋蔵「僕も一日替りはいやですね。それも、お三輪四人に鱶七三人、秀寛四人にお弁ちゃん三人でしょう。だからその日その日で相手が変わってくるので、とてもやりにくいんです」
樋口「客席から見ても一日替りはいいとは思いませんね。でも一回やってその後、別な相手とその役をやる時に、前回やったことが相手が変わった時何かのプラスになりますか」
源平「勉強になりますよ」
松蔦「僕はだめだと思います。完成した人ならともかく、勉強中の我々では変わるたびに二人の意気が合わなくて困るんです。源平ちゃんはどうして一日替りがいいんだい」
源平「困っちゃうな・・どうしてって・・お三輪なんか四日続けてやり、又ずっと休むと忘れてしまうんですよ」
松蔦「じゃあ、奇蹟は?」
源平「奇蹟の方は気分が変わっていい。今日も明日も初日みたいで」
(一同、溜息)
光伸「源平ちゃんは、舞台で人の事を考えないで、自分本位にやるからそんな気でいられるんだ」
橋蔵「そうなんだ。そりゃあ、人がどうでも源平ちゃんは楽しいのだ。でもそれじゃあ、はたの者が迷惑しちゃうよ」
光伸「僕が鱶七をやる時だって、だいたい立役が女形に注文をつけるのが常識なのに、源平ちゃんのお三輪ときたら、鱶七に自分勝手な注文をつけてくる」
源平「そうかなあ、でもやっぱり毎日初日でいいな」
(一同、源平ちゃん、温習会じゃないんだよ)
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《時代物と新作》
(司会)皆さん今回はどうですか。妹背山と奇蹟、時代物と新作ですね。どちらがやりいいですか。
慶三「時代物がいいです。時代物には型があるでしょう。下手乍らも形がつくが、奇蹟には型がないから難しい」
光伸「そう、奇蹟はやるたびに同じことができないでしょう。その人や時によって白の切り方も違ってきますからね」
源平「僕は反対、時代物には間があるでしょう。だけど新作のほうは自由だしどうにでもごまかしがつくから」
子團次「僕もかつてはそういう時代があったんだ。新作は時代物の型と違って舞台で思うことが出来るのに安心感を持っていたんだけれど、その考えはいつまでも長続きはしない。思うことが出来るという事は大変なことなんだ。源平ちゃんもきっと考えを変える時がくるよ」
橋蔵「源平ちゃんはめずらしいな、楽しくて舞台をやっているんですね」
子團次「僕にはとてもそんなことは出来ない」

《歌舞伎と演出》
(司会)今月は、関西と東京と期を一にして若手のお芝居がありました。あちらでは演出家によって芝居を進めていますが、演出の問題についてどうかんがえますか。
梅枝「ある程度の統一をすることは必要だと思います」
子團次「例えば、芝翫兄さんのお三輪は大変結構ですが、それだといって必ずしも芝翫兄さんの型をいかなくてもいいと思うのです」
梅枝「僕の言いたいのは、稽古するときの都合なんです。構成員がいろいろな方で集まったらまったく統一できなくなってしまうと思うんです」
光伸「それはいけないな。しかし、一つの型に決められてしまうのは困るよ」
(司会)それが小さい意味でなく、例えば六代目さんの様な多くの型を知っている人がいるとしますね。別に役者じゃなくてもいい、そんな人が色々の人のいい型をとって全体を統一してくれたとしたら。
橋蔵「その程度の統一は必要です。しかしそんな万能な人はなかなかいないので、一人の人の型になってしまうのを心配するんです」
子團次「すると、その統一の方法が問題になるわけですね。一応完成した人達がそれぞれの型で舞台にかけるのはいいことだし、面白いものになるでしょうが、我々未熟なものはそれだけのぎりょうがないからいけないと思うのです。
だから、型はそれぞれ違っても統一して全体的なチームワークを作る演出者というのはいいことだと思います」
橋蔵「そうなんですね、型の方は疑問があるけれど、頂点に持って行く人が是非ほしいものです」
大輔「多くの型や何かを一つの目的に持っていってくれる様な演出家が僕らの場合必要なわけです」
樋口「僕は全然アマチュアのファンとして見たんですね。型の話が出ましたから言いますが、お三輪の場合ね、六代目そっくりと言われ、その通りに出来るのはその親類の二、三人でしょう。梅幸が六代目の通りにやれば客も満足するでしょうが、これからはそれで満足するような客は減りますよ。だから、今度の興行の場合をとって見ても、まず誰々の型なんていうのに固執しないで、脚本を読んで根本の理解することが大事ですね。
今度は、その勉強が足りなかったといえると思います。結局は、型の勝負に終わってしまった感があります。いい型をした人と悪い型との差で・・」
・・・・・・・・・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・・
《今後やりたいこと》
樋口「今度青年歌舞伎が生まれた事はいいことだと僕も喜んでいるのですが、それにつけても若い人が自分の劇団とか門閥という支配的な因襲から飛び出さなければいけませんね。これはいいと思ったものはしっかり身につけていくことね。今後こういう機会にはどうしようとかんがえているのですか」
子團次「希望としては、相手を決めてほしいです。そうなると充分に稽古し研究しあえるようになると思います」
(一同、一斉に手を上げてぬ・・絶対賛成)
子團次「狂言としては時代物」
源平「僕も時代物」
松蔦「奇蹟や修善寺のような新しいものはやってみたいですね」
大輔「笑われるかもしれないけれど、朝顔はやってみたいと思います。家の芸でしよう」
樋口「笑猿君が堀河をやってみたいと言っていたでしょう。あれはいいとおもいますね。誌的な情緒が漂っていて」
慶三「僕は奇蹟のような新作もよいけれど、時代物をやりたいです」
亀之助「今のぼくは、あたえられたものは全力をつくしてやろうと思うだけです。でも、脇役は思っていません」
梅枝「やっぱり身体にあったものがやりたいですね」
慶三「女形もやってみたいな。実は今度もお三輪をやってみたいとおもったんです」
橋蔵「僕の希望としては、この試みが今後も長く続くようにと思っています。勉強になる狂言なら何でもやりたい」
光伸「人が見ても自分が見ても、将来できる可能性のあるものがしたいです」
子團次「光伸君は、誰かにそう言うことを聞かされている内うちに、そんな気になってしまったんだろうと思う。だから、自分たちの若い世代に対して愛情を持って指導してくれる人が必要ですね」

《歌舞伎の将来をどう思うか》
笑猿「歌舞伎が演劇芸術である以上、客を対象にしなければならないし、客を入れるには自分たちが勉強して、世間に認めさせねばならないでしょう。向うの人は、舞台、映画、放送と持っているけれど、僕もその理想を持っていきたいんです。勿論、根本は歌舞伎で」
橋蔵「だから歌舞伎を能みたいに枠内に入れてしまうのはいけませんね。それだけになれば、片寄って生命がなくなってしまいますから、どこまでも大衆にマッチとたものを作らなければ。それには時代の波に乗ることも考えねばならないし、といって全部を新しくしようという意味でなく、古典の根本を今の人に分からせる様にしなければね」
光伸「僕は橋蔵さんの意見に賛成です。友右衛門さんの行き方もいいとは思いますけれど、あれでは歌舞伎ではなくなってくるのではないでしようか」
梅枝「博物館的存在にせぬように勉強することが第一と、歌舞伎の根本は残して新しいものを勉強したいと思います」
大輔「古典を研究することはとてもいいことだけれど、同じ古典でも時代心理を掴んでいかなければならないんじゃないかな。例えば戦時中の忠臣蔵は仇討を強調し、今ではロマンスを中心に演出するといったように、時代によって演出の方法を変えねばいけないとおもうんですが」
子團次「僕は反対だ。忠臣蔵のような古典物は昔通りにやって、別に全然新しいものを歌舞伎に取り入れるようにすべきだと思う」
大輔「しかし忠臣蔵は元禄に出来て、時代時代により変換してきている」
子團次「でも、現在のとは違う」
大輔「それを現在に持ってくるんだよ」
梅枝「だから根本はクラッシックにおいて、やる時は時代の波に乗る。二通りあってよいのだと思います」
(司会)皆さんの力強い言葉に、まだまだ歌舞伎は大丈夫という意をつよくしました。若い人がますます勉強して、立派なものを作りあげていく意欲に対して今後の発展を心から祈ってこの座談会を終えることにいたしましょう。


