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神奈川県茅ケ崎市にできた開高健記念館を訪ねた。茅ケ崎には橋本駅からJR相模線というローカル線で一時間弱かかる。林と田んぼの中を優雅に走り、気分がゆったりする。いまだにボタンを押してドアを開くというやり方で、やや戸惑う。車内に入ると冷房が効いて寒い位だが、節電令が終わるとまた冷房がやや効き過ぎになっている。茅ケ崎は、たくましい裸体のまま自転車に乗ってサーフォンボードを持って海に駆け付けようとする男性を多く見かけた。この街の海側を初めて歩いたが、海の近くのリゾート街、おしゃれなカフェ街、図書館や美術館を擁する文化街、ネオンの咲く飲み屋街と分かれており、成熟した街という印象を持った。海へ歩いて7-8分のところに、開高が1974年に建てた家がある。当初は書斎を持つ仕事場として使っていたが、後に妻・牧羊子と娘が移り住んで、終の棲家となる。この茅ケ崎はJRでも車でも一時間と変わらないと開高はエッセイに書いている。瀟洒なつくりの家の前に立つと、「哲学者の小経」という表示があり、この家の周りを巡ることができる。途中に「悠々として急げ」、「遠い道を ゆっくりと けれど休まずに 歩いていく人がある」、「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」、「朝霧の一滴にも 天と地が 映っている」、という開高の言葉を書いたボードがある。最後の方に、書斎が現れた。「主人を失った書斎」という説明が書いてある。亡くなった当時の書斎をそのまま保存している。十畳ほどの個室には、横長の机と座椅子がある。隣の二畳ほどの小部屋を含む壁には、開高は仕留めた動物の毛皮や魚のはく製が貼りついている。ブラックベアの毛皮、キングサーモン、レッドサーモン、ピンクサーモン、グレイリング、マスキー、ピラーニア。開高健は1930年に大坂で生まれ旧制大阪高校に入るが学制変更で大阪市立大学法学部に入学しなおす。20歳の時に処女作「印象生活」を発表。23歳、7歳年上の牧羊子と結婚。24歳、寿屋入社。26歳、コマーシャル色を排除した面白くてタメになる雑誌「洋酒天国」を創刊し編集発行人となり大ヒットする。28歳、「裸の江様」で芥川賞を受賞。寿屋を退職。その後、作家生活に入り大活躍をする。ベトナム戦争、ビアフラ戦争、中東戦争などの渦中に入り、戦争のルポは話題になった。44歳で茅ケ崎に仕事場をつくる。そして58歳に若さで食道腫瘍にはいお延を併発し倒れる。大江健三郎と争って勝ち得た芥川賞受賞時には、「定型化をさけて、さまざまなことを、私は今後どしどしやってみたいと思っている」と語っており、実際その通りの型破りの作家となっていった。開高の原稿用紙に書いた字を展示してあった。わかりやすい字だ。大型の原稿用紙。ほとんど校正の後がないきれいな原稿である。NHKの「あの人に会いたい」のビデオを流れていた。その肉声から以下、言葉を拾う。 ベトナム戦争。誰も戦闘を見ていない。 今日の私は昨日の私ではない。 私はタフでハードだが、ピアノ線のように感じやすい 危機と遊び、男が熱中できるのはこの二つ。危機と遊びが男を男にするのではないか。記念館に貼ってある言葉。 飲みながら書くのは連想飛躍を求めるからにほかならない。ウオッカがいいのは翌日に臓器にダメージを残すさないから、、出版人マグナカルタ9条1.読め 2.耳をたてろ 3.両目をあけたままで眠れ 4.右足で一歩一歩歩きつつ左足で跳べ 5.トラブルを歓迎しろ 6.遊べ 7.飲め 8.抱け。抱かれろ 9.森羅万象に多情多恨たれ右の諸則を毎日三度、食前か食後に暗誦、服用なさるべし開高健全集は、22巻だから、相当な量である。20歳から58歳までの38年間。文藝別冊「開高健 生誕80周年記念総特集」にある「開高健著作リスト」で著作数を数えてみた。 単行本85冊 全集51巻 翻訳2冊 文庫87冊合計で225冊となった。この作家は生きていれば81歳だらか、20年以上の歳月があったはずだからどれほどの厚みになっていただろうか。この記念館は開高家が茅ケ崎市に土地と建物を寄贈し、運営は市とNPO法人開高健記念会が行っている。入場料は無料なので聞いてみたら、開高健の作品の印税で賄われているとのことだった。
