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葉山・花らんぷ。ケーキ店です。2000年に閉店し 翌年 突然復活しました。[Before 花らんぷ][After 花らんぷ]どちらが気に入りましたか。
2010.07.29
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御存知の北回帰線についてのブログです。メキシコの高速道路の83号線。メキシコの高速道路と北回帰線が交差するところは複数有りますが 緯度がはっきりと正確にマークされており 2005年から2010年までの毎年の移動分がわかるのはここだけです。 北緯23度26分22秒に位置していますが 地球の軌道系の変化に伴って毎年微妙な誤差が有ります。国際航空連盟がスカイスポーツの正確な競技記録のために規定している規則では 北回帰線の長さは36787.559kmとされています。しかし 毎年の変動を考慮すれば これは正確な値では無いのです(正確な値を定めることができないともいえる)。英語などヨーロッパの言語の多くでは 北回帰線のことを「かに座の回帰線」(Tropic of Cancer)と呼びます。これは 現行の星座の多くが設定された古代バビロニアの時代、かに座の領域に夏至点があったためなのです。しかし 現代では「巨蟹宮の回帰線」と訳されるのが一般的です。以上は前文です。実は私の生まれた台湾に北回帰線が通っているのです。台湾海峡側にある「嘉義」と東部(太平洋側)の「静浦」を横断するように 北回帰線(太陽が垂直に北半球を照らす場所)が通っています。この北回帰線を境にして北側は亜熱帯、南側は熱帯の気候になります。ここに北回帰線を示す標識塔が建てられています。何度も建て替えられているようです。階段から転げ落ちて痛い思いをしました。話が逸れますが「北回帰線」という小説を 米国のヘンリー・ミラーが書き1934年にパリで発表しています。ミラーの処女作であり 自伝的小説でもあり1930年代のフランス(主にパリ)の日常を 過去と現在の視点で描いたもの。1961年にアメリカでも刊行されましたが 作品内の性表現が法律に触れ 発禁になったのです(1964年に連邦最高裁で「わいせつ文書ではない」とする判決があった)。興味有る方は お読みください。
2016.11.28
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先にビザンティン建築を御紹介したので ほかの建築様式を写真だけ掲載します。ただ これに敵う教会は有りません。 [ロマネスク建築][ゴシック建築] [ルネッサンス建築][バロック建築][ロココ建築]
2011.01.14
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以前紹介した記憶が有りますので二番煎じです。円空(1632年 - 1695年)は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に木彫りの「円空仏」とも呼ばれる独特の作風を持った仏像を残したことで知られる。円空は生涯に12万体の仏像を彫ったと伝えられる。現存するものでも5000体を超える。 円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は愛媛県までおよぶ。 その中でも、飛騨、美濃地方の各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。うち愛知県内で3000体以上、岐阜県内で1000体以上を数える。 多作だが、作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。(岐阜羽島駅前にある円空の一刀彫のモニュメント)円空仏はゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。円空から後代の木喰も同様に日本各地で造仏活動を行っており、柔和で穏やかな表情の微笑仏は円空仏と対比されている。(初期の円空仏はとても端正なつくり)天照大神(神明神社・郡上市)(全国行脚の末の唯一無二の一体)鬼子母神(観音堂・羽島市)(絵を描くことが転機となった円空仏)円空修復による大般若経(円空仏の代表な技法「鉈ばつり」)両面宿儺像(千光寺・高山市)(ちょっと異色な「立ち木彫り」)仁王像(千光寺・高山市)(円空仏のもう一つの顔、「木っ端仏」の代表作)荒子三十三観音群(名古屋市)
2010.05.21
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楽天から「〇〇さんが友達申請を許可しました」との連絡が有って、確認すると 友達申請していない人と何時のまにか友達になっている事が過去数回有ります。プロフィール写真は、いずれも お尻丸出しのようなエロっぽいものです。しかも、最終更新が2007年といった古いものです。これ奇妙ですね。私は「来る者を拒まず 去る者を追わず」主義なので放置しておりますが、皆さんは同様の経験は お有りですか。
2009.06.24