次の歌舞伎時代を背負っていく青年たちが、この時代考えていたことでしたが、如何でしたか。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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20)人気若手歌舞伎のホープ
幕間1952年(昭和27年)11月号の「若手群像」に橋蔵さんが載りました。
京都新聞文芸部の方が書いたもので、こう書かれています。
1946年(昭和21年)の顔見世だった。菊五郎一座がかかった序幕「土蜘蛛」で太刀持ち音若の”殿御油断召さるな”辺りの覇気と形のよさ、行儀の正しさが注目をひいた。
番付を見ると橋蔵とあった。闘心と期待を持ちこした翌年には「身替座禅」で福助と侍女を踊った。成長した姿が驚くほど美しく素直でこの人は伸びると信じさせた。
果たせるかな「三社祭り」の悪玉でヒットを放ち、絶賛を受けて一躍青年歌舞伎の花形としてデビューしたのである。
道は拓け将来は約されたが、勿論まだ未知数。ただ、”踊れる若手”であることは間違いない。”お父さん”と呼ぶ位置で六代目の薫陶を受けたのだから確かなもの。
その後の舞台が凡手でない事を物語っている。形の美が絶対である歌舞伎に踊れるという基礎は大きな武器である。頼りすぎずに、”芝居が出来る俳優”への精進が切望される次第・・。
素顔であっているとごく普通の近代青年。真面目で勉強心の旺盛な若人である。
その感じを写してか福助や源平のような古風な陰影はどこにも見出せない。
健康で清潔であり、梅幸の舞台印象そのままなのである。
そしてこの人はやっぱり梅幸の後継者になる人である。
素質は十分、あとは勉強次第・・。サイコロはふられた。十年後の舞台に必ずや大輪の花を咲かせてくれるに違いない。

古い紙の雑誌なので、画像があまりよくないのはご容赦ください。
幕間1952年(昭和27年)11月号よりの記事「若手群像」

ここで橋蔵さんを、のちに映画界へと推薦した人・・橋蔵さんが映画界へ入るきっかけを作った劇作家のk氏も三越劇場公演で、坂東八十助と「三社祭」を踊る大川橋蔵を初めて見ていました。
その時の橋蔵さんの踊りを歌舞伎のホープのように好評した一人でした。
その後、雑誌社に頼まれて楽屋訪問記を書くために、橋蔵さんに初めて会ったと言います。
役者らしくない役者、女形らしくない女形という第一印象を受けたのです。
「おやじさん(六代目菊五郎)から、若いうちは女形も立役も二枚目もない。どんな役でもクタクタになるまで稽古しろ、と言われてきましたが、どうも僕は中途半端で、古典歌舞伎の女形に沈みきれないし、立役には線が弱く、二枚目も書き物(新作物)に限られるのでね」と橋蔵さんから訴えられたのは、それから間もなく開演した東横ホール公演の時だったと言います。
次第に背丈が延びてきたことも、橋蔵さんが苦悩する原因の一つだったようにk氏は思えたのです。
舞台へ出ると随分背が低く見せるように苦労していたが、やはりコンビの坂東八十助と並ぶとバランスが取れず、河原崎権十郎と組んでも女の方が高くて具合が悪かったのです。しかし、背広を着て銀座でも歩けば、スマートな近代青年になるタイプなので、若い女性の間には圧倒的な人気がありました。
「男役の踊りに新生面をひらけ」とK氏は書いたのです。

1953年(昭和28年)この頃、映画界が歌舞伎役者を探していました。
片岡千恵蔵さん、長谷川一夫さん、市川右太衛門さん、大河内伝次郎さんという戦前からのスターのあと、戦争時分のため若手が作れなかったのですが、終戦で時代劇を再会出来るようになり、各映画会社が若手のスターを作らなければと、歌舞伎界の人が映画にひっぱられていきました。
橋蔵さんのところにも、この時いろんなところから話が来ていたのです。
ですが、橋蔵さんは、その都度、自分は何といっても歌舞伎で立とうと思っていましたので、お断りしていたのでした。
しかし、映画界は人気が高まってきている橋蔵さんをそう簡単には諦めなかったのです。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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21)映画界への誘い
前にも書きましたように、当時、映画界は新人スターを血眼になってさがしていました。しかし、時代劇は約束ごとが多いため、直ぐに起用できる歌舞伎界やそのほかの舞台から引き抜こうと探していました。
その中でも、美空ひばりさんが所属していた新芸術プロダクションの福島通人さんは、ひばりさんの相手役を探していました。
美空ひばりさん主役の「ひよどり草紙」の企画が立てられた時に、相手役には歌舞伎畑の若手俳優にしようと探していたのです。その時福島さんから頼まれて歌舞伎の新人を候補に挙げることになったのが劇評論家のK氏でした。K氏は躊躇することなく橋蔵さんを推挙したのです。

若手歌舞伎スターのホープとして賑わしていた、六代目尾上菊五郎丈の養子で菊五郎劇団の若手として活躍していた大川橋蔵さんに目がとまり、白羽の矢を立て、早速映画界入りの話を持ちかけたのです。
誠実さと美貌と才気で、六代目から由緒ある大川橋蔵の名を与えられた人。
それだけに、苦労に耐え努力の人であり、歌舞伎界でも評判の良い青年でした。
惚れこまないわけがありません・・・説得に足を運びます。
しかし、新芸プロ側が松竹に交渉をした結果、菊五郎劇団の内部事情や本人の家族関係から不能ということになったのです。
難しい歌舞伎界で特に菊五郎劇団に所属し、六代目未亡人の養子という環境にあったこともあり、劇団内部の問題、家庭の問題、松竹との関係など橋蔵さんには複雑な状況が絡んでいたのです。

そんな状況で、新芸プロも中村扇雀さんや市川雷蔵さんにも交渉したらしいのですが、時期尚早でまとまらない、こうしているうちに「ひよどり草紙」のクランク・インの日にちも迫ってきていたので、他の人を探さなければいけなくなりました。劇評家やジャーナリストと相談した結果、中村錦之助さんと坂東慶三さんなどの候補者が内定しました。それを錦之助さん一人に絞ったのはK氏でした。錦之助さんは映画への転身を考えていたのでスムーズにいき、新芸プロに入り、「ひよどり草紙」は松竹京都撮影所で撮って、1954年(昭和29年)2月松竹映画で封切られました。
映画界も、中村錦之助、東千代之介、市川雷蔵、伏見扇太郎といった舞台からのスターが誕生していったので、なかなか動かない橋蔵さんをめぐっての引き抜きもここで打ち切りとなったのです。