2011/09/18
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後援会総会。父母対象の教育セミナーf:id:k-hisatune:20140713134527j:image父母対象の教育説明会。 学部長として教育方針を説明。 引き続き各委員会の説明。金教務委員長、梅澤就職委員長、清松学生副委員長、中村国際交流委員長、諸橋地域活性化委員長。それぞれ短い時間の中で、メッセージが伝わったと思う。父母対象の総会とセミナーに丸一日を費やしたが、教員と職員の統制のとれたチームワークで、素晴らしい成果をあげた。この一体感が多摩大の強みだ。父母の満足度も高かった。f:id:k-hisatune:20140713141306j:image■CommentsAdd Star学部長日誌「志塾の風」140713 | 編集 10時半:多摩大学後援会総会:学部長挨拶。常任理事として2014年度事業計画を説明。 11時半:後援会役員たちと昼食会。事務局の課長さんたちからの情報提供。躍進するフットサル部の説明を杉田先生から。 13時:父母対象の教育セミナー 14時半:第二部はゼミ別懇談会。教員は35名中30名が参加。ホームゼミ生とプレゼミ生の父母が対象。私の担当は3名だった。丁寧に対応。 すべてのプログラム終了後、ラウンジで総括しながら歓談。樋口、バートル、杉田、金、趙の各先生たちと。来訪者累計本日昨日
2014/07/13
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結婚ゆび輪はいらないといった朝、顔を洗うとき私の顔をきずつけないように体を持ち上げるとき私が痛くないように結婚ゆび輪はいらないといった今、レースのカーテンをつきぬけて」くる朝顔の中で私の許に来たあなたが洗面器から冷たい水をすくっているその十本の指先から金よりも 銀よりも美しい雫が落ちている-----------花からとりのぞけるものはない花に付け加えられるものもない---------ちかごろ花をふたつ描くことが多くなった妻よひとつはおまえかもしれないね---------絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助け合うのは自然な事です、、、、------、、畑も田んぼも山も一つの美術館で、村の人たちがつくる作物が村の人たちの作品だと思う。-----、、苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、、、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。----、、たった一度しかない人生ですから、社会がどうあろうと、人が何と言おうと、そんなことにひるむことなく、大切な自分の人生を、志を持って進んでいけたらいい。志という言葉の中には、日本人らしさ、まわりに流されない生き方というものが含まれている気がします。--------------「「詩画」という独自の表現方法を編み出した星野富弘には、ファンが多い。1946年生まれ。群馬県勢多郡東村に生まれた富弘は群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になるが、新任で赴任した直後の6月17日に器械体操のクラブ活動を指導中に首から落下し頚椎を損傷、手足の自由を失う。大学時代に登山やスポーツに明け暮れたように、体を使う仕事をしたいとの想いを抱いた富弘は、体を使えなくなるという悲劇に見舞われる。体も首も動かせない、言葉も使えない富弘は2年後、筆を口に加えて母が動かしてくれて「お富」という文字を書く。