雄略帝ワカタケルと百済滅亡



 またこの時期に、朝鮮半島情勢も風雲急を告げるものであった。激しく抗争の続いていた高句麗の南下はいよいよその勢いを増し、475年に大和王権の同盟国である百済はいったん滅亡する。これは非常に危機的な状況であった。日本としては朝鮮半島が敵対的な新羅や高句麗政権によって統一されると、安全保障上由々しいこととなるからである。

 雄略朝は積極的に百済支援に動き、かろうじて熊津に都を遷して抵抗を続けることとなった。その王は日本に人質に来ていた武寧王である。そしてまた、大規模に日本列島から軍事的協力が行われたと推定される。その見返りに、百済から暦・文字などの文化・技術的援助が行われた。

 中国の史書によると、倭王武は幾度と無く遣使を行い、朝鮮半島南部の軍事的管轄権や将軍号を要求してきたと伝える。その流麗な文章からは、対高句麗戦争の苦戦の様子がうかがい知れる。

 雄略の死亡後、記紀は武烈天皇が立ったと伝える。しかし武烈は気性が荒く、民を虐げる暴君であったと伝える。その真意は明確ではないが、いずれにせよ朝鮮半島情勢を受け、大和政権も対処を迫られつつあった。こうして立ったのが継体天皇である。

 継体はその出自からして謎が多く、応神の流れを汲むとされるが、多くの議論がある。

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