橋蔵さんがこの時映画に出ていたら、”戦後時代劇スターの第一号は大川橋蔵」だったのかもしれないのです。
運命の神様は時々いたずらをするようです。

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22)「人情噺小判一両」のおかよ・「三人吉三廓初買」のおとせ
ここに、舞台台本作家でもあるTさんが、その当時の橋蔵さんの舞台を見た時のことを書いた文がありますので、少し要約して書きますが、その文章の中からは、舞台で役に扮した橋蔵さんがどんなであったかを思い浮かべてみることができます。
長くなりますが、舞台場面と共に役を演じている橋蔵さんを思いめぐらして見てください。
私はこの舞台を観たかったと思いました。
(注: これは橋蔵さんが亡くなられた後に書かれたものになります----2002年(平成14年)ごろのもの)
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◆耳に残るセリフ---三人吉三廓初買--おとせ--から
「割下水までともどもにお連れ申してあげましょう」◆
大川橋蔵という俳優がいた。
昭和20年代から30年代当時、菊五郎劇団の立女方(たておやま)は尾上梅幸、二番目に中村福助(のちの七代目芝翫)そして三番目に位置していたのが若手の成長株大川橋蔵だった。20代やっと半ばにさしかかった年頃だった彼は、痩せ方ですらりと背が高く、甘い顔立ちの美しい女方だった。
昭和20年代以降の歌舞伎界を背負って立った俳優たちの多くが、ここから巣立っていったのだが、まもなく大劇場が復興してきて幹部俳優の出演は稀になり、三越劇場は若手の勉強の場になった。数回催され、若い情熱がみなぎる舞台を展開していた。これが三越青年歌舞伎ある。 大川橋蔵は、この三越青年歌舞伎の立役者であった。
六代目尾上菊五郎の手許で育っただけあって橋蔵も、本来は女方であるが二枚目役にも果敢に挑戦していて、『妹背山』のお三輪『鏡山』のお初それに『野崎村』のお光など、女方の大役のほかに『傾城三度笠』の亀屋忠兵衛や『津山の月』の名古屋山三などの二枚目役も勤めていた。
しかし先輩たちに囲まれた大きな舞台では、当然それほどの大役には恵まれない。
それでも彼が舞台に出てくると、それがどんな些細な役であろうとも、なんとなく舞台に華やぎが出て、そこに橋蔵がいる、という強い印象を見物に与えていた。いわゆる華のある役者なのである。それもぱっと強烈に咲き誇る色の濃い大輪の花ではなく重なり合った若葉越しに見る淡いとき色の八重桜のような、控えめな咲き方をする花で、それがまた一層彼の美しさ、存在感を際立たせるといった感のある俳優であった。
彼は特に世話物の娘役がよかった。
29年10月歌舞伎座での『人情噺小判一両』に出てくる茶屋の娘おかよである。
行きずりの子どもに一文凧(いちもんだこ)を買ってやりたい笊屋が売り手の凧屋と小銭のあるなしで言い争っているところへ、やさしく割って入って帯に挟んである財布から小粒を取り出して笊屋の急場を救ってやる気のきいた役である。
うっかりすると小生意気な厭味な小娘になってしまうところを橋蔵は、笊屋が示した男気を理解し、彼の誇りを傷つけないよう、さりげなく、実にさりげなく自分のお小遣いを出すやさしさを、これまたさりげなく見せていた。
髪は赤い手柄をかけた結綿に摘まみのかんざしが一つ。黄八丈の着物に板締め縮緬と黒繻子の腹合わせの帯という典型的な町娘の拵えが、また橋蔵は実によく似合った。

1954年(昭和29年)10月「人情噺小判一両」茶の娘おかよ(於:歌舞伎座)

一文凧を手にして、うれしそうにしている子どもの傍らにそっと寄って、共に喜んでやる仕草のなんとやさしく、美しかったことか。
こんなきれいなお姉さんだったら、どんなにいいだろう、と思わせる風情が、橋蔵の町娘にはあった。 この芝居、結局は笊屋の見せた男気がかえって他人を不幸にする、といった人間のプライドをテーマにした話なのだが、それだけに橋蔵扮する茶屋娘の、人の難儀を見過しにできない、さりとて人の心の中に必要以上に立ち入らない、といった分を心得た振るまいが印象に残る作品であった。

そんな彼の魅力を一番感じさせた当たり役が
28年1月新橋演舞場での『三人吉三巴白波』に登場する娘おとせである。
職業は道行く男の袖を引き、土手の道芝を枕に春をひさぐ最下層の夜鷹である。まだ十代という若い身空で、泥水に首までどっぷり浸かっているのだが、その心は清く正しく、人を信じ愛し、あまねく衆生をやさしく包み込む豊ささえ備えているような娘なのだ。

1953年(昭和28年)1月「三人吉三巴白波」おとせ (於:新橋演舞場)

一夜、おとせは若いお店者を客にした。互いになぜか引かれるものがあってごく自然に束の間の夢をむさぼる。と、突然、「喧嘩だ喧嘩だ」という声。人目については大変と、若いお店者はその場を去る。大枚百両を置き忘れたまま。
お店の金を紛失して、さぞや困っていなさるだろうと、おとせは大金を懐に若者を訪ねつつ帰る道すがら、夜更けの大川端で、友禅の大振袖、朱珍の帯をだらりに締めた人柄造りのお嬢様に声をかけられ、小梅への道を訊ねられる。善意のおとせは、「さぞお困りでございましょう」とばかり、『この道を真っ直ぐに、突き当たったら左へ折れ…』と口で説明するのだが、お嬢様一人ではとても行きつくまいと察して同行を申し出る。 『さあ、詳しゅうお教え申してもお前様には知れますまい。どうせわたしも帰り道、割下水までともどもにお連れ申してあげましょう』
夜道を女一人で歩くことに慣れていて、なんの不安も感じないおとせ。夜道が怖くてすくんでいるお嬢様。年の頃は十七、八。年の差はそうないはずだが、着るものから言葉つき、些細なしぐさの一つ一つまで、あまりに違う相手の様子に、おとせは知らず知らず我が身を恥じると共に、こんなすてきなお嬢様に声をかけられた幸運に少なからず喜びさえ感じてしまう。

実の父親の手許で育ちながら惨めな稼業に日を送り、憐れな境遇を憐れとも思わずに暮らしてきた娘が、生まれて初めてよその娘と自分の差に気づいた瞬間である。
橋蔵はその瞬間を、全身から滲み出る無垢の善意ぐるみ、美しくも哀れに映し出して見せた。薄幸な、いかにも薄幸な娘の姿がそこにはあった。
実はこのお嬢様、女装の盗人で、人呼んでお嬢吉三。おとせの懐中にある百両に目をつけて、ずっと後をつけてきたのである。まんまと百両を奪い、おとせを川の中に蹴込んでしまう。
泥棒、淫売、人殺し、詐欺に騙りにかどわかし、社会の底辺に蠢く人間どもと、おとせが拾った百両とが巡り巡って、こんがらかった因果の糸を解きほぐして行く筋立てである。

作者は河竹黙阿弥で、七五調の流麗な名セリフを耳にすると、つい江戸前の粋で華麗で心地よい、すっきり系の内容かと勘違いしてしまうが、この芝居、実は、膿んでどろどろになった人間の業が全体を覆い尽くし、遂には双子のきょうだい同士の(ここでの言葉はエラーになるので・・)まで登場するといった、毛筋ほどの光さえ感じさせない暗く重い内容なのである。

生まれたとき、おとせは双子で、もう一人は男の子だった。父親の伝吉は生れ落ちた男の子の方を寺の門前に捨てた。なにしろ娘を夜鷹で稼がせるような父親である、金になりにくい男の子を捨てるくらい朝飯前だ。 
幸い男の子はやさしい人に拾われ、十三郎と名づけられて道具屋の手代になるまでに成長した。おとせに袖を引かれて客になり、騒ぎに紛れて百両を忘れていった男こそ、その十三郎だったのだ。
十三郎もおとせも、自分たちが双子であったことを知らない。まして束の間、草を枕に契りを交わした相手が同胞(同じ母から生まれた兄妹)だったことなど分かる由もない。
お嬢吉三に殺されかけたおとせは、舟で野菜を輸送していた八百屋・十三郎の父に助けられ、百両失くした申し訳に身投げをしようと思い立った十三郎は通りかかった伝吉・実の父親(おとせの父親)に救われて、そこの家に身を寄せる。偶然が彩なす因果の綴れ織りだ。
伝吉は、十三郎の身の上話から助けた男が、昔捨てたわが子と悟り、双子の同胞がそれと知らぬまま契りを重ねている事実を目の当たりにして、今更ながら自らが犯した罪の深さを知る。
そんな恐ろしい事実を知らないおとせと十三郎は再会を喜び、きっかけが不純であったことも忘れてお互いに相手を受け入れあう。「十三さん、十三さん」と、おとせは、もう十三郎と離れる暮らしなど考えられないほど幸せの只中にいる。十三郎も入り婿にでもなった気分で、甘い毎日を送っている。
ところが二人の兄にあたる和尚吉三が、ひょんなことからこの恐ろしい事実を知ってしまう。彼は、すべての罪を自分が着る覚悟で実の妹弟のおとせ十三郎を吉祥院の墓場で斬り殺すのだ。
おとせは因果の経緯を知らぬまま十三郎と手を取り合って息絶え、三人吉三も結局は捉えられて処刑される。
社会の底辺に蠢く人々に焦点を当て、しかも登場人物のほとんどが死んでしまうという、考えれば考えるほど陰惨な芝居なのだが、そこはそれ作者が江戸前の河竹黙阿弥。粋仕立てになっているせいか後味を悪くない。橋蔵のおとせには、そんな黙阿弥の作風にぴったりの泥田に舞い降りた白鷺のような風情があった。