横向きになって口で絵筆を噛みながら文字を書くという表現手段を得た富弘は、「あ」という文字を書くのに5秒かかった喜びをビデオの中で語っている。そうすると今まで見てきた作品の味のある達筆は、その後の練習によって勝ち得たのかと胸が詰まった。ビデオの中の富弘は、ゆっくりかみ締めるように話す姿は、やさしく誠実な人柄を感じさせる。5年後、スケッチブックをベッドの横に固定する工夫ができて、今まで手で持っていた母の両手が空いた。母がパレットを持てるようになり、絵に色がつけられるようになり、絵に言葉を添えて手紙を描き始める。富弘美術館の作品には花をモチーフにしたものが多い。お見舞いの花が唯一の接することができる自然であり、花が友達だったという言葉に納得する。毎日花を見つめる富弘は、その色と形に驚く。自然の姿をそのまま写しとればいいと思い、絵とそれに言葉を添えた作品をつくり続ける。9年目、思いがけず展覧会を開くことになる。それまでにかきためた10冊のスケッチブックは、1979年5月 15日に展覧会で多くの人の目に触れ、深い感動を与える。その年に退院した富弘は詩画作家としての道を歩む。入院中に聖書を読みキリスト教の洗礼を受けた富弘は、1981年には伴侶も得ている。」「星野富弘 ことばの雫」の奥付には「著者 星野富弘 写真 星野昌子」とある。その伴侶こそ昌子さんである。この本では「詩画作家」というこの人にふさわしい肩書きがついていた。星野富弘の美しく微妙な色彩は、富弘の繰り出す細かい指示と、その指示に忠実に絵の具を混ぜ合わせ忠実に反映しようとする昌子さんの感覚から生まれてくる。「詩画作品は自分たちの子供のようだ」と星野は言う。
2010/05/17
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武者小路実篤と いう名前は、白樺派という美しい名前とともに私たちの世代にとっては、あこがれの対象だった。実篤は1885年(明治18年)生まれだが、1975年(昭和50 年)に90歳で没するまで「私の美術遍歴」を最後に著書を刊行し続けているから、私が高校生から大学生の間に、同時代にこの人の本を読んでいたということ になる。23歳の処女出版「荒野」から数えて67年間、作品は6000というから、長寿で仕事を続けているということは凄いことだと改めて感じた。中川孝によると、最初の単行本は1908で、1959年の75歳時点で50年経っているが、その時点で、戯曲117編、短編小説131編、中編ないし長編26編、伝記小説9編、感想、随筆、詩集など93編、著書の総数は500冊とある。子爵であった父・実世は実篤が数え年の3つにならないうちに「この子をよく育ててくれる人があったら! この子は世界に一人という人間になるのだが。」と言ったという。この大それた予期を知らされた実篤は、「陸軍大将になっても始まらない」、「総理大臣になると思ったこともあったが、それも総理大臣が最後の目的ではなかった。自分はもっと大きい空想家だった。伊藤さんや山縣さんになっても始まらないと思っていたのだ」そして、「アフガニスタンの王様になるくわだてをしたものだった。」本人も「遠慮なく言うと自分の星は世界に一人というおもしろい人間になる星だそうである。」と言っている。武者小路実篤は24歳のときの日記で「60歳まで健全でいたなら必ず何かしてみせる。何かして見せるといふのは、一つの武者主義をつくって見せるといふことである」と書いている。26歳では文学同人誌「白樺」を志賀直哉らと創刊している。「白樺」は、学習院中等科での実篤(当時17歳)と志賀直哉(当時19歳)の出会いとそこから生れた十四日会、そして明治43年に創刊された白樺を紹介している。こういう雑誌は長く続かないことが多いのだが、大正12年の関東大震災まで実に160号を数えるから、その影響は大きかった。