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マッコリ飲んで書いてまふ(・ω・)微炭酸で甘くて、気持ちもふんわりして来て美味すい~(・ω・)v放射能対策には、体内促進発酵の為の乳酸菌、酵母、酒粕、味噌、納豆や、海藻、玄米、リンゴなど良いらしいとの事ですが、最近、妙に飲みたくなるのは体が欲しているのでしょうか?ねぇ。これにキムチもあれば最強かも^^気分もほんわりして美味しくて、体に良いのは嬉しい限りです。放射能もウランという自然界に存在する鉱物が、人間のお金儲けという勝手なエゴで核分裂されネガティブに働いてしまったわけで、ウランも地球の一部であるからして、本当は、地球の一部である人間のために、愛の存在でいたい本望でないと、私は感じているのですがね。この乳酸菌のように、自然界に存在する物で解毒する力、浄化する力が、まだ気がついていない治療法が、あるやもしれません。食も昔じゃないけど・・・自然に帰れって事への、気づきなのかもしれないなぁとマッコリ飲んで思ってまふ(・ω・)マッコリばんざい!!!さてさて本題☆津波にあい、奇跡的に助かった叔母さんがいました。この話を聞いた時は、驚きました(゜o゜)父のお兄様の奥様のお話しです。家にいた時に、津波がどわ~~~っと押し寄せて来て、窓が津波の衝撃で壊れました。津波の威力って凄いですね。窓を一瞬にして破壊したり、川を逆流させたり津波の衝撃は、凄い圧なので直接人があたると、気絶して気がついた時は、あちらの世界らしいです。で、叔母さんは、家から外へ・・・海へ流されたそうです。が、なななんと!!!引き潮で、自分の家の2階の窓に打ち寄せられ、2階の窓から入って助かったそうです。そして、知らない人も、窓から、ちょこんと入って来て助かったそうです。凄い話!!!こんな事って、あるのですね。そして、父は7人兄弟で、兄妹がいっぱいいるのですが、父はちなみに下から2番目です。何番目の兄妹かは?ですが、お兄様が地震の時に、港の辺りにいたそうです。町中に地震警報が鳴り、みな車で逃げたのですが、渋滞で動けず「このままいたら死ぬ!!!」と思い、どうしたものか?と思って、ふと周りを見たら、日和山という山へ登る抜け道があり、その道を登って行きました。そしてそして、登って行く途中に津波が襲って来て、渋滞していた車は、津波で流されてしまったそうです。その時、そのまま車に乗っていた人は流されたけど車を置いて、走って逃げた人は助かったとも言っていました。ほんの「数十秒の差」だったそうです。他にもあります。わたしの従妹が、市場で「宅急便の梱包」のお仕事をしています。3月11日のその日に限って「梱包する魚がない」とかで、お仕事が午前中で終わり、お昼御飯も食べずに皆、お家に帰されたそうです。もし午後まで仕事をしていたら、仕事場は地下だったので「死んでいたかもしれない」と言っていました。また他の従妹の話しです。港関係、船の鉄鋼関係の仕事をしているのですがその日は、午後の2時か3時に港に人を集める予定にしていたそうですがその日に限って、上司の機嫌が悪く「2時??? 遅い!おそ~い!!!午前にしろーーーっ」と、従妹を怒ったそうなんです。で、何で怒るんだ???と思いつつ、従妹は午前中に人を港へ集め、仕事を終わらせるように予定を変えたのですが「あの時、上司が分け分からず怒ったけど、そのお陰で、助かったんだよ。2時に集めていたら・・・・・」と、言っていました。この話を聞いて、見えない力、天使でも本当にいて助かったとしか思えない。そしてダメな時は、ダメ生きる時は、どんな状況でも生きるのだなぁ「まだ、あなたは生きなさい。」って事なのかもしれないわたし達は、生かされているんだ。だから怒った上司にも感謝なんだ。今起きている社会の現実も悪い出来事のようで、今まで、見えていなかった、隠されていた影のあぶり出しなのだから、今という現実を見て、生きて行くんだ。良い未来の地球を、子供たちの為に!!!わたし達大人には、その責任がある。