その後橋蔵は歌舞伎をやめて映画俳優になり、東映時代劇の黄金時代を築いた。さらにテレビの連続ドラマ『銭形平次』に主演し、長期連続主演のレコードも作る一方、毎年歌舞伎座や明治座で座頭公演を行い、その度に歌舞伎俳優時代に培った実力を示していた。
薄倖が似合う幸福な俳優であった。
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橋蔵さんは、15年間毎年3公演の舞台では、必ず歌舞伎の演目、それも六代目が踊っていた舞踊を見せてくださっていました。映画界、テレビ界で忙しくしていた中でもけっして舞踊の精進を忘れず、一生涯歌舞伎役者であり続けました。
歌舞伎役者が踊るよりも華があり素晴らしく、六代目を思い出させるような橋蔵さんの舞踊は歌舞伎ファンも見惚れたものでした。

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23)“映画界への進出”に心を動かされる
映画界への誘いをことわり、舞台に青春を傾け励んでいた橋蔵さん。

1954年(昭和29年)1月に、藤間流の名取になり、藤間勘之丞の名をもらいます。
この年は橋蔵さんの舞踊はもちろんのこと、若手女形として認められ人気も一段と出てきた時で、歌舞伎ファン、評論家はこれからの大川橋蔵に注目をしていたのです。

1955年(昭和30年)7月東横ホール公演の「網模様燈籠菊桐」サブタイトル゛小猿七之助”の御殿女中滝川のできばえが素晴らしく、この時先代梅幸の前名で、尾上家に由緒のある芸名の九代目尾上栄三郎襲名の呼び声が高かくなりました。
サブタイトル「小猿七之助」奥女中滝川
でも、そのころ、橋蔵さんには不安があったのです。
六代目の養子として歌舞伎界の地位は上り坂、ファンの人達も惜しみなく声援を送ってくださっている。しかし、六代目の跡押しが亡くなったこの後、養子である自分の将来はどうなるのだろうか。
一生の芸だと思っている女形も、背の高すぎる自分には不向きだとさえ言われている。
だが、男役にしては、体のつくりがあまりにも細すぎる。

菊五郎劇団の人達は、面倒を見てくれ可愛がってもくれ、役も恵まれ、若手だけで芝居をする時は、橋蔵さんの演し物もちゃんとやらせてもらっていましたが、何だか一人ぼっちになった感じだったと言います。

考えつかれた橋蔵さんは、全てを忘れるために踊って踊りまくりました。

九代目尾上栄三郎襲名の声が流れ始めた頃から、橋蔵さんに、また映画界への勧誘が始まったのです。
錦之助さんが東映専属となって新芸プロを離れることになり、第二の錦之助としてスカウトされることになったのは、K氏が最初に提言した橋蔵さんだったのです。
1955年(昭和30年)夏、「青葉の笛」の映画化の案とともに、新芸プロは東映のマキノ光雄専務にひばりさんの相手役に橋蔵さんではどうかという話を持っていったところ大賛成、映画界入りに難航に難航を重ねた橋蔵さんをいよいよ引っ張ることに決めたのです。
一年前には、自分の志も歌舞伎で立とうと思っていた橋蔵さんでしたが、今度は心を動かされ始めたのです。

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24)一大決心を・・"よし、一本試しに出てみよう"
映画界入りに難航に難航を重ねた橋蔵さまを必ず映画界に引っ張ることに決めたのですから、それからが大変だったようです。
日参する人達の熱心さに橋蔵さまも、一大決心をして遂に重い腰をあげることになったのでした。
新人スターを求める映画界の熱心な勧誘に心を決した橋蔵さんは、「よし、一本試しに出てみよう」
別に乗り気ではなかったのですが、どうしてもいっぺん撮ってみないかということで、リアルな映画の演技を体験することも勉強の一つだと考え承諾をすることになったのです。

新芸プロが正式に橋蔵さんと会うところに決めた場所は、錦之助さんを「ひよどり草紙」初出演交渉の時と同じ縁起の良い歌舞伎座前の料亭でした。新芸プロ側が待つこと一時間余り、橋蔵さんは出演中の明治座の舞台を終えてからかけつけて来たそうです。
印象は折り目正しい謙虚な好青年で、芸への情熱に燃え、話も勢い歌舞伎俳優の映画進出の話へとすすんだということです。

------- 「映画に出演して見たいとお考えですか。
(橋蔵)・・出てみたいとは思っております。ただ、劇団の事情やその他いろいろの周囲の関係もあり、しばらく考えさせてください。
------ 歌舞伎俳優の映画出演に関して、一般的にはどうお考えですか。
(橋蔵)・・なかなか難しい問題です。友右衛門さんのような上手い方でも不成功と思わ れることもありますし、折角の舞台の人気を映画出演によって持続できない場合も考えられますし・・。
-------しかし、企画に慎重を期して、適切な売り出し方法を考えれば、実力のある人なら失敗は考えられません。錦ちゃんの場合などその例でしょう>

このような簡単なやりとりでその日は分かれたそうです。
新芸プロの福島社長は永年の経験からの勘で「これは成功する」と思ったそうです。
橋蔵さんもこの時深く心に期するところがあったようです。

新芸プロとしては、錦之助さんに変わる新鮮味のある新人がほしかったので、是非ひばりさんとの「青葉の笛」の企画を実現させたかったのです。
その後、二、三度橋蔵さんのもとへ行き折衝の結果、応諾を得て、話は本格的に進行していきました。
しかし、まだ舞台を捨て、劇団と全く関係を絶つところまでの決心は、橋蔵さんにはありませんでした。
「とにかく、一本だけ出演してみましょう。それも、いい加減な映画はいやです」と、身辺の人たちの意見もあったらしく、橋蔵さんは毅然としていたといいます。

永続的に映画出演するという事でなく、たとえ一、二回出てみるという事さえ歌舞伎俳優という殻から抜け出るには相当な犠牲を払わねばなりません。
新芸プロ福島社長は、錦之助さんとはおおよそ対照的な橋蔵さんの映画進出後における在り方についてまで、この時閃いたものがあったといいます。ひばりさんとの共演ということで、錦之助さん同様、一挙にしてかなりのファン層を獲得することにもなると考えていたのでした。

橋蔵さんのデビューで考えられたことは、第一に将来は時代劇のトップスターとなるような地位と素質の橋蔵さんなので、最初から作品的にも興行的にも成功させることが必須でした。そこで、内容も女形の役者だった橋蔵さんに向くように公卿の役に決め
たのでした。

北条秀司氏に「笛吹若武者」のあらすじを作っていただく承諾を得てから、約一ヵ月位かかって完成した本を持って、演舞場公演中の橋蔵さんを新芸プロ側が楽屋に訪れました。
「橋蔵さん、やっと出来ましたよ。綺麗な映画を作ります。大川社長も大変乗り気ですし、頑張ってやってください」
橋蔵さんも具体的になった話に期待と不安の入り混じった表情で、頬が紅潮していたそうです。
こうして、記念すべき大川橋蔵初出演の作品が作られていきました。