昭和に入ると、、、大正末から昭和11年頃にかけて、、、昭和10年代以降になると、、、、戦後、著作の中心は、、、武者小路実篤が1918年に「新しき村」(人間が人間らしく生きるための運動)を提唱し、その年の11月に宮崎県に村が創設されて、すでに90年以上が経った。この地は中世の山城跡で6.5ha余りの広さがあったが、ほとんどが山林と原野であり、農業用水や飲料水の確保に苦労することになった。創設時大人18人、子供2人の計20人で始まったこの村では、1929年頃には50人余りの人が生活するようになる。実篤はここで二人の子を設け、「友情」「或る男」「耶蘇」など数十冊の本を書いている。当初の必要資金は、実篤の原稿収入を始め、村外会員、志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生などの白樺同人や篤志家の支援でまかなわれていた。岸田は経済支援のための画会を開いても鋳る。実篤は、創設から7年間にわたって会員とともに生活をしているが、村を経済的に支えるために原稿執筆に専念するため村を出ている。目指した自活への道へは13年の歳月がかかっている。それは泥沼へ石を投げ込むような努力の日々だった。この村では創作活動も盛んで、村の雑誌「新しき村」や、「新しき村出版部曠野社」なども設立されている。また美術活動、演劇活動も盛んだった。現在この地では、「日向新しき村」として二家族4人が生活している。実篤は、「新しき村というのは、、、皆が協力して共産的に生活し、そして各自の天職を全うしようと異いうのだ。」「人間らしい生活というのは、人類の一員としてこの世に生活してゆくのに必要なだけの労働を先ず果たして、そして其他の時間で自分勝手の仕事をしようというのだ」と「新しき村の小問答」で語っている。農業を中心とした共同生活で、運営や生活に関わる仕事は分担するなど、各自が義務労働を果たした。衣食住や医療、教育を保障し、労働時間は一日8時間(のちに6時間)と決めている。それ以外の自由な時間は芸術活動や創作活動にあてた。テニスやレコード鑑賞など、生活は苦しかったが、精神的には充実した生活であったという。また、多数決による解決法をとらない運営を目指した。最初の妻・房子は、我孫子に建てた新居を売って新しき村の土地の購入費にあてるという実篤の案に同調し、実篤も大いに喜んでいる。太陽に向かうという日向という名前、日本の歴史の発祥地という伝説に魅力を感じ、自分たちの手で新しい日本史の一ページをひらこうという使命感に燃えていた。しかし、房子の奔放な性格は性的な面も含めあらゆる面で摩擦を起こした。1926年(大正11年)に実篤は房子と離別。同年新入村の飯河安子と結婚した。房子は、村内の男と結婚した。1939年には、ダム建設に伴い村を出る者もあったが、房子と新しい夫は残っている。1938年のダム建設のために一番肥沃であった土地の一部が水没したため、翌年、埼玉県毛呂山町葛貫に「東の村」を創設した。太平洋戦争が終わると実篤はいち早く新しい時代の村づくりに取りかかる。養鶏、水稲、畑、乳牛、果樹とひろがっていく。1948年には財団法人新しき村を設立している。実篤はずっと理事長を引き受けている。創立40周年の1958年には村の農業活動による生産物と収入で村内の食料や生活費がまかなえる自活を達成する。この「新しき村」の運動が、武者小路実篤のいう「武者主義」であった。武者小路実篤は、文学と芸術と人生論と同様に、生涯この運動にも深く関わっている。「新しき村に就いての対話」によれば、「以前はあることについて疑問を挟めばそれでよかった。解決は他人に任せて安心だったが。しかしそれに自分であるところまで答えを与えたくなった。」と語っている。Aという人物と先生との対話という形式の文章では、「先生は相変わらず楽天家ですね」、「先生は相変わらず空想家ですね」、「先生は相変わらず空想家ですね」という問いかけに対して、先生は「相変わらず空想家だ」、「いあや、空想家ではない」と変化しながら、新しき村の意義を説明しようとしている。また、「僕は思想家とか宗教家とか言われるほうがうれしい」ともいっている。