うちの息子は、よ~く泣いたり怒ったりと、感情を出すパワフルな子でして、親のわたしも疲れてしまう時があるんですけどもその子が「泣くとスッキリするの~。だから泣きたいの~~」と、言って、よくうわんうわん泣くんです。我慢しないんです。30分でも、ず~っと泣きたい時は、泣きます。で、泣いたら、思いっきり笑顔の御機嫌ちゃんになるんです^^何が良いたいのか?自分でも分からなくなって来ましたが^^;今まで、溜めていた感情を、地球も、社会も、個人も出して次への、にっこりする為の時期なのかな?と感じています。おしまい
2011年05月28日
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叔母の住んでいる多賀城も、津波の被害にあいました。多賀城という所は、海に近いものの内陸の方で、普通に考えて、津波に襲われるとは。テレビで、多賀城が津波の被害にあう映像を、この目で見ても、本当に信じられませんでした。だから多賀城に住んでいる叔母の家は、海からも遠い内陸だし、大丈夫だろう思っていたので鹿児島に住んでいる従妹(叔母の2番目の娘)から、地震4日目に「まだ、お母さんとも姉妹とも、連絡取れないんだけど。。。無事か分かる?」と、電話が来た時は(まさかまさか、あの津波で・・・もしかして・・・死んじゃっていたら・・・)と、急に不安になり、うわ~んと泣いてしまいました。1週間くらいして、叔母も皆、無事と分かりホッとました。地震の直後、すぐ傍に住む2番目の娘が「お母さん、ここにも津波来るから、逃げて~~~」と、言いに来たのですが「こんな所まで、津波が来るはずがない。私は、ここにいる。」と、言って叔母は、逃げなかったそうです。娘家族は、車で遠くへ逃げましたが、家にいた叔母は、間もなく海水というより真っ黒の泥水が、家の中にドドド~ッと、あれよあれよ言う間に、入って来て、あっという間に、自分の背丈以上、2メートルも一階が襲われ、慌てて、2階へ逃げたと言います。津波で一階がやられてしまったので、着るものも泥だらけ、台所もやられてしまったので、冷蔵庫を探して、その中にある、食べれそうな卵を取り出して、洗って、茹でて、飢えなどをしのいでいた。と言います。こういう時は、涙も出ないそうで、言葉にもならず「呆れてしまった・・・」と、叔母は、言っていました。叔母の孫である中学生の男の子は、この時、ジャスコといスーパーの3階にいて助かったそうですが、津波で、沢山の死体が浮いて流されて行く光景を、ずっと見ていたそうです。なぜ、内陸の方である多賀城の叔母の家まで津波が来たのか?多賀城には川が流れています。津波によって、川が氾濫し、逆流して、海水ではなく、泥水が町を襲ったようです。川をも逆流させる程の津波の威力。。。父の親戚は、津波被害の大きかった石巻にもいるのですが、石巻、多賀城の両方を震災後行き、家の中に入った、泥をかき出す手伝いをしたのですが「多賀城の泥水の方が、酷い。大変だった。」と言っていました。そして「泥に浸った、思いが詰まった物を捨てて行く作業は、叔母の心を、おかしくさせてしまった。」と、辛そうに言っていました。
2011年05月26日
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地震があった3月11日から、2週間後ぐらいでしょうか?東北自動車が復旧したような記憶があります。「今すぐにでも色々買って、高速道路が開通したら、すぐ行く!」と、鼻息荒く、いつでも飛んで行く!気持ちで地震直後から、ず~っとスタンバイしておりました。だけども、やっと道路が開通し喜んだものの、わたしが住んでいる土地でも、ガソリンスタンドが閉鎖していたり、長蛇の列に制限給油で満タンにするには難しく。仙台も、まだまだ閉鎖のスタンドも多く、ガソリンを入れるのに前日の深夜から整理券を貰うのに並んで、3000円と決まっているような状態。携行缶があると有利だと聞いて探しましたが、もうどこにも売っていない。