1955年秋近く、橋蔵さまとひばりさんの第一回の打合せが、福島社長、ひばりさんのお母さんも同席し、簡単な会食をしながらありました。
雰囲気は非常に明るく、日頃初対面の人とはあまり話をしないというひばりさんも、錦之助さんのときのように、朗らかに会話も弾み、大変和やかな光景だったといいます。

11月中頃からの映画撮影のため、橋蔵さまは11月の菊五郎劇団の舞台はお休みしました。
橋蔵さまの舞台を楽しみにしていた大阪の歌舞伎ファンには大変残念なこととなりました。
歌舞伎雑誌にも、菊五郎劇団の大川橋蔵は映画出演のため11月公演を休演するということが書かれていました。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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25)「笛吹若武者」クランク・イン前日の対談から
京都新聞が”幕間”の12月号に掲載するために、映画に出演する心境や歌舞伎によせる思いについて橋蔵さんに語ってもらう対談をセッティングしました。
明日から「笛吹若武者」のクランク・インという前日に宿を訪ねて、橋蔵さんの本音を聞きだしたひとときを掲載いたします。

明日から映画撮影に入るという橋蔵さんの心の内、これから歌舞伎で自分はどのようにしていくべきかを、控えめに語っています。
(私なりに要約し、橋蔵さんの話ことばも所々は私のニュアンスで書いていますので、ご了承願います)

大川橋蔵とのひととき 《慎ましやかな対談》・・⑴
京都新聞文芸部の女性記者Wさんとの対談になります。

Wさんが久しぶりに橋蔵さんと会ったのは、映画出演のため京都に来たとき・・・それも滞在している宿を訪ねたのは、東映での撮影が明日からクランク・インという前日の午後でした。
Wさんが宿に伺った時、橋蔵さんは乗馬の稽古で疲れたため、午睡をとっていたところだったようです。

Wさんが橋蔵さんを見そめたのは・・・勿論舞台でのことですよ・・・一昔前になる「土蜘蛛」の太刀持ちの時でした。Wさんの期待を裏切らずに、この十年順調な歩みを見せてくれている橋蔵さんが、こんど映画に出ることになりました。
お話もまず映画出演の話からと、バラエティに富んだ気楽な話に持って行こうと思っていたのですが、橋蔵さんの控え目で真面目な態度にWさんもひき入れられ、話を脱線させることができなくなりました。

では、まずは映画出演のことがらからの対談とまいりますね。

______しばらく・・、お元気そうじゃありませんか。健康がすぐれないと聞いていたので心配していましたが・・・。
(橋蔵)・・ええまあ、お蔭で寝込まずにずっと。どこが悪いってことないんですよ。レントゲンで調べ てもらったのですが、どこも異常なしということでした。特に結核は大丈夫だってことで、安心してるんですが、疲れたんですね。
暑い最中に東横へ二か月連続で出たでしょう・・しかも大役でしたしね、兄さんや先輩達のように鍛錬が積んでないので、ちょっと馴れないことをすると参っちゃうんですね。
_______今度もまた、馴れない映画で大変じゃありませんか。
(橋蔵)・・そうなんですよ。よっぽど頑張らないとねえ。大体二十四日までに上げる予定だったのですが、事情があって二十日までに縮んじゃった。そんなに早く撮れるものかしらって不思議な気がするくらい・・。
この間ね、日曜は休ませていただけますかって聞いて、怒られちゃった。でも、とっても張り切っているんです。
_______とうとう来るべきものが、あなたの上にもやって来たという感じなのですが、とういうことから話が進んだの、今度の映画出演は?
(橋蔵)・・ええ、何か流行に乗ったように感じられるかもしれませんが、いろいろの事情があって・・。映画に出てみないかというお話は、ここ一、二年前からよくあったんです。僕も自分の姿を外から見てみるのも勉強になるし、出る意思は持っていました。
そこへ今年の八月に、新芸の方から具体的な持ってきてくださったんです。本は北条先生のもので、読んでみるととってもいいし、これなら一本撮ってみたいなという気になったんです。
兄さん達先輩の方にも快く承諾していただけたので、お話がまとまったっていうわけです。
________松竹の方との了解はどうなっているんです?うまくついてるの?
(橋蔵)・・兄さん達から劇団を見てくださるTさんにちゃんと了解を求めていただき、一本ぐらいならいいだろうとお許しが出たのです。
僕だって舞台の魅力は人一倍強いですし、芸の修業の大切なことも十分承知しています。
でも一本ぐらいなら、そんなに悪いことじゃないと思うのですが・・。
________カメラの前に立たれたのは、大分前に「群盗南蛮船」がありましたね。今度は主演だし、どんな気持ちがしまして?
(橋蔵)・・とっても不安・・・。だって何から何まで舞台とは違うんですものね。前のはほんのワンカット、?映画に出たっていえないもの、あれじゃね。
映画って大体、線が太くなくては損ですのね、僕のように、舞台で女形をやっている者は、何か弱くなるんじゃないかと心配になります。

(話に出て来た「群盗南蛮船」は新東宝が1950年に菊五郎劇団との提携作品で制作したものになります。主な配役は、当時の尾上梅幸、尾上松録、尾上九朗右衛門と女優久我美子、そして劇団一門です。
橋蔵さんは勿論名前はパンフレットにはあります。南の国にある「ぎやまんの宿」と呼ばれる宿屋が舞台で、その宿場町で繰り広げられる人情物で男女を描いている映画のようです。
その朝霧楼の板場の新助という役で出ているのですが、セリフはもしかしてなかった・・。)

________だけど、今度のあなたの役は、十八歳時分の敦盛だというから、その心配は比較的薄いんじゃないかしら・・。
(橋蔵)・・ええそうなんです。錦ちゃんや雷蔵さんのように勇ましい役は、僕には出来っこあのません
だけど、僕痩せちゃったでしょうょ? 敦盛のふっくらした柔らかさが出るかしらと心配でねえ。それに劇団全部で出るのではなく、僕一人だし、水と油にならなきゃいいがと思います。
雷蔵さんや錦ちゃんの映画を見ていても、最初のものに比べると、一本一本変わっていってられますねえ。映画になれるって事も大切ですね。
_______馬を稽古してらっしゃるんですってね。
(橋蔵)・・ええ、馬に乗るシーンが多いので、一通りはやっておかないと、みっともないと思ってね。円山で稽古してみたんです。東映の馬は、よく馴れていて大丈夫だそうですけれど。
それよりセリフが大変なんです。うっかり七五調が出たりしてはぶち壊しだしね。どうしたらリアルに言えるかと思って・・・。
_______出られた以上、少しでもいい結果を見たいし、身体を壊さないように気をつけて、力一杯やってくださいよ。

こんな感じで、映画出演する橋蔵さんの心境を聞きだしてくださいました。
写真を見て分かるように、ちょっと痩せすぎてしまいましたね。
この時は、記者のWさんも橋蔵さんも、歌舞伎をやめて映画一本に進むなんて
思ってもいなかったのです。そのため、この後は、歌舞伎の若手として、どんな方向で進んで行くつもりか・・ということについて話しています。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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26)「笛吹若武者」クランク・イン前日の対談から・・(2)
大川橋蔵とのひととき 《慎ましやかな対談》・・(2)

________ところで、映画はよくみられますか。
(橋蔵)・・ええ、好きですから暇さえあればよく見に行きます。
________どういった傾向のものがお好きなの?
(橋蔵)・・西部劇です、断然! 「白昼の決闘」などは迫力もあったし今でも印象に残っています。
(橋蔵さんがこの時好きだった俳優はグレゴリー・ペック、ロバート・テーラー、女優はジーナ・ロロブリジータでした。)
________ちょっと意外ね。ジーナがご贔屓とは。邦画の方はどうなんですか。
(橋蔵さんは、どうしても洋画の方がいいらしいようです。)
(橋蔵)・・錦ちゃんや雷蔵さんの出演映画などみますよ。男優さんでは長谷川一夫さんがいいなあ。女優さんは流行と共に変わって行くので、今ないんですよ。
________共演したいと思う女優さんは?
(橋蔵)・・さあ、そこまでは考えられないなあ。だって女優さんとお芝居するの初めてだもの、見当つかない、不安が先に立っちゃって。