武者小路実篤記念館は、京王線仙川から歩いて10分のところにある。武者小路実篤が 住んだ1500坪の土地は、現在では、実篤公園として整備されていて、その一角に住んでいた家があり、さらに平成6年に生誕百周年を記念して建った記念館 がある。起伏があり、植物や花が咲いており、池もあり、この自然豊かな公園は昔の武蔵野を偲ばせる。改装中で家の中までは見れなかったが、実篤が愛した池 のある庭の側から中をうかがうことができる。晩年になったら「泉と水」のあるところに住みたいと念願していた夢を実現させた家である。 越してきたのが70 歳だから、家族や友人に囲まれ仕事を続けた幸せな期間をこの地で過ごしたのである。野桜の大木が目についたが、木々の紅葉もきれいだった。ベランダから低い地にある庭と池を楽しむ姿が見えるようだ。庭の池の鯉を見ながら進んで小さなトンネルをくぐると記念館が姿を現した。ちょうど展示替えのためメインの展示室はみることはできなかったが、裏の小展示室に案内してもらった。ここにはビデオのコーナーがあり、何本もの紹介ビデオがあり、それを4本ほど見ながら疲れを癒した。「仙川の家」は、この最後に住んだ家をテーマとしたビデオである。早起きで、朝は毎日原稿を4-5枚書いて、午後は絵筆をとって書画をかく、そして来客に会う、という生活を送った。普段は2人きりだったが、子や孫を含めると15人いて、よく家族がここに集まったらしい。三女の辰子はビデオの中で「したいことをしている生活でした」と回想している。「終の住処」というビデオでは、1500坪の土地と建物を詳しく紹介している。ピカソから贈られたミノトール、庭の桜と紅葉、サンルーム、月見台、、。「秘蔵映像」では、新しき村の様子、初めての洋行時の見送りの様子などを見ることができた。武者小路実篤といえば、あの独特の温かみを案じさせる書画を思い浮かべる。若い頃から美術の鑑賞は好きだったが、自ら絵筆をとったのは40才頃からだった。味わいの深い生命賛美の作品が多い。独特の画風と、添えられた率直に想いが吐露された讃は人気があった。「自然 玄妙 81歳」「人生の旅人に幸あれ 87歳」など晩年には年齢を入れるよいになった。「天に星 地に花 人に愛」「人生は楽ではない そこが面白いとしておく」「画の仕事は道楽であり、それ以上でもある」「野菜はそういう意味では僕はいつみても感心する。」「瞬間の美しさ、僕はそれを永遠化する事に画家の喜びがあると思う」「共に咲く喜び」「自然玄妙」「人見るもよし 人見ざるも よし 我は咲く也 八十四歳」「どかんと坐れば 動かない 八十九歳」「雨が降った それもいいだろう 本が読める 実篤」「龍となれ 雲自づと来たる 実篤」「仲よき事は美しき哉」「まれけり死ぬる迄は生くる也」「いつ迄たっても本当の事が言いたい」「満八十になって」という随筆がある。「あと10年生きられれば、僕は僕風の美術館をたてたい希望は失っていない」「入って出るまでに僕の生きた本に接することが出来るような特別な小美術館」と書いているが。この記念館はそれが実現したものだろうか。記念館で買った図録をみると、志賀直哉と写った写真が多い。明治39年に行った志賀直哉との徒歩旅行の写真など2人は体格もよく男前である。白樺の新年会、創刊十周年記念、晩年の写真など、常に志賀直哉とともにいる。2人は生涯の親友だったと感じる。また、白樺関係の記念写真には日本民藝館を創った柳宗悦が感性の鋭そうな目をして写っているのも目を引いた。高村光太郎、岸田劉生、木下利玄、バーナード・リーチらの姿もみえる。「仲よき事は美しき哉」と好んで書画に書いた実篤は妻の安子が亡くなっ たわずか2ヵ月後に永眠する。実篤は小説、戯曲、詩、評論、随筆、雑感など6000近い作品を発表したのだが、「武者小路実篤 この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない哲学者思想家乃至宗教家と云ってもそぐはない そんな言葉に縛られないところをこの人は歩いた」という中川一政が書いた「この人」という詩がよくこの人の歩みをあらわしていると思う。