高句麗語説の展開


 高句麗語説は、村山七郎、李基文らの主流の「大物」によって主に展開されてきたが、彼ら以外にも高句麗地名について論じた研究は存在するし、決して看過し得ない価値を持つものがある。
 それらについて見ていこう。

 桜井芳朗、安本美典、塚本勲、泉隆弐、福田昆之

 おそらく戦後初めて高句麗地名についての研究を公にしたのは桜井芳朗である。1952年のことである。

 「もっとも高句麗の言語が単一であったかどうかはわからないのであるから、ここでは高句麗の言語を知る資料としてあげるにとどめる。」
 「これらは偶然の類似であろうか。偶然であるとするにはあまりに多い。ここではこれらの類似をあげるにとどめ、後考をまつことにする。かりに単語の類似があるからといって、直に民族の関係を云々してはならない。言語と民族とは区別して慎重に考えねばならない。」

 と、慎重な筆致であるが、数十の類似例を挙げて考察を展開した。この後の研究でも言語の類似をただちに民族の関係に飛躍しすぎるきらいはあるといえる。

 ツングース諸語、数理・歴史言語学が専門の福田昆之は1982年、「日本アルタイ比較文法序説」において、緻密な考察を積み重ねた後、ツングース諸語と日本語との関係について論じた部分で、次のように述べる。

 「(1)残存した高句麗語彙約80の中に動詞が2個ある。この2個の動詞はツングース語に対応形があり、日本語にも対応形があると考えられている。
  (2)高句麗語語彙と比較される日本語語彙と中世朝鮮語語彙とは奇妙にも全面的に喰い違っている。
  (3)残存した数詞は、日本語のものに比較され、その一部はツングースのものに比較された。
  以上の諸点を考慮したときに得られる結論は、次のごときものであろう。
  高句麗は多種族国家であって、その政治的支配層はツングースであったろうが、その有力構成民の一つに倭人がおり、高句麗語語彙には多くの原倭語が参入していた。日本語語彙と比較され、他の言語とは比較されないものは、すなわち、原倭後出自の語彙である。しかしながら、高句麗語そのものの核心部は、明らかにツングース語と親縁し、恐らくはツングース祖語とかつて分岐したものの一つであったろう。さて、この国家の有力構成民のひとつであった倭人は、中国史籍では必ずしも倭とは呼ばれず、他の名で呼ばれていたかも知れぬ。こういう倭人たちは、ツングースを支配層に頂いただけではなしに、かれらを南鮮さらには北九州へと受け入れたのではないか。
  以下のような背景で先日本祖語の成立地を考慮するならば、比較音韻論の指し示すところと、古代東北アジア史の指し示すところが、切実に呼応することが知られよう。」



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