スーパーで買い物するにも「大行列で300人並んだ」とか、「まだまだ大変だから、今来ない方が良い。」と言われ、宅急便も受付開始になったので、希望の物資を宅急便で送る事にしました。仙台へ、家族で行ったのは、4月2日のこと。地震から3週間経った頃でした。車のガソリンも満タンにする事が出来、仙台のガソリン事情も多少は良くなり、往復可能になったからです。仙台へ向かう高速道路から、沢山の自衛隊の車、救援物資の車、荷物をた~っぷり積んだ被災地へ向かうであろう車ばかりを目にし、感謝の気持ちで、胸が熱くなりました。道路は地震の影響で凸凹でしたが渋滞もなく、むしろスイスイで到着しました。いとこや、親戚のおばさんも集まって、貴重な食材で、心あたたまるとって~も美味しい手料理を作って待っていてくれました☆会った瞬間に涙が出て来るか?と思っていましたが、明るく元気で、再会した喜びの方が大きく、とにかく嬉しくて嬉しくて、笑顔がこぼれました。あ~生きて会える!目の前で喋れる!って、こ~んなにありがたいのですよね(/_;)「電気が通っってから~」とか「やっと水が通って、パンツ洗えた(笑)もう臭くないぞ!」とか「昨日、やっとガスが来てね、やっとお風呂に入れて生き帰ったわ~」とか過酷な状況から、プラスの事ばかりだったので、みな安堵と喜びが大きく、疲れているもののプラスのエネルギーにも溢れていました。「会社に行くと、それぞれ食べ物持って来て、分け合ってね、食べろ食べろって言うんだよ~。」とか、「お風呂に毎日入らなくても平気になった。むしろ髪も肌も潤う。毎日入らなくても良いんだよね。」とか、「○○さんから、こんな物資が届いた。届いた物資を、また頂いたりね。」などなど、心あたたまる話も沢山聞いて、人間って凄いな!大変な時、こんなに助け合って、自分だけとか思わないって、なんて素晴らしいのだろうと、尊敬の気持ちになりました。辛い事も沢山あったろうけれど、いまこうして、みんなに会う事が出来て、お喋りも出来て、本当に良かった。仙台へ来る事が出来て、本当に良かった。会って顔を見て話すのは、とても大きく安心に繋がりました。また、3歳の無邪気な息子が、皆を笑わせて和やかな雰囲気にしてくれたのも大きいのもありました。津波で家の1階を浸食された叔母は、わたし達が行って「初めて腹の底から、心から笑った」と言っていました。。。つづく
2011年05月24日
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今回の地震を通して、仙台の家族、友人もみな口ぐちに「備えはしておいた方が良い」と言っています。どんな物を揃えていたら良いのかアンケートしてみました☆(津波にあっていない地域の仙台対象) ◆基本・懐中電灯(ソーラー充電式か電池式がオススメ)・ランタン(オススメと言う人多し)・ろうそく・ラジオ(ソーラー充電式か電池式がオススメ)・米・水(20L水専用容器、ペットボトルなど)・保存食(干物、缶詰、ラーメンなど)・乾電池・ガスボンベ・ガスコンロ・電気ポット・ホットプレート◆赤ちゃん・小さな子供がいる家庭では・紙おむつ・お尻ふき・離乳食・粉ミルク◆あって良かったなぁと思ったのは・ご飯が炊ける鍋(土鍋など)・自転車・携帯トイレ・携行缶(ガソリンを入れる缶のこと)・生理用品・ゴム手袋・ゴミ袋・コンタクト用品◆ガソリンを満タンにしておくよう心がける。◆しかし何よりも一番皆が口を揃えて言うのは「手元に現金があれば何とかなります!突然の事なので、気持ちも焦り、意外に出費がかかる。」のだそう。突然の地震で、不安にもなり、自分たちはどんな状況にいるのか?まずは確かな情報!が欲しかったと言います。停電ですからテレビは勿論見る事が出来ません。携帯のワンセグでも見る事が出来ますが、残りの電池が心配で、ちょこちょこ見たり、車にエンジンをかけてナビのテレビで見ていたようですが、ずっと見る事も出来ないわけで「お姉ちゃん、どれくらいの被害なの?本当の事教えて!