記念館で買った「人生論」を本当に久しぶりに読み直したい。作品解説は亀井勝一郎だった。この名前も懐かしい。武者小路は、作家として大成し、晩年には独特の画家ともいえる存在になった。また、「新しき村」という運動の創設者となった。幼少の頃に夢見た「アフガンの王様」にもなったのだ。画家の中川一政は、「この人は小説を書いたが小説家と言ふ言葉で縛られない。哲学者思想家乃至宗教家と言ってもそぐはない。そんな言葉に縛れないところを此人は歩いた」と実篤のことを述べている。「世界に一人という人間」「世界に一人というおもしろい人間」であり、その人間が様々の形としてこの世で仕事をしたということだろうか。青年時代の白樺から始まった武者小路実篤は、90歳までという長い時間をかけて、多方面の才能の開花させ、他に類例のないタイプの人生を送った。
2010/05/15
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第一生命が主催しているサラリーマン川柳コンクールの今年の上位作が発表された。応募作品数は、21,774句 。ベスト10投票数は、130,745票 という人気だ。 今年の第一位は「昼食は 妻がセレブで 俺セルフ」だった。毎回、身につまされるような句が多く、私はこの発表を楽しみにしている。先日、大手企業に勤務する大学時代の友人と飲む機会があり、話題がこのサラ川になった。過去の最高傑作は何か、という話になり、偶然にも一致したのが、次の句だった。 無理させて 無理をするなと 無理を言うこの句を思い出すと、厳しかった上司の顔が目に浮かぶが、自分自身も、こういう上司だったような気もするなあ。(^^;)
2006/05/15
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東京都台東区西浅草の生涯学習センター内に台東区立中央図書館が入っている。その一角に池波正太郎記念文庫がある。同じ建物に樋口一葉記念館の新設工事に伴って一葉記念館の臨時展示室がある。前回ここを訪問した時は、池波正太郎記念文庫は休館日だったので、見ることはできなかった。池波正太郎(1923--1990年。六白金星)は、東京浅草で生まれ6歳で下谷の根岸小学校、西町小学校を経て兜町の株式仲買店に入店する。14歳で後の師である長谷川伸に出会っている。その後、旋盤機械工、兵隊などを経て、23歳で東京都職員になり下谷区役所に勤務する。この頃から戯曲や商業演劇の脚本を手がけていく。31歳で長谷川伸のすすめで小説を書き始め、37歳のときに実に5回目で直木賞を受賞する。その後は、時代小説、特に江戸時代の小説を書き、吉川英治文学賞、菊地寛賞などを総なめする活躍をする。代表作は、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅庵」の三大シリーズと「真田幸村」である。年譜を辿っていくと、物凄い仕事量であることがわかる。しかし、意外なことに、昼は江戸の市井に材をとった小説、夜は戦国時代もの、という一日に二役をこなしながら、「書けない、と思ったら、それこそ一行も書けないのだ」「その日その日に、先ず机に向かうとき、なんともいえぬ苦痛が襲いかかってくる。それを、なだめすかし、元気をふるい起し、一行二行と原稿用紙を埋めてゆくうち、いつしか、没入することができる」と書いているのは、名人でもそうなのかと安心する。生前の書斎をそのまま復元している空間がある。10畳の洋間の中で机と本棚を並べている。机の上には書きかけの原稿用紙が積んであり、その上に愛用の万年筆と校正用の色鉛筆が置いてある。原稿用紙をよくみると「鬼平犯科帳・雑記」というタイトルだった。万年筆で書いた原稿の消す部分は青鉛筆、行替えや文字空部分は赤鉛筆を使っていたことがわかる。仕事の武器である万年筆は40本ほども持っていて、書き出しと中盤は違うタッチの万年筆を使っていた。