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マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれました。ラマルティーヌ高校に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けたようです。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合います。アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちたのです。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も覚めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作「ミラボー橋」だそうです。1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱します。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになり 1914年に31歳でドイツ人男爵と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされました。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻り、パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となったのです。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行になったそうです。[二人の友達][天使の娘][赤い花束][アネモネ][縦笛][ペキノワ][城での生活](おまけ)ミラボー橋ミラボー橋の下をセーヌ河が流れわれらの恋が流れるわたしは思い出す悩みのあとには楽しみが来ると 日も暮れよ、鐘も鳴れ月日は流れ、わたしは残る手に手をつなぎ顔と顔を向け合おうこうしていると 二人の腕の橋の下を疲れたまなざしの無窮の時が流れる日も暮れよ、鐘も鳴れ月日は流れ、わたしは残る流れる水のように恋もまた死んでいく命ばかりが長く希望ばかりが大きい 日も暮れよ、鐘も鳴れ月日は流れ、わたしは残る日が去り、月がゆき過ぎた時も昔の恋も 二度とまた帰って来ないミラボー橋の下をセーヌ河が流れる日も暮れよ、鐘も鳴れ月日は流れ、わたしは残るアポリネールー堀口大學訳
2012.04.04
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大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。(仏殿(本堂))(法堂)(三門 (金毛閣))(三門の上層)(勅使門)(庫裏)(龍源院 方丈前庭)(瑞峯院 方丈前庭)(大仙院 参道)(高桐院 本堂前庭)勅使門、三門、仏殿、法堂(はっとう)がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20ヶ寺以上の塔頭寺院が並ぶ。勅使門 (重要文化財) 慶長年間(1596年 - 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。 三門 (重要文化財) 二層の山門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置した(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)が、これが豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉はこのことを楯に利休に自決を迫ったという。 仏殿 (重要文化財) 寛文5年(1665年)、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。 法堂 (はっとう、重要文化財) 寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。 方丈および玄関 (国宝) 方丈は寛永12年(1635年)、玄関はその翌年、豪商・後藤益勝の寄進で建てられたもので開祖大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して新築されたものである。「方丈」は元来は住職の居室を指したが、日本の禅寺の方丈は接客・儀式空間の意味合いが強い。通常の方丈建築は、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の2室は、開祖大燈国師(宗峰妙超)の塔所(墓所)である雲門庵となっている。宗峰は、「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」と遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画はは狩野探幽の作。枯山水庭園は国の特別名勝および史跡に指定されている。 唐門 (国宝) 聚楽第の遺構と伝える。華麗な装飾彫刻と彩色を持つ桃山建築である。
2009.04.08
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San Jose。ここは俺の在米第二の拠点。サンノゼ(San Jose)は、アメリカ西海岸、カリフォルニア州北部にあるサンフランシスコ湾の南に位置する都市。IT企業が多く集まるシリコンバレーの中心的都市である。半導体・コンピュータ関連の産業が集積するシリコン・バレーの中心都市にあたり、他の大都市に比べて比較的所得水準が高いことから、米国の人口25万人以上の都市を対象とした全米安全度調査では第1位となっている。先端技術企業の多くはシリコンバレー内に本拠を置いている。例えば下記。・アドビシステムズ・アドバンスト・マイクロ・デバイセズ・アップルコンピュータ・eBay・Google・インテル・Intuit・オラクル・Yahoo!・ヒューレット・パッカード・シマンテック・サン・マイクロシステムズ・ナショナル セミコンダクターかの有名なるインテルとの契約交渉は成功したが、この地でのビジネスの勝率は50%に至らず 疲労困憊。静かなる地獄であった。
2009.11.22