ここから、歌舞伎役の芸の話に入っていきます。
ここでWさんから、橋蔵さんの歌舞伎役者として大成してほしいという気持ちからの、非常に厳しい言葉が橋蔵さんに向けられます。
歌舞伎の若手が映画に出演されるのをどんなふうに考えているか。出演の事情はそれぞれにあるのでしょうが、次代の歌舞伎ということを考えると、やはり問題だ。年に一本ぐらいならともかく、半分映画にとられていたのでは。
________それでなくても至難な芸の修業が、どうしても手落ちになりますからねえ。歌舞伎の芸というのは、いくら頭がよくっても一気に出来上がるものでなく、積み立てていく芸ですしね。そこのところをよく考えてほしいと思うのです。
(橋蔵)・・その点は十分自覚しています。

話は変わって、能の世界では、古いしきたりを破り武智先生演出の「夕鶴」など新しいものを発表し問題になっていることについて聞いています。
(橋蔵)・・いいですねえ、と言っても機会がなくて見ていないんです。
そして、橋蔵さんはこう話をしています。
新しい時代に合ったものを発表することは大変いいこと。勿論、伝統芸術は形を崩さずに残して行くべきだが、それだけでは大衆から離れたものになってしまう。
(橋蔵)・・絶対になくなりはしませんが、小さくなって限られた人達だけのものになっていくのは否定できないでしょう。だから、一方で思い切って新作をして大衆と結びつくのは必要なことだと思います。
でも、僕たちは、他の世界のことよりも、まず自分の勉強をしなければなりません。
________東横ホールは、いい勉強になるでしょうねえ。
(橋蔵)・・ええ、とっても。設備も整っているし、狂言立てなども、こちらの希望を聞いてくれるんですよ。先輩も手を取って教えてくださいますし、とっても有難いんです。
________勉強の方針はどういうところにおいていられるのでしょう?
(橋蔵)・・時代物をしっかり覚えることを、念頭においてかかっています。歌舞伎の基礎になるものですから。
_________それは結構ですね。デッサンが確かでなければ、いい絵は出来ませんもの。
Wさんが、最近の舞踊を見ての感想をこう話します。
古典が全然出来てないのに、目新しいものを追いかけている人が多く目につく。
古典は十分にマスターしてもらいたい。

ここで、橋蔵さんの役柄の話に入っていきます。
________夏祭りのお辰など年増役が好評でしたが、ああいう役柄はおすきなのですか。
(橋蔵)・・好きなんです。娘役はどうも苦手でしてねえ。先月も時姫をやらしていただいたのですが、一生懸命にお姫様になろうと努力したんですが、そう思うほどだめなんです。お姫様らしさなどというものは、意識して出るものではなく、自然的に出なければならないものでしょう。
僕がお姫様をすると、役柄にないって批評されます。

________関西ではいろいろの役を見せていただけないので明確には分かりませんが、どうもそういう評判ですね。何か老けた感じになるんですってね。
(橋蔵)・・そうなんです。この年で老けると言われては飛んでもありません。若々しい美しさが生命の女形ですのにねえ。
でもこれはどうにもならないんです。僕自身の気持ちの持ちようが現れるんだと思います。老けた役の方が難しいのはむずかしいんですが、気持ちの上では娘役より演りいいんです。
(例えば、太十(絵本大功記の十段目)であると、初菊より操がやりたい、忠臣蔵の八段目だと、小浪より戸無瀬がやりたい、というわけです。)
Wさんはそれを聞いて、そんな気持ちが舞台響いてきてしまう。やはり、娘役から勉強するのが順序、嫌わずに精一杯やってほしい、と橋蔵さんに言っています。
そして、最後聞いたことは、
_______大役をやられて一番苦労なさるのは?
(橋蔵)・・何もかも大変ですが、先輩から”ハラがない”と言われるのが一番身に応えます。
演しものが決まると、原作や脚本を通して読み、役の人物の性格や心理を知る努力をし、自分なりに理解していざ立ってみると、気持ちをどう表現していいか戸惑うというわけです。定まった型は先輩にも教えてもらえ一通りやってみるが、細かいところ、本には書いてない部分になると、そこの表現がうまく出来ないので”ハラがない”と言われるのだそうです。
(橋蔵)・・黙阿弥物など二番目ものは大好きなんですが、これになるとなお難しく、雰囲気とか情緒とかを出すのに、どうすればいいのかわからなくなります。


そうでしょうとも。こうすれば出るといった性質のものではありませんからねえ。何遍もやって年期を入れている間に、にじみ出てくるものですから、焦らずにみっちりと勉強してください。

幕間映画出演の記事から
《大川橋蔵主演の笛吹若武者》

既報の通り菊五郎劇団の若手大川橋蔵は、十一月の大阪公演を休んで新芸プロの「笛吹若武者」に出演している。
これは北条秀司の原作を佐々木康監督により映画化したもので、最初題名に「青葉の笛」が予定されていたが変更になったものである。橋蔵の敦盛に美空ひばりが玉織姫で共演。
撮影は十一月中に東映京都で行われた。


歌舞伎の舞台で華やかで美しい橋蔵さんも、役者として伸び悩んでいた時期にきていたのですね。
橋蔵さんが年増役の方が・・・といっていました。私は歌舞伎時代の舞台は全く知りませんが、写真でみまして、なるほどと思いますね。
そして、橋蔵さんは、お姫様や両家の娘とかより、下町の娘風やあだっぽい芸者などに魅力が非常にでる役者だと思いました。

(私なりのニュアンスで雑誌等からのものを参照し、私なりの解釈と構成で書いております。ご了承ください)

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27)これから自分が進む道を真剣に考えなければ・・
こうして出来上がった作品「笛吹若武者」はあわただしい年の瀬12月4日に公開されるという悪条件を跳ね返し、見事に成功を納めました。
第一回出演作品が未曾有の成功をおさめ、映画俳優としてスターへの道は約束されたのでした。
東映の重役たちは試写室の中で思わず「これはいける」とうれしい溜息をもらしたのです。東映側はまだ橋蔵さんと契約に至っていませんから動きます。

歌舞伎ファンにとっては大変残念なことが、ここへ来てありました。
この頃、橋蔵さんには先代梅幸の前名で、尾上家に由緒のある九代目尾上栄三郎を襲名させる話が内定していたのですが、「笛吹若武者」に出ることになって取りやめになったのです。
(もう一年映画入りが遅かったなら、芸名が大川橋蔵から尾上栄三郎に変わっていたことになります。が、襲名していたならば、映画界には来なかったように思えます。)

「笛吹若武者」のクランク・インを明日に控えての対談からもお分かりのように、橋蔵さんは、映画と言う違う面から自分自身を眺め芸に役立てようという気持ちでいましたし、この一本を撮り終えたら、歌舞伎に帰る決心は揺らいではいませんでした。
それなのにどうして・・・。

六代目がいなくなった菊五郎劇団は、一律美しく映し出されていた周囲が、とたんに醜く、意地悪くにも映ってきてしまったのです。この頃までは歌舞伎内部の複雑さがもたらすものだとして、何事にも修業として割り切ってきた橋蔵さんでしたが、「笛吹若武者」に出演し、思いもよらなかった好評を映画で受けたことは、菊五郎劇団に所属しながら単独行動をとったという批難とからみあって、橋蔵さんと菊五郎劇団の間に、嫉妬とも嫌がらせともつかない空気をつくりだしていたのです。
橋蔵さんは、六代目さえ生きていてくれればと、この時ほど身にしみて感じたことはなかったのではないでしょうか。

