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親の愛を知ろうとしないバカ息子はあいも変わらず自主映画制作に没頭していた。それでも、月5万の仕送りの約束は守っていた。しかし、自主製作には資金が必要。そこであらゆるバイトをしては資金にあてていた。家庭教師や塾講師。バカな息子が小学生や中学生相手に人の道を説くから皮肉である。夜間工場での肉体労働、都内での工事現場での交通整理・・・などなど。そもそも制作費のほとんどは、打ち合わせと称しての飲み代ではあるのだが。目的が基本的欲求を充足するに値するほど明確になれば、あらゆる戦術が見つかり、またそこに向かう意志の力が生まれ、現実化する。当時の私は自主映画制作が現実であった。
2004年07月22日
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今になってわかった事だが、親は相当苦労していたと思われる。精神的にも金銭的にも。しかし、何一つ子に愚痴をぶつけず、ただただ、子の信じるところを自由にいかせてくれた。この親の愛が実存であるためにも私は成功する義務がある。
2004年07月21日
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青臭い学生生活とも決別すべきときが来ていた。当時バイオはどんな会社でも新規事業として人材を確保し始めていた。周りは何社も内定を取り付け余裕であった。私は別の意味で余裕を繕っていた。両親との約束があったからだ。いわば諦め的な感情があったことは否めない。当時バイオ技術を生かせる業種は県内には皆無に等しかったからだ。そんな折、某JAグループが醸造技術者を探しているとの情報が入ってきた。なるほど、醗酵つながりで探せば捨てたものではない。早速帰省して面接のアポを取った。本部人事課にて約3時間、ワイン事業について説明を受けた。後日工場長から約3時間、将来構想の夢について、さらに技術主管から約3時間、ワイン造りの理念について、思いを聞き入った。決して好条件とは言えないが、何かあると感じ、入会試験を受けることとした。思いの強さが期待を産み出し、その期待に人は集まる。期待されることで人は確信をもつ。
2004年07月20日
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東京の大学進学は親の反対を押し切ってのことだった。生まれて初めて親に土下座をしてまでの決意であった。東京で最新のバイオテクノロジーが学びたい。ただその一念だけだった。開放感と不安感の織り交じる不思議な感覚だった。当然条件が課せられていた。就職は島根に帰ることと月々の生活は5万円以内であること。経済感覚がなかったせいか、即座に条件を呑んだ。しかし、東京近郊といえども、バブル絶頂期の月5万はきつかった。家賃は4畳半9000円。風呂、トイレ、炊事場は共同。ぼろぼろのアパートで何も無い、というよりは何も買えない状態からスタートした。理系の専門書は高いので、それを買えば食費など残らない。まずは食わせてくれるリッチな友人を作ることにした。幸い哲学好きの友人ができた。書籍も豊富に持っている。私も高校時代から哲学や宗教論に興味をもっていたので、議論相手になることでたやすく欲求を満たすことができた。ぼろぼろの何も無いアパートではあったが、次第に人が集まり、やがて溜まり場と化していた。お金が無いこと自体が問題ではない。知恵があれば人と欲求を満たす術は集まる。
2004年07月19日
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本日は誕生日。無性に原点を問うてみたくなった。昭和63年、私は大学の卒業研究と論文の仕上げに追われていた。自主映画の製作にはまり、バイトと製作にのめり込んだ代償だ。それでもこれだけは懲りずに卒論の合間を縫っては続けていた。当時私は東京近郊の都市に住み、大学の枠を超えて映画好きの狂人たちと議論に花咲かせるのが日常であった。マルクス主義も構造主義など哲学書も読みあさった。宗教も団体まで行って議論した。今思えばオウム、統一教会など新・新興宗教が華やかりし頃だった。もちろん、バブル癖のついた時代感覚で、合コン、ナンパなどこれは女優探しのためなどと本能に言い聞かせしっかり遊んでもいた。落ちこぼれの愚連隊と呼んでいた仲間たちもなぜかそこそこ良いところにいる。音楽事務所を独立させ、いきなりミスチルをデビューさせ、サザンなどとレコーディング契約した奴。建築事務所を立ち上げた奴。TBSのドラマプロデューサーになった奴。・・・・・・まだまだいる。好きなことを本気で正直にやり続けている奴ばかりである。いつか私もそうであると言える日がくると決めている。
2004年07月18日
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