海の方では、300人の死者が出たとか今テレビで見たけど本当?・・・石巻や多賀城(津波地域)の、おばさんは大丈夫?連絡取れた?」と、電話が来た時は、こんな大変で辛い状況の家族に、わたしがテレビで見た凄まじい津波で沢山の人が亡くなった事など伝えるのは、良いものか?と揺れました。電気が通りテレビをつけて「こんなに大きな地震で、こんなにも多くの人が亡くなっているなんて・・・驚いた・・・」と、友人からもメールが来ました。とにかく皆生きるのに必死で、震災直後から毎日毎日、野菜や米や水などの食べ物などを買いに、開いている店を探し毎日歩き、お店に4,5時間並び、一家族に一つ購入だったそうです。みな口ぐちに「ラジオ!ラジオ!必要だよ」と言うので私も、小さな電池式ラジオを買いました。そしてFMから流れてくる励ましソング♪に本当に救われたと言います。わたしの父は、水がないのが一番大変と言っていました。お風呂にも常に水ははっておく。そして水タンクも必要で、水配給のさいに、タンクがなくて、家の鍋などを持参する姿も見られたそうです。いま、水も蛇口をひねれば出て来て、あたたかいお風呂に入れて、お店でも普通に買える事が出来る。当たり前と思っていた日常が、当たり前でなかった。震災を通して、感謝だらけなんだという事に気が付きました。生き抜いた家族、親戚、友人からの話しを聞いて,強く感じました。 次は、津波で助かった親戚のお話を書こうと思います。
2011年05月23日
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停電で、固定電話は勿論繋がらず携帯電話も、パンク状態が続き2日たっても3日たっても繋がりませんでした。仙台からこちらへの電話は、繋がるのですが、私から仙台への電話は繋がらないのです。弟から、3日経った頃でしょうか?電話が、かかって来ました。あちらも携帯の電池が心配なので、話す時間は、少しの時間だけ。「おどけでなかったよ~(凄かったよ)。みんな元気だから!」声にも張りがあり、元気なようで、震災後はじめて声が聞けた事で、とても嬉しく安心しました。が・・・一週間経った頃でしょうか?明らかに、弟の声には張りがなく、生きる事に、家族を守る事に疲れ切ったような「お姉ちゃん、もう笑えないよ・・・まじで・・・」と、いつも元気な弟が、ぽつり本音のような事を言われた時は、胸が張りさけそうで、返す言葉もなく電話を切ってから、涙がツーと、流れました。弟の奥さんに、子供たちの様子を聞けば2カ月、2歳、5歳と3人の子供がいるのですが子供たちは明らかにPTSDのような症状が出ており、家の前をトラックが通った振動で家がチョット揺れただけでも、怯えて泣き、おしっこを漏らし、ママにピタ~っとくっついて離れないと言います。夜も何度も目が覚めると言います。母親である義妹も、どんなに大変だった事でしょう。一週間経っても、水も電気も出ないので「子供たちの洋服も洗えないし、パンツもオムツも、着る物もなくなって来た。」と言います。そして「寒さと疲れから、子供たちは40度の熱を出し、冷やしてあげる氷もないの。」と「援助や物資は来ているの?」と聞けば「もっと大変な地域があるから、そちらが優先で仙台市内は入って来てない。避難場所になっている小学校の体育館は、寒くて寒くて、小さな子供がいる家は風邪引いちゃうよ。まだ家にいた方があたたかいよ。」と言います。仙台は、この頃、雪が降り、とても寒かったのです。東北の寒さ・・・関東で育った私の主人は、この季節に仙台の実家へ行くと「南極!南極!」と、極寒の地へ来たかと思う程、寒がり震えます。この寒い中、被災された方々・・・疲れた心、体で、どんなにどんなに寒い思いをしたかと思うと。。。体験した人にしか分からない辛さがあったと思います。自分はあたたかいお布団で眠れていると、夜布団に入るたび、辛く泣いていました。☆ ☆ ☆わたしの友人は、地震があった時、大学の講師をしているので自分の講師部屋のような所で仕事をしていたそうです。