二十年間コツコツと積み重ね、歌舞伎を背負うと約束されていた地位を捨て、映画に生きる決心をしたなかのいくつかであったことには違いないでしょう。

慎重派の橋蔵さんが動いたのには、六代目遺族や菊五郎劇団首脳部が錦之助、雷蔵などの映画入りに花が咲いたのに影響されていたのもあるのですが、歌舞伎の世界で迷っていた橋蔵さん自身に転向の気持ちが固まって来たのが大きな動機となったのでした。

東映側からは、「笛吹若武者」の成功で、「絶対に映画を撮っていくべきだ、東映へ入れはいれ」と、当時のマキノ光雄専務から言われましたが、橋蔵さんは、「歌舞伎俳優ですから、勘弁してください」と言って京都をあとにして東京へ帰りました。
が、橋蔵さんの気持ちはこの時揺れていたのです。
リアルな映画の演技を体験することも勉強の一つと考えて出演した軽い気持ちも、撮り終える頃にはすっかり映画の仕事の面白さに魅かれてしまい、もっと深く映画というものをモノにしたい、という気持ちがおさえきれなくなっていました。

たまたまなのか、劇団に帰ったときに橋蔵さんの役がなかったので、親代わりになって心配してくれた、一番最初の師匠である市川左団次さんに相談したところ、役がないから・・・そんなに言うなら、「もう一本撮っておいで」と言ってくれたので、京都へ行き「旗本退屈男 謎の決闘状」を撮ったのです。この作品には、最初橋蔵さんの出演はなかったのですが、東映側と新芸プロが急遽出番を作ったのです。
橋蔵さんが出るならばと、新芸プロ所属の美空ひばりさんも付き合ってくれるということになり、橋蔵さんの映画への興味は自然とエスカレートしていきました。
東映側も橋蔵さんが映画に興味を示したのを見逃しはしません。
三本目には橋蔵さん主演で「若さま侍捕物帖」を撮るといった、新人俳優では今までにないスピードでした。
これがまた原作の江戸っ子”若さま侍”が橋蔵さんにピタリということで、好評を博したのです。
こうなると、東映はどうしても橋蔵さんと契約をしたいわけですが、橋蔵さんは二月には東横ホールで若手歌舞伎がありましたし、左団次さんの舞台の方にもでていましたから、マキノ光雄専務には「よく考えたうえでご返事します」と京都を離れて来ましたが、ここへ来て、これから自分が進む道を真剣に考えなければならなくなったのです。

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28)固い決意で、あでやかに最後の晴れ舞台
東京に帰って来た橋蔵さんは、第一作、第二作、第三作と出演しているうちにいろいろ考えて、舞台と映画を両立させていきたいと考えました。
そこで、梅幸兄さん達にも相談をしました。
(今と違って)当時は、歌舞伎の若手が生意気に映画と歌舞伎の両方をやるということは不可能な時代で、劇団も許してくれないのは当然のことでした。
また、両立させていくという事は中途半端で不可能なことが分かり、歌舞伎を諦めて映画に行くか、映画をやめて歌舞伎だけでいくか、二つに一つを選ばなくてはならなくなったのです。

映画に行くのもいいだろうと賛成してくれた人もいましたが、大半が反対でした。
その理由は、将来が不安だということ・・映画という未知の世界で振り出しに戻るわけですから、うまくいけばよいが悪くいけば、また舞台に戻るということも出来ず元も子もなくなるからです。
東映からは、映画に来いと再三再四言われ、橋蔵さんは板挟みになって悩みました。
考えたすえ、映画は全国に流れて一堂に見せて、それでいろんな社会の人が集まって映画を撮ることで、何か広々とした感じがある。
映画というものは若さが第一、若いうちは二度とない、やるなら今だと思い、
いっぺん一人で飛び込んでやってみようという気持ちになり、映画という新しい事業の中で、新しい道を切り開いて行こうという野心をもちました。
再び舞台には戻るまいと大決心して「のるか、そるか」という覚悟で映画界に飛び込む決心を固めます。
決心を固め一晩のうちに兄さん達のところへ挨拶にいきました。
橋蔵さんにとって、皆さんが理解して快く許してくださったことは、言葉では言い表わせない喜びでした。
勿論最初に相談したのは母千代さんにでした。
何事にも石橋を叩いて渡る橋蔵さんの性質を知っている千代さんからは、十分考えてのことだろうからしっかりやりなさい。このまま芝居で修業するのとは違った別の苦労があることは十分わかっていて覚悟もあるでしょうから、と安心しきっていたようです。
映画界入りが報ぜられたとき人々は、あの慎重居士の富成さんが、よく思い切って舞台を捨てたものだ、と驚いたものでした。

1956年(昭和31年)2月、橋蔵さんは歌舞伎俳優として最後の舞台を踏みました。
これで最後、もう歌舞伎の舞台に上がることはないのだ、舞台に戻ることは出来ないのだ、いや戻るまい・・・と固い決意を胸におさめて、最後の晴れ舞台に上がったのでしょう。

東横ホールで行われた菊五郎劇団若手歌舞伎の千秋楽の舞台で、橋蔵さんは胸に迫る無量の感慨を秘めつつ、永年踊り続けて来た得意の当たり役「汐汲」の一幕を、あでやかに舞いおさめました。

汐汲み桶に宿る月影に、橋蔵さんは十数年過ごしてきた舞台生活のあれこれを思い浮かべていたでしょう。
🎶暇申して帰る波の音の 須磨の浦かけて村雨と聞きしも 今朝見れば松風ばかりや残るらん 松風ばかりや残るらん




・・・あの日の厳しい六代目の顔を思い浮かべながら、夢中で踊っていたのではないでしょうか。
じっと舞台に集中していた静かな客席から、はげしい嵐のよう拍手が沸き起こりました。

それは、映画俳優として華々しいスタートをきった大川橋蔵をほめたたえたものと歌舞伎界の大川橋蔵を失う歌舞伎ファンの名残惜しい愛情の拍手でもあったのでしょう。
女とみまごうばかりに美しい橋蔵さんの女形はもう見られなくなります。

思えば、橋蔵さんが初めて舞台を踏んだのは、1935年(昭和10年)3月ことでした。
「お染久松」の舞台では久松になった橋蔵ちゃまは、舌がよくまわらなく「オチョメチャマ-」客席から笑いが起き恥ずかしい思いをしたことは忘れていない・・・あれから、20年が流れていました。

養子に行って日大三中に転校した初夏に、橋蔵少年は初恋をした、澄んだ美しい瞳が忘れられず、「もう一度逢いたい、たった一度でいい」その人の面影を求めました。
そして、青年になった橋蔵さんは、将来をこの人と・・・真剣な恋をしました。
しかし、この恋も、まだ若い橋蔵さんの将来への不安と未知の映画への話が持ち上がり、婚礼をあげる日も決めていたのに・・・。
初恋と恋の慕情は、甘くやるせないものになってしまいましたが、それらを忘れるためにも今の橋蔵さんにとっては、映画に出ることが最大の関心事になっていました。

こうして橋蔵さんは京都へ・・・東映という映画会社に入ります。東映という会社の方針等を聞いて納得し契約に踏み切るのです。
東映と新芸プロは橋蔵さん獲得するのに二年かかったのです。

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29)映画人として踏みだす
橋蔵さんが、映画会社は他にもあるのに、どうして東映に入ったのでしょう。
それは、東映のマキノ光雄専務と会い、話を聞いていて「失敗してもいいから黙って思い切ってやれ」という言葉に橋蔵さんは一番力強く思い東映に飛び込んだといいます。
マキノ専務に会ったとき、橋蔵さんは、映画には自分としては上手くないし人気もないし、成功するとは思えないといったそうです。
すると、マキノ専務は橋蔵さんにこういったそうです。
「最初から成功するわけがない。一度や二度失敗したところでかまわない。自分が見た範囲では成功するというカンのひらめきがある。お前が失敗しようが下手だろうが、主演主演で撮っていけば、そのうちお前はスターになるんだ。お前がなるんじゃなくても、俺がお前をスターに作りあげるんだ。スターになってから初めてお前の身体で会社は金儲けさせてもらう。売るのは俺の方だから、失敗してもいいから黙って思い切ってやれ。」
その言葉を聞いて橋蔵さんは安心したそうです。もし失敗したら歌舞伎にも帰れないわけですから、非常に安心感を持ちました。
東映が橋蔵さんを売り出そうという方針と、観客が若い人の主演者を見たいという当時の時期がピッタリと合い、そのしかれたレールに乗ったのが、橋蔵さんのスターとしての出発点になりました。