本人が座っている右側の板の上には電気スタンドがあり、左側にはお茶のセットと手帳、ペンなどが並べてある。後ろ側は書棚である。池波正太郎はこの空間で一日の大半の時間を過ごし、質の高い作品を量産したのである。そして驚くべきことに原稿の締切には遅れたことがない。年賀状を毎年自筆で1000枚書いていたそうで、その現物が展示されている。前年の春に刷りあがって、夏、秋、師走にかかえて宛名を書いていく。本人によれば人づきあいがよくなにので、せめて年賀状は自筆で書くことにしたとのことである。気分転換は音楽だったようだ。サマータイム、カラヤン、南太平洋、アニーよ銃をとれ、風林火山などがお気に入りだった。子どもの頃から絵を描くことが好きであり、晩年には「近年は、自分の本の装丁や挿絵も描けるようになった」と述懐している。風景画、人物画、猫などの動物画など実にうまい。小説以外のエッセイにもファンが多い。小説は読まないが、エッセイは殆ど読んでいるという女性もいるとか。膨大なエッセイ群を4つに分けて展示してある。一つは、「食」の世界である。この作家は時代小説の中の食事の描写がうまい。本人によれば季節感を出すための道具ということになるが、食いしん坊だったことがわかる。「むかしの味」「食卓のつぶやき」など。「いまが旬の浅蜊(あさり)の剥身(むきみ)と葱(ねぎ)の5分切を、薄味の出汁(だし)もたっぷりと煮て、これを土鍋(どなべ)ごともち出して来たおみねが、汁もろとも炊きたての飯へかけて、大治郎へ出した」。これが深川の人のいう「ぶっかけ」である。実にうまそうだ。「刺身の上にわさびをちょっと乗せて、それにお醤油をちょっとつけて食べればいいんだ」「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくように食べていかなきゃ。てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ」二つ目は「映画」の世界である。「最後のジョン・ウエイン」「ラストシーンの夢追い」「スクリーンの四季」「回想のジャン・ギャバン」などが並べてあり、欧米の映画監督の似顔絵のシリーズも面白い。三つ目は「芝居」の世界である。新国劇の「牧野富太郎」「風林火山」「名寄岩」など。四つ目が「旅と人生」である。「旅は青空」「酒と肴と旅の空」「旅と自画像」など、、。旅に出ると文章は一枚も書けなかったらしいが、それは旅を楽しんでいたのだろう。仕事は仕事場でしかしないのだろう。物凄い趣味人であったことがわかる。「私の故郷は、誰がなんといっても浅草と上野なのである」と語った池波正太郎は、生涯この地を題材にした小説やエッセイを書きつづけた。台東区がそういう池波正太郎を顕彰する記念文庫をつくったのは当然といえば当然だ。「一生のうちに、自分の時間をどのようにつかったらよいのか、、、。それはまた、他人の人生を考えることになる」「原稿を早目に早目に仕あげておき、自分だけの時間をつくり、のんびりと街を歩いたり、好きな絵を描いたり、映画を観たりするために、つきあいの時間を減らすということだ」「約束も段取り・仕事も生活も段取りである。一日の生活の段取り。一ヶ月の仕事の段取り。一年の段取り。段取りと時間の関係は、二つにして一つである」山口瞳「池波さんは江戸に長逗留された」常磐新平「「男の作法」を、私はもっと若い頃に読みたかったと思う」「「池波正太郎の銀座日記」は日記文学雄傑作」「素晴らしい日本語で書かれてある」池波正太郎が愛した店はできるだけ訪問したいものである。 和食の「花ぶさ」(外神田)、蕎麦の「まつや」(神田)、天婦羅の「山の上」(神田)、ホットケーキがうまい「万惣」(神田)、喫茶の「アンデュラス」(浅草)、ドジョウの「前川」(駒形)、蕎麦の「並木藪」(雷門)、「御料理いまむら」(銀座)、寿司の「新富寿し」(銀座)、洋食の「煉瓦亭」(銀座)、鮨の「松鮨」(京都)
2006/07/17
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