とてつもない大きな揺れとともに、部屋の本棚が一気に倒れて来て足の踏み場もない程になり、コートも、財布や鍵が入っているバックもどこにあるか分からず、取りだせる状況でなかったので、このまま校舎にいれば、崩れると思い、着の身そのまま大学のスリッパを履いて、寒い中、家まで歩いて帰って来たそうです。スリッパを履いて、家まで、何時間かけて歩いて来たのか?と思うと・・・彼女の強さを感じました。そして彼女には、保育園に通っている子供がいるのですが彼女の父親が地震があって、すぐお迎えに行けたので良かったのですが中には、すぐに迎えに行けず、不安な中、親の迎えを夜遅くまで待っていた子供や津波が襲った保育園では、残っていた子供たちと先生は、一晩過ごしたという話も聞きました。私にも、今年から、保育園に通っている息子がいるので、この話は、人ごととは思えませんでした。
2011年05月17日
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わたしは、栃木、埼玉、群馬、茨城の4県がまたがる所の茨城に住んでいます。結婚して、はじめて、こちらの土地へ来ました。それまでは、生れも育ちも、ずっ~と仙台。関東平野の真ん中?に初めて住み、同じ日本でも土地の気も、人の気も、こんなに違うのか?と、感じたものです。☆ ☆ ☆3月11日は、朝起きたとたん、体が鉛のようにとても重く(うっ苦しい・・・何だ?この重さは。。。太陽を浴びて、プラーナでも吸収して元気出さないと!)と、3歳の息子と一緒に、緑いっぱいの公園で、芝生に寝転んだり、追いかけっこしたり、お昼も食べて、元気満タンになって「さぁ~!家に帰ろう」と、車を家へ走らせていました。公園で遊んでいた時は、とても綺麗な青空が広がっていたのですがわたしの住む所は、田舎で高い建物もなく、空がおもいっきり大きく360度見渡せます。その空が、みるみる灰色のどんよりと重い、感じた事もないような気持ち悪い雲に覆われはじめました。「うわ~!空が気持ち悪い・・・早く家に帰ろう」と息子と話しをしながらわたしは、何ともいえない不気味な気持ちに襲われていました。赤信号で車が停止している時、地震は来ました。目の前の信号機、看板、電線が、あり得ないほど、ユッサユッサ揺れて、地震とすぐ分かりました。わたし達は、車中だったので、それ程の揺れは感じずでしたが車を、走らせて行くと、家からは人がどやどやと出て来たり、壁が崩れたり、ガラス窓が割れたりと、大きな地震だと分かりました。そして、車のテレビからは、東北で震度7とのニュースが・・・流れ驚きましたが、これ程の大きな被害と知るまでは実際は、家族と電話が繋がるようになった3日目ぐらいだったのです。家族、友人に、すぐ電話、メールしても、停電で、固定電話も繋がらないしメールもパンク状態で、全く使えない・・・メールは翌朝やっとの時間差受信。家族も友人も、無事な事は分かりホッとしました。だけど、電話は繋がらない。こういう時、安否は分かってホッとしたもののやはり、元気かどうか?実際に声を聞きたくなるものです。そして、声を聞いて、家族や友人が、とても辛い思いをしていると分かれば色々物資を持って、すぐ会いに行きたくなるものです。つづく
2011年05月17日
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3月11日の東日本大震災が起きた・・・あの日からわたしの身の回りで、様々な事が起きました。わたしの実家は、仙台です。海、山に恵まれた美しい杜の都。今回の震災で、そこに住む家族、親戚、友人らが、とても大変な辛い思いをしました。わたしも、とても辛く泣いていました。色々見て、聞いて、感じたことを私なりの思いで、書いて行こうと決心して、このブログをはじめます。ドキドキで爆発しそうな心中でございます。どうぞ、よろしくお願い致します。
2011年05月17日
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