∞   ∞   ∞   ∞   ∞
新たな芸の上での人生を送り始めた橋蔵さんですが、試しに一本だけと出演した「笛吹若武者」がヒットしたから東映からオファーがあったから、だけで歌舞伎を捨ててまで映画に行ったのでしょうか。

錦之助さんと同じように、マキノ光雄専務に目を付けられた橋蔵さんですが、この二人の映画界に入る動機には大きな違いがあったはずです。
錦之助さんが早々と映画界に転じたのは二十一歳の時で、父三代目中村時蔵は健在でしたが、錦之助さん自身が映画界に自分の活路を求めて行ったのです。
それに比べ、橋蔵さんが映画界に来たときは二十六歳でした。
しかも若手女形としてそれなりに活躍し人気もあった橋蔵さんが、何故二十六歳にもなって映画界入りを決意したのか。
強力な後ろ盾だった六代目を失っていたし、六代目亡きあとの尾上一門の総帥は尾上梅幸さんとその子息菊之助さんの父子と決まっていました。
いくら六代目と生活を共にしていたとはいっても、あくまでも六代目夫人の実家を継ぐという、尾上一門から離れた立場にいたのです。どう考えてもこれまで以上のいい役がまわってくる可能性は薄くなっていました。そんなところに、映画界から強力な勧誘があれば、心を動かさない人はいないはずですし、中村錦之助さんという大成功をおさめた人が身近にいたのですからなおさらだとは思います。

橋蔵さんが映画に入って数年したとき、雑誌の企画で、映画評論家H.Tさんとのスター対談がありました。手を怪我しているときですから、対談時期は1958年6月ごろでしょう。

H.Tさんは、丹羽千代さんが所有していた狸穴町の家を1939年から戦災で焼けるまで借家していたそうです。そこは、離れには六代目が贅をつくした部屋があり、六代目が愛人時代の千代さんと起居を共にした家だったのです。

そんな奇縁を東映会館で橋蔵さんに会ったとき話をしたと言います。そして一年後に対談と言う機会を得てゆっくり語り合っています。本音の部分が聞こえます。
(橋蔵さん自身が語った一部を要約して掲載致します。)
その中で「なぜ映画界に走ったか?」というところで橋蔵さんは下記のようなことを話しています。

*歌舞伎の世界の名門の子として、恵まれた身分にありながら、映画に走ったことについては、当時いろいろのデマが飛ばされましたが、真相は
______これという理由もなかった。
*六代目が生きていたら、映画にはいかなかったでしょう
________六代目が行かせませんし、第一、僕だって行きはしません。
*理由の一つとしてあげたのは
女形としての自分の芸に疑問を持ち始めたこと。
女形としては背が高すぎて舞台で相手役より低くならなければならないので苦労したこと。
先代の梅幸さんはたいへん背の高い人だったが、舞台では少しもそれを感じさせなかったといわれ、それがつまり芸の力なのですが、やはり橋蔵さんには悩みの種になっていたこと。
*芝居の世界のゴタゴタに嫌気がさしたのでは
_______自分に関するかぎりそのようなんなゴタゴタはなかった。
そして、橋蔵さんは自分から、映画へ踏み切らせた直接の動機は失恋問題だと言い、そのときの有り様を話しています。舞台人として立つためには、ちゃんとした家庭を作らなくてはと思い、この人ならばという女性と知りあい、恋愛し、婚約をしました。結納を交わし、婚礼の日取りも決め、披露の場所も予約し、住むべき家も決めた矢先に、急に先方から破談の申し入れがあったのです。破談は本人の意志からと分かりガックリ・・・何もかも忘れるために、冒険をしたかった。そのとき幸いにも、映画からの話があったので、若い生命を燃焼させるために・・・(新しい世界へというところでしょう。)
*今でもその人の事忘れられないでしょう
_______忘れましたよ。去年でしたか、結婚したそうです。映画の仕事は忙しすぎますが、お蔭で何も考える暇がありません。忙しいということは、ひとつの救いです。
                       以上
∞   ∞   ∞   ∞   ∞
東京をあとにするとき、「自分の我儘を通させてもらいますが、責任だけは持ちます」ときっぱり言い切った橋蔵さんでしたが、あんなに父六代目が舞台を仕込んでくれたことを思うと、裸で踊らされた雪の夜のことが、さすがに瞼の裏に浮かんだようです。
「道はちがっても、お父さんの教えは、必ず映画の演技の中に行かされてくるはず」
歌舞伎の伝統と重さは、何ものにもおかされないゆるぎないものですが、映画にには自由と奔放さがあります。それに体当たりして暴れまわってみたいというのが橋蔵さんの希望なのです。
しかし、それは振り返ってみて、決して悔いのないものでなければならないのです。
歌舞伎から映画に入ったのだから楽だろう、という人がありますが、映画はまた別なもの、歌舞伎で積んだ修業を、安易に利用してやっていけるような、生やさしいものではありません。
この道に入ったばかりの橋蔵さんは、これからの努力こそが将来を決めることになるのです。
「謙虚であるとともに、大いに意欲的でもありたいと思っています。粘り強さと性格的な気の弱さは別なものなのか、相当に粘り強さも頑張りもあるつもりなのですが、みんなによくしてもらい幸福者だと思っているのに、いつも孤独感が去らないのです。爪を噛むくせも、相変わらずです。祖父母と暮らした幼年時代の古びた押絵細工のような遠い思い出への、郷愁かもしれません。仕事を終わってひとりでぽつんとしているのがとても寂しく、つとめて自分を朗らかにするように励ましていますが、この弱さは演技の上にもきっと出てくるはずですから、今後は性格的にもたくましくなるように、努力していきたいと思います。」

こうして映画人として、一歩を踏み出した橋蔵さんの、この後は皆様ご存知の通り、デビューと共に人気が上がり東映の看板スターとなり、一年の映画本数も大変多く、雑誌等にも毎月出ているという忙しさで走っていきます。

橋蔵さんの持っている魅力が特に女性の時代劇ファンをこのあと長年魅了してスターの座を保っていくわけですが、その橋蔵さんのにこやかな笑顔の裏には今までお話した様々な辛い事柄が隠されていたのです。生い立ちを知らない人は、六代目菊五郎の養子になり、華々しい人生を送り、美貌がものをいい、映画界で人気を集めてたとお思いだったでしょう。
橋蔵さんが、映画界に来るまでの人生を、つたない私の書き綴ったものから、少しでもお分かりいただけたらと思いまして書き綴った次第です。
私が幼くして魅了された*大川橋蔵さん*の映画界に入るまでの26年間になります。


その橋蔵さんが映画界にいってからの活躍ぶりは、映画、雑誌を見ていただければお分かりになると思います。
映画については、「ブログ”美しき大川橋蔵”私の想い出」のほうでデビュー時から順に作品内容を掲載していますし、そのフリーページには、各項目を設け、橋蔵さんのスチルや雑誌や会誌からの画像など載せています。これからもどんどん増やしていきますので、「心の軌跡」と一緒に楽しんでいただければと思います。

こちらのブログでは、このあとは、私が持っている数少ない雑誌等の一部から、映画撮影に関する橋蔵さんのいろいろな表情を見ていただこうと思います。映画封切の頃に出た近代映画から、撮影時の表情等などをピックアップして掲載したいと思います。


  完

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