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私の旅支度は次のようなものです。これで3週間位の旅は楽勝です。●機内持ち込みのアタッシェケース13cm×37cm×47cm 1個だけ。●中身1.着替え用下着 1着分1式(靴下・ハンカチを含む)2.折り畳み傘1本3.雨合羽上下1着4.緊急医薬品(適当分)5.替ズボン1着(殆どGパン)6.替上着1着(夏:Tシャツ 冬:長袖シャツ 時によりセーターをプラス)7.洗面道具1式8.緊急連絡先電話番号メモ9.パスポート・VISAカード・CityBankキャッシュカード・フライトチケット以上だけです。下着は着古しを持参。帰国時、現地で処分。カメラ・携帯・ガイドブック・辞書・地図 持参せず。その代わり、ホテルで夜は洗濯。●先ず乾いたホテルのタオルに挟み、足で踏みつけ水分を取る。●ホテルのドライヤーを吹き付けて乾かす。下着は 殆どこれで乾く。●生乾きの厚手の衣類はエアコンの風が当たる所に引っ掛ける。翌朝には乾いている。●Gパンなど乾いていなければ、そのまま着用。そのうち体温で乾く。部屋にアイロンないしズボンプレッサーが有れば、当然使う。現地ではお土産その他の買い物は一切しない。
2009.06.08
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Death be not proud --- John Donnefrom "Holy Sonnets"死よ、驕るなかれ --- ジョン・ダンDeath be not proud, though some have called thee Mighty and dradfull, for thou art not soe, For, those whom thou think'st thou dost overthrow, Die not, poor death, nor yet thou canst thou kill mee. From rest and sleepe, which but thy pictures bee, Much pleasure, then from thee, much more must flow, And soonest our best men with thee doe goe, Rest of their bones, and soules deliverie. Thou art slave to Fate, Chance, kings, and desperate men, And dost with poyson, warre, and sichnesse dwell, And poppie, or charmes can make us sleepe as well, And better than thy stroake; why swell'st thou then? One short sleepe past, wee wake eternally, And death shall be no more; death, thou shalt die. 死よ驕るなかれ、お前は強く恐ろしいと 誰かが言ったかもしれないが、お前はそうではないのだから、 お前が打ち負かしたと思っている人は 死んだのではないのだから、可哀想にお前は私を殺すことはできないのだから。 休息や眠りは、お前の姿に似ているに過ぎないが、それらから 多くの楽しみが流れ出る、だからお前からはより多くの楽しみが流れ出るだろう。 程もなく私達の賢人がお前と共にこの世を去るだろう、 それは彼らの骨にとって休みとなり、彼らの魂にとって解放となるのだ。 お前は運命や災難、王や乱暴者たちの奴隷であり、 毒薬や戦争、病気と共に住んでいるのだ。 罌粟(けし)やまじないでさえ、お前の一打より 私達をよりよく眠らせてくれるのに、お前はなぜ威張るのか。 一眠りが終われば、私達は永久に目覚める、 死はもういなくなる、そして死よ、今度はお前が死ぬのだ。 「死よ 驕るなかれ」とは17世紀の英国の詩人・宗教家であるジョン・ダンのソネットにあります。 「死」とは人間にとって避けることの出来ない不条理である。身内のものの死は、耐え難くも悲しい苦痛であり、口惜しくもある。だから「死」には誰も触れたくない。ところが、ダンのこの詩はまず出だしから「死よ 驕るなかれ」と死に挑戦し、死は人を殺せないと死を侮蔑し、睡眠は人に多くの楽しみをもたらすのだから死からは更に多くの楽しみが得られるであろうと死をからかい、死による一眠りが済めば人は永遠の目覚めを得てもはや死ぬことはなく、本当に死ぬのは死そのものだと言っております。ダンは一体どんなつもりでこの詩を書いたのだろうか。若い時代に放埒な生活を送り、後にイギリス国教のためにつくして聖職者となり、名説教集を残した彼が、戯れにあるいは真剣に「死よ驕るなかれ」と書いたとは思われない。おそらく、死に対する自分の困惑した感情を、奇抜な着想、機知に富んだ修辞、明快な表現で表したのでしょう。「感情」を「奇想」で表した詩人と言うことで彼は後世「形而上詩人」と呼ばれたそうです。19世紀の桂冠詩人「アルフレッド・テニスン」は、友人「アーサー・ハラム」の死を深く悼んで、ハラムの没後16年目になって約2900行の挽歌を「追憶の詩」として出版し、多くのイギリス人に感銘を与えています。 「追憶の詩」の中で、テニスンは友の死の悲哀を訴え、生の意義を問い、亡き友人の霊魂との交霊を望み、やがて激しい悲哀と絶望が徐々にあきらめに変わり、最後には亡き友人の魂との不断の結合を信じて希望に転じ、ついに生きている永遠の意志への祈りの中に、神と霊の合一を願うに到ります。 死に挑戦するのか。死を諦めるのか。 無神論か。宗教にすがるのか。これら2編の詩はその取り上げ方は異なるものの、「死」を正面から取り上げた詩であり、いろいろと深く考えさせられます。疲